バルカン問題と社会民主主義
トロツキー/訳 早川潤
【解説】本稿は、バルカン戦争前に書かれたトロツキーのバルカン問題論の最も基本的な文献である。
トロツキーは、第2の亡命期において、ラコフスキーやドブルジャヌ・ゲレアなどのバルカン諸国の社会民主主義者と親しく交わるようになり、バルカン問題について多くの論文を執筆した(右の写真は談笑するトロツキーとラコフスキー)。とくに、1912〜13年の二次にわたるバルカン戦争の際には、『キエフスカヤ・ムィスリ(キエフ思想)』の戦時特派員としてバルカン入りし、そこで戦争の実態とバルカン諸民族の対立の諸相について詳しく観察する機会を得た。この論文は、このバルカン戦争に数年先立つ1910年に執筆され、ウィーン『プラウダ』に発表されたもので、複雑な民族問題を抱えるバルカン諸国における社会主義者の基本的立場について簡潔に展開されている。
Л.Троцкий, Балканский вопрос и Социал−демократия, Сочинения, Том.6−Балканы Балканская война, Мос-Лен, 1926.
1910年6月末に、ブルガリアの首都ソフィアにおいて第2回「汎スラブ」会議が開催された。この会議の意味は、簡単にこう言い表すことができよう。すなわち、さまざまなスラブ諸国の政治的破産者たちが、全世界にむけて自己の破綻を宣言するために一堂に会したのである。
ペテルブルクでの会合とその後の1908年のプラハ会議において、新しい「汎スラブ主義」が鳴り物入りで舞台に登場した。それは、ポーランド人をロシア人と和解させ、ルテニア人
(1)をポーランド人と和解させ、セルビア人をブルガリア人と和解させることを約束し、全スラブ諸国家のブルジョア階級の間にある軋轢と敵意を一掃し、自由と平等と友愛の基礎の上に新しいスラブ民族の建造物を建てることを約束した。それから2年が経過したが、ソフィアの会議では惨めな結論を出さざるをえなかった。この期間に、スラブ民族内部のあらゆる矛盾が、未曽有の鋭さを帯びるまでになっていたからである。「スラブ人」のロシアでは、反革命が、ポーランド人とウクライナ人に対する迫害を日程にのせた。新しい西方のゼムストヴォを置くこととヘウム
(2)地方の掠奪法案とは、立憲制ツァーリズムのポーランド政策における最新の言葉である。ガリチアでは、ルテニア民族に対するポーランドのシュラフタ(3)とブルジョアジーの圧制が原因で、ソフィア会議のほとんど直前にリヴォフ大学構内で血なまぐさい戦闘が起こっている。ブルガリアとセルビアの関係は、たとえこの時期に悪化しなかったにしても、いずれにしても良くなってはいない。これらの事実ゆえに、ソフィアでは、全スラブ民族の連帯を云々する言葉が偽善的に語られることさえなかった――それほどまでに、相互の敵がい心と露骨なずうずうしさが、彼らの間ではっきりと口に出されていたのである。ごく最近まで汎スラブ主義合唱団の音頭取りであったカデットは途方にくれ、脇に退いて、ツァーリズムのより直接的で近しい召使にその地位を譲った。ミリュコーフとマクラコフ(4)は国内にとどまった。グチコフとボブリンスキー伯爵(5)、チェレプ=スピリドヴィチ(6)が、ロシア帝国を代表した。青年チェコ党の党首クラマーシュは奔走して、チェコの工業製品のためにバルカンへの道を掃き清めた。緊急の難問題――ポーランド、ウクライナ、南スラブ民族、バルカンに関する問題――については、相互の申し合せに従って黙殺された。その方が、汎スラブ民族の喜劇に参加するすべての者にとって好都合だったからである。しかし汎スラブ会議の壁の向こうの、ソフィアの街角や広場においては、国際政治の全問題、何よりもまずバルカン問題が明瞭かつ公然かつ率直に提起された。ブルガリア社会民主党がそれを行なったのである。
ブラゴエフ
(7)とキルコフによって指導され、他ならぬ汎スラブ会議の召集前の6月20日に行われた大衆集会において、汎スラブ主義の仲買人の仮面をひきはがす決議が採択された。ブルガリア社会民主党※はこれにとどまらず、二つのブルガリア、二つのセルビア、二つのロシア――一方は反革命的王朝の、他方は革命的プロレタリアのそれ――があることをバルカンの人民大衆に分かりやすく示すために、スラブ諸国の社会民主党代表者を7月はじめの年次大会に招待した。こうしてブルガリア労働党の定期大会は、今回、プロレタリアートの国際連帯の見事なデモンストレーションに変わったのである。そのことは、熱烈な拍手や相互の祝辞に示されているだけではなく、何よりもまず、ソフィアに送られたすべての党――ブルガリア、セルビア、ロシア、チェコ、ルテニア――の代表団が、バルカン(東方)問題の決議において、同じ前提にもとづき、同じ結論に達したことに示されている。※原注より正確に言えば、二つあるブルガリア社会民主党のうちの一つ「テスニャキ派」である――編集者
いわゆる東方問題に関しては、二つの側面が区別されなければならない。一つは、バルカン半島における民族と国家の相互関係についての問題である。二つ目は、バルカン半島におけるヨーロッパ資本主義列強の相互に衝突しあう利害と陰謀の問題である。
この二つの問題は同じものではまったくない。逆である。純バルカン問題を現実に解決することは、ヨーロッパの王朝とヨーロッパの証券取引所の利益に完全に対立する。
バルカン半島は、ドイツと比べて広さではほぼ等しいが、人口はほぼ3分の1(2200万人)であり、オーストリア・ハンガリーの属州であるダルマチア、ボスニア、ヘルツェゴヴィナを除いて、ギリシア、トルコ、ルーマニア、ブルガリア、セルビア、モンテネグロという六つの独立国に分断されている。独自の王朝、軍隊、通貨制度、関税制度をもつこれら六つの国には、分断され個々の破片になった多数の民族が暮らしている。ギリシア人、トルコ人、ルーマニア人、ブルガリア人、セルビア人、アルバニア人、ユダヤ人、アルメニア人、ジプシーなど……。バルカン半島のミニ国家間の国境は、自然条件や民族の必要にしたがって画定されたものではなく、戦争、外交的陰謀、王朝の利害の結果にしたがって画定されたものである。列強――何よりもまず、ロシアとオーストリア――はつねに、バルカンの人民と諸国家をお互いに対立させ、相互に弱体化させたのち、自己の経済的・政治的影響下におくことに利益を有している。バルカン半島のこれら「細切れにされた諸地域」におけるミニ王朝は、ヨーロッパの外交的陰謀の梃子であったし、今もそうである。強制と陰謀にもとづいたこの全メカニズムは、バルカンの諸人民にのしかかる巨大な重荷となって、彼らの経済的・文化的発展を抑圧しているのである。
たとえば、セルビア人は強制的に五つの国に分離されている。彼らは、一つの小「王国」と一つのおもちゃの「公国」、つまりセルビアとモンテネグロを構成している。しかし両国は、セルビア人が多く住むがトルコに属しているノビ・パザール地方によって互いに切り離されている。そしてかなり多くのセルビア人が、同じトルコのマケドニア地区に住んでいる。そのうえ、セルビア人のかなりの部分が、オーストリア=ハンガリーの成員となっている。だが、他のすべてのバルカン民族もまた、このような構図を呈しているのだ。もともと恵まれた土地であるこの豊かな半島は、意味もなく小片に分断されている。そのため人や商品の動きは、国境の刺ある囲いに突き当たる。こうした民族国家の分断状態は、バルカン半島の産業と文化の強力な発展の基礎となる単一のバルカン市場の形成をゆるさない。それに加えて、各国を疲弊させる軍国主義が存在している。それは、バルカン半島の細分状態を維持する使命を有しており、経済の発展にとって破滅的なバルカンにおける戦争――ギリシアとトルコ、トルコとブルガリア、ルーマニアとギリシア、ブルガリアとセルビア、などの間の戦争――の危険性をもたらしている。
バルカン社会における民族国家的カオスと血なまぐさい混乱からの唯一の出口は、各構成部分の民族的自治にもとづいて、バルカン半島のすべての民族が一つの経済的・国家的全体に統一することである。ただ統一バルカン国家の枠内でのみ、マケドニアとノビ・パサール地方のセルビア人、セルビア自身、モンテネグロは一つの民族的・文化的共同体に統合されうるし、同時に全バルカン市場のあらゆる利点を享受しうる。ただ統一されたバルカン人民だけが、ツァーリズムとヨーロッパ帝国主義の恥じ知らずな野望に対して実際に反撃を加えることができるのである。
バルカン半島の国家的統一は、2通りのやり方で進めることができる。上から、すなわち、一個のより強力なバルカン国家が弱小国家を犠牲にして拡大することを通してか――これは、絶滅戦争の道であり、弱小民族を抑圧し君主主義と軍国主義とを強化する道である。あるいは、下から、すなわち、人民自身の統一を通じてか――これは革命の道であり、バルカン共和国連邦の旗のもとでバルカンの諸王朝を打倒する道である。
これらちっぽけなバルカン君主とその内閣および与党のすべての政策は、一つの王権のもとでバルカン半島の大部分を統一するという見せかけの目的をもっている。「大ブルガリア」や「大セルビア」「大ギリシア」は、こうした政策のスローガンである。しかしながら、実際には、このようなスローガンをまじめに取り上げる者はいない。それは、国民の人気を得るための半ば公式の嘘なのである。バルカンの諸王朝は、ヨーロッパ外交によって人工的に植えつけられたものであり、いかなる歴史的起源もない。鉄と血によってドイツを統一したビスマルクにならった「大がかりな」政策をあえてするには、それらの王朝はあまりにもちっぽけで、あまりにも不安定である。最初の重大な衝撃があれば、カラジョルジェヴィッチ家
[セルビアの王家]やコーブルク家、その他の、王位にあるバルカンの一寸法師たちは跡形もなく一掃されるだろう。資本主義的発展の道に遅れて入ったすべての国のブルジョアジーと同様、バルカンのブルジョアジーは、政治的に不毛であり、臆病であり、無能であり、骨の随まで排外主義にむしばまれている。バルカンの統一を引き受けることなど、まったく彼らの手に負えないことである。農村大衆はあまりに分散的で後進的で政治的に無関心であるため、彼らに政治的イニシアチブを期待することはできない。したがって、バルカンが民族的かつ国家的に生存するための正常な条件をつくり出す課題は、その歴史的な重みのすべてが、バルカンのプロレタリアートにかかっているのである。この階級はまだ少数である。なぜなら、バルカン資本主義はやっとおむつをはずしたばかりだからである。しかし、バルカン半島における経済発展の一歩ごとが、新しい線路の一ヴェルスタごとが、新しい工場の煙突の一つ一つが、革命的階級の隊列を拡大し結合させる。教会や君主制の迷信とも、またブルジョア民主主義や民族主義の偏見とも無縁な、若くて力と情熱に満ちたバルカンのプロレタリアートは、すでにその歴史的道程の第一歩において、ヨーロッパの年長の仲間たちの豊富な経験を利用している。バルカンにおける最も成熟した労働運動の代表であるブルガリアとセルビアの社会民主党は、二つの戦線での闘争を熱心に指導している。すなわち、自国の王朝的排外主義派に対する闘争と、ツァーリズムと資本主義ヨーロッパの帝国主義的計画に対する闘争である。これらの闘争における積極的な綱領であるバルカン連邦共和国は、種族の違いや民族性や国境を越えたすべての自覚したバルカン・プロレタリアートの旗となった。
この前の冬にベオグラードで開かれたバルカン協議会――セルビア、ブルガリア、ルーマニアの社会民主党と、マケドニア、トルコ、モンテネグロの社会民主主義グループ※、さらにオーストリア=ハンガリー南部諸州に住むセルビア人の社会民主主義的プロレタリアートの代表者で構成された――は、バルカンの地域排他主義や軍国主義、民族紛争や外国による抑圧の一掃にむけたプロレタリアートによるバルカン政策の一般原則をつくり上げた。今年の冬に召集が予定されている第2回バルカン協議会は、バルカンにおけるすべての社会民主党の緊密な組織関係を形成し、共同の政治的行動形態の骨格をつくるという課題を有している。
※原注ギリシアの社会民主主義者は祝電を送ってきた――トロツキー
このように、バルカンのカオスと暗闇の中から、社会主義インターナショナルの統一支部がわれわれの眼前に現われつつあるのである。
ロシアの労働者にとって、この事実は計りしれない重要性をもっている。今後は、多くの苦しみをなめてきた半島の運命に干渉しようとするツァーリズムの企みはいずれも、バルカン社会民主主義の側からの断固たる反撃に会うことだろう。バルカンのスラブ民族の利益に対する背信のかどでわれわれを弾劾しているブルジョア諸党のスラブ友愛的虚偽に、われわれは今後、バルカンのプロレタリアートは彼らでなくわれわれとともにあるという動かせない事実を対置することができよう。われわれと共に彼らは、今や露日協定でもってペルシャでの掠奪とバルカンでの陰謀のために手を自由にしたツァーリズムと闘争している。われわれと共に彼らは、汎スラブ主義――あけすけにアジアの商標がついたものもリベラル=カデットの商標がついたものも――との仮借なき戦争を宣言している。
バルカンの独立とロシアの自由の歴史的保証は、ペテルブルクおよびワルシャワの労働者と、ベオグラードおよびソフィアの労働者との革命的協力の中にこそあるのだ。
ウィーン『プラウダ』第
15号1910年8月1日(新暦
14日)『トロツキー著作集』第6巻『バルカンとバルカン戦争』所収
『トロツキー研究』第12号より
(1)ルテニア人……ガリチアおよびその周辺のウクライナ人の総称。
(2)ヘウム……ポーランド東部の州で、ソ連との国境近くにある地域。
(3)シュラフタ……ポーランドやリトアニアの小地主貴族階級の名称。
(4)マクラコフ、ヴァシーリー(
1869-1957)……ロシアのブルジョア政治家、弁護士、カデット幹部。カデットの中央委員、第2国会〜第4国会の議員。当時、カデットの国会議員団長。1917年、パリの駐在大使。(5)ボブリンスキー、アレクセイ(
1852-1927)……ロシアの反動政治家、伯爵。富裕地主で君主主義者の第3国会の議員。(6)チェレプ=スピリドヴィチ、アルトゥール(
1868-1926)……ロシアの反動政治家、伯爵。スラブ主義者で反ユダヤ主義者の国会議員。(7)ブラゴエフ、ドミートリー(
1859-1924)……ブルガリア社会民主党の創設者にして指導者。学生時代、ペテルブルクで「人民の意志」派に。後にナロードニキと決裂し、ロシアで最初の社会民主主義グループを組織(ブラゴエフ・グループ)。1885年に逮捕・流刑。1903年にテスニャキ派。1919年にブルガリア共産党の中央委員会初代議長に。
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