ブカレスト講和
トロツキー/訳 西島栄
【解説】本稿は、ブルガリアの敗北で終わった第2次バルカン戦争のブルガリア講和について書いた記事である。
バルカン半島に対するオスマン・トルコ帝国の支配地域(マケドニア)を奪回するためにバルカン諸国の連合軍がトルコと戦争をした1912年の第1次バルカン戦争の結果、バルカン連盟諸国はマケドニアを割譲することに成功したが、このマケドニアの分割をめぐって、バルカン連盟内部でただちに対立が表面化した。ブルガリアは、マケドニアの大部分を入手するつもりであったが、セルビアとギリシャは手を結んで相した動きを封じようとした。そのため、ブルガリアは1913年6月に両国に宣戦布告し、ここに第2次バルカン戦争が勃発した。しかし、セルビア、ギリシャ連合軍にルーマニアとトルコが加わり、こうしてブルガリアは敗北に追い込まれた。ブカレスト講和条約によって、トルコは、第1次バルカン戦争によって失った領土のかなりの部分をブルガリアから取り返し、またルーマニアはブルガリアの南ドブルジアを割譲した。
この講和によって、バルカン諸国の民族間対立がいっそう激しくなるとともに、それぞれの国が内部に膨大な他民族地域を抱え込むことによって、民族問題の解決をいっそう困難にした。また、この二度の戦争で勝利して領土的拡張を果たしたセルビアに対し、オーストリア=ハンガリーは警戒感を強め、両国の対立はますます深まっていき、第1次世界大戦への導火線となっていった。
トロツキーは、頂上に君主をいただいたバルカンの小帝国主義国による上からの問題解決が、けっして問題を解決せず、いっそう問題を深刻化させるだけであることを的確に指摘するとともに、新たな戦争の可能性を予言した。
「ブカレスト講和はごまかしと嘘によって成り立っている。それは、戦争を貪欲と浅薄さによって飾ったが、戦争を終わらせはしないだろう。諸勢力の完全な消耗によって中断したこの戦争は、新鮮な血が動脈に流れるやいなや、再び再開されるだろう。」
この予言は、わずか1年後に勃発した第1次世界大戦によって完全に裏書
Л.Троцкий, Бухаресцкий Мир, Сочинения, Том.6−Балканы и Балканская война, Мос-Лен, 1926.
この文章を書いている現在、この地の人々は、1913年のブカレスト講和という名のもとにバルカンの歴史に入ることになるであろう条約が調印されるのを今か今かと待っている。ブルガリアは、セルビアに対して、とくにルーマニアに対して、急いで妥協の姿勢を見せたが、おそらく、それによってギリシャを孤立させようと思ったのだろう。ブルガリア代表団はあまりに急いでいたので、ブルガリアに属しているクツォ・ワラキア人(1)の民族文化上の自治(言語、学校、教会の問題として)を保証しておきながら、ルーマニアに帰属させられたブルガリア人に同じ民族的保証を求めるのを完全に忘れてしまったぐらいである※。彼らの関心の中心にあったのは、つねにカバラ(2)――テッサロニキ(3)につぐ、エーゲ海における最も重要な港で、タバコの輸出センター――であった。すでに現在、カバラから毎年1000万ルーブルのタバコが輸出されている。タバコ・プランテーションとタバコの輸出を前にしては、文化や、南ルーマニアの20万人のブルガリア人の良心の問題など、はるか後景に退けられたのである。それにもかかわらず、ブルガリアはカバラを手に入れることができなかった。そしてブルガリアのもとに残されたのは今や、列強によって条約が批准される際にオーストリア・ハンガリーの助けを得られるというはなはだ空想的な希望だけであった。しかしながら、この点では、そもそも条約が批准されないだろうという意見が主張されている。
※原注 その代わり、彼らは他のことは忘れなかった。会議の間にカロル王[ルーマニアの君主]に拝謁する際に王に一つだけ請願を行なったのである。ルーマニアとブルガリアの新しい国境がフェルディナント王[ブルガリアの君主]個人の領地に引っかからないように頼んだのだ。この請願は受け入れられた。
講和条約が調印されるということに誰も疑問を抱いてない。ジャーナリストや政治家はすでに、テーブルスピーチの中で、早々に講和が結ばれると請け合っている。おととい、ルーマニア新聞協会は外国記者団のために晩餐会を催したが、その席上、平和に向けた文化の権利と文化にとっての平和の恵みについて、とくとくと語られた。しかしながら、この数ヵ月の経験をふまえるならば、ブカレスト講和が本当にバルカン半島における平和を保証するなどと確信できる者は誰もいないだろう。第2次バルカン戦争後に人民に約束されたこの、「力関係にもとづいた新しい均衡」は、実際には、ヨーロッパの外交によって35年間(4)にわたって維持されてきた現状よりもはるかに不安定なものである。このことを何よりも雄弁に物語っているのは、ロンドン「講和](5)の運命である。ブカレスト講和会議は、公式には、トルコと旧バルカン連盟諸国(6)との新しい国境を取り決めたロンドン条約の決定にもとづいている。しかし、ロンドン条約のうち、ブカレスト会議が開かれる時点で何が残っているだろうか? トルコはアドリアノープル(7)に居座り、ブルガリアは、近いうちにトルコの側が公式の宣戦布告をするのではないかと考えている。トルコは、その宣戦布告につづいて、まったく無防備なフィリッポポリス(8)をすかさず占領するだろう。ロンドン条約における「力の均衡」によれば、ブルガリアはトラキア地方(9)を得ることになったが、実際には、東ルメリアを失う危険におびやかされている。ブルガリアは今や、半月形
[イスラム教の紋章。ここではトルコの意]に対抗して、十字架[キリスト教]に組する仲間の中から同盟国を探しているが、うまくいっていない。ブカレスト会議にとってブルガリア・トルコ関係はどうでもいい問題である。というのも、ブカレスト会議にトルコの代表団などそもそも出席していないからだ。この問題には、おそらくもう一つの講和会議が対処するはめになるだろう。そして、それはそれで、南東ヨーロッパにおける悪夢の歴史の最終局面というわけにはいかないだろう。原告と被告という二重の役割を果たさざるをえないブルガリアが、いったいいかにしてロンドン裁判所の判決を実行するのか、これについて知る者は今のところ誰もいない。しかし、たとえ強力な手がブルガリアのもとに助けに馳せ参じたとしても(もっとも、この強力な手から、ブルガリアはトルコから受けたのに劣らない被害を被るだろうが)、たとえトルコが一つの国家として完全に消滅したとしても、それでもやはりトルコ人は、ヨーロッパでもアジアでも存在し続ける。そして、ヨーロッパにおける5世紀にわたる支配の伝統をもちつつ国家という住居を失ったこのトルコ人は、いずれにせよ、旧トルコにおけるマケドニア人に劣らず、バルカン半島における騒擾と動乱の要素となるだろう。列強諸国の公使会議の監督下で働く全権代表者たちによるロンドン会議は、バルカン連盟諸国間の戦争[第2次バルカン戦争]を予防できなかったが、今なお形式的な言い訳をすることは可能である。すなわち、ロンドン会議の任務は、トルコの遺産を連盟諸国の間に分配することにあったのではなく、その全般的な規模を確定することにあった、と。しかし、まさにこの後者の任務の範囲内でロンドン会議が確定しえたのは、すでに見たように、ヨーロッパの集団的な外交的「知恵」の無能力ぶりだけであった。ブカレスト会議は、ロンドン条約のうち生き残っているのは何もないという事実をまるで知らないかのようなふりをしている。一方でブルガリアとセルビア、他方でブルガリアとギリシャとの間の国境を確定しようと(どれだけ時間をかけて?)してきたブカレスト会議は、セルビアとギリシャとの間の国境についてまったく手を触れようとしなかった。たしかに、セルビアとギリシャとの間ではすべてが取り決められている。しかし、ブルガリアとの間でも、「すべて取り決められている」はずではなかったか(10)。セルビアとギリシャとの間にすぐに戦争が生じないとしても、それは条約のおかげではなく、両国が完全に消耗しているからである。
ルーマニアとブルガリアの関係もそれに劣らず悪い。ブルガリア人住民が多数を占める新しい領土は、恐るべき刺のごとくルーマニアの体につき刺さっている。ドブルジア(11)は、ルーマニアのアルザス・ロレーヌ(12)となった。しかも、マケドニアで適用されたような闘争手段によっていっそう複雑化したアルザス・ロレーヌである。そしてブルガリア人は、ルーマニアがその行動によって第2次バルカン戦争への決定的な一押しを与えたことをけっして忘れないだろう!
ブカレスト講和にもとづいて形成されるブルガリア・ギリシャ関係は、さらにいっそう不安定なものであろう。南マケドニアの約20万人のブルガリア人がギリシャの帰属となった。反対に、トラキア地方においては、約20〜25万人のギリシャ人がブルガリア国民となった、というよりも、より正確に言えば、ロンドン条約によって、ブルガリア国民という名称に含められた。民族原理はここでも帝国主義的野望と両立しないことがわかる。問題となっているのは、同質的な民族的基礎にもとづいた文化的共通性ではまったくなく、納税者の数であり、国内市場の規模なのだ。もちろん、こうした限界内でも、これらの国におけるそれぞれの「異民族」の民族的自治を保証するならば、ブルガリアとギリシャの平和的共存は可能であろう。しかしながら、たった今までお互いの腹を切り裂き合っていた人々が、ないしはより正確に言えば、この切り裂きあいを指導していた人々が、マケドニアを横断する国境の両側において諸国民による共存の安定した条件を確立することなど絶対にできないことは、明らかである。
この三重に不幸な地域の運命は、民族主義的ロマン主義者にとって致命的な明白さをもって次のことを暴露している。すなわち、後進的なバルカン半島においてさえ、民族政策の余地があるのは、ただ帝国主義的政策と一致する場合のみだ、ということである。
ギリシャ帝国主義は最も古い起源を有している。ギリシャの教会と貴族の寡頭制(ファナリオット(13))は、バルカン半島のキリスト教諸民族に対する支配権をトルコの軍事カーストと分かちあってきた。ギリシャのブルジョアジーは、エーゲ海、マルマラ海、黒海、地中海の沿岸にまで行動範囲を広げ、農民と牧夫とをギリシャの商業資本と高利貸し資本の支配下に置いた。ギリシャの神父や商人はギリシャ帝国主義のために道を切り開き、ギリシャ帝国主義はたちまち、目覚めつつあるバルカン諸民族の不倶戴天の敵となった。バルカン諸民族にとって、その経済的・民族的目覚めは、トルコの軍事的・官僚主義的カーストだけでなく、ギリシャの教会支配および商業・高利貸し資本の支配との生死をかけた闘争をもたらすことを意味した。ギリシャ帝国主義はマケドニアの地においてブルガリア帝国主義と衝突した。
ブルガリア帝国主義はそれほど古い起源を有していないが、そのためになおさら好戦的で、向こう見ずであった。ブルガリアのブルジョアジーは遅れて登場するやいなや、自分の道を切り開くために強引に肘で人をかきわけ始めた。ブルガリアの大臣は1000フランの月給を受け取っている。だが、資本主義ヨーロッパには、1日に数千フラン支給される職がある。『タイムズ』のソフィア通信員であるバウチャー氏は、ソフィアの権力者たちが夢想もできないほどの額を自由に使って活動していた。そこで、国家の限界を広げること、納税者の数を増大させること、富の源泉を増やすこと――これこそ、ソフィアの全支配徒党の政策を導いている帝国主義的叡知の原理なのである。
まさにこのような――民族的ではなく、帝国主義的な――原理が、ブルガリアの全マケドニア政策を決定していた。目的は常に一つ。マケドニアの併合である。ソフィア政府がマケドニア人を援助するのは、それによって彼らを従えることができる場合のみであり、その逆もまた同じである。すなわち、彼らの利益がブルガリアと疎遠なものになりうる場合には、ソフィア政府は、何の良心の呵責もなく、マケドニア人の利益を売り渡してきた。バルカンの著名な政治活動家にして著述家であるフリスチャン・ラコフスキー博士(14)――私は、2年間のブランクを経てブカレストで再会した――は、他の多くの情報とともに、次のようなきわめて雄弁な事実を教えてくれた。1903〜1904年に、ブルガリアの大主教はマケドニアに農民銀行を設立するためにソフィアで奔走した。これは、「イリンデン」の蜂起(15)――この時、マケドニアでカオスが支配し、トルコの地主が自分の土地を農民に二束三文で売ろうとしていた――の後のことである。ブルガリア政府は、大主教の案をきっぱりはねつけ、その理由として挙げたのは、マケドニア農民の状態が一定改善されれば、彼らはブルガリアの宣伝に耳を貸さなくなるだろう、というものであった。マケドニア人革命機構(16)も同じ見地に立っていた。この組織は、とりわけ蜂起が壊滅した後、最終的に、民族的・農民的組織から、ソフィア政府の帝国主義的指令を遂行する道具になりはてた。
野蛮さがヒロイズムと結合したこの驚くべき闘争は、何で終わったか? マケドニアの分割に関する裏切り的協定で、である。第2次バルカン戦争と、今やその有終の美を飾っているブカレスト講和が、この協定を完成させた。そして今やまさにシチプとコサニ、この2つの地こそ、ブルガリアとマケドニアの革命家が「挑発的」戦術でもってトルコの虐殺――第1次「解放」戦争勃発の一つのきっかけとなった――を引き起こした土地であるが、このシチプとコサニは今やセルビアに譲渡されることになった!
セルビア帝国主義は、「正常な」、すなわち民族的な線に沿って前進するうえでの完全な無能力を示した。なぜなら、その途上に、セルビア民族の半分以上を自国の国境内にとどめているオーストリア=ハンガリーが立ちはだかったからである。そのため、セルビアは最も抵抗の少ない線に沿って進もうとした。すなわち、マケドニアに向かったのである。この途上でセルビアのプロパガンダが獲得した民族的成果は、まったく取るに足りないものであった。しかし、それだけにいっそうセルビア帝国主義が獲得する領土的成果は決定的なものとなったのである。セルビアは、すでに約50万人ものアルバニア人を自国の国境内にかかえていたが、今や約50万人ものマケドニア人をかかえている。目のくらむような成果だ! だが実際には、この敵対的な100万人は、セルビアの歴史的存続にとって致命的なものとなるだろう…。
ブルガリア民族は、最も容易に単一の民族的・国家的全体にまとまるように思われていた。なぜなら、「王国」の国境外にいるブルガリア人は、トルコの余命いくばくもないカーストの支配下に置かれているだけで、セルビア人のごとくオーストリア・ハンガリーの支配下に置かれているのでもなければ、ルーマニア人のごとくオーストリア・ハンガリーとロシアの支配下に置かれているのでもなかったからである。しかし、そうはならなかった。まさに、北の列強諸国によって自然な発展軌道から投げ出されたセルビアとルーマニアが、ブルガリア人地域を支配下に置いたからである。ラコフスキーがブカレスト講和条約を「バルカンにおけるポーランド」第1次分割と呼んだのも、根拠のないことではなかったのである。
したがって、バルカン半島における新しい国境線に関して――それがどれだけの期間もつかは別に――、それらすべてが、消耗し血の気を失いずたずたに寸断された諸民族の生きた体を通っていると言っておかなければならない。これらのバルカン諸民族のどれ一つとして、方々に散った諸部分を集めることができなかった。それどころか逆に、ルーマニアを含むバルカン諸国家のいずれも、今や、自国の国境内に敵対的な少数民族をかかえてしまっているのである。
これが、殺され傷つき病気で死んでいった50万人を下らぬ人々を飲み込んだ戦争がもたらした成果である。そして、バルカンの発展にとっての根本問題はどれ一つとして解決されていない。
バルカンが経済的に発展するためには、全バルカン諸国連邦の第一歩としての関税同盟が必要である。ところが、われわれが目にしているのは、各国がすべての国と対立し、すべての国が各国と対立している姿である。バルカン諸国は相互対立に夢中になっており、各国内部に散在する民族集団もそれに劣らぬ先鋭な敵対意識を抱いている。バルカン半島の物質的資源は長期間に使い果され、民族的・政治的関係は戦前と比較にならないほど混沌としている。しかし、それだけではない。バルカン諸国間の関係における対外的・純外交的側面でさえいまだ未確定なままである。セルビアとギリシャの国境問題もまだ完全には明確になっていない。セルビアとモンテネグロの相互関係も気がかりな問題のままである。トラキア地方の運命も、バルカン半島をおびやかす懸案事項である。
ブカレスト講和はごまかしと嘘によって成り立っている。それは、戦争を貪欲と浅薄さによって飾ったが、戦争を終わらせはしないだろう。諸勢力の完全な消耗によって中断したこの戦争は、新鮮な血が動脈に流れるやいなや、再び再開されるだろう。
全権代表のために王宮で日曜に開かれることになっている祝賀晩餐会の席では、ブカレスト会議の重大な意義について多くの儀礼的言葉が語られるだろう。だが、これらの言葉は、何と、諸国民の運命に対する吐き気をもよおすような嘲笑のように聞こえることだろう! 戦死者たちの血が天に向かって叫ぶ声が聞こえてくるようだ。なぜなら、それは無駄に流れたのだから。何も達成されず、何も解決されていない……。東方問題は、恐るべき腫瘍のごとく、資本主義ヨーロッパの体の上で熱を発し、化膿し続けているのである!
『キエフスカヤ・ムィスリ』第206号
1913年7月8日
『トロツキー研究』第12号より
訳注
(1)クツォ・ワラキア人……ルーマニア人の主要部分を構成する民族であるワラキア人の一部。ルーマニアのワラキア地方に最も集中しているが、ブルガリアを始めバルカン半島各地にも住んでいる。
(2)カバラ……カバラ県の県都で重要港湾都市。エーゲ海北端のカバラ港に臨む。
(3)テッサロニキ……ギリシャ北部、マケドニア地方中部のテッサロニキ県の県都で、最重要港湾都市。
(4)35年間……当時のバルカン諸国の国境を列強の思惑にしたがって決定した1878年のベルリン条約から、それを変更した1912〜13年のバルカン戦争までの35年間を指す。
(5)ロンドン「講和」……第1次バルカン戦争(1912〜13年)後にロンドンで結ばれた講和。だが、そこで決められたマケドニアの分割案をめぐり、ブルガリアと、セルビア・ギリシャとの間で対立が生じ、第2次バルカン戦争(1913年6〜8月)が勃発。
(6)バルカン連盟諸国……第1次バルカン戦争の際の反トルコ軍事同盟に参加した、ブルガリア、セルビア、ギリシャ、モンテネグロを指す。
(7)アドリアノープル……別名エディルネ。ブルガリアの国境近くにあるトルコの都市で、エディルネ州の州都。戦略的に重要な位置にあるため、各国による争奪の対象となっていた。ロンドン条約でブルガリアに帰属。1922年にトルコ領に。
(8)フィリッポポリス……プロフディフの別称。ブルガリアのプロフディプ州の州都。かつてトルコに属していた。
(9)トラキア地方……現在名はトラーキ。エーゲ海に臨むギリシャ東部の地方。
(10)第1次バルカン戦争後、ブルガリアがマケドニアの取り分に不満をもって、セルビア、ギリシャと戦争をはじめたことを皮肉っている。
(11)ドブルジア……ブルガリア北東部とルーマニア南東部に広がる地域。ルーマニアは1878年のベルリン会議で北ドブルジアを得、第2次バルカン戦争の結果、南ドブルジアも手に入れた。1940年のウィーン会議で南部をブルガリアに返還。
(12)アルザス・ロレーヌ……ドイツ語ではエリザス・ロートリンゲン。フランス北東部のアルザス地方とロレーヌ地方の一部からなる地域。1871年の普仏戦争でドイツのものとなった。1919年にフランスに返還。
(13)ファナリオット……コンスタンチノープルのギリシャ人居住区ファナル地区のギリシャ人のことで、トルコ支配下で官吏として特権をふるった。
(14)ラコフスキー、フリスチャン(1873-1941)……ブルガリア出身のロシアの革命家、外交官、左翼反対派の指導者。1889年から社会民主主義運動に従事。ブルガリア、ルーマニア、ロシアなど多くの国で活動。1910年代初頭にトロツキーと親交を交わす。第1次大戦中は国際主義派。1917年にボリシェヴィキに入党。1918〜23年、ウクライナの人民委員会議長。1919年から党中央委員。1923年からの左翼反対派。ロンドンおよびパリの駐在大使を歴任。1927年の第15回党大会で多くの反対派メンバーとともに除名。1928年に流刑。流刑地でなお反対派活動を継続するが、19344年にスターリンに屈服。1938年の第3次モスクワ裁判の被告。死後名誉回復。
(15)「イリンデン」の蜂起……マケドニア人革命機構(注15を参照)が1903年8月2日に決行した反トルコ蜂起。聖イリンの日に行なった蜂起として「イリンデンの蜂起」として知られている。トルコ政府はこの蜂起を激しく弾圧し、多くのマケドニア人がブルガリアに逃げた。
(16)マケドニア人革命機構(IMRO)……1893年にテッサロニキで結成されたマケドニア人の革命組織で、反トルコ・ゲリラ闘争を遂行し、イリンデンの蜂起を指導した。
トロツキー研究所 | トップページ | 1910年代前期 |