ロシア社会民主党の発展傾向
トロツキー/訳 志田昇
【解説】この論文は、1910年にドイツ社会民主党の理論誌『ノイエ・ツァイト』に掲載されたものである。この論文の中でトロツキーは、ロシア社会民主党内部の分派闘争と意見の相違を歴史的に考察し、ボリシェヴィキに対してもメンシェヴィキに対しても厳しい批判を向け、新しい先進的労働者層の台頭が党を分派対立と分裂から救い出すと訴えた。
ドイツ社会民主党の指導部自身は、ロシア社会民主党の両分派の対立に不信感を持っていたので、ロシア社会民主党内部の問題を論じるうえで、どちらの分派にも属しておらずどちらに対しても批判的なトロツキーが最も公平であると考えていた。それゆえ、ドイツ社会民主党指導部は、ロシア社会民主党の内部問題をドイツの読者に知らせる必要があると考えた場合には、しばしばトロツキーに論文を依頼した。
L.Trotsky, Die Entwicklungstendenzen der russischen Sozialdemokratie, Die Neue Zeit, No.31, 1910.9.2.
T
科学的社会主義は、その創始者たちが明らかにしたように、先進的なヨーロッパ諸国の物質的・精神的発展から導きだされた。しかし、労働運動の指導者たちの前には、それは、実践に移すことが必要な出来合いの理論、公式として現われた。マルクス主義が理論的に克服した社会主義の内的諸矛盾は、マルクス主義の実践的適用にさいして、民族的・政治的諸矛盾の形で戻ってきた。最善の社会理論、すなわち世界的経験をこのうえなく適切に再現した社会理論でさえ、経験そのものに取って代わることはできない。それぞれの国は、マルクス主義をわがものとするためには、それを改めて自力で手に入れなければならなかったし、現在でもそうである。社会主義運動の国際的な性格は、それぞれの国が先進諸国の経験から自分にとっての教訓を引き出すということのうちに示されているだけではなく、それぞれの国が先進諸国の誤りを繰り返すということのうちにも示されている。
国際社会民主主義運動の内部闘争は、一般的にみて、資本主義諸国家の政治的諸形態および法的諸規範に社会革命的諸階級が適応する過程の諸矛盾が反映したものである。この発展全体はある両極端の間で運動している。その両極端とは、一方では、あらゆる国家的・法的上部構造のアナーキスト的「否定」であり、それは、経済的土台を形而上学的化石に変え、この化石に対して無政府主義的社会主義者やサンディカリストたちは、純粋な革命的意志というダイナマイトを差し出す。そして、それは、他方では、改良主義的無能力であり、それにとっては、プロレタリア的階級闘争のいっさいの制限は、なにか絶対的なもののように思われている。しかも、プロレタリアートの階級敵の悪しき意志が制限を用心深く「法律」に変えてしまっているという唯一の根拠からそう思っているのである。無政府主義および改良主義の方向へのこれらの逸脱が、労働運動の内部的欲求を一面的に満たすことによって階級闘争のそれぞれの新しい段階において必然的に生じるかぎりは、社会民主主義政党は、自己保存のために、こうした逸脱と理論的に闘争し、それらを実践的に打ち負かし、最後に、それらによって党の行動能力が脅かされる場合には、その信奉者を党から排除することを余儀なくされる。
こうした逸脱に対する一般的な公式がないのは、これらのものが公式を生活へ適応させることから生じているからである。
インターナショナルによって外見上完全に克服された無政府主義は、サンディカリズムの台頭のうちにその復活を再び祝った。それは、ちょうど、フランスにおける社会党の入閣主義の完全な破産が、フランス語を使うもう一つの国であるベルギーにおいて、入閣主義的傾向が優勢になるのを妨げなかったのと同じである。
理論は経験に取って代わることはできない。しかし、すべての西欧諸国では、ブルジョア革命の後にはじめてマルクス主義が登場した。ブルジョア革命は、大衆をその渦の中に引き込み、諸政党の結成をもたらし、幻想をつくり出し、それを打ち砕き、かくして政治的経験を集積した。1848年のドイツ革命は、その実践的成果は非常に貧しかったが、同時に、60年代のプロシアの憲法紛争とともに、ラサールの影響力とドイツ社会民主党の形成のための政治的諸条件となった。ラサールもリープクネヒトも、同じように1848年の学校から生まれたのである。
しかし、ロシアにおいては、マルクス主義の使命は、多くの点で、ずっと困難であり、ずっと複雑だった。ここではマルクス主義は、国民的革命の崩壊ののちにではなくて、来るべき革命に対する幼稚なイデオロギー的直感(「ナロードニキ主義」、「人民の意志派」の諸派)の挫折の後に現われた。それは、プロレタリアートの直接的な政治的自己決定の武器ではなく、意識的な大衆闘争の伝統が欠如している政治的に未発達な状況のもとでの、社会主義的インテリゲンツィアの準備的な社会的方向設定のための武器であった。
ロシアの革命的インテリゲンツィアが完全に社会主義イデオロギーによって支配されていたことは、西欧における民主主義イデオロギーの全面的崩壊の時期におけるロシア・プロレタリアートの大きな革命的役割の結果であった。歴史的に乙女のようなプロレタリアートに対して、社会主義的インテリゲンツィアは、より大きな政治的理解力と、革命的ブルジョア社会との物質的結合という優位性をもっていた。この優位性は、彼らに対して社会民主主義的諸組織の中での指導的な地位を与えた。だが、彼らは、労働者党に加入することによって、彼らの社会的特性全部を、つまり、セクト的精神、インテリゲンツィア的個人主義、イデオロギー的物神崇拝を党のなかに持ち込んだ。これらの特質を、彼らはマルクス主義に適合させ、こうしてマルクス主義を歪曲した。このようにロシアのインテリゲンツィアにとっては、マルクス主義は、すべての一面性をその極端にまで駆りたてる手段となったのである。われわれの内部的な党内闘争の歴史的意味を理解しようとする者は、革命前と革命期におけるわれわれの党の内部の指導的諸組織の社会的構成を考慮の外においてはならない。
国際社会民主主義運動の内部で、すでに述べたように、社会革命的階級が議会制度や労働組合闘争などの限られた諸条件へ適応することによって、分裂と摩擦とが引き起こされた。しかし、現在までロシア社会民主党内部の分裂が生み出した諸分派は、まず第1に、プロレタリアートの階級運動にマルクス主義的インテリゲンツィアが適応することによって生じたものである。社会主義的究極目標の見地からみれば、この適応過程の真の政治的内容は限られていたが、その形態は奔放なものであり、それが投ずるイデオロギー的陰影もまたきわめて強力なものであった。
U
労働運動の発展がもたらしたあらゆる新たな欲求は、ロシアにおいて、この欲求の充足のための道具として役立つ特別な分派を生み出したが、この分派はまた、マルクス主義的に思考するインテリゲンツィアが労働運動の行程に適応する表現形態として役立った。そして、その分派はまた、労働運動全体に関する独自の哲学をつくり出した。「経済主義」は、産業好況の時期に必然的になった経済闘争の地盤の上に成立したものであり、そのさい生じた課題を、政治は運動から完全にあるいはできるかぎり排除すべきだというように把握したのである。のちに、経済恐慌が起こり、国内で政治生活が活発になったとき、「政治家」が、経済主義者(労働組合主義者)を一人残らず駆逐するために、それを利用した。だが、その後すぐに、「政治家」は二つの派に、すなわち、メンシェヴィキとボリシェヴィキに分裂した。この分裂の基礎は、組織問題における、つまり大衆運動に対する党組織の関係の問題における、意見の対立であった。
この両派は、初めからきわめて先鋭に争ったが、しかし実質的な差異はもともとまったくささいなものであった。そこへ革命が勃発し、革命の大問題が巻き起こった。革命は、ボリシェヴィズムにもメンシェヴィズムにも、死にものぐるいの闘争においてそれぞれ異なった焦眉の運動の必要に奉仕することを強制することによって、この出来合いの現存する二つの組織形態を利用しつくした。政治的歴史は、これ以降月をもってはかられることになった。ボリシェヴィズムとメンシェヴィズムはきわめて短期間に、それぞれ自力で、二つの異なった革命観と二つの戦術をつくり上げた。
政治的に未熟なプロレタリアートに対する影響力を獲得するために、マルクス主義的に思考するインテリゲンツィアと他の思考方法のインテリゲンツィアとの間で荒れ狂っていた闘争や異なるグループ相互間の闘争は、インテリゲンツィアのヘゲモニーからプロレタリアートの社会主義的前衛を解放するための闘争の萌芽を――この解放のための諸条件がつくり出されたかぎりで――それ自身のなかに宿していた。
ボリシェヴィキは、当初の未発達な党組織を原理にまで高め、プロレタリアートの革命的気分と結びついたプロレタリアートの政治的未成熟さのために、労働者階級はマルクス主義的インテリゲンツィアによって指導されるのが最も適切だとみなした。
メンシェヴィキは、これに対して、党の2階建て構造をきわめて鋭く批判し、マルクス主義の外観のもとに隠されたインテリゲンツィアのブルジョア・ジャコバン的体質を暴露し、プロレタリアートの独裁の旗のうしろにプロレタリアートに対する独裁が隠されていることを明らかにした。メンシェヴィキの極端な派は、党を大衆の中に解消するという要求を旧来の党に対して提出することによって、最後には英雄的な自己否定の思想にまで行きついた。しかしながら、歴史の皮肉だが、メンシェヴィキはこの自己否定思想をますます強調しつつ、ボリシェヴィズムに対抗していたが、ボリシェヴィキの流儀に完全にしたがって同じく強固で閉鎖的な分派を形成したのである。この閉鎖的な分派こそ、インテリゲンツィア一般によるプロレタリアートの指導に反対するという合言葉のもとに、実際には労働者大衆に対する彼ら流の指導のための闘争を展開した人々から成る組織であった。それはちょうど、ともに孤独に熱中するための結社を組織したかの有名な個人主義者たちとそっくりである。ロシア社会民主党におけるインテリゲンツィアの指導的役割は偶然の現象ではなく、社会主義的プロレタリアートが自立するための前提条件として歴史的な必然性であったし、またボリシェヴィキもメンシェヴィキも、大衆に革命的スローガンを与え、彼らの基本的必要に応じて強力な革命的組織をつくったので、これら大衆は、時間的および場所的条件に応じて、あるときはボリシェヴィキの周囲に、あるときはメンシェヴィキの周囲に結集した。大衆は、二つの派から彼らの階級闘争に役立つものを取り出したが、それによってしばらくの間、二つの派がプロレタリアートの深部に堅固な根を張ったかのような幻想が生まれたのである。
V
1908年から1909年の間にとめどもなく進行した党の分解は、第1には、反革命の時期の情勢と気分を、第2には、党組織の古い形態と労働運動の変化した要求とのあいだの全般的な不調和を、その原因としていた。
偉大な希望の挫折によって力を奪われ、反革命の残忍な打撃に打ちのめされ、10年におよぶ経済恐慌の困窮に疲れはて、労働者は群れをなして党を捨てた。それは、それに先立つ数年間における法外な力の緊張のあとに生じた一つの自然な反動であった。こうした自然発生的な必然性のおかげで、この過程は、ほとんどイデオロギー的反省なしに生じた。労働者階級のうちの最も遅れた少数の部分は、一時的に黒百人組の隊列の中に避難した。他の、同様にまったく取るに足りない部分は、神秘的な宗派に入った。ばらばらの激情家たちは、大衆から離れて、一個人ないしグループで、警察に対するパルチザン戦争や無意味な徴発行動で生命を失った。他の部分は、自分たちの階級から脱出しようとし、自らを周辺から隔離し、勉学を開始し、代数に取り組み、入学試験の準備をした。しかし、労働者の広範な大衆は、完全な無関心におちいり、賭博や飲酒やあらゆる種類の放蕩にふけった。自覚した志操堅固な労働者だけが、労働組合や啓蒙団体などに結集しようとしたのである。
民主主義派の出版物の中では、当時、社会民主党に対する野蛮な攻撃が行なわれていた。革命前の時期に「教養ある社会」に対して「人民」への道を開いた党は、今では教養ある人々と人民とのあいだに不和をもたらしたと非難された。社会民主党は単に革命の客観的諸傾向を政治的スローガンの言葉に翻訳しただけなのだが、対立が激化したために当然ながら良識も責任感もないと非難された。まさしく社会民主党が革命の先頭に立って進軍していたがゆえに、革命の敗北の年代記は、社会民主党に対する起訴状となった。革命によって呼びおこされた階級対立の先鋭化は、究極的には社会民主党にとって利益となるのだが、さしあたりは社会民主党に多くの重大な打撃を与えた。つい昨日まで支持者や協力者の確固とした集団として党をとりまいていた半社会主義的インテリゲンツィアは、すばやく転向して、彼らの母なるブルジョアジーの栄養豊かな胸のうちに帰った。この変節のイデオロギー的諸形態は、有益というよりこっけいであった。それは、サンディカリズム、神秘主義、性的アナーキズム、ヨハネ黙示録、ザンヘル=マゾッホ(1)の『回想録』であり、すべてが社会主義の誘惑に反対して動員された。
党の最良の分子たち、1905年の指導者たちは、このころ監獄に、流刑地に、外国に分散していた。非合法組織にとどまったインテリゲンツィアは完全に度を失った。政治的な見通しは、ますます暗くなった。下では大衆が去っていき、上では以前にブルジョア民主主義派の陣営から党に流れこんでいた財源が枯渇した。党の諸組織は、袋小路に入りこんでしまった。党員たちは、彼ら自身生存のための闘争という共通の問題の前に立たされた。ついこの間まで抽象的な党範疇の体現者以外の何ものでもなかった職業的革命家、アジテーター、オルグ、非合法文献の運搬者、信条に生きる人々、陰謀的一匹狼、無欲な人々――偽造のパスポートへの欲求を除いて――は、反革命的雰囲気のなかで、きわめて急速に生身の人間となり、まったく世俗的になった。彼らのそばには、突然、最も合法的な諸欲求、すなわち、家族、妻、子供、おむつ、子供用ミルクが浮かびあがってきた。彼らは、熱病的な性急さで、自らの非合法的過去を清算し、大学に戻り、弁護士の服を身につけ、経営者団体の番頭、書記になり、ブルジョア的新聞雑誌のデスクを占めた。
古い党員インテリゲンツィアの一部分は、自分たちの活動を――最小抵抗線に沿って――、党組織に対立してなお自由主義的な小ブルジョアの好意を受けていた合法的な労働者団体に移した。警察や、または労働者階級の自由主義的な友人たちと衝突することなしに、労働者クラブの中で活動する可能性があることが明らかとなった。しかし、この活動の可能性を確保するためには、労働者団体が党と関係をもつことによって評判を落とすことのないように、団体を守ることが必要となった。そこで、すばやく新しい政治的形態が、すなわち社会民主党に対して公然と闘争する、社会民主党の秘密党員という政治的形態が形成された。
こうした混乱と後退の雰囲気のなかで、インテリゲンツィアによる党指導に向けられているメンシェヴィキの批判は、インテリゲンツィア自身の中で熱狂的な反響を見出した。歴史的に形成されてきた現在の党は、今や、よりいっそうの発展にとって障害になっていると宣言された。党からのインテリゲンツィアの逃亡は、この哲学にもとづいてもはや裏切り行為ではなく、政治的義務と見なされねばならなくなった。
それゆえ、われわれの党内用語で「解党主義」(党組織を「清算」しようという衝動)と呼ばれているものは、きわめて複雑な現象であることが明らかになる。それは、まず第1に、「党打倒!」という実践的帰結をともなった政治的逃亡のイデオロギーを含んでいる。それは、さらに、一つの合法的な活動分野に対する渇望を含んでいたが、この渇望は、綱領と戦術の革命的精神をそのためによろこんで犠牲にするほど極端に走ったものである。それは、最後に――そして、これが他のすべてのものの根拠なのだが――大敗北の直接の結果である大衆の政治的受動性を内包している。
こうした発展を補完するかのようにメンシェヴィズムのこの崩壊と平行して、ボリシェヴィキ派の崩壊も進行した。大衆運動の衰退の時期に労働者階級のより活動的な分子たちに対する影響力を失うまいとして、ボリシェヴィズムの一部分は、マルクスの学説の名において強盗行為、徴発、等々の戦術を承認したが、その戦術の中には、やはり革命的心理の無政府主義的な解体が現われていた。これを基礎として革命前の時期の党に、とくにボリシェヴィキ派に特有の陰謀的傾向が、全面的に展開された。党の背後では、大衆の政治生活とは共通点がなく、本質上党の統制の下に置くことのできないような行為が行なわれていた。党組織の中には、冒険的な分子が侵入してきた。党の責任あるポストが、党運動の外部にある一領域においてその組織的才能を現わした人物に委ねられることが、まれではなかった。どの労働者組織からも独立していること、運に天に任せて英雄的な冒険をすること、「第2級」の党同志には秘密にされていたいろいろの企て――これらすべてのものが、無規律な個人主義、党規約および党モラルの「旧習墨守」に対する軽蔑を、要するに、労働者民主主義の雰囲気とは本来完全に無縁で敵対的である政治的心理を発展させた。メンシェヴィキ的批判主義のハムレットが、政治的発展の諸矛盾に押されて、党の存立問題について、「あるべきでない!(not to be)」という解党主義的な答えを投げつけたとすれば、権威主義的で中央集権的なボリシェヴィキは、自己保存本能の圧力のもとに、党を大衆から、分派を党から、分派の中央部をその周囲から、それぞれ解きはなつことに懸命に努力し、宿命的な必然性をもって、その政治的実践全体を「唯一者とその所有」というシュティルナー(2)の定式の中に押しこむことに成功したのである。
大衆の興奮の波が弱まれば弱まるほど、ボリシェヴィキの隊列のなかにおける組織解体がインテリゲンツィアのとどめがたい退却によって進めば進むほど、ボリシェヴィズムの内部の若干の分子の、彼らの分派の外部にあるすべてのものに対する不信感は、ますます鋭いものとなり、労働者諸組織を命令、叱責、「党の名における」最後通牒的要求を通じて、その従属下にとどめておこうとする傾向は、ますます明瞭に現われてくる。
これらの分子、いわゆる最後通牒派は、国会議員団や合法的労働者組織を党の影響下におくためにたった一つの方法、つまり、彼らに背を向けるという脅ししか知らない。ボリシェヴィズムの歴史全体を通じて現れているボイコット的傾向――労働組合や国会、地方自治などのボイコット――それは、大衆への「埋没」に対するセクト的恐怖の産物であり、「非和解的禁欲」の急進主義であるが――、その傾向は、第3国会の時期までには、ボリシェヴィズムの内部で特別な潮流をなすまでに強くなり、この潮流はまた、いっさいの議会的活動の完全な、無政府主義的な色合いをもった拒否から、この活動に対するある種の軽蔑的な投げやりの黙認にいたるまでさまざまなニュアンスを示している。
疾風怒涛の時代のあとで人がそれに屈服しなければならなかったストルイピンの法制度の束縛に対する革命的感情の直接的な抗議、6月3日体制に対する革命的闘争を6月3日的議会内での活動と結合することは不可能だとみなす政治的な形式主義、合法的な闘争の可能性を非和解的に拒否することの結果として革命的気分が再び復活するにちがいないという迷信的な確信、そして最後に、――その他のすべてのものの根拠として――社会民主党国会議員の孤立化と無力化をもたらすあらゆる公然の労働者組織の中での気分の沈滞をもたらした、労働者の無関心、これらが、われわれの党内用語で最後通牒主義および召還主義※という名称をもっている潮流の構成要素である。
※原注召還主義とは、国会議員団を召還するか、あるいは、国会議員団に議席放棄をさせるべきだと主張する立場である。
しかし、ボリシェヴィズムは、最後通牒主義によって支配されてはいなかった。その反対に、ボリシェヴィズムは、それにきっぱりと、あるいはより正しく言えば、狂暴に、反対した。同じ時期に、メンシェヴィズムは解党主義との闘争に入った。閉鎖的な党の革命的役割の過小評価、戦術的な混乱、階級の気分が変わるたびにそれに無気力に屈服すること、――解党主義はこれらすべての特徴を身につけ、これによってメンシェヴィズムのすべての革命的分子たちに道を譲った。これらの過程の結果は、双方の旧来の分派の接近であった。もちろん、彼らは、最初はきわめて深い不信感を互いに抱き、その手に武器をもって接近したのである。
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国会活動の問題におけるボリシェヴィキの分裂と、党に対する態度の問題におけるメンシェヴィキの分裂とは、どちらの側からしても、合同を可能にするために、心理的に必要なものであった。党のこれ以上の分派的分裂が分派闘争の力学を完全に不合理なものにしたのであるから、それだけでもすでにそれは必要であった。しかし、古い分派の内部での新しい分派の形成過程は、それ自体としては、党がその崩壊の道をさらに進めることであった。二つの完全に異なった種類の現象が、同一の創造的な意義をもった。それは、労働運動の形態や方法を複雑化させ、進歩的な労働者の隊列から新しいタイプの党員を出現させた。両方とも、革命の直接の遺産である。
革命以前には、秘密の党サークルの組織的独裁のもとに、経済的および政治的闘争の無定形な、エピソード的な突発が見られた。革命以後には、大衆自身の中に、緩慢ではあるが持続的な結晶化が見られる。さまざまな無党派の労働者組織が生まれて、独立に存在している。労働者は、労働組合、協同組合、地方自治体の領域において、計画的な闘争の道を進み、啓蒙団体のネットワーク全体を蘇生させた。党は、これらの諸組織を外部から指導することはできなかった。というのは、党はそれらの細々とした仕事に、党の一般的な綱領的要求を対置するからである。党は、まず、日常的実践のあらゆる曲折を通じて諸要求を貫くことを学ばなければならない。党は、新しい活動条件のもとで、理論的に同意見の人々の閉鎖的な団体として、あらゆる形態の労働運動の上にたつ指揮団体としてとどまることはできない。党は、自ら階級の核を形成し、それ自身がその指導機関であるとともにあらゆるプロレタリア的団体に奥深く浸透して内部から指導する大衆的な組織にならなければならない。この活動のためには、メンシェヴィキ派もボリシェヴィキ派も、これまでの思想的および組織的構造によって、完全に無能であることが明らかになった。マルクス主義の根本問題において一致しているたんなる同志団体として、この両派は、議会、自治体および労働組合の実際の活動の領域において、一定の見解も経験も持たず、またそれに対応する機関も持っていなかった。もちろん、すべてこれらの活動部門は、いつでもどこでも、個人かまたはグループにまとまった社会民主党員の指導を受けていたが、これらすべては、両派の枠の外で、両派の組織的影響の外で、行なわれたのである。
最初に公然活動になだれこんだのは、メンシェヴィキであった(3次にわたる国会全体の社会民主党議員団、労働組合機関紙の編集部、労働者クラブ役員等々は、主としてメンシェヴィキから成り立っていた)。しかし、そのさい、メンシェヴィキ派そのものは、組合やクラブなどで活動する個々のグループを生み出すことによって、崩壊していった。無党派の労働者組織は、孤立したままであった。それらの組織は、たしかに党の隊列の中に指導者を見出したが、党による指導は見出さなかった。統一的な戦術が欠けていた。メンシェヴィキが優勢を占めていた最も影響力の強い合法的組織である社会民主党国会議員団でさえ、完全にメンシェヴィキ派の統制の外部にあって活動し、たいていの場合両派の外にいる個々の老練な社会民主党員によって、たえず支えられていた。その間に、個々の党組織が、広範囲の階級的任務(団結の自由のための闘争、国会内における社会立法の諸問題、種々の大会の席上での労働者代表とブルジョア的政治評論家との衝突、等々)に取り組んでいたところでは、どこでも、調整された党指導の欠如がまったく耐えがたいことが明らかになった。メンシェヴィキの隊列の中にさえ、党に対する欲求が生じてきた。
メンシェヴィキのばらばらのグループが合法的陣地に根を下ろしていた間に、ボリシェヴィキは、反動の打撃に対して、非合法の党機構を精力的に防御した。彼らは、外国での出版活動を再建し、一つの全露党協議会
[1908年]を召集した。最初、両派は相互に接触することになる活動領域を見出さなかったので、分裂は無期限に続くかのように思われたかもしれない。だが実際には、まさにこのような仕方で直接に、両派は党統一の問題に歩み寄ったのである。非合法組織の中では、ボリシェヴィキはますます孤立を感じた。この派の最も独立的なプロレタリア的分子は、組合やクラブなどの中で、メンシェヴィキに従っていた。党の枠を一挙に拡張した革命的時期は、多岐にわたるスパイ網という恐ろしい遺産を残した。このスパイ網の作用は、大衆が意気消沈すればするほど、党組織への新しい分子の流入が少なくなればなるほど、それだけ恐るべきものとなった。大規模なアジテーションは、ほとんど行なわれなかった。非合法の秘密組織の周囲には、完全な空虚がただよっていた。このような状況のもとで、ボリシェヴィキ派のすべての活動的分子にとってはっきりと明白になったのは、地下の活動分野を公然たる労働者諸組織に結びつけて後者を統一し、秘密組織に新鮮な血液を注入する必要性であった。古い党組織の枠の中で考えると、この課題は、何よりもまず党活動の共通の改善と党機構の再組織のために、ボリシェヴィキとメンシェヴィキが戦術的合意に達することを意味した。
この新しい機構のために、これまで経てきた発展は新しい人間をつくり出していた。
革命以前には、党内のマルクス主義的インテリゲンツィアは、先進的な労働者を完全に後景に押しやっていた。先進的な労働者は、理論的な定式や政治的スローガンが仕上げられる比較的小さな実験室の外に置かれたばかりでなく、そもそも組織の外に置かれていた。スローガンや定式を、彼らは自分たちの上に立っている党から出来合いの形で受けとったのである。
革命的行動の要求が何十万という労働者を包含する強力な組織
[ソヴィエト]をつくり出した。それは、ロシアにおける労働者民主主義派の最初の本格的な学校であった。しかしながら、これらの革命的諸組織は党組織の一部分ではなかった。それはたんに形式的に党組織の一部ではなかっただけでなく、さらにこの時期における政治的スローガンが、党の本部によって作成されたのに対して、労働者代表ソヴィエトはこれらのスローガンを広め、実行に移す機関にすぎなかったという意味でも、そうであった。労働者大衆にとって、党は、今でもなにか自明なもの、もとから永久に存在するが、自分たちの外部に立っているものと見なされた。このような党に対する考え方をもって、労働者は、1906〜7年に公然組織に加入したのである。彼らは、社会民主主義者であるという意識をもっており、党感情は彼らの骨の中にまでしみこんでいる。そして、社会民主主義労働者が、当然ながら労働組合やクラブの最も影響力をもったメンバーになっていたので、彼らには、そのことがプロレタリア運動の社会主義的前進にとって十分な保証になると思われたのである。彼らは、社会民主党なしの社会民主主義者であった。その後になってはじめて、1909年に、党が労働者に対して指導的な影響力を行使することがほとんどなくなり、労働者が自分自身の孤立した力が頼りであることに気づいたときに、彼らは突然に――だが完全かつ決定的に――党による統一が必要だという認識に到達した。かくして、社会民主主義者の新しいタイプが生まれた。それは、もはや大衆から浮き上がった職業的革命家のタイプではない。それは今やつねに大衆とともに生活している機械工や織工である。これらの機械工や織工は、すでに革命以前にしばしば党とその諸分派の影響下に置かれていたが、このタイプの労働者がそれらから受け入れたのは、プロレタリア運動の諸要求に一致したものだけであった。彼らは、革命の政治的学校を修了し、公然組織の中で階級的自己決定の不可欠の諸方法を身につけ、そして、闘争そのものが進むにつれて合法活動と非合法活動との結合、国会の演壇と革命的宣伝ビラの利用が必要であるという認識に到達した。そして、分派への分裂は、党の再建の障害となるので、彼らは諸分派のことを良く思わない。彼らは、活動能力あるただ一つの党を必要としているのである。1年半前に創刊された労働者新聞『プラウダ』は、二つの分派の外に立っていて、出現しつつあった全党的傾向を表現しようとしたものであるが、まさにこの新しいタイプの党員を念頭においていたのである。闘争の当面する諸要求を定式化すること、先進的な労働者がどのような位置にいても同じように、政治的な連絡をつけ、それによって党の分派的崩壊の克服を促進すること――こうした課題を『プラウダ』紙は、その創刊以来、自らに課したのである。
X
分派の闘争方法――相互に人を不愉快にする論争、対立する実践的スローガンをもって大衆にアピールすること、相互のボイコット――はすべて、本質的に、党内の敵対者の絶滅をねらったものである。各分派は他の分派を、人格化された異端と見なし、もっぱら自派だけから成り立っている将来の党を思い描いた。もしボリシェヴィキがメンシェヴィキに、またはメンシェヴィキがボリシェヴィキに勝ったならば――かつて「政治家
[イスクラ派]」が「経済主義者」に勝ったように――、その結果は、こうした闘争方法の歴史的な正当化となったであろう。なぜならば、勝利に導く方法こそが正しいのであって、人は勝利者を裁くことはできないからである。だが、その結果は、まったく違ったものであった。敵対者の直接の絶滅を目指した7年間にわたる闘争ののちに、双方の分派は協定を結ばざるをえないことをさとった[1910年のパリ総会決議のこと]。このことが意味しているのは、どの分派もプロレタリア運動のすべての側面を体現しているわけではなく、ただ統一によって――両極端の克服によって――のみ、社会民主党は発展することができるということであった。この帰結は、協定を結んだという事実そのものから明らかになっている。協定の内容は、次のようなものである。すなわち、指導的機関としての中央委員会はそっくりロシアに移される。亡命者は、単に思想的に影響をおよぼす可能性を有するにすぎない。党の分派の組織的および財政的解消は、精力的に促進される。中央機関紙は、党内の種々の潮流がより大きな自由を獲得し、それによって分派の諸機関紙が余計なものになるようなやり方で、再編される。『プラウダ』と中央委員会との間には、緊密な結びつきが確立される。最後に、合法的な労働者組織を広範に代表する党協議会を召集するという決議が採択された。
統一の基本文書は、中央委員会によって満場一致で採択された、党活動の課題についての戦術決議である。この決議は、社会民主党の戦術が、革命的爆発の時期にも平和な「有機的」発展の時期にも、原則的な基礎においては同じであるという、まったく初歩的な原則を宣言することによって双方の分派の戦術的哲学を根底的に清算し、党の発展の広大な道を切り開くものである。
第3国会が出来そこないの議会的装飾であって、その背後には旧来の野蛮なツァーリズムが隠されているということは、まったく疑いをいれない。だが、この出来そこないの飾りは、単純な政治的な策略でも偶然でもない。それは、資本主義の発達という状況へのツァーリズムの適応過程を特徴づけるものである。この適応過程がどこまで進展するか、言いかえれば、この途上で蓄積された革命的矛盾がいつ爆発するか――この問題に対しては、党それ自身は、予言を下すことを拒否する。だが、党は第3国会およびそれと関係のある合法団体のあらゆる形態――結社法や合法的出版物など――をプロレタリアートを強化するために利用することを、義務とみなしている。他方で、ロシア社会民主党は、党としては、すなわち、中立的な労働者団体や国会におけるすべての機関の活動を結合している全体的な政治的存在としては、非合法にとどまることを余儀なくされている。合法活動の方法と非合法活動の方法との計画的な結合は、ドイツの同志にあっては社会主義者鎮圧法の時代の戦術を彷彿とさせるにちがいないが、それは、われわれの決議によって前面に押し出されている。組織された党の放棄は、国会の演壇およびその他の合法的な活動の可能性に対する自称革命的な軽蔑とまったく同様に、合法的なストルイピン的ロシアの環境の中ではいかなる党活動の余地も見出せないという理由から生まれたものであるが、これらの両極端は、採択された決議によって、同じように退けられている。社会民主党の戦術は、バリケードにも、消費組合のカウンターにも固定されない。党は、労働者の階級意識をとぎすまし、彼らを独立した組織に結びつけるために、活動のあらゆる形態と方法を利用する。それが唯一の真の革命的活動である。そして、このような活動だけが、党からあらゆる形態の社会主義的セクト主義を払拭することができるのである。
しかし、近い将来、事態はどのようになるであろうか? 中央委員会における分派の代表者によって結ばれた協定そのものは、確固としたものであろうか。それに対する答えは、イエスであると同時にノーである。その協定が有力な党サークルの代表者の間で結ばれた個人的契約に帰着するものであるかぎりは――そして、かなりの程度にそれ以上ではないのであるが――それは、個々人の善意や政治的見解のような、きわめて不確実な諸要因にかかっている。心理は、一般に、歴史的発展の最も保守的な要因である。そしてサークルやセクトの心理学は、他のどんなものよりも、ずっと保守的なものである。
ロシアの広範な労働者運動が失敗に終われば、その時には分派的過去がまたしても表面に浮かび上がってくること、そしてまた、崩壊しつつある古い諸分派の強化や新しい分派の創出のために、党統一の要求を悪用しようとする動きが大いにありうることは、言うまでもないことである。しかしながら、分派闘争の再発と再勃発という事態に至ったとしても、絶望して落胆する理由はない。すべてのグループに党統一という言葉を声高く語ることを余儀なくさせた傾向は、プロレタリアの前衛の政治的独立性が増大するのと同じ打ちかちがたい力をもって強まっている。自覚した労働者層の意志に反しては、もはやどの分派も大衆を自らに従えることはできないだろう。
『ノイエ・ツァイト』第31号
1910年9月2日
『トロツキー研究』第36号より
訳注
(1) ザッヘル=マゾッホ、レオポルド(1836-1895) ……オーストリアの作家。被虐的な性欲を画いた小説を発表し、マゾヒズムという言葉が生まれた。
(2) シュティルナー、マックス(1805-1856) ……ドイツの哲学者。無政府主義者。何ものにも服従しない「自己」としての「唯一者」という概念を哲学の中心にすえた。主著は『唯一者とその所有』(1845年)など。
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