血に飢えた破廉恥なる者

ストルイピンの暗殺によせて

トロツキー/訳 西島栄

1906年のストルイピンと妻のオリガ

【解説】本稿は、1911年9月1日にキエフで暗殺された帝政ロシアの首相ピョートル・ストルイピンについて、その死の報に接して書かれた最初の短い論評である。ストルイピンを暗殺したのは、エスエルのメンバーでオフラーナのスパイ挑発者であったドミートリー・ボグロフであった。ストルイピン時代にこのスパイ挑発者のシステムが空前の発達を見たが、ストルイピン自身がその犠牲となったのである。(右の写真は妻のオリガと写っているストルイピン、1906年)

 本稿は、ウィーン『プラウダ』に掲載された後、ロシア語版『トロツキー著作集』第4巻『政治的年代録』に収録された。本邦初訳。

 Л.Троцкий, Кровожадный и бесчестный, Правда, No.22, 16 Ноября 1911.


 ストルイピン()が反革命をつくり出したのではなく、反革命がストルイピンをつくり出したのである。しかし、ストルイピンはその仕事において、自己の至高の特権を守るために闘ってきた世襲地主に特有の図々しい自信をもって、全力を尽くして反動に奉仕した。彼は、ロシア史上初めて自分の首からくび木をかなぐり捨てようと本気で試みた人民大衆に対する、農奴所有者的な憎悪に酔いしれた。

 彼は、5年間ずっと、毎日、毎日、何百という人民を捕らえては銃殺し、人間の生活を、そして偉大な努力と無数の自己犠牲の果実であるものを破壊し圧殺し踏みにじった――所有と特権と君主制の栄誉のためにである。彼はジャーナリストと国会議員を買収し、諸政党――オクチャブリスト、民族主義政党、右派政党――の指導部を翼賛化させ、腐敗と汚職と裏切りと挑発を蔓延させた――所有と特権と君主制の栄誉のためにである。彼自身のオフラーナ的「国家機構」が彼の不意を襲ったとき、所有者と特権者の政治家たちは、彼を葬送の輪舞で取り囲み、彼の気高さと勇敢さを褒めちぎった。

 プロレタリアートにとってストルイピンは、息を引き取るその瞬間まで、血に飢えた敵であっただけでなく、破廉恥な敵でありつづけた。第2国会におけるわが党議員団に対する彼の臆病で卑劣な陰謀は、この殺された成り上がり者の道徳的相貌の醜い本性を赤裸々に暴露した。

 ストルイピンの死は、人民の目から見て、ストルイピン体制の血塗られた惨禍を償うものではない。われわれが払わされた犠牲はあまりにも大きい。ストルイピン体制の国家的巣窟全体を破壊することだけが、寄生的な君主制の全人民的転覆のみが、ストルイピン独裁の惨禍に対する復讐を遂げさせ、プロレタリアートの良心を慰めることができるのである。

ウィーン『プラウダ』第22号

1911年11月16日(29日)

新規、本邦初訳

  訳注

(1)ストルイピン、ピョートル・アルカデヴィチ(1862-1911)……ロシアの反動政治家。1906年に首相兼内務大臣に就任し、1907年に選挙法を改悪(6月3日のクーデター)し、独裁政治を遂行。1910年に農業改革を実施し、富農を育成。1911年9月1日にキエフでスパイ挑発者のエスエル、ドミートリー・ボグロフによって暗殺される。

 

トロツキー研究所

トップページ

1910年代前期