「政治は個人に依存しない」

ストルイピン体制の総括

トロツキー/訳 西島栄

【解説】本稿は、1911年9月1日に首相であったストルイピンがキエフでスパイ挑発者に暗殺されたことを踏まえて、1906年から1911年までの5年間におよぶストルイピン時代の総括を行なった論文である。(右の写真はストルイピン)

 本稿は、ウィーン『プラウダ』第22号に最初掲載され、後にロシア語版『トロツキー著作集』第4巻『政治的年代録』に収録された。本翻訳は、ウィーン『プラウダ』版を底本にしている(若干の異同がある)。

 Л.Троцкий, 《Политика не зависит от личности》, Правда, No.22, 16 Ноября 1911.


 ストルイピンは1906年に権力にのし上がった。そのとき、人民大衆はまだ脅威的な存在であったが、革命は、1905年12月の蜂起の中で深刻な傷を負っていて、すでに下り坂にあった。

 野放図な革命的諸組織に代わって舞台に登場したのは第1国会と第2国会であった。ヴィッテによって制定された制限的な選挙権のおかげで両国会で多数党となったカデット党は、君主制に対し、カデット内閣を承認することと小土地所有農民に貴族の土地の一部を――「(土地価格の)しかるべき評価にもとづいて」――譲ることを条件に、講和の締結を提案した。しかし、カデットは主人の許可なしに決算書を書いたのである。プロレタリアートと農民が要求していたのは、いかなる新たな土地代金債務もなしに貴族のすべての所有地を完全に接収することであった。しかし、貴族は土地代金の支払いがあっても自分の所有地を放棄することに同意しなかった。なぜなら、彼らにとって、この所有地こそが、自分たちのすべての階層的力と収奪と支配の基礎であったからである。それは、各自の地域、領地においてだけでなく、ゼムストヴォ[地方自治会]においても、県政においても、そして何よりも国家全体においてもそうであった。貴族院の代表者の一人は第1国会の時期にこう書いた――「しかり、われわれの合言葉とスローガンは、われわれの土地の一片たりとも否、われわれの畑の一粒の砂たりとも否、われわれの牧草の一本の草たりとも否、われわれの森の一本の枝たりとも否、であろう」。

 君主制は、カデットの背後に人民大衆がいるとみなして、カデットと取引を行なった。しかし、慧眼の持ち主であるストルイピンは、カデットの背後にはいかなる革命的力もないこと、革命勢力は反動派と同じくカデットを信用していないことを見破り、カデットとの協定は君主制にとって何の価値もないとの結論に至り、結束した貴族たちの要求にしたがって二つのカデット国会[第1国会と第2国会]を粉砕することにした。第3国会においてミリュコーフは苦々しく嘆いた。

 「われわれは、赤い力に依拠しているとみなされたときには内閣に呼ばれた。……われわれは、革命家であるとみなされていたときには尊重された。だが、われわれが単に厳格な立憲政党であることがわかったら、われわれに対する必要性は消えうせてしまった」。

 しかしながら、かつての純粋な専制体制に戻ることは、君主制にはもはやできなかったし、そうしなかった。資本主義によって生み出された諸関係はあまりにも複雑なものとなっており、種々の諸階級の利害はあまりにも多種多様で相互に矛盾しあっていた。政府にはすでに、古き良き時代のように目分量ですべての問題を解決することはできなかった。ツァーリズムは全権力をなお自分の手中に維持していたが、しかし、それぞれの問題に即して、各階級・グループの代表者たちの言うことに耳を傾け、有産階級の声に耳を澄ますことを余儀なくされた。1907年6月3日のクーデターというストルイピン的手段によってつくり出された第3国会は、たとえば社会革命党が考えているような「単なるお飾り」ではなく、君主制が上層有産階級の利益を推しはかりそれに適応するのに必要な国家機関なのである。

 しかし、膨大な数の人民を弾圧し2つの野党優位の国会を解散させたストルイピンが3万の大貴族・商人・企業家の代表者を第3国会に招き入れたまさにそのとき、反革命の内的無力が一歩ごとに暴露されはじめた。

 彼らの前に立てられていた課題は、革命を引き起こしたところのものと同じであった。すなわち、国の経済発展のための諸条件をつくり出すことである。革命はこの課題を労働者大衆の観点から見た。反革命は同じ課題に対し資本主義的利潤の観点からアプローチした。どのようにして国内市場を発展させるのか? どのようにして農民の購買力を引き上げるのか?

 しかしながら、この途上においては、土地関係の根本的な再編と政府予算の抜本的な変更なしには一歩たりとも進むことができなかった。だがどちらも、貴族と官僚の利益を激しく損なった。「われわれの土地の一片たりとも否」と貴族階層は言った。「われわれの予算の1コペイカたりとも否」と官僚カーストは言った。そして、大資本の手先であるオクチャブリストは全面的に譲歩せざるをえなかった。

 農地改革の分野では、第3国会は1906年11月9日のストルイピンの法令(1)に署名すること以外何もできなかった。革命は貴族の土地を農民に引き渡すことを要求していた。勝利せる反動は農民の共同地を農村のクラークに引き渡そうとした。しかし、オクチャブリスト派の資本家は、農村ブルジョアジー――新しい消費者――が、荒廃し迫害された農村において、十数年だけでもストルイピン改革にもとづいて発展することができることをすぐに納得せざるをえなかった。余剰資本にとって今すぐに利潤が必要だったのである。

 国内市場への期待は海外市場の追求に席を譲った。オクチャブリストとカデットによってせきたてられたストルイピン政府は、ロシア資本のために新しい分野を切り開こうとした。東方(中国)と中東(ペルシャ)、そして近東(バルカン半島)にである。しかし、飢えた後進的な農民と不満だらけの労働者から構成され、兵士に忌み嫌われている腐敗した強欲な将校たちを擁するツァーリ軍、このような軍隊はとうていあてにならないし、まったく無力であった。ツァーリズムは、この数年間というもの、日本に譲歩し、「友好的な」イギリスに譲歩し、オーストリア=ハンガリーに譲歩せざるをえなかった。

 オクチャブリスト的「改良主義」は貴族と官僚の抵抗の前に挫折し、第3国会期の帝国主義は、ツァーリ軍の内的無力さゆえに頓挫した。そこで、ストルイピンを指導者とする反革命は民族主義の道に舞い戻ったのである。

 「刷新されたロシア」というスローガンは、まず「偉大なロシア」というスローガンに席を譲り、その次には「ロシア人のためのロシア!」というスローガンに取って代わられた。

 ロシアの内的諸関係を雲らあせること、階級闘争を民族的憎悪によって毒し弱めること、零落した中間階級を「ユダヤ人、ポーランド人、フィンランド人の支配」なる妖怪によって脅かすこと、これこそが袋小路にはまりこんだ反革命にとって民族主義の綱領の意味するところであった。

 「刷新されたロシア」でも「偉大なロシア」でもなく「ロシア人のためのロシア!」。だが、零落し、困窮を極め、飢え、伝染病の蔓延するロシア、このあるがままのロシアが、ロシア人、すなわち真正ロシア的貴族・商人・企業家たちのためのロシアなのである。フィンランドの蹂躙、ゼムストヴォの破壊、ホルムシチナの略奪、ユダヤ人の権利の新たな制限――これらすべての措置は、有産階級それ自身の内部における民族対立を激化させること、国家のすべての手段を用いて「外国人」所有者を犠牲にして「土着の」所有者を、地方を犠牲にして中央を援助することを課題としており、このようにして、真正ロシア的資本を貴族および官僚により密接に結びつけることを課題としている。

 民族主義政策は、国内市場を深化ないし拡大するといういかなる展望をも、その最後の希望をも6月3日同盟(2)が完全に拒否することを意味した。それはまた、民族の富と財産を有産階級の特権部分のほしいままにさせることをも意味した。民族主義者の旗の上には次のように書かれている――「わが亡き後に洪水よ来たれ」。これは、自分の破産に気づいている破産者の政策である。戦闘的民族主義の旗手たるストルイピンは、オフラーナ[帝政の公安警察]に雇われたテロリストであるボグロフ(3)がその血塗られた生涯に終止符を打つ前にすでに政治的死体と化していたのである。

 ストルイピンに代わって首相になったのはココヴツォフ(4)であった。ココヴツォフへの小ブルジョアたちの期待はすぐに幻滅に取って代わった。いっさいが以前のままだ!

 「政治は首相という個人に依存しない!」――国会でココヴツォフは、ストルイピンがフィンランドの首に投げた首吊り縄をきつく締めながら言った。

 激しい気質の持ち主ではないココヴツォフは、大声で脅したり威嚇したりはしない。しかし、彼は、ストルイピン時代に威嚇的・挑戦的姿勢で追求されたあらゆる仕事を粛々と遂行している。

 「政治は個人に依存しない」。ココヴツォフは、ストルイピンが終えたところから開始した。

 では、ココヴツォフは何で終えるのであろうか? オフラーナの長官のマカロフ(5)は彼のために新しいボグロフを見つけだすのだろうか? われわれにはわからない。しかし、その代わり、はっきりとわかっていることが一つある。それは、ツァーリズムの惨めな官僚的簿記係たるココヴツォフには、袋小路にはまって窒息しかかっているわが国の反革命のために出口を見つけ出すことはできないだろうということだ。

ウィーン『プラウダ』第22号

1911年11月16日(29日)

新規、本邦初訳

  訳注

(1)11月9日の法律……1906年に発布されたもので、ミール共同体を解体して強力な自営農の育成をめざした法律。

(2)6月3日同盟……1907年6月3日、当時の首相ストルイピンは、左派議員の多かった第2国会を解散し、選挙法を改悪して、大資本家と大地主と貴族の反動政党であるオクチャブリストを与党とする新しい保守体制(「6月3日体制」を確立したが、この体制の支柱となった資本家、地主、貴族、官僚の同盟を「6月3日同盟」という。

(3)ボグロフ、ドミートリー(1887-1911)……エスエルの一員でオフラーナのスパイ挑発者。最初、エスエルに属し、その後アナーキストに。1906年末ないし1907年はじめにキエフでオフラーナのスパイとなり、多くの活動家を警察に売る。その後、ペテルブルクに移り、そこでエスエルに再接近。1911年9月1日に当時の首相ストルイピンを暗殺する。同年、処刑。

(4)ココヴツォフ、ウラジーミル(1853-1943)……ロシアの政治家、官僚。地主出身。1896年に大蔵次官。1904年以降、大蔵大臣で国会議員。ストルイピンが暗殺された1911年に首相に就任。1914年に辞任。

(5)マカロフ、アレクサンドル・アレクサンドルヴィチ(1857-?)……帝政ロシアの警察官僚、反動政治家。ストルイピン時代に警察庁の長官になり、スパイ挑発システムを確立し、アゼーフ事件などを引き起こす。1911年9月、ストルイピン暗殺後に内務大臣に。1912年のレナ河虐殺事件に関する国会質問に対し、事件の責任をすべて労働者に帰すとともに、「これまでもそうだったし、これからもそうであろう」という有名なセリフを吐いた。1912年12月にN・A・マクラコフに内務大臣の地位を譲る。

 

トロツキー研究所

トップページ

1910年代前期