第11回党大会軍代議員会議
における報告と結語
トロツキー/訳 西島栄
【解説】これは、ロシア共産党第11回党大会に選出されていた軍関係の代議員の会議でトロツキーが行なった報告と結語の全文である。
この報告の中でトロツキーは、当時、赤軍幹部の一部でもてはやされていた統一軍事理論を徹底的に批判し、教条主義と左翼的熱中にもとづいた特別の軍事理論づくりの不毛さを暴露し、とりわけ、軍事的形態をとった攻勢理論的発想を、きわめて危険なものとして断罪した。この演説を読めばわかるように、トロツキーの立場には、いささかも軍事的冒険主義の要素や、赤軍の力で世界革命を拡大しようとする志向はなかった。後にトロツキーは、冒険主義的・極左主義的立場であるかのようなイメージがスターリニストによって流されたが、そうしたイメージがまったく歴史の事実を歪曲する偽造であることがわかる。(右の写真は、当時、統一軍事理論の主唱者であったミハイル・フルンゼ)
Л.Троцкий, Доклад и заключительное слово на совещаний военных делегатов 11 съезда Р.К.П., Как вооружалась революция, Том.3, кн.2, Мос., 1924.
1、報告
2、結語
1、報告
何が問題になっているのか
まず最初に、この問題の歴史について一言、二言述べたい。何らかの新しい軍事理論をつくり出そうとする性急な動きは、すでに第10回党大会以前に現われていた。この動きの中心となったのはウクライナである。同志フルンゼ(1)と同志グーセフ(2)は、1年以上前に統一軍事理論に関するテーゼを作成し、それを大会で採択させようとした。赤軍問題に関する報告者であった私は、このテーゼは理論的に誤っており、実践的には不毛であると断言した。同志フルンゼとグーセフはその時、テーゼを引っ込めたが、もちろんこれは、彼らが私の言い分に同意したということを意味するものではまったくなかった。軍事活動家の間には、「プロレタリア軍事理論」を信奉するいくつものグループが存続しつづけた。諸君はみな、同志ソローミンの論文や、同志グーセフのいくつかの演説、等々を思い出すことだろう。ついに私は、事態の成り行きを見守る態度を放棄する必要があると考えるにいたった。というのは、このまま放置しておけば、ソローミンらの論文が軍の指導的分子の意識の中に重大な混乱を引き起こしかねなかったからである。今のところ、私の論文「軍事理論かエセ軍事的教条主義か」に対する反論は出されていない。にもかかわらず、――党内世論の大勢がすでに決したことにいかなる疑いもないとはいえ――この問題に関する意見の相違と偏見はなくなっていない。
今回の討論は、同志フルンゼと同志ヴォロシーロフ(3)
[右の写真]の主導で引き起こされたものであり、軍事理論に関する同じ問題を全面的に解明するという課題を有している。その外的なきっかけとなったのは、最近行なわれたウークライナの指揮官会議で同志フルンゼが擁護した、赤軍の訓練と教育に関する綱領的テーゼである。最初にはっきり言っておかなければならないが、このテーゼは、同じテーマを論じた同志グーセフらの論文よりも危険で有害であると私はみなしている。同志ソローミンの論文は、常識に照らしても、われわれの経験に照らしても、あまりにもはっきりと物事の道理に反している。それは明らかに、教条主義ですっかり頭が朦朧としている時に書かれたものである。筆者がここにいないことを私は非常に残念に思う。彼は自分でも自らの見解を擁護しえないだろう。しかし、彼の論文は一個の政治的事実として残っているし、私としては、彼の論文がこれ以上有害な影響を及ぼさないよう、それに言及しないわけにはいかない。
ウクライナのテーゼに関して言えば、それははるかに注意深く書かれており、体裁もうまく整えられている。そのため、一見してまったくまっとうであるかのようにさえ見え、かてて加えて――この点で私は、テーゼの筆者の巧みな策略に敬意を表しないわけにはいかない――、いくつかの項目では、とってつけたように、トロツキー、トロツキー、トロツキー…と書かれているのである。それはあたかも、私の論文からの引用であるかのようにさえ見える。使われている用語も新奇なものである。「統一軍事理論」という言葉は「統一した軍事的世界観」という言葉に置きかえられている。これは、私見によれば、何百倍もまずい表現である。そしてここでわれわれは、問題の歴史からその問題の本質へと接近することになる。
統一軍事理論なるものは、明らかに、わが国に統一工業理論や統一商業理論、等々が存在することを前提しており、したがってまた、それらの総和からつくり出される、ソヴィエト活動の統一理論なるものを前提にしている。用語は大げさでもったいぶっているが、まだしも我慢できる。だが、「統一した軍事的世界観」となると、はるかに耐えがたくなる。何か、世界全体に対する「軍事的」なものの見方なるものが存在するかのようだ。われわれは今まで、わが党の世界観はマルクス主義的世界観であるとばっかり思っていたが、さらに「統一した軍事的世界観」なるものを持たなければならないようだ。いや、同志諸君、このような用語はさっさと投げ捨ててしまおうではないか!
私が「理論
(ドクトリン)」の呼び方に反対したとき、何も言葉だけを取り上げて問題にしたわけではない。しかし、私見によれば、この言葉に隠されているものの見方や気分の全体はきわめて危険なものである。
戦争の技能と…マルクス主義
実際のところを見てみよう。テーゼは言う、「統一した軍事的世界観」とは、社会現象の分析のマルクス主義的方法を用いて一個の体系にまでなった諸見解の総和である、と。文字通り、テーゼの第1項にはこう書かれている。
「こうした教育と訓練は、赤軍の任務、その建設原理、戦闘作戦の遂行方法をめぐる基本的諸問題に関して、赤軍の隅々にまで浸透している統一した見解にもとづかなければならない。社会現象の分析のマルクス主義的方法を用いて一個の体系にまでになったこうした諸見解の総和は、各種の操典や指令や方針を通じて赤軍に教授され、さらにまた、軍隊にとって必要な統一した意志と思想を赤軍に与える」。
戦略、戦術、軍事技術、軍事操典はここに含まれるのだろうか? それらは、「社会現象の分析のマルクス主義的方法を用いて一個の体系にまでなった諸見解の総和」に含まれるのか、イエスかノーか? この問いに答えるべきだろう。私見によれば、当然含まれるベきものである。そうでないとしたら、いったいどうなることか? 軍事操典は当然この「統一した軍事的世界観」に入らなければならない――もちろん、軍事操典を集めた小冊子がそのまま入るという意味ではなく、その基本的な原理原則が入らなければならない。なぜなら、もしそれらが入らないとすれば、「軍事的」なものは何もなくなり、単なる「世界観」だけが残ることになるからである。その軍事的性格を決定するものこそ軍事操典である。それは軍事的経験を総括しており、われわれの軍事的方法を決定づけるものだからである。だが、われわれの軍事操典はマルクス主義的方法によってつくられたものではないか? いや、私はそんな話は初めて聞いた。軍事操典は種々の軍事的経験を総括したものである。おそらく、それには欠陥があるし、われわれはそれを、自らの軍事的経験にもとづいて修正するだろう。しかし、それはマルクス主義的方法によって一個の体系にされたものではないか?
だがマルクス主義的方法とは何か? それは科学的思考の方法である。それは歴史的、社会的科学の方法である。たしかに、われわれの雑誌は『軍事科学』という名称を持っている。しかし、その中にはなお多くの辻褄の合わないことが含まれており、最も辻褄の合わないのはその名称である。軍事「科学」なるものは存在しないし、これまでも存在しなかった。軍事が依拠しなければならない一連の諸科学というものは存在する。実際のところ、そこには、地勢学に始まって心理学にまで至るすべての科学が含まれている。偉大な司令官たる者は、多くの諸科学の基本的諸要素に通じていなければならない。もちろん、生まれながらの司令官というのも存在する。こういう人は手探りで経験的に行動し、その際、天賦のカンの助けを借りる。戦争は多くの科学に依拠しているが、戦争そのものは科学ではない。戦争は実践的技術であり、実践的な技
(わざ)である。プロイセンの戦略家フリードリヒ2世(4)は、戦争は無知な者にとっては技能であり、才能ある者にとっては技術であり、天才にとっては科学である、と言った。しかし、彼は嘘をついている。この主張はまちがっている。戦争は無知な者にとっては「技能」などではない。なぜなら、無知な兵士は、戦争で砲弾の餌食になるのが関の山であって、けっして戦争の「技能工」にはなれないからである。あらゆる技能には、周知のように、訓練が必要なのであり、戦争は、軍事を正しく学ぶ者にとってのみ「技能」なのである。それは、苛酷で血ぬられた技能であるが、それでもやはり技能であることに変わりはない。すなわち、正しく学びとられた技であり、経験を通じて練り上げられた一定の熟練を要するものである。非常に才能のある人々や天才的な人々にとっては、この技は高度な技術となる。
しかし、戦争は、その本質からして科学にはなりえない。それはちょうど、建築や商業や獣医などが科学になりえないのと同じである。人々が戦争のセオリーとか軍事科学とか呼んでいるものは、客観的現象を説明する科学的諸法則の総和のことを言っているのではなく、一定の課題――すなわち敵を粉砕すること――に対応した実践的手法・適用能力・熟練といったものの総和のことを言っているのである。こうした手法を高度な水準で、かつ広範囲に有し、それらを巧みに結びつけることで大きな成果を達成する者は、苛酷で血ぬられた技術の水準にまで軍事を高めることができるのである。だが、ここで問題になっているのは科学ではない。われわれの軍事操典も、経験から導きだされたこうした実践的諸規則を総括したものである。
スコラ主義とユートピアの泥沼
マルクス主義は科学の方法である。すなわち、客観的諸現象をその客観的連関において認識する方法である。マルクス主義の方法を用いて、いったい全体いかにして軍事的技能ないし技術の手法を打ち立てることができるのだろうか? これはまったくもって、マルクス主義を用いて建築理論や獣医学を打ち立てると言うようなものである。戦争の歴史は、建築の歴史と同じく、マルクス主義的観点から叙述することはできる。なぜなら歴史学は一つの科学だからである。しかし、いわゆる、戦争――すなわち一つの実践的指導行為――の理論となると話は別だ。それをいっしょくたにしてはならない。なぜなら、そんなことをして得られるのは、統一した世界観などではなく、どうしようもない混乱だからである。
マルクス主義を用いれば、社会的・政治的、および国際的な方向設定が著しく容易になる。このことに議論の余地はない。マルクス主義を用いてはじめて、世界情勢を理解することができるし、現在のような例外的な時代においてはとりわけそうである。
だが、マルクス主義を用いて野戦操典を打ち立てることはできない。ここに見られる誤りは、軍事理論あるいは――いっそう悪いことに――「統一した軍事的世界観」という言葉で、彼らが、わが国の一般的な方向設定(国際的および国内的なそれ)のことも、軍事上の実践的手法や軍事操典上の規則や指令のことも指している点にあるのであり、さらにまた、これらすべてをマルクス主義の方法を用いて新たに打ち立て直そうとしている点にある。しかし、わが国の方向設定はとっくにマルクス主義の方法によって打ち立てられてきたし、現在もそうである。したがって、それを軍事官庁の中から改めて打ち立て直す必要はさらさらない。われわれの軍事操典に含まれているような純粋の軍事的方法に関して言えば、その問題にマルクス主義的方法からアプローチしてもほとんど無駄に終わるだろう。もちろん、軍事操典を経験にもとづいて検証することで、それをできるだけ統一性のあるものにしなければならない。だが、このことを理由に、統一した軍事的世界観について語るのは、まったくのナンセンスである。
同志フルンゼのテーゼの第1項と第2項については以上のごとくである。
次に第3項を見てみよう。
「労農軍のこの統一した世界観を練り上げる努力は、労農軍が存在しはじめる最初の一歩からすでに開始されていた」。
これはあたかも同志グーセフに対する反論であるかのようだ。なぜなら同志グーセフは、われわれには赤軍建設のいかなる原理原則もなかったし、今なおない、ということを理解させようとしていたのだから。テーゼはさらに続けてこう述べている。
「その後の実践的諸活動の歩みの中で、プロレタリア国家の特殊な階級的本質から生じてくるわが国の軍事システムのあらゆる基本要素が結晶化され、確定されてきた」。
この時点ですでに度を越している。わが国の軍事システムが、プロレタリア国家の特殊な階級的本質から生じてくるというわけだ。この本質を確定し、次にそこから統一軍事理論を導きだし、そしてこの理論から必要なあらゆる部分的・実践的結論を引き出さなければならないというのだ。だが、このような方法はスコラ的であり、不毛である。プロレタリア国家の階級的本質は赤軍の社会的構成、とりわけその指導機関の社会的構成を決定するし、その政治的世界観、目的、方針を決定づける。もちろんのこと、こうしたことは戦略や戦術にも一定の間接的な影響を及ぼすだろうが、戦略と戦術は基本的に、プロレタリア的な世界観から生じるのではなく、技術的諸条件、とりわけ軍事技術のそれ、物資供給の可能性、地勢的状況、敵の性質、等々から生じるのである。
わが国に統一した工業的ないし商業的世界観なるものが存在するだろうか? 「プロレタリア国家の特殊な本質」から、外国貿易の最良の教科書をつくり出したり、トラストの管理部門ないし商業部門を組織する最良の方法を引き出したりすることができるだろうか? 明らかにこのような試みはナンセンスであり不毛である。マルクス主義の方法を身につけていれば、ろうそく工場の生産を組織する最良の方法に関する問題を解決することができるなどと考えることは、マルクス主義の方法についても、ろうそく工場についても、理解していないことを意味している。ある意味で、連隊というのは、それ自身の特殊な課題という観点から見れば一つの工場であり、それ自身の任務に応じた形で正しく組織する必要のあるものである。断言してもよいが、プロレタリア国家のシステムから演繹的に、すなわち論理的に、歩兵連隊ないし騎馬連隊を組織する方法や、その人員やその戦術的手法を導きだそうとする試みは、まったくもってユートピア的で不毛な課題である。このテーゼの起草者たち自身もこのことを感じている。なぜなら、彼らは「統一軍事理論」と1921年のフランス野戦操典との間を動揺しているからである。だがこの点については後で述べる…。
いかなる抽象性もなく、もっぱら具体的に!
軍隊の存在の前提となっている諸条件は、言うまでもなく、一連の政治的性格を有している。われわれはいかにして、何のために軍隊を組織するのか、国家はこの問題に対する答えを持っていなければならない。われわれの軍隊は革命的で自覚的な軍隊であるがゆえに、軍隊自身がこの問題に対するはっきりとした正確な回答を持っていなければならない。この問題を考える上で格好の材料を提供しているのが、ウクライナのテーゼの第4項である。思うに、この部分は、政治的に最も危険な箇所の一つである。そこにはこう書かれている。
「一方におけるプロレタリア国家の建設と、他方におけるブルジョア的・資本主義的世界による包囲との間にはきわめて根本的な矛盾があり、この事実は、相敵対する両世界が相互に衝突し、闘争しあうことを不可避とする。このことに応じて、赤軍の政治的教育の課題は、世界資本主義との闘争へと足を踏みだすことに向けた絶え間ない準備を行ない強化することだ、ということになる。こうした戦闘的気分は、計画的な政治活動によって打ち固められなければならず、この政治活動は、階級的プロレタリア・イデオロギーにもとづいて、誰にでもわかる生き生きとした形態で遂行されるなければならない」。
ここでの問題へのアプローチの仕方は、明らかに、政治的ではなく、抽象的で、本質的に不安定で危険なものである。テーゼは言う、プロレタリアートとブルジョアジーとの闘争は全世界で遂行されている。この闘争においては、われわれが攻撃されるか、さもなくば、われわれが攻撃するか、である。したがって赤軍は、階級的プロレタリア・イデオロギーにもとづいて――しかも「誰にでもわかる生き生きとした形態で」――赤軍を教育することによって、つねに準備を整えておかなければならない、と。いやはや、これこそまさに最も非現実的な共産主義的教条主義であり、前回の会議で軍事宣伝について議論したときにわれわれがみな反対した代物である! これは実に見事な計画だった。最初の半年で赤軍の農民兵士の4分の1を共産主義者にし、次の半年でさらに4分の1を、その次にさらに4分の1を、そしてこうしていって、兵営での宣伝によってわが国の階級的関係を一変させ、その政治意識において国際的・階級的プロレタリア・イデオロギーを自らの推進力にした軍隊を創造する、というものであった。しかし、これは根本的に偽りの、明らかにユートピア的なアプローチである。
昨日、われわれはみな次のように言っていたのではなかったか。わが国の軍隊の圧倒的多数が若い農民によって構成されていることを忘れてはならない、と。赤軍は、指導するプロレタリア少数派と指導される農民多数派とのブロックである。これは、ソヴィエト共和国を防衛するために必要な基本的ブロックである。なぜ防衛しなければならないのといえば、それは、ブルジョアジーと地主によって、国内外の敵によって、わが国が攻撃にさらされているからである。
労働者と農民のブロックの力はすべてこのことの自覚にもとづいている。言うまでもなく、われわれは、自らのイニシアチブで階級敵に打撃を加える綱領的権利を自らに保持している。しかし、われわれの革命的権利と、今日の情勢や明日の展望の持つ現実性とは、別物である。ある人々にとっては、これは二次的な相違であるように見えるかもしれない。だが、断言してもいいが、このことに軍隊の生死がかかっているのである。このことを理解しない者は、われわれの生きているこの時代の全体を理解していないのであり、とりわけネップとは何かを理解していないのである。テーゼの言い分をこの問題にあてはめれば、次のように言うようなものだろう。プロレタリア・イデオロギーにもとづいて――「誰にでもわかる生き生きとした形態で」――全人民を経済の社会主義的組織化の精神で教育しなければならない、と。言うはやすしだ! しかし、当時、なぜ新経済政策を導入し、分権化や市場やその他もろもろを導入したのだろうか? それは農民への譲歩だったと言われている。まさにその通りだ。もしわれわれがこの譲歩をしなかったら、ソヴィエト共和国は滅びていただろう。この経済期間は何年つづくだろうか? われわれにはわからない。2年か、3年か、5年か、10年か。いずれにせよヨーロッパに革命がやってくるまでである。だが諸君は、君たちの「軍事的世界観」なるものでこの時期を飛ばしたいのだろうか? 農民が、プロレタリア理論にもとづいて、いついかなる時でも、労働者階級の大義のために国際戦線で戦闘する準備をととのえることを、諸君は望んでいるのだろうか? このような精神で共産党員を教育すること、先進的労働者を教育すること、これはわれわれの直接的な責務である。しかし、このような精神で、労働者と農民の武装したブロックとしての軍隊を教育することができると考えることは、教条主義と政治的形而上学に陥ることを意味する。なぜなら、農民が赤軍の存在の必要性を受け入れるのは、次のような場合にかぎるからである。つまり、わが国が平和に向けて真剣に努力し最大限の譲歩をしているにもかかわらず、それでも敵がわれわれの存在を脅かしつづけているのだということを、農民自身が理解する場合である。
もちろん、情勢が変わることもありうる。すなわち、ヨーロッパで大事件が起き、われわれの軍事イニシアチブに関してまったく異なった条件が生じることもありうる。これはわれわれの綱領に完全に合致した事態であろう。しかし、何といっても、諸君は綱領を書いているのではない。教育活動の方法を練り上げる必要があるのは、現在の時期のためであって、永遠不変の時期のためではない。そしてここにおいて、現在の情勢全体とわが国の政策全体に合致した基本的で決定的なスローガンは、防衛である。
軍隊の動員解除が大規模に行なわれ、軍隊の絶え間ない縮小が行なわれている時期、ネップの時期、そして、ヨーロッパのプロレタリア運動において――退却が行なわれたのちに――準備的・組織的・教育的活動が遂行されている時期、労働者統一戦線の時期、すなわち第2インターナショナルや第2半インターナショナルとの実践的共同活動が行なわれている時期、こういう時期に、軍隊に対して「明日にはブルジョアジーがわが国に攻撃してくるかもしれない。明日にはわれわれがブルジョアジーに攻撃をかけるかもしれない」などと言うことは、ナンセンスで愚かしいことだ。それは、展望を歪め、赤軍兵士の頭をこんがらがせ、わが国の国際的な譲歩姿勢の教育的意義を低め、そして、われわれの譲歩にもかかわらずわが国が攻撃された場合に発揮される、この譲歩の巨大な教育的・革命的力をマヒさせることになるだろう。
赤軍の農民兵士への「譲歩」
この問題は、党内でも国際的規模でもとっくに解明されているはずである。すなわち、この問題は、コミンテルン第3回大会とついこの前の協議会で詳しく解明された。しかし、「統一した軍事的世界観」なるものをつくり出す課題に取り組むやいなや、われわれの国内外の活動に関してすでに確立されたすべての政治的前提条件が忘れ去られ、空虚な抽象物に依拠しはじめるのである。いわく、「国際的階級闘争」、「われわれは攻撃されるか攻撃するかだ」、「攻撃に向けた準備をしなければならない!…」。赤軍大衆の意識に対しこのような実験を試すことは、罰なしにはすまないだろう。赤軍の大衆は、わが国のすべての勤労大衆とともに次のことを知りたがっているし、そうする権利がある。なぜ、何のためにわれわれは軍隊を準備しているのか? 1930年のためではなく、今日のためではないのか? どうしてわれわれは1899年組の兵士を除隊させずに現役にとどめているのか、それはいつまでなのか? こうした問題にわれわれが明確に説得的に答えることができるのは、われわれ自身が混迷していない場合のみである。
だが、テーゼの第5項はその教条主義的誤りをいっそう深刻なものにしている。そこでは次のようにはっきりと言われている。
「赤軍は、革命戦争の状況下でそのさらなる戦闘任務を果たすだろうが、それは、帝国主義の攻撃から自国を防衛する場合か、あるいは、他国の勤労者とともに共同闘争に足を踏みだす場合のどちらかである」。
この二つの可能性は、今日の時点であたかも対等な可能性であるかのように提示されている。あれか、これか、というわけだ。諸君はサラトフの農民にこう言うつもりなのか。「われわれがベルギーのブルジョアジーを打倒するために諸君をそこに送るか、あるいは、諸君がオデッサかアルハンゲリスクに上陸した英仏派遣軍に対してサラトフ州を防衛するかの、どちらかだ」と。いったい全体、このような形で問題を立てることができるだろうか? まったく否だ!
諸君の一人一人が、連隊の前で、あるいは労働者と農民の集会の場で、ありのままの現実に接近し、次のように言うべきである。すなわち、われわれはツァーリの債務の支払いに関しある一定の条件で同意する。なぜならわれわれは戦争を避けたいからである。しかし、敵の悪意は非常に強い。われわれは今なお1899年組の兵士をしばらくの間は維持しなければならない…と。われわれが聴衆に対し、わが国の国際的状況の困難さ、われわれの譲歩の大きさを事実に即して具体的に語れば語るほど、聴衆にとって赤軍を維持する必要性がますます明らかになるし、それとともに、われわれの言葉は今日の実情をますます的確に表現したものになるだろう。
だがもしわれわれが「理論」にふけるなら、すなわち、「われわれは攻撃されるか、攻撃に出るかのどちらかだ」などと言うとすれば、われわれのコミッサール、軍政治委員、指揮官の頭を混乱させるだけであろう。なぜなら、それは現実についての偽りの図を与えており、すべてのアジテーションが偽りの調子を帯びるからである。このような抽象的言い方によっては、農民の心をとらえることはできない。これは、われわれの軍事宣伝と政治的アジテーションを頓挫させる最も確実な方法である。
哲学に手を出すこと
テーゼの第6項に移ろう。ここでは政治から戦略への、すなわち純粋に軍事的な問題の領域への移行が見られる。テーゼを起草したのは、ご存じのように、同志フルンゼである。いかなる誤解もないよう言っておかなければならないが、私は、同志フルンゼを、わが国の軍事活動家の中で最も才能のある一人とみなしており、どんな実践的・戦略的仕事も彼に託して不安になったことは一度としてない。しかし、今問題になっているのは、傑出した司令官としての同志フルンゼの仕事のことではなく、軍事哲学を創り出そうとする彼の試みのことである。
故プレハーノフは、晩年、政治において多くの誤りを犯したが、周知のように、こと哲学の問題に関してはうるさかった。彼はかつてこう言ったことがある。「マルクス主義者だからといって哲学に手を出す必要はない。だが、すでに哲学に手を出していて、しかも大っぴらにやっている場合には、物事を混乱させるのだけはやめてもらいたい」と。これは彼のお気にいりの決まり文句であった。彼は、誰かが哲学的偏向を犯しているのを見つけたら、猟犬のように襲いかかった。ある時、誰かが彼にこう言った。「ゲオルギー・ヴァレンチノフ
[プレハーノフ]、どうして君はそんなに激しく人に襲いかかるんだ? その人にはおそらく、哲学を学ぶ時間がなかっただけだろう」。彼はこう答えた。「だったら黙っておけばいい。余計なことには手を出さぬことだ。なぜなら、このようなおしゃべりから最も有害な政治的結論が生じてくるのだから」。
プレハーノフは、ピョートル・ストルーヴェ(5)が政治的にマルクス主義から離れるずっと前から、彼の哲学的混乱を見抜いて、それを指摘していた。
ここでわれわれが前にしているのは、言葉の真の意味での哲学ではなく、軍事哲学の試みである。今時こんなものに手を出さなければならない理由はいささかもない。一般的な方向設定なら、すでにわが国には存在している。もちろん、軍事問題で経験主義者としてふるまい、経験にもとづいて修正し改善することは可能である。そして私自身、軍隊の組織化の領域で経験主義者としてふるまった。もし同志フルンゼが、戦略の領域で経験主義者にとどまっていたならば、私としては何も言うことはなかっただろう。だが彼は一般化に取り組み、戦略に関する哲学の領域に足を踏みいれ、そして私見によれば、足を踏みはずした。戦略に関しては彼にはしっかりとした根があるが、他の分野に手を出せば物事を混乱させかねない。
まさに第6項はこう述べている。
「これまで、われわれの革命は、ブルジョア国家の軍隊で用いられてきたのと基本的に同じ軍事的戦術と戦略の方法でもって闘争を遂行せざるをえなかった」。
この章句をよく覚えておいていただきたい。さらに続けてこう述べられている。
「しかし、革命によって引き起こされた、赤軍の性格と兵力における変化が、その内部における指導的役割をプロレタリア分子に引き渡し、戦術と戦略の全般的な手法に質的変化をもたらした」。
これは非常に重々しく曖昧な調子で書かれている。だが、さらに先を見てみよう。
第7項はこう述べている。
「われわれの内戦は主として機動戦的性格をもって遂行された。これは、純粋に客観的な諸条件(戦域が巨大であること、各部隊の人員が相対的に小さかったこと、等々)の結果であるだけでなく、赤軍の内的特質、その革命的精神、戦闘的情熱の結果でもあり、それは、赤軍の中で指導的役割を果たしているプロレタリア分子の階級的本質の現われである」。
われわれがついさっき聞いたところでは、わが国にこれまで存在したのは基本的に「ブルジョア的」戦略であった。ところが今ここで言われているところによると、われわれの内戦が機動戦として遂行されたのは、プロレタリアートの階級的本質の結果だそうだ。まったく辻褄が合っていないが、これも偶然ではない。戦争の機動戦的性格が物質的諸条件(領土の広さ、軍隊の密集性の弱さ)によって規定されているだけでなく、赤軍の「内的」特質そのものによっても規定されているなどという言い分は、徹頭徹尾誤った主張である。このような主張にはいかなる根拠もないし、ありえない。そこにはほら吹きの匂いがする。
われわれの機動戦の特徴
まず、われわれの機動戦について分析しておかなければならない。機動戦を最初に行なったのは敵側であって、わが方ではなかった。これはいかんせん歴史的事実である。われわれは敵から機動戦を学んだのである。この点についてすでに私は、軍事理論に関する論文の中で指摘しておいた。機動戦への熱中はとくに急襲攻撃
[騎兵隊や飛行部隊によって敵の背後に回って攻撃をかけること]から始まったが、またしても、それを最初に始めたのは白軍だった。彼らは最初のうちそれをわれわれよりもうまく遂行した。われわれは彼らから機動戦を学んだのである。このことをまず最初に言っておかなければならない。誰もこの事実を否定できないはずである。これは、彼らの軍隊がわが方よりも騎兵隊中心であったこと、わが方よりも現役将校の数が多かったことに由来している。彼らには最初から騎兵が多かった(コサック!)。それゆえ、彼らは機動戦により適していたのである。同時に、彼らのところには、農民大衆がより少なかった。しかも、彼らのところにいた農民大衆は、政治的理由から、わが方よりもはるかに不安定だった。このことは、彼らにとって、機動戦を不可避ならしめた。彼らは当然、規模における劣勢を、スピード(機動性)で取りかえそうとした。われわれは彼らから学んだ。これは否定しようのない事実である。したがって、もし機動戦がプロレタリアートの革命的本質に由来するならば、いったい諸君は白軍の戦略をどうやって説明するのか? 諸君の主張はとんでもない誤りだ!ただし、次のように言うことはできる。言葉の本来の意味での機動戦は、革命陣営においても、反革命陣営においても、農民にはあまり向かない、と。というのは、本来、戦争の農民的形態は、農民だけで放っておかれる場合には、パルチザン戦争(ゲリラ戦)だからである(それはちょうど、宗教において農民が小規模の宗派の域を出ないのと同じである。彼らは教会を作ることができない)。農民は、自分たちの力だけで国家を形成することはできない。このことをわれわれは、ウクライナのマフノ主義の実例を通じて、とりわけはっきりと観察した。農民を国家や軍隊の水準にまで引き上げるためには、農民は何らかの勢力の指導下に入らなければならない。白軍の場合は、それは貴族、地主、ブルジョアジ将校であり、ブルジョア将校は地主将校から何事かを学んだ。彼らは農民の喉元をつかんで、将校であふれた中央集権的暴力装置のもとに置き、そして機動戦を開始したのである。われわれの場合、指導的役割を演じたのは労働者であり、彼らは農民を引き入れ、組織し、前進させた。
機動戦(パルチザン戦争ではなく!)が内戦において中央集権的な軍事機構を前提としているかぎり、機動戦はどちらの陣営においても特有のものであった。だから、機動戦がプロレタリアートの革命的本質に由来しているなどとは言えないのである。このような主張は誤りである。機動戦は、国の規模、部隊の人員数、軍隊それ自身の直面している客観的課題に由来するのであって、けっしてプロレタリアートの革命的本質に由来するのではない。
では、過去におけるわれわれの機動戦に何か特徴があったのだろうか? 基本的な特徴、それは、悲しいかな、無定形さである…。同志諸君、われわれには自分たちの過去を誇る多くの理由がある。だが、それを無批判的に理想化してはならない。われわれに必要なのは学ぶことであり、いっそう前進することである。そのために必要なのは、批判的に評価することであって、賛美歌を歌うことではない。
「理論」ではなく、カードルを!
わが国では、内戦期における機動戦に対する批判的検討も批判的評価もまだほとんど始まっていない。だが、それなしにわれわれは前進しえない。
われわれには個々のすばらしい構想があったし、機動戦の輝かしい作戦があった。それは多くの勝利を可能にしたが、総じてわれわれの戦略的路線は無定形さという特徴を持っていた。われわれは嵐のごとく断固として攻勢に出、大胆に機動戦を行なったが、その結果、何百ヴェルスタも後退することもしばしばあった。このことを、プロレタリアートの革命的性格とか戦闘的精神とかで説明することは、無駄話にふけることを意味する。先進的労働者と自覚的農民の革命的性格は、彼らの献身性、そのヒロイズムのうちに表現されるのであって、どんな作戦やどんな戦略であれそうである。
われわれの機動戦略の不安定さと無定形さは、われわれの戦闘的情熱が全体として十分に組織されていなかったことで説明される。つまり、わが方には本格的で堅固なカードルが不足していたのである。ここにこそ問題を解く鍵がある。わが方の下級指揮官はあまりにも脆弱で、中級指揮官は十分に経験を積んでいなかった。それゆえ、さまざまな構想――しばしば立派なものだった――が実行の過程で挫折し、砕けちり、結果として大きく後退することとなった。ほとんどすべての戦線で、われわれは、2度にわたって、時には3度にもわたって、戦争を行なった。なぜか? カードルの量的・質的な不十分さのゆえである。
戦争とは常に多くの未知数を抱えた方程式である。それ以外ではありえない。もし戦争のすべての要素があらかじめわかっていたら、そもそも戦争など起こりえなかっただろう。あらかじめ結果が見えているのだったら、一方の陣営は他方の陣営に戦闘することなく屈服するだろう。しかし、軍事技術の課題は、戦争という方程式における未知数の数をできるだけ少なくすることにある。そしてこれを達成することができるのは、構想と実行とをできるだけ照応させることによってのみである。どういう意味か? それはつまり、さまざまな手段を駆使することで時間と空間との障害を克服することによって目的を達成するような、そういう部隊、そういう指揮官を持つことである。言いかえれば、安定していて、それでいて柔軟で、中央集権的で、同時に弾力性のある指揮機構、あらゆる必要な技術を習得し、それを下部に伝えることのできる、そういう指揮機構を持つことである。つまりは優秀なカードルが必要だということだ。
この問題は革命的機動戦についておしゃべりをすることによっては解決されない。わが方に機動戦は事欠かなかった。機動戦を理想化する試みについてはいっそう事欠かなかったし、今なおそうだ。われわれの指揮官の中に、内戦の終結を何か残念に思う気持ちが見られたが、これこそまさに機動戦の過剰が原因している、と言うことができる。それは一種の機動戦中毒なのである。彼らは機動戦のことばかり語り、急襲攻撃にばかりうつつを抜かしていた。では、われわれに不足していたのは何か? それは機動戦そのものにおける安定性であり、それを保証するのは、機動戦軍の優秀な指揮官だけである。当面する学習の時期においては、すべての注意をこのことに向けなければならない。機動戦の図式的な理想化や、あたかも機動戦がプロレタリアートの階級的本質から出てくるかのような主張は、われわれを前進させるどころか、足踏みさせ、ひいては後退さえ引き起こすものである。
「内戦一般」という抽象化の危険性
テーゼの第8項のうちに表現されている思想には、危険性が含まれているだけでなく、われわれにとってよりむしろ、他国の革命党にとっての危険性が含まれている。忘れてはならないが、現在、他国の革命党はわれわれから学んでおり、われわれが、革命戦争を含む革命の経験を一般化することに取り組むとき、モスクワやハリコフのことを念頭に置くだけでなく、西方にも目を向け、西方に誤解の種を播かぬよう注意しなければならない。だがテーゼの第8項はこう述べている。
「将来の革命戦争は、一連の特殊性を帯びるだろうが、その特殊性は革命戦争をいっそう内戦タイプに近づけるだろう。このことと結びついて、この戦争の性格は疑いもなく機動戦的なものになるだろう。それゆえ、われわれの指揮官は、主として、機動戦と運動戦の理念にもとづいて教育されなければならない。また赤軍全体も、迅速かつ計画的に機動戦を遂行する技術を学び訓練されなければならない」。
革命戦争という言葉がここで意味しているのは、労働者国家とブルジョア国家との戦争のことであり、純粋な内戦、すなわち同一国家内のプロレタリアートとブルジョアとの戦争とは区別されている。第8項で述べられている思想はつまり、将来の革命戦争はますます内戦タイプに近づき、したがって機動戦的性格を持つようになる、ということである。しかし、ここで言われている内戦とはいかなるものか? 明らかに、わが国の内戦である。すなわち、とてつもなく広い空間を持ち、人口密度が低く、交通の便も悪い、といったわが国の具体的な条件のもとで繰り広げられた内戦である。しかし、不幸なことに、このテーゼは、あたかも機動戦が、戦域の広さと軍隊の規模との照応関係からではなく、プロレタリアートの階級的本質なるものから生じてくるかのように前提したうえで、内戦のある種の抽象的タイプを設定している。しかし、わが国の内戦をのぞけば、われわれが知っている、かなり大きな規模を持った内戦の実例は一つしかない。それは、フランスのパリ・コミューンである! そこでの直接的な課題は、要塞と化したパリの拠点を防衛することであり、それを通じてはじめてその後の攻撃が可能であった。軍事的観点から見た場合のコミューンとは何か? それは要塞と化したパリ地区の防衛機構である。防衛はより能動的で柔軟なものになりえたし、そうするべきであった。だが、何としてでもパリを防衛しなければならなかった。機動戦の名のもとにパリを犠牲にすることは、革命を根底から破壊することを意味しただろう。コミューンの人々は結局パリを防衛することができなかった。反革命がパリを制圧し、数万の労働者を虐殺した。だが、いったいどうして、ドンやクバンやシベリアの大草原での経験にもとづいて、パリ労働者に向かって、諸君の階級的本質から機動戦が出てくる、などと言うことができるだろうか? まったくのところ、軽率になされたこの種の一般化は冗談ではすまない!
人口密度が高く、巨大な人工密集地がいくつも存在し、白衛派のカードルがあらかじめ準備されている、高度に発達した工業諸国においては、内戦はおそらく――そして多くの場合においては確実に――はるかに機動性が少なく、はるかに密集した性格をとるだろう。すなわちそれは、陣地戦に似たものとなるだろう。一般的に言うならば、絶対的な陣地戦というのは問題になりえない。とりわけ内戦においてはそうである。ここで問題になっているのは、機動戦の要素と陣地戦の要素との相互関係である。そして、この点で確信を持って言えることは、内戦におけるわが国のウルトラ機動戦的戦略においてさえ、陣地戦的要素が存在したし、場合によっては重要や役割を果たしたことである。だが、西方の内戦においては、陣地戦の要素は、わが国の内戦におけるよりもはるかに大きな位置を占めるだろう。このことにいかなる疑問の余地もない。誰かがこれを否定するというのならやってみるがよい。西方の内戦においては、プロレタリアートは、その数のおかげで、わが国におけるよりも大きく決定的な役割を果たすだろう。このことだけからしても、機動戦をプロレタリアートの階級的本質に結びつけることが誤りであるのは明らかである。
ハンガリーは、そのソヴィエト期において、退却したり機動したりして軍隊を創設するだけの広い領土を有していなかった。それゆえに革命の敵に敗北することになったのである。(ヴォロシーロフ「別のやり方で機動戦をすることもできた」)。もちろん、それはいい観点であり、「別のやり方」で機動戦をすることもできだろう。すなわち、特定の拠点を防衛するという枠内で機動戦をすることである。しかし、その場合にはすでに、陣地戦が機動戦よりも優位に立っているのである。機動戦は、内戦そのものにおけるプロレタリア的拠点である特定の地域を防衛する際には、当分の間、2次的な役割しか果たさないだろう。われわれが内戦における機動戦について語るとき、念頭に置いているのはロシア的イメージである。すなわち、自己の兵力を温存し、かつ、敵の兵力に打撃を与える準備をととのえるために、広大な空間や諸都市を敵の手に譲り渡すことができるような、そういうイメージである。コミューン期におけるフランスは、パリを失うことが革命の破滅を意味するような状況下にあった。ソヴィエト・ハンガリーにおいては、闘争舞台はもう少し広かったが、それでもやはり非常に限られていた。
しかし、わが国においても、機動戦の舞台が無限であったわけではない。しばしば見逃され、忘れられていることだが、反革命は、革命の死活にかかわる拠点が存在しない辺境から攻撃をかけていた。それゆえ、作戦領域が恐ろしく広大で、とてつもない退却が行なわれても、ソヴィエト共和国にとって、致命的な危険性も致命的な結果も生じなかった。白軍がペトログラードやトゥーラに接近するにつれ、わが方の拠点は、われわれにとって間違いなく死活にかかわる重要性を帯びた。ペトログラードやトゥーラやモスクワを放棄して、その後でヴォルガや北カフカースに「機動戦」を展開する、などということはできない相談であった。もちろん、モスクワの拠点の防衛戦は(1919年に敵がさらなる成功を勝ち取っていたとした場合のことだが)、必ずしも塹壕戦のような戦線の停滞をもたらすとはかぎらない。しかし、領土を死守し個々の平方ヴェルスタを防衛する必要性は、はるかに重要な至上命令として、われわれの前に提起されることになっただろう。つまり、陣地戦の要素が、機動戦の要素を犠牲にして、はなはだしく大きくなる、ということである。
テーゼの第10項は、陣地戦についても認めている。だがここでも、神聖なる不安をもって次のように追加されている。いわく、「陣地戦的方法を基本的な闘争形態とみなしてそれに熱中することは」、われわれにとってはきわめて危険である、と。いったいどこからこんな話が出てくるのか? われわれの同志たちがいったいどこで陣地戦への熱中という危険を犯したのか? たしかにわれわれの間には中毒が見られる。だが、それは機動戦への中毒であって、陣地戦への中毒では断じてない…。もしかしたら、われわれの軍事技術局のことがここでは念頭に置かれているのではあるまいか? というのは、軍事技術局はこの間、あまりにも多くの要塞を建設したからである。さもなければ、私にはこのような留保の意味がわからない。
フォッシュ元帥の…プロレタリア戦略?
第11項はこうなっている。
「赤軍の戦術は、大胆で精力的に遂行される攻撃作戦の精神をもった能動性に満ちたものであったし、今後もそうであろう。これは、労農軍の階級的本質に由来するものであり(またしても!)、同時に軍事技術の要請とも合致している」。
「合致している」! 何とも都合のいい話ではないか! プロレタリアートの階級的本質に由来する機動戦は、他の階級によって作られた軍事技術の要請とちょうど合致しているというわけだ! さらにテーゼは言う。「攻撃は、他の条件が同じならば、つねに防衛よりも有利である」。他の条件が同じならば、その通りだ。あたりまえの話だ。しかし、これで全部ではない。続きを読もう。
「なぜなら、最初に攻撃する者は、こちら側の意志が相手側より強力であることを示すことによって、相手の心理に影響を及ぼすからである(1921年のフランスの野戦操典より)」。
ごらんのように、戦略は攻撃的なものでなければならない、なぜなら、第1に、それはプロレタリアートの階級的本質に由来するからであり、第2に、1921年のフランスの野戦操典に合致するからである。(笑い。ヴォロシーロフ「ちっともおかしくなんかない」)。そうだ、おかしくない。尊敬すべき同志ヴォロシーロフよ、これはちょっとしたことを私に思い出させる。そう、1848年のヴルテンベルクの民主主義者の言ったセリフだ。彼らはこう言った。われわれは共和制を欲している。ただ、われわれの立派な公爵を頭に戴くだけだ…と。ここで言われているのはこうだ。われわれは真のプロレタリア戦略を欲している。ただ、フォッシュ元帥(6)
[右の写真]の承認を受けるだけだ、と。たしかに、その方が少しは確実だ。共和制、ただし頭には公爵。さぞかし立派な共和制になるだろう!(笑い)。もちろん、ここには、同志ヴォロシーロフの言うとおり、おかしなことなんぞ何もない。だが、わが軍の理論的名誉のためには、こんなものはできるだけ早急に取りのぞいた方がいいだろう。それはさておき、これもまた根本的に誤っている。まず第1に、この命題――フォッシュのだろうが、その他誰のだろうが(実を言うと私は、フランスの新しい野戦操典を編集したのが誰なのか知らない)――は現在、他ならぬフランスの軍事文献で最も激しい攻撃にさらされている。もちろん、攻撃は防衛よりも有利である。攻撃なしには勝利もない。しかし、最初に攻撃する者が相手の心理に影響を及ぼすなどと言うことは、形式主義的攻撃主義に陥ることを意味する。たしかに、攻撃なしには勝利はない。攻撃は、究極的には、防衛よりも有利である。しかし、攻撃は必ずしも最初でなければならないというわけではない。攻撃は、状況が求める場合に行なわれるべきである。
最近、X・Yというイニシャルを持つフランス人の小冊子『軍事技術の原理について』が出版された。ドイツの軍事専門家は、この著作を戦後フランスで出た最も注目に値する文献であると説明している。この著作の筆者は、同志フルンゼによって引用された新しいフランス野戦操典の命題に、断固たる調子で反対している。彼が取り上げている事例は、1914年にフランスが「最初に」攻撃したロートリンゲン
[ロレーヌ]戦での経験である。ドイツ軍はこの地に陣地を築き、攻撃してくる敵を落ち着いて迎え撃った。このとき道徳的優位性は全面的に、先を見通して準備万端ととのえていた防衛側にあった。それは攻撃側にとって直接的な罠だった。戦争の最終局面においてドイツは、1918年の夏期攻勢を自らのイニシアチブで開始した。英仏軍は、攻撃に持ちこたえ、敵を疲弊させて、今度は、粘り強い防衛から反撃に転じた。これは結局、ホーエンツォレルン軍にとって致命的となった。攻撃なしには勝利はない。しかし、勝利を収めるのは、攻撃する必要があるときに攻撃する者であって、最初に攻撃する者ではない。
もし具体的に考えるなら……
それにしても、もうそろそろ「攻撃一般」についておしゃべりするのをやめるときではなかろうか? 多くの者は、内戦のさまざまな作戦の中から、われわれが見事に攻撃を成功させた一部分だけを頭の中で抜き出し、そしてこの経験にもとづいて、それぞれ自己流にわれわれの将来の攻撃像を描いてみせる。だがもっと具体的に思考するすべを覚えなければならない。
われわれを戦争へと引き込む可能性のある国々について、われわれは承知している。したがって、戦争の舞台となりうる範囲もわかっている。戦争は兵力の動員、集中、展開から始まる。それゆえ、われわれの戦略的予想においては、準備作戦から、何よりも動員から始めなければならない。最初に攻撃を開始するのは誰か? 明らかに、敵国の中で、攻撃のための十分な力をすでに集めている者である。われわれは動員力に関して必要な優位性を有しているだろうか? 残念ながら、有していない。帝国主義諸国の技術力からして、われわれのありうる敵は、技術に関して一定の優位性を持っている――軍事面だけでなく、輸送面でも。この点からして、動員における優位性は敵側にある。ここからいかなる結論が生じるだろうか? それはつまり、われわれの戦略計画―抽象的なそれではなく、具体的な状況と具体的な諸条件を十分ふまえたそれ――は、戦争の最初の時期においては攻撃ではなく、防衛を旨としなければならない、ということである。その目的は、動員を行なうための時間をかせぐことである。したがって、われわれは意識的に、敵側に最初に攻撃させるのである。だがこれは、敵側に何らかの「道徳的」優位性を与えることにはけっしてならない。反対である。広い国土と人口がわが方にあるかぎり、われわれはあわてることなく、確信を持って、粘り強い防衛を組織し、動員を確保するだろう。そして、その動員によって十分な兵力が整った作戦地帯を冷静に見定め、その地点から反撃に移るだろう。
フランスの野戦操典の定式は明らかに誤りである。それは、明らかに、テンポを稼ぐという観点から、最初に攻撃する必要性について語っている。戦争という血ぬられたゲームにおいて、テンポがきわめて大切なことは言うまでもない。チェスの指し手は、64の目を持つチェス盤においてテンポが何を意味するか知っている。だが、テンポを稼ぐのは最初に王手をかける者であると考えるのは、激しやすい未熟な指し手だけである。それどころかむしろ、最初に王手をかけることはしばしば、テンポを失う確実な道なのである。たとえば、われわれが最初に攻撃に移ったとしよう。もしその攻撃が十分な動員に支えられておらず、退却することを余儀なくされ、その際、自国の動員を混乱させたとしたら、もちろん、われわれはテンポを失い、おそらく、絶望的状況にさえ陥るだろう。反対に、あらかじめ退却する可能性がわれわれの計画に入っており、この計画が上級指揮官にはっきりと理解され、彼らが明日という日に確信を持っているとしたら、そして、この確信が下部にまで浸透していて、この下部が、「常に最初に攻撃しなければならない」などという偏見に毒されていないとしたら、その時には、テンポを取り返し勝利を収めるあらゆるチャンスがわれわれにはあることだろう。
第14項では、緊要の課題は、われわれの操典・軍規・指令を、内戦の経験をふまえて見直し、改訂することである、と述べられている。まったくその通りだ。しかし、これはすでに3年も前からわれわれによって言われてきたことであって、大会決定で確定され、必要な注釈をつけて出版され、操典の見直し機関も設置された。残念ながら、作業の進行は多少遅れている。スピードアップをはからなければならない。しかし、とっくにしかるべき機関が設置されているにもかかわらず、新しい「軍事理論」の名のもとに、われわれに対し操典の見直しの必要性を云々することは、文字通り、とっくに開いているドアから無意味に押し入るようなものである。
テーゼの最後に実践的結論が書かれているが、それはおおむね正しい。しかしそれは、それまでの前提から生じたものではまったくないし、かてて加えて、不十分である。なぜなら、中心的課題を指示していないからである。すなわち、下級指揮官の教育を通じて、軍の安定性と熟練性を保証することである。われわれに必要なのは、分隊長だ! 事態の発展がいかなる戦略をわれわれに押しつけようとも―機動戦であろうと、陣地戦であろうと、あるいは両者の複合であろうと―作戦の基本的要素は軍の各部隊であり、その基本的中核は分隊長を頭に戴いた各分隊である。これこそがレンガであり、このレンガから――それがちゃんと焼いて作られている場合には――、どんな建物でも建設することができるのである。
「新しき」をたずねて古きを知る
同志フルンゼのテーゼを読み通したあと、私はスヴォローフ(7)
[左の肖像画]の『勝利の科学』を読み直した。もちろん、この表題――「科学」――は不正確である。だが彼はこの単語の意味をごく単純に解している。つまり、学びうるものという意味で理解している。まさにこの意味で、兵士が鞭で打たれるとき、「これがお前の科学だ[ロシア語で「思い知ったか」の意味]」と言われるのである。プレーヴォ・ド・リュミアン中尉は、スヴォローフの指示のもと、戦争における七つの法則を書いた。以下がそれだ。1、つねに攻勢的に行動せよ。
2、行軍は迅速に、攻撃は一気に、銃剣を重視せよ。
3、必要なのは、方法主義ではなく、正しい軍事的観点である。
4、すべての権力を総司令官へ。
5、敵を攻撃し粉砕するのは戦場においてである。すなわち、要塞地帯でぐずぐずせず、敵陣に切り込め。
6、包囲に時間をとるな。最良の攻撃は公然たる突撃である。
7、各地点の占拠に兵力を分散させるな。敵が迂回したら、なおのことよい。敵は自ら敗北へと突き進むだろう。
これはいったい何か? もしかしたらプロレタリア軍事理論か?! これこそまさに、「プロレタリアートの階級的本質」と内戦の経験に由来する戦略であり、ただ少し簡潔に、よりうまく叙述されただけではないのか! スヴォローフはもちろん攻撃に賛成である。だが彼は言う、方法主義は禁物であり、正しい軍事的観点が必要であると…。しかしながら、何といっても、スヴォローフは、貴族将校の指揮のもとにある農奴制軍隊を戦闘におもむかせた人物である。したがって、「プロレタリアートの攻勢理論」はブルジョア的・帝国主義的フランスの野戦操典と合致するだけでなく、スヴォローフの貴族的・農奴的ロシアの軍事「科学」とも合致するということになる!
だからといって、一部の衒学者が言うように「戦争の法則は永遠不変」である、ということにはけっしてならない。ここで問題になっているのは、科学的な意味での法則ではまったくなく、実践的手法なのである。いくつかのきわめて単純な一般化(たとえば「攻撃するときは一気に」といった類の助言)は、生きとし生けるものすべての闘争にあてはまる。「目測、迅速、突撃」といったことは、組織された武装勢力間の衝突の際に必要であるだけでなく、2人の少年のケンカの際にも必要だし、犬が兎を狩るときにさえ必要である。しかし、スヴォローフの七つの戒律が戦争の永遠法則ではないとしたら、プロレタリア戦術の最新の原理に対してはなおさら、永遠の法則の称号を与えることはできないだろう。
では、赤軍とスヴォローフの軍隊との間に違いはないのか? 違いはある。しかも巨大な、測り知れないほどの違いだ。あちらにあるのは農奴軍であり、暗愚の軍隊である。こちらにあるのは革命軍であり、ますます成長する意識性をもった軍隊である。目的も正反対である。われわれは、スヴォローフが擁護したすべてのものを破壊した。しかし、こうした違いは軍事理論的なものではなく、階級的政治的世界観の違いである。スヴォローフは、まさにあの著作の中で、警句の形で、自らの社会的世界観をも表現している。彼がこのような世界観を持っていなかったとしたら、司令官にもなっていなかっただろう。彼のすべての心理的技術は、農奴兵士という、意のままになる手段からいかにして最大限のものを引き出すか、という点にあった。その社会理論においてスヴォローフは、二つの極に依拠していた。鞭刑と「神はわれわれとともに」、である。まさにこの分野でわれわれが依拠しているのは、共産党の綱領とソヴィエト憲法である。
この点でわれわれは多少なりとも前進を遂げた。そしてそれは小さくはない。しかし、この分野でハリコフのテーゼは、何らかの新しいものをほとんど提示してくれていない。しかり、われわれもまた、われわれの社会的世界観を新しくする必要性を感じていない。戦略の問題に関して言えば、ここですでに見たように、新しいプロレタリア理論を提示した人々が、スヴォローフの規則を書き写すことに終わったこと、しかもその際、誤って書き写していたこと、このことに問題はつきるのである。
2、結語
理論(ドクトリン)、観点、一元論的見方
まず何よりも、相手側が「機動的」退却をした時に放棄した陣地を占拠しなければならない。それが最初の課題だ…。
討論の中で同志フルンゼは、自分の定式のうちに、不正確さ、不明確さ、意を尽くさぬ点があることを認めた。問題になっているのが論文の下書きだったとしたら、言うまでもなく、この程度の欠陥があるのはごく当然のことである。だが「諸君に理論はない、私にはある」と言うとき――同志フルンゼはこのように問題を立てている(いや、立てていた?)――、事態はまったく異なってくる。何といっても、第10回党大会において、同志フルンゼと同志グーセフは、軍事理論に関心を払っていないという理由で私を厳しく非難し、しかも、彼らの言い分によれば、このことのうちに問題の全核心があるというのだから。彼らはその時、エンゲルスの論文を引き合いに出して(十分な根拠もなしに――この点については別の機会に論じる)私の頭をひっぱたいた。いったい何をやってるんだ、エンゲルスは軍事問題の理論家として発言していたのに、今のところわれわれは経験的に戦っているではないか、と。よろしい、では諸君の「理論」とやらを見せてくれたまえ、批判者の同志諸君。ただし慎重にお願いしたい。他に武器がなければ火箸で戦うことも可能だが、火箸で理論を書くことはできないからだ。その場合にはもっと別の手段が必要になる。
しかし、いったい何だってこの問題に急いで取り組まなければらないのか? 事態は切羽詰まったものではない。たしかに、同志フルンゼが非常に微妙な言い回しで示唆しているように、日露戦争後、ツァーリからの至上命令によって、軍事理論に関するすべての議論が中止され、操典の研究に取り組まなければならなくなった。これはあまり愉快でないアナロジーに見える。同志フルンゼが軍事理論の問題に取り組むよう提唱しているのに、私は、一面的な解釈談義を中止して操典の研究に取り組むよう「命令」している、というわけだ。
だが、実際には、この比較は非常に恣意的であり、その切っ先はむしろ同志フルンゼに向けられている。その理由はこうだ。日露戦争後、軍事理論について議論していたロシアの将校たちの課題と目的は何だったろうか? 彼らは軍の中の批判的分子だった。彼らは、軍の体制に不満を持っており、それを変えたいと思っていた。これは将校の中の進歩的部分であり、その後、グチコフ(8) とミリュコーフ(9)の周囲に結集した人々であり、黒百人組が「トルコ人の小僧」と呼んだ人々である。したがって、軍事理論の旗は、彼らにとって、過去に対する批判の旗であり、大規模な軍事改革のための綱領だったのである。彼らは、可能なかぎりわが国の軍隊をヨーロッパ化したかったのであり、この方向性に対する支えとして国会に頼ろうとさえした。ところが、彼らは沈黙するよう命令された。批判するなかれ、アジア的専制体制を掘りくずすなかれ、と。
では、われわれの場合、問題はどうなっているだろうか? 同志フルンゼの軍事理論はいかなる性格のものだろうか? それは、過去の無批判的な理想化である。軍事理論の唱道者たちは、内戦の一時期を特徴づけるものでしかないものを、プロレタリアートの階級的本質から導きだし、それを永遠不滅のものにしようとしている。同志フルンゼは、その演説において、どの点で私を非難したか? 過去の栄光が持つ魅惑を奪いとった点である。彼は、過去を理想化することを、赤軍の道徳的教育にとって必要不可欠な要素とみなしている。だが、ニコライがその至上命令――軍事理論についての議論を中止し、過去の栄光を掘りくずすな――によって吹き込んだ考えこそ、まさにこうした観点に立脚していたのである。それに対してわれわれは諸君にこう言う。どうか、帽子――たとえ革命的であっても――で敵を投げ飛ばす
[大言壮語すること]ようなこけ脅しはしないで、敵から軍事問題のイロハを学びとろう、と。これこそが基本的な相違点であり、そして、これこそが同志フルンゼの理解したがらない点である。他方、同志ミーニンは、新しい用語でわれわれの語彙を豊富にしてくれた。われわれが統一軍事理論を拒否し、同志フルンゼが軍事的世界観を放棄する姿勢を見せているのに対し、同志ミーニンは、軍事問題に対する「一元論的見方」なるものを提唱している。これはなかなか立派に聞こえる。一元論的見方――これは諸君の「理論」より悪くない。しかし、いったいこの言葉で何を言おうとしているのか? なぜ軍隊の枠内で、見方、手法、方法の統一が必要なのか? もちろん、そんなことはわかりきったことだ。軍隊は、めいめいが勝手に行動するような秩序ないし無秩序と両立することはできない。このことは、いちいち説明するまでもないことである。それでは、すべて意見が一致したということか? 方法の統一は必要である。そう言いたければ、「理論」の統一は必要である。あたりまえだ! たとえば、同志カシーリンも次のように提唱している。国家は、一個の理論において戦争に対する自らの見方を確定しなければならない、と。あたかも、すべての議論は言葉をめぐるものであるかのようだ。だが、実際にはそうではない。議論の核心はもっと深く、諸概念がもつれあっている。
諸君は、結局のところ、軍事理論という言葉をどのように解しているのか? これは、何のために戦うのかという問題に対する答えだろうか、それとも、どのように戦うのかという問題に対する答えだろうか、それとも最後に、この二つの問題を合わせたものに対する答えだろうか? (カシーリン「両方合わせたものだ」)。まさに問題はそこにある。つまり、諸君にとって、軍事理論が「戦争の意味と目的」に対する何らかの答えとして必要だということ、これがそもそも問題なのだ。諸君はここで完全にブルジョア国家の囚人になっている。ブルジョア国家は強奪と抑圧のために戦争を遂行してきたし、今も遂行している。それゆえ、ブルジョア国家は、戦争の実際の目的を、特別の立派な「民族的軍事理論」で理由づけざるをえない。こうした軍事理論の課題は、人民大衆を欺くこと、彼らの意識を眠らせ、幻惑することである。
ブルジョア・イデオロギーの囚人
イギリスの「理論」は、全世界とりわけ植民地におけるアングロ・サクソンの文明的役割、というやつである。文化の最高の利益は、海洋における大英帝国の支配を必要とする。そこからして、イギリスの海軍は、それに次いで最も強力な二つの国の海軍を合わせたよりも強力でなければならない。この軍事理論の背後にはブルジョアジーの階級的利益が隠されている。われわれの場合も、何のために何ゆえ戦わなければならないのかを説明するのに、特別の軍事理論をつくらなければならないのだろうか? いやけっして。われわれには共産党の綱領がある。われわれにはソヴィエト憲法がある。われわれには土地に関する立法がある。これこそがわれわれの答えだ。それ以上何が必要だというのか? われわれの革命が与えたかくも力強い答えに、多少なりとも匹敵する答えを持つ国がどこにあるというのか! われわれの革命は支配者たる有産階級を打倒し、権力を勤労者に委ね、そして言った。この権力を守ろう、自分たちを守ろう、と。これこそが、諸君にとっての戦争の目的である。
革命がそれ自身の必要にもとづいてわれわれの中から軍隊を創設し、「軍事を学ぶべくして学び、戦うべくして戦え」と命じているというのに、諸君は、われわれの軍隊が何らかの軍事理論にかこつけて目的を設定するよう求めている。われわれは3年以上も戦ってきた。ようやく余裕が出てきたときになって、われわれは次のような深遠な問題を自らに提起したわけだ。すなわち、何のために戦うのかを説明してくれる軍事理論はいったいどこにあるのか、と。だが、これはまったくナンセンスな衒学主義だ!
次に第2の問題がある。どのように戦うのか、である。そしてこう言われる。方法の統一が必要だ、と。まったくその通りだ。だが、われわれはいったい何のために、パルチザン主義と闘い、地域セクト主義と闘い、我流戦法と闘ってきたのか。何のために、共和国革命軍事会議によって指導された中央集権的軍事機構をつくり出してきたのか? 何のために、操典や訓令を書き、軍事法廷を実施してきたのか? 何度となくわれわれは(そして個人的に私も)、まずい方法の統一は、ばらばらな最良の方法よりもよい、ということを説明し証明してきた。
私はこのことを、ツァーリツィンでもパルチザン主義との闘争において証明しなければならなかった。ツァーリツィンは同志ミーニンの故郷であり、彼は今では、各自が勝手な行動をするのを嫌っている。統一軍事理論の現在の支持者たちの幾人かは、当時、よい命令は前線で実行するが、間違いだと自分たちがみなす命令は実行しないと宣言していた。当時、パルチザン上がりで、組織の統一と方法の統一の意義について理解しようとしない、独立指向の師団長や旅団長に対し、われわれは厳しい態度で臨まざるをえなかった。赤軍の存在する全期間にわたってわれわれが費やしてきたすべての努力はまさに、最大限の計画性、最大限の統一性、最大限の調和性を保証することに向けられていたと言っても過言ではない。何といっても、われわれのあらゆる操典、部隊編制、法令、指令、回状、指示、監督委員会、軍事法廷はこのことに寄与してきたし、今も寄与している。今でも、共和国革命軍事会議と各軍管区・前線との相互関係の重要な一部は、中央が設定した定員枠やノルマからの各軍管区および前線の逸脱と闘争することにある。もちろん、わが国の操典や部隊編制は絶対的なものではない。われわれはそれらを自らの経験に照らして見直すだろう。われわれは、まさに自分たちの方法を見直し改良することによって、その統一性を守るのである。諸君は、方法を統一することの有益性に関する初歩的な議論に問題を移しかえることによって、事実上、われわれを、3年前におけるパルチザン主義や分離独立主義との闘争期へと引き戻したあげく、それを何か新しい軍事理論であるかのように見せかけているのである。
攻撃と防衛
同志クズミーンは、攻撃戦争と防衛戦争の問題を論じた。そして、そこには何も困難なことはないということであった。同志クズミーンは、すべての困難を即座に手で払いのけた。いわく、トロツキーは、攻撃的革命戦争に反対し、防衛を擁護した。それに対し、私クズミーンは、赤軍兵士、労働者、農民にこう言う、「ロシアは現在、包囲された要塞であり、諸君はその守備隊である。だが明日にはおそらく、要塞から戦場に出て、封鎖を粉砕することが必要になるだろう!」。これがすべてであり、問題は非常に単純だ、と。
しかし、同志諸君、これは、問題に対する真面目な政治的アプローチではなく、まったくもって新聞の時事論文的なアプローチである。すべての困難を手で払いのけるには、適当な比較や、適当な軍事的イメージがあれば十分だ、というわけである…。いや、問題はそんなものではまったくない。政治的な問題を戦略的な問題からはっきりと区別することが必要である。政治的には、われわれはしっかりと防衛の立場に立つ。われわれは戦争を欲していない。わが国のすべての住民はこのことを知り、理解する必要がある。われわれは、戦争を回避するためにあらゆる措置をとる。われわれは、一定の条件でツァーリの債務を支払う用意さえあると宣言する。ある同志がこんなことを私に言ったことがある。「なんだってあなたは、ツァーリの債務を承認する用意があるなんてことを公然と言うんです?」。
この同志は、われわれが譲歩せざるをえないという事実に当惑し、このことを労働者・農民に粉飾した形で知らせる方がよいと考えている。これは深刻な誤りである。われわれは、事実をはっきりと、率直に、ありのまま語らなければならない。そして、結局のところ、これはわれわれの利益になるのである。われわれは労働者と農民にこう語る。
「われわれはツァーリの債務を支払うよう要求されている。ツァーリは、君たち労働者・農民を抑圧するためにヨーロッパの取引所から金を借りた。そして、今では、君たち労働者・農民は、この抑圧代金を支払うよう要求されている。そして、われわれソヴィエト権力は、この卑劣で不実な血ぬられた債務を、一定の条件のもとで支払う用意がある。なぜか? なぜなら、わが国が新たな戦争を経験するのを避けたいからである」。
このようにして、われわれの政策の平和的・防衛的性格を農民に明らかにするのである。ギャングどもがわが国に襲いかかったら、われわれはこのギャングどもを撃退するが、攻撃には移らない。われわれは、まことに、信じがたいほどの辛抱強さを発揮してきたし、今も発揮している。なぜか? なぜなら、われわれは人民に平和を保障したいからである。これこそが現在、軍においても、国内においても、われわれの政治的・教育的活動の基礎である。だがそれでも平和が破られ、戦わざるえなくなったら? その場合には、最も遅れた農民でさえ、責任が全面的に敵側にあること、他に出口がないことを理解し、手に槍をもって、立ち上がるだろう。その時には、戦略的な意味での攻撃戦争をわれわれの側から展開することもできるだろう。その時には、赤軍兵士、労働者、農民はこう言うだろう。
「わが国のすべての政策は防衛と平和に向けられていた。しかし、わが国のあらゆる努力にもかかわらず、これらの隣国、これらの政府がわれわれに平和を与えなかったのだから、防衛のためには、彼らを撃退する以外にはない」…。
これこそが、われわれの防衛的・平和的政策が敵によって破られた場合の、わが国全体のぎりぎりの結論となるだろう。まさにここに問題の本質がある。このことを理解する者は、軍隊における政治活動にとっての正しい方針をも見出すだろう。だが、包囲された要塞に関するたとえ話は、多くの者の琴線には触れないだろう。これは単なる、社説や時事論文向けの比喩であり、イメージだ。サマラの農民が、これを読む、ないし他の者が読み上げるのを聞いたとしよう。彼は頭の後を掻きながら言うだろう。「同志クズミーンはうまい書き方をしなさる。たいしたもんだ」。だが、断言してもいいが、こんな比喩によっては、この農民は闘いにおもむきはしないだろう。
討論の中で同志ヴォロシーロフは、かつての私の発言を引用した。ある一定の条件のもとでは、ペトログラードからヘルシングフォルス
[ヘルシンキ――フィンランドの首都]に至る道は、ヘルシングフォルスからペトログラードに至る道よりも短いかもしれない、という発言である。しかり、たしかに私はそう言った。そして、一定の条件のもとでは、改めて繰り返す用意がある。だが、何といってもこれは、たった今私が説明したことに他ならない。これは、われわれが隣国のいずれかの国に実際に攻撃をかけるつもりだという意味ではけっしてない。このことについては、諸君もよくご存じだ。たしかに、国境地帯に駐屯しているわが国の兵士たちは、ポーランド、ルーマニア、フィンランドから来たギャングどもをとりわけ身近に目にしており、国境を越えて追撃したいという気分がわが方の部隊の中で時おり非常に強くなる。「戦争だ!」。この言葉はそこではしょっちゅう耳にする。とりわけ、騎兵の間ではそうだ。われわれの軍学校の生徒たちも、理論的に教わったことを実際に試してみたくてうずうずしている。それだけでなく、わが軍隊の全体にも、不幸なことに、進んで戦闘をおっぱじめたいという気分がはびこっている。しかし、何といっても、問題はこれで終わるわけではない。戦争は、大がかりで真剣で長期にわたる事件である。それは、さまざまな年齢層の兵士の新たな動員、馬の動員、荷車運搬義務の強化、等々、等々を前提とする。まったく明らかなことだが、われわれは、抽象的には正しい思想――全世界の勤労者の利益は平等だ、云々――の宣伝によって戦争を開始することはできない。このような思想は、われわれの宣伝においては、とりわけ、われわれ自身の党においては正しいし、第一級の地位を占めなければならない。しかし、国際革命に関する思想を宣伝することと、すでに近い将来に軍事的事件が起こる可能性に向けて全世界の勤労大衆を政治的に準備させること、この両者の間には巨大な違いがある。これは、宣伝と煽動の違いであり、理論的予測と政治的現状との違いである。われわれがわが国のすべての住民に対し、われわれの国際政策の平和愛好的で真に防衛的な性格を、はっきりと、粘り強く、具体的に、そしていかなる疑問の余地もないよう、提示し説明すればするほど、それだけますますしっかりと、すべての住民は――それでも戦争を仕掛けられた場合に――大規模な攻勢戦略のための力と手段を提供する姿勢を示すだろう。
同志フルンゼはこのことに反対してはいない。それどころか、現在われわれの側からの攻撃戦争を云々するのは、最も愚かしい火遊びであるとさえ宣言している。その通りだ。だが、同志フルンゼの最も近しい仲間が書いた最近の論文を読むなら、この問題に関して次のように述べられている。これまでわれわれは防衛に「安住」していた、今や攻撃に向けて準備するべきである、と。同志フルンゼが、この誤った政治的見解から断固として、きっぱりと一線を画すなら、非常に結構なことである。なぜなら、この見解は、困難と混乱と損害以外の何ものももたらさないからである。
しかし、政治的攻勢という考え一般を否定することはできないのではないか? あたりまえだ! われわれはいささかなりとも、世界プロレタリア革命を拒否することつもりはないし、ブルジョアジーに対する世界的規模での勝利という考えを拒否するつもりもない。もし革命的攻勢を否定するなら、われわれは第2インターナショナルおよび第2半インターナショナルの紳士諸君のような裏切り者、変節漢になってしまうだろう。だが、準備的・防衛的活動と攻勢との間の相互関係については、国際政治のレベルで共産主義インターナショナルの第3回大会において十分全面的かつ明確に明らかにされた。だが、この大会でも攻勢理論の支持者たちはいた。彼らもまた、「攻勢は労働者階級の革命的本質を反映している」あるいは「現在の革命的時代の性格を反映している」と言った。彼らが討論で鼻柱を折られて敗北を喫すると、これらの「左翼」は、「そうか、諸君は攻撃を否定するんだな?」と声を張り上げた。いや、われわれは拒否してなどいない、親愛なる同志たちよ、ただ時機を見はからえと言っているのだ。攻撃なしには勝利はありえない。しかし、すべての政治的戦術が「前方前進!」というスローガンに帰着すると考えるのは、愚か者だけである。
「悲しむべき必然性」
革命的攻撃戦争の思想は、国際的プロレタリアートによる攻勢の思想と結びいてはじめて意味を持つ。しかし、コミンテルンの現在のスローガンはこのようなものだろうか? いやちがう。われわれが提起し擁護しているのは、労働者統一戦線の思想であり、革命を望んでいない第2インターナショナルの諸政党とさえ共同行動を展開するという思想である。それは、プロレタリアートの現在の死活の利益を擁護するという基盤にもとづいて繰り広げられる。なぜなら、全戦線で攻勢に出ているブルジョアジーによってこの利益が脅かされているからである。われわれの課題は大衆を獲得することである。どうして諸君は、この戦術に言及せず、その意味を理解しようとせず、わが国内部における新経済政策と結びつけてそれを把握しようとしないのか? 言うまでもなく、現在問題となっているのは、大規模な準備活動であり、それは現時点では防衛的性格を持っており、広範な大衆を獲得することに向けられている。こうした活動を通じて、一定の段階で、共産党によって指導された大衆的攻勢が必然的に発展してくるのである。だが、現時点での課題はこのようなものではない。われわれの軍事的宣伝は、世界労働者階級の政策の一般的歩みに合致していなくてはならない。われわれが、ヨーロッパの共産党に、ますます広範な大衆的基盤にもとづいて慎重な準備をするよう呼びかけているときに、赤軍に対して革命的攻撃戦争について語るのは、ナンセンスである。もちろん、世界情勢が変われば、その時にはわれわれの教育活動のスローガンも変わるだろう。
以上が、今日、政治的な意味での攻勢に関する問題である。しかし、問題の戦略的および戦術的側面がまだ残っている。この点でも、同志フルンゼのあらゆる説明を聞いた後でもやはり私は、フランスの野戦司令部の定式は誤っており、形式主義的攻勢主義に陥っているという見解をいささかも変えるつもりはない。われわれの野戦操典も攻撃の思想を表現しているが、ずっとまともである。
「一定の目的を達成する最良の方法は、攻勢的に行動することである」。
ここでは、最初に攻撃する者が「より強力な意志を示す」などとは言われていない。戦争の目的は敵を粉砕することである。攻撃なしに敵を粉砕することはできない。より強力な意志を示すのは、攻撃のための最も有利な条件を創出する者であり、その条件を徹底的に利用しつくす者である。しかし、このことは、強力な意志を示すのに最初に攻撃する必要があるということにはけっしてならない。これはナンセンスである。動員の物質的条件がそれを許さないというのに、最初に攻撃に出るという前提で計画を立てるとすれば、われわれは救いがたい形式主義者であり、愚か者であろう。いや、われわれは自らの意志の優位性を次のような形で示すだろう。すなわち、2番目に攻撃するのに有利な条件を創出すること、一定の、あらかじめ的を絞っておいた作戦地帯においてイニシアチブを奪いとること、そしてたとえ2番目に攻撃に出たとしても最終的に勝利を獲得すること、である。(フルンゼ「その方が不利だ!」)。おそらく、どこかの抽象上の国と比較すればより不利だろう。つまり、わが国とは別の鉄道網を持ち、別の動員機構を持つ国と比較すればだ。だが、何といっても、われわれの課題は、地理的問題を解決することではなく、わが国の物質的・精神的条件に応じて、他の国との相互関係にもとづき、具体的な行動計画を立てることである。
他方、同志フルンゼは、敵よりも劣った技術であってもわれわれは戦うだろうと、あらんかぎり強調し、あまつさえ、この劣った技術をわれわれの軍事「理論」に仕立てあげさえしている。われわれはもちろん、わが国の技術が敵の技術と肩を並べるためにあらゆることをしなければならない。しかし、たとえば航空機の分野でわれわれが優位性を獲得する可能性は、大いにありうる。同志フルンゼは、このことを考慮に入れ、ことあるごとに強調し、反撃手段の一つとして、たとえば夜間作戦に向けて部隊を訓練するよう推奨している。だが、どうして彼は、現在の状況下で戦争技術の最も重要な要素である輸送の状況を看過しているのだろうか? 「動員、集中、展開」という基本点を看過することはできないはずである。真面目な戦略はまさにこのことから出発しなければならない。
攻撃する必要があること、このことは間違いない。このことはわれわれの軍事操典で言われているだけでなく、旧帝政の軍事操典でもほとんど同じ言葉で言われていた。われわれはこのことをスヴォローフの口から聞いたところである。しかり、いったい敵の頭に打撃を与えずして、どうやって相手に勝利するというのか? そして、そのためには、敵に襲いかかり、飛びかからなければならない。こんなことは、旧約聖書の昔から知られていることである。しかし、諸君は、われわれに何か新しいことを教えたいはずである。諸君は、プロレタリアートの革命的本質に由来するプロレタリア戦略についてわれわれに語っている。どうやら、われわれの野戦操典の定式は諸君を満足させていないようだ。諸君は独自の操典をつくった。だが、それは――あろうことか!――フランスの野戦操典からとってきたものだった。しかも、この新しいと称する定式は誤っており、われわれの置かれている状況とも明らかに合致していない。革命的本質と「強力な意志」は、諸君が最初に攻撃することを要求している、こんな理論をわれわれの指揮官の頭にたたき込んだとしたら、西方におけるわれわれの作戦の最初の時期に、われわれの指揮官は混乱の中に投げ込まれるだろう。なぜなら、最初の時期においては、客観的状況が、粘り強い防衛と機動的な退却をわれわれに押しつける可能性がある、というよりも、十中八九押しつけるからである。(フルンゼ「悲しむべき必然性だ」…)。そうだ、すべての戦争は、同志フルンゼよ、悲しむべき必然性なのだ。
この悲しむべき必然性の枠内で、われわれは、いくつか他の悲しむべき必然性――それらが死活にかかわる性格を持つかぎりにおいて――考慮しつつ自らの計画を立てなければならない。言葉の最も広い意味における輸送の状況は、戦争の最も死活にかかわる条件の一つである。したがって、わが国の自然、その広さ、住民の分布、鉄道、舗装道路、舗装されていない道、といったものの状況からして、われわれの攻撃が開始されるラインが、わが国の国境線からかなり離れたところに位置する地帯になる可能性はきわめて高い。わが指揮官が、このような戦略計画――それは遮蔽や防衛から始まり、それどころか退却からさえ始まる――の内的論理を理解し、あらかじめ狙いをつけておいた作戦地帯に部隊を集め、決定的な攻撃に移るなら――言うまでもなく、それなしには勝利はありえない――、そして、わが指揮官が、攻撃に関する形式主義的観点ではなく、このような真に機動戦的な思想をわがものとしているなら、指揮官が、混乱に陥って解体することも、無駄な損失を出すこともなく、その冷静な確信を軍全体に波及させることができるだろう。
「武器の一種」としてのアジテーション
本日の討論の中で発言者たちは、自分たちには独自の「軍事理論」があるという主張を擁護するために、革命的アジテーションを、われわれによって導入された新しい武器の一種として提示した。しかし、これも正しくない。ここでも諸君は自分を欺いている。実際のところ、ブルジョア軍隊の宣伝の方が、われわれの宣伝よりもはるかに広範で、豊富で、多様だった。
世界大戦の最初の2年間、私はフランスで暮らし、そこで帝国主義的アジテーションのメカニズムをつぶさに見てきた。われわれの力と手段の貧困さからして、われわれはそれにはとうていかなわない。わが方にあるのは、ちっぽけな新聞、質の悪い紙、はなはだ不鮮明な印刷、そして何よりも、取るに足りない発行部数である。だがフランスでは、『プチ・パリジャン』のような下劣で嘘つきのブルジョア新聞が、戦中ほとんど300万部も発行されていた。他のいくつかの帝国主義新聞の発行部数も100万部を越えていた。すべての兵士が一部づつ新聞を受け取っていたし、2部受け取っている兵士もいた。そこには、詩があり、散文があり、時事評論があり、漫画があった。そして、虹のごとくあらゆる傾向の新聞がそろっていた。君主主義派の新聞、共和主義派の新聞、社会主義派の新聞…。だがどの新聞も同一の観点に立っていた。勝利するまで戦争を。そして、カトリック神父もまた、塹壕を回って、非常に抜け目のないアジテーターとして活動していた。彼は兵士の肩をぽんとたたいて、言うのである。「世界にはたった二つのいいものしか残っていない。ワインと、主たる神だ!」。社会党の代表団は前線を訪問し、自由と平等のための闘争について語った。演劇でも、バレエでも、歌曲でも、同じ調子であった。そして、これらすべてはまったく見事なものであり、しかも同一の観点に立っていた。欺瞞、幻惑、麻酔、堕落の何と並はずれた機構か!
では、われわれの力はどこにあるのか? 共産党の綱領にである。革命思想にである。敵がわれわれの宣伝のすさまじい威力について語るとき、これは軍隊内でのわれわれの宣伝の組織や技術のことではなく、われわれの革命的綱領の内的力にかかわっているのである。この綱領は勤労大衆の真の利益を表現しており、したがって、彼らを根底からとらえることができるのである。政治を発明したのはわれわれではない。アジテーションと宣伝を発明したのもわれわれではない。敵はこの点に関しても、物質的および組織的にわれわれよりも強力である。かつてツァーリズムがわが党よりもはるかに強力であったように。その時わが党は地下に潜伏し、パンフレットと宣伝ビラで活動していた。だが、問題の本質はまさに、これらのすべての機構とこれらすべての技術をもってしても、ブルジョアジーは大衆を抑えこむことができない、という点にある。それに対してわれわれは全世界で大衆を獲得しつつあるし、獲得するだろう。したがって、プロレタリア軍事理論に含められる「新しい武器の一種」なるものをわざわざ見出すには及ばないのである。なぜなら、赤軍が生まれる以前にすでに見出されている共産党綱領と、赤軍そのものが、共産党綱領の実現の可能性を保証する武器に他ならないからである。
大風呂敷を広げた一般化はもっと控えめに
戦略的および戦術的方法とプロレタリアートの階級的本質との結びつきは、多くの同志が考えているほど密接でもなければ、無条件的なものでも、直接的なものでもない。軍事問題の歴史に関する控えめな総括にもとづいて、あえて言わせてもらえるならば、赤軍はその存在の最初から、言ってみれば17世紀以後の新しいヨーロッパの軍隊がたどってきた諸段階を経過してきた。もちろん、ある段階から次の段階への移行は、いわば短い概要のように、きわめて急速に行なわれた。母親の胎内にいる赤ん坊は、胎児から発展して、各成長段階を経て、しだいに人間の基本的諸特徴をそなえた形へとなっていく。赤軍の発展を観察するなら、たぶん、それと似たようなことが繰り返されていることがわかるだろう。それはけっして機動戦から始まったのではない。その最初の戦闘形態は、警備隊風の、ぎこちなく粗野な陣地戦だった。組織編成と戦略的方法は、闘争の過程の中で、敵の打撃を受けながら変化していった。内戦の最後の時期になってようやく機動戦が展開されるようになった。しかし、これは赤軍の戦略の最後の言葉ではない。こうした大味で混乱気味の機動戦の中に、われわれは安定性の要素を引き入れなければならない。強固で弾力性のあるカードルがそれだ。では、このより熟達した軍隊は陣地戦の方法に移るのだろうか? それは将来における戦争の条件しだいである。すなわち、どの地点で攻撃するのか、どれだけの数の大衆が同時に戦闘行動に引き入れられているか、そしてどれだけの規模の領土で戦闘が展開されているか、に依存している。
同志ブジョンヌイ(10)
[右の写真]は、帝国主義戦争における陣地戦を、偉大なイニシアチブの欠如、断固たる指導の不在によって説明した。「天才的な司令官がいなかった!」というわけだ…。私見によれば、このような説明は正しくない。問題の核心は、帝国主義戦争が軍隊同士の戦争ではなく、国民間の戦争であり、しかも、豊かで、巨大な人口を持ち、巨大な物質的資源を有していた国民間の戦争であった、という点にある。それは生死をかけた戦争であった。敵側の打撃の一つ一つが報復をもたらし、開いた穴の一つ一つがただちにふさがれた。前線は、両者からの動員によって絶え間なく増強された。大砲と弾丸と兵士があっちでもこっちでも膨れ上がっていった。こうして、問題は戦略の範囲を越えてしまった。戦争は、交戦国の力関係をあらゆる方向から測る最も深刻な試練となった。飛行機も、潜水艦も、戦車も、騎兵隊も、それ自体としては決定的な結果をもたらしえなかった。それらは、敵の力をしだいに消耗させる手段として、そして、敵の状況――敵はまだ持ちこたえられるか、それとも降伏しそうであるか――を絶えず確かめる手段として役立っただけであった。これは、言葉の真の意味で消耗戦であり、その中では戦略は決定的な意義は持たず、ただ副次的な意義を持つだけである。まったく議論の余地のないことであるが、近い将来このような戦争を繰り返すことは不可能である。しかし、わが国の内戦の方法と手法をヨーロッパ地域で繰り返すことも同じく不可能である。条件と状況があまりにも違いすぎる。大風呂敷を広げた一般化に代わってなすべきは、具体的な諸条件をより明確に考え抜くことである。
将来の内戦における「統一理論」
例としてイギリスを取り上げよう。大ブリテン諸島における内戦がどのような性格のものになるか、より正確には、なる可能性があるかを予想してみよう。言うまでもなく、予言することはできない。あたりまえの話だが、事態がまったく異なった形をとることも、ありうる。それでもやはり、高度に発達した資本主義国であり島国であるという独自の条件下において、革命の諸事件がどのような歩みをとるかを予想することは、無駄な試みではない。
イギリスにおいてはプロレタリアートは住民の圧倒的多数を占めている。彼らの中には多くの保守的傾向が存在する。彼らを立ち上がらせることは難しい。しかし、その代わり、彼らが最終的に決起し、国内の敵による最初の組織的抵抗を克服したなら、大ブリテン諸島における彼らの支配は、その圧倒的数からして、圧倒的なものとなるだろう。これは、イギリスのブルジョアジーが、オーストラリアやカナダやアメリカ合衆国等々の助けをかりてイギリス・プロレタリアートを粉砕しようとしない、ということを意味するだろうか? もちろん、意味しない。彼らはイギリス・プロレタリアートを粉砕しようとするだろう。そのためには、ブルジョアジーは、自己の手中に軍艦を保持しようとするだろう。それは、イギリス・プロレタリアートを飢餓封鎖するためだけに必要であるだけでなく、上陸作戦を遂行するためにも必要である。フランス・ブルジョアジーは黒色連隊を拒まないだろう。現在、大ブリテン諸島を防衛し、絶え間ない食料供給を保証しているこの同じ艦隊が、今度は、この島を攻撃する武器となるのである。プロレタリア的イギリスは、この場合、包囲された「海の要塞」となるだろう。そこから退却する場所はどこにもない。あるのは海だけである。しかも、われわれの予測によれば、海は敵の手中にあるのである。したがって、内戦は、軍艦による攻撃と上陸とから島を防衛するという性格をとるだろう。
もう一度繰り返すが、これは予言ではない。事態がまったく異なった形をとることもありうる。しかし、私によって指摘された内戦の図式がありえないとあえて言う者はいないだろう。それはまったくありうることであり、それどころかきわめて可能性が高い。こうした事態におけるわれわれの戦術をじっくり検討してみるなら、大いに有益だろう。そうすれば、機動戦をプロレタリアートの革命的本質から引き出すことがいかに根拠のないことかが完全に納得できるはずである。イギリス・プロレタリアートが、島の沿岸地帯を、塹壕、長く伸びた金網の遮断壁、塹壕砲台、等々で覆わなくてもすむなどと、誰が断言できよう。
わが国の先の内戦に近い姿を求めるなら、将来のヨーロッパよりも、むしろ昔のアメリカ合衆国に探さなければならない。疑いもなく、1860年代におけるアメリカ合衆国での内戦
[南北戦争]は、わが国の内戦と非常に多くの共通した特徴を示している。なぜか? それは、そこでも、巨大な空間、まばらな人口、不十分な交通といった条件があったからである。そこでも、騎兵による急襲が巨大な役割を果たした。注目すべきことは、そこでも最初にイニシアチブをとったのは「白軍」、すなわち、奴隷所有者たる南部であった。彼らは、北部のブルジョアジーと小ブルジョアジーに対して戦争を仕掛けた。南部には、大草原、プランテーション、大牧場があり、良質の馬が大量にいて、南部人たちは馬に乗り慣れていた。何千キロもの急襲攻撃を最初にやったのは、南部であった。彼らの実例にならって、北部も急襲部隊を組織した。戦争は、大味な機動戦的性格を持ち、北部の勝利に終わった。北部は、南部の大農場主=奴隷所有者に対して経済発展の進歩的傾向を擁護した。
プロレタリア戦略への道
同志トゥハチェフスキー(11)
[右の写真]は基本的に私に同意したが、一定の留保をしている。その留保の意味は私にはよくわからない。「同志トロツキーが、すそを引っ張って服装を正したことは、有益なことである」とトゥハチェフスキーは言う。しかし、私の理解するところ、有益なのは、どうやら、ある程度までのようだ。なぜなら、プロレタリア戦略と戦術に関して「新しい何か」を創造することそのものは、トゥハチェフスキーによれば、有益で進歩的な努力であるとみなされているからだ。同志フルンゼは、同じ路線をとっているが、もっと踏み込んで、エンゲルスが1850年代に書いたものを引用している。すなわち、プロレタリアートの権力獲得と社会主義社会の発展とは、新しい戦略のための前提条件をつくり出す、という趣旨の文章である。発達した社会主義経済を有している国がブルジョア諸国と戦争せざるをえない事態になったなら(これがエンゲルスの想定したことである)、社会主義国の戦略図式は従来とはまったく異なったものになるだろう。私もこのことを疑わない。しかし、これは、今日、ロシア社会主義共和国連邦のための「プロレタリア戦略」を指先からひねり出す試みをいささかも正当化するものではない。新しい戦略的方法は戦争の実践を改良し豊かにする努力から発展してくるのであって、「新しい何か」を云々する抽象的な試みから生まれてくるものではけっしてない。それはちょうど、独創的な人々には価値があるからといって、自分が独創的な人間になることを課題とするようなものであって、言うまでもなく、そういう人にかぎって、最も惨めな猿まね以外の何ものももたらさないのである。
社会主義経済を発展させ、勤労大衆の文化水準と団結力を高め、赤軍の熟練度を引き上げ、その技術とカードルを改良することによって、われわれは疑いもなく、新しい手法、新しい方法によって軍事活動を豊かにするだろう。しかし、プロレタリアートの革命的本質から思弁的やり方で新しい戦略を引き出すことを自らの課題とすることは、フランス野戦操典の疑わしい命題を仕立て直すことに帰結し、必然的に袋小路に陥ることを意味するだろう。
文化の蓄積を!
最後に、分隊長の問題について論じたいと思う。もちろん、誰もが分隊長の重要性と意義を認めている。しかし、必ずしもすべての者が、分隊長を、近い将来におけるわれわれの軍事計画の中心点とみなしているわけではない。若干の同志たちは、この問題を一種の寛大さをもって語っている。「もちろん、誰も否定しない…。そりゃもちろんだ…。そりゃわかってる…。でも指揮官がすべてじゃない」…、云々、云々。このような精神で、わが麗しき同志ムラロフは次のように語っている。
「長靴をみがき、ボタンを縫いつけ、良質の分隊長を養成することは、必要である。しかし、これがすべてはまったくない」。
何と、ここでは、分隊長が長靴やボタンと並べられている。不当だ! ボタン、長靴、等々はそれ自体としては「小さなこと」であり、すべて合わさって巨大な意義を持つようになる。それに対して分隊長は、いかなる場合でも小さなことではない。いやそれどころか、それはわれわれの軍事機構における最も重要なてこである。
ところで、その前に、ボタン、長靴、シラミとの闘争、等々について一言述べたい。同志ミーニンは、私が何かというと文化啓蒙主義に話を持っていくことを非難している。彼がついでに同志レーニンの大会報告をも非難しなかったのは、残念だ。なぜなら、同志レーニンの基本思想は、わが国の社会主義建設にとって不足しているのは文化性であり、この文化性を、教育と自己教育によって、粘り強く、根気よく、系統的に蓄積し、高めていかなければならない、という点にあったからである。
「文化啓蒙主義」という用語は、この場合にはふさわしくない。というのは、この用語はもともと、ツァーリズムとブルジョアジーの支配のもとで、啓蒙・協同組合・医療衛生、等々にかかわるこまごまとした諸措置によって国を再建することができると考えていた近視眼的な人々を指して、あるいは、そういう人々に対するレッテルとして用いられていたからである。われわれは、こうした傾向に対して革命の綱領と労働者階級による権力獲得を対置した。しかし、今や革命は実現され、権力は労働者階級に握られている。すなわち、文化活動を、歴史的に未曾有な規模で行なうための政治的条件がつくり出された、ということである。こうした文化活動は全体として、こまごまとした小さな事柄から成り立っている。勝利した革命は、最底辺の人民を文化活動に引き入れることを可能にした。今やこれが主要な課題である。必要なのは、読み書きを教え、正確さと節約を教えることである。そしてこれらすべてのことを、われわれの国家建設および経済建設の経験にもとづいて、日々刻々と遂行しなければならない。まったく同じことが軍隊についても言える。
今日の軍事スローガン
しかし、分隊長は、やはりまったく別物だ。これはいかなる意味でも小さなことではない。これは、軍の基本単位の指揮官であり、指導者であり、頭である。こわれたレンガから建物を建てることはできない。良質の建築材が必要であり、良質の分隊が必要である。つまりは、良質の、しっかりとした、意識的で、確信を持った、分隊長が必要だということである。
「しかし、あなたは上級指揮官のことを忘れていやしないか?」と一部の者は言う。いや、忘れてはいない。まさに上級指揮官に対して、私はこの課題を立てているのである。連隊長、旅団長、師団長にとって、分隊長を教育する活動こそが最良の学校である。われわれの復習コースや軍学校やそこでの講義は非常に重要であり、有益であるが、教師は、生徒を教えることによって最もよく学ぶのであり、連隊長、旅団長、師団長は、分隊長の教育と育成を当面する時期における注意の中心に置くことによって、最もよく学ぶのである。なぜなら、赤軍の組織と戦術に関するすべての問題が一つ残らず、自分の中でますますきちんと明らかになっていくのでなければ、分隊長を教育することができないからである。指揮官とはどうあるべきで、何が要求されるのかを、分隊長に対してはっきりと明確に説明するためには、すべての問題について自らはっきり徹底的に考え抜いておかなければならない。これが現在の中心的課題である。
機動戦の精神で指揮官を教育するといった類の一般的文句は、基本的にあまり役立たず、現在の時期における最も重要な課題から注意を逸らせることになる。機動性の欠如や警備隊的な受動性といったわれわれの幼稚さを粉砕しなければならない時期もあったし、機動戦のスローガンが救いとなった時期もあった。その時、「プロレタリアートよ、馬に乗れ!」のかけ声は、当時の基本的な必要性を表現していた。もちろん、当時においても、騎兵だけでなく、歩兵や砲兵、等々も重要だった。しかしながら、当時もし赤色騎兵をつくっていなかったら、われわれは間違いなく滅びていただろう。それゆえ、「プロレタリアートよ、馬に乗れ!」のスローガンは当時、軍の発展過程における中心的で基本的な要求を総括していたのである。新しい時代は新しい課題を提起する。すなわち、軍の基本細胞、すなわち分隊をしっかり整備することであり、分隊長のためにわれわれの軍事的経験を総括することであり、分隊長の知識、意識性を引き上げることである。現在、いっさいがこのことにかかっている。このことを理解し、しっかりと活動に取り組まなければならない。
1922年4月1日
『革命はいかに武装されたか』第3巻第2分冊所収
『トロツキー研究』第28号より
訳注
(1)フルンゼ、ミハイル(1885-1925)……ロシアの革命家、軍人。1904年以来の古参ボリシェヴィキ。1905年革命に積極的に参加し、モスクワ蜂起を指導。逮捕されシベリア流刑。第1次大戦中は軍隊内で活動。1917年10月革命では、モスクワでの蜂起に参加。国内戦で、赤軍の第4軍司令官。1924年、陸軍大学長。1925年、トロツキーに代わって陸海軍人民委員に。軍事理論家として、「統一軍事理論」を提唱し、トロツキーと論争。心臓病で外科手術を受けたが死亡。
(2)グーセフ、セルゲイ(1874-1933)……別名S・ドラフキン。1899年来のロシア社会民主党の活動家。古参ボリシェヴィキ。1905年の革命に参加。10月革命のさいペトログラードの革命軍事委員会書記。1921年、赤軍の政治責任者。トロツキーの推進した軍事専門家登用政策を批判。フルンゼとともに「統一軍事理論」を形成。その後グリーンという名前でアメリカに派遣され、党の機関紙の責任者となる。
(3)ヴォロシーロフ、クリメント(1881-1969)……ロシアの革命家、古参ボリシェヴィキ、ソ連元帥。労働者出身。1903年からボリシェヴィキ。1905年革命にルガンスクで参加。ルガンスク・ソヴィエトの議長。1908〜17年、ボリシェヴィキの非合法活動家として国内で活動。内戦中はツァリーツィンで赤軍を指導し、軍事専門家排斥、ゲリラ戦重視のツァリーツィン・グループを組織。スターリンと組んで、軍事人民委員トロツキーと対立。1925年に軍事人民委員部に所属。1934〜40年、国防人民委員。1937年に赤軍の粛清を実行。1941年、レニングラードの前線で指揮し、レニングラード防衛に貢献。1943年、テヘラン巨頭会議に出席。最後までスターリンの盟友。1953〜60年、ソヴィエト最高幹部会議長。1960年以降、フルシチョフによって権力の中枢から遠ざけられる。
(4)フリードリヒ2世(1712-1786)……プロイセン王(在位1740-1786)、別名フリードリヒ大王。侵略的外交政策、領土拡張政策をとり、シュレジエン戦争、7年戦争、ポーランド分割、西プロイセン併合などを通じて、プロイセンを大国にした。文学や思想にも造詣が深く、啓蒙思想家と交わった。
(5)ストルーヴェ、ピョートル(1870-1944)……ロシアの経済学者、政治家。最初、合法マルクス主義者として活躍し、ロシア社会民主党の創立大会の宣言を起草。その後転向し、ブルジョア議会政党であるカデットの指導者に。10月革命後、ウランゲル政府のメンバーに。その後亡命。ちなみに、トロツキーがオデッサの学校でならったドイツ語教師ストルーヴェは、このストルーヴェの父親。
(6)フォッシュ、フェルディナン(1851-1929)……フランスの軍人。1917年に参謀総長 。18年に、在仏連合軍総司令官。同年、元帥。協商国側の勝利を導いた。1920年にソヴィエト・ポーランド戦争の反革命勢力に参加。
(7)スヴォローフ、アレクサンドル(1729/30-1800)……帝政ロシアの軍人、近衛大将。露土戦争に従軍し多くの戦功を上げる。「ロシア的戦法」の創始者で、兵器では特に銃剣を重視した。
(8)グチコフ、アレクサンドル(1862-1936)……ロシアのブルジョア政治家。大資本家と地主の利害を代表する政党オクチャブリスト(10月17日同盟)の指導者。第3国会の議長。ロシア2月革命で臨時政府の陸海相になり、帝国主義戦争を推進するが、4月の反戦デモの圧力で辞職(4月30日)。グチコフの代わりに陸海相になったのがケレンスキー。10月革命後、ボリシェヴィキ政府と激しく敵対。1918年にベルリンに亡命。パリで死去。
(9)ミリュコーフ、パーヴェル(1859-1943)……ロシアの自由主義政治家、歴史学者。カデット(立憲民主党)の指導者。第3、第4国会議員。2月革命後、臨時政府の外相。4月18日に、連合諸国に、戦争の継続を約束する「覚書」を出し、それに抗議する労働者・兵士の大規模デモが起こり(4月事件)、外相辞任を余儀なくされる。10月革命後、白衛派の運動に積極的に参加し、ソヴィエト権力打倒を目指す。1920年に亡命。『第2次ロシア革命史』(全3巻)を出版。
(10)ブジョンヌイ、セミョン(1883-1973)……ソ連の軍人、元帥。1903年に帝政ロシア軍に入隊。1917年に革命運動家となり、連隊兵士委員会議長。1919年にボリシェヴィキ入党。内戦では赤色騎兵隊を率いて活躍。1919〜23年、第1騎兵軍団長。1937年、モスクワ軍管区司令官。1940年、軍事人民委員代理。1939〜52年、党中央委員。
(11)トゥハチェフスキー、ミハイル(1893-1937)……ソ連の赤軍司令官、元帥。貴族出身で、陸軍士官学校卒。第1次大戦にロシア軍将校として参加。1918年にボリシェヴィキ入党。1935〜36年、ソ連軍参謀総長、国防人民委員代理。1937年に、スターリンの陰謀でクーデターの首謀者として逮捕され、他の赤軍指導者とともに銃殺。死後名誉回復。
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