ソヴィエト・ロシアの新経済政策と
世界革命の展望
(コミンテルン第4回大会報告)
トロツキー/訳 志田昇・西島栄
【解説】これは、コミンテルン第4回世界大会におけるメイン報告の一つである。トロツキーの数多い演説の中で最も優れたものの一つであるこの演説の中でトロツキーは、ソヴィエト・ロシアにおける革命の発展、ネップの意義、市場と計画との相互関係などについて体系的にわかりやすく説明するとともに、東方に比しての西方の特殊性、循環的曲線と長期的曲線との関係、経済と政治との間の弁証法的な関係、等々について縦横無尽に展開しており、コミンテルンの思想的・理論的到達点を体現するものとなっている。トロツキーの思想を理解する上で絶対に欠くことのできない文献である。
ところで、この第4回世界大会には病み上がりのグラムシも参加していて、このトロツキーの演説に特別の感銘を受けた。グラムシはこの演説から、ボルディーガ的極左主義と決別するための確固たる理論的根拠を得た。これ以降、グラムシは自信を持って、ボルディーガ主義と闘うことになる。グラムシがこの演説から得た理論的インスピレーションは、単に西方と東方の対比だけではない。同じぐらい重要なのは、循環的・景気変動的波と長期的・有機的波との区別と連関、経済と政治との弁証法的関係、また構造と力関係の四つの位相(経済構造、それと結びついた階級的力関係、政治的力関係、軍事的力関係)の区別と連関などである。これらはいずれも『獄中ノート』で詳しく展開されており、またあえてこのときのトロツキーの演説に言及されてもいる。『文学と革命』と並んで、この4大会報告は、グラムシ思想の源泉の一つであることは間違いない。
この4大会報告は、現代思潮社版の『コミンテルン最初の5ヵ年』にはじめて翻訳出版されたが、表題からして誤訳されているという代物だったので、ずっと後に、志田昇氏の手によって『社会主義と市場経済』に新たに翻訳出版された。この時の底本はロシア語版『トロツキー著作集』第12巻だったが、今回、ロシア語版『コミンテルンの5ヵ年』にもとづいて西島栄が再チェックし、一部訳文を修正するとともに、(笑い)や(拍手)といったものも再現しておいた。
Л.Троцкий, Новая экономическая политика Советской России и перспективы миробой революции, Пять лет Коминтерна, Гос.изд., Мос., 1924.
内戦の経過
あらゆる革命党の基本的な課題は権力の獲得である。第2インターナショナルにおいては、この目標は、観念論哲学の用語で言えば、「統制的理念」、すなわち実践とほとんど関係のない理念にすぎなかった。
この数年間にようやく、われわれは国際的な規模で、権力の獲得を実践的な革命的目標として提起することを学び始めた。これはロシア革命のおかげである。ロシアのために1917年10月25日(11月7日)という特定の日付――その日、労働者階級の先頭に立った共産党がブルジョアジーの手から政治権力を奪い取った――を挙げることができるという事実は、いかなる議論よりも鮮やかに、革命家にとって権力の獲得が「統制的理念」ではなく、実践的課題であるということを証明している。
1917年11月7日、わが党は国家の頂点に立った。だが、まもなく完全に明らかになったように、これは、内戦が終わったことを意味しなかった。反対に10月革命の後に初めて、わが国の内戦は大規模に展開され始めたのである。この事実は単に歴史的に興味深いだけではなく、西ヨーロッパのプロレタリアートにとってきわめて重要な教訓の源泉にもなっている。なぜ、こうなったのだろうか? 原因は、ツァーリズムの野蛮から解放されたばかりの国の文化的・政治的な後進性にある。大ブルジョアジーと貴族は、市議会や地方自治会や国会などのおかげで、若干の政治的経験を持っていた。小ブルジョアジーは、ほとんど政治的経験がなく、主要な住民大衆である農民は、さらに政治的経験に乏しかった。したがって、反革命の主要な予備軍――富農およびある程度まで中農――は、まさにこの最も無定形な層から現れた。そして、ブルジョアジーが権力の喪失によって何を失ったのか完全に理解し始め、反革命の戦闘的な中核を選抜した後で初めて、ブルジョアジーは農民的、小市民的な人物や階層に近づく道を見つけることに成功した。その際、ブルジョアジーは、必然的に、指導的な地位を貴族出身の高級将校のうちの最も反動的な連中に譲り渡した。結局、内戦は10月革命後に初めて本格的に展開された。そして、われわれは1917年11月7日に容易に権力を獲得したが、この容易さは内戦の無数の犠牲によって相殺された。資本主義的な意味でわが国より古く、より文化的な国々においては、情勢が著しく異なるだろうことは疑いない。そこでは、人民大衆は、政治的な面で、はるかに明確な形をとって、革命に参加するだろう。たしかに、プロレタリアートの――まして小ブルジョアジーの――個々の階層やグループの志向は、やはりひどく動揺し、変化するだろう。しかしそれでも、この変化は、より系統的に生じるだろう。今日はより直接に昨日から流れでるだろう。西欧のブルジョアジーは、あらかじめ反撃を準備している。西欧ブルジョアジーは、頼らなければならない連中を多少は知っており、反革命の要員をあらかじめ組織している。このことはドイツにおいて見られるし、それほど明確ではないが、フランスでも観察されている。そして、最後に最も完全な形式でイタリアにおいて観察されている。イタリアでは、革命が未完に終わった後に、完成された反革命が存在している。この反革命は、革命のいくつかの手法や方法を巧みに利用したのである。
これは何を意味するのだろうか? これが意味しているのは、われわれがロシアのブルジョアジーの不意をついたようにはヨーロッパのブルジョアジーの不意をつくことが恐らくできないだろうということである。ヨーロッパのブルジョアジーは、より賢明で先見の明があり、時間をむだにしない。ヨーロッパのブルジョアジーは、われわれに反対して立ち上がらせることができるいっさいのものを今すでに動員しつつある。したがって、革命的プロレタリアートは、権力への途上で反革命の戦闘的前衛部隊に遭遇するだけでなく、同時に反革命の最も重要な予備軍にも遭遇するだろう。このような敵の兵力を粉砕し、解体し、戦意を喪失させた時に初めて、プロレタリアートは国家権力を奪取するだろう。しかしその代わりに、プロレタリア革命の後には、敗北したブルジョアジーは、内戦を引き伸ばすための駒を引き出すことができる強力な予備軍をもはや持っていないだろう。言いかえれば、権力を獲得した後には、ヨーロッパのプロレタリアートは、おそらく、経済的・文化的な建設のために、われわれが変革の翌日に持っていたよりも、はるかに大きな活動の自由を持つだろう。国家権力のための闘争が困難で厳しいほど、それだけいっそうプロレタリアートの勝利の後には、この権力は揺るぎないものになるだろう。
この一般的な命題は、さまざまな国に関して、それぞれの社会構造と革命の過程における順番とに応じて、分析し具体化しなければならない。まったく明らかなことだが、プロレタリアートによってブルジョアジーが倒され国の数が多くなればなるほど、残りの国ではますます革命の陣痛が短くなり、敗北したブルジョアジーにとり権力のための闘争を始めようとする誘惑がますます少なくなるだろう。とくに、プロレタリアートが、この問題では冗談を好まないということを示すならばなおさらである。もちろん、プロレタリアートは、このことを示すだろう。そして、この場合、プロレタリアートはロシア・プロレタリアートの実例と経験とを完全に利用することができるだろう。
われわれは、さまざまな領域で――もちろん政治も含めて――誤りを犯した。しかし、全体として、われわれはヨーロッパの労働者階級に革命的闘争における決断力と不屈さと――必要があれば――無慈悲さの悪くない実例を提供した。だが、このような無慈悲さは、最高の革命的ヒューマニティである。なぜならば、この無慈悲さは成功を保証し、危機の困難な道程を短縮するからである。
内戦は単に軍事的な過程であっただけではない。もちろん、内戦は尊敬すべき平和主義者――この中には誤解からいまだにわが共産党の隊列の中をさまよっている人々も含まれる――には申しわけないが軍事的過程でもあった。しかし、それは軍事的な過程であるばかりではなく、同時に政治的な過程でもあり、まず何よりも政治的な過程でさえあった。戦争の方法によって展開されたのは、政治的な予備軍を獲得するための闘争、すなわち、何よりも農民を獲得するための闘争であった。ブルジョア・地主のブロックおよびこれに奉仕している「民主主義派」のブロックと、革命的プロレタリアートとの間で長いあいだ動揺していた農民は、最後の選択をしなければならない決定的瞬間にはいつもプロレタリアートの側に立ち、プロレタリアートを支持したが、民主主義的な投票用紙によってではなく、食糧や馬や武器によって支持した。これこそがわれわれの勝利を決定づけたのである。
このように、ロシア革命における農民の役割は巨大であった。この役割は他の国々でも――例えば、今なお農民が住民の過半数を占めているフランスでも――大きいだろう。しかし、農民がいわばプロレタリアートと平等な資格で革命において独立の指導的役割を果たせると思っている同志は誤っている。われわれが内戦で勝利したのは、単にわれわれの軍事戦略が正しかったからだけではなく、むしろ、内戦中つねにわれわれの軍事作戦の基礎にあった政治上の戦略が正しかったからである。われわれは、プロレタリアートの基本的課題が農民を味方につけることにあるということを一瞬たりとも忘れたことがなかった。しかしながら、われわれはエスエルの流儀で農民を味方につけたのではない。周知のように、エスエルは農民を独立の民主主義的役割という餌で誘惑し、その次に農民を地主に売り渡した。これに対して、われわれは、農民が動揺する大衆であり、全体として独立の役割を果たす能力はないし、ましてや指導的な革命的役割を果たすことはできないということをはっきり知っていた。自らの断固たる行動によって、われわれは農民大衆に革命的プロレタリアートか、それとも、反革命の先頭に立っている地主的な将校のいずれかを選ぶことを余儀なくさせた。もし、民主主義的な障壁を一掃するこうした決意がわれわれの側になかったならば、農民は、「民主主義派」のさまざまな陣営や色合いの間で混乱し動揺したであろう――そして、革命は不可避的に破滅したであろう。
民主主義諸党と何よりも社会民主主義派は――西ヨーロッパでも同じ事態が生じることは疑いない――つねに反革命の駆り出し係であった。この点に関してわれわれの経験はあますところなく語っている。同志諸君、ご存じのように、数日前、赤軍がウラジオストクを占領した。この占領によって、過去5年間にわたる内戦の戦線の長い鎖が閉じられた。赤軍のウラジオストク占領について、ロシアの自由主義政党の著名な指導者ミリュコーフ(1)は彼の出しているパリの日刊紙に、2、3の歴史哲学的な文章を書いている。私はこれを古典的な文章だと名づけようと思う。彼は、11月7日付の論文の中で、民主主義諸党の愚かな、恥ずべき、しかし運命的な役割を簡潔に描写している。それには、こう書かれている。
「この悲しむべき歴史――それはいつも悲しむべぎものだった!(笑い)――は反ボリシェヴィキ戦線が完全に一致団結していることを厳かに声明したことから始まる。メルクーロフ(極東の反革命派の首領)は、『非社会主義者』(すなわち黒百人組の連中)が勝利を収めたのは民主主義分子によるところが大きかったことを認めた」――ミリュコーフは続ける――「しかし、民主主義派の支援はメルクーロフによってボリシェヴィキを打倒するためにのみ利用された。その後、権力は民主主義派を本質的には隠れボリシェヴィキとみなす連中の手に移った」。
私が先ほど古典的と名づけたこの文章は、陳腐なものに見えるかもしれない。実際、それは一度ならずマルクス主義者が言ってきたことを繰り返しているにすぎない。だが、この言葉を――革命の6年後に――語っているのが自由主義者ミリュコーフであるということを想起していただきたい。彼がここでフィンランド湾から太平洋にいたる広大な舞台におけるロシア民主主義派の政治的役割の総決算をしているということを想起していただきたい。コルチャーク(2)の場合にもデニーキン(3)の場合にも、さらにユデーニチ(4)の場合にも同じようなことが起こった。わが国が英仏米によって占領されていた時期にもそうであった。そして、ウクライナのペトリューラ(5)体制の時期にもそうであった。わが国のすみずみで同一の退屈で単調な現象が繰り返された。民主主義派(メンシェヴィキやエスエル)は、農民を反動派の手中に追い込んだ。そして、反動派は権力を握ると、完全に正体を現わし、農民を押しのけた。その後、ボリシェヴィキの勝利が続く。メンシェヴィキの間では、後悔の章が始まる。しかし、それも長くは続かず、次の好機が来るまでのことである。続いて、内戦の舞台のどこか他の一角でも、同じ歴史が繰り返された。初めに裏切りがあり、次に半ば後悔する。
このメカニズムはきわめて単純で、十分に信用を落としていそうなものであるが、それでもやはり、次のように予言することができる。すなわち、社会民主主義者はプロレタリアートの権力のための闘争が最高に先鋭化する時期には、すべての国で同じことを繰り返すだろう、と。問題がいったん内戦の舞台に移された場合には、すべての国における労働者階級の革命党の第一の任務は無慈悲で断固たる姿勢をとることである。
社会主義建設の条件
権力を獲得した後には、建設の課題――とくに経済建設の課題――が最も中心的で、それと同時に最も困難な課題として生じる。この課題の解決は、性格も深さもさまざまな多くの原因によって左右される。
まず第1に生産力の水準によって、とくに工業と農業の相互関係によってである。第2に、国家権力を獲得した労働者階級の文化的および組織的水準によってである。第3に、国際的および国内的な政治情勢によって、つまり、ブルジョアジーが最終的に敗北したのか、それともまだ抵抗しているのか、さらに外国の軍事干渉が行なわれているのか、技術的インテリゲンツィアがサボタージュをやっているのかどうか等々によってである。
社会主義建設のこれらの諸条件は、それがもつ相対的重要性にしたがって、われわれが上で述べた順序で並べられなければならない。こうした諸条件のなかで最も基本的なものは、生産力の水準である。次に続くのがプロレタリアートの文化的水準である。そして最後に、プロレタリアートが権力を獲得したのちに置かれる政治的ないし軍事政治的な情勢がくる。しかし、これは論理上の順序である。だが、実践上は、権力を手に入れた労働者階級は何よりもまず政治上の困難にぶつかる。わが国では、これは白軍の戦線、外国の干渉などであった。2番目に、プロレタリアートの前衛は、広範な労働者大衆の文化的水準の低さから生まれるさまざまな困難にぶつかる。3番目にやっと、労働者階級の経済建設は、生産力の現在の水準によって定められる制限と衝突するのである。
わが党は、権力を握って以来、ほとんど全期間にわたって、内戦の必要という圧力のもとで活動してきた。そして、生まれてから5年間にわたるソヴィエト・ロシアの経済建設の歴史は、もし単に経済的な合目的性の観点からのみ接近するならば、理解できないだろう。それには、何よりもまず、軍事的および政治的な必要性という尺度から接近しなければならず、2番目に、経済的合理的性という尺度から接近しなければならないのである。
経済的合理性は、必ずしも政治的必要性とは一致しない。もし戦争中に白軍の侵入に脅かされるならば、私は橋を爆破するだろう。抽象的な経済的合目的性の観点からみればこうしたことは野蛮なことであるが、政治的な観点からみれば必要なことである。そして、時機を失せずこの橋を爆破しなかったら、私は愚かで罪人になるだろう。われわれが経済全体を改造したのは、何よりも、労働者階級の権力を軍事的に守る必要に迫られたからである。われわれは、マルクス主義の小学校で資本主義社会から社会主義社会へと一足飛びに移ることはできないということを学んだ。われわれは誰も、必然の王国から自由の王国への飛躍に関するエンゲルスの有名な言葉をそんな機械的な意味には解釈しなかった。われわれは誰も、権力を獲得すれば、社会を一夜にして作り変えることができるとは思わなかった。エンゲルスが実際に念頭に置いていたのは、革命的転換の時代全体のことであり、これは世界史的な規模での真の「飛躍」を意味するものである。しかし、実践活動の観点からすれば、それはけっして飛躍ではなく、改良や転換、そして時には非常にこまごまとした措置の相互にからみあった体系全体なのである。経済的観点からみれば、ブルジョアジーを収奪することが正当化されるのは、労働者国家が新しい原理にもとづいて企業の利用を組織することができる場合にかぎられるということはまったく明らかである。
われわれが1917年から18年にかけて行なった大規模な全面的国有化は、いま述べられた条件をまったく満たしていなかった。労働者国家の組織化の能力は全般的な国有化からははるかに立ち遅れていた。しかし、問題の核心は、われわれが内戦の圧力のもとで、こうした国有化を行なったという点にある。そして、もしわれわれが経済的な意味でもっと慎重に行動しようとしていたならば、つまりブルジョアジーの収奪を「合理的な」漸進性をもって行なおうとしたならば、それはわれわれにとって政治的にはきわめて不合理であり最大の軽率であったろう。そして、このことを示し理解することは、それほど難しいことではない。こうした政策をとっていたら、われわれは全世界の共産主義者とともにモスクワで第5周年記念日を祝うことはできなかったろう。
1917年の11月7日以後に形成されたわが国の状態の特殊性全体を思い起こす必要がある。実際、もしわれわれがヨーロッパで革命が勝利した後に社会主義的発展の舞台に登場したならば、わが国のブルジョアジーは肝をつぶし、ブルジョアジーをやっつけることは非常に簡単だったであろう。ロシアのプロレタリアートが権力を奪取したあとで、ブルジョアジーが不穏な動きをすることもできなかったろう。こうした場合、われわれはゆっくりと大規模な企業だけを手中に収め、中小の企業を当分のあいだ私的資本主義の基礎の上に残しておくことができたろう。そのあとで、われわれは組織的および生産的な能力と必要に厳密に合わせて中規模の企業に移っただろう。こうした順序が経済的「合理性」に合致したことは疑いない。しかし不幸にして、事件の政治上の順序は今度もこうした合理性を考慮しなかったのである。そもそも指摘しておかなければならないが、革命はそれ自体、世界がけっして「経済的合理性」によって支配されてはいないことの外的な表現なのである。社会主義革命は、今のところまだ、経済生活の領域に――そしてそれによって社会生活のすべての他の領域に――理性の支配を打ち立てることを課題として持つにすぎない。
われわれが権力を握ったとき、資本主義はまだ全世界でしっかり立っていた(そして今日も立ちつづけている)。だが、わが国のブルジョアジーは、10月革命が真剣で長期にわたるものだとはけっして信じようとしなかった。ヨーロッパ全体、いや全世界でブルジョアジーが権力の座にとどまっているのに、わが遅れたロシアではプロレタリアートが権力を握っているとは!?…。ロシアのブルジョアジーはわれわれを憎悪しながら、われわれを真面目に相手にしようとしなかった。革命権力の発した最初の法令は嘲笑をもって迎えられた。それは無視され、実行されなかった。新聞記者――なんという臆病な連中!――でさえ、労働者政府の基本的な革命的措置を真面目に取りあげようとはしなかった。ブルジョアジーには、これらのすべてはまさに悲劇的な冗談であり誤解であるように思われた。ブルジョアジーの財産を没収すること以外に、ブルジョアジーとその下僕たちに新政権を尊重することを教えることがどうしてできただろうか? 他には道がなかったのである。
あらゆる工場や銀行や事務所や商店や弁護士の応接室がわれわれに反対する要塞になった。これらの建物は戦闘的な反革命に物質的な基盤と有機的な連絡網を与えた。当時、銀行は、サボタージュする人々をほとんど公然と支持し、ストライキをした役人に俸給を支払った。まさにこうした理由によって、われわれは経済的「合理性」の観点からこの問題に接近せず(カウツキーやオットー・バウアー(6)やマルトフをはじめとする政治的無能たちはこうした接近を試みたが)、革命戦争が何を必要とするかという観点から接近した。組織的な経済活動がどの程度成熟していたかという問題とは独立に、敵を粉砕し、彼らから栄養源を奪うことが必要だった。経済建設の領域では、当時われわれは、最も初歩的な課題に、つまり、たとえかっつかっつであっても、とにかく労働者国家の存続を物質的に維持し、前線でこの国家を防衛している赤軍に食物や衣服を支給し、都市に残っていた労働者階級に食物や衣服(こちらはすでに副次的なものとなっていた)を支給する課題に努力を集中することを余儀なくされていた。良かれ悪しかれ、とにかくこうした課題を解決した幼稚な国営経済には、後に戦時共産主義という名前がつけられた。
戦時共産主義
戦時共産主義を定義するためには三つの問題がとくに重要である。すなわち、食糧はいかにして獲得されたか。それはいかにして分配されたか。国営工業の活動はいかにして規制されたか、である。
ソヴィエト権力が直面したのは、穀物の自由取引ではなく、古い商業機構にもとづく独占であった。内戦はこの機構を粉砕した。そして、労働者国家にとっては、穀物を農民から徴発して、それを自己の手に集中するために、国家の機構を大急ぎでつくりだす以外、なすすべがなかった。
食糧は、労働生産性とほとんど無関係に分配された。そして、そうするしかなかった。労働と賃金との対応関係を確立するためには、はるかに完全な経済管理機構とはるかに大量の食糧資源とを持つ必要がある。だが、ソヴィエト体制の最初の数年間に何よりもまず問題となったのは、都市住民が最終的に餓死することを防ぐことであった。そして、この仕事は食糧の均等配給によって達成された。農民の余剰を徴発してこれを配給することは、本質上、包囲された要塞のとる措置であって、けっして社会主義経済のとる措置ではない。一定の条件のもとでは、すなわちヨーロッパの革命がすみやかにやって来た場合には、包囲された要塞の体制から社会主義体制への移行は、もちろん、われわれにとっては非常に容易になり促進されたであろう。しかし、これについては、もっと後で語ることにしよう…。
工業に関しては、戦時共産主義の本質はいったいどの点にあったのだろうか? どんな経済も、工業のさまざまな部門の間に一定の均衡が存在するという条件のもとでのみ存立し発展することができる。工業の個々の部門は互いに特定の量的かつ質的な相互関係にしたがっている。消費財を生産する諸部門と生産財をつくりだす諸部門との間には一定の均衡が必要である。同様に、これらの諸部門のそれぞれの内部にも正しい均衡が必要である。言いかえるならば、人類の存続といっそうの発展が可能であるためには、一国民ならびに全人類の物質的資源と生きた労働力は、農業と工業の間、ならびに工業の個々の部門間の一定の相互関係にしたがって配分されなければならないのである。
このことは、いかにして達成されるのだろうか? 資本主義のもとでは、これは、自由競争によって、需給のメカニズムと価格の動きによって、好況期と恐慌期の交代によって、市場を通じて達成される。われわれは、この方法を無政府的な方法と呼ぶ。そして、こう呼ぶのは正しい。それは、周期的な恐慌によって大量の労働力と資源とを浪費することに結びついているからである。そしてこれは、不可避的に、人類の文化を完全に破滅させかねない戦争をもたらす。それにもかかわらず、こうした無政府的な資本主義的方法は、その歴史的作用の限界の中でとはいえ、経済のさまざまな部門間に相対的な均衡を確立している。そして、この必要不可欠な相互依存関係が存在することによってのみ、ブルジョア社会は、窒息と破滅をまぬがれて存立することができるのである。
わが国の戦前の経済は、市場における資本主義の諸力の動きによって確立された内的均衡を持っていた。戦争が起こり、それは経済のさまざまな部門の相互関係に巨大な再編を引き起こした。まるで毒キノコのように、軍需産業企業は一般の産業を犠牲にして成長した。続いて革命と内戦による破壊とひそかなサボタージュが起こった。われわれが受け継いだ遺産はどのようなものであったか? 資本主義のもとで存在し、のちに帝国主義戦争によって歪められ、続いて内戦によって最終的に破壊された諸部門間の均衡のかすかな記憶をとどめているにすぎない経済、これがわれわれの受け継いだ遺産である。いったいいかなる方法で経済発展の道を開くことができたろうか?
社会主義のもとでは、経済は中央集権的に管理されるだろう。したがって、個々の部門間に必要な均衡は、厳密に釣り合いのとれた計画によって達成されるだろう。そして、もちろん、その諸部門には大幅な自治が認められるだろう。しかし、この自治は全国的な統制に、続いて国際的な統制に服するであろう。われわれがいま述べているような経済全体の全面的な掌握、つまり完全な社会主義的計算は、アプリオリに、思弁的に、あるいはお役所式に、つくることはできない。それは、当面の実践上の経済的計算を、現在の物質的な資源や可能性や社会主義社会の新しい必要に、徐々に適応させることからのみ成長することができる。前途には長い道のりがある。
それでは、1917〜18年には、われわれは、いったいどこから始めることができ、また、どこから始めなければならなかったのだろうか? 資本主義の機溝――市場や銀行や取引所――は破壊されていた。内戦は頂点に達しつつあった。若干の経済的権利をブルジョアジーに提供するという意味で、ブルジョアジーと――あるいはその一部とですら――経済的に協定を結ぶことは問題にもなりえなかった。経済管理のためのブルジョア機構は、単に全国的な規模においてばかりではなく、それぞれの個々の企業においても破壊されていた。ここから初歩的で死活にかかわる課題が生じた。すなわち、われわれが受け継いだ混沌たる産業上の遺産から、戦闘に従事している軍隊や労働者階級に最も必要不可欠な生産物を引き出すために、たとえ粗削りなものであっても、臨時の機関をつくりだすという課題が生じたのである。基本的にこれは、言葉の広い意味での経済的課題ではなく、むしろ軍需産業上の課題であった。労働組合の協力を得て、国家は工業企業を物質的に支配し、極端に図体が大きく鈍重な中央集権化された機構をつくりだした。それでも、この機構は、われわれが行動中の軍隊に軍装品や武器弾薬を供給することを可能にした。これらの軍用品は量的には極端に乏しかったけれども、われわれが闘争において敗者ではなく勝者となるには十分であった。
農民から余剰農産物を徴発する政策は、不可避的に農業生産の縮小と低下をもたらした。均等な賃金を支払う政策は、不可避的に労働生産性の低下をもたらした。工業を中央集権化された官僚主義的指導のもとにおく政策は、技術設備と手持ちの労働力を真に中央集権的かつ全面的に利用する可能性をなくしてしまった。しかし、こうした戦時共産主義の政策全体は、解体された経済と使い果たされた資源をともなう包囲された要塞の体制によって、われわれに押しつけられたものである。
諸君は、われわれが、重大な経済的転換なしに、大変動や退却なしに、すなわち多かれ少なかれ上昇する直線にそって戦時共産主義から社会主義へと移行することを期待していたのかどうかとお尋ねになるかもしれない。たしかに、当時、われわれは実際に、西ヨーロッパの革命がもっと急速なテンポで発展することに確固たる期待をよせていた。このことは争う余地がない。そして、もしドイツで、フランスで、一般にヨーロッパで、プロレタリアートが1919年に権力を獲得していたならば、われわれの経済発展の全体はまったく違った形をとったことであろう。
1883年にマルクスは、ロシア・ナロードニキ運動の理論家の一人、ニコライ・ダニエルソン(7)に手紙を書いて、もしロシアの村落共同体が歴史によって最終的に廃止される前にヨーロッパのプロレタリアートが権力を握るならば、ロシアにおけるこの村落共同体でさえ、共産主義的な発展の出発点になることができるだろうと述べた。そしてマルクスは完全に正しかった。だが、われわれはそれ以上に正当な理由でこう想定することができた。すなわち、もしヨーロッパのプロレタリアートが1919年に権力を奪取していたならば、ヨーロッパのプロレタリアートは経済的・文化的な意味で後進的なわが国を牽引し、技術的・組織的にわれわれを援助し、かくしてわれわれの戦時共産主義の方法を修正ないし改変することによって真の社会主義経済へ移行する可能性をわれわれに与えるだろう、と。たしかに、われわれはそう希望した。われわれの政策はけっして革命の可能性と展望との過小評価にもとづいてはいなかった。反対に、生きた革命的力としてのわれわれは、こうした可能性を広げ、それを最後まで汲み尽くすために常に努力してきた。革命の前夜に革命を否定し、これを信ぜず、皇帝の大臣になろうとしていたのは、シャイデマン(8)やエーベルト(9)のような紳士諸君である。革命は彼らの不意をつき、彼らは途方にくれてもがぎ、その後、最初の機会が訪れるやいなや反革命の道具と化した。第2半インターナショナルの紳士諸君に関していえば、彼らは当時、第2インターナショナルと一線を画するためにとくに努力を払った。彼らは革命の時代がやって来たと宣言し、プロレタリアートの独裁を承認した。もちろん、彼らにとってはそれは言葉の上でのことにすぎなかった。最初の引き潮の際に、このどっちつかずの連中は、シャイデマンの庇護のもとに舞い戻った。しかし、第2半インターナショナルがつくられたという事実そのものは、共産主義インターナショナルの、とくにわが党の革命的な展望が、発展の一般的傾向の観点だけでなく、テンポの観点からしても、けっして「ユートピア的」ではなかったことを証明している。
戦後、革命的プロレタリアートに欠けていたものは、革命党であった。社会民主主義は資本主義を救済した。すなわち、社会民主主義は資本主義の破滅の時期を数年だけ延期させた。もっと正確には、資本主義の死の苦悶を長びかせた。なぜなら、資本主義世界の今日の存続は、長引いている死の苦悶以外の何ものでもないからである。
しかし、いずれにせよ、こうした事実によってソヴィエト共和国とその経済発展にとって最も不利な諸条件がつくりだされた。労働者と農民のロシアは経済的封鎖綱の中に置かれた。西欧からわが国にやって来たものは、技術的・組織的な援助ではなく、あいつぐ軍事干渉であった。われわれが軍事的な意味で勝利者として姿を現わすことが明らかになった後に、経済的な意味で、われわれがまだ長期にわたって、自分自身の資源と力に頼らなければならないということが、明白になったのである。
「新経済政策」
以上のことから、戦時共産主義すなわち包囲された要塞の経済生活を維持することを課題とする非常措置から、社会主義ヨーロッパの協力がない場合でさえ国の生産力が徐々に向上することを保証するシステムに移行する必要が生じた。軍事的な勝利は、戦時共産主義がなければ不可能であったろうが、この勝利のおかげで、われわれは軍事上の必要にもとづく措置から経済上の合目的性にもとづく措置に移ることができたのである。これが、いわゆる新経済政策の起源である。それは、しばしば退却と呼ばれ、われわれ自身もこれを退却と呼んでいる。そして、これには一定の根拠がある。しかし、この退却の本質がいったいどこにあるのかを正しく評価し、この退却が「降伏」とはほとんど似ても似つかないものであることを理解するためには、われわれの現在の経済状態とその発展傾向とよく知ることが必要である。
1917年3月、ツァーリズムは打倒された。10月には、労働者階級が権力を握った。ほとんどすべての土地が国有化されて農民に引き渡された。この土地を耕す農民は、今では国家に一定の現物税を支払う義務がある。そしてこの現物税は社会主義建設の事業への本質的な寄与となっている。労働者国家は、すべての鉄道網、すべての工業企業を所有し、第二義的な例外をのぞけば、自らの採算でこれらの企業を経営している。信用制度全体が国家の手に集中されている。外国貿易は国家に独占されている。労働者国家の存続した5年間のこうした成果を冷静かつ先入観なしに評価することのできる人は誰でも、次のように言わなければなるまい。たしかに、これは、遅れた国にとってはきわめて大きな社会主義的成果である、と。
しかしながら、特殊性は、この成功が絶えざる直線的発展によって達成されたのではなくて、ジグザグの運動によって達成されたという点にある。まず、最初にわが国には、「共産主義」の体制があり、続いてわれわれは市場関係に門戸を開いた。この政策転換は、ブルジョア・マスコミの中で、共産主義の放棄、資本主義への降伏として解釈された。言うまでもなく、社会民主主義者たちはこの説を解説し深め注釈した。しかしながら、何人かのわれわれの友人でさえ「ロシアでは本当に資本主義への密かな降伏が行なわれているのではないだろうか? 君たちによって復活させられた自由市場にもとづいて資本主義がますます発展し、それが社会主義の萌芽に対して優位を占める危険は本当に存在しないのだろうか?」という疑惑を抱くようになったことは認めないわけにはいかない。
この疑間に正しく答えるためには、あらかじめ基本的な誤解を一帰しておくことが必要である。あたかもソヴィエト・ロシアの経済発展が共産主義から資本主義へ進んでいるかのように言うのは、根本的に誤っている。わが国には共産主義は存在しなかった。わが国には、社会主義は存在しなかったし、存在することはできなかった。われわれは、崩壊したブルジョア経済を国有化し、生死を賭けた闘争の最も先鋭だった時期に、消費「共産主義」の体制を樹立した。政治と戦争の領域でブルジョアジーに打ち勝ったことによって、われわれは、経済に着手する可能性を手に入れた。そして、われわれは、都市と農村との相互関係や、工業の個々の部門間の相互関係や、個々の企業の間の相互関係をめぐって、市場の形式を復活させることを余儀なくされた。
自由市場がなければ、農民は経済のなかで自分たちの場所を見出すことができず、生産の改善や拡大のための刺激を失う。国営企業を強力に発展させて、農民と農業とに必要ないっさいのものを供給することができてはじめて、農民を社会主義経済の全般的システムの中に編入するための土台が準備されるだろう。技術的には、この課題は、電化の助けによって解決されるだろう。そして電化は、農村生活の後進性と農民の野蛮な孤立状態と農村生活の愚昧さに致命的な打撃を与えるだろう。しかし、このような課題を達成するためには、今日の農民的所有者の経済を改善しなければならない。労働者国家は、小経営者の個人的関心を刺激する市場を通してのみ、このような課題を達成することができる。最初の成果はすでに存在している。今年、農村は、労働者国家が戦時共産主義の時期に余剰農産物の徴発によって手に入れたよりもずっと多くの穀物を現物税として労働者国家に与えるだろう。同時に、農業が上向きであることは疑いない。農民は満足している。だが、プロレタリアートと農民の間に正常な関係が存在しない場合には、わが国における社会主義的な発展は不可能である。
しかし、新経済政策は、都市と農村との相互関係からのみ生じるわけではない。この政策は国営工業の発展においても必要不可欠な段階である。生産手段が私的個人の所有とされ、すべての経済関係が市場によって規制されている資本主義と、社会的な計画経済を営む完成した社会主義との間には、一連の過渡的な段階がある。そして新経済政策は、基本的にこうした段階の一つなのである。
鉄道を例にひいて、この問題を検討してみよう。まさに鉄道輸送こそ、社会主義経済のための準備が最も整っている部門である。なぜなら、鉄道網はわが国でも大部分すでに資本主義のもとで国有化され、技術そのものの条件によって中央集権化され、ある程度まで規格化されているからである。れわれは、鉄道の過半数を国家から受け継ぎ、残りは私企業から収奪した。もちろん、真の社会主義的管理は、全鉄道網を全体として、すなわち、あれこれの鉄道路線の所有者の観点からではなく、輸送全体と国の経済全体の利益の観点から検討しなければならない。社会主義的管理は、全体としての経済生活の利益によって必要な形で個々の路線間に機関車や車両を配分しなければならない。
しかし、鉄道輸送という中央集権化された領域においてさえ、こうした経済へ移行することはそれほど簡単なことではない。そこには、一連の中間的な経済上および技術上の段階がある。蒸気機関車にはいろいろな型のものがある。なぜなら、それらはいろいろな時期に、いろいろな会社で、いろいろな工場で作られたものだし、しかも、いろいろな機関車が同時に同一の工場で修理されることもあれば、逆に同じ型の機関車が違う工場で修理されることもあるからである。周知のように、資本主義社会は、生産機構の構成部分が過度に多様化し無政府的に雑多であるがゆえに、大量の労働力を浪費する。したがって、機関車をその型にしたがって分類し、それらを鉄道や修理工場の間に配分することが必要である。これは規格化、すなわち機関車やその部品に関して技術的な均質性をつくりだすことへ向けた重大な第一歩となるだろう。われわれが一度ならず述べたように――そしてそれはまったく正しかったのだが――規格化は技術の社会主義である。規格化なしには、技術は最高の開花には至らない。そして、もし鉄道から出発しないとすれば、いったいどこから規格化を始めることができようか?
そして、われわれは実際この課題に着手したのだが、すぐに大きな障害に直面した。鉄道路線は、単に私営鉄道ばかりではなく、国営鉄道も、市場を通じて、他のすべての経済企業と決済を行なっていた。現在の経済制度のもとでは、このことは経済的に不可避だし、また必要でもあった。なぜなら、あれこれの路線の維持や発展は、どの程度その路線が経済的に正当化されるかによって左右されるからである。ある路線が経済に利益をもたらすかどうかは、われわれが経済の全般的な社会主義的計算の方法をつくり上げるまでは、市場を通じてのみ確認することができる。そしてこうした計算の方法は、前述したように、ただ国有化された生産手段にもとづく活動の長期にわたる経験の結果としてのみ生まれることができるのである。
こうして、経済的点検の古い方法は、新しい方法がつくりだされる以前に、内戦の過程によって一掃されてしまった。こうした条件のもとで、全鉄道網は形式的には統一されたが、この鉄道網のそれぞれの部分は、その他の経済状況全体から遊難し、宙に浮いていた。鉄道網を自足的な技術的統一体とみなし、鉄道網全体における鉄道や車両の保有量を統一し、機関車を中央集権的に分類し、修理の仕事を集中することによって、すなわち技術に関する社会主義の抽象的計画を追求することによって、われわれは、それぞれの個々の鉄道ならびに鉄道網全体における必要・不必要、有利・不利に対するあらゆる統制力を最終的に失う危険をおかした。どの路線を拡張し、どの路線を縮小すべきか。この路線にはどんな車両と要員が必要か。国家は自分の必要のために、どれだけ多くの貨物を輸送することができるか。そして輸送能力のいかなる部分を他の組織や個人の必要のために提供しなければならないか。こうした問題はすべて、現在の歴史的基盤の上では、運賃の確定と正確な簿記と正確な商業的原価計算による以外には、解決できない。鉄道網のさまざまな部分の帳簿上の収支均衡にもとづき、それを経済の他の部分における同じような収支均衡と結びつけることによってのみ、われわれは社会主義的計算の方法と新しい経済計画とをつくり上げることができるだろう。
このことから、すべての鉄道が国家の手に移された後にも個々の鉄道路線ないし個々のグループの鉄道路線に一定の経済上の独立性を許容する必要性が出てくるのである。これらの路線を、それらが依存または奉仕しているすべての残りの経済企業に適応させるために、である。抽象的な技術的計画や形式的な社会主義的目的は、それだけでは、鉄道の経営を資本主義の軌道から社会主義の軌道へ切りかえるためには十分ではない。一定の、しかも長い期間、労働者国家は、鉄道網の経営のためにさえ資本主義的な方法、つまり市場の方法を利用しなければならない。
以上述べたことは、資本主義のもとで、鉄道とは違って、ほとんど中央集権化されず規格化されていなかった工業企業にはいっそう明瞭にあてはまる。市場と信用制度とを廃止した後には、それぞれの工場は、電線を切られた電話に似ていた。戦時共産主義は、経済的統一の官僚主義的な代替物をつくりだした。ウラル地方やドネツ炭田やモスクワやペトログラードその他の機械製造工場は、単一の中央管理局(グラフク)の管轄のもとで統一され、中央管理局は、これらの工場に燃料や原料や技術設備や労働力を中央集権的に配分し、均等配給の制度によって労働力を維持した。こうした官僚主義的な管理がそれぞれの企業の特殊性を完全に均等化し、それぞれの企業の生産性や収益性を点検する可能性そのものを一掃したということはまったく明白である。たとえ中央管理局の記帳のデータが多少正確さの点で抜きん出ていたとしてもそうである。そして実際には、そんなことは全然なかったのである。
それぞれの企業が単一の計画的に機能する社会主義的有機体を構成する細胞になるためには、多年にわたる市場的な経営の大規模な過渡的活動が必要である。そしてこの過渡的期間にそれぞれの企業とそれぞれの企業グループは多かれ少なかれ、市場のなかで独立の地位を占め、市場を通して自己を点検しなければならない。まさにここに新経済政策の意味がある。農民に対する譲歩としての新経済政策の意義が政治的には前景に押し出されたけれども、資本主義経済から社会主義経済への過渡期における国営工業の発展の不可避的な段階としての新経済政策の意義は、けっしてこれに劣るものではない。
かくして、工業の規制のために、労働者国家は市場の方法に頼っている。市場は、一般的等価物を必要とする。この一般的等価物がわが国では、ご承知のように、かなりみじめな状態にある。同志レーニンはすでに、ルーブルをある程度安定させるためのわれわれの努力について述ベ、またこうした努力がまったく不成功に終わったわけではないことを述べた。市場の復活とともに、経済思想の領域で物神崇拝的な現象も復活したということは、非常に教訓的である。この中には多くの共産党員も含まれているが、彼らは共産党員としてではなく市場の商人として、次のように発言している。ご承知のように、われわれの企業は、資金不足に苦しんでいる。それでは、どこから資金を手に入れるべきか。もちろん、印刷機からである。現在閉鎖されている一連の工場を始動させるためには、紙幣の発行量を増やしさえすれば十分だ、というのである。ある同志たちはこう言っている。「諸君がこんなにけちくさく発行しているつまらぬ紙切れと引き換えに、われわれは、数ヶ月で諸君に、リンネルや靴やナットその他の立派な品物を提供することができるだろう」と。
こうした議論が偽りであることは、まったく明らかである。運転資金の不足が物語っているのは、われわれが貧乏であって、生産の拡大のためには、われわれが社会主義的な本源的蓄積の段階を通過する必要があるということにすぎない。われわれの貧困――パンや石炭や機関車や住宅などの不足――は、今では運転資金の欠乏という形をとっている。なぜなら、われわれは、経済を市場の基礎の上に移したからである。その際、重工業は羨ましげに、軽工業の成功を指さしている。これは何を意味するのか? これが意味しているのは、始まったばかりの経済復興の時期に手持ちの資源が、何よりも必要かつ緊急であるところに、すなわち労働者や農民の、個人もしくは家庭で消費する製品を生産する部門に真っ先に向けられているということである。現在ではこの種の企業はうまくやっている。その際、市場では、国営企業が相互に競争しなければならず、部分的には、私企業と競争しなければならない。もっとも、ご承知のように、こうした私企業はきわめて少数である。このようにしてはじめて、国有工業はしかるべきやり方で働くことを学ぶのである。他の方法では、この目的を達成することはできない。この目的は、けっして事務所の机上ででっち上げられたアプリオリな経済計画によっても、共産主義者の抽象的な説教によっても達成できない。必要なのは、それぞれの国営工場、その技術責任者、経営責任者が上からの、つまり国家機関からの統制にしたがうばかりでなく、同時に下からの、つまりまだ長期にわたって国家経済の規制者としてとどまる市場の統制にしたがうということである。国営の軽工業が市場の上で強化され国家に収入をもたらしはじめるにつれて、重工業のための運転資金がつくられる。もちろん、これは、国家がもつ唯一の財源ではない。国家は他にも財源を持っている。すなわち、農民から徴収される現物税、私営の商工業に対する税金、関税収入その他である。
それゆえ、わが国工業の財政上の困難は、自足的な性格を持つものではなく、経済の復興過程全体から生じている。もし、われわれの財務人民委員部が、紙幣を増刷することによって各工業企業に迎合しようとするならば、市場は、不可避的に、せっかちな工場が新しい商品を市場に供給する前に余剰紙幣を吐き出すだろう。言いかえるならば、ルーブルの価値が低下し、こうして2倍ないし3倍だけ発行された紙幣の購買力は、現在流通している紙幣の購買力よりも滅少するだろう。
もちろん、国家は紙幣の新たな発行を拒否するわけではない。しかし、紙幣の発行は現実の経済過程にもとづいて行なわれなければならないし、また、どの場合においても国家の購買力を増大させ、したがってまた社会主義的な本源的蓄積を促進するような形で行なわれなければならない。国家は、計画経済を、つまり、市場の働きに対する意識的で強制的な修正を完全に放棄するものではない。しかし、国家は、その際に、何かアプリオリな計算から出発したり、戦時共産主義のもとで行なわれていたような抽象的かつ極端に不正確な計画上の仮定から出発したりせず、この同じ市場の実際の働きから出発する。そして、この市場を点検する道具の一つが通貨の状態ならびに中央集権化された国営の信用制度なのである。
二つの陣営の力と資源
ネップはわれわれをどこへ導きつつあるだろうか、資本主義へか社会主義へか? 言うまでもなくこれが中心的な問題である。市場や穀物の自由取引や、競争や、賃貸や利権――こうしたものすべてはどんな結果をもたらすだろうか? 悪魔に指を与えるならば、次に腕を、次に肩を、そしてついには身体全体をも与えるはめにならないだろうか?
現在すでに、商業の領域で、とくに都市と農村との交換経路において、私的資本が活動している。わが国では、私的商業資本は、労働者国家が社会主義的な本源的蓄積の時期を通過しつつある時に、ふたたび資本主義的な本源的蓄積の段階を通過しつつある。私的商業資本が成長しつつある以上、それが工業の中にも入りこもうとすることは避けられない。国家は工場を私的企業家に賃貸している。したがって、私的資本の蓄積は商業ばかりでなく工業においてもすでに進行しつつある。搾取者たち、つまり投機者や商人や、賃貸企業の経営者や利権家が、労働者国家の保護のもとにいっそう強力になり、国民経済のますます大きな部分を支配し、市場を通じて社会主義の要素を四散させ、そのうちに国家権力をも獲得することにはならないだろうか? なぜなら、われわれは、オットー・バウアーに劣らず、経済は土台であり、政治は上部構造だということを知っているからである。以上すべてのことは、実際にネップが資本主義復活への過渡期であるということを意味するものではないだろうか?
このように抽象的なやり方で提起された問いに抽象的に答える場合には、もちろん、一般に闘争の過程において一時的な敗北の危険がありうるのと同様に、資本主義復活の危険がありうるということは否定できない。われわれが協商国によって背後から操られていたコルチャークやデニーキンと闘ったとき、われわれが敗北することは大いにありうることだった。そして、カウツキーは来る日も来る日もわれわれの敗北を敬虔深く待っていた。しかし、われわれは、一方では敗北の理論的可能性を考慮しながらも、実践的にはわれわれの政策を勝利の展望の上に立てたのだった。いずれにせよ、力関係はわれわれの勝利を排除していなかった。われわれは、こうした力関係に強固な意志と正しい戦略をつけ加えた。そして、われわれは勝利をおさめた。そして今また同じ敵との闘争――労働者国家と資本主義との闘争――が行なわれている。しかし、今度は戦場ではなく、経済的舞台の上で闘争が行なわれている。内戦の時には、赤軍と白衛軍とが農民を影響下に置くために闘ったが、今日では、国家資本と私的資本の間で農民の市場をめぐって闘争が行なわれている。この闘争のなかでは、敵ならびに味方の力と資源を可能なかぎり完全かつ正確に算定することが必要である。こうした点では事情はどうなのだろうか?
市場にもとづいた経済闘争におけるわれわれの最も重要な手段は国家権力である。改良主義者の間抜けだけが、この武器の意義を理解することができない。ブルジョアジーは、このことをよく理解している。ブルジョアジーの歴史全体がこのことを証明している。
プロレタリアートの握っているもう一つの武器は、国の最も重要な生産力である。つまり鉄道輸送の全体と、鉱業の全体と、製造業の企業の圧倒的多数が労働者階級の直接的な経済管理のもとに置かれている。
また、土地は労働者国家に属しており、農民たちはこれを利用する代償として、1年に数億プードの農産物
[1プードは16・38キログラム]の現物税を納めている。労働者の権力は国境を握っている。外国の商品や資本は一般に、労働者国家が望ましく許されると認めた範囲で、わが国への入場許可を得ることができる。
以上が社会主義建設の武器と手段である。
もちろん、われわれの敵は、労働者の権力のもとでも、何よりもまず穀物の自由取引を利用しながら、資本を蓄積する可能性を有している。商業資本は、工業に浸透することができるし、すでに工業に浸透し、企業を借りうけ、そこから利潤をあげながら成長しつつある。以上のことはまったく争う余地がない。しかし、こうした相闘う勢力間の量的な力関係はどうだろうか? そして、これらの勢力の発展力学はどのようなものだろうか? 他の領域でも同じだが、この領域では、量は質に転化する。もし国の最も重要な生産力が私的資本の手に陥るならば、そのときには、もちろん社会主義の建設については問題にもならず、労働者権力の余命はいくばくもないだろう。それでは、この危険はどれほど大きいだろうか? それはどれほど接近しているだろうか? この問題に答えることができるのは、事実と数字のみである。最も重要かつ不可欠なデータを挙げることにしよう。
わが国の鉄道網は延長6万3000ヴェルスタ
[1ヴェルスタは1・067キロメートル]に達し、80万人以上の労働者と職員を雇用しており、完全に国有財産となっている。鉄道綱が経済の非常に重要な、しかも多くの点で決定的な要因であることは、誰しも否定しないだろう。そしてわれわれは、この要因を手放そうとは思わない。次に工業の分野を例にとってみよう。新経済政策のもとでも、すべての工業企業は例外なく国家の所有になっている。たしかに、これらの企業の若干のものは賃貸されている。しかし、国家が自ら経営している企業と賃貸されている企業の相互関係はどのようなものだろうか? この相互関係は、次の数字から明らかである。4000以上の企業が国家によって経営され、全体として約100万人の労働者を雇用している。4000を少し下回る企業が賃貸され、せいぜい約8万人の労働者を雇用しているにすぎない。つまり、国営企業では1企業あたり平均207人の労働者が働き、賃貸された企業では1企業あたり17人の労働者しか働いていないということである。このことは、賃貸されている企業が、主として軽工業の2流企業と3流企業であることによって説明される。しかも、賃貸された企業の中でも、半数をわずかに越える部分(51%)が私的資本家によって利用されているにすぎず、残りの借り手は、個々の国家機関ならびに協同組合である。これらの国家機関や協同組合は、これらの工業企業を契約方式で国家から借りているのである。言いかえるならば、4万ないし5万の労働者を雇っている最も小規模な約2000の企業が、私的資本によって利用されており、この私的資本と対立する最も強力で最も設備のいい4000の企業が約100万の労働者を雇い、ソヴィエト国家によって利用されている。
こうした事実と数字を無視して、「一般に」資本主義の勝利について語ることはまったく滑稽で馬鹿げたことである。もちろん、賃貸された企業は国営企業と競争しており、抽象的に見れば、次のように言えるだろう。もし賃貸された企業が非常に上手に経営され、国営企業が非常に下手に経営されるならば、長年のうちには私的資本は国家資本を吸収するだろう、と。しかし、今のところこうした状態からはほど遠い。経済過程に対する統制は国家権力の手中にあり、この権力は労働者階級の手中に置かれている。もちろん、市場を復活させるなかで、労働者国家は、市場取引を可能にするために不可欠な一連の法律上の変更を行なった。こうした法律上ならびに行政上の改革が資本主義的蓄積の可能性を開くかぎりで、それらはブルジョアジーへの間接的ではあるが非常に重要な譲歩をなすものである。しかし、わが国の新しいブルジョアジーは、自己の経済的ならびに政治的な資源に応じてしか、こうした譲歩を利用することができない。すでに見たように、ブルジョアジーの経済的資源はまったくささやかなものだ。ブルジョアジーの政治的資源はゼロに等しい。そして、われわれは、ブルジョアジーが政治の領域でいかなる「蓄積」もしないように努力するだろう。さらに忘れてならないのは、信用と課税の機構が労働者国家の手中にあり、これが国営工業と私的工業との闘争においてきわめて重要な武器となっていることである。
たしかに、商業の領域では私的資本の役割はより大きい。この点については、今のところ、何らかの正確な数字を提供することはできない。わが国の協同組合の活動家たちの行なったきわめて近似的な集計によれば、私的商業資本は、商業取引高の30%を占めているが、国家と協同組合とはその約70%を占めている。私的資本の主要な役割は農業と工業とを、部分的にはさまざまな工業部門間を仲介することにある。しかし、最も重要な工業企業は国家の手中にあるし、外国貿易の鍵も国家の手中にある。国家は市場における主要な購買者であるとともに主要な販売者でもある。こうした条件のもとで協同組合は私的資本と十分にうまく競争することができるし、今後はますますそうなるだろう。さらに、もう一度、国家財政というハサミがきわめて重要な道具であることを想起しよう。このハサミは、私的資本主義が天まで伸びないように、こずえを適切な時期に刈りとらなければならない。
理論的には、われわれはつねに次のように主張してきた。プロレタリアートは権力を獲得したのち、まだ長い問、国営企業と並んで、技術的により不完全で集中化のより遅れている私的企業を甘受することを余儀なくされるだろう、と。その際われわれは、国営企業と私的企業との関係、および、かなりの程度は、個々の国営企業ないしそのグループ間の相互関係が、貨幣計算の形式で市場的な方法によって規制されるということをけっして疑ったことはなかった。しかし、まさにこのことによって、われわれは経済の社会主義的な再組織化の過程と平行して、私的資本の蓄積の過程が続くだろうということを認めたわけである。しかしながら、われわれは、私的な蓄積が国営経済の成長を追い越し、これを食いつくしはしまいかという危惧の念は抱かなかった。
それでは、資本主義の勝利は不可避だとか、すでにわれわれが資本主義へ「降伏」したとかいう話はいったいどこから、そしてなぜ生じたのだろうか? それは、他でもなく、われわれが小企業を個人の手にそのまま残したのではなく、それをまず最初に国有化して、その一部を国家によって経営しようとさえ試み、後になってそれを個人に賃貸したからである。しかし、こうした経済的なジグザグをどう評価するにせよ――これを状況全体から出てくる不可避なものとして評価しようと、戦術的な失策として評価しようと――、この転換もしくは「退却」が国営工業と個人に賃貸された工業との間の力関係をいささかも変えるものではないということはまったく明らかである。一方には、国家権力と鉄道網と100万の工業労働者が立ち、他方には、私的資本に搾取されている約5万人の労働者が立っている。こうした条件のもとで社会主義的蓄積に対する勝利が資本主義的蓄積に保証されているとみなす根拠は、いったいどこにあるのだろうか?
明らかに、きわめて本質的な1枚を除いて、主要な切り札はわれわれの側にある。そしてこの1枚とは、ロシアで活動している私的資本の背後には世界資本がそびえ立っているという事実である。われわれは、今でも資本主義に包囲されて生活している。それゆえ、われわれは、次のような問題を提起することができるし、また提起しなければならない。「まだ資本主義の手段で経営されているわが生成しつつある社会主義は、世界資本によって買収されはしないだろうか」と。
かかる取引には2人の当事者、すなわち買い手と売り手が必要である。だが権力はわが国では労働者階級の手中にある。この権力に、利権――その対象や規模――は左右される。外国貿易は独占されている。ヨーロッパの資本はこの独占に穴を開けようとしている。しかし、そんなことはけっして起こらない。外国貿易の独占は、われわれにとって原則的な意義を持っている。それは、資本主義に対する防衛手段の一つである。というのは、資本主義は、軍事的な手段によって社会主義を粉砕することができないとわかった後では、一定の条件のもとで、生成しつつある社会主義を買い占めることにもちろん異存はないだろうからである…。
今日、利権に関しては状況はどうなっているだろうか? この点について同志レーニンはこの場で次のように指摘した。「議論は多いが利権は少ない」と(笑い)。これは何によって説明されるのだろうか? 他でもなく、われわれの側からの資本主義への降伏はないし、将来もないだろうということによって説明される。たしかに、ソヴィエト・ロシアとの関係の回復を支持する人々によって、次のように一度ならず語られ書かれてきた、「最大の危機に見舞われている世界資本主義はソヴィエト・ロシアを必要としている、イギリスはロシア市場を必要とし、ドイツはロシアの穀物を必要としている」云々、云々と。もしわれわれが平和主義的に世界をながめるならば、つまり、「常識」――それはたしかにいつもきわめて平和主義的だ(笑い)、それゆえいつも痛い目にあう――の立場から世界をながめるならば、こうした議論はまったく正しいように見える。どうやら、イギリスの資本家たちは全力をあげてロシアを目指さなければならないようである。どうやら、フランスのブルジョアジーはロシアにドイツの技術を振り向け、そしてこれによってドイツの賠償金を支払わせる新しい源泉をつくり出さなければならないようである。しかし、このようなことは生じていない。なぜか? それは、われわれが、資本主義の均衡が完全に破壊された時代に生きているからであり、経済的、政治的、軍事的な危機の交差する時代――つまり不安定で不確実で絶え間ない不安の時代――に生きているからである。このためブルジョアジーは、長期を展望した政策をとることがでぎない。なぜなら、このような政策はただちに、あまりにも多くの未知数を含む方程式に転化するからである。イギリスとの貿易協定がついに調印された。しかし、これは、すでに1年半前に起こったことである。実際には、われわれはイギリスから金で買うにすぎない。利権供与の問題はまだ議論の過程にある。
もし、ヨーロッパのブルジョアジー、なかでもイギリスのブルジョアジーが、ロシアとの広範な協力を確立することでただちにヨーロッパの経済情勢を大いに改善しうると考えたならば、ロイド=ジョージ(10)とその仲間たちがジェノヴァで違った結果をもたらしただろうことは疑いない。しかし、彼らは、ロシアとの協力がただちに重大かつ急激な変化をもたらしえないということを理解している。ロシアの市場は、2、3週はもちろん数ヶ月以内にさえ、イギリスの失業を一掃しないだろう。ロシアは、ますます成長する要因として、ヨーロッパと世界の経済生活へ徐々に入りこむことができるにすぎない。その規模と天然資源と人口のために、とくに革命によって覚醒せられた能動性ゆえに、ロシアはヨーロッパと世界で最も重要な経済力になることができる。しかし、それは即時にとか明日にとかいうわけではなく、ようやく何年もたってからのことである。ロシアは、もしいま信用が供与され、したがってその経済的成長を促進する機会が与えられるならば、重要な購買者ならびに供給者になることができるだろう。5年後、10年後には、ロシアはイギリスにとって最も重要な市場になるであろう。しかし、そのためには、イギリス政府は、自らが10年後に存在して、イギリス資本主義が10年後にロシア市場を保持することができるほど強いということを信じなければならない。言いかえるならば、ロシアとの真の経済協力の政策は、広範な基礎にもとづく政策である他はないのである。しかし、問題の核心はもっぱら、戦後のブルジョアジーはもはや大規模な政策を行なうことができないという点にある。ブルジョアジーには明日何が起きるかわからない。まして明後日に何が起こるかは、ますますわからない。そして、これはブルジョアジーの歴史的末期を示す徴候の一つである。
たしかに、これは、レスリー・アーカートがわれわれとの間にまる99年にわたる協定を結ぼうとした事実とは矛盾するように見える。実際には、これは、外見上の矛盾にすぎない。アーカートの打算は単純であって、それなりに正しい。もし資本主義がイギリスばかりでなく全世界で99年存続するならば、アーカートは、ロシアでも彼の利権を維持するだろう。だが、もしプロレタリア革命が99年後はおろか9年後でさえもなく、それよりもずっと早く勃発するならば、どうなるだろうか? もちろん、ロシアは、世界中の収奪された有産者たちが自分たちの財産を保全する場所にはならない。しかし、頭を失わなければならない人間が、髪の毛を惜しんで泣きはしない…。
われわれが初めて長期の利権を提案したときすでに、カウツキーはわれわれがプロレタリア革命の早期到来を信じていないという結論を引き出した。今日彼は、率直に、われわれが少なくとも99年間革命を延期していると結論すべきである。しかしながら、このような結論は、この尊敬すべき、だが、いささか皺だらけの理論家にまったくふさわしいが、根拠薄弱であろう。実際には、あれこれの利権の供与に署名する場合、われわれは、この利権の供与に関して、ただわが国の立法と行政に対してだけ責任を引き受けるのであって、けっして世界革命の活動に対して責任を引き受けるのではない。世界革命は、われわれの利権協定だけではなく、もっと重大な障害物をも乗り越えて進むだろう。
社会民主主義者は、資本主義へのソヴィエト権力の架空の「降伏」なるものを、事実や数字の分析からではなく、決まり文句から――しばしば、わが国の国営経済に関して用いられている「国家資本主義」という用語から引き出した。私はこの用語が正確でもなければ適切でもないと思う。同志レーニンは、すでに報告の中で、この用語を引用符に入れて使う必要を、つまりこれを最大限慎重に使う必要性を強調した。これはきわめて必要な指示である。なぜなら、すべての人にこの慎重さがあるとはかぎらないからである。だがヨーロッパでは、この用語は、部分的には共産主義者のあいだでさえまったく誤って理解されていた。わが国の国営工業が、マルクス主義者の間で一般に承認されている意味での国家資本主義であると思っている。もちろん、そうではない。もしわが国の国営工業が国家資本主義であるとすれば、この用語そのものより大きな引用符をつけてのことである。なぜか? 理由はきわめて明らかである。それは、この用語を使う場合には、国家の階級的な本質を無視することは許されないからである。
この用語自身が社会主義的な起源を持っていることを指摘するのも無駄ではあるまい。ジョレスおよび一般に彼に追随するフランスの改良主義者たちは、「民主共和制のもとでの徹底した社会化」について語った。これに対して、われわれマルクス主義者は、権力がブルジョアジーの手中にあるかぎり、こうした社会化は社会化ではなく、それは社会主義をもたらさず、国家資本主義をもたらすにすぎないと答えた。言いかえれば、個々の資本家による個々の工場や鉄道などの個人所有が国家と呼ばれるブルジョア商会による企業グループの総体や鉄道などの共同所有に置きかえられるだけであろう。ブルジョアジーが権力を持っているかぎり、ちょうど個々のブルジョアが個人所有によって「自分の」労働者を搾取するのと同様に、ブルジョアジーは全体としての国家資本主義を通じてプロレタリアートを搾取するのである。こうして、「国家資本主義」という用語は、改良主義者に反対して革命的マルクス主義者によって提起されるか、あるいはとにかく論争上で用いられた。そして、その目的は、本来の社会化が労働者階級による権力の獲得後に初めて開始されるということを説明し、証明することにあった。
ご存じのように、改良主義者は、自分たちの綱領全体を改良にもとづいてつくった。われわれマルクス主義者は、けっして社会主義的な改良を否定したことはない。しかし、われわれは、社会主義的な改良の時期は、プロレタリアートが権力を獲得したのちにはじめて開始されるだろうと述べたのである。この点については見解の相違があった。今日ロシアでは、権力は労働者階級の手中にある。最も重要な産業は労働者国家の手中にある。ここには、階級的な搾取が存在せず、したがって、資本主義も存在しない。最も、その諸形式は存在しているが。労働者国家の工業は、その発展傾向の点では社会主義的な工業だが、その発展のために、資本主義経済によってつくられ、われわれによってまだまだ使い果たされていない各種の方法を利用している。
真の国家資本主義のもとでは、すなわちブルジョアジーの権力のもとでは、国家資本主義の成長は、ブルジョア国家が富裕化し、労働者階級に対するブルジョア国家の権力が強化されることを意味する。わが国では、ソヴィエトの国営工業の成長は、社会主義自身が成長し、プロレタリアートの権力が直接強化されることを意味する。
原則的に新しい経済現象が古い外皮の内部で発展する事態は、歴史において一度ならず、しかもきわめて多様な組み合わせにおいて見られた。ピョートル大帝(11)の時代以降、まだ農奴制のもとで、ロシアに工業が発達しはじめたとき、工場は、当時のヨーロッパの模範にしたがってつくられたが、農奴制の上に建設された。つまり、農奴が労働力としてこれに徴用されたのである(これらの工場は「国有地農民徴用工場」と呼ばれた)。これらの企業を所有していたストロゴノフやデミードフといった資本家たちは、農奴制の外皮のもとで資本主義を発展させた。これと同様に、社会主義も最初の数歩を資本主義の外皮のもとで踏み出すことは避けられない。自分の頭を飛び越えることによって完成した社会主義的な方法に移ることはできない。とくに、こう言っては何だが、われわれロシアの頭の場合のように、髪があまりきれいに洗われておらず、きちんととかされてもいない頭である場合には、なおさらである。われわれは、まだまだ学ばねばならない。
労働生産性の基準
だが、社会体制の生命力を決定するうえで本質的に重要で根本的な問題がある。われわれはこの問題に今までまったく触れてこなかった。その問題とは、経済の生産性、つまり、単に個人の労働の生産性ではなく、全体としての経済体制の生産性の問題である。人類の歴史的な上昇の核心は、まさにより高い労働生産性を保証する体制がより低い生産性をもつ体制と交代するという点にある。資本主義が古い封建社会と交代したのは、人間の労働が資本の支配のもとではいっそう生産的だからにすぎない。そして、社会主義が資本主義を完全かつ最終的に征服するだろうという理由は、社会主義が資本主義よりも人間労働力の一単位あたりではるかに大量の生産物を保証するからに他ならない。
では、今すでに、わが国営企業が資本主義体制のもとでよりも、もっと生産的に経営されていると言えるだろうか? いや、まだ、そうはなっていない。アメリカ人やイギリス人やフランス人やドイツ人が彼らの資本主義工場でわれわれよりも、もっと良く、もっと生産的に働いているばかりではなく――これは革命以前にもそうであったが――、われわれ自身が革命以前には今よりも良く働いていた。この事態は、一見したところ、ソヴィエト体制をどう評価するかという見地からすると、非常に恐るべきことのように見えるかもしれない。われわれのブルジョア的な敵たちばかりでなく、もちろん彼らに追随している社会民主主義の批判家たちも、わが国の経済の生産性が低いという事実を、あらゆる手を使って、われわれに対する攻撃材料として利用している。ジェノヴァ会議でフランス代表のコルラーはチチェーリン(12)に答えて、ブルジョア的な傲慢さで、次のように述べた。ソヴィエトの代表団は一般に、ロシアが今陥っている経済状態を見れば、経済問題について発言する権利はない、と。この論拠は一見したところ勝利したように見える。しかし、実際には、それは歴史と経済に関するはなはだしい無知を証明しているにすぎない。もちろん、もしわれわれが、まさに現在、経験から引き出した理論的な論拠によってではなく、物質的な論拠によって社会主義の優位性を示すことができるなら、まったくすばらしいだろう。つまり、もしわれわれが、われわれの工場が、より集中化されより整備された組織のおかげで、資本主義国の同じような企業よりも、少なくとも、革命前の同じ企業よりも、もっと高い生産性を与えていることを示すことができるなら、まったくすばらしいことだろう。しかし、まだこのような成果は存在していないし、当分は存在することができない。そして、このような成果をそれほどすぐ手に入れることはできない。なぜなら、現在わが国に存在しているのは、資本主義に対立する社会主義ではなく、資本主義から社会主義への移行の困難な過程であり、しかもこの移行の最も苦痛にみちた第一歩にすぎないからである。カール・マルクスの有名な言葉をも知っているならば、われわれが苦しんでいるのは、わが国にまだ資本主義の強力な残滓が残っているためばかりではなく、社会主義の端初が存在するにすぎないためでもあると言うことができる。
実際、わが国の労働生産性は低下し、生活水準も低下した。農業では、昨年の収穫は戦前の平均収穫の約4分の3となっている。工業では事態はずっと悲しむべきものである。わが国の今年の生産高は戦前の生産高の約4分の1程度にすぎない。運輸量は戦前の約3分の1になっている。これらの事実は非常に悲しむべきことである。だが、封建社会からブルジョア社会へ移行した時には、事態は現在とは違っていただろうか? 資本主義社会は現在豊かで、その富と文化を誇っているが、社会主義と同様に革命から、しかも非常に破壊的な革命から生まれたものである。より高い労働生産性のための条件をつくりだす客観的な歴史的課題は、結局ブルジョア革命によって、もっと正確に言うならば、一連のブルジョア革命によって解決された。しかし、いかなる方法によって解決されたのだろうか? それは異常な荒廃と物質的文化の一時的な低下によって解決されたのである。
同じフランスを例にとってみよう。もちろんコルラー氏は、ブルジョア大臣だからといって、自分が熱烈に愛する祖国の歴史を知る義務はない。しかし、われわれは、フランスとフランス革命の歴史を知っている。反動派のテーヌ(13)を取り上げるにせよ、社会主義者ジョレス(14)を取り上げるにせよ、われわれは、彼らの著作から革命後のフランスの恐るべき状態を特徴づける十分に明白な事実を発見することができる。そして、荒廃の規模があまりに大きかったので、テルミドール9日の後、つまり革命が勃発してから5年たった時になっても、窮乏は緩和されず、むしろ反対に深刻化し続けた。ナポレオン・ボナパルトがすでに第一執政になっていた大革命の10年目には、当時50万の人口を有していたパリは、飢えをしのぐためだけでさえ日に1500袋の小麦粉が必要だったにもかかわらず、毎日受けていた配給は300袋から500袋にすぎなかった。第一執政は、毎日運び込まれる小麦の量に気を配っていた。忘れないでいただきたいが、これがフランス大革命勃発から10年目の状態だったのである。この時までに、フランスの人口は、飢餓や流行病や戦争のために、58県のうち37県で滅少していた。当時のコルラーやポアンカレ(15)に相当するようなイギリス人たちが、荒廃したフランスに対して軽蔑しきった態度をとったことは、言うまでもない。
こうしたことすべては、何を意味するのだろうか? それは、革命が問題解決のきわめて苛酷で不経済な方法だということにすぎない。しかし、歴史は他の方法を考えださなかった。革命は新しい政治体制に門戸を開くが、破壊的な大変動によってこれを達成するのである。しかも、わが国では戦争が革命に先行していた。われわれはまだ革命の10年目ではなく、6年目の始めのところにいることも忘れないでいただきたい! そして、われわれの革命は、フランス革命より少々深く進行している。というのは、フランス革命は単に搾取のある形態を搾取の別の形態に置きかえたにすぎないが、これに対して、われわれは搾取にもとづく社会を人間の連帯にもとづく社会によって置きかえつつあるのである。衝撃はきわめて激しく、破壊はきわめて大きく、非常に多くの皿がぶちこわされた。そして、現在何よりもまず目につくものは、革命のための出費である。これに対して、革命の最大の獲得物に関していえば、それらは数年ないし数十年の間に徐々に実現されるにすぎない。
つい先日、私は、われわれの関心をひくこの問題に関する一講演に接した。これはフランスの化学者で、有名な化学者ベルトロ(16)の息子の講演である。彼は科学アカデミーの会員として次のような考えを最近述べた(これは『タン』紙からの引用である)。
「歴史のすべての時期に、科学の領域においても、政治や社会現象の領域においても、武力紛争は、つねに血と鉄でもって新時代の誕生を促進するという壮大な恐るべき特権を有している」。
もちろん、ベルトロ氏はここでは何よりもまず戦争のことを念頭に置いているのだが、それにもかかわらず彼は基本的には正しい。なぜなら、戦争もそれが革命的な階級の事業に奉仕する場合には、歴史の発展に巨大な刺激を与えてきたからである。また、戦争は(そしてこうしたことははるかに頻繁に起こったが)抑圧者の仕事に奉仕する場合でさえ、しばしば被抑圧者の運動に刺激を与えてきた。ベルトロの言葉は、革命にはずっとよくあてはまる。階級間の「武力紛争」は広範な荒廃をもたらすと同時に「新時代の誕生」をも意味する。したがって、革命のための出費はけっして冗費(フランス人の言う、faux frais)ではない。ただ、利息は期限満了までは要求してはいけないだけである。革命の10年目に、つまりナポレオンが飢えたパリのために小麦袋の数を数えていたときに、われわれが経済の領域における資本主義に対する社会主義の優位性を思弁によってではなく物質的な事実によって示すことができるためには、われわれは友人たちにもう5年間待ってくれるように頼まなければならない。そして、われわれは、このときまでに最初の説得力ある事実がすでに存在することを希望している。
しかし、それでもやはり、まさに現在の工業のきわめて悲しむべき状態の結果、こうした未来の成功にいたる途上で、われわれの体制が資本主義的に変質する危険はないのだろうか? すでに述べたように、農民は今年、戦前のほぼ4分の3の収穫を上げた。これに対して、工業は、戦前のたった4分の1を生産したにすぎない。そのために、都市と農村との相互関係はひどく破壊され、しかも都市に不利に破壊された。こうした状況のもとでは、国営工業は農民に穀物の代わりに等価の製品を供給することができず、市場へ放出された余剰農産物は私的資本主義的な蓄積の土台となるだろう。
もちろん、こうした推論は、基本的には正しい。市場関係というものは、われわれがどんな目的でこれを復活させたにせよ、それ自身の論理を持っているからである。しかし、ここで再び大切なことは、正確な量的相互関係を明らかにすることである。もし、農民がその穀物全部を市場に放出することになれば、われわれの工業が4分の1に弱体化している状態では、社会主義の発展にとって最も困難な結果をもたらすおそれがある。しかし、実際には、農民は主として自分の消費のために生産している。その上、農民は、今年度は3億5000万プード以上の食糧税を政府に支払う。農民の自家消費分と税金とを上回る余剰農産物のみが農民によって市場に放出されるのである。だが、これは、今年度は1億プードを大きく越えることはほとんどないだろう。しかも、こうした1億プードの余剰農産物の最重要な部分とまではいかなくても重要な部分は、協同組合もしくは国家機関によって買い入れられている。こうして、国営工業は、全体としての農民経済に対立しているのではなく、市場に放出されている農民経済の今のところ重要ではない一部に対立しているにすぎない。農民のこの部分だけが(もっと正確に言うならば、この部分のさらに一部だけが)、私的資本主義的な蓄積の源泉となるのである。将来、この部分が成長することは疑いない。しかし、これと平行して、同時に合同国営工業の生産性も成長するだろう。そして、国営工業の成長が農業の向上に遅れると考えるいかなる根拠も断じてない。われわれがすぐ後で見るように、今は亡き第2半インターナショナルの紳士諸君の最も賢明かつ深遠な批判は、主として、時間と空間の具体的な状況の中で形成されつつあるロシアの最も基本的な経済関係に対する無知か誤解にもとづいているのである。
社会民主主義者の批判について
わが国の4周年記念日に、すなわち1年前に、オットー・バウアーはわが国の経済に関する小冊子を執筆した。その中で彼は、わが国の新経済政策について、いつもは社会民主主義陣営におけるいっそう感情的な敵対者が口角泡を飛ばして言っていることのすべてを、きちんと洗練された形式で述べている。まず何よりも新経済政策は「資本主義への降伏」であるが、バウアーによれば、これこそがその長所であり、現実的な点でもあるのだ(これらの紳士諸君は、機会がありしだいブルジョアジーの前に膝まずくことのうちにいつでも現実主義を見てきたし、今でも見ている)。結局のところ、ロシア革命はブルジョア民主共和制以外のいかなるものも生みだすことはできない、とバウアーはわれわれに説教を垂れる。そして彼バウアーは、このことを、何と、1917年にすでに予言していたと言うのである。
しかしながら、われわれは、第2半インターナショナルのこれら惨めな英雄たちの「予言」が、1919年にはいくらか違った調子を帯びていたことを覚えている。その時、彼らは、資本主義の崩壊と社会革命の時代の到来について語っていた。だが、もし世界中に資本主義の破滅が近づきつつあるとすれば、どんな愚か者でも、労働者階級が権力をとっている革命ロシアにおいて資本主義の繁栄期がこれからようやく始まるにちがいないなどということを信じはしないであろう! それで、オットー・バウアーが資本主義とハプスブルク君主制は不動であるというオーストリア・マルクス主義の素朴な信仰をまだ維持していた1917年には、彼は、ロシア革命はただブルジョア国家の創出しかもたらしえないと書いたのである。だが、社会主義的日和見主義というものは、政治においては常に印象主義的である。革命に不意を打たれ、その波の中で息が詰まったバウアーは、1919年に次のことを認めた。これは資本主義の崩壊だ、これは社会革命の時代の到来だ! しかし、ありがたいことに今や再び革命の潮が引いたため、わが賢者はあわてて1917年の自分の予言へと舞い戻ったのである。それというのも、われわれがすでに知っているように、彼には幸い二つの予言が用意されていて、彼はお望み通りにどちらでも利用することができるからである(笑い)。
さらにバウアーはこう論じている。
「かくしてわれわれは、(ロシアにおける)資本主義経済の復活を目にしている。数百万の農民経営に支えられた新しいブルジョアジーが支配する資本主義経済を。彼らに、すなわちこのブルジョアジーに、立法と国家行政とはいやが応でも順応せざるをえない」。
諸君は現在、わがソヴィエト・ロシアは何であると考えているであろうか? すでに昨年、この紳士はわが国の経済と国家とは新しいブルジョアジーの支配下にあると言明していた。設備が劣悪で、すでに述べたように――最良の国有企業における100万人の労働者に対して――およそ5万人の労働者を雇用しているにすぎない企業の賃貸が、「産業資本へのソヴィエト権力の降伏」なのである!
馬鹿々々しいだけでなく、それと同じぐらい恥知らずなこの主張にしかるべき歴史的な枠組みを与えようとして、バウアーはこう主張している。
「長らく躊躇した後、ソヴィエト政府は今やついに、ツァーリ政府の対外債務を承認することを決定した」。
要するに、降伏につぐ降伏というわけだ!…
もちろん、すべての同志がわが国の歴史を完全に正確に覚えているわけではないので、1919年2月4日にすでに、すべての資本主義政府に対し、無線電信を通じてわれわれが次のような提案を行なったことを指摘しておきたい。
(1)ロシアの債務の承認、(2)債務と利子の支払いの担保として、わが国の原料を抵当に入れること、(3)彼らの気に入るような利権の供与、(4)協商国ないしはロシアにおけるその手先の軍隊による若干の地域の軍事的占領という形での領土の割譲。
わが国の平穏をかき乱さないことと引きかえに、われわれはこれらのすべてを無線電信を通じて資本主義世界に提案した。そして、同年4月には、アメリカの非公式の全権代表に対しわれわれの提案をいっそう詳しく、いっそう綿密に繰り返した。この男は何という名前だったか(笑)…そう、ブリットといった。……まあ、このように、同志諸君、この提案とジェノヴァやハーグでわが国の代表団が拒絶した提案とを比較してみるならば、われわれが譲歩を拡大する方向に向かっているのではなく、その逆に、わが革命の獲得物をより強固に保持する方向へと向かっていることはまったく明らかであろう。現在われわれは、いかなる債務も承認していない。いかなる原料も担保に入れていないし、入れるつもりもない。利権の問題についても非常に控え目であり、そして軍隊によるわが国の領土の占領をいかなる場合でもけっして容認しはしない! 1919年以来、なにがしかの変化があったのだ…。
われわれはすでにオットー・バウアーから、これらの発展はすべて「民主主義」に導かれると聞かされた。カウツキーの弟子であり、マルトフの先生たる彼はわれわれにこうお説教をする。
「経済的土台の領域での変革に続いて、政治的上部構造全体の変革が起こるにちがいないということが改めて確認されている」。
土台と上部構造との間には全体として、まさにバウアーが示したような相互関係があるということは完全に正しい。しかし、まず第1に、ソヴィエト・ロシアの経済的土台には、オットー・バウアーが描いたような変化はそれほどないし、レスリー・アーカート――この問題に関する彼の言葉には、オットー・バウアーの言葉よりも大きな意義が認められなければならない――が望んでいるような変化もそれほど生じていない。第2に、経済的土台が実際に資本主義的諸関係の方へ変化しつつある場合でも、この変化は、この経済過程に対するわれわれの政治的統制が失われるおそれの全然ないようなテンポと規模でもって進められている。
純粋に政治的な観点から見れば、今のところ問題は、権力を握った労働者階級がブルジョアジーに対してあれこれの非常に重要な譲歩をするということに帰着する。しかし、このことから「民主主義」までは、すなわち、資本家への権力の引き渡しまでは、まだ非常に遠い。この目標に達するために、ブルジョアジーには反革命的変革の勝利が必要であろう。そしてこの変革のためには、それ相応の力が彼らに必要である。この点に関して、われわれは、他ならぬブルジョアジー自身の例から何がしかを学んだ。
19世紀全体を通して、ブルジョアジーはもっぱら、勤労大衆を容赦なく搾取する一方で、抑圧と――小ブルジョアジーや農民、上層労働者階級にとって有利な――譲歩とを交互に行なった。この譲歩の性格は、政治的であったり、経済的であったり、その両方であった。しかし、これはいつでも、その手のうちに国家権力を保持している支配階級の側からの譲歩であった。この分野におけるブルジョアジーの実験のうちの若干のもの――たとえば普通選挙権の導入――は、最初のうち、きわめて危険なものであると思われた。マルクスは、イギリスにおける労働時間の法的短縮を新しい原理の勝利と呼んだ。いったいどんな原理か? 労働者階級の原理である。しかし、この原理の部分的勝利からイギリス労働者階級による権力の獲得までの道のりは、われわれがよく知っているように、はなはだ遠いのである。権力を握っているブルジョアジーは譲歩を計算づくで行なった。国家の会計簿はブルジョアジーの手中にあった。権力に就いているブルジョア政治家は、権力の維持を危うくする危険を犯さないだけでなく、反対に、ブルジョア国家の強化に資するのに、どの程度の譲歩をすることができるのかを判断したのである。われわれマルクス主義者は、ブルジョアジーは自己の歴史的使命を終えたと一度ならず言ってきた。それにもかかわらず、ブルジョアジーは今日まで権力をその手のうちに保持している。このことは、経済的土台と政治的上部構造との間の相互関係がけっしてそんなに直線的なものではないということを意味している。一つの階級体制が、それが経済的発展の必要性とのあからさまな矛盾に陥った後でも、数十年にわたって生き残り続けているのを、われわれは見ている。
いったいどんな理論的根拠にもとづけば、ブルジョア的諸関係に対する労働者国家の譲歩が自動的に労働者国家を資本の国家に交代させるなどと主張できるのであろうか? 資本主義が国際的尺度で見て自分の力を使い果たしてしまったということが正しいとすれば――そして、これは無条件に正しいのだが――、まさにそれによって、労働者国家の進歩的な歴史的役割は証明されている。労働者国家がブルジョアジーに与えた譲歩は、発展の諸困難によってもたらされた妥協にすぎない。しかし、その発展自身は歴史によってあらかじめ決定されており、保障されている。もちろん、われわれの譲歩が無制限に発展し、増大し、蓄積されるならば、もしわれわれが、国有工業企業のすべての新しいグループを賃貸しはじめるならば、もしわれわれが、鉱業の最重要資源や鉄道の利権を供与しはじめるならば、もしわれわれの政策が何年にもわたって譲歩の一途をたどるならば、経済的土台の変質は不可避的に政治的上部構造の崩壊をもたらすであろう。われわれが云々しているのは崩壊についてであって、変質についてではない。なぜなら、激烈かつ仮借のない内戦の結果として以外に資本が共産主義的プロレタリアートから権力をもぎ取ることはできないからである。しかし、このように問題を立てる者は、まさにそれによって、世界とヨーロッパのブルジョア国家の生命力と永続性とを前提にしているのである。いっさいはここに帰着するのだ。
社会民主主義の理論家は、一方では、日曜日の論文の中で、資本主義、とりわけヨーロッパのそれは、生きた屍であり、歴史的発展の障害物となっていることを認めながら、他方では、ソヴィエト・ロシアの進化は不可避的にブルジョア民主主義の勝利へと続いているという確信を述べており、それによって彼らは、最も惨めで、最も陳腐な矛盾に陥っている。それは、これらの愚鈍で尊大な混乱屋にはまったくふさわしい矛盾である。新経済政策は、空間と時間の一定の諸条件を計算に入れたものである。すなわち、それは、資本主義的環境にいまだ包囲されながらヨーロッパにおける革命の発展に確固たる期待を寄せている労働者国家による迂回行動なのだ。ソヴィエト共和国の運命にかかわる問題を解決する上で、しかるべき政治的上部構造に「合致」した絶対的なカテゴリーとしての資本主義や社会主義の概念を用いることは、過渡期の条件をまるで理解していないことを意味する。すなわち、その人はスコラ学者であり、マルクス主義者ではないことを意味する。時間という要素を政治的考慮から除外することはできない。もし、実際に資本主義がヨーロッパで1世紀ないしは半世紀も生き続け、ソヴィエト・ロシアがその経済政策においてそれに適応せざるをえないということを認めるとすれば、――その時には、問題は自ずから解決されるであろう。なぜなら、こうした仮定をすることによってわれわれは、ヨーロッパにおけるプロレタリア革命の崩壊と、資本主義復興の新時代の到来とをあらかじめ前提としているからである。しかし、いったい全体どんな根拠にもとづいてなのか?
オットー・バウアーが現在のオーストリアの生活の中に資本主義復興の奇跡的兆候を発見したとすれば、もちろん、その時にはソヴィエト・ロシアの滅亡は運命づけられている。しかし、われわれは今のところ奇跡を見ていないし、奇跡を信じてもいない。われわれの観点からすれば、ヨーロッパ・ブルジョアジーが数十年も権力を保持し続けることは、現在の世界的条件のもとでは、資本主義の新たな繁栄を意味するのではなく、ヨーロッパの経済的衰退と文化的退廃とを意味する。このような経過を経ることによって、ソヴィエト・ロシアさえも奈落に引きずり込まれる可能性について言えば、一般的には否定できない。その場合に、ロシアは民主主義の段階を通らなければならないのか、もしくは他の形式で堕落することになるのかは、すでに2次的な問題である。しかし、われわれにはシュペングラー哲学の旗のもとに馳せ参ずる根拠はいっさいない。われわれは、ヨーロッパにおける革命の発展に断固たる期待を寄せている。新経済政策はこの発展のテンポに適応したものにすぎないのである。
オットー・バウアー自身もまた、わが国の経済の中で起きているこうした変化から、民主主義の体制がそれほど直接的に生じてくるわけではないと感じているようである。それゆえ彼は実に切々とわれわれに、社会主義的傾向に反対し発展の資本主義的傾向を促進するようにと説得するのである。バウアーは言っている。
「資本主義経済の再建は共産党独裁のもとでは進展しえない。国民経済における新路線は政治における新路線を必要としている」。
これはまったく涙が出るほど切々としてはいないだろうか? オーストリアの経済的・政治的繁栄をあれほど促進してきたまさにその人物が、われわれにこう説き伏せるのだ、「資本主義は諸君の党の独裁のもとではけっして繁栄することができないということを、後生だから理解してほしい」と。しかし、われわれがわが党の独裁を維持するのは――すべてのバウアー的連中にこう言うのは申しわけないが――まさにこの理由からなのである(大きな笑い、「そうだ」の声)。
わが国では、労働者国家の指導者としての共産党が資本主義への譲歩を計算づくで行なっている。現在、わが国の新聞雑誌では、レスリー・アーカートの利権の問題が広範に討議されている。利権を供与するべきか、それとも、するべきでないか? 討論は、契約の具体的な物的・金銭的諸条件を解明したり、ソヴィエト経済のシステム全体の中でそれが占める地位といった観点から利権を評価することを目的としている。この利権はあまりにも大きすぎるのではないか? この利権によって、わが国の産業経済の中枢部にあまりにも深く資本がくい込むのではないか? このようなことが問題となっているのである。決定するのは誰か? 労働者国家である。もちろん、ネップはブルジョア的諸関係やブルジョアジー自身への重大な譲歩を含んでいる。しかし、こうした譲歩の程度を決定する者こそ、まさしくわれわれなのである。われわれは主人である。扉の鍵はわれわれが持っている。国家はそれ自身、経済生活における恐ろしく重大な要素である。そして、われわれはけっしてこの要素を手放しはしないであろう。
世界情勢と革命の展望
繰り返しておこう。わが国の新経済政策の結果に関する社会民主主義者の予言は、まったくのところ、当面する歴史的時期におけるヨーロッパのプロレタリア革命に対する絶望から来ている。われわれは、これらの紳士諸君がプロレタリアートについては悲観論者で、ブルジョアジーについては楽観論者であることを防ぐことはできない。なぜなら、こうしたことのうちにこそ、第2インターナショナルのエピゴーネンたちの歴史的使命があるからである。われわれに関して言えば、コミンテルン第3回大会で承認されたテーゼに定式化されたような世界情勢の見方を疑問視したり、変更したりする何らの理由もない。あれ以来1年半が経過したが、資本主義は、戦争とその結果によって決定的に破壊された均衡を回復する方向へはただの一歩も近づいていない。
イギリスの外務大臣力−ゾン卿(17)は、11月9日、他ならねドイツ共和国の生誕の日に行なった演説の中で、きわめて上出来に世界情勢を特徴づけた。私はその中からいくつかの章句を引用する――それらはそうする価値がある。
「すべての列強は、その力を弱め衰弱させて戦争から出てきた。われわれ(イギリス人)は、国の産業を圧迫している税金の重みに苦しんでいる。わが国のすべての労働部門には大量の失業者がいる。……フランスの状況について言えば、その国は巨額の債務を背負いながら、しかも賠償金を受け取れる状態ではない。……ドイツは政治的に不安定な状態にあり、その経済生活は恐るべき通貨危機によって疲弊している。ロシアは相変わらずヨーロッパ諸国民の家族の外にいて、あいかわらず共産主義の旗のもとに立っている(ということは、カーゾンはこの点に関しオットー・バウアーとあまり意見が一致していないことになる(笑い))。そして、世界のあらゆる地域でその共産主義的プロパガンダを継続している(これは全然正しくない(笑い))」。
さらにカーゾンは続ける。
「イタリアは多くの大変動と政府危機とを経験してきた(しかし、経験し終わったわけでは全然ない、単にまだ経験している途中にすぎない(笑い))……。近東は完全な混沌状態にある。情勢はこのようにまったくひどい」。
われわれロシアの共産主義者でさえ、世界的規模でカーゾンよりもうまくプロパガンダすることはできないであろう。「情勢はこのようにまったくひどい」――ソヴィエト共和国の5周年記念日に、ヨーロッパにおける最も強力な国家の権威ある代表者がこう確認しているのである。そして、彼は正しい。情勢はひどい。このひどい情勢から――つけ加えて言えば――脱出することが必要だ。出口はたった一つしかない、革命である。
いつだったか、われわれが現在の世界情勢をどのように評価しているかについて、あるイタリア特派員が質間してきた際、私は次のような、かなり月並みな回答をしたことがあった。
「ブルジョアジーはもはや権力を維持することができないが」――これは、たった今われわれが耳にしたように、基本的にはカーゾン卿によって確認されたことである――「労働者階級はまだ権力をとることができない。これによって、われわれの時代の不幸な性格が明らかとなる」。
以上が、おおよそ私の言ったことである。そうしたところへ、3、4日前に、私の友人の一人がベルリンから『フライハイト』紙の末期の号、廃刊直前の号の一つからの切り抜きを私に送って寄こしてきた。「トロツキーに対するカウツキーの勝利」(笑い)というのがその記事の題名で、そこには、『ローテ・ファーネ』紙はカウツキーヘのトロツキーの降伏に反対して意見を言うほどの勇気を持っていない、と書かれている。ところが、同志諸君、諸君も知っているように、『ローテ・ファーネ』紙はいつでも私に反対して意見を言う勇気を持っているし、私が正しい時でさえそうである。といっても、これは第3回大会に関してであって、第4回大会に関してではない(「そうだ」の声と笑い)。で、私はイタリアのジャーナリストに「資本家はもはや権力を維持できず、労働者はまだ権力をとれない、これがわれわれの時代の性格である」と言ったのだが、そうしたら、この発言に関して、今は亡き『フライハイト』紙は、「トロツキーが自分の見解だとして述べていることは、これまでカウツキーの意見であった」と言うのである。ということは、私は剽窃の罪を犯したも同然なわけだ。これは、月並みなインタビューに対する厳しい罰である。
言っておく必要があるが、インタビューに応じることはあまり魅力的な仕事ではないし、わが国では、自由意志にもとづいてインタビューを受けるのではなく、われわれの友人チチェーリンの厳格な命令にもとづいてそうするのである。どうやら、過度の中央集権主義を拒否している新経済政策の時期であっても、若干のものは中央集権化されたままらしい。すなわち、どんな場合であっても、インタビューの命令書は外務人民委員のところに中央集権化されているのだ(笑い)。そして、インタビューを受けるはめになったからには、当然ながら、万一に備えて頭の中に用意してある、ごくありふれたことを言うしかない(笑い)。さて、いま話しているこの場合で言えば、正直なところ、われわれの時代の中間的性格についての私の意見が専売特許の発明品であるということについて、私は何の疑いも抱いてはいなかった。今や、『フライハイト』紙を信じるならば、カウツキーがこの警句の精神的元祖であることがわかったわけである。もしそれが正しいとすれば、私はインタビューのためにあまりにも厳しい罰を受けていることになる。なぜなら、カウツキーが現在言ったり書いたりしていることはすべて、「マルクシズム」と「マラズム(老衰)」とは別物であるということを論証するという明々白々な唯一の目的しか持っていないからである。
もちろん私は、ヨーロッパ・プロレタリアートが現在の状況において、目下のところ権力をとることはできないという争いがたい事実を確認してきたし、今も確認している。だが、何ゆえそうなのか? それはまさに、労働者階級の広範な層がまだ、カウツキー主義のうちに体現されている理念や偏見や伝統といった、彼らを堕落させる影響から解放されていないからである(笑い)。まさにこれによって、そして、ただこれだけによってと言ってもよい、プロレタリアートの今日の政治的分裂と、彼らが権力をとれないでいる事態とが引き起こされているのである。こうした簡単な考えが、私がイタリア特派員に語ったことである。確かに、私はその際、カウツキーの名前を出さなかったが、それは、私の見解が誰に対して、また何に対して向けられたものなのかを、賢明な人々は名前を挙げなくても理解するにちがいないからにすぎない。このようなものが、カウツキーへの私の「降伏」なのだ。
共産主義インターナショナルには、何ぴとに対しても降伏する理由はないし、ありえない――理論的にも、実践的にも、である。世界情勢に関する第3回大会のテーゼは、言うまでもなく、われわれの時代の基本的特徴を資本主義の重大な歴史的危機として無条件に正確に特徴づけた。第3回大会において、われわれは、資本主義の大きな、ないしは歴史的な危機と、小さな、ないしは景気上の危機(恐慌)――これはそれぞれの商工業循環の必然的な段階である――とを区別することが必要であると主張した。この点に関し、大会の委員会や部分的には本会議でも、大きな論争があったことを思い出していただきたい。われわれは何人もの同志に反対して、次のような見解を擁護した。資本主義の歴史的発展においては、二つの系列の曲線を厳密に区別しなければならない。すなわち、基本的な曲線――これは、資本主義的生産力の発展、労働生産性の向上、富の蓄積、等々を描く――と循環的な曲線――平均して9年ごとに繰り返される好況と恐慌の周期的な波を特徴とする――とを。この二つの曲線間の相互関係は、マルクス主義の文献の中では――そして、私の知るかぎりでは、一般に経済学の文献の中でも――これまでのところ、まったく解明されていない。それにもかかわらず、これは、理論的にも政治的にも、巨大な重要性を持った問題なのである。
1890年代の中ごろに、資本主義発展の基本曲線は急激に上昇した。ヨーロッパ資本主義はそのクライマックスを通過しつつあった。1913年(18)に恐慌が勃発した。これは、単に定期的で循環的な変動であるだけでなく、長期にわたる経済的停滞の時代の始まりでもあった。帝国主義戦争は袋小路から抜け出そうとする試みであった。試みは成功せず、資本主義の深刻な歴史的危機を先鋭化させただけであった。しかしながら、この歴史的危機の限界内でも、循環的な波、すなわち恐慌と好況とは必然的である。だが、戦前の時期と比べれば、現在の好況がはるかに表面的で、その現れ方が弱々しい一方で、現在の循環的恐慌がきわだって先鋭に表わされる性質を有しているという深刻な相違をともなっている。
1920年に――資本主義の全般的な衰退という基礎の上で――激しい循環的恐慌が始まった。いわゆる「左翼」の何人かの同志たちは、この恐慌はプロレタリア革命に至るまで間断なく深さと鋭さを増していくであろうと考えた。一方われわれは、多かれ少なかれ近い将来に、景気の転換が訪れ、いくらかは回復のカへ向かうことは不可避であると予測した。さらにわれわれは、景気の転換のこのような傾向は革命運動を弱めないだけでなく、反対に、新しい活力を与えるであろうという確信を表明した。1920年の激烈な恐慌は労働者大衆に重くのしかかり、一時的に彼らの間に静観的な受動性の気分や絶望感さえ生み出した。こうした状況のもとでは、景気の回復は必然的に労働者大衆の自信を増大させ、階級闘争を蘇生させるにちがいなかった。何人かの同志たちは、こうした予測のうちに日和見主義への傾斜と、革命を無期限に延期しようという志向とが表現されていると本気で考えた。この素朴な見解の反響は、わがドイツ党のイェナ大会の速記録に鮮やかに刻印されている。
さて、同志諸君、想像していただきたいのだが、商工業恐慌が間断なく激化するというこの純粋に機械的な「左翼」理論を、もしわれわれが1年半前に採用していたとしたら、われわれ全員は今ごろどのような状況に置かれていたことだろう! 現在、分別のある人なら誰一人として景気の転換が到来したことを否定しようとはしないであろう。アメリカ合衆国において、すなわち、最も強カな資本主義国において、われわれは産業の明白な高揚を目にしている。日本やイギリスやフランスにおいては、景気の回復は比べものにならないほど微弱であるが、しかし、ここでも転換の事実そのものは存在している。高揚がどれぐらいの期間続くのか、またそれがどの程度の高さにまで達するのか――これは別問題である。われわれは、景気の回復が世界の、とりわけヨーロッパの資本主義の衰退という基礎の上に展開されていることを片時も忘れることはできない。この衰退の原因は、市場における景気変動によってなくなるわけではない。しかし、他方では、衰退もまた景気変動を取り除きはしない。
もしわれわれが1年半前に左翼に譲歩していたなら、今ごろ現代の革命的性格についてのわれわれの基本的見解を理論的再検討に付さざるをえなくなっていたことであろう。左翼は、資本主義的経済システムの歴史的危機と市場における周期的な景気変動とをいっしょくたにし、いつ、いかなる場合でも恐慌は革命の要因であるといった純粋に形而上学的な見解を承認するよう求めていた。現在、われわれの決議を修正に付すいかなる理由も存在しない。われわれは、1920年の激しい恐慌が1919年の見せかけの好況に取って代ったことをもって現代が革命的であると判断したのではなく、世界資本主義とその基本勢力の闘争に対する一般的評価にもとづいて判断したのである。この教訓が誰にとっても無駄にならないように、われわれは、現時点でも完全に効力を保っている第3回大会のテーゼの完全な正しさを確認しておかなければならない。
第3回大会決議の基本思想は次のようなものである。戦後、大衆は革命的気分にとらえられ、公然たる闘争への準備を整えた。しかし、大衆を勝利に導く能力のある革命党が存在していなかった。ここから各国における革命的大衆の敗北、意気消沈、受動性が生まれた。現在、革命党はすべての国に存在しているが、それらは直接的には労働者階級の一部に――より正確に言えば、その少数部分に――依拠しているにすぎない。共産党に必要なのは、労働者階級の圧倒的多数の信頼を獲得することである。労働者階級は自らの経験を通して、共産党の指導が正しく、確固としていて、信頼できるものであることを確信したとき、自己自身から幻滅や受動性、待機主義をふるい落とすであろう――そして、その時、最終的攻勢の時代の幕が切って落とされるのである。その時機はどれぐらい近くに迫っているだろうか? それを予測するのはやめておこう。しかし、第3回大会は、現時点でのわれわれの任務を、労働者階級の多数に対する影響を獲得するための闘争と規定した。この時から1年半が過ぎた。われわれは疑いもなく大きな成功をおさめた。しかし、われわれの任務は今のところ依然として同じである。すなわち、勤労者の圧倒的大多数の信頼を勝ちとることが必要なのだ。これは、プロレタリア統一戦線の一般的スローガンのもとに繰り広げられる過渡的要求のための闘争の過程で、達成することができるし、達成されなければならない。
現在、世界の労働運動は資本の攻勢を基本的特徴としている。それとともに、1年半前には労働運動が重苦しい沈滞状態にあったフランスのような諸国においてさえ、今や、反撃に向けた労働者階級の覚悟が疑いもなくますます堅固になっていっているのをわれわれは目撃している。指導が極端に不十分であるにもかかわらず、フランスのストライキは頻発し、極端に緊迫した性格を帯びている。それは、労働者大衆の戦闘力の高まりを裏づけるものである。このことから、階級闘争がしだいに深化し、先鋭化しつつあることがわかる。資本の攻勢は、最も反動的なブルジョア分子に国家権力が集中していく過程と軌を一にしている。しかし、われわれが目撃しているように、ブルジョア世論が階級闘争の激化に立ち向かっているまさにその時、それは支配徒党の半ば暗黙の同意を得て、新しい方向性――すなわち、左への、改良主義的・平和主義的欺瞞への準備を整えているのである。フランスにおいては、ポアンカレを先頭とする極反動の国民ブロックが権力に就いている一方で、左翼連合の勝利が系統的に準備されており、この連合には、もちろんのこと社会主義者の紳士諸君も参加するであろう。
イギリスでは現在、総選挙が行なわれている。ロイド=ジョージの連立内閣が崩壊したため、総選挙は予想よりも早く始まったのである。今はまだ誰が勝つかはわからないが、おそらく、かつての極度に帝国主義的なグルーブが権力に返り咲くであろう※。しかし、たとえそのグルーブが勝利したとしても、たぶん長続きはしないであろう。フランスにおいてと同じくイギリスにおいても、ブルジョアジーは議会的な新しい方向設定を明白に準備している。あからさまに帝国主義的な侵略的方法――ベルサイユ講和、フォッシュ(19)、ポアンカレ、カーゾンの方法――は袋小路にぶつかっている。フランスはドイツにないものをドイツから受け取ることはできない。フランスはフランスで自国の債務を支払うことができない。イギリスとフランスとの軋轢は絶え間なく増大している。アメリカは債務支払いの受け取りを放棄するつもりはない。そして、中間層、とりわけ小ブルジョア層の住民の間では、改良主義的・平和主義的気分が強まってきている。すなわち、ドイツやロシアと折り合いをつけ、国際連盟を拡張し、軍国主義の重圧を軽減し、アメリカから借款を受ける必要がある等々、等々である。また、民族主義、排外主義における軍事的祖国防衛主義の幻想や理念やスロ−ガン、さらに勝利がもたらす偉大な果実への期待――要するに、協商国における労働者階級自身のかなりの部分をも支配していた幻想は冷め、落胆に取って代りつつある。このようなことが、フランスにおける左翼連合や、イギリスにおけるいわゆる労働党や独立自由党の成長のための土壌なのである。もちろん、ブルジョアジーの改良主義的・平和主義的な方向性から、いかなる真剣な政策の変更も期待することはできない。資本主義世界の客観的条件は現在、改良主義と平和主義に適したものではまったくない。しかしながら、大いにありうるのは、革命の勝利が可能になる以前に、この幻想を実践的に崩壊させることが必要になるということである。
※原注周知のように、保守党が勝利した。
われわれはこれまで協商国についてのみ述べてきた。しかしながら、フランスにおいて急進党員や社会党員が権力に就くとすれば、まだイギリスにおいて労働党の日和見主義者や独立自由党員が権力に就くとすれば、ドイツにおいて必然的に協調主義的・平和主義的期待――イギリスやフランスの民主主義政府と折り合いをつけることができ、支払いの猶予やそれの減額さえも得ることができ、さらに英仏の協力を得てアメリカから借款を受けることができる等々といった期待――の新しい上げ潮が生じるというのはまったく明らかであろう。そして、フランスの急進党や社会党、イギリスの労働党と合意に達する上で、はたしてドイツ社会民主党員よりふさわしい人物がいるであろうか?
もちろん、情勢がいっそう鋭く展開する可能性もある。賠償問題やフランス帝国主義やイタリアのファシズムが事態を革命的結末にまで持っていき、ブルジョアジーにその左翼を前面に押し出す機会を与えないという可能性もありえないことではない。しかしながら、きわめて多くの事実が物語っているのは、プロレタリアートが決定的な攻撃のための準備が整ったと感じる前に、ブルジョアジーが改良主義的で平和主義的な方向性に訴える必要に迫られるであろうということである。これは、ヨーロッパにおけるケレンスキー主義の時代を意味するであろう。もちろん、この時期を素通りする方がいいに決まっている。ケレンスキー主義、しかも世界的規模でのそれは、あまりうまい料理ではないからだ。しかし、歴史の道の選択は、ある程度までしかわれわれに依存していない。かつてわれわれがロシアのケレンスキー主義を受け入れたように、ある一定の条件のもとではヨーロッパのケレンスキー主義をも受け入れるであろう。われわれの任務は、改良主義的・平和主義的欺瞞の時代を革命的プロレタリアートによる権力獲得につながる直接の序曲に転化することにある。わが国でのケレンスキー主義はせいぜい9ヶ月ほど続いただけである。もし仮にケレンスキー主義の時代が訪れることになっているとすれば、諸君の国ではそれはどれぐらいの期間続くであろうか? もちろん、今この問題に解答を与えることはできない。これは、どれだけ速やかに改良主義的・平和主義的幻想が清算されるかにかかっている。すなわち、かなりの程度、諸君の国のケレンスキーたち――彼らはわが国のケレンスキーと違って少なくとも九九掛算ぐらいは知っている――がどれほど抜け目なく立ち回るかにかかっているのである。しかし、それと同時に、われわれ自身の党がどれぐらいの工ネルギーと決意と柔軟性をもってうまく立ち回るかにもかかっているのである。
改良主義的・平和主義的政府の時代が労働者大衆による圧力の増大する時期になるのはまったく明らかである。われわれの任務は、この圧力をわがものとし、その先頭に立つことにある。しかし、そのためには、われわれの党が改良主義的・平和主義的幻想を完全に一掃した党として、この平和主義的欺瞞の時代に入っていくことが必要である。自分自身が多かれ少なかれ平和主義の波に飲み込まれてしまうような共産党に災いあれ! 平和主義的幻想の不可避的な崩壊は、それとともにこのような党の崩壊をも意味するであろう。労働者階級は1919年の時のように、自分たちを欺いたことのない党を再び自分たちの周りに探すことになろう…。まさにそれゆえ、われわれの隊列を点検し、そこから異質な分子を取り除くことは、この革命の準備期におけるわれわれの最重要課題なのである。
フランスの一同志、すなわちフロッサール(20)はかつて、「党、それは偉大な友情だ(Le parti c'est la grande amitie)」と言ったことがある。この定式はその後しばしば他の人々たちによっても繰り返されてきた。そして、実際に、この定式そのものが非常に魅力的であり、ある意味でわれわれの誰もがその下に自分の名前を署名する用意があるということを否定することはできない。だが、次のことだけはしっかりと心にとめておく必要があろう。党は偉大な友情として生まれるのではない。それは、外部との、そして必要とあれば内部における深刻な闘争を通じて、隊列の純化を通じて、革命の事業に献身的に打ち込む労働者階級の最良の分子を慎重に、そして必要とあれば無慈悲に選抜することを通じて、偉大な協同体になるのである。言いかえれば、偉大な協同体になる前に、党は偉大な淘汰をくぐり抜けなければならないのだ!(激しく、長く鳴り止まない拍手)
1922年11月14日
『コミンテルンの5ヵ年』所収
大村書店刊『社会主義と市場経済』より
訳注
(1)ミリュコーフ、パーヴェル(1859-1943)……ロシアの自由主義政治家、歴史学者。カデット(立憲民主党)の指導者。第3、第4国会議員。2月革命後、臨時政府の外相。4月18日に、連合諸国に、戦争の継続を約束する「覚書」を出し、それに抗議する労働者・兵士の大規模デモが起こり(4月事件)、外相辞任を余儀なくされる。10月革命後、白衛派の運動に積極的に参加し、ソヴィエト権力打倒を目指す。1920年に亡命。『第2次ロシア革命史』(全3巻)を出版。
(2)コルチャーク、アレクサンドル(1874-1920)……帝政ロシアの提督。白軍指導者。1918年にシベリアでイギリスの支持を受けて反革命政府(オムスク政府)を樹立し、その陸海相に。クーデターで独裁権を握り、「ロシアの最高統治者」を自称。列強の「シベリア出兵」と呼応して、対ソ干渉戦争を主導。1919年の夏季攻勢で赤軍に敗北し、逮捕され銃殺。
(3)デニーキン、アントン(1872-1947)……帝政ロシアの軍人、白衛派将軍。コルニーロフの反乱に参加し逮捕されるが、逃亡。1919年に西欧列強の後押しを受けてドン・バクー一帯を占領。1920年、ザカフカスで赤軍に破れ、クリミアに逃れ、ウランゲリ将軍に後を任せてパリに亡命。
(4)ユデーニチ、ニコライ(1862-1933)……帝政ロシアの軍人。白軍派将軍。10月革命後、ソヴィエト政権に反対し、イギリスの支援を受けて白軍を指導。1919年にペトログラード侵攻をめざすが、トロツキーの指揮する赤軍に敗北。亡命。
(5)ペトリューラ、シモン(1879-1926)……ウクライナ民族運動の指導者。当初ウクライナ 社会民主党に参加。2月革命後、キエフに結成された中央ラーダの首班。1918年にウクライナ人民共和国を宣言し、ドイツ、ポーランドと結んでソヴィエト政権に対する反革命武力闘争を挑む。自分の支配する地域において、最も残酷なポグロムを組織し、多数のユダヤ人を虐殺した。1920年に赤軍に敗北し、ワルシャワに亡命。
(6)バウアー、オットー(1881-1938)……オーストリア社会民主党と第2インターナショナルの指導者。オーストリア・マルクス主義の代表的理論家。1918年のオーストリア革命後に外相に就任し、オーストリアのドイツへの併合を支持。1921年に社会主義労働インターナショナル(第2半インターナショナル)を創設。1934年に亡命。
(7)ダニエルソン、ニコライ(1844-1918)……ロシアの経済学者、ナロードニキ、後に自由主義的マルクス主義者。『資本論』の最初のロシア語訳を完成。マルクス、エンゲルスと文通。
(8)シャイデマン、フィリップ(1865-1939)……ドイツ社会民主党右派。1903年から国会議員。第1次世界大戦においては党内排外主義派の指導者。1919年に首相。ドイツ労働者の蜂起を鎮圧し、ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトの暗殺に関与。
(9)エーベルト、フリードリヒ(1871-1925)……ドイツ社会民主党の右派。第1次大戦中は排外主義者。1919年にドイツの大統領。ドイツ革命を弾圧し、ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトの暗殺に関与。
(10)ロイド=ジョージ、ディヴィッド(1863-1945)……イギリスのブルジョア政治家。1908〜15年、蔵相。1916〜22年、首相。ソヴィエト・ロシアへの干渉戦争を推進。1931年の総選挙後は「独立自由党」を率いる。
(11)ピョートル大帝(ピョートル1世)(1672-1725)……ロシアの皇帝(在位16821725)。軍隊を強化し、領土拡大に努めるとともに、西欧的改革を断行。官僚制度を確立し、貴族の不満分子を仮借なく弾圧。皇太子をも処刑。農奴制を強化し、ロシア絶対主義を確立。
(12)チチェーリン、ゲオルギー(1872-1936)……ロシアの革命家、ボリシェヴィキ、外交官。もともと帝政ロシアの外交官であったが、革命運動を支持して罷免される。ドイツに亡命し、社会民主党に入党。主にイギリス、フランス、ドイツで社会民主主義運動に従事。当初メンシェヴィキ。第1次大戦中は、最初は祖国防衛派であったが、のちに国際主義派になり、『ナーシェ・スローヴォ』に協力。10月革命後にボリシェヴィキに。イギリス滞在中、ボリシェヴィキの手先として逮捕・投獄。1918年に、イギリスの捕虜になっていたブキャナンの息子との捕虜交換でロシアに帰国。その後ソヴィエト政府の外交官として活躍。
(13)テーヌ、イポリット(1828-1893)……フランスの哲学者、歴史家。『近代フランスの起源』全12巻(1875-1888)を執筆し、フランス革命を猛烈に非難した。
(14)ジョレス、ジャン(1859-1914)……フランス社会党の指導者、改良主義派としてゲード派と対立。1904年に党機関紙『ユマニテ』を創刊。1905年にゲード派とともに統一社会党を結成。反戦平和を主張し、第1次世界大戦勃発直後に右翼によって暗殺された。『フランス大革命史』(全8巻)など。
(15)ポアンカレ、レイモン(1860-1934)……フランスのブルジョア政治家。1912〜13年にフランスの首相兼外相として軍拡を推進し、三国協商を強化。1913年にフランスの大統領。第1次大戦中は超党派的「神聖連合」を組織。22〜24年に再び首相。1923年にドイツのルール地方を占領。1924年辞職。1926年に「国民連合」の首相兼蔵相。
(16)ベルトロ、マルセラン(1827-1907)……フランスの化学者。1860年、無機物からアルコール・有機物・炭化水素等を合成し、有機合成の研究を大成させる。1875年、一酸化炭素と水から蟻酸を合成する際の、反応熱と反応速度の関係を論じ、熱化学の分野を開拓。文相、外相にもなる。
(17)カーゾン、ジョージ(1859-1925)……イギリスの反動政治家。1899〜1905年、インド総督。典型的な帝国主義的支配を推進。1905年、ベンガル分割令により全インド的な反英民族運動の高揚をつくり出す。1919〜24年、外相。1920年のソヴィエト・ポーランド国境を決めるカーゾン線を提案。
(18)ロシア語原文では、1919年と誤記されているがドイツ語版により訂正。
(19)フォッシュ、フェルディナン(1851-1929)……フランスの軍人。1917年に参謀総長 。18年に、在仏連合軍総司令官。同年、元帥。協商国側の勝利を導いた。1920年にソヴィエト・ポーランド戦争の反革命勢力に参加。
(20)フロッサール、ルイ・オスカール(1889-1946)……フランスの社会主義者、ジャーナリスト、一時期、フランス共産党の指導者。1905年、フランス社会党に入党。第1次大戦中は平和主義派、中央派。1918年、党書記長に。1920年、マルセル・カシャンとともにコミンテルン第2回大会に参加。帰国後、フランス社会党のコミンテルン加入を訴え、多数派とともにフランス共産党を結成し、その書記長に。統一戦線戦術をめぐってコミンテルン(とくにトロツキー)と対立。1923年に党と決別し、その後、社会党に復党し、国会議員に。後に、社会主義そのものと決別し、ブルジョア政権のもとで大臣に。第2次大戦中はペタン政府に奉仕。
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