左翼連合に対する党の戦術

トロツキー/訳 西島栄 

【解説】これは、1921年のコミンテルン執行委員会のフランス問題会議でなされた演説である。この演説の中でトロツキーはとりわけ、当時、フランス共産党をはじめコミンテルンの中で有力であった「攻勢理論」に対する手厳しい批判を行なうとともに、フランスで形成されつつあったブルジョア左派とフランス社会党(ロンゲ派)との左翼連合という新しい展望に対して党がとるべき戦術について述べている。

 この演説のなされた翌日の執行委員会で、レーニンはトロツキーを熱烈に支持する演説を行なった。

 「同志ベラ・クンは、日和見主義者だけが誤りを犯したと主張している。しかし、実際には、左派も誤りを犯しているのだ。私は、同志トロツキーの演説の速記録を持っている。この速記録によれば、同志トロツキーは、この種の左派の同志たちが今後とも同じ道を歩み続けるならば、フランスにおける共産主義運動と労働者運動を破滅に追いやるだろうと語っている(拍手)。私もこのことを深く確信している。そこで私は、同志ベラ・クンの演説に抗議するためにここに来たのである。彼は、同志トロツキーを防衛するのでなく彼に反対している。真のマルクス主義者であることを望むなら、同志トロツキーを防衛しなければならなかったというのに」。
 「したがって、同志ラポルトは完全に誤っており、この点に抗議した同志トロツキーは完全に正しい。おそらく、フランス党の振る舞いは、完全には共産主義的ではなかったのである。私はこの点を認める用意がある。しかし、現瞬間においては、このような愚行(兵役の拒否など)は、フランスおよびイギリスの共産主義運動を破壊するだろう。19年度兵の兵役拒否によっては、革命を行なうことはできない。トロツキーがこの点を指摘したとき、彼は千倍も正しかったのである。しかし、ルクセンブルクの同志は、フランスの党がルクセンブルク占領に対する妨害行動を起こさなかったことをいぜんとして非難している。何たることだ! 彼は、同志ベラ・クンと同じく、これが地理的問題であると考えている。いや違う。これは政治的問題であり、同志トロツキーがこれに抗議したのは完全に正しかったのである。これは非常に『左翼的』な、非常に革命的な愚行であり、フランスの運動にとって非常に有害な愚行である」。

 このレーニンの演説は、その後『レーニン全集』に収録されずに、そのままアルヒーフに眠ることになった。フルシチョフ時代にも、ゴルバチョフ時代にも隠蔽されたままであった。トロツキーは、1930年代初頭に『反対派ブレティン』の中で、速記録にしたがってこのレーニンの演説の一部を「コミンテルン第3回大会の教訓――レーニンの隠された演説」で紹介しているが、つい最近になってようやく、ロシアで『レーニンの知られざる文書』という論文集にこのレーニンの演説が全文収録された。

Л.Троцкий, Тактиа партии по отношению к левому влоку, Коммунистическое движение во Франции. Москобский Рабочий, 1923. 


 同志諸君、私は、フランス共産党の立場について若干のコメントをするために[演説原稿を]書いてきた。しかし、われわれの若い友人であるラポルトやまたルクセンブルクとベルギーの同志たちの雄弁な演説を聞いたあとでは、私は何よりも彼らの演説に答えなければならない。

 同志ラポルト(1)はその激しい演説の中でわれわれに何を語ったか? 彼はこう言った、フランスでは危機的瞬間が存在した。それは21年度兵(2)が動員されたときで、党はそのとき、その革命的義務をまったく果たさなかった。党は、動員令に従うのを拒否するよう21年度兵に要求するべきだった。しかし、これが意味するのは、同志ラポルトよ、21年度兵が拒否する……。

 会場からの声 問題になっているのは19年度兵だ!

 トロツキー そこにはまったく違いはない。なぜなら、問題になっているのはいずれにせよ15万人から20万人の人々だからである。さて、貴君は動員令に従うのを拒否するよう要求していることは間違いない。動員令というのは私の理解するかぎりでは、はなはだ真剣な事柄である。紙に書かれた令状の後には、憲兵や警察が舞台に登場する。もし党が若い労働者に向かって「君は動員に応じるべきではない」と言うとしたら、党は同時にこう言わなければならない、「憲兵が君のところに来たときには、かくかくしかじかのことをしなければならない。すなわち、君は棒、石、リボルバーで武装し、この令状の執行に対して力で抵抗しなければならない」と。さもなくば党はこう言う、「君の反対をプラトニックなものにとどめておきなさい。憲兵がやってきて君の肩に手を置いたときには、彼についていきなさい」と。だが同志ラポルトは、党にどのような戦術を提案しているのかについてわれわれに語らなかった。

 ラポルト 党は自分の立場を堅持するだけだ。

 トロツキー それでは、結局のところ、問題になっているのは動員の際に資本主義国家に対して革命を遂行することだ。しかし、理論も経験も、同志ラポルトよ、革命を遂行するのは労働者階級の仕事であって、19年度兵という階級(3)の仕事ではないことを、われわれに教えている。貴君の言うところでは、動員の瞬間に党は19年度兵に対してこう言わなければならないことになる。すなわち、「労働者階級はこれまで革命を遂行しなかったので、君たち19年度兵という小階級がそれを遂行しなければならない」と。そういうことになる、同志ラポルトよ。しかも貴君はこう言っている、革命のための条件は存在しないと。すなわち、19年度兵による革命の条件だけでなく、全労働者による革命の条件も存在しない。したがって、革命は不可能だということになろう。

 貴君には革命のための3倍の根拠があった。なぜなら、すでに三つの階級が兵役に召集されたからである。ところが政府は今や四つ目の階級を必要としている。貴君は言う、三つの階級が兵役にとどまっていることには我慢できるし、このことから社会革命を遂行することはしないが、四つ目の階級が問題になった現在、われわれは革命を遂行するのだ! 落ち着きたまえ、親愛なる同志ラポルトよ。貴君の気持ちはよくわかる。私はそれを理解する。しかし燃えるような革命的情熱だけでは十分ではない。必要なのは、しかるべき経済的・政治的情勢であり、明確な革命的思想である。それなしには、場当たり的に革命的試みを行なうことはできても、勝利を獲得することはできない。そしてフランスにおいて現在、われわれは、個々の革命的運動だけでなく――それは無条件に必要だ――、フランス・ブルジョアジーに対する勝利をも望んでいるのだ。

 貴君は言う、共和国大統領によって動員令が発せられたときこそ、労働者に革命を呼びかける時なのだと。しかし貴君は、どうして共和国大統領が19年度兵の動員令に署名した瞬間に、フランスにおける社会革命の時期が始まることになるのかを証明しなければならない。社会革命というのは、あらゆる経済的・政治的状況、労働者階級の気分、党とその諸組織の力によって条件づけられているのだから。貴君は、こうしたことには興味がないと言っている。言うまでもなく、貴君が興味を持っているのは動員令である。しかし、革命はこのようなやり方によっては実行できない。しかも、私は自問するが、党が本当に貴君のアドバイスに従ったならば、いったいどんな結果になることだろうか?

 19年度兵は15万人もの若者である。彼らのうち拒否するのが5000人ないし1万人いると仮定しよう。これらの人々は最も勇気がある人々であるが、これらの最も勇猛果敢な人々の5%は銃殺されるだろう。残りの者は結局召集されるだろう。そしてどのような結果になるだろうか? それは党にとって破滅的なものになるだろう。なぜなら、党は、それによって、自分が革命的空文句のデマゴーグ政党であることを証明することになるからである。というのは、党にまだ革命を遂行する力がない時期に、この危機的な瞬間に、若者たちに顔を向け、これらの若者たちの中で最も大胆な若い人々を選び出して、資本主義国家に「彼らを殺せ!」と叫び、そしてそれだけですませるからである。このような行動の結果としてこれ以外の事態を私は思いつかない。

 ルクセンブルクの同志はさらにずっと厳しい。こう言ってはなんだが、彼はいささか民族主義的な気分を私に示した。彼は、フランス軍の部隊がルクセンブルクを占領したときにはフランスの党は何をするべきかと尋ねている。しかし、フランス軍によるルクセンブルク占領を阻止するためには、革命を遂行することが必要である。だが、フランスの労働者にとって、これだけが革命を行なう理由なのだろうか? どうしてフランスの労働者は何よりもルクセンブルクのために自分たちの革命を開始しなければならないのだろうか? 私にはそれが理解できない。フランスの労働者は、通りを歩けば、失業者や売春婦やフランスのスパイをたくさん目にする。街頭で彼らは、革命を行なう三つの理由に出くわす。そして家に帰れば、彼らはそこでさらに何千という他の理由を見出す。私は自問するが、フランス労働者は(そもそもフランス人にとって地理はあまり重要ではないが、フランス労働者にとってはとりわけそうである)、ルクセンブルクがどこにあるのかをきちんと知っているだろうか? 私には疑問だ。そして、フランス軍がこの小さな国を奪取したのだから、つまり労働者にとってその場所も定かではないルクセンブルクを占領したのだから、君たちは革命をするべきだ、と彼らに言うわけだ。どうしてか? なぜなら、ルクセンブルク人はわれわれの同志だからだ。しかし、これは革命的・共産主義的というよりもむしろ民族主義的な理由である。こう尋ねることもできるだろう。ロリオ(4)やモナット(5)が投獄されたときにフランス・プロレタリアートをどうするべきだったのか、と。なぜ彼らはこのことに無関心なのか? このこともまた革命の理由だったのではないか。なぜ諸君はまさにあの〔フランス軍の占領の〕例を取り上げたのか? なぜなら彼らは諸君のことを忘れているからである。諸君は赤いズボンをはいたフランス歩兵を目にした。そしてそれは諸君の神経をいささか逆なでした。どうして彼らは革命を行なわないのか、と諸君は叫ぶ。だが、こんなことでは革命の役には立たない。

 ルクセンブルクの同志は、フランスの同志たちが行動に恐れを感じているのだと言った。問題になっているのが個人的な行動ならば、もちろん、個人的な恐れを感じることはあるだろうし、人が勇気をなくす場合もあるだろう。このことは言うまでもなく、はなはだ惨めなことである。しかし、ここで問題になっているのは個人的勇気ではなく、政治的勇気であり、ある行動の結果を予見する必要性である。ルクセンブルクの同志は、同志ラポルトのテーゼを支持しているが、その結果について分析も評価もしなかった。確かにわれわれはフランスにおいて、プロパガンダやアジテーションや行動によって革命を準備しなければならない。しかし、同志諸君、革命を準備することと、19年度兵の動員令の瞬間に革命を遂行すること――この二つはまったく異なることである。

 動員令の際に、党中央委員会が本来なすべきことをすべてやったわけではないということなら、私も認めることができる。しかし、まず最初に分析する必要があるのは、中央委員会が議会や街頭でプロパガンダや大衆の組織化や抗議デモとして、何を行なったかである。中央委員会と党全体が、それらが実際に行なったことよりもはるかに多くのことをなすことができたと主張することができる。このことには完全に同意できる。なぜなら私はフランス共産党の現在の水準にまったく満足していないからである。この点については同志ロリオがよく知っている。しかし私は、たとえば、党全体に対する罰として同志フロッサール(6)の除名を要求しているルクセンブルクの同志の提案はまったく不適切なものであると考えている。ちなみに、フロッサールとカシャン(7)がこちらの陣営にやってきたとき、私は他の多くの同志たちと同じくらい、いやおそらくはそれ以上に、彼らに対して不信の目で見ていた。私はパリに住んでいたことがあったので、社会党議員のことを多少とも知っている。私は戦中、いやより正確に言えば戦争のはじめの頃、フランス社会党の行動を身近に観察した。それゆえ、私はこの2人の同志に対してはかなり悲観的な見方をしていた。しかし、インターナショナル第2回大会以降の彼らの行動については私の知るかぎり、満足すべきものである。この時期、彼らは共産主義インターナショナルに奉仕してきた。これは事実である。彼らは――もちろん、より断固とした同志たちに支えられてだが――中間主義者から脱した。彼らは共産党の創設に貢献した。これは事実であり、大きな事実である。

 現在このことにもとづいて活動をしなければならない。党により明確でより革命的な立場を与えなければならない。しかし、二つの大会[第2回大会と第3回大会]に挟まれたこの時期に、同党がまだ創設されたばかりの時期に、この党の創設に貢献した人々を党から追放することが言われている。いや、これは許容できない。とりわけ、第2回大会に出席していなかった同志がそういうことを言うのは許しがたい。諸君の憤激は、ルクセンブルクの同志たちよ、諸君をあまりにも非現実的にしてしまっている。しかし、フランスの現在の情勢が革命にとって有利かどうかという問題に立ち返ろう。

 会場からの声 [革命にとっては]そうではないが、積極的な行動にとっては…。

 トロツキー どのような積極的行動のことか? 問題になっているのは、動員令に従うのを拒否することである。

 だが、動員令に従うことを拒否する場合に問題になる「積極的行動」とは、労働者階級が革命前夜の状況にある場合のみプロレタリアートの党が引き受けることのできるようなものでしかない。この場合のみ、すなわち、党が属している階級の全体がすでに断固たる革命運動の側に引き入れられているこのような歴史的瞬間のみ、召集された新兵たちは兵役に就くことを拒否することができる。もし諸君が、このような決定的な瞬間がすでにやってきたと言うのならば、そのことによって諸君は党中央委員会の行動は誤っていた言っているのである。どうしてか? なぜなら、革命がすでに戸口に来ていて、残るはそれを開けるだけなのに、これらの人々は、革命の扉を開ける代わりに、事務室に座って宣伝煽動用のビラを書き、階級の組織化と建設の諸問題に取り組んでいたことになるからである。

 しかしながら、私はフランスの情勢を知っている。現在、ヨーロッパおよび全世界は経済情勢に関してはぐらついている。労働者の気分は基本的にすぐれて革命的である。ごく短期間で情勢は革命的なものになりうる。しかし、フランスについてはどうか? この数年間、フランスは最も反動的な国であったし、戦争という幻想、勝利という幻想、勝利の物質的果実という幻想に最も毒された国であった。これは最も毒された国である。

 会場からの声 そうだ、そのとおり!

 他の声 まったくそのとおり!

 トロツキー もちろん、革命的フランスもまた強力である――その情熱の点で、その最も先進的な分子たる諸君の意志の点で。しかり、諸君もまたフランス労働者階級の一部である。私はこのことをはっきりと理解している、同志ラポルトよ。私はフランス・プロレタリアートについてはいささかなりとも知っている。その情熱、決定的瞬間におけるその意志を。私は彼らのことをありありと思い浮かべることができる。党が改良主義者と手を切ったのはわずか数ヶ月前である。その立場は今のところまだ断固としてない。しかし、党とその機関は、階級の気分を理解している。そこにはまだ革命を遂行するのに十分な意志はない…。そしてこういうときに、フランス・プロレタリアートの気分がこのようなときに、フランスにおける革命は近いと主張するならば、得をするのは排外主義者だろう。戦争によって掻き立てられた希望はまだ捨てられていない。

 フランスによる絶え間ないドイツ略奪は、たしかに、フランスの思惑よりも少なかったが、それにもかかわらず、フランスが望んでいる巨大な額の部分的支払いであるかのように行なわれた。ブルジョア階級はまだこうした希望をもって権力に就いている。彼らは労働者にも譲歩しているが、その補償をドイツ人民の負担で手に入れることをあてにしている。こうしたものがフランスの情勢である。これは、戦勝国の中で最も反動的な国である。

 かつてドイツとオーストリア=ハンガリーで革命が起こった。イタリアでも完全な革命情勢にあった。そのとき警察と資本主義国家は完全に士気阻喪状態にあった。フランスではそれに類するものはまだない。その体制は最も安定していて、今のところ勝者たる自覚を持っている支配階級の意志によって最も精力的に管理運営されている。現在になってようやく多少の退潮傾向が見られるだけである。私が念頭に置いているのは、補欠選挙における急進党と急進社会党である。野党は、急進党と急進社会党を筆頭に、はなはだ腰砕けであった。このことが意味しているのは、フランスにおける政治的進化が、私が全体として理解するところでは、急進党主義とロンゲ主義に、すなわち急進党とロンゲ派とのブロックに向かいつつあることである。

 もし何らかのまったく予期できない事件、革命を起こしかねない事件が起こるとしたら、それはいいことだろう。だが、われわれは、われわれにとってまったく不利な状況に対して準備しなければならない。そしてそれでもやはり、私がたった今言ったばかりの運動がはっきりと現われたならば、それはわれわれにとって不幸なことではないだろう。急進党とロンゲ派が権力に就いたとき、われわれは唯一の革命的野党になるだろう。情勢はわれわれにとってまったく明白なものとになるだろう。われわれがロンゲ派を、支配階級の中のこれらの最左派分子を批判し暴露し、同時に大衆をますます精力的に運動に引き込み、そのときの情勢によって作り出されるわが階級の利益にそって行動するだろう。

 もちろんすべてを予見することはできない。しかし、私はフランスの情勢をこのように思い描いている。それは基本的に革命的なものであると思う。なぜならフランスの経済はまったく瓦解しているからである。社会の物質的土台は均衡を失っている。すなわちフランスは生産力の点で他の戦勝国と同じく非常に貧しくなっている。しかしそれと同時に、フランスは、世界で最も豊かで強力な国と同じような生活を送っている。ここに矛盾があり、この矛盾はフランスの通貨であるフランの下落という事実に非常にはっきりと示されている。諸君はこの事実を個人的経験から非常によく知っている。フランスのフランはその購買力の一部を失った。この勝利者のフランは今ではその価値の一部しか保持しておらず、自らのうちに、ブルジョア社会全体の生活様式とこの社会の土台における貧しさとの矛盾を体現している。そしてこの矛盾は必然的に労働者階級の意識にものぼらざるをえないし、彼らに、この社会が破滅の危機に瀕していることを証明せざるをえないだろう。

 したがって、情勢は過渡的なものであり、そのすべての可能性を実現するために必要なのはフランス人が適切な判断力を持っていることだけである。しかし、こうした状況のもとで、われわれの側が部分的な行動――たとえそれが姿勢と方法の点で断固たるものであっても――に先走りする誘惑に負けるならば、それは自殺的なものとなろう。私の考えが十分明白に伝わっているかどうかわからないが、19年度兵が動員令に従うことを拒否することは、まったくもって、フランスの政治的発展全体と直接的かつ密接な関係を持っていない偶然的な条件によって喚起された部分的行動であり、それにもかかわらずこの行動は最も断固たる方法、すなわち社会革命を必要とする。この矛盾はわれわれを滅ぼしかねない。

 私はフランス共産党の行動に満足していると言いたいのではない。いや、私はそれに不満である。なぜなら、現在の情勢下においては何よりも立場の明確さが必要だからであり、革命を行なう前にまずもってそれを欲し、その条件を理解し、それを遂行することを可能とするような情勢を作り出さなければならないからである。私が言いたいのは、批判的な発言を行なった同志たちが最もはっきりと革命を望んでいるのだとしても、この革命の条件に関してはあまりはっきりとは理解していないということなのである。

 われわれが取り上げているのが、形成されたばかりの党、その中央委員会、その議員団であるとしても、革命に対するかなり曖昧な意志を確認せざるをえないだろう。そして同志ラポルトはこの点に関して大きな優位性を持っている。私は真面目に、いかなる皮肉もなしに言っている。なぜなら事実その通りだからである。もし諸君が、党中央委員会は危機的な瞬間に十分に明確な革命的意思を発揮しなかったし、本来可能であったこと以下のことしかしなかったと言ったならば、諸君は正しかったろう。だが問題は、諸君がわれわれに語った召集にあるのではない。『ル・タン』紙からの一例を取り上げよう。私はこの新聞で、地方の通信員によるある記事を読んだ。そこに記されていたイニシャルは私の知らない人物のものであるが、見たところ、ミルランとその反動的一派によって鼓舞されている人物のようだ。この論文には、国の政治的・社会的生活に影響を及ぼしつつあるファシスト的気分が反映している。フランス人たる諸君は非常に危機的な情勢に対する準備をしておかなければならない。なぜならブルジョア世界は自分たちの階級的状況を十分に自覚しているからである。ブルジョアジーの機関紙はこう確認している――「われわれは、きわめて危険で危機的な時期にいる。それゆえ、ただちに人心をきちんと掌握しなければならない。それを組織し、個々の意識の中にこの事実を植えつけ、各々に自分の義務と本分をわきまえさせ、最初の合図が発せられるやいなや、戦闘に立ち上がり、モスクワの手先に煽動されている無政府分子を絶滅する準備を整えさせなければならない」。このようなものがこの論文の基本思想である。この論文は実にうまく書かれており、その思想を実に見事に展開している。

 翌日の『ユマニテ』に、この論文に反対しておおむね次のような呼びかけをするような論文が少なくとも三つは見出せると私は当然に思った。すなわち、「労働者諸君、君たちに対する攻撃が準備されている。ファシストのひそみにならって、武器、リボルバー、小銃で武装したフランス・ブルジョアジーの戦闘組織が形成されようとしている。労働者諸君、われわれもまた戦闘組織をつくらなければならない。われわれは敵の武器や戦闘組織などについて知らせてくれる秘密の偵察機関を持たなければならない」。これはささやかなものであるが、本格的な出発点である。それは曖昧なものではないし、若い新兵たちに準備もなしに闘争を呼びかけることでもない。私は『ユマニテ』のページをめくり、そうした記事を探したが、何も見つからなかった。『ル・タン』の論文はそのまま見過ごされた。このことは、党の全注意が最も重要な事実に、すなわち内乱の準備という事実に向けられていないということを示しているのではないだろうか? 革命的注意が表面的なものになっている。そして、党の政治思想が表面的になっている場合には――このことは『ユマニテ』が日々暴露している――、これはきわめて危険である。

 別の例はもう出さないでおくが、私の手元には、最新の党大会に関する新聞切抜きの膨大なコレクションがある。興味があれば、私は同様の事例をいくつも紹介することができる。『ユマニテ』の議会報告記事は種々の政党の立場について語っている。その中には共産党と呼ばれている政党のものも含まれている。もちろん、そこには若干のニュアンスの相違がある。共産党議員の演説は、ロンゲ派の演説よりも立派であるとみなされている。しかし、これはいつでも現実と一致しているとはかぎらない。しかし、これはいずれにせよ、ニュアンスの相違にすぎない。われわれの出版物とわれわれの演説によって共産党とブルジョア社会全体とのあいだに掘られるべき溝が見えない。このような溝は見えてこない。『ユマニテ』を支持している労働者に関して言えば、彼らは結局のところこう言っている、「で、諸君はいったい何をしようというんだ? どうして諸君は共産主義について語らないんだ? 共産主義の代わりにわれわれが目にしているのは、少し色がついているだけで、基本的にはロンゲ派と同じぼんやりとした影だけである」。

 もちろん、革命情勢の発展は、われわれの介入、われわれの影響、われわれの大会によって促進されるだろう。しかし、次の事実を考慮しきちんと評価しなければならない。すなわち、サンディカリストに対する党の立場が、私見によればまったく間違っているという事実である。政党と労働組合との関係という問題は現在、フランスにおいて最も重要なものである。労働組合とフランスのサンディカリストとは別物である。フランスのサンディカリストは実際には一個の党である。彼ら自身、そのことを理解していないし、自分たちと労働組合とを混同しているが(なぜなら同じ名称を持っているから)、そうである。だがそれにもかかわらず、労働組合とは、見解や方向性の違いにかかわりなく、社会党労働者、共産党員労働者、無党派労働者などすべての労働者を包含し、経済闘争のために組織された労働者組織である。しかし、サンディカリストの場合には、一定の方向性があり、一定の綱領があり、この綱領とそれを奉じる一定数の同志たちの周囲に政党が組織されている。それは、自分たちの影響圏として労働組合を利用している。

 ここに二つの問題が存在する。政党と労働組合との関係という問題と、共産党と、労働組合内のサンディカリスト党との関係という問題である。労働組合内のいくつかの小グループは、社会サンディカリスト党と同じく、いくつかの理由にもとづいて共産党と融合するつもりはないと宣言している。この理由なるものの一部は嘘であったし、今もそうである。彼らは政党との融合を望んでおらず、労働組合の自治の背後に隠れていたいと思っている。われわれは労働組合が政党に従属することを望んでいない、と彼らは叫ぶ。だが実際には、それが意味しているのは、「私は、自分の党が他の党と融合してほしくない。われわれは労働組合の独立性を保持する!」ということである。これはきわめて深遠な誤解であるが、それでもやはり誤解であり、最も友好的なやり方で解かなければならない。なぜなら、フランスのサンディカリストの中には、卓越した革命的分子がいるからであり、フランスの労働組合の中にこそフランスの労働者がいるからである。それゆえ、誠実に働きかける必要があるが、それでもやはり公然と真実を語らなければならない。

 ここで言っておかなければならないが、フランス共産党は必ずしもサンディカリストに反対する勇気を持ち合わせていない。フランス共産党はジョレス(8)の伝統に忠実である。すなわち、サンディカリストを大目に見、沈黙でやり過ごす。あたかも絞首刑所では縄のことについて語らないように。彼らの不十分性についても、彼らの優れた点についてもまったく語らずに、労働組合は労働者組織であり、それとは友好的な関係を維持する必要があると宣言するだけである。そして実際、ジョレスの時代には、党の中では改良主義、日和見主義、民族主義の精神が優勢であったのに対し、サンディカリストは真の革命的潮流の代表者であり、ジョレス派のこうした外交的慎重さの背後には、[革命的潮流に対する]当然の恐怖が隠されていたのである。なぜなら、もしジョレス派が「サンディカリスト諸君、君たちはこれこれの誤りを犯した」などと言おうものなら、サンディカリストの側がジョレス派に対し、彼らの誤りを列挙したはるかに長いリストを突きつけかねなかったからである。しかし今では、われわれは、労働者階級の前でフランス・サンディカリストに対する関係をきちんと説明しなければならない。

 ところが私は今だかつて、『ユマニテ』の中に、サンディカリストの教義に対する批判的言辞をただの一言も見つけ出したことがない。サンディカリストの教義としては、アミアン憲章(9)以外の何も見出せない。彼らは、その気質の点ではそうでないにしても、そのイデオロギーの点では、再建派に転向した。私はよく覚えている、私の古い友人であるブルドロン(10)が国際関係の復活の問題に関していつも、「重要なのは第3インターナショナルをめざすことではない」と言っていたことを。彼、ブルドロンは、1914年7月31日以前に存在していたようなインターナショナルへの復帰を望んでいた。サンディカリストたちはわれわれに何と言っているか? 彼らはこう言っている、「君たちはわれわれに対しプロレタリアートの独裁やソヴィエトについて何度も繰り返す。だがわれわれはアミアン憲章に戻りたいと思っている」。だが何たることか! アミアン憲章の採択後、戦争が起こり、ロシアで革命が起こった。ドイツでも半分の、いや3分の1の革命が起こった。イタリアでは偉大な[工場占拠]運動が巻き起こった。アミアン憲章はこれらの事件を考慮しているだろうか? いやちっとも。それとは反対に、われわれマルクス主義者は、われわれの綱領の多くの点を見直し、修正したではないか。フランスのサンディカリストが何としてでもアミアン憲章に立ち戻ろうとしていたときに、われわれは多くのことを見直し修正していたのだ。これは、ベランジュのある古い詩を彷彿とさせるものである。

 ※編者注 これは、彼らが、戦前にあったような労働者の統一の再建を進めようとする人々が奉じているイデオロギーの支持者になったという意味。つまり、第2インターナショナルやアムステルダム型の組合統一の支持者という意味。

 もし共産党がその機関紙の中で、サンディカリストとの友好的な公開討論を開始するとしたら、それは非常によいことだと私は主張したい。われわれの友人モナット――私は好きだし非常に高く評価している――はこの問題に関して明確なことを言っていない。彼は沈黙している。われわれの同志ロリオはこの沈黙に関して彼を支持している。彼はそれを獄中で行なった。獄中では、たしかに、外交的関係を維持することが必要である。なぜならそこでの討論はろくなものにはならないからである。しかし、両者とも獄中を出て、元のさやに戻った時には――貴君は党に、彼は労働組合に――、討論を開始しなければならない。モナットのような同志たち――サンディカリストの中には彼のような人々はたくさんいる――が党に入ったときに、大きな革命的高揚が訪れたなら、それは党にとっても労働組合にとってもはなはだ有益なものとなるだろう、私はそう確信している。しかし現在はこの問題は未決定である。それは解決されていないだけでなく、解決に向けて足を進めてさえいない。そしてこの点にこそ私は大胆さの欠如を見出すのである。

 同志諸君、私は、党がそのなすべき課題の高みにまで達していないことを示す、党の状況に関する諸事実をなおまだ大量に紹介することができる。しかし、それと同時に、現時点において、フランス共産党がおそらく全ヨーロッパ諸国の中で最も有利な状況にあることも確信している。なぜか? フランスにおける発展ははるかに緩慢だが、労働者階級にとってはるかに明確なものだからである。戦争、勝利の大いなる幻想、ロンゲ派の成功――これらはあたかも予備役兵のようなものであり、その後に、第一、第2、第3の階級が、緩慢にだが続くだろう。フランスの条件にもとづいて創設されたフランス共産党は非常に強力である。なぜならフランスにおいては政党は普通、あまり多くの党員を確保していないからである。しかし、その政治的影響力は非常に大きく、12万人党員をもつ党は、フランスにおいてはきわめて重要な意義を持っている。

 われわれは、急進党系野党とロンゲ派の波が高揚しつつあるのを目撃している。しかし明日には彼らは没落し、われわれが唯一の野党として残るだろう。イタリアでは類似の革命的時期があった。その時には、革命的思想ははるかに不明確で、共産主義インターナショナルはるかに少ない理解しか得ていなかった。ドイツは、共産党がほとんどできていなかった時期に革命期を送った。巨大な社会民主党と独立社会民主党だけが存在していた。ドイツ労働者階級の大闘争と偉大な決定の後にドイツ共産党が創設され強化された。ドイツではすでに巨大な革命的意思が存在しているが、同時に労働者階級の一部に若干の懐疑主義と若干のユートピア主義も見られる。フランスでは革命的戦闘は存在しなかった。しかし、不満は存在するし、それはますます積み重なっている。情勢は日を追うごとに明確なものになっていっている。そこには共産党が存在するし、それは、フランスにおける最初の偉大な革命的諸事件の前に創設され、戦後の3年間に共産主義インターナショナルによって蓄積されたすべての経験に依拠している。

 これがフランスの情勢であり、それはもっぱらフランス共産党にとって有利なものである。まさにそれゆえ、私は、同志レイヌールが、同志フロッサールの除名という自分の提案を投票に付さないだろうと思う。しかし、もし誰かがこのような提案を提出するならば、その提案は全員によって否決されるものと私は希望している。われわれはフランス共産党に対し、友好的に、だが精力的に語る。われわれは諸君に対し、情勢が有利かどうかを理解することなく革命的行動を提起するよう要求したりしない。必要なのはもちろん、この情勢をまず最初に分析することである。しかし、われわれは諸君に対し、諸君のこれまでの立場、資本主義社会や議会とのこれまでの関係と結びつきを、形式的にではなく実質的に断ち切るよう要求する。諸君の手法、諸君の議会好きは、意思と革命的明確さの欠如以外の何ものも意味しない。

 われわれは諸君に、諸君の革命的意志を諸君の出版物に、諸君の議会活動に、労働組合に、いたるところに表現するよう要求する。それは、最終的に、パリのバリケードのうちに最も高度な形で表現するためである。これこそが現在われわれが諸君に要求しなければならないものである。一定の期限を指定したり、これは明日にでも実行しなければならない、などと言ったりはしない。われわれは明日にフランス革命を要求したりはしないが、しかしわれわれは、明日にはフランス共産党が革命に向けた意思を発揮するよう要求する。

1921年6月21日

『フランスにおける共産主義運動』所収

『トロツキー研究』第38号より

  訳注

(1)ラポルト、モーリス(1901〜?)……初期のフランス共産主義青年同盟の指導者、党内極左派、その後、反共右派に。第1次大戦中にフランス社会党に入党。1918〜1919年、社会主義青年同盟内の共産主義的潮流として活躍。フランス共産主義青年同盟の書記長。1921年のコミンテルン第3回大会、1921年6月16、17日の第2回拡大執行委員会会議、1922年の第4回コミンテルン大会に出席。1923年、フランスによるルール占領に反対する行動の中で逮捕投獄。1923年に青年同盟書記長の地位をドリオに譲る。1920年代半ばに共産主義と絶縁。反共右派となり、1940年以降のドイツ占領期にドイツ軍に協力。戦後、フランスの戦犯を裁く裁判で欠席のまま終身刑を宣告される。

(2)21年度兵……フランスでは、何年度に兵役に登録されたかでそれぞれ「兵役階層(クラス)」を分けている。「21年度兵」というのは、1921年に軍に登録された兵役階層のことを指している。

(3)階級……トロツキーはここで、社会階級という意味での「階級」と年度別兵役階層という意味での「階級」とをオーバーラップさせている。

(4)ロリオ、フェルナン(1870〜1930)……フランスの革命家、小学校教師。フランス社会党の左派の指導者の1人で、CGTの活動家。第1次大戦中はツィンメルワルト派。1920〜21年にフランス共産党の創設に積極的役割を果たし、フランス共産党の指導者となる。1921年、コミンテルン第3回世界大会に出席し、幹部会に選出。1920年代半ばにおけるコミンテルンとフランス共産党の官僚主義化に反対。1926年に離党。1927〜28年、左翼反対派の『流れに抗して』誌で活動。まもなく、政治活動から身を引く。モナットやロスメルのグループと友好関係を保持。

(5)モナット、ピエール(1881〜1960)……フランスの労働組合運動家でサンディカリスト左派。1909年に『労働者の生活』を創刊。第1次大戦中は反戦の立場を堅持。1923年にフランス共産党に入党したが、1年後に離党。1924年に『プロレタリア革命』グループを旗揚げ。1926年に「サンディカリスト連盟」を創設。

(6)フロッサール、ルイ・オスカール(1889〜1946)……フランスの社会主義者、ジャーナリスト、一時期、フランス共産党の指導者。1905年、フランス社会党に入党。第1次大戦中は平和主義派、中央派。1918年、党書記長に。1920年、マルセル・カシャンとともにコミンテルン第2回大会に参加。帰国後、フランス社会党のコミンテルン加入を訴え、多数派とともにフランス共産党を結成し、その書記長に。統一戦線戦術をめぐってコミンテルン(とくにトロツキー)と対立。1922年末に党と決別し、その後、社会党に復党し、国会議員に。後に、社会主義そのものと決別し、ブルジョア政権のもとで大臣に。第2次大戦中はペタン政府に奉仕。

(7)カシャン、マルセル(1869〜1958)……社会党出身のフランス共産党指導者。『ユマニテ』の編集者。第1次大戦中は社会愛国主義派。1918年に中央派に。コミンテルン第2回大会でフロッサールとともにフランス社会党を代表。1920年12月のトゥール大会でフランス社会党のコミンテルン加入を訴える。フランス共産党内では中央派。その後、忠実なスターリニストとなり、死ぬまでその立場を堅持した。

(8)ジョレス、ジャン(1859〜1914)……フランス社会党の指導者、改良主義派としてゲード派と対立。1904年に党機関紙『ユマニテ』を創刊。1905年にゲード派とともに統一社会党を結成。反戦平和を主張し、第1次世界大戦勃発直後に右翼によって暗殺された。『フランス大革命史』(全8巻)など。

(9)アミアン憲章……1906年にフランスの労働総同盟がアミアン市で開催された大会で採択した革命的サンディカリズムの基本原則。労働組合の独立性と非政治性が宣言され、ゼネストなどの手段を用いて社会革命を目指すとした。

(10)ブルドロン、アルベール(1858〜1930)……フランス労働運動の活動家。第1次大戦中は受動的国際主義者で、1915年のツィンメルワルト会議にも参加。そこでは中央派的立場をとる。1920年代は労働総同盟の執行委員。

 

トロツキー研究所

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1920年代前期