食糧政策と土地政策の根本問題
(ロシア共産党(ボ)中央委員会に提出された提案)
トロツキー/訳 西島栄
【解説】これは、戦時共産主義が真っ盛りの1920年2月に、トロツキーによって中央委員会になされた提案であり、ネップ政策の先取りといわれている。穀物徴発制度が行き詰まりつつあったこと、農村が荒廃し、プロレタリアートの階級脱落が進んでいたこと、食糧生産が衰退しつつあったこと、農民の不満が高まり、それが危険な水準に達しつつあったこと、これらは、この時期すでにかなり認められつつあったが、ボリシェヴィキの中央幹部はこのことに目を閉じて、これまで通りの方策を支持していた。その中にあって、各地方を実際に回って見聞していたトロツキーは、幹部の中ではいち早く深刻な事態になっていることを感知し、以下のような提案(徴発制をやめて累進所得現物税に置きかえること)をしたのである。
しかし、この提案は中央委員会で4票しか獲得せず、採用されなかった。とりわけレーニンは強く反対した。この提案には自由市場の復活については何も言われていなかったにもかかわらず、トロツキーは自由取引主義者と批判された。穀物徴発制の廃止は、結局、1年後の1921年3月の第10回党大会まで待たなければならなかった。1年間のロスは深刻な結果をもたらした。地方での大規模な農民反乱(とりわけ悲惨な結果をもたらしたタンボフ県のアントーノフの反乱)、そしてクロンシュタットの反乱をもたらし、ソヴィエト政権の政治的・道徳的権威を著しく下げ、政権の独裁的性格は不必要に強化されることになった。
Л.Троцкий,Основные вопросы продовоственной и земельной политики, Сочинения,Том.17, Советская Республика и капиталистический мир, Мос-Лен., 1926.
地主の土地は農民に引き渡された。あらゆる政策は、多くの馬を持ち広い播種面積を持つ農民(クラーク)に対立している。他方では、食糧政策は、(消費基準量を越える)余剰の没収にもとづいて立てられている。これのおかげで、農民は自分たち自身に必要な規模でしか土地を耕作しない方へ追いやられている。とくに、3頭目の雌牛を余剰として没収する法令は、実際には、雌牛の密殺、肉の投機的な投げ売り、酪農の荒廃をもたらしている。その一方で、都市の半プロレタリア分子は、いやプロレタリア分子でさえ、農村に住みつき、そこで自分たちの食糧生産を始めている。工業は労働力を失い、農業では自給自足の食糧生産の数が増大している。まさにこれによって、余剰の没収にもとづいた食糧政策の基礎は掘り崩されているのである。今期における食糧の調達がかなりの成果をおさめているとすれば、それは領土の拡張と食糧調達機構のある程度の改善によるに相違ない。ところが一般的に言えば、食糧資源は枯渇のおそれがあり、いくら徴発機構を改善しても、それを食い止める助けにはなりえないであろう。経済のこうした崩壊傾向との闘争は、次の方法によって可能となる。
1、播種面積の拡大や耕作の改善がそれなりに利益をもたらすよう、余剰の没収を、一定の比率での控除によって置き換えること(ある種の累進所得現物税)。
2、郷や村のレベルにおいてだけでなく、個々の農家のレベルにおいても、農民へ引き渡される工業生産物の量と農民が供出する穀物の量とがいっそうよく照応するようにすること。
地元の工業企業をそれに引き込むこと。農民が供給する原料や燃料や食糧の支払いとして、部分的に企業の工業生産物をあてること。
3、供出量に対する義務割り当てを、播種面積や耕作規模全般に関する義務割り当てで補うこと。
4、ますます広範に、ますます正しく手際よく、ソフホーズを建設すること。
最初の二つの項目は、クラークに対する圧力を若干弱めることを意味する。われわれはある限界内に彼らをおいておくが、食糧生産を行なっている農民の水準までは引き降ろさない。
最後の二つの項目は、その反対に、農業集団化への傾向を強化することを意味する。
しかしながら、これらの政策の間には矛盾はない。ソフホーズと共同耕作とが食糧政策の中心となることができない間は、ソフホーズと割り当て制にもとづいて土地の共同耕作を強化しつつ、われわれは農民の上層部により慎重な態度で接するのである。
豊饒な農業地域(シベリア、ドン、ウクライナ)では、最初の2項目によって決定された政策をとることがぜひとも必要である。
中央の諸県では、最後の2項目の政策が優勢となりうる。
いずれにせよ、食糧ノルマにもとづく均等徴発や、供出の際の連帯責任制、工業生産物の平等分配といった現在の政策が、農業を衰退させ、工業プロレタリアートを分散させるものであり、国の経済生活を完全に台無しにするおそれがあることは、明白である。
ウラルへの途上にて、1920年2月
ロシア語版『トロツキー著作集』第17巻
『トロツキー研究』第3号より
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