いかなる観点から
アプローチするべきか
トロツキー/訳 西島栄
【解説】トロツキーは、革命と内戦が一段落した後、官僚主義の悪弊が急速に広まる中、その動きを押さえてロシア革命の生命力を真に開花させるためには、経済発展と文化革命が必要であると考え、工業化の問題と日常生活の問題に集中的に取り組むようになる。とりわけ、トロツキーの日常生活論は、家庭内における性差別の問題をはじめ、これまで十分論じられてこなかった多くの問題に光をあてた。この論文は、そうした一連の論文の一つであり、ソヴィエトのメディアの問題と労働者の日常生活の問題とを結びつけて論じている。
Л.Троцкий,С какого угла подойти, Сочинения, Том.21, Культура переходного период, Мос-Лен., 1927.
労働者の日常生活の問題、とりわけ家庭の問題は、労働者通信員の非常に大きな関心を引くにいたり、いわば彼らをとらえるようにすらなった。しかし、かなりの程度…準備もなくとらえたのである。日常生活の叙述者たろうとする一連の労働者通信員は、大きな困難に直面する。どのようにアプローチするべきか、何から始めるべきか、何に注意を向けるべきか、と。問題は文章のスタイルの困難にあるのではなく――これはこれで特殊な問題だが――、党が労働者大衆の日常生活の問題に対する特別な注意を自己のうちに醸成してこなかった、ないし、することができなかったという事情にある。われわれは、さまざまな時期において、賃金、罰金、労働時間、警察の追及、国家の形態、土地所有、等々の問題を詳しく検討してきたが、この問題についてはこれまで一度も具体的に検討してこなかった。労働者の家庭や一般に彼らの個人的、私的生活に関してはこれまで、前述したさまざまな問題に関して行なってきたようなことは何も行なってこなかった。しかしながら、この問題が今や成人の生産的生活の3分の2――24時間中16時間!――を占めているという一点からしても、重要でないわけがないのである。
すでに現在、この点に関し、個々の個人生活に対して無思慮に、それどころか乱暴にアプローチする危険性が指摘されている。個々には――幸い、それは例外的なものだが――、労働者通信員が家庭の日常生活に対し、たとえば工場の生産状況に対するのと同じようにアプローチする場合が見受けられる。つまり、単にあれこれの家庭生活を引き合いに出し、その家庭の構成員全員を名指しで記述している。こうしたやり方は誤っており、危険で、許しがたいものである。
労働者の工場長であるということは、一つの社会的機能である。工場委員会のメンバーに関してもまったく同じことが言える。この職務にある人は公衆の監視下にあり、自由な批評のもとにある。だが、家庭生活に関しては事情は別である。もちろん、家庭も種々の社会的機能を遂行している。人口を再生産し、部分的には新しい世代を教育する、といった機能である。この観点のもと、労働者国家は、衛生と教育の見地から、家庭生活に対する一定の統制と規制を自己の手中に集中する完全な権利を有している。だが、国家が家庭生活に立ち入る際には、必ずや最大限の慎重さと大きな節度と漸進性をもってそうしているし、今後もそうするだろう。そして、家庭をより正常な、よりきちんとした条件に置くことで国家の干渉を納得いくものにし、衛生その他の、勤労者にとって利益になることを保障し、それによって、より健康で幸福な次世代人を準備しなければならない。メディアに関して言えば、その家庭自身に明確で議論の余地ない理由を示すことなく偶然的・恣意的に家庭生活に立ち入ることは、絶対に許されないことである。家族の絆によって結びついた人々の内的生活に新聞が無思慮かつ乱暴に干渉するならば、紛糾や災厄や破局をひどくするだけであるのは、多くの説明を要さないほど明白である。さらに、この種の情報は、家庭生活の閉鎖性ゆえに、ほとんど統制がきかないので、この種のテーマに関する記事は、不誠実な人々の手にかかれば、個人的な恨み、復讐、いじめ、脅迫、等々を行なう最も手っ取りばやい手段となりうるのである。
ここ最近、家庭の日常生活の問題を論じた多くの論文の中には、党にとっては社会的活動だけでなく、党員の個人的生活も重要であるという考えを繰り返すものが見られる。これは議論の余地がない。個人的生活に置かれている状況が社会的活動に消すことのできない刻印を押しているのだから、なおさらである。しかし、すべての問題は、どのようにして個人的生活に働きかけるのか、という点にある。物質的条件、文化水準、国際情勢、等々が日常生活に根本的な変化をもたらすことができるような状況にないとしたら、個々の家族、両親、夫、妻らを公衆の面前で暴露しても、もちろんのこと、いかなる実際的な成果ももたらさないだろうし、党のエセ敬虔主義となる恐れがあるだろう。そしてこれは、危険で伝染性をもつ病である。その問題点は、外見や体裁や敬虔な形式のために本質を犠牲にしていることにある。
エセ敬虔主義という病は、たとえばチフスのように、さまざまな形をとる。時には、最良の考慮から、また党の利益に対する、極めて真摯であるが誤った方向をとった配慮から、エセ敬虔主義が生じることもある。しかし、党の利益というものが、まったくもって副次的な考慮(派閥的、官僚的、地方的、個人的、等々の)をもっぱらおおい隠すのに使われることもあるのだ。まったく明白なことだが、家庭に対する社会的なアプローチを道徳主義的なアプローチで置きかえることは、文化・日常生活運動に偽善の忌まわしい毒素を盛ることになるだろう。日常生活の分野におけるわれわれの粘り強く細心の注意を払った一般的な探求は、家庭と日常生活の問題における党の知識をより豊かにし、党と社会の世論がより明確な形をとるようにし、個々の人間の心理的素養を高め、国家機関や労働組合、協同組合をより正しく完全に方向づけることに役立たなければならない。しかしながら、それはけっして、直接的であれ間接的であれ党のエセ敬虔主義を培うことになってはならない。
それでは、このような場合、どのように家庭を啓発するべきであろうか? 家庭にどのようにアプローチするべきであろうか?
これに関しては二つの基本的な方法がある。第1は、一般的な論文や、社会評論的ないし小説的(半小説的)性格をもった論評という方法である。思慮ある円熟した労働者なら誰でも、自分の実生活から得られた、家庭の日常生活に関する膨大な印象を記憶にたくわえている。その印象は日々の観察によって新たにされる。こうした材料にもとづいて、家庭の日常生活全般やその変遷、またこの日常生活の個々の側面を論じた論文を書くことができる。それは、最も明瞭な実例を挙げるが、個々の家庭や個々の人物の実名を出すことはなく、必要な場合には、偽名を使ったり状況設定を変えたりして、特定の家庭や個人がこの報道からはわからないようにする。このようなやり方にもとづいた非常に興味深い価値ある論文が最近、『プラウダ』や地方の刊行物に多数掲載されている。
第2の方法は、すでに具体的に名前が知られている家庭を、世論の知るところとなっている範囲で取り上げることである。この家庭は、その破局のために――たとえば殺人や自殺のために、または、嫉妬、虐待、親の専制などをめぐる裁判のために――すでに世間の注目と議論の対象となっている。山の構造や土壌の成層が地滑りによって最もよく見えるようになるのと同じく、その悲劇的破局によって家庭は、破局にまでいたらない多くの家庭にも共通する諸特徴を最も鋭い形で暴露するのである。
すでに簡単に指摘したように、わが国のメディアは、わが国の庶民の関心を当然かきたてるこうした事件を避けて通り過ぎるいかなる権利も有していない。自分を捨てた夫に子供の養育費を支払わせるべく妻が裁判所に訴えた場合、また妻が夫による殴打や一般に夫による暴力に耐えかねて社会的保護を求めた場合、子供に対する親の虐待が社会的調査の対象となる場合、また逆に、病弱な親が子供による虐待を訴えた場合、およそこのような場合はすべて、メディアは事件に介入して、裁判所やその他の社会・国家機関がもしかして見落としているかもしれない側面を明るみに出す権利を有しているだけでなく、そうする義務をも有している。日常生活に対するこうした裁判所的アプローチはわが国ではまったく用いられていない。しかしながら、この方法には巨大な意義が与えられなければならない。日常生活の諸関係が揺さぶられ再編される時代において、ソヴィエトの裁判所は、新しい日常生活を組織する上で、また正邪や要不要の新しい観念を形成する上で、最も重要な要因の一つとなることができるし、そうならなければならない。メディアは、この仕事を報道し補完するだけでなく、ある意味でそれを方向づけることで、裁判所をフォローしなければならない。この点で、教育上・日常生活上の働きかけにとって巨大な領域が開かれている。
わが国の最良のジャーナリストは裁判批評を書くべきである。もちろん、軽率さや図々しさやいいかげんな書きとばし、その他、野戦ジャーナリストにありがちな札つきの手法はここではまったく不適当である。必要なのは、思慮深さであり、誠実さである。家庭問題に対する共産主義的アプローチ、すなわち視野の広い革命的・社会的なアプローチは、いかなる場合であってもけっして人間心理を度外視してはならない。すなわち、人間とその内面世界に対する配慮を失ってはならない。
ここで、最近新聞で見かけた地方の一小例を紹介しよう。ピャティゴルスクにおいて、18歳の娘が、赤色指揮官との結婚を母親に許されなかったために自殺した。地方紙の『テレク』はこの件に関する記事を、赤色指揮官に対するまったく思いもよらぬ非難で締めくくった。つまり、このような旧習墨守な家庭出の娘と関係をもった――おお、協調主義者よ!――ことが問題だというのだ。
私は当惑を表明した手紙を編集部に書いて出そうとした。それは、私の知らないこの赤色指揮官のためというよりもむしろ、日常生活の問題の正しい設定のためであった。しかしながら、2、3日して『テレク』紙に、同じ件に関して正しく問題を立てている記事が現われたので、私は手紙を送らずにすんだ。この記事は以下のように論じている。新しい生活関係は現在あるがままの人間材料にもとづいて建設しなければならず、赤色指揮官もこのことから免れない。もちろん、親は自分の子供の運命に関心を寄せる権利を持っているし、この運命に自らの経験、自らの助言でもって影響を与える権利を有している。しかし、成人になった子供は親の言うことに従う義務はないし、とりわけ友人や人生の伴侶を選ぶ際にはそうである。親の専制に抗議して自殺するのではなく、青年の団結、彼らの間での相互援助に助けを求めるべきである、云々。
以上の点は非常に基本的で、まったく正しい。小さな都市を疑いもなく揺るがした先鋭な事件の機会に書かれたこのような記事は、小ブルジョア的自然発生性や小市民性といったうんざりするような文句を繰り返すより、はるかに読者、とりわけ青年読者の思想と感情に切り込むことができるのである。
同志たちの中には、家庭と日常生活の諸問題を「報道する」ことは重要なことではない、なぜなら「われわれ」はとっくにこの問題を解決したし、よくわかっているからだ、と考えている者がいるが、彼らははなはだしく誤っている。彼らは、わが国には政治的にまったく手つかずの部分が多く残っていることをあっさり忘れてしまっているのだ! ますます少なくなっていく古い世代が階級闘争という苛酷な事実にもとづいて共産主義を学んだのに対し、新しい世代は日常的建設の構成要素および小要素にもとづいて学ぶのである。われわれの綱領的定式は原理的に正しいとはいえ、それは生きた経験にもとづいて絶え間なく検証され、刷新され、具体化され、ますます広範囲に適用されなければならない。さもなくば、それはアルヒーフの文書となるしかないだろう。
日常生活を学ぶことは、生活建設の前提であり構成要素であるが、それは長い時間を要し、ますます具体的で専門的なものとなっていくことが求められている。わが国に軍事アジテーターや生産担当者、反宗教宣伝家ないし反宗教運動家がいるように、日常生活の問題に関するアジテーターや宣伝家をわが国で育成しなければならない。そして、現在、わが国の日常生活における制約が最も容赦なく女性の肩と背中にのしかかっているのであるから、日常生活の問題に関する最良のアジテーターは女性の中から出てくるだろう。ここで必要なのは、問題に熱心かつ執拗に取り組む人、十分に広い視野と生活における粘り強さとを合わせもち、皮相な目には見えない日常的な家庭内隷属関係のあらゆる特殊性、些事、細部に創造的な注意を向けることのできる人、である。このような人々は現われるだろう。なぜなら、目下の問題と必要性とはあまりにも火急のものだからである。もちろん、だからといって、山がたちどころに動くわけではない。物質的条件を飛び越すことはできない。だが、その代わり、現在の日常生活そのものが牢獄のごとき沈黙から脱するならば、現在の条件の枠内で達成しうることはすべて達成されるだろう。
日常生活問題アジテーターの育成は、あらゆる手立てをつくして促進し推進しなければならない。わが国に存在する日常生活関連の図書をすべて集めた「暮らしの図書館」をつくる必要がある。家族の発展に関する古典的な著作、生活様式の歴史に関する通俗的概説書、わが国における現在の日常生活の個々の側面を研究した文献(たとえば、ストルミリンの『労働者の時間配分』)などである。このテーマに関する最近出版されたすべての価値ある外国文献も翻訳して入れる必要があるだろう。さらに、わが国の新聞の家庭欄・生活欄も充実させ深化させなければならない。おそらく、あと2年もすれば、スヴェルドロフ大学で日常生活の諸問題に関する講座が開かれることだろう…。
しかし、以上はすべて日常生活の報道、宣伝、メディア、文学に関することである。では、実践的活動としては何から始めるべきだろうか? 今すぐ新日常生活連盟のようなものをつくるべきではなかろうか、と何人かの同志たちは尋ねる。私にはこれは時期尚早であるように思われる。そのための基盤はあまりにもわずかしか準備されていないし、一般的条件はあまりにも不利である。しかし、一般的に言って、ある一定の時期がくれば、このような組織的テコをつくることは避けられないだろう。万事は、お上が、すなわち国家がしてくれるだろうなどと期待するべきではない。新しい社会的建造物はあらゆる方面からいっせいに生じてこなければならない。プロレタリア国家は建築のための足場である。建造物ではなく、単なる足場である。
過渡期における革命国家の意義は測りしれない。これは、国際アナーキストですら、その最良の部分がわが国の経験から理解せざるをえなかった思想である。しかし、だからといって、すべての建設事業が国家によって遂行されるということではけっしてない。国家に対する物神崇拝は、たとえプロレタリア国家に対するそれであっても、マルクス主義者にふさわしいものではない。軍事力の発展のような厳密に国家的な領域においてさえ、われわれは労働者・農民の諸団体の自発的なイニシアチブに頼り、成功を収めた。こうした基盤にもとづいて、われわれは現在、何よりも空軍の発展に努めている。「空軍友の会」が大きな将来性を有していることは疑いえない。技術や経済の分野において、とりわけ日常生活の分野において、自主的なグループや協会(地方的ないし全国的な)がなおいっそう大きな役割を果たすことは間違いない。すでに現在、赤色工場長や労働者通信員、労働者・農民作家などによる自主的で非強制的な協会が次々とできている。つい最近でも、ソヴィエト同盟にきちょうめんさの習慣をつけることを課題とした、すなわち、いわゆる「国民性」を事実上変えようとする連盟ができた。以上の動きは単なる始まりにすぎない。遅かれ早かれ――「遅く」というよりもむしろ「早く」だが――国家映画委員会(ゴスキノ)の援助を受けて、赤色映画友の会がつくられるだろう。そしてそれは日常生活の強力な変革者となるだろう。このような自発的な協会は歓迎しうるのみである。それらは、多種多様な社会的能動性をますます目覚めさせるだろう。
もちろん、社会主義建設は何よりも計画的な建設である。しかし、その計画は、何らかのアプリオリなものでも、すべてを包括しすべてを予見するようなものでもないし、建設に着手する以前にすでに細部にわたって与えられているものでもない。反対に、一般的計画は、作業の中でつくられ点検され修正されるのであり、その作成と点検において社会的なイニシアチブが強力であればあるほど、計画はますます生き生きとした具体的なものとなるのである。
国家計画の一般的な枠組みの中でも、自主的な協会や団体にとって広大な活動領域が開かれている。何百・何千万もの住民の中には、無数の関心、力、エネルギーがあり、それらは、純粋に国家的な手段によってはその100分の1も利用することはできないが、それらの性質に合致した組織形態が見いだされるならば、国家と手に手をとって、もしくは国家と平行して、すばらしくよく力を発揮するようになるのである。実際、社会主義建設の創造的な組織的指導は、とりわけ現在の「文化啓蒙活動」期においては、何よりも、大衆の自主性をますます高めつつ、個々のグループ、個人、協同組合の創造的エネルギーを発揮させ応用するのに適した柔軟で合目的的な形態を見いだす方向で進められなければならない。これらの自発的なグループ・団体の多くは、挫折したり、復興したり、変化したり、崩壊したりするだろう。しかし、総じてその数は、全体としてのわれわれの仕事が深化・拡大するのに比例して増大していくだろう。
その中で、新日常生活連盟が遅かれ早かれ最重要の地位を占める団体の一つとなるのは疑いない。それは、国家、地方ソヴィエト、労働組合、そしてとりわけ協同組合と密接に結びつくだろう。しかし、現在、前述したタイプの中央組織をつくることは時期尚早であるように思われる。はるかに時宜にかなっているのは、労働者の日常生活を研究する何らかの地方的サークル、ないし工場内サークルをつくることであろう。もちろん、その活動は完全に自発的なものでなければならない。
日常生活の諸事実にもっと注意を! 中央規模の試みは、その成功のための物質的・思想的条件ができていくのに応じてのみ行なわれるべきである。家庭の日常生活は非常に分散しているので、それを変革する仕事は長期にわたる改良的な「文化啓蒙活動」を経ないわけにはいかない。それは、現在の条件のもとでは進歩的な役割を果たすだろう。いくつかの家屋、いくつかの隣家からなるアパート、工場、街区、地区――こうした、しだいに拡大する枠内で、一部は順々に、一部は同時平行的に、実際上の改良がなされていくだろう。自発的な協会やグループは最初の時期においては主として地方的な性格をもつだろう。それらが、居住集団に託児所や洗濯所を確保するとか、企業集団のための共同食堂をつくるといった、きちんと確定された個別的課題を受け持つならば、大いに結構なことである。物質的条件が向上するのに応じて、そして改良の経験が蓄積されていくのに応じて、ますます活動範囲は拡大していくだろう。そして、すべての仕事において、創意、意欲、実務能力が増大していくだろう!
しかし、第1の課題、最も差し迫った、最も緊急の、最も先鋭な課題は、日常生活を沈黙から抜け出させることである。
『プラウダ』183号
1923年8月17日
ロシア語版『トロツキー著作集』第21巻『過渡期の文化』所収
トロツキー研究』第19号より
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