民族問題と青年党員の教育
トロツキー/訳 志田昇
【解説】この論文は、第12回党大会を目前に控えて、レーニンの遺言にそって、民族問題における大ロシア民族主義の有害さを丁寧に解説したものである。従来、トロツキーは、グルジア人を擁護するようにというレーニンの遺言を実行しなかったと言われてきたが、それはまったく一面的な見方である。トロツキーは、第12回党大会における工業報告の準備のため、全面的な形では民族問題にタッチできなかったが、それでもできるだけのことは行なった。この論文はその一つの証拠である。
しかし、もちろん、当時のトロツキーは、病床のレーニンが感じたほどの鋭さで、民族問題におけるスターリニスト官僚の大国主義的姿勢のもつ恐るべき危険性を感じたわけではない。レーニンは、グルジア問題のうちに、その後ソ連と党を襲うことになる巨大な悲劇の前兆を感じとっていた。当時のレーニンの政治的嗅覚は、重い病気にもかかわらず、はるか高みに飛翔していた。それに多少とも匹敵する洞察力を当時持っていたのは、ラコフスキーだけであった。トロツキーが、当時レーニンが抱いた危機感を本当に共有するようになるのは、もう少し後のこと、左翼反対派を率いて党指導部と対決する時期になってからのことである。
Л.Троцкий,Национальный вопрос и воспитание партиной молодежи, Задачи 12 съезд РКП, Мос., 1924.
ゲーテも言っているように、古い真理はくりかえし学び取らなくてはならない。これは個々の人間にも、党にも、階級全体にもあてはまる。わが党は、もう一度自らの民族綱領をわがものとする必要が、すなわち改めて考えなおし、経験にもとづいて自覚的に検討する必要がある。
わが党の国内政策と国際政策はいずれも、西方プロレタリアートの階級的革命運動と東方の革命的民族運動という二つの基本線によって規定されている。すでに述べたように、わが国の青年たちの、さらには党全体の教育(党の教育は、個々の人間の教育と同様にけっして終わりがない。生きているかぎり学べだ)を、生きた強力な絆でもって、全世界におけるプロレタリア運動の実際の歩みに結びつけることは、きわめて重要なことである。ここで言っておかなくてはならないのは、党の方向づけと自己教育にとって、党が民族問題に関しはっきりとした理解を持つことが、それに劣らぬ政治的意義を有しているということである。
「それに劣らぬ」などと言うと、とまどう人が出るかもしれない。「西方ではプロレタリアートによる権力獲得の闘争が問題になっているのに、東方では『せいぜい』、主として農民からなる民族を、他国による支配から解放することが問題となっているにすぎないではないか」というわけだ。
もちろん、抽象的に論じるならば、これら二つの運動は社会発展の異なる段階に属しているが、歴史的には、両者は一つに結びついて、二つの側面から帝国主義という同一の強力な敵に立ち向かっているのである。そして、革命において民族的要因が持つ巨大な意義と、その測り知れない爆発力を理解しなければ、たとえ永久にではないとしても長期にわたって、西方の革命運動の面目を――それとともに自分の面目をも――失墜させることになりかねない※。
※原注西方のヨーロッパでも、民族問題は革命において、なお大きな役割を果たすだろう。ポーランド、ルーマニア、バルカン半島、中部ヨーロッパ全体を思い浮かべるだけで十分である。しかし、われわれがここで述べているのは、革命の基本線のことである。
プロレタリアートと農民の正しい相互関係、つまり両者の階級勢力や全世界における革命運動の発展に対応するような相互関係の意義を、われわれはわが国の革命の経験から十分にしっかりと学び取った。それなりの理由があって、われわれは労働者と農民の「提携(スムィチカ)」という言葉をよく使うが、正直に言うと、時にはかなり見当はずれの場合がある! しかし、問題の根本はしっかりと理解されている。われわれの政府は、だてに労農政府と呼ばれているわけではない。わが国の革命が成功するかどうかがプロレタリアートと農民との正しい協力関係にかかっているように、世界革命が成功するかどうかは、何よりもまず、西欧のプロレタリアートと東方の農民の民族革命との正しい協力関係にかかっているのである。ロシアは、プロレタリア的な西方と農民的な東方との巨大な結節点であり、それと同時に実験場でもあるのだ。
しかしながら、ロシアそれ自体でも、プロレタリアートと農民との相互関係の問題はけっして一様ではない。一つの問題は、大ロシア民族のプロレタリアートと大ロシア民族の農民との相互関係である。ここでの問題は、その純粋に階級的な内容にある。ここでは、課題は剥き出しにされ単純化されており、そのため課題の解決が容易になっている。もう一つの問題は、わが連邦国家のなかで第一バイオリンを弾いている大ロシア民族のプロレタリアートと、アゼルバイジャン、トルケスタン、グルジア、ウクライナ農民との相互関係である。このかつて抑圧されてきた「辺境」では、社会的、階級的、経済的、行政的、文化的な問題のすべてが、民族のプリズムを通して屈折し、大きな偏りを受ける。プロレタリアートと農民の間のいさかい(そして、近年われわれは少なからずこれを目にしてきている)が、そこでは不可避的に民族的な色合いをおびることになる。かつて抑圧されてきた民族のプロレタリアートにも、このことはかなりの程度あてはまる。モスクワやペトログラードでは、中央と地方、都市と農村、紡績工と金属工との間の単純な実務上の対立ですむことが、グルジア、アゼルバイジャン、さらにはウクライナでも、「大国主義的な」モスクワと弱小民族の要求との間の対立という形を容易にとりうる。ある場合には、実際にそうなっている。別の場合には、そう見えることがある。われわれの任務は、第1に、そういうことがないようにすることであり、第2に、そう見えることもありえないようにすることである。そしてこれは、憲法上および行政上の方法で、とりわけ党を通じた方法で、何としてでも解決しなければならない一大課題なのである。
農民に対して正しくない政策を取った場合、どういう点に危険性があるだろうか? それは、農民層がプロレタリアートの指導から脱して、ブルジョアジーの指導のもとに入るおそれがあるという点に、である。だが、ツァーリズムによって抑圧されてきた遅れた少数民族の農民大衆が問題になるやいなや――そして、かなりの程度はその若い少数のプロレタリアートが問題となる場合でもそうだが――、その危険は何倍にもなるのだ。諸階級の民族的なつながりもやはり「スムィチカ」であって、非常に強力な接着剤として、一度ならず歴史に姿を現わしてきた。グルジアのペトリューラ派
[ペトリューラが首謀者となったウクライナの反革命的民族主義運動]、アルメニアのダシナーク派[アルメニアの反革命的民族主義政党]、アゼルバイジャンのムサワート派[1911年にバクーで組織されたアゼルバイジャン民族主義政党]等々は、われわれがこれらの民族の民族的要求に対して正しく、つまり注意深く思いやりのある態度で対応していれば、ほとんど取るに足らない存在となる。こうした民族の古い歴史的屈辱を、ここに挙げた諸派は利用しているのである。逆に、かつて抑圧されてきた民族から完全かつ無条件の信頼を得ることがいかに大きな歴史的重要性を持っているかを、われわれが理解しなかったり、または理解不足であるなら、地方の土着勤労者大衆のありとあらゆる要求、すべての屈辱感、すべての不満に民族的反抗の色合いが不可避的に加わるであろう。そして、それにもとづいて、民族主義的なイデオロギーは、ブルジョアジーと勤労者との間に、徹底して革命に反対する強力な「スムィチカ」をつくろうと、もっと正確に言うと、再建しようとするのである。労働者階級の独裁は、史上はじめて、民族問題の正しい解決の可能性に道を開いた。ソヴィエト体制は、それに完全に適した国家的枠組みをつくりあげている。それは柔軟で弾力的であり、同時に、無数の相いれない敵に包囲された革命の求心的傾向をも、社会主義経済の計画上の必要をも、いつでも表現することができる。だが、民族問題がわれわれによって解決されてしまったとうぬぼれるなら、とんでもない妄想に陥ることになる。実際には、このような自己満足(しかもそれは、わが党のメンバーにさえうかがわれる)のもとに、しばしば大国の民族主義が、すなわち攻撃的ではないが、まどろんでおり、安眠を妨害されることを好まない民族主義が潜んでいるのである。
民族問題の「解決」は、すべての民族に対し、その民族が自分の母語と思っている言語で、何ものにも邪魔されず世界の文化に触れる機会を保証することによって、はじめて可能になる。これは、ソヴィエト連邦全体の物質的および文化的向上を前提としている。このような向上に必要な期間を勝手に短縮することはできない。しかし、われわれにできることが一つある。それは、かつてツァーリズムによって抑圧されてきたすべての弱小で遅れた民族に対し、彼らの非常に重要で大切な要求がたとえ充たされていない場合でも、その原因はソヴィエト連邦全体に共通の客観的条件にあるのであって、けっして配慮不足にあるのでもなければ、けっして大国主義的な不公平にあるのでもないということを、綱領的な声明によってではなく、日常のわれわれの国家活動を通して、示し実証することである。そしてこの課題、すなわちあらゆる経験によって確かめられた、弱小民族からの全幅で無条件の信頼をかちとることこそが、党として最も重要な課題なのだ。
ソヴィエト連邦の幾百万大衆の意識に、最も深刻で鮮烈な刻印を捺したのは内戦である。わが党の側としては、この戦争の動機と目的に、ひとかけらの民族主義の要素も「帝国主義」の要素もなかった。そもそもの本質からして、あの戦争は革命的・階級的性格を帯びていたのであり、当然のなりゆきとして旧帝政の全領土にひろがり、時には旧国境をも越えたのであった。内戦はさまざまな方向に展開し、さまざまな民族グループのいる地方に広がり、現在のソ連のあちこちの部分にたびたび重大な被害をもたらした。革命を救うためのこの過酷な戦争の時期には、戦争の法が他のいっさいの法の上に置かれることとなった。経済生活にどのような損失があるかにかかわりなく、橋が破壊された。司令部や戦闘部隊のために学校が占拠され、生徒や教師が追いたてられた。きびしい戦時体制は、文化生活一般、とりわけ民族的なそれに手ひどい打撃を与えずにはおかなかった。それに加えて、場合によっては、赤軍部隊の後進性、一部の指揮官の悪意、政治将校の力不足のために、民族的な感情や気分に対する軽視が、さらにはその乱暴な蹂躙さえ、もたらされた。しかしそれでも、これは孤立した現象であり、一時的なものであった。だが、全体として内戦は、階級的抑圧者に対する闘いの中ですべての民族の勤労者を血で結束させたにもかかわらず、その本質からして、遅れた少数民族の市民とかつて君臨していた民族の市民との「憲法上」の形式的平等の原理だけではなく、――ソ連の一員であることによって保証されうるし保証されるべき有形無形のあらゆる利益を享受する上での――物的・精神的な実質的平等の原理にもとづいた、日常的な共存と協力のための学校とはなりえなかった。
かつて抑圧されてきた少数民族の民族的屈辱感は、数十年、数百年にわたり蓄積されてきたものである。そしてこうした遺産は、たとえば女性の抑圧された状態と同じで、たとえ誠意にあふれていようと、たとえ立法的な性格を持っていようと、一片の布告でなくすことなどできない。生活の中で、暮らしの中で、日常の自らの経験を通じて、その行く手をさえぎる外からのどんな制約や圧迫もないし、誰も軽蔑的ないしは見下したような態度をとらず、それどころか「権利」だけでなく、女性がもっと高まるよう援助しようという親身の共感もあると、女性が感じるようにする必要がある。かつて「君臨してきた」民族の意識に根本的で不可逆的な変化が起こったということ、そして、その民族の成員が実践的・精神的平等と事実上・生活上の民族的友愛から逸脱した場合、「君臨してきた」民族、すなわち支配階級がそれをスト破りや裏切りとして罰しているのだ、と少数民族が感じるようにする必要がある。経済的にも文化的にも、より組織的な仕事をする時期が到来している今だからこそ、連邦のソヴィエト政権による全般的な経済的、政治的、法律的、文化的な措置がどのように少数民族に影響しているか、つまり何よりも、こうした問題でわが党がどのような方針をとっているかに対し、少数民族は注意深く見守っていることだろう。
こうした方面で、われわれの敵は獲物を狙っているのであり、今後も狙い続けるだろう。グルジアからメンシェヴィキを追放したことをグルジア民族への弾圧だとして、グルジア問題を足がかりに、社会民主主義派がどれほどすさまじい国際キャンペーンを、過去現在にわたって続けていることか。グルジアから帝国主義の手先であるメンシェヴィキを放逐したのは、われわれの革命全体にとってそれが死活問題であったからだ。そのことをわれわれは十分な裏づけをもって証明してきた。われわれにとっては疑いもなく、プロレタリア革命はその目的と結果からしても、抑圧されてきた少数民族の利益と完全に一致する。しかしながら、いまだ闘争を継続している生きた未完の革命は、その行程で民族の利害や感情を傷つけるおそれがあるし、心ならずも傷つけているのが現状である。グルジアの蜂起グループを支援するために赤軍がグルジアの国境を越えたことは、国際メンシェヴィズムのペテン師たちによってソヴィエト政権の「侵略」政策と受け取られたばかりか、グルジアの農民やさらにはグルジアの労働者の一部までもが、そう取りかねなかったし、実際にそう受け取ったのである。これは確かだ。こうした風潮やこうした考え方と闘うには、グルジアのメンシェヴィキこそが革命にとって最も危険な道を国際帝国主義のために意識的に開こうとしたのだということを――たとえ証拠を手にしてであれ――証明するだけではまったく不十分である。なぜなら、赤軍に対する民族的不信感にとらわれたグルジア勤労者の遅れた部分は、革命の諸事件をヨーロッパや世界との関連の中で理解するところにまでまだ至っていないからである。われわれの政策が説得的なものとなりうるのは、グルジア農民の民族的・文化的利害、民族感情、過去にたびたび辱めをうけてきた民族的な自尊心が今や客観的条件が許すかぎり完全に満たされることを、われわれの政策によって実際にグルジア農民に示される場合のみである。
かつて抑圧されていた民族が、そして将来いかなるものであれ民族的不平等が再発するのを革命が防いでくれることを当然求めているし求める権利のある民族が、民族感情のみならず民族的猜疑心さえある程度先鋭化させる事態にわれわれが再び直面することは、大いにありうる。この土壌の上に、民族主義的傾向(主として防衛的民族主義のそれ)が、少数民族の共産主義者のあいだにも浸透し強まることも、十分にありうる。しかしこうした現象は、たいていは独立した性格を持っておらず、何かの反映や現われである。労働運動の中に生じる無政府的な冒険主義の傾向が、たいていは労働者の指導組織の日和見主義的性格の一つの現われであり、その結果であるのと同じように、少数民族の共産主義者のあいだに生じる民族主義的な傾向は、国家全体の機構や、さらには政権党自体の一部においてすら、まだあらゆる場所から一掃されたわけではない大国主義的な誤りを示す一つの現われなのだ。
党の若い世代は事実上まったく民族問題と政治的にぶつかったことがないために、なおさらこうした領域での危険性は大きくなる。帝政ロシアでは、この問題は民族抑圧の形で執拗に革命党の前に立ちはだかり、われわれの日常のアジテーションにおいてきわめて重要な役割を果たした。党の理論は民族問題を重視してきた。「古参組」は、こうしたいっさいを体験した(ここでも、ぶり返しは珍しくないが)。青年たちは、民族的迫害のない国で政治に目覚めた。彼らは共和国の軍事的防衛の問題に接し、経済問題に立ち向かった。ところが民族問題は、彼らの前に本格的な形ではほとんど現われなかった。したがって、彼らにとって、時としてこの問題は、たとえば宗教と同じくとっくに片づけられたものとして映るのである。そんな問題を今さら語ったり考えたりする必要などあるのか、というわけだ。
少数民族ないしは遅れた民族自身の中には、プロレタリアートをも含む最も革命的な分子の側からの、民族問題に対する不十分な配慮が往々にしてうかがわれる。ロシア共産党に加わってすぐに視野を広げた、若くて誠実で血気盛んな革命家たちは、時として自分の足もとの民族問題を解決すべき課題としてではなく、飛び越えるべき単純な障害物として見がちである。自国内の民族主義――たとえそれが過去の抑圧から生じたものであったとしても――との闘いが、至るところで先進的な革命分子の重要な課題となっていることは間違いない。ただし古い抑圧が充満しているという土壌の上では、この闘いはたゆみないプロパガンダの形をとるべきで、民族的要求を無視するのではなく、それに配慮し満足させることに立脚しなければならない。
もう少し年長の同志たちも時おり、次のような理由で民族問題を払いのける。すなわち、われわれの「ナロードニキ的」土地綱領とかネップと同じく、それは一時的な「譲歩」である、と。よろしい、こうしたたとえを条件つきで認めてもよかろう。もちろん、民族的「譲歩」の必要がなければ、つまり過去に民族的抑圧がなく、現在でも言語や民族文化の違いがなかったなら、社会主義の建設はもっと楽だったろう。それは、ちょうど、もしわが国に何千万もの農民が存在していなかったとしたら、社会主義の建設はもっと楽だったろうと言うのと同様である。さらに、一歩すすんで、こう言ってもよい。かりにアジアがヨーロッパと同じように、資本主義との階級闘争の場となっていたなら、プロレタリア革命にとってはるかによかっただろうと。だが、こうした問題設定にはまったく現実性がない。民族問題に対する不注意でぞんざいな態度の裏には、実は、しばしばこうした類いの、歴史に対する、現実性を欠いた荒唐無稽な合理主義的アプローチが潜んでいるのである。それに対し、わが党の力強い革命的現実主義の本領はまさに、事実をあるがままに把握し、それを革命の利益へと実践的に結びつけるという点にあるのだ。
もしわれわれが、10月革命の前夜に農民層に対し目を閉じていたなら、むろん今のように社会主義に近づくことも、ソヴィエト権力に達することもなかったろう。農民層の意義をわが党が完全に理解したのは、ようやく10月革命後のここ数年にすぎない。「古参組」はあらかじめ理論的に知っていたことを実践的に理解し、この問題と直接実践的にぶつかった青年たちは、その経験をもっか理論的に意味づけしている。疑いもなく、民族問題の分野では、党は総じて再教育を必要としている。青年たちには初等教育が必要だ。しかもこの教育は、時機を失せず、非常にしっかりとしたプログラムで受けさせるべきである。なぜなら、民族問題を軽視する者はそれに足もとをすくわれかねないからだ。
民族的要求に配慮をもって接するからといって、もちろん経済的分離主義を採用するわけではけっしてない。それは、地方の(「民族的」)官僚を利するだけであって、人民大衆のためにはならない。ソヴィエト連邦全土の鉄道を中央で一括管理するからといって、鉄道で民族語の使用を排除するわけではけっしてないのは、まったく明らかである。そして、自治の要求やプログラムを評価するにあたっては、行政幹部の純粋に官僚主義的な「地元優先」の要求――これは、時として地域住民に対してひどいロシア化であると同時に、中央に対しては分離主義的である――と、人民大衆の実際の生活につながる死活の利益や要求とを、最も厳密に最大の注意を払って区別しなければならない。
経済の中央集権化は自然条件と生産技術の条件から生じるので、民族文化の領域における最も大幅な自立性と経済の中央集権化とは、原理上は完全に両立可能である。しかし、経済の中央集権化と民族文化の面での分権化とを、生活の中で現実に国家的規模で調和させることは複雑で大きな課題であって、その解決には周到さ、慎重さ、忍耐が求められる。たしかに、かつて抑圧をこうむり今でもその傷跡を残している民族は、本来なら民族の自立をなんら損なわず、誰にとっても行政的ないしは経済的に利益の多い形で中央集権化できる領域でも、自らの自治を守ろうとする傾向におちいりがちである。だが、このような係争問題でも、少なくとも少数民族ないしは遅れた民族の指導層が中央集権化の利益と長所を理解するように、そしてそれが中央からやってくる押しつけではなく、全体の利益を守り、同意のもとに実施される措置だと人民大衆にわかるように、あらかじめ全力を尽くす必要がある。政治においては合理主義的に思考してはならないが、民族政策においては、どの領域にもましてそうしてはならないのである。
※ ※ ※
最後にもう一言。あまり打ち明けたくない話だが、このあいだ私は、あるかなり年配の共産主義者からこう聞かされた。革命において民族的契機の重要性を強調するのは…、メンシェヴィズムであり、リベラリズムだというのである。これではまったく話があべこべだ! 民族問題におけるメンシェヴィズムの立場とはこうだ。野党でいるあいだは、メンシェヴィズムは感傷的な民族派、仰々しい民主派であり、あえて問題を正面から提起しない、つまり抑圧されている者に反乱を呼びかけない。ところが民族的ブルジョアジーが危機におちいったり、あるいはメンシェヴィズム自身が権力の座につくと、ブルジョアジーによって委託された大国主義的な使命の大切さと責任を骨の髄まで感じて、中央集権的な抑圧政策をとり続け、ついでながら民族主義を摘発する…被抑圧民族の民族主義を。まさにボリシェヴィズムは、民族的要因の巨大な革命的重要性を階級的見地から理解できたという点に、自らの革命的洞察力を発揮したのである。そして、こうした精神と方向でボリシェヴィズムは今後とも青年たちの教育を行なうであろう。
『プラウダ』1923年3月20日
『第12回党大会の課題』所収
『トロツキー資料集』第1号より
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