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サマラからウィーンへ

グレープ・クルジジャノフスキー(1872-1959)

晩年のクルジジャノフスキー

 「私はサマラにしばらく滞在したが、そこには『イスクラ』の国内司令部、すなわち非亡命者による司令部があった。そしてそのトップにいたのは、クレールという変名を持ったクルジジャノフスキー(現ゴスプラン議長)という技師であった。彼とその妻は、1894〜95年にはペテルブルクで、その後もシベリアの流刑地で、レーニンの仲間として社会民主主義運動に従事していたが、1905年革命の敗北後まもなくして、『クレール』は他の数千の活動家とともに党を離れ、技師として、産業界で非常に高い地位についた。当時、地下活動家たちは、かつては自由主義者でさえ与えてくれた程度の援助すらクルジジャノフスキーが拒否したことに、不満をこぼしたものだった。10〜12年の中断ののち、党が権力を握ると、クルジジャノフスキーはいそいそと党に復帰した。これが、現在スターリン体制の中枢を担っているインテリゲンツィヤの非常に多くの部分がたどった道である。

 そのサマラにおいて私は、クレールがつけてくれた『ペロー』[ロシア語でペンの意味]という変名で、いわば公式に『イスクラ』組織に加わった。これは、シベリアで私がジャーナリストとして活躍したことに敬意を表してつけてくれたものだった。……

 サマラの『イスクラ』ビューローの依頼で、私は、すでに『イスクラ』組織に入っている革命家や、あるいは、これから獲得しなければならない革命家たちと会うために、ハリコフ、ポルタワ、キエフを訪れた。だが、あまり成果のあがらぬままサマラに帰ってきた。南部での結びつきは組織的にまだまだ弱く、ハリコフでは連絡先の住所が間違っており、ポルタワでは地方的愛国主義の壁にぶつかった。短期の旅行ではらちが開かないのであり、必要なのは本格的な活動だった。そうこうするうちに、サマラのビューローと頻繁に連絡を取り交わしていたレーニンは、私を早く国外に寄越すようせきたててきた。クレールは私に旅費を渡し、カーメネツ=ポドリスク方面でオーストリア国境を越えるのに必要な指示を与えてくれた。」(『わが生涯』第10章「最初の脱走」より)

フリッツ・アウステルリッツ(1862-1931)

(オーストリア社会民主党の中央機関紙『アルバイター・ツァイトゥンク』の編集長)

ヴィクトル・アドラー(1852-1918)

(オーストリア社会民主党と第2インターナショナルの指導者)

 「ウィーンで何よりもびっくりしたのは、学校でドイツ語を勉強していたにもかかわらず、私の言うことが誰にも通じなかったことである。道ゆく人をつかまえて話しかけても、ほとんどの人は肩をすくめるばかりであった。それでも何とか、赤い帽子をかぶった老人に、『アルバイター・ツァイトゥング(労働者新聞)』の編集部に行かねばならないことをわからせることができた。私は、オーストリア社会民主党の指導者ヴィクトル・アドラー本人に会って、ロシア革命の利益のためにただちにチューリヒに赴かなければならないのだと説明するつもりだった。案内の老人は私を目的地に連れていくことを引き受けてくれた。われわれは1時間ほど歩いた。だが、目的地に着いてみると、編集部はすでに2年も前に別の場所に引っ越していた。さらに30分ほど歩いた。やっと探し当てた編集部の窓口係は、面会はできないと無情に告げた。案内してくれた老人に払う金もなく、空腹でしかたがなかったし、何よりもチューリヒに行かなければならなかった。そのとき、愛想の悪そうな、背の高い紳士が階段を降りてきた。私は彼をつかまえてアドラーについて尋ねた。

 『今日は何曜日か知っとるかね、君は?』、彼は厳しい調子で尋ねた。

 そんなことはすっかり忘れていた。汽車の中、荷馬車の中、行商人の部屋の中、ウクライナ人の納屋の中、闇夜での雄鶏との格闘の中で、私はすっかり日時の観念をなくしていた。

 『今日は、日曜日だ!』、背の高い紳士は言葉を区切りながらはっきりそう言うと、私のそばを通り過ぎようとした。

 『そんなことはどうでもいいんです。僕はアドラーに会わなきゃいけないんです』。私がそう言うと、相手は、まるで嵐の中で大隊に命令を下すような調子で答えた。『日曜日には、アドラー博士には会えないと言っとるんだ!』。

 『でも私には重要な用件があるんです』、私も引き下がらなかった。

 『たとえ君の用件がその10倍重要なものだったとしてもだ、わかったかね?』。この男こそ、編集部にその人ありと恐れられたフリッツ・アウステルリッツであった。さしずめユーゴーならば、その話す言葉は雷鳴のようだとでも言っただろう――『たとえ君がだ、いいか、君のところの皇帝が殺されたとか、君の国で革命がおっぱじまったとかいうニュースを持ってきたとしてもだ、いいか、だからといって博士の日曜の休息を台無しにする権利など君にはないのだ!』。

 この紳士のすさまじい咆哮に、私は文字通り感銘を受けた。だが、それでもやはり、彼の言い分は馬鹿げていた。日曜日の休息の方が革命の要求よりも重要だなどということはありえない。負けてなるものかと決意した。どうしてもチューリヒに行かなければならないのだ。『イスクラ』の編集部は私が来るのを待っている。それに、私はシベリアから脱走してきたのだ。これもそれなりに重要なはずだ。私は階段の下に立ちはだかり、この恐るべき話相手の行く手をさえぎった。ついに私は自分の目的を遂げることができた。アウステルリッツは私に必要な住所を教えてくれた。私は同じ案内人を連れて、アドラーのアパートを訪ねた。

 私を迎え入れてくれたのは、背の低い、ほとんどせむしのような猫背の男で、疲れた顔に腫れぼったい目をしていた。ちょうどウィーンでは州議会選挙の真っ最中で、アドラーは、前日もいくつかの集会で演説をし、夜には論文やアピール文を書いていたのだ。こうした事情は、アドラーの息子の細君から15分ほど後に聞いた話である。

 『せっかくの日曜の休息をお邪魔して申し訳ありません、博士…』。

 『ふむ、それで、それで…』。その口ぶりは、表面的には厳しそうだったが、人を怯えさせるものではなく、先を促すような調子だった。この人物の顔に刻まれたすべてのシワから知性が感じられた。

 『私はロシア人で…』。

 『うむ、それは言わなくてもけっこう。すでにわかっていました』。

 視線をすばやく走らせながら私を観察している博士に、私は編集部の入り口で交わした会話のことを話した。

 『何ですって? あなたにそう言ったんですか? 誰だろうな? 背の高い男? 大声で? ああ、それはアウステルリッツだ。大声で、と言いましたよね。アウステルリッツですよ。彼の言ったことをあまり本気でとらないでくださいよ。ロシアから革命のニュースを持ってきたのなら、夜中でもわが家の呼び鈴を鳴らしてくださいよ。カーチャ、カーチャ!』、彼は突然大声で呼んだ。息子の細君が入ってきた。ロシア人だった。

 『さあ、これであなたの用件はうまく運ぶでしょう』、そう言ってアドラーは私たちを残して部屋を出ていった。

 こうして、それから先の私の旅は保証された。」(『わが生涯』第10章「最初の脱走」より)

 

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