トロツキー写真館

  

モスクワ12月蜂起

モスクワ蜂起における労働者のバリケード

(1905年12月)

モスクワの労働者のバリケード

(1905年12月)

 「12月の運動の中心的存在はモスクワであった。……

 労働者1万人のデモにコサックが立ちはだかった。大混乱となった。赤旗を手にした2人の婦人労働者が群衆の中から飛び出してコサックの前に走り寄った。彼女らは叫ぶ――『私たちをお射ち。生きてるかぎり、この旗は渡しゃしないから』。コサックたちは呆然とし、ひるむ。決定的な一瞬である。動揺を感じとった群衆はここぞとばかり、『コサックたち、俺たちは素手でいくぞ、それでも俺たちを射つ気か?』と大声で叫んだ。『俺たちを射たなければ、俺たちも射たないぞ』、コサックたちはそう答えたのだ。あっけにとられ、頭にきた将校は気狂いのようにわめき散らした。だが手遅れというものだ。将校の声は憤慨した群衆の叫びにかき消されていた。誰かが短い演説をした。群衆は喚声を挙げてこれを支持した。まもなくコサックはライフルを肩にかけ直し、馬首を転じて走り去った。

 人民集会の軍事的包囲は武装なき群衆に粉砕されたものの、それ以後、市内の空気は著しく緊迫したものとなった。群衆はますます膨脹しながら路上にひしめいた。あらゆる噂が、刻々生まれては消えた。誰の顔にも不安の入り混じった快活な興奮の色がある。当時モスクワにいたゴーリキーはこう書いている、『多くの者は革命家がバリケードを築き始めたのだと思っている。これは、もちろん誘惑的な考え方ではあるが、まったく公平だとは言えない。バリケードを最初に築いたのはほかならないごく普通の庶民であり、無党派の人びとであって、事件の核心もまたこの点にあるのだ。トヴェ一ルスカヤ街の最初のいくつかのバリケードは、陽気にふざけながら、絶え間のない洪笑のうちに築かれたのであって、値打ちものの外套を着こんだお堅い紳士から料理女や屋敷番にいたるじつにさまざまな、最近まで“揺ぎなき権力”の防塞であったような人びとがこの楽しい仕事に参加したのである。〔……〕竜騎兵がバリケードめがけて一斉射撃を加えた。数人の負傷者と2人か3人の死者が出た。激昂した号泣、一斉に湧き起こった復讐の叫び、そして万事が一変した。〔……〕一斉射撃があってからというもの、住民はもう遊び半分ではなしに、真剣にバリケードの構築を始め、ドゥバーソフ氏とその竜騎兵から自分の生命を守ろうとしたのである』。……

 武装行動隊、つまり革命諸組織の軍隊式に組織された狙撃兵の動きはより活発になった。彼らは警察官に出会うことに徹頭徹尾その武装を解除した。

 ……ストライキ3日目になるともう軍隊との流血の衝突が始まった。広場で行なわれていた夜間集会を竜騎兵が解散させようとした。ストのため、広場はまっ暗だった。『兄弟たち、俺たちの邪魔をするな、仲間じゃないか!』。兵士たちは傍を通り過ぎていった。だが、ものの15分もすると多勢で戻って来て群衆に襲いかかった。闇と恐怖と悲鳴と罵声。群衆の一部は市電の待合所に避難した。竜騎兵はそれな明け渡すよう要求したの拒絶の回答。一斉射撃が何度か行なわれた。その結果、小学生がひとり殺され、負傷着が数人出た。良心に責められたのか復讐の恐怖にかられたのか、竜騎兵は走り去った。『人殺しめ!』最初の犠牲者をとり囲み、憤然として群衆は拳を握りしめた。『人殺しめ!』一瞬ののち、血のはねかかった待合所は炎につつまれた。『人殺しめ!』群衆は勘定のはけ口を探していた。彼らは障害をものともせず闇と危険の中を前進し、大声で叫んだ。再び発砲があった。『人殺しめ!』群衆はバリケードを築いた。彼らにとってこの作業ははじめての経験だったため、行動は不器用であり、組織だっていなかった。その闇の中で30人から40人の歌声が起こった。『血に汚れたる敵の手に、雄々しき君は斃れぬ…』。また一斉射撃。負傷者と死者がまた出た。近くの建物の中庭が救護所に早変わりした。」(トロツキー『1905年』「12月」より)

 

軍隊による攻撃で破壊されたモスクワの街並み

(1905年12月)

 「革命家の戦術はありのままの状況からただちに決定された。これと対照的に、政府軍はまるまる5日間、敵軍の戦術に即応する能力をまったく欠き、ただ血に飢えた暴虐さと狼狽・愚鈍をつなぎ合わせただけだ。

 典型的な戦闘の光景はこんな具合である。グルジア人の武装行動隊といえば最も命知らずな部隊の一つであったが、彼らは24人の狙撃隊を組み、2手に分れて公然と行進している。群衆は、将校に引率された16人の竜騎兵がこっちへ乗り込んでくるぞと警告した。武装隊は隊列を整え、モーゼルを構える。斥候の騎兵が現われたと見るや、武装隊は一斉射撃を浴びせる。将校は負傷し、前列の馬も傷を負って後脚で立ち上り、隊列は混乱に陥って、そのため兵士たちは射撃できなくなる。こうして武装隊が100発も射たないうちに竜騎兵は数人の死傷者を残したまま、ほうほうのていで退散する。「さあ逃げろ、今度は大砲を運んできたぞ」と群衆がうながす。事実、ほどなく大砲が出てくる。最初の砲撃で無防備の群衆の中から数十人の死傷者が出る。群衆は自分たちまで砲撃を浴びるとは全然予期していなかったのだ。ところがグルジヤ人たちばこの頃はもう別の場所で軍隊とやり含っていた。武装行動隊はほとんど難攻不落といってよかった。一般の共感という甲胃に身を守られていたからである。

 多くの実例の中からもう一つ引いておこう。ある建物に陣どっていた。13人の武装行動隊は、大砲3門、機関銃2挺を有する5、600人の兵士の射撃を4時間にもわたってもちこたえた。軍隊に大損害を与え、実弾を全部使い果たしたのち、この武装隊は負傷者ひとり出さずに引き上げた。兵士側は砲火でもっていくつかの街区を破壊し尽くし、何棟もの木造家屋に火を放ち、恐怖のあまり呆然としていた少なからぬ住民をめった打ちにした。こうしたことはすべて、たかが1ダースほどの革命家を退散させるためだったのである。

 バリケードは防御に役立たなかった。それはせいぜい軍隊、ことに竜騎兵が移動する障害物となったにすぎない。バリケードの築かれた地区では、家は大砲の射程外にあった。軍隊は街路全体を掃蕩してはじめてバリケードを『占拠』した。その向う側に誰ひとりいないことを確認するために、だ。バリケードは兵士が引き上げればすぐに復旧された。ドゥバーソフの砲兵部隊は12月10日に系統的に市の砲撃を開始した。倦むことなく大砲と機関銃が活動し、街頭を射撃した。すでに、数人単位ではなく、数十人単位で犠牲者が出た。群衆は狼狽し、憤激して逃げまどった。そして現に起こっていることの現実性が信じられなかった。つまり、兵士たちは一人一人の革命家を狙うのではなく、モスクワという名のえたいのしれない敵、老人や子供の住んでいる家、そして街頭の無防備の群衆を狙って撃っているのだ。」(トロツキー『1905年』「12月」より)

ピョートル・ドゥバーソフ(1845-1912)

(12月蜂起当時のモスクワの総督(知事)で、徹底的に蜂起を弾圧した)

ピョートル・ゴロヴィーン(1867-1938)

(カデットの幹部で中央委員)

 「モスクワ蜂起は9日から17日まで9日間続いた。モスクワ蜂起の戦闘要員はそもそもどれくらいの規模であったか。実際にはごく少数だった。政党の武装組織に入っていたのは700人から800人、うち社会民主党が500人、エスエルが200人から300人であった。また、火器で武装した鉄道員約500人が停車場や線路上で行動し、印刷工と店員から成る約400人の志願狙撃兵か補助部隊を形成していた。小人数の志願狙撃隊もいくつかあった。……

 人数も少ない武装行動隊が、いったいどうやって何千人もの守備隊と1週間以上も闘うことができたのか。この革命の謎の解答は人民大衆の空気にある。街路、家、塀、通用門をも含めて市全体が政府軍に対して叛逆を企てたのである。100万の住民はパルチザンと正規軍のあいだに人垣となって立ちはだかった。武装行動隊は数百人の規模だった。しかしバリケードの構築や再建には大衆が参加した。さらに多くの大衆が活動的な革命家たちを積極的共感の雰囲気で包み、政府の計画をできるかぎり妨害した。この数十万の支持者はいかなる人びとから成っていたか。小市民、インテリ層、そして何よりも労働者である。政府の側には、買収された街のチンピラを別とすれば、資本家上層があるのみだった。モスクワ市会はいまや決定的にドゥバーソフの腰巾着に成り下った。オクチャブリストのグチコフだけでなく、のちの第2国会議長、カデットのゴロヴィーン氏も総督と馴れ合っていた。

 モスクワ蜂起の犠牲者はどの程度だったか。正確なことはわらない。けっして確定されないであろう。47の診療齎・病院のデータによれば、負傷者885名、即死者および負傷後死亡した者174名が記録されている。しかし死老が病院に運び込まれたのはむしろまれであって、普通は各区の警察署に収容された後、秘かにそこから運び去られたのである。あの数日間に、即死者と負傷後死亡した者とで合計454人が墓地に埋葬された。しかし多くの死体は貨車で郊外に運び出されただけだ。蜂起の結果、モスクワの住民のうち、約1000人が殺され、それと同数が負傷したと推定して大過ないであろう。その中には乳児を含めて86人の子供がいた。これらの数字の意味するところは、プロイセン絶対主義が不治の傷を受けたあの1848年の3月革命の結果、ベルリンの舗道には183体の死体が残されただけであったことを想起すれば、ますます明らかとなるだろう。……

 蜂起がいたるところで粉砕されたのち、懲罰遠征隊の季節が始まった。この公式名称が示すとおり、その目的は敵との闘争ではなく、敗者に対する報復であった。……

 こうして絶対主義は自己の生存のために闘争したのだ。1905年1月9日から、第1国会が召集された1906年4月27日までに、概算で、ただしけっして誇張を含まぬ計算で、ツァーリ政府の手によって1万4000人以上が殺され、1000人以上が死刑に処され、約2万人が負傷(そのうちの多数は死亡)し、逮捕、流刑、監禁された者は7万人に及んだ。高価すぎる犠牲ではなかった。なぜなら、賭けられていたのはツァリーズムの存在そのものだったからである。」(トロツキー『1905年』「12月」より)

 

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