トロツキー写真館
ソヴィエト裁判
ソヴィエト裁判の被告団と弁護人 (真ん中で書類を持っているのがトロツキー)(もう1枚の写真は こちら) |
ソヴィエト裁判の被告団と弁護人(2) (後段:左から、フルスタリョーフ=ノサリ、ヴァインシュテイン、ゴルインスキー、ストゴフ、コマロフ、セリヴェリストフ、ルカーニン 中段:左から、トロツキー、スヴェルチコフ、ズルイドネフ、スボロフスキー、クヌニヤーンツ 前段(弁護士):左から、ソコロフ、マリャントヴィチ、グルゼンベルク、マルグリエス、エリストフ) |
ソヴィエト裁判の弁護団 |
「労働者代表ソヴィエトの公判は、1906年9月19日に、すなわちストルイピンの野戦軍法裁判が猛威をふるっていた時期に開かれた。裁判所の中庭とそれに隣接する道路は軍の野営地に変貌した。ペテルブルクの警察力のすべてが動員された。しかし、裁判そのものはあまり制約なく順調に進められた。なぜなら、反動側のねらいは、ヴィッテの『自由主義』寄りの態度と革命に対するその弱腰の態度を暴露することによって、ヴィッテの権威を完全に失墜させるこにあったからだ。約400人もの証人が喚問され、そのうちの200人以上が出廷し、証言を行なった。労働者、工場主、憲兵、技師、使用人、一般市民、ジャーナリスト、郵便局と電信局の職員、市警察署長、高等中学校の学生、市会議員、門番、元老院の議員、町のごろつき、代議員、大学教授、兵士などが、1ヵ月にわたり次から次へと列をなして法廷の前に立った。彼らは、判事、検事、弁護士、被告のそれぞれの席から――とくに熱心だったのが被告自身だが――尋問および反対尋問の十字砲火を浴びながら、一断片また一断片、一側面また一側面と、労働者代表ソヴィエトの活動の時期を再現してみせた。被告も弁明の陳述を行なった。私は革命における武装蜂起の位置づけについて述べた。こうして、裁判の主要な目的は達成された。法廷が、われわれの要求した元老院議員ロプーヒン――彼は、1905年の秋、ポグロム煽動文書の印刷所を警保局に開設した男である――の喚問を拒否したとき、われわれは公判のボイコットを宣言した。当局は、われわれを監獄に戻すことを余儀なくされた。われわれに続いて、弁護士、証人、傍聴人も出ていった。あとには判事と検事だけが向かい合って残された。われわれの欠席したまま、判決が言い渡された。1ヵ月に及んだこの異例の裁判の速記録は、今日にいたるも出版されておらず、たぶん所在不明になっているものと思われる。裁判の最も本質的な点については、『1905年』の中で述べておいた。 父も母も公判を傍聴しにきた。2人の思考と感情とは相互に引き裂かれていた。もはや私の行動を、シュヴィゴフスキーの庭で過ごしたあのニコラーエフ時代の子供じみた無分別によって説明することはできなかった。私は新聞の編集者であり、ソヴィエトの議長であり、著述家としても名を馳せていた。このことは老いた両親に畏敬の念を起こさせた。母は、私について慰めとなる話をできるだけ多く聞き出そうと、しきりに弁護士に話しかけた。私が法廷演説をしている間、その意味が母にわかるはずもなく、黙って泣いていた。そして、20人もの弁護士が次々と私に歩み寄って握手を求めたとき、いっそう激しく泣きだした。…… 審理が中断されているあいだ、老いた両親は幸せそうなまなざしで私を見ていた。母は、私が無罪になるだけでなく、何らかの栄誉を与えられるものと信じていた。私は母に、懲役刑を覚悟しておかなければならないと説いた。母は驚き、途方に暮れたあげく、どうしてそうなるのか理解しようと、すがるような視線を弁護士に向けた。父は青ざめたまま黙りこくり、誇りを感じつつも悲嘆に暮れていた。 われわれはいっさいの市民権を剥奪されたうえ、流刑を言い渡された。それは比較的寛大な判決だった。われわれは懲役刑を予想していた。だが、今回の場合の流刑は、私が一度目に受けた行政処分としての流刑とはまったく違っていた。流刑は無期限であり、脱走しようとした場合、そのたびに3年の懲役が加算されることになっていた。ただし、懲役に加えての45回の鞭打ちは数年前に廃止されていた。」(『わが生涯』第15章「裁判、流刑、脱走」より) |
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