トロツキー写真館

  

ピョートル・ストルーヴェとロシア自由主義

トロツキー『政治の中のピョートル・ストルーヴェ氏』(1906年)

(1905年革命におけるロシアの自由主義的インテリゲンツィアの無力さを批判した労作)

ピョートル・ストルーヴェ(1870-1944)

(マルクス主義からブルジョア自由主義に転向したストルーヴェは1902年から『解放』紙を発行し、1905年以降はカデットの中央委員となり、第2国会の議員になる)

 「未決拘置所に移されたのち、弁護士との面会が許された。第1国会はロシアの政治生活に活気をもたらした。新聞は再び大胆に語り始めた。マルクス主義の出版所もよみがえった。戦闘的な政治評論を再開することも可能になった。私は獄中で大いに執筆に打ち込み、弁護士はその原稿を書類かばんに入れて獄外に持ち出した。私のパンフレット『政治におけるピョートル・ストルーヴェ氏』はこの時期に書かれたものである。私は、拘置所での定時の散歩も忌々しいお荷物だと思えるぐらい熱心にこの著作に取り組んだ。このパンフレットは、自由主義に対抗しながら、基本的にペテルブルク・ソヴィエトとモスクワ12月蜂起と一般に革命政策を、日和見主義者による批判から擁護するものであった。ボリシェヴィキの新聞は並々ならぬ共感をもってこのパンフレットを迎えてくれ、メンシェヴィキの新聞は沈黙で迎えた。パンフレットは数週間で数万部も売れた。」(『わが生涯』第15章「裁判、流刑、脱走」より)

ウラジーミル・ナボコフ(1869-1922)

(カデットの指導者の一人。第1国会におけるペテルブルク選出議員)

パーヴェル・ミリュコーフ(1859〜1943)

(歴史学者で、カデットの最重要指導者。第3、第4国会の議員。機関紙『レーチ』編集長)

アレクサンドル・カウフマン(1864-1919)

(経済学者・統計学者、カデットの理論的指導者の一人で土地問題を担当)

ミハイル・ゲルツェンステイン(1859-1906)

(カデットの指導者、第1国会議員)

 「ある新聞が、けっして非難しているわけではないが、こう報じた。ナボコフ氏は11月のストライキのときに、『革命は今わが世の春を謳歌しているので、立憲民主主義者(カデット)には今は何もすることがない』と友人に言って、外国へ逃げてしまった、と。これは実にすばらしいことだ! もちろん、これは新聞の作り話であろう。しかし、それはどうでもよいことだ。たとえナボコフ氏が実際にそう語らなかったとしても、そう語るべきだったろう。立憲民主党(カデット)の大会で、ミリュコーフ氏はこう語った。『われわれは、主として立憲主義の党(つまり、議会主義の党)である』と。つまり、さしあたり議会がなく、あるのは議会のための革命的闘争であるかぎり、カデットは無為を運命づけられていることである。カウフマンも同じことを語っている。彼は非常に目ざとく自分の党にこう勧めている。『革命』が完全な崩壊をこうむるまで、言いかえれば大衆が紛砕されてしまうまで、『泰然自若とし』、過激政党と一線を画すだけでなく、大衆の中でそれらの党と競い合うことを避けるように、と。この学校を経てはじめて、大衆はカデットの方へ歩みよるだろう。そして、当面は過激政党への非難というやり方で、自決に努めることにしよう。われわれは、このようなやり方によって、自らの活動領域を――革命が過激政党の遺骨でその領域を覆うとき――支配する準備をするだろう、と。こうして、カデットは麗しい未来への希望でもって、かろうじて自らを安心させているのである(ドイツとオーストリアの自由主義の運命は、この希望をいちじるしく強めてくれるに相違ない!)。実際には、彼らが、過激政党と一線を画することは、少なくとも革命期にそうすることは、人民大衆と一線を画することなのである。このようなことをやろうとする党に、未来などありえない。」(トロツキー『政治におけるピョートル・ストルーヴェ氏』より)

 

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