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ベイリス事件

メンデル・ベイリス(1874-1934)

(敬虔なユダヤ教徒で無名のレンガ造り職人であったが、1911年7月にユシチンスキー少年殺害事件の犯人としてでっち上げ逮捕され、歴史上最も有名なユダヤ人弾圧事件の一つとなった事件の被告になる。2年間勾留された後に1913年の裁判で無罪を勝ち取る。革命後にアメリカ合衆国に家族とともに移住し、そこで死去)

ユシチンスキー殺害事件の犯人として連行されるベイリス

ベイリス事件の裁判長となったフョードル・ボルドゥイレフ

ベイリス事件の検察側(左)と弁護側(右)

(検察側……上から順に、事件担当検事で黒百人組のヴィッペル、同じく黒百人組の弁護士シマコフ、第3・第4国会の代議士で黒百人組のリーダー的存在であるザムイロフスキー、宗教問題の専門家として検察側に加担したプラナイティス神父)

(弁護側……上から順に、事件担当弁護士のオスカール・グルツェンベルグ、カラブチェフスキー、マクラコフ、ザルードゥヌイ)

無罪を勝ち取った後のベイリスとその家族

 「[1913年]11月10日に終わったキエフのベイリス裁判は、その発端が取るにたりないものであったにもかかわらず、国民の意識に長く刻み込まれ、しばしば政治生活の2つの時期を画するような歴史的事件と化した数少ない訴訟の一つである。

 あらゆる社会的・民族的矛盾と異常な文化的対照性をかかえた、あるがままのロシア全体は、この情熱的闘争のなかに自分が直接的または間接的に反映されていることに気づいた。この闘争のきっかけとなったのは浮浪少年[アンドレイ・ユシチンスキー]の切り刻まれた死体であり、闘争の賭け金は無名のユダヤ人労働者の運命であった。

 国家権力はすべての力を動員した。事態の成り行きによってユダヤ教儀式の摘発という筋書きから離れてしまった刑事や裁判所の取調官たちは、他の人間に替えられ、最も頑固な人物は裁判にかけられた。地方の行政機関や一般に捜査に関わりのある者はすべて警察的迫害によって脅され、鑑定人は偏執狂や札つきのペテン師の中から選ばれた。反政府新聞はこれまでの10倍もの弾圧によって脅され、陪審員の構成は歪められた。

 しかし、反撃も予想外の規模のものであった。この儀式裁判の悲喜劇の発端は、1911年初頭の沈滞期に当たっていた。当時、政治的活性化の動きはほとんど認められず、潜在的なものにとどまっていた。他方で、反動派はすでにその内的な資源を使い果たし、いっそうの業績を成し遂げるために外からの刺激を探し始めていた。しかし、この企て全体――少なくとも、ベイリス事件と結びついた部分――の大詰めは、発端からほぼ3年も先に伸ばされ、都市における嵐のような不満の高まり――大衆的政治ストライキ、大学の騒動、さまざまな団体の抗議の意思表示、反政府新聞の成長、労働者新聞の重要な役割――の時期に重なった。戦闘的な反動派によって日程にのせられた問題――映画と飛行機の時代にユダヤ人がキリスト教徒の血を要求しているなどという問題、すなわち、その異常さによって最も無知な農村の大衆を当てにした問題――それ自体は都市においては、怒りと激しい羞恥の感情を引き起こすことができただけである。最も穏健な人々でさえ、反動派の犯罪的な見境のなさに驚いた。反動派は時代の状況を判断する能力を完全に失ってしまったのである。……

 この歴史的な数週間に国全体をとらえた緊張を伝えることは難しい。今でもまだロシアは、ベイリス事件の影響のもとにある。反動派の立法活動においてと同様に、事件の中心に立っているのは、労働者階級でも、農民でも、ユダヤ人でもなく、支配階級の『イデオロギー』的な要求のために生きたまま犠牲にされようとしたある特定の生きた人間だった。裁判のこの劇的で個人的な性格そのものが、それにかかわりのあるすべての問題の大衆化を異常に促進した。最も遅れた無関心な人々でさえ心を揺さぶられた。同時に、ベイリスのこの悪夢のようなドラマは、事件が本質的にはベイリスに結びついているだけでなく、それに劣らず他のあらゆることにも結びついていたので、一般的な推進力を、すなわち貴族的・君主制的堕落と官僚的ギャング行為を暴露した。そして、ベイリス事件は、1人の弱く無力なユダヤ人労働者、すなわち無権利状態の極致を体現した人物に対して、強力な国家機構が組織したでっちあげとして現われた。犯罪の異常さは、毎日、事件について読んだり、考えたり、間接的に知ったりしているすべての人々の良心をうずかせた。反政府系新聞の発行部数は、この1ヵ月間に2倍、3倍に増加し、それを読んだり聞いたりする人の数は、おそらく10倍になったろう。何百万人もの人々が、1ヵ月のあいだ毎日熱心に新聞にかじりつき、拳を握り締め、歯ぎしりをしながらそれを読んでいた。政治に無関心な人々は、ちょうど列車事故の時に座席から跳び起きるように、当惑と恐怖のあまり跳び起きた。ロシアの政治制度に反対する意識的な反体制派を自認する人たちは、わが国を支配しているのがこれほどの卑劣漢だとは思いもよらなかったと毎日改めて納得させられたにちがいない。言うまでもないことだが、最も熱心に反応したのは都市労働者である。今年まがい物の300年記念祭を派手に祝った君主制に対する憎しみの中で、プロレタリアの魂をもった何百万もの人が鍛えられた。……

 ツァーリズムは、自分の歴史的権利を何も放棄することなく、みせかけの立憲制度によって社会発展の新しい要求に適応しようと8年間も努力を積み重ねた挙げ句、犯罪的・ルンペン的な性格が明白な、まったく麻痺した組織として、全国の前に現われた。身分制的・黒百人組的君主制とすべての歴史的に生命力のある社会階級との間の必然的な深淵を明らかにし、この深淵を底まで見る機会を双方に与えたことで、キエフのベイリス裁判は、巨大な政治的な仕事をなしとげ、深い革命的振動の新しい時代の前兆としてロシア史の中に入ったのである。」(トロツキー「ベイリス事件」『政治的年代録』より)

 

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