トロツキー写真館

  

ヨーロッパ社会主義の重鎮たち

ルドルフ・ヒルファディング(1877〜1941)

(オーストリア・マルクス主義の代表的理論家、経済学者。『金融資本論』の著者。ワイマール時代に蔵相)

ラムゼイ・マクドナルド(1866〜1937)

(イギリス社会民主主義の代表的人物。イ義理sy社会主義連盟の指導者。1920年代に労働党内閣の首相)

エドゥアルト・ベルンシュタイン

(ドイツ社会民主党の右派の代表的理論家。改良主義理論の創始者)

カール・カウツキー(1854〜1938)

(ドイツ社会民主党と第2インターナショナルの最も重要な指導者、理論家。中央派の重鎮)

 「誰もが認めるオーストリア社会民主党の指導者たるヴィクトル・アドラーのことは1902年以来知っていたが、今や、彼の最も近しい取り巻きとオーストリア党全体について知る機会が訪れた。

 1907年の夏、私はカウツキーの家でヒルファディングと知り合った。当時ヒルファディングは、その革命性が最高潮にあった。だがこのことは、彼がローザ・ルクセンブルクへの憎悪とカール・リープクネヒトへの軽蔑をつちかうことを妨げはしなかった。しかし、ロシアに関しては、当時の他の多くの者と同様、最も極端な結論を受け入れる用意があった。彼は、『ノイエ・ツァイト』に掲載された私の論文を称賛してくれた。その論文は、私がまだ国外に脱出する前にロシアの出版物から翻訳されたものだった。さらに彼は、思いがけないことに、会ってすぐに『俺、お前』の仲でいこうと持ちかけた。そのせいで、われわれの関係は表向きは親しそうに見えた。だが、この親しさには、いかなる政治的・道徳的基盤もなかった。

 ヒルファディングは当時、不活発で受動的なドイツ社会民主党のことを非常に見下した態度で語り、それとの対比でオーストリア社会民主党の積極性を持ち出していた。しかしながら、この批判は内輪だけのものでしかなかった。公式にはヒルファディングは、ドイツの党に奉仕する文筆官僚であり続け、それ以上ではなかった。ヒルファディングはウィーンにやってくると私のところに立ち寄り、日が暮れると私をカフェに連れ出し、オーストリア・マルクス主義の友人たちに引き合わせた。私もベルリンに行くとヒルファディングを訪れた。ある時、私たちはベルリンにあるカフェでマクドナルドと会った。通訳をしてくれたのはエドゥアルト・ベルンシュタインだった。ヒルファディングが質問をし、マクドナルドがそれに答えていた。いま私は、その問いも答えも思い出せない。なぜなら、それらは、月並みであることをのぞけば、何の注目すべき点もなかったからである。私は心の中で自問した。彼ら3人のうちで、私が社会主義という言葉で理解しているものから最も隔たっているのは誰だろうか? それに答えるのは至難の業だった。」(『わが生涯』第16章「第2の亡命とドイツ社会主義」より)

 

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