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トルコ革命と青年トルコ派

憲法制定歓迎集会におけるアヴデゥル・ハミト2世(1908年)

 「ロシア革命のこだまは国境を遠く離れたところまで反響した。西ヨーロッパではプロレタリア運動を激化させ、同時にアジアでは、諸国民を政治活動に目覚めさせた。カフカースに隣接したペルシャではカフカース事件の直接的な影響から革命運動が開始され、帰趨がはっきりしないまますでに2年以上も続いている。中国でもインドでも、至る所で人民大衆は自国の独裁者やヨーロッパの略奪者(資本家、宣教師など)に反対して立ち上がっている。略奪者たちがヨーロッパのプロレタリアートを搾取するばかりか、アジアの諸国民を零落させているからである。ロシア革命の最も新しい影響は今年の夏に起きたトルコ革命である。……

 ロシアでは革命の闘士は主にプロレタリアートであった。しかしトルコでは、すでに述べたように、産業はまだ生まれたばかりで、プロレタリアの数は少なく脆弱であった。トルコのインテリゲンツィアとして最も教養があった者たち(教師、技師など)は、学校や工場でほとんど自分たちの力を発揮することができず、将校になった。彼らの多くは西ヨーロッパの国々に留学し、その地でもろもろの制度を学んだが、祖国で出会うのはトルコ兵士の無教養と貧困、国家からの侮辱であった。彼らは傷ついた。かくして将校層は不満と怒りの温床となった。

 今年(1908年)の7月に蜂起が起こると、たちまちスルタンには軍隊がいないありさまになった。軍団が次から次へと革命の側に寝返ったのだ。……将校たちは決然と憲法を要求し、与えられないならスルタンを退位させると脅した。アヴデュル・ハミトは妥協するより仕方がなかった。憲法を『下賜』し……、自由主義的な内閣を権力の座に就け、国会議員選挙を命じた。

 国はただちに息を吹き返した。ひっきりなしに集会が開かれ、新しい新聞が数多く発刊された。生まれたばかりのトルコのプロレタリアートは、雷に打たれたように即座に目覚めた。ストライキが始まり、労働組織が生まれた。」(トロツキー「トルコ革命とプロレタリアートの任務」、『バルカン戦争』より)

アヴデュル・ハミト2世(1842-1918)

(オスマン帝国の第34代皇帝(スルタン)として30年にもおよぶ専制政治を実行。1909年に青年トルコ革命によって退位に追い込まれる)

エンヴェル・パシャ(1881-1922)

(トルコの軍将校で、イタリア・トルコ戦争で軍功を上げトルコの英雄として帰還。1908〜09年の青年トルコ革命の中心人物)

 青年トルコ派の指導部の面々

(1908年7月に青年トルコ派の将校グループが反スルタン反乱を起こし、スルタンであるアヴデュル・ハミト2世は議会を召集することを余儀なくされる。しかし、スルタンは1909年4月に反革命を起こすも失敗し、退位させられた上でサロニカに追放された)

 「青年トルコ派の驚くべき勝利――ほとんど努力と犠牲なしの勝利――は何によって説明されるのか。

 革命とは、その客観的な意味においては、国家権力を求める闘争である。国家権力は直接的に軍に依存している。それゆえ、歴史上あらゆる革命は何よりもまず、軍がどちらの側につくのかという問題を立て、その問題を解決しようとした。トルコ革命では軍そのものが解放思想の担い手として登場し、そのことがトルコ革命独自の特徴となった。新しい社会階級は旧体制の軍事的抵抗を押しつぶす必要がなかったばかりか、兵を引き連れてスルタン政府と対抗した革命将校のもとで、共感をこめて合唱すればそれでよかったのである。

 その出自、その歴史的な伝統からしてトルコは軍事国家である。現在もトルコは軍の相対的な兵員数ではヨーロッパのすべての列強諸国の先頭に立っている。大所帯の軍は多くの将校を必要とした。その一部は下士官から昇進の形で補充された。ユルドゥズ[スルタンの住んでいる宮殿]は歴史的発展の必要に対し絶えず野蛮な方法で抵抗しながらも、ある程度は軍を西欧化し、知的な人材を軍に登用しなければならなかった。彼らは躊躇することなく軍に入ってきた。トルコエ業の零細さや都市文化の未熟さは、トルコのインテリゲンツィアに将校か官吏になる以外に活躍の場をほとんど与えなかった。かくしてトルコ国家は、自らの土台の内部に既存のブルジョア国家にあるような戦闘的な前衛、つまり思考し、批判し、不満を持つインテリゲンツィアを組織してしまったのである。近年、トルコ軍の内部では給与の未払いや昇進の停滞のために絶えず騒ぎが起こっていた。軍隊が電報局を占拠したり、ユルドゥズと直接的な交渉におよんだりしたこともあった。スルタンの官房は仕方なく譲歩した。かくして連隊が次々に反乱の学校になっていったのである。

 蜂起が成功すると、ヨーロッパの多くの政治家や政治評論家は、青年トルコ派の大組織とは、独創的に考案され、すみずみまで手の入った代物だとひそかに考えた。その素朴な想像には成功への物神崇拝も含まれていた。実際には、将校同士の、とくにコンスタンチノープルとアドリアノープルの守備隊の間では革命に関する連絡はきわめて不十分であった。ニアーズィ・ベイやエンヴェル・ベイ[パシャ]自身が認めたように、青年トルコ派は蜂起の準備を『まったくしていなかった』のに、蜂起は勃発したのである。助けになったのは軍そのものが自動的に組織化されたことであった。飢えて孤立した兵士の自然発生的な不満が、彼らを政治的に反体制化していた将校層の側に追いやり、そして軍の持つ機構的な規律が革命の内的な規律へと自然に転化したのである。」(トロツキー「新しいトルコ」、『バルカン戦争』より)

 

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