|
投稿ありがとうございます。ちょっとよくわからない点があるのですが。
「ロマノフ皇帝一家を処刑したのはいわゆるトロツキー派のボルシェヴィキだという
のは有名ですが」
このくだりですが、「いわゆるトロツキー派のボリシェヴィキ」というのは
どういう意味でしょう? 当時は内戦中で、トロツキー派も何派も
とくに存在していなかったのですが。
トロツキーがこの処刑にどのようにかかわっていたのか、というご質問ですが
トロツキーはまったく関与していません。というのも、
当時は内戦の最も激しい時期で、トロツキーはずっと前線にいたからです。
皇帝一家処刑の決断は、レーニンとスヴェルドロフによって
下されました。トロツキーはそのことを、すべてが終わった後で知りました。
トロツキーがこの件について著作で触れているかどうか、についてですが
『亡命日記』(現代思潮社)の126~130頁で詳しく触れています。
ぜひお読みください。当時の状況やトロツキーの考えがよくわかります。
あまりに酷薄な政治決断ではないか、との点ですが、
まったくその通りでしょう。しかし、トロツキー自身が『亡命日記』で
書いているように、ボリシェヴィキ政権そのものが打倒されそうになっていた
時期のことであり、もしそうなれば、ロマノフ家が再びよみがえって
王朝が再確立されたかもしれません。レーニンは、たとえ自分たちが
打倒されても、絶対にロマノフ王朝だけは復活させえないようにするために
家族もろとも殺害することにしたのです。トロツキーはこの点について
「皇帝の一家は、君主制の枢軸を成すあの原則、王位相続権の犠牲になったのだ」
と書いています。もし血のつながりによる王位相続権など存在しなかったら
家族は無論、逮捕されることもなく、内戦中も自由の身であったでしょう。
しかし、王位相続権の存在ゆえに、家族は単なる家族ではなく、
王朝の人格化たりえたのです。不幸は、ボリシェヴィキの残酷さにではなく
君主制そのものがもつ非人道性にあったのです。
最後に、最低限、裁判ぐらいするべきであったのではないか、とのことですが
トロツキー自身は裁判することを政治局内で提案していました。
レーニンも、それが実現できれば何よりだと考えていました。
しかし、白軍が目の前に迫り、数週間ないし数ヶ月のうちに
ボリシェヴィキ政権が打倒されそうな気配になったときに、
そのような悠長なことをすることはできなかったのです。
|
|