革命とその力
トロツキー/訳 西島栄
【解説】本稿は、革命が下り坂になりつつあった1906年の8月に、革命の展望を明らかにしようとしたトロツキーのパンフレットの全訳である。この論文でとくに重要なのは、革命の新たな発展の可能性をトロツキーが何よりも、農民の決起とそれと労働者の闘争との合流のうちに見ていたことであり、「トロツキーによる農民の軽視」というデマゴギーを完全に粉砕するものになっていることである。
トロツキーは、都市労働者のあいだでの革命の後退現象が見られる一方で、農村では逆に闘いは本格的に始まったばかりであり、ロシアにおける農業問題の深刻さからこの闘争が短期に終わることはないと判断し、この農村の決起の広範な広がりが新たな革命の発展の起爆剤になるだろうとみなした。とりわけ、トロツキーは次のように述べている。
「もし農村における野蛮を革命的に清算する必然性に関するわれわれの仮説が正しければ、もしロシアのムジークが受動的にただ死を待つのではなく積極的に生存のための闘争をすることができるというわれわれの主張が確かであるとすれば、もしこれまでのすべての農村での騒乱が何ごとかを物語っているとすれば、もし農村の雰囲気がその代表者の気分に類似したものだとすれば、そして最後に、革命の全般的歩みに関するわれわれの理解が正しいとすれば――まさに現在、農民運動が広大な規模へと発展し、都市の労働者大衆の新たな勝利的決起にとって好都合な要素をつくり出すに違いない瞬間が始まったと言うべきだろう。」
また、このパンフレットの最後の部分でトロツキーは彼らしく社会民主党の統一を訴えている。
Л.Троцкий,Революция и ее силы, Сочинения. Том 2, часть 1., Наша первая революция. Часть I , Москва-Ленинград, 1925.
T
〔1906年〕7月8日、『ノーヴォエ・ブレミャー』の評論家ストルイピン(1)は、ロシア人民に対する訴えを執筆した。それは、国会解散に関する宣言としてしかるべき署名をつけて発表された。
それから3週間が過ぎた。この期間に、すべての社会主義新聞、急進派の新聞、カデットの新聞が発禁にされ、すべての労働組合組織が解散させられ、無数の逮捕と追放が起きた。自由主義的なクラブや委員会が閉鎖され、印刷所、出版社、本屋が閉鎖された。これが一方で起きた事態である。他方では、スヴィアボルク、クロンシュタット、巡洋艦「パミャーチ・アゾフ」号、ダシラガルでの軍事反乱、ヘルシンクフォルス
〔ヘルシンキ〕、ペテルブルク、モスクワ、ハリコフ、アストラハン、その他の諸地域での大衆ストライキ。蜂起は鎮圧され、ストライキはゼネストに発展することなく中止された。野戦軍事裁判は政府の勝利を完成させた。警察的テロルが無制限に支配している。それを補完しているのが控訴裁判所のテロルであり、その熱心ぶりは、シチェグロヴィトフ(2)〔右の写真〕の恥知らずな回状によっていっそう煽られている。官僚出身の連中によって構成された内閣は、何でもやってのける。国債は、国会会期中と同じ水準に近づきつつある。国会を通じて国家を合法的に刷新する政策に関して言えば、それは破産をこうむり、このことは何よりもカデット自身にとって明白であった。カデットはほとんど政府権力に近い立場から、機関紙も組織も軍隊もない半非合法グループにまで落ち込んだ。
しかし、国会の解散の後に今や舞台に登場している革命の戦術もまた破産をこうむったのではないのか? 『ロシア』紙と『ノーヴォエ・ブレミャー』紙は革命に対する政府の勝利を大声で叫んでいる。政府が蜂起に勝利したこと――これは疑いない。しかしそれは革命の鎮圧と同じことだろうか?
政府は〔1905年〕1月9日に人民に勝利した。良きにつけ悪しきにつけ、政府は昨年5月の黒海艦隊の反乱をも鎮圧した。10月には政府はたしかに勝利を確保できなかったが、政府それ自体が打ち負かされたわけではない。政府は恐怖から重大な譲歩を約束する気になったにすぎない。さらに、政府は、クロンシュタットの反乱、セヴァストーポリの反乱に勝利し、そして最後に12月には、バルト沿岸地域、カフカース、シベリア、モスクワで勝利をものにした。すでにこの長い「勝利」のリストだけからしても、蜂起に勝利することが革命を鎮圧することを意味するものではないことが示されている。
しかし、以上の論点は軍事的反乱にのみかかわっている。しかし、問題の本質はそこにはない。どうしてペテルブルク、モスクワ、その他の地域におけるプロレタリアートは、昨年10月のときと同じぐらい全般的には、また昨年12月のときと同じぐらい決然とは立ち上がらなかったのだろうか? 最近のストライキがうまくいかなかったことは何によって説明されるのだろうか?
反動派の評論家はこう説明している。人民は騒乱に疲れ果て、その結果、ますます煽動家は人民から遊離するようになっている、と。こうした観点からすれば、革命はすでにその頂点をすぎ、今では下り坂にある、というように事態は描き出される。同じような見方は警察的観念論からも生じる。それによれば、革命は一時的な気分の産物であり、この気分はまたそれはそれで煽動家によってつくり出されたものである。しかし実際には、大衆の革命的気分は、社会発展の革命的諸要求の産物でしかない。単なる「疲労」だけで秩序をつくり出すことはできない。それはただ、「なぎ」をつくり出し、革命の引き潮をもたらしうるだけであり、国民の生存と発展を妨げている諸条件に対して国民を和解させることはできない。たしかに活動における激しい力の緊張はプロレタリアートと農民の中に大きな疲れを生み出したが、どちらにおいてもその役割を掘りくずすものではなかった。なぜなら、両者とも客観的な必然性によって行動に駆り立てられていたからである。このような客観的必然性が大衆を革命の道へと押しやった。階級的存続の最低限の要求が満たされないかぎり、疲労は平穏な秩序をつくり出しえない。
だが、プロレタリアートの最も初歩的な階級的要求を満たすことさえ現状ではまったく問題になりえない。たしかに、1905年の1月ストライキや2月ストライキは一連の経済的成果をプロレタリアートにもたらした。しかし5月以降の、とりわけ10月以降における資本の組織的な抵抗はこれらの成果の多くを無に帰せしめた。ロシアにおける全般的な経済恐慌のせいで、産業予備軍は絶え間なく増大した。失業者はまた現役労働者の状態をいっそう悪化させた。
しかし、生活条件が改善されていないとすれば、階級闘争の条件はもっと極端に悪化した。
政治組織と社会主義新聞は閉鎖された。労働組合組織は解散せられた。アピール行動やストライキ闘争は最も容赦のない弾圧手段で罰せられた。ところがまさに、絶対主義の枠内で初歩的な階級闘争さえ不可能になっていること自体が、新たに労働者を革命の道へと押しやっている。
したがって、議論の余地なくこう言うことができるだろう。革命へのプロレタリアートのさらなる参加は保証されてる、と。
農民に関して言えば、農村の騒擾という形で表現されている農民の革命への参加は、圧倒的に自然発生的性格をもっている。農村の政治的意識がどのような水準に達しているかに関してはさまざまな意見がありうるだろう。しかし、現在われわれの前にある問題は別のものである。農民は、革命の現在の発展段階において秩序の安定した支柱になることができるのか、である。この問題に対してわれわれは否定的に答える。
政治的イデオロギーそれ自体はそもそもある一個の社会階級全体を革命的なものにすることはできない。このことはいっそう農民にあてはまる。その実生活においてはイデオロギーが最小限の役割しか果たしていないからである。農民が革命運動に引き込まれたのは、農民の状況のうちに十分な物質的根拠があったからである。この根拠は、階層的・農奴制的くびきと土地の少なさだけでなく(社会革命党はそう思いたがっているが)、資本主義社会において独立小生産者が必然的に陥る矛盾からも来ている。言いかえれば、農民は、資本主義の発展を妨げている家父長制的未開さから被害を受けているだけでなく、資本主義そのものからも被害をこうむっているのである。それは家父長制的未開さにとってなお悪い! なぜなら、これらの矛盾すべてから生じる不満は、直接の敵、すなわち貴族的・地主的国家にぶつけられるからである。「土地と自由」というスローガンは、ロマンチックな魅力をもち、ロマンチックな曖昧さをもっているが、農業発展の実際の要求を汲み尽くすものではけっしてない。しかし、事態は変わらない。このスローガンは歴史的に過渡的な普遍性を有しており、その理由は、このスローガンが、絶対主義の崩壊後も残るであろう現在の経済発展の複雑な諸問題を排除して、いまだ解放されていない農奴の憤激、国家によって奴隷とされた夫役農民の反乱、資本主義的流通によって窒息させられている小生産者の激しい抗議を短い定式のうちに総括しているからである。
反動派は、どこかのムジークが自分たちの議員を殴ったとかいう噂話で自分を慰めている。しかし、国家的・警察的思考の持ち主に、現実の諸関係を真剣に分析する能力があるのならば、農民を革命の道へと押しやった諸条件のうち一つでも取り除かれたのかどうかという問題をとくと考えてみるべきだろう。
農民の希望、期待、要求のうちには、多くの幻想的で空想的なものが存在する。しかし、ムジークの幻想は政府発表によって取り除くことはできない。農民の文化的・法律的要求および文化的・経済的要求が実現されないかぎり、農民が革命闘争の中で自らの幻想を払拭しないかぎり、農民は秩序の支柱となることはできない。しかし、農村の基本的な諸要求があまりにも大きいために、農業発展の諸矛盾があまりにも深刻であるために、農民の幻想があまりにも巨大であるために、農村の革命的沸騰はなお未確定の長期間にわたって続くことになるだろう。
すでに述べたように、 農民の運動は自然発生的性格をもっている。しかしながら、農民には偏見があるだけでなく、理性もあることを理解しなければならない。
農民の死活の利益がかけられている政治的衝突は農民にその痕跡を残さずに過ぎ去ることはなかった。農民がどの程度「勤労者グループ」
〔トルドヴィキ〕を信頼しているのか、どれぐらい国会全体を信用しているのかに関しては、さまざまな意見があるだろう。しかし、カデットのグラックス兄弟(3)のブルジョア的しみったれぶりとトルドヴィキの農業均等主義的幻想が暴露される以前に政府が国会を解散したという事実は残る。農地改革がその内的矛盾を展開しきる以前に、政府はすでに改革者を追い散らしていた。この事実から農民が不可避的に引き出すに違いない結論は、けっして専制的秩序に資するものではありえない。むしろ、政府は、ムジークの前に初めて集中された敵として公然と立ち現われたのである。何らかのムジークの集団がどこかの農民代表議員を殴ったということはあるかもしれない※。しかし、一般的に言って、ムジークは自分たちのことを革命に「疲れた者」とは感じていない。なぜなら彼らはまだ基本的に言って革命に着手していないからである。農民の革命闘争はいっさいがまだこれからなのだ。
※原注今ではよく知られているように、元議員のステジノクが、国会活動について報告するよう求められたのに頑強にそれを拒んだことで、選挙人によって殴られた。――1906年当時のボリシェヴィキ編集者による注解
U
商工業大ブルジョアジーは別に民主主義体制に利益を有していない。反対に、歴史的な思い出ばかりでなく将来に対する配慮も、大ブルジョアジーを強力な君主制権力に結びつけている。彼らに必要不可欠なものは政治的民主主義ではなく、市民的自由の体制である。移動の自由、相対的な情報公開(グラスノスチ)、裁判の前での相対的な平等、官僚の財政運営に対するコントロール――以上が、商品・貨幣市場の均衡ある発展のために必要なものである。もしこれらのいっさいが人民代表制なしにはまったく実現不可能であると確信してはじめて、商工業ブルジョアジーは立憲的ないし反立憲的になった。彼らの自由主義的「衝動」が生じたのは、1月9日とその後のストライキの直接的な影響のもと、去年の最初の数ヵ月間においてだった。
しかし、すでに5月には、絶え間ないストライキの蔓延のせいで、商工業活動が混乱に陥ったために、大ブルジョアジーはその綱領の中で、資本主義的搾取の自由とその連続性を保証する要求を前面に掲げるようになった――「労働の自由」(すなわちストライキ破りの不可侵性)、ストライキ中の賃金未払いの自由(すなわち、革命の金銭的費用さえも免れようとする要求)、等々。10月17日の勅令は、自由主義派の資本家たちのいっさいの希望を満たしただけでなく、それを凌駕するものでさえあった。ところが、プロレタリアートの要求はますます「無制限」のものになっていった。革命のさらなる発展は、現在の時点で経済を直接解体することになるだけでなく、将来においても最大級の危険性をもたらしうることを意味するようになった。革命の勝利によって財政・金融上の大混乱が生じるだろうとの展望は、官僚による財政の濫費よりもはるかに大ブルジョアジーを恐れさせた。ブルジョアジーは極度に保守的になり、何がなんでも秩序を求めるようになり、モスクワではプロレタリアートに対するドゥバーソフ(4)
〔上の写真〕の残虐な弾圧を支持しさえした。こうして、政治闘争に最も参加してこなかった階級が最も革命に「疲れた」と感じるようになったのである。地主階級の自由主義は、わが国では純資本主義的な自由主義よりも起源が古いが、それはあまり堅固なものではない。民主主義の理念は常に、地主の反体制派にとって無限に疎遠なものであった。自由主義派の地主たちは自らを人民の要求の代表者とみなしていた。なぜなら、彼らは、農民を犠牲にして工業を育成している官僚の中央権力に抗して農村の利益を、より正確には土地所有者の利益を擁護していたからである。官僚に対する立憲的コントロールは、彼らの企図からすれば、国家財政を犠牲にした無駄な公共事業に対抗するものであり、総じて過度の保護主義に対抗するものであった。特権を悪用して甘い汁を吸う官僚や皇帝の恩寵を受けた成り上がりの廷臣たちに対しては、国庫と土地所有者の要求との間にパイプを通すことのできる地方の有力者による掣肘を受けなければならなかった。自由主義派の地主は自らを農民の利益の生来の代表者だとみなしており、農民の政治的自主活動など考えたこともなかったし、それを望んでもいなかった。革命的自主活動となるとなおさらであった。プロレタリアートの革命行動は、重病をわずらっていたゼムストヴォ自由主義を鼓舞するものであったが、農村の騒擾は反対に、たちまちのうちに地主を右傾化させた。「土地と自由」を求める農民の闘争の拡大深化は完全に地主の自由主義に終止符を打った。地主たちは「カデット」ではなく「ユンカー」となった。
これは不可逆的な過程であった。いかなる手練手管の戦術も、いかに洗練された政治的な「如才のなさ」も、この過程を止めることはできない。商工業利潤の階級も、地代の階級も、国家的な秩序党になる用意が完全にできている…そもそもそのような秩序が可能ならばだが。しかし、革命の上げ潮の時期にはあらゆる陣地が社会主義的ないし自由主義的な諸党派によって占拠され、他方、引き潮の時期には、容赦のない弾圧を遂行する国家権力へと陣地が移行するために、秩序の党にはこれまでのところ、自己の隊列を結集したり建設したりする可能性がまったくなかったのである。
V
プロレタリアートと大ブルジョアジーとのあいだには広範で雑多な小ブルジョア階級が分布している。そこには、手工業施設の持ち主、小店主、事務員、自由主義教授、下層官僚などが含まれる。
わが国の手工業者階級は経済的にも政治的にも取るに足りない存在であった。外部から移植された資本は、闘争なしに工業の主要部門を制覇した。わが国の都市には、強力な同業組合民主主義派やギルド民主主義派に類似したものはまったく存在しなかったし、今も存在していない。
大資本によってほとんど息の根を止められ、警察によって抑圧され、徒弟労働に対する野蛮な搾取によって生活している、後進的で無知な手工業者および小商人階級はつねに、排外主義的思想によって育てられ、能動的な反ユダヤ主義を堅持し、その隊列の中からポグロム主義者を輩出している。しかし、手工業者や小商人が苦しんでいる途方もない諸矛盾は、小ブルジョア階級をも積極的な闘争の道へと引き出さずにはおかないし、彼らの社会的・ユートピア的願望に革命的幻想の形態を与える。それはちょうど、その願望がかつては民族主義的幻想の形態をとっていたのと同じである。すでに国会選挙の時期に、都市の小ブルジョア階級のかなりの部分は反政府的立場をとり、「人民自由」党としてのカデットに投票した。国会の破壊は彼らに痕跡を残さないではおかなかった。中央および地方の行政の活動実態が彼らの目にも見えてくるようになった。工業プロレタリアートの周囲にも影響を及ぼさないわけにはいかなかった。ロシアの小ブルジョア階級の政治的役割を誇張する必要はないが、確信をもって次のように言うことができるだろう。決定的な瞬間には都市の下層階級は労働者の側につくだろうと。
小ブルジョア階級の別の部分であるインテリゲンツィアは、疑いもなく、民主主義革命の側につくだろう。たしかに彼らは、「平和的革新」に対する希望を完全には拒否したがらないが、それにもかかわらず彼らは革命の成功に喜び、反動の勝利に悲しむ。公法、出版と結社の自由、政治的民主主義は、彼らにとって、なくてはならぬ存在条件である。それらは彼らに独立性、影響力、豊かさを約束する。
国家と資本によって隷属させられているインテリゲンツィアは、両者に敵意を抱いているが、同時に両者に対して無力さを感じてもいる。昨年10月、技師は、資本がストライキに同情的であったことや自分たちが不意をつかれたということもあって、積極的にストライキを支持することができた。しかし、11月、12月になり、資本が政府とともに政治的ストライキに組織的抵抗を示すようになると、資本に奉仕していたインテリゲンツィアはすでにストライキを支持することができなくなった。だがその急進的な見解はそのままであったので、選挙の際、彼らは最左派の党に投票した。しかし、政治的行動は拒否した。以上のような傾向は、ゼムストヴォと国会の急進的な「第3要素」(5)にもあてはまるし、はるかに大きな程度で、反体制的気分をもった下層官僚にもあてはまる。商工業ブルジョアジーは、ヴィッテ=ドゥルノヴォー(6)
〔左上の写真〕の決議に完全に同意することができるだろう。「政治への関与や政党への所属はけっして、宣誓にもとづく誠実な職務執行を妨げるものではない」という決議がそれである。すでにウスペンスキーはインテリゲンツィアの矛盾を、「行為の徒食性」のもとでの「思考の高潔さ」として性格づけていた。この矛盾は異なった形態で今も存在している。以上すべての分子は、革命が勝利に近づいているあいだは革命を支持するが、革命がうまくいかなくなるとただちにそこから手を引く用意がある。彼らの側からの独立したイニシャチブを語ることはまったくもって許されない。
それゆえ秩序がロシアの地を支配することができる以前に、プロレタリアートの階級的エネルギーと農民の階層的・階級的熱情とを克服しなければならない。革命のこの2つの勢力を、輪郭の曖昧な都市の小ブルジョア階級や、革命的同情とともに無力さを抱いているインテリゲンツィアなどと同列に語ることはできない。革命的プロレタリアートと革命的農民の攻勢を克服するどのような秘密を反動が発見したのかわれわれは知らない。しかし、これらの階級が平穏になってもいなければ騒乱に「疲れて」もいないこと、彼らの革命的エネルギーがまだこれから克服されなければならないこと、この点についてはいささかの疑問もない。たとえ、ロシア革命が、「秩序」を基盤とした君主制と大ブルジョアジーと大土地所有者の連合支配よりも有望な展望を有してはいないという見解に立ったとしても、その場合でさえ、この立憲的エデンの園への道がけっして直線的な道ではないことを認識しなければならないだろう。前方に控えているのはなおいっそう激しい階級対立であり、それは、たとえいつか終わることがあったとしても、安定したブルジョア的秩序の確立をなお長期にわたってもたらさないだろう。
W
以上の一般的な考察から、われわれは再び7月攻勢(7)の失敗の問題に立ち返ろう。ストライキがゼネストにまで高まらなかったのは事実である。事態は昨年10月の水準を越えなかっただけでなく、その水準にも遠くおよばなかった。
ストライキが革命の自足的で直接的に戦闘的な手段としては使い果たされてしまったことを認めなければならないだろう。昨年10月にはストライキは直接的な政治的結果をもたらした。11月にはそれは階級的連帯を公然と示す手段となった。12月には、部分的な蜂起の基盤をつくるものでしかなかった。
プロレタリアートの意識の中では、あるいは少なくともその指導的層の意識の中では、政治的ストライキは現時点ではより決定的な事態に向けたプロローグとしての役割を果たすものである。しかしこのような事態が発展しうるためには、ストライキはゼネストにならなければならない。だがストライキの全面的広がりは鉄道と通信の状況に依存している。政府はこのことを知っており、新しい脅威が起こるたびごとに、鉄道の主要駅に大規模な懲罰部隊を配置する。このことはもちろん、鉄道ストライキの可能性を一掃するものではないが、鉄道労働者と事務員のイニシャチブを著しく困難にする。彼らにはすでに最初に闘争に決起するということができない。やむをえず待機的立場をとらざるをえない。それはそれで、全般的な政治ストライキをますます困難にしている。他方で、プロレタリアートの大衆的行動と直接結びつき、政府機構の完全な混乱をもたらす軍事的反乱は、不可避的に敗北を喫する。したがって、革命が袋小路に入ったという印象が生まれている。しかし、これとまったく同じ状況は、革命の各時期の終盤において、革命の基盤の新たな拡張とその方法の新たな豊富化が起こる前にはいつも見られた。プロレタリアートを筆頭とする組織された革命が敵に決定的な打撃を与えるためには、農村を筆頭とする革命的自然発生性がその真価を発揮しなければならない。
もし国会解散直後の時点でストライキが宣言されていたならば、もしペテルブルクでのストライキ中にスヴィアボルクやクロンシュタットで軍事的反乱が勃発していたならば、事態がどのように変遷をたどったかについてはさまざまな仮説を立てることができるだろう。しかし、課題は後から仮説を立てることにあるのではなく、あるがままの事実にもとづいて今後の方向性を定めることにある。
労働者ソヴィエトの時期が8時間労働制と共和制の旗印のもとにあったように、国会期は土地と自由の旗印のもとにあった。国会は労働者に対して、彼らがかつて他の所から――より断固として直接的できっぱりとした形で――聞いたこと以外のことは何も語らなかった。反対に、農民に対しては国会は巨大な影響力を持っていることがわかった。トルドヴィキの演説やアピール、土地問題に関する政府報道、落ちついて国会に期待せよというカデットの訴え、そして最後に、国会の解散とヴィボルク・アピール(8)――これらはすべて農民の全地方的反乱のためのお膳立てをするものであった。国会解散の報は、今になってようやく農村に広く伝わった。ヴィボルク・アピールは巨大な部数が配布された。その小心で制限された性格にもかかわらず、それは農民を行動へと駆り立てた。この行動は、アピールの主筆であるカデットが予想していなかったし、望んでもいなかったことであった。
農村で活動している革命組織は、農民が国会のアピールからしかるべき結論を引き出すのを助けることができる。
以上のことから次のようになる。
もし農村における野蛮を革命的に清算する必然性に関するわれわれの仮説が正しければ、もしロシアのムジークが受動的にただ死を待つのではなく積極的に生存のための闘争をすることができるというわれわれの主張が確かであるとすれば、もしこれまでのすべての農村での騒乱が何ごとかを物語っているとすれば、もし農村の雰囲気がその代表者の気分に類似したものだとすれば、そして最後に、革命の全般的歩みに関するわれわれの理解が正しいとすれば――まさに現在、農民運動が広大な規模へと発展し、都市の労働者大衆の新たな勝利的決起にとって好都合な要素をつくり出すに違いない瞬間が始まったと言うべきだろう。
X
プロレタリアートは国会解散に対し〔ストライキでもって〕回答しようとした。しかし彼らは支持を受けなかった。ブルジョアジーでさえ、国会の積極的な擁護について聞く耳を持とうとしなかった。もちろん、国会は彼らにとって、プロレタリアートよりもはるかに身近な存在なのだが。モスクワの市議会
〔市ドゥーマ〕は、プロレタリアートのストライキを鎮圧するために一連の行政的・警察的措置を取った。インテリゲンツィア――第3要素、技師――は、今回においては、プロレタリアートの行動に対して自己の共感を積極的に示す可能性をまったく奪われていた。農村はまだ立ち上がっていなかった。そしてプロレタリアートは退却した。なぜなら、絶対主義に対する自己の敵意を孤立した形でデモンストレーションすることを、彼らは必要としていなかったし望んでもいなかったからである。この数ヵ月間――おそらくはこの数週間ぐらいだろう――、社会民主党の戦術は必然的に待機的な性格を帯びた。革命の大段階はいずれもわれわれに次のことを示した。われわれは事態そのものを創造することはできないし、自分たちの企図どおりにそれを引き起こすこともできない、ということである。事態は自然発生的に発展する。このことを最もはっきりと理解しているのは、この事態に最も積極的に参加した党である。このわれわれの「自然発生性に対する拝跪」は、『ナーシェ・ジーズニ』の何とかという無名のカデットに嘲笑されることだろう。こうした連中は革命的事態が勢いよく展開されている時には黙って塹壕に身を潜め、事態が終息しはじめると革命に対してうだうだと文句を並べ立てるのである。社会民主党の力は、事態を予見し、この予見にもとづいて自らの戦術を立てる点にある。
農民の大衆的な決起なしには事態はこれ以上発展しないだろう。農村の長期にわたる反乱があってはじめて、都市の労働者大衆の決起にとっての有利な条件がつくり出されるのである。現在、鉄道・通信は、その中心地点のイニシアチブでストライキを実行することは不可能である。だが、農民の大衆的反乱が起こったならば、列車は動かなくなるだろう。なぜなら、レールが〔決起した農民によって〕取り外されるからである。通信も流れなくなるだろう。導線が切断されるからである。これまでの発展過程によってそのすべての前提条件が準備された農村の自然発生的反乱は、完全に国家活動を麻痺させるだろう。プロレタリアートは農村の反乱に依拠することができるだろう。政治生活の中心たる都市においても、プロレタリアートは自らが始めた仕事を完成させることができるだろう。農民の自然発生的力に依拠し、それを指導して、プロレタリアートは反動に対して決定的な勝利の一撃を与えるだけでなく、革命の勝利をも確保することができるだろう。
Y
ここで次のことを言っておくのも無駄ではないだろう。新しい革命的高揚に移行しても、党はその「日常」活動を継続するだろうし、あまりに明らかなことだが、地下的手段で活動している地下組織は、日刊の社会主義新聞や何千という大衆集会などを通じて大衆の注意を自らの党に集中させることはできない。しかしながら、疑いもなく、現在の体制が長く存続することは不可能である。ストルイピンをして国会解散直後に自由主義的改革の綱領を宣言することを余儀なくさせたり、いわゆる「社会活動家」と対話することを余儀なくさせたりしているのと同じ原因からして、政府は――農村で新しい革命運動の発展が見られる場合にはとりわけ――9月か10月には新しい国会選挙を実施することを余儀なくされるだろう。だがこのような措置は、体制の全般的な穏健化を伴うわけではない。言うまでもなく、新しい国会が1906年末の革命的反乱によって一掃されるということもありうる。ちょうどブルイギン国会が1905年のストライキ闘争によって一掃されたようにである。しかし、現時点での政治的編成状況の中で自己の方向性を定めるために、第2国会が第1国会と同じ原理にもとづいて選挙され、タヴィリーダ宮に召集されると仮定しよう。その構成はいったいどのようなものになるだろうか?
まず何よりも大いにありうるのは、「平和的革新党」(9)と10月17日同盟(オクチャブリスト)を筆頭とする国会内右派が第1国会よりも数も多くより結束して登場することである。この仮説を支持する一つの証拠は、有産階級の保守的気分が先鋭かつ鮮明になっていることである。民主主義的改良の党と立憲民主党(カデット)の地主的翼は右傾化し、平和的革新党の側へと向かいつつある。新聞記事から判断しうるかぎりでは、この方向に向けた交渉がなされているようである。もちろん、ストルーヴェ氏はそこに参加している。農民票や都市小ブルジョアやインテリゲンツィアに立脚したカデットの他の翼は左へと押しやられている。このことの保証となっているのは、革命の発展全体と結びついた第1国会の経験である。トルドヴィキのグループはより輪郭が明確となり、より断固とした姿勢を取るようになるだろう。分裂しつつあるカデットの左翼と並んで、同グループは国会の多数派をとるだろう。こうして、右派の数の上での伸張にもかかわらず、第2国会はその全般的性格からして、疑いもなく、第1国会よりも急進的なものとなるだろう。
社会民主党は国会に入るべきだろうか? そこでの闘争に参加するべきだろうか?
疑いもなくそうだ!
すでに述べたように、われわれは第1国会のボイコットを誤りだとみなしているが、そのボイコットは、12月蜂起の壊滅直後に選挙が行なわれたということもあって心理的な弁明理由を有していた。しかし、ボイコットを繰り返すことはすでに許しがたい誤りであろう。
先にわれわれは、第2国会の多数派が第1国会のカデット的多数派よりも急進的なものになるだろうという仮説を提示した。政府による不可避的な対抗措置と右派の系統的な反対行動は、国会多数派をいっそう左へ追いやるだろう。しかし、左へ動くということは、言葉の上ではなく行動の上で革命的大衆に支持を求めることを意味する。このような条件のもとでは、国会の社会民主党議員が、たとえそれがどんなに少数でも、大きな役割を果たすことができるだろう。もちろん、歴史的な争点は国会で決せられるのでもなければ、議会の演壇という手段で決せられるのでもない。しかし、一定の条件のもとでは、第2国会は大きな革命的役割を果たしうるのである。
言うまでもないことだが、将来の国会についてここで述べたことはすべて、条件的な性格を有している。なぜなら、われわれは選挙が8月6日〜12月11日の古い基礎にもとづいて行なわれ、そして警察による弾圧と取締の状況も第1国会のときとほぼ同じ中で行なわれると仮定しているからである。しかし、疑いもなく、次の選挙は、ストルイピン的自由主義をあらゆる容赦のないやり方で保証しようとする政府の姿勢の中で実施されるだろうし、その結果として第2国会は保守的なものになるかもしれない。その場合、労働者の代表者が本当に国会の中に浸透することができるかどうか疑わしいし、またそうすることができたとしても、国会の中で完全な無力を運命づけられないともかぎらない。しかし推測にふけることなく、この問題に対しては一つの回答がなされるべきだろう。国会から出ていくことは常に、国会の中に入っていくよりも容易だということだ。
最後に一言。われわれの論文は、ウィーンで発行されているブントの『ナーシェ・スローヴォ』(10)第5号に掲載された同志ヴィニツキーの論文を読む前に書かれた。同志ヴィニツキーの結論は、あらゆる点でわれわれと一致している。同誌の他の諸論文から判断できるかぎりでは、同志ヴィニツキーは「ブント」の共通した見解を定式化しているようである。
この見解は次のようなものである。
1、「ボイコット戦術は12月直後に実行されたが、それは12月前の時期に発生し形成されたものである。この戦術は、秋のシンフォニーの結末としての国会解散以降も、それ自身の政治的惰性にもとづいて〔1906年の〕1月まで持ち越された。しかし、それが実行された時点でもすでに、客観的に時代遅れのものになっていた。それゆえそれは外的な成功を収めることができなかった」。
2、「社会民主党の12月的方法〔武装蜂起のこと〕は、拒否されないし拒否することもできない。しかし、社会民主党はこの方法をより広範なものとして理解しなければならない。革命に対する信念はぐらつかなかった。しかし、純都市的な革命に対する信念はぐらついた。農村問題が前景に押し出された」。
3、「現時点において最も特徴的なことは、待機的な気分が広範に存在することである。この気分に従っている革命組織は、労働者大衆に警告の言葉を発している。…だが基本的に労働者はこのような警告を必要としていない。彼ら自身が待機傾向を示している。彼らは、農村が発言するのを待っている。待って準備をしている」。
ここに引用した論文はわれわれに2重の満足を与えるものである。まず第1に、現在の政治的状況が全体として正しく定式化されていることである。第2に、それがブントの立場を定式化していることである。
2年前、ブントの評論家はユダヤ人プロレタリアートの組織的独自性を擁護したが、その際、他の諸結論と並んで、ユダヤ民族内部における独自の〔有利な〕力関係が存在すると指摘した。彼らの見解によれば、この力関係の主要な独自性は、ユダヤ人農民の不在という点にあった。
しかし、現在、ユダヤ人プロレタリアートはロシアの農民が発言するのを待っており、「待って準備している」。彼らの政治的立場は、ユダヤ人内部の力関係によってのみ決定されるのではなく、全国家内部の力関係によっても決定される。ウィーンの材料加工労働者やベロストクの織工は、プチロフ工場の組立工と同じぐらいサラトフやペンザの農村に依存している。プロレタリアートの階級闘争の統一性は、ウィーンでもペテルブルクでも、社会民主党の政治家に一つの同じスローガンを吹きこむ。
このことから引き出されるべき結論は、社会民主党の組織的統一である。これはブントにだけあてはまるのではなく、わが党のすべての分派にもあてはまる。統一維持の要求は、われわれが再び一定期間地下的・サークル的存在に入っている現在、特別に頑強な形で繰り返されている。労働者大衆の公然たる広範な能動性以上に、党を結束させるものはないだろう。われわれはまさにこのような事態を〔昨年の〕10月、11月、12月に目撃したのである。
反対に、革命的地下活動のサークル主義以上に、意見の相違を増殖させ助長させるものはないだろう。こうした事態を、われわれはこれまでの党生活のさまざまな局面でさんざん目にしてきた。われわれは、将来においてはこのような事態が見られないことを望んでいる。
革命的高揚は再び大衆的な無党派組織を前景に押しだすだろう。社会民主党は、その組織の中で自らの影響力のために闘うだろう。内的な統一性のみが、同党にふさわしい役割を果たすことを保証するのである。
〔ボリシェヴィキとメンシェヴィキの〕どちらの分派も――事実においても原則においても――プロレタリアートの階級闘争という立場に立っている。両分派は相互の形式的な対立関係の中で、労働者階級の革命的発展におけるさまざまな――実際には矛盾していないが人為的に分離させられている――諸要求を表明している。このことは、両分派の影響力がその時々の時期の性格に応じて動揺しており、その際、どちらの分派も相手の足元から基盤を掘りくずすことができない、ということから説明される。われわれは両分派に対して次のような要望を表明することを許していただきたいと思う。それはこうだ。階級闘争の革命的論理に対してより多くの信頼をもつべきだ、と。
『ノーヴァヤ・ヴォルナ』出版
モスクワ、1906年
ロシア語版『トロツキー著作集』第2巻『わが第一革命』第2分冊所収
『トロツキー研究』第47号より
訳注
(1)ストルイピン、ピョートル・アルカデヴィチ(1862-1911)……ロシアの反動政治家。1906年に首相に就任し、1907年に選挙法を改悪(6月3日のクーデター)し、独裁政治を遂行。1910年に農業改革を実施し、富農を育成。1911年9月1日にキエフでスパイ挑発者のエスエル、ドミートリー・ボグロフによって暗殺される。
(2)シチェグロヴィトフ、イワン・グリゴリエヴィチ(1861-1918)……帝政ロシアの反動政治家。若い頃は自由主義者の法曹家で、自由主義新聞に寄稿。1906年夏からゴレムイキン内閣で法務大臣。ストルイピン時代に忠実なストルイピン派として活躍し、札付きの黒百人組的反動政治家となって、ロシア国民同盟の活動を支援。ベイリス事件では何としても有罪の評決を勝ちとるために裁判に介入。1915年夏にスホムリノフに大臣を譲る。1916年国家評議会(参議院)議長になり、2月革命までその地位にとどまる。1918年にモスクワでユダヤ人革命家に殺される。
(3)グラックス兄弟……ローマ共和制末期の有名な護民官兄弟。兄のグラックス(前162〜133)は護民官として自由農民の再建に努力し、大土地所有の制限と貧民への土地の分配を民会に提案。大土地所有者の反感を買い殺される。弟のグラックス(前153〜121)は兄の遺志を受け継いで改革を推進するが、兄と同じく暗殺される。
(4)ドゥバーソフ、ピョートル(1845-1912)……帝政ロシアの反動政治家。1905年の12月蜂起当時のモスクワの総督(知事)で蜂起を鎮圧。1906年に貴族院の議員。
(5)「第3要素」……政府官僚(第一要素)、ゼムストヴォ議員(第2要素)に対して、地方自治体所轄の医師や教員などの専門家要素のこと。
(6)ドゥルノヴォー、ピョートル(1845-1915)……帝政ロシアの反動政治家。1905年10月のツァーリの「詔書」発布以降にヴィッテ内閣の内相になり、革命運動を残酷に弾圧した。この政府は俗に「ヴィッテ=ドゥルノヴォー政府」と呼ばれた。
(7)7月攻勢……第1国会の解散に抗議してモスクワとペテルブルクでゼネストを起こそうとした試みのこと。
(8)ヴィボルク・アピール……第1国会解散に抗議して1906年7月10日に約180名の議員が発したアピール。「受動的抵抗」としての徴兵・納税の拒否を訴えた。
(9)「平和的革新党」……1905年に結成された大地主と資本家の同盟。このブロックの主要な組織者は第1国会の右派で、ゲイデン伯、リヴォフ、スタホヴィチなど。この同盟は第1国会で26人の議員を結集していた。同盟は、平和的手段で立憲君主制の体制に移行させるべきであると主張していた。
(10)『ナーシェ・スローヴォ』……ユダヤ人の社会民主主義組織である「ブント」の機関誌。創刊号は1906年6月22日に出されれ、全部で9号まで出された。同誌の指導的執筆者はアブラモヴィチ、リーベル、メデマンなど。
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