1900年代
第1期 革命前(1900〜04)
◇最初の運動
『オデッサとニコラーエフの労働運動』(1900年)
◇初期の文芸評論
「
『超人』の哲学について若干」(『東方評論』284、286、287、289号、1900年10月22〜30日)「悲観主義、楽観主義、20世紀、その他多くのことについて」(『東方評論』第36号、1901年2月17日)(
English)「バリモント論」(『東方評論』第61号、1901年3月18日)
「
ゲルツェンと『若い世代』」(『東方評論』第88、91号、1901年4月22日)「
イプセン論」(『東方評論』第121、122、126号、1901年6月3〜9日)「新しい時代、新しい歌」(『東方評論』第162、164、165号、1901年22〜26日)
「ドブロリューボフと『汽笛』」(『東方評論』第253号、1901年11月17日)
「N・V・ゴーゴリ(1852-1902)」(『東方評論』第43号、1902年2月21日)
「グレープ・イワノヴィチ・ウスペンスキー」(『東方評論』第88号、1902年4月18日)
「グレープ・イワノヴィチ・ウスペンスキー論」(『科学評論』、1902年4月)
「
ジュコーフスキー」(『東方評論』第89号、1902年4月19日)「レオニード・アンドレーエフ論」(1902年6月5日)
◇『イスクラ』派として
「シリッセリブルク併合200周年」(1902年11月1日)
「無法な政府に対する合法的な反対派」(1902年12月1日)
「ペテルブルクにおけるズバトフ主義」(1902年12月15日)
「綱領の代わりに高潔さ、戦術の変わりに神経質」(1903年2月1日)
「『社会化』『協同組合』、『社会革命党』の大衆文献」(1903年3月15日)
「地下出版におけるズバトフ派」(1903年7月1日)
◇第2回党大会と分裂
「ロシア社会民主労働党第2回大会での演説」(1903年7〜8月)
【資料】その他の演説、決議
『
シベリア代議員団の報告』(1903年11月)(English)【資料】プレハーノフ「何をなすべきでないか」(1903年11月7日)
【資料】レーニン『一歩前進二歩後退』
『われわれの政治的課題』(1904年後半)(
English)
◇日露戦争
「政治的書簡」(1903年11月25日)
「政治的書簡」(1903年12月15日)
「
シオニズムの解体とその後継者の可能性」(1904年1月1日)「政治的書簡」(1904年2月10日)
【資料】パルヴス「戦争と革命」
「政治的書簡」(1904年2月25日)
「われわれの『戦争』カンパニア」(1904年3月14日)
「編集部への手紙」(1904年)
第2期 第1次ロシア革命(1905〜07)
◇1月9日以前
『1月9日以前』(1905年初頭)
◇血の日曜日事件
「ペテルブルク蜂起以後――次は何か」(1905年1月20日)
【資料】マルトフ「1月9日」(1905年1月27日)
【資料】パルヴス「
総括と展望」(1905年1月27日)【資料】プレハーノフ「別個に進んでともに撃て」(1905年2月10日)
◇革命の展望をめぐる党内論争
【資料】パルヴス「
トロツキー『1月9日以前』への序文 」(1905年1月18日)「政治的書簡(1)」(1905年3月3日)
「政治的書簡(2)」(1905年3月17日)
【資料】パルヴス「
ツァーリではなく労働者政府を」(1905年初頭)【資料】マルトゥイノフ「革命の展望」
【資料】レーニン「社会民主党と臨時革命政府」
【資料】レーニン「プロレタリアートと農民の革命的民主主義独裁」
【資料】マルトフ「労働者党とわれわれの当面する目標としての『権力獲得』」
【資料】プレハーノフ「権力獲得の問題によせて」
◇革命におけるブルジョア自由主義とインテリゲンツィア
「資格ある民主主義者について若干」(1905年3月)
「反政府派における資本」(1905年7月)
「インテリゲンツィア民主主義」(1906年発表)
◇ブルイギン国会をめぐって
「ゼムストヴォと国会の代表者に対するペテルブルク労働者の宣言」(1905年7月7日)
「ブルイギン国会とわれわれの任務」(1905年8月)
「ミリュコーフ教授への公開状」(1905年8月)
「国会はどのようにして作られたか」(1905年9月)
◇労農同盟をめざして
「農民を、われわれの言葉を諸君に」(1905年春)
「ツァーリの新しいお慈悲」(1905年春)
「社会革命党は何を教えているか」(1905年春)
◇武装蜂起のために
「メーデー」(1905年5月1日)
「ペテルブルクの労働者同志へ」(1905年春)
「ロシアの陸海軍の兵士たちへ」(1905年春)
「ツァーリでもなく、ゼムストヴォでもなく、人民を!」(1905年6月)
◇永続革命論の形成
「
ラサール『陪審裁判演説』への序文」(1905年7月)
◇ソヴィエトと10月ストライキ
「ツァーリの宣言」(1905年10月20日)
「10月ストライキ」(1905年11月13日)
「おはよう、ペテルブルクの門番諸君!」(1905年11月15日)
【資料】パルヴス「われわれの任務」
「前夜」(1905年11月23日)
「社会民主主義と革命」(1905年11月25日)
「党を建設する必要がある!」(1905年11月27日)
【資料】「
ロシア革命(ソフィア演説)」(1910年7月12日)【資料】「12年を経て」(1925年12月26日)
【資料】「1905年の総括」(1926年)
◇反革命と自由主義
「反革命は活動する」(1905年11月17日)
「あれかこれか」(1905年11月19日)
◇逮捕と国会をめぐる闘争
『政治におけるピョートル・ストルーヴェ氏』(1906年2月)
「ペテルブルクはどのような市会を必要としているか」(1906年2月12日)
「一院制か二院制か」(1906年2月16日)
「『解放』派の憲法」(1906年)
『憲法制定議会のための闘争におけるわれわれの戦術』(1906年)
◇ソヴィエト裁判とソヴィエトの教訓
「ロシア社会民主労働党への手紙」(1906年6月14日)
「ソヴィエト裁判における演説」(1906年10月4日)
「ヴィッテ氏の反論によせて」(1906年11月4日)
「最初のソヴィエトの教訓」(1906年)
◇革命の総括
『
革命とその力』(1906年8月)『
総括と展望』(1906年)
第3期 反動期(1)――革命の総括、国会闘争、『プラウダ』(1907〜09)
◇反動期への準備と『党の擁護』――第2国会と労働者大会
「第2国会への道」(1906年)→『党の擁護』(1907年初頭)
「労働者大会(1)――アクセリロートへの手紙」(1906年9月12日)→『党の擁護』
【資料】アクセリロート『人民ドゥーマと労働者大会』(1905年、第2版は1907年)
「労働者大会(2)――ラーリンへの手紙」(1906年12月1日)→『党の擁護』
【資料】ユーリー・ラーリン『幅広い労働者党と労働者大会』(1906年)
「党の擁護」(1906年12月1日)→『党の擁護』
「カウツキーのロシア革命論」(1906年12月23日)→『党の擁護』
「『党の擁護』序文」(1907年1月1日)→『党の擁護』
◇ロンドン党大会
「ロンドン党大会での演説(1)」(1907年5月)
「ロンドン党大会での演説(2)」(1907年5月)
「ロンドン党大会での演説(3)」(1907年5月)
【資料】その他の演説、決議
「ロンドン党大会の教訓」(1907年7月)
◇反動期の始まりと第3国会
「
国会と革命」(1907年6月)「第3国会」(1908年4月、『社会民主主義評論』)
「
第3国会」(1908年4月、『ノイエ・ツァイト』)「ツァーリズムによる戦争が動き出す」(1908年6月)
◇ドイツのマルクス主義とロシアのマルクス主義
『ドイツ社会民主党論』(1908年半ば)
「ロシアのマルクス主義について」(『ノイエ・ツァイト』1908年)
「1909年におけるカール・マルクスとロシア」(1909年11月21日)
◇1905年革命をめぐる論争
「プロレタリアートとロシア革命」(1908年)
「われわれの意見の相違――1905年、反動、革命的展望」(『社会民主主義評論』、1909年8月)
『ロシアの革命(1905年)』(1909年)
◇『プラウダ』の発刊と党統一のための闘争
「『プラウダ』から読者へ」(『プラウダ』第1号、1908年10月3日)
「ロシア社会民主党」(『カンプ』、1908年10月)
「党内における『プラウダ』の位置」(『プラウダ』第3号、1909年1月18日)
「労働者と『プラウダ』」(『プラウダ』第3号、1909年3月27日)
「オーストリア情勢」(『プラウダ』第3号、1909年3月27日)
「わが党の国会議員団」(『社会民主主義評論』、1909年2月10日)
「
わが党とその課題」(『プラウダ』第4号、1909年6月2日)「来たる党大会によせて」(『プラウダ』第4号、1909年6月2日)
◇『プラウダ』と党学校
「党の教育について(ゴーリキーへの手紙)」(1909年6月20日)
「『プラウダ』と中央委員会」(『プラウダ』第5号、1909年9月20日)
「社会民主党のために!――ペテルブルク、モスクワ、オデッサの選挙によせて」(『プラウダ』第5号、1909年9月20日)
【資料】レーニン「ペテルブルクの選挙について」(1909年9月5日)
「党学校」(『プラウダ』第5号付録、1909年9月20日)
「ロシアの生活から」(『プラウダ』第6号、1909年11月5日)
◇バルカン情勢とトルコ革命
「バルカン半島、資本主義ヨーロッパ、ツァーリズム」(『プロレタリー』、1908年11月1日)
「トルコ革命とプロレタリアートの任務」(1908年12月17日)
「新しいトルコ」(1909年1月3日)(
English)
◇反動期のロシア政治
「自殺者と収奪者」(『プラウダ』第1号、1908年10月3日)
「暗黒国会の活動」(『プラウダ』第2号、1908年12月17日)
「
失業と飢饉に対する闘争」(『プラウダ』第2号、1908年12月17日)「メーデーを前にして」(『プラウダ』第3号、1909年3月27日)
「ロシアの生活から」(『プラウダ』第3号、1909年3月27日)
「鉄のほうきが必要だ――貴族の大会について」(『プラウダ』第3号、1909年3月27日)
「どのような結果になったか」(『プラウダ』第4号、1909年6月2日)
「ロシアの生活から」(『プラウダ』第5号、1909年9月20日)
「
来るべき産業好況」(『プラウダ』第7号、1909年11月21日)「ロシアの生活から」(『プラウダ』第8号、1909年12月8日)
◇アゼーフ事件
「
スープの中のゴキブリ――アゼーフ事件の顛末」(『ノイエ・ツァイト』、1909年3月22日)「
テロとその党の破産」(『社会民主主義評論』、1909年3月27日)「革命的ロマン主義とアゼーフ」(『ノイエ・ツアィト』、1909年5月)
◇民族問題、ペルシャ革命、フィンランド問題
「民族的心理か階級的観点か」(『ノイエ・ツァイト』、1908年12月)
「反革命の外交政策」(『プラウダ』第5号、1909年9月20日)
「帝国の陰謀者とフィンランド」(『プラウダ』第6号、1909年11月5日)
「鉄と血」(『プラウダ』第7号、1909年11月21日)
「
民族闘争とプロレタリアートの統一」(『プラウダ』第8号、1909年12月8日)
◇農民問題と土地問題
「国会と11月9日の法令」(1908年12月)
「農民と社会民主主義」(『社会民主主義評論』、1909年6月)
「土地の分散と社会主義」(『プラウダ』第8号、1909年12月8日)
「ムジークの土地問題」(1910年1月)
◇同時代人の政治的シルエット
「ヴィッテ伯」(1908年8月6〜8日)
「ジョレス」(『キエフスカヤ・ムイスリ』、1909年1月9日)
「強さの源泉としての弱さ(プリシケヴィッチ)」(『キエフスカヤ・ムイスリ』、1909年1月27日)
「ア・エリ・ジャパリッゼの思い出」(『プラウダ』第3号、1909年3月27日)
「ピョートル・ストルーヴェ氏(説明の試み)」(『キエフスカヤ・ムイスリ』、1909年4月21日)
「ゴーリキーと社会民主党」(『プラウダ』第8号、1909年12月8日)
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