国会と革命

トロツキー/訳 西川伸一

ストルイピン

【解説】1905年の第1次ロシア革命は、1907年始め頃から確実に下降しはじめ、全戦線で反動が台頭し始めた。とりわけ、6月3日に急進的な第2国会が解散させられ、首相のストルイピンを頂点とする反動体制(6月3日体制)が確立されたことは、革命期から反動期への画期をなした。(右の写真はストルイピン)

 すでにシベリア流刑の途中でヨーロッパに亡命していたトロツキーは、ウィーンに居を定めるとともに、この反動期において次の革命を準備する闘いにさっそく着手し始めた。この反動期においてトロツキーが主に取り組んだのは、1905年革命のあらゆる教訓を理論化・体系化すること、敗北によって生じた清算主義と闘いロシア革命の精神を堅持すること、国会や労働組合を利用して労働者大衆を再結集させること、大衆的な労働者新聞を通じて先進的労働者の戦闘性と国際的結びつきを確保し強化すること、党の統一を実現して労働者大衆の結集軸を形成すること、などであった。なかでも、国会の動きを丹念にフォローしその中でのブルジョアジーの無力さを暴露することは、トロツキーの文筆活動の中でも大きな位置を占めていた。この反動期にトロツキーは国会の問題について多くの論文を書いているが、この論文もその一つである。

 この中でトロツキーは、主流派の自由主義ブルジョア政党であるカデットの本性を暴露するとともに、農民問題についても詳しく論じており、ストルイピン政府が制定した新しい農業立法(農民の土地所有を促進させることで、革命的騒乱の土壌としての農村を骨抜きにすることを目的としていた)を検討し、これが農民を満足させるものではないこと、農村が引き続き革命の土壌であることを明らかにしている。ここにも、いわゆる「農民の軽視ないし無視」は片鱗もうかがえない。それどころか、「国会は、農民大衆に対する影響力を獲得するための自由主義と社会民主主義との闘争の場」であるとさえ述べている。

 なお、今回アップしたのは、『ノイエ・ツァイト』に掲載されたドイツ語からの翻訳であり、後にロシア語版『トロツキー著作集』に収録されたときに変更された部分については、『トロツキー研究』第18号を参照してほしい。

L.Trotsky, Die Duma und die Revolution, Die Neue Zeit, No.38, 1907.


 ストルイピンは[1907年6月に]第2国会を解散し、ツァーリはポグロム主義者の同盟と友好的な電報をとりかわした。… これらの紳士諸君の戦術はきわめて単純なものである。

 およそ1年前、反動的貴族階級の機関紙である『モスクワ通報』が、この戦術を以下の言葉で要約した。ロシアの人口は合計するとおよそ1億5000万人であり、革命に積極的に参加しているのは約100万人ほどである。仮に革命参加者全員を射殺したとしても、ロシアにはそれでもまだ1億4900万の住民が残っている。祖国の繁栄と偉大さにとってまったく十分な数である。

 この残忍な発想は、きわめて単純な、しかしながら革命の基礎を形成している一つの事実を見落としている。すなわち、革命に積極的な100万人は、歴史の発展の単なる執行機関にすぎないということだ。

 この歴史的事実を、ストルイピン氏は、今や再度試験にかけようとしている。

 すでに2年間、政権を率いているこのロシアの首相は、苦しい立場に追い込まれた反動陣営にとって不可欠な、強靭な神経の持ち主であることが明らかになった。彼は自分自身の中に、奴隷所有者の野蛮な粗暴さと山師の個人的大胆さと、議会制ヨーロッパの下で育ったような「政治家(ステーツマン)」の如才のない物腰とをあわせもっている。農民騒擾が最も激しかったサラトフ県の知事として、ストルイピンは、立憲時代の最初のころ、農民に対する鞭打ち刑を自ら監督し、そしてその際、国会議員の証言によれば、わが母国の野卑な言葉以外には再現できないような罵詈雑言を農民に浴びせかけた。数え切れない陰謀の中心にある国家元首のあわれで気まぐれな意思によって内相の職に任命され、やがて首相に指名されたストルイピンは、歴史の発展の法則については少しも知らない無学者の自信のほどを示し、厚かましくも「現実政策(リアルポリテック)」をとった。つい少し前まで自ら立ち会いのもとで、社会秩序のために農民の服を脱がせ鞭打ちすることを命じていたこの官僚が、である。第1国会において彼は脇に退き、新たな状況を観察し、議会主義の法律的覆いの下にある社会的諸勢力の現実の輪郭を、野蛮人の鋭いまなざしで、探り出そうとした。

 第1国会でのカデットの叙情的な心情吐露、いつも小心さで声を震わせている彼らの歴史的に遅ればせのパトス、人民の意思への彼らの芝居がかった訴え(これは今やペテルゴーフにある宮殿[ツァーリ政府のこと]の玄関ホールでの卑屈なささやきに取って代わった)、これらすべては、ロシアの地主の反動の頭目に畏敬の念を起こさせることはできなかった。ストルイピンは好機をうかがい、それをとらえて、議員たちをタヴリーダ宮殿から追い出した。しかし、この宮殿の鎧扉が閉められ釘づけにされたあと、彼は突然、国会によって生み出されたあらゆる歴史的諸問題に直面しているのに気づいた。要塞での蜂起は武力で鎮圧され、テロ的行為の恐るべき蔓延に対しては、野戦軍法会議が開かれた。しかし、あらゆる複雑な諸現象を伴っている農業恐慌の前では、ストルイピンは、スフィンクスに謎をかけられた旅人のようだった。

 政府の背後に結集したのは、結束が固く、ツァーリの庇護のおかげで権勢盛んな、位の高い農奴制擁護派の一味であった。彼らのスローガンは、仲間の一人であるサルトゥイコフ伯によって、次のように与えられた。

「われわれの土地は一片たりとも、われわれの畑は砂一粒たりとも、われわれの草原は茎一本たりとも、われわれの森は小枝一本たりとも、渡さない」。

 他方で政府は、ストルイピンがヴィッテ伯から安い値段で買い取った自由主義的官僚、御用学者、評論家を意のままに用いた。そしてこれらの連中はみな、ストルイピンを改革と「法治」国家へ引き込んだのである。

 第1国会と第2国会の間の時期に成立したあらゆる立法、とりわけ土地立法(1)は、これら多種多様な影響や気分の帰結である。それは、粉々にされた哀れな政治的理念、改革の断片、無力な官僚的骨折りであって、封建制の鉄鎖の下で国家的・資本主義的搾取の傷が膿んでいるロシア農村の社会的地獄に新たな混乱をもたらすにすぎない。

 玉座から最低のならず者に至るまでが複雑な鎖を形成している強力な「ロシア国民同盟」(2)が、旧体制のあらゆる形態での再建を望み、唯一正当な行為は、野戦軍法会議での裁判のみだとしている一方で、大資本と大土地所有者の少数の活動的ではない分子に立脚したオクチャブリスト(3)は、あいかわらず、野戦軍法会議を立憲体制の前段階としかみなそうとしなかった。しかしながら、ポグロム主義者の同盟[ロシア国民同盟のこと]は、財政問題の自由主義的専門家であるゲルツェンシュテイン(4)を暗殺すること以上に重大な力添えを政府のために行なうことはできなかった。それに対してオクチャブリストは、ストルイピンの兄弟(5)を御用評論家に選び、内務省の官僚を指導者として受け入れたことによって、社会的な信用の最後の残りかすをも失った。地方に御用新聞を育てようという金のかかる試みは、住民の無言の敵意のために失敗した。政府の周囲には、革命の恐ろしい亡霊が出てきそうな空洞ができた。

 状況の困難さはこれにとどまらない。ストルイピンがまだサラトフ県の県知事だったとき、彼は行政に必要な額を国庫から定期的に受け取っていた。彼は、現在の世代を抑圧するのに必要な費用を次の世代の肩に転嫁するような困難な財政テクニックに頭を悩ます必要はなかった。だが、今や、国政の指導者として、自分がメンデルスゾーン(6)、クレマンソー(7)、ルーヴィエ(8)、ロスチャイルド(9)に何重にも従属していることをすぐさま気づかされたのであった。

 人民代表の召集は不可避になった。

 第2国会は1907年2月20日[ロシア暦では2月7日]に召集された。国会の公式の戦術は、カデットからなる中間派によって決められた。この中間派は、反革命をすすんで手助けしたときには、右派の側に立ち、また、反体制派であることをしぶしぶ見せたときには、左派の側に立った。

 第1国会において、カデットは国民の代弁者のふりをした。都市のプロレタリアートを除く人民大衆は、ようやく混沌とした反体制的気分を抱くようになったばかりであり、さらに、選挙を最左翼の諸政党がボイコットしたので、カデットは状況の支配者のように思われた。彼らは「国全体」を代表した。すなわち、自由主義的な地主、自由主義的な商人、弁護士、医師、役人、小売店主、店員、農民たちを。党の主導権は地主、教授、および弁護士の手中に握られていたとはいえ、カデットはそれでも、カデット議員団を満たしていたかなりの数の古いタイプの地方の急進派によって、左へとせきたてられた。事態はヴィボルク宣言にまで至り、この宣言によって、それ以降、自由主義的俗物どもは、幾晩もの眠れぬ夜を送ることになった。

 第2国会に議席を占めたカデットは、第1国会の時より少ない数だったが、ミリュコーフの説明によれば、以前にはない長所があった。それは、今や彼らを支持しているのは漠然と不満を抱く住民ではなく、意識的に反革命的選挙綱領に投票した有権者であるという点である。地主の大部分と大資本の代表が積極的な反動の陣営に移った一方で、都市の小ブルジョアジー、商業プロレタリアート、および中流インテリは左翼諸政党に投票した。カデットは地主の一部と都市の中間層に支持された。彼らの左側には、農民と労働者の代表がいた。

 カデットは、政府の新兵徴募案を承認するとともに、予算の承認をも政府に約束した。カデットはまた、同じように、国家財政の赤字を補填するための新たな国債発行に賛成投票したろうし、絶対主義の過去の債務に責任を負うことに一瞬たりともためらいはしなかったろう。ゴローヴィン[カデットの議員]、すなわち、国会議長の職にあって、自由主義の卑劣さと無力さを体現したこの哀れな人物は、国会解散の後、次のような考えを表明した。政府は本当のところ、カデットのふるまいを反体制派に対する勝利とみなすべきであった、と。これはまったく正しい。このような状況では、国会を解散する理由はまったくなかったはずだ。それにもかかわらず、国会は解散された。このことは、自由主義の政治的論拠よりも強い力が存在することを示している。この力とは革命の内的論理である。

 政府は、カデットによって指導された国会と争う中で、ますます自らの力を意識するようになった。ここにおいて、政府が自己の前に見いだしたのは、解決すべき歴史的課題ではなく、無力なものにすべき政治的敵対勢力であった。政府の競争相手、および権力の要求者として、一団の弁護士が登場した。彼らは政治を高級な法廷論争のようなものと考えていた。彼らの政治的雄弁は、法的な三段論法とサロン的な空文句の間で揺れていた。野戦軍法会議をめぐる論争において、双方が対立した。自由主義者の間で将来の期待の星だったモスクワの弁護士マクラコフ[著名なカデット議員]は、野戦軍法会議での裁判、およびそれとともに、政府の全政策に、仮借のない法的批判を浴びせた。

 しかし、野戦軍法会議はけっして法的な制度ではない――とストルイピンは答えた――。野戦軍法会議は闘争の手段である。貴君は、この闘争手段が合法的なものではないことを、証明しようというのか。しかし合法的でなくても、この手段は目的にかなっているのだ。法は自己目的ではない。国家の存在が危機に瀕しているとき、政府が法を超越して力の源泉に訴えることは権利であるだけではなく、義務でもある。

 クーデターの哲学のみならず、民衆蜂起の哲学をも含んだこうした回答は、自由主義をうろたえさせた。これは前代未聞の告白であると自由主義的な評論家は叫び、法は力に勝ることを何十回となく証明しようとした。

 しかし、彼らの政策すべてが、逆に政府に確信を抱かせた。彼らは徐々に譲歩した。国会を解散させないために、彼らはそのあらゆる権利を、一つまた一つと放棄し、それによって、力が法に勝るという明瞭な証拠を提供してしまった。こうして政府が、その力を徹底的に利用しつくすという考えに到達するのは避けられなかった。

 カデットとの協定によって、人民大衆の沈静化、あるいは少なくとも、農民の沈静化とプロレタリアートの孤立化を達成できるのであれば、政府はすすんでこうした協定を結んだことだろう。しかし、不幸なことに、カデットは人民大衆を後ろ楯にしてはいなかった。トルドヴィキの土地綱領は、カデットのそれよりはるかに進んでいた(10)。多くの最も重要な問題において、トルドヴィキは社会民主党と一致していた。カデット自身、国会の解散の数日前に、トルドヴィキより右翼の方が中間派にとってはるかに確固とした支えをなしている、と認めざるをえなかった。そして、右翼は右翼で、カデットの助力なしでは政府をもはや支えることはできなかった。

 政府とカデットとの協定の基礎になりえたのは、政府の綱領とカデットの綱領との妥協を体現した綱領だけであろうし、それでなくても、このカデットの綱領は地主反動派の欲望に迎合したものであった。しかし、このような妥協は一瞬たりとも農民を満足させないであろう。反対に、それは土地に対する農民の要求をますます強めたに違いない。他方で、政府にとって、自由主義者との協定は、一定の政治的自由を――たとえどんなに制限されたものであっても――認めなければ不可能である。その場合、大衆は、不満を抱えたままであろうが、革命的な組織を結成する可能性を手に入れたであろう。そして、政府は以前と同様の危険を前にしながら、立憲体制によって手を縛られたままであろう。政府の側に自由主義的な同盟者がつくだろうが、この同盟者は政府が人民大衆を制圧するのを手助けできないどころか、たえず、その長広告や気くばりやためらいによって政府の邪魔をしたであろう。こんなものに骨を折る価値があったろうか。明かに否である。そしてそれゆえに、ストルイピンは国会を解散したのだ。

 

 革命が終わったこと、これについては、自由主義者たちにはもはや疑いは存在しないようだ。「人民は疲弊し、革命の幻想はうち破られた」。このように、彼ら紳士諸兄は宣言し、現実には存在しない法の領域にいっしょに入るようわれわれを誘うのだ。彼らが理解していないのは、革命が一時的な心理的気分によってではなく、客観的な社会的矛盾によって育まれるということである。農業の封建的諸関係と国家体制の野蛮さが一掃されないかぎり、革命が終わることはありえない。そうなるまでは、革命の中断は、内的な分子的活動の時期であるにすぎない。人民大衆の精神的疲弊は、革命の一時的な停止を引き起こしうるが、けっして革命の客観的に条件づけられた発展を妨げることはできない。しかし、それにしても、いったい、誰が革命の自由主義的墓掘り人たちに、人民大衆は困窮と隷従の何十年よりも革命の数年によって疲弊させられるものだと言ったのだろうか。

 われわれはもちろん、都市住民の一定の層に気分の重要な変化が生じたことに、異論をさしはさむつもりはない。政治的情熱によって後景にしりぞけられていた「純粋芸術」や「純粋科学」への関心は、再びその地位を得ようとしている。10月の日々に革命賛歌を書いたデカダン派の詩人は、今では再び、神秘主義と神智論に戻っている。インテリ青年層の若干の部分では、エロスについての組織的な神秘的・美学的な礼賛が見られ、どうやら、それは必ずしもプラトニックなままにとどまらないようだ。「人間の一生」というアンドレーエフの厭世的な劇(11)は、舞台で大成功を収めている。メーテルリンク(12)の神秘劇が大いに好評を博した。一方、カフェ・シャンタンの下劣な官能礼賛がこれまで以上に盛んになった。警察の骨折りで革命文献が一掃された出版市場に、エロ本が大量にあふれている。

 これらは、反革命的気分の疑いもない徴候である。しかし、考慮しなければならないのは、それらがブルジョワ的インテリゲンツィアの限られたグループのみをとらえているにすぎず、このグループはけっして革命闘争の重要な要素ではなかったし、またけっしてそうなりえないという点である。この連中が、革命の重大な瞬間において、わずかな力と意義しか示さなければ示さないほど、それだけいっそう政治的停滞の時期には、彼らの自己顕示は厚かましいものになる。

 しかし、プロレタリアートの「疲弊」について語られる際、このプロレタリアートが目下、警察によるひどい妨害にもかかわらず、経済闘争において巨大なエネルギーを発揮している事実がまったく無視されている。産業恐慌は労働者に気を休める時間を与えなかった。若干の活況を呈しているのはロシア中央部の繊維産業だけである。しかし、全般的には、失業者の数は絶えず増加している。多くの製鉄所は閉鎖され、それ以外でも生産が制限されている。これが原因で、すでに独特の労働者組織、すなわち失業者会議が出現し、精力的な活動を展開している。あちらこちらで失業者会議は、地方自治機関から公的活動の組織を奪うことに成功し、それに対する支配を確立している。他方で、ロックアウトが慢性的な性格を帯びている。生活必需品のかつてない全般的な値上がりによって、プロレタリアートは、一方では、消費組合の道へと押しやられ、他方では、市会に圧力をかけることを余儀なくされている。工場の闘争は、最高度に緊迫した状態にある。プロレタリアートは、革命前のような工場体制を再建しようとする一致団結した資本家のもくろみに対して、精力的に抵抗している。ここ数ヵ月で、ストライキの新たな波が国中を覆い、それにはプロレタリアートの最も遅れた層でさえ加わったのである。

 もちろん、今では、都市のプロレタリアートの多数をまとめていた、かつての労働者代表ソヴィエトのような組織は存在しない。しかし、労働者代表ソヴィエトはその本質において、プロレタリアートの全大衆の、ゼネストと蜂起のための組織機関であった。このような組織は、労働者大衆の積極的行動の客観的可能性が与えられれば、まちがいなく復活するだろう。

 しかし他方では、この間、プロレタリアートの常設組織、とりわけ労働組合が、大いに成長し強化されてきた。そして、とりわけ重要なのは、その機能は純粋な経済闘争に限定されないし、ロシアの状況下ではされえない、ということである。これらの組織は、社会民主主義の旗のもとで、ゼネストから選挙闘争に至るまでの、経済的闘争手段と政治的闘争手段を革命的に結合している。ここ数年の間に、労働組合は、全国組織の糸をさまざまな方向へ伸ばすことに成功した。労働組合の全国大会の召集を準備する協議会(13)が開催された。したがって、プロレタリアートの階級組織は、あらゆる警察の妨害にもかかわらず、また社会民主党内部でのあらゆるあつれきにもかかわらず、長足の進歩を遂げたのである。次の革命高揚期には、労働組合は革命の最も確かな支柱になるであろう。

 1905年12月に、革命は断固としてプロレタリアートを絶対主義と対決させ、軍隊に国家権力の運命についての決定を委ねた。だが、絶対主義は、都市労働者の蜂起を鎮圧するために、十分な数の銃剣をまだ自由に用いることができた。

 もちろん、軍隊にも多くの反乱が起こった。しかし、それは常に少数派の革命的行動にとどまった。水兵と、陸軍では砲兵と工兵が反乱を起こした。彼らは最も聡明な兵士からなり、その上、主に産業労働者の出身であった。農民出身の部隊の膨大な大衆は、優柔不断ないしは受動性を示し、結局は、旧来の自動的に働く軍事組織によって、絶対主義に服従させられてしまった。こうして、農村の社会的政治的後進性は軍隊に反映され、革命のさらなる発展を妨害したのである。

 革命の命運を決める鍵は、ここにあるのであり、ブルジョワ的なデカダン派の気分にあるのではない。彼らは無限の革命主義と最も偏狭な自由主義の間でふらふらと揺れ動き、ニーチェ主義から敬けんなロシア正教へと飛び移るのだ。

 軍隊の後進性は革命にブレーキをかけた。しかし、昔から知られているように、国民皆兵制は、軍隊を人民の武装した代表にする。軍隊の気分は、しばらくは人民の気分から遅れるが、しかし結局は、利害の同一性と出身の共通性がものをいうことになる。政府は毎年、40万人以上の若者を軍隊に徴募している。ロシア革命はすでに2年続いており、3年、4年もすれば、軍隊の全構成が変わってしまうだろう。それゆえ、軍隊の政治的性格は、ロシアの軍国主義がその人員をくみ出す社会的貯水池に、すなわち主として農民層に左右されるのである。

 

 今日のロシアは農業発展の基本的諸条件をどれ一つとして、満たしていない。農民は土地も権利の平等も獲得しなかった。この分野でのツァーリズムのあらゆる改革は徒労に終り、農村住民の経済的危機の表層にやっと触れているにすぎない。

 農村共同体からの離脱を認めた法律によって、富農は貧農に対してきわめて優位に立った。農村における関係すべてが、地主から土地を奪い取りたいという欲求に従属しているとは限らないとすれば、この優位は農村共同体それ自体における内乱の源になりうるであろう。

 国会を解散した政府は、農民へ売却するための土地ストックを御料地から作った。その結果、御料地の多くの区域が貧しい小作人の手から、富農の所有へと移るにちがいない。

 農民銀行の活動の拡大も同じように、農業における政府のインチキ行為の分野に属している。1906年以降銀行が売却を仲介した330万デシャーチナの土地は、富農が所有するところとなった。困窮した農民大衆は、農民一揆を引き起こすほどに、耐えがたい状況におかれていたにもかかわらず、何も得なかった。彼らはもはや、1デシャーチナにつき30ルーブルの頭金を払うことさえできない。いわんや土地の全額を支払うことなど不可能である。借金の利率が5・75%から4・5%へと引き下げられたところで、かまどに屋根の藁をくべている零落した農民を救うことはできない。

 身分的権利の分野において、政府の改革のうち最も重要な措置は、やはり何といっても、鞭打ち刑の廃止である。これに、身分証明書制度の変更や、農民が官吏や修道士に身分を変更するのを容易にしたこと――つまり、ストルイピン氏の政治家としての才のおかげである諸措置――を加えれば、ツァーリズムのこの解放活動のすべてがすっかりそろう。

 他方では、農民がストライキから経済的テロに至るまでの革命的闘争手段を直接行使することによって獲得してきた諸成果は、明らかに、農民を、同じ方向に向けたさらなる行動へと駆り立てるだろう。

 農民は二重の利益を得た。第1に、地主の土地の小作人として、第2に、農業賃労働者として。農村共同体全体、ところによっては地域全体が次のような決定を採択した。すなわち、共通の条件以外で地主の土地を賃借りしたり、地主のところで仕事してはならないという決定である。その条件として、小作料の最高額と賃金の最低額が定められ、この規定は厳格に守られた。そして、テロで脅された地主が、多くの場合、農地を整理して都市へ逃れる可能性だけは手にしようと、土地をきわめて安い小作料で貸すつもりだっただけに、なおさらこの決定は容易に実行に移すことができた。

 いくつかの資料によれば――もちろん、それは近似的なものにすぎないが――、地主に対する農民の経済的攻撃は、1906年を通して、農民に、およそ1億から1億5000万ルーブルをもたらした。もちろん、これでもまだ農民を零落から救い出すことはできない。全ロシアにおける農民経営の年々の赤字は、種々の計算によれば、数十億ルーブルに達している。中程度の収穫では、これは不十分な栄養摂取を意味するにすぎないが、不作では、飢餓と大量死を意味する。それにもかかわらず、今や、国会の解散と同時に伝えられる公式発表によれば、今年は再び10県で凶作が予想されているのである。

 これらの客観的事実が明確に示しているのは、革命的反政府派を離れ、「秩序」派に転じる理由が農民にはまったくないということである。逆に、絶対主義の政策を思う通りに動かしている地主反動層の圧力が強まれば強まるほど、農民の革命的エネルギーは、少なくとも国の正常な資本主義的発展の基本的条件が形成されるまでは、ますますその緊張の度合いを高めるに違いない。それゆえ、実際またわれわれが目にしているように、国会解散と同時に、農民騒擾が多くの県で噴出し、地主屋敷がまたしても灰燼に帰してしまっているのである。

 第2国会の経験が改めて示しているのは、ロシアの錯綜した社会的・政治的状況からの活路は立法上の妥協からは生じないということである。

 国会は、農民大衆に対する影響力を獲得するための自由主義と社会民主主義との闘争の場であった。この闘争において、自由主義は再び致命的な敗北をこうむった。自由主義が人民を誘い込もうとした立憲的協定の基盤は、実は自由主義的夢想家の空想の中にしか存在しないことがわかった。国会の解散は、公然たる革命的衝突の不可避性を物語る、歴史によって与えられた決定的証拠である。自由主義がすでに最近の選挙においてその反革命の表情をかいま見せ、国民の中の「成熟した」層に支持者を求めることを余儀なくされたとすれば、自由主義は今や完全に、人民大衆への働きかけを放棄し、したがって、その歴史的役割を放棄せざるをえないだろう。

 ツァーリの反動派と人民の間に位置するのは、自由主義ではなく、軍隊である。革命は再び先鋭な問題を突きつける。すなわち、農民出身の軍隊の銃剣はどちらの側につくか、である。しかし、農民騒擾と同時に起こった、セヴァストーポリの2隻の戦艦とキエフの工兵部隊における最近の軍隊内の反乱は、事態がどの方向に発展しつつあるかを示している。しかし、軍隊の気分をアンケートによって確かめることはできない。それは、人民大衆の新たな革命的蜂起が勃発したときにのみ明らかになる。来るべき事件の期日と形態を今決めようとするのは、不毛な作業であろう。

 これまで、革命の自然発生的な力は、その創造力とその豊富な手段によって、いつもわれわれを驚かせてきた。革命勢力に活路をもたらしてきたのは、われわれではなく、この自然発生的な力である。闘争の組織形態を指し示してきたのは、われわれではなく、この自然発生的力である。この力が使い尽くされることはなく、ますます強まるだろう。そしてそれは、内部に、これまでよりはるかに大きな闘争手段、課題、可能性を秘めている。われわれが犯しがちな危険は、この力を過大評価することではなく、過小評価することである。

『ノイエ・ツァイト』、1907年6月

『トロツキー研究』第18号より

  訳注

(1)農業立法……有名な「1906年11月9日の勅令」のこと。農民に農村共同体(ミール)からの離脱を認め、強力な独立自営農を育成することで、土地問題を解決しようとした。

(2)ロシア国民同盟……極右の黒百人組の政治組織で、1905年10月に革命勢力と闘争すべく結成され、しばしばユダヤ人虐殺などを実行した。

(3)オクチャブリスト……大資本と大地主の代表者による反動的ブルジョア政党で、自由主義派のカデット(立憲民主党)の右に位置する政党。指導者はグチコフ。

(4)ゲルツェンシュテイン(1859〜1906)……著名な経済学者。当初はユダヤ人であるため国外で教鞭をとった。1903年にモスクワ大学の非常勤講師、1907年にモスクワ農業経済研究所の教授。1905年にモスクワ市議会の議員になり、自由主義の立場から積極的に活動。1906年にモスクワ選挙区から国会議員に。国会では極右勢力を厳しく批判。1906年7月18日にフィンランドで黒百人組によって暗殺される。

(5)ストルイピンの兄弟……当時の首相であったP・A・ストルイピンの兄弟であるA・A・ストルイピンのこと。反動的ジャーナリストで、オクチャブリストの一員。

(6)メンデルスゾーン……ドイツの大銀行家で、ヴィルヘルムと親しかった。

(7)クレマンソー(1841〜1929)……フランス・ブルジョワジーの頭目でフランス急進党の政治家。1902年に上院議員。1906年にない内務大臣として炭鉱ストライキを軍隊によって弾圧。同年6月に首相に就任。1909年まで首相を務めた。

(8)ピエール・モーリス・ルーヴィエ……フランスの穏健派急進党の政治家。1902年の大蔵大臣として入閣。同年より1906年まで首相。仏独接近の支持者。

(9)ロスチャイルド、ナタン(1777-1836)……イギリスの金融王。ドイツ系のユダヤ人。

(10)トルドヴィキとカデットの土地綱領……トルドヴィキの土地綱領は1905年革命の農民の気分を反映しており、買い戻し金なしにすべての土地を農民に引き渡すことを要求していた。カデットの土地綱領は、事態の変化によって絶えず変化し、1905年10月や国会召集前夜においては、私有地の収用を要求していたが、その後反動は2接近し、収用の際は農民が買い戻し金の全額を負担するべきであるとした。

(11)アンドレーエフの「人間の一生」……1908年2月にペテルブルクで上演。非常にペシミスティックで陰うつなトーンで描かれ、病的な神秘主義がないまぜになったこの作品は、反動期におけるインテリゲンツィアの気分を反映していた。

(12)モーリス・メーテルリンク……ベルギーの優れた神秘主義作家で、象徴主義派の才能ある代表者。半ば哲学的で半ば詩的な劇を何本か書いている。当時のロシア・インテリゲンツィアにもてはやされた。

(13)労働組合の協議会……1906年2月23日にペテルブルクで開かれた。ペテルブルク、モスクワ、ハリコフ、オデッサ、キエフなどの10都市の代表が参加。議題として、当時政府が導入しようとしていた法律案(労働組合の活動を著しく制限しようとするもの)の問題と、予定されていた全国大会の準備について議論された。

 

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