イプセン論

トロツキー/訳 中島章利・西島栄・志田昇

イプセン

【解説】本論文は、シベリア流刑中の若きトロツキーが、『東方評論』に執筆した一連の文芸評論の一つである。トロツキーはここで、イプセンの民衆蔑視的な個人主義的ヒロイズムに対してきわめて批判的であり、大衆の判断力に対するきわめて楽観主義的な見解を表明している。(右の写真はイプセン)

 しかし、1930年代に猖獗をきわめるファシズムとスターリニズムという二つの全体主義現象を経験することを通じて、トロツキーはイプセンを再評価しはじめる。とりわけ、ノルウェーに幽閉されていたトロツキーはイプセンの『民衆の敵』を再読する。ストックマン博士が貼られた「民衆の敵=人民の敵」というレッテルこそ、まさにトロツキーがスターリニスト官僚から貼られたレッテルに他ならなかった。

Л.Троцкий, Об Ибсене, Сочинения, Том20, Культура старго мира, Мос-Лен., 1926.


 従僕の目に映った偉大な人物には何の魅力もないと言われている。だが他方では、手元にあるさまざまな文献からたびたび確認できるところでは、偉大な人物と個人的面識のあるということが人を従僕に変えてきたし、現在でも変えているのである。

 ノルウェーの作家ヨーン・パウルソンは、その『回想録』の中で、ヘンリク・イプセンとの関係について語っているが、彼もこの遺憾な規則の例外をなしはしない。たとえば、彼は非常に好意的に、ノルウェーの芸術家である友人の言葉を引用している。この言葉は、この友人がイプセンを訪問した後に述べられたものである。「ええ、たしかに彼は一言も喋りませんでした。でも、私のためにパイプにタバコをつめた時のしぐさや、それを私に勧めた時のまなざしは、それはもう、まったく私を感動させるものでした!」。これ以上の精神的従僕根性を想像することは難しい!

※原注 この『回想録』からの抜粋は、1901年に出版された『神の世界』第3巻のヘンリク・イプセンに関する編で発表されたものであり、これがわれわれにこの「書簡」を書くきっかけとなったのである。

 全体として、パウルソンの『回想録』は、この有名な作家の独自の特徴を解明するうえでごくわずかな材料しか与えていない。パウルソンによって伝えられている事実はまったく取るに足りないものであり、ごく一部が自家製の哲学で味つけされ、圧倒的大部分は「偉大な同胞」に対する精神的従僕根性で味つけされている。しかし、la puls jolis fille de Flance ne peut donner plus que ce qu'elle a (最も美しいフランス娘も、持っているもの以上のものを与えることはできない)ということを心に留めながら、イプセン自身の著作が提供する多くのものに結びつけて、パウルソンが提供するわずかなものを利用するように努めよう。

 「イプセン、われわれの古い理想のすべてを揺さぶったこの偉大な懐疑論者――パウルソンはこのような見せかけだけの感激した調子を惜しまない!――が会話の中で次々と大胆な考えを述べた時、信心深い役人の由緒ある家庭で育ったリー女史(ノルウェーの有名な作家の妻)は、聖書を引用しながら、ときどきそれに反対した」。彼女はどうやら、イプセンを「革命家」とみなしていたようだ。パウルソン自身は、イプセンが革命家であったのは「対話の中、自分の作品の中だけであって、その日常生活の中ではまったくそうではなかった」と断定している。

 本当にイプセンは「革命家」なのだろうか?

 この貴婦人は、イプセンに関して、彼の見解と聖書とを対照させながら自分の意見を述べた。パウルソンは、イプセンの「大胆な考え」に自分自身の道徳と哲学の貧弱な信条を対置しようとした。それに対してわれわれは、イプセンの「革命的」理念を客観的な社会的・歴史的諸条件によって検証しよう。そうすれば、提起された問題に対する解答はおのずから明かとなろう。

ブランデス

 1870年に、イプセンはゲオルグ・ブランデス(1) [右の写真]にこう書き送った。「われわれが現在、糧としているものは、すべての過去の世紀における革命の食卓からこぼれたパンくずばかりですが、この食物は同じことのまったくもう、くだくだとした繰り返しです。諸々の概念は新しい内容と新しい解釈とを必要としています。『自由、平等、友愛』の概念は、忌まわしいギロチンの時代にもっていたような意味をもうだいぶ前から失ってしまいました。このことを政治的革命家たちは理解しようとしませんし、だからこそ私は彼らを憎むのです。これらの紳士諸氏はただ、ある特殊な変革だけを、つまり外面的な変革を望んでいるのです。しかし、これはみなどうでもいいことです。人間精神の変革――これこそが問題なのです!」。さしあたって、ここには、革命的なものはあまりない…。

 パウルソンもまた、以下のことは理解している。「イプセンにとって自由とは空気のようなものだが、彼はそれを公民的な意味においてよりはむしろ私人的な意味において解釈している。実際のところ――と、パウルソンは自分の考えから付け加える――、私個人の自由をつくり出さないとしたら、投票権を持つことに何の意味があるというのか!」。

 個人の自由! 人間精神の革命!…だが、どんな社会的諸条件でも「個人の自由」をつくり出しうるものであろうか。また実際に、「人間精神の変革」は外的諸条件から完全に独立して存在しうるものであろうか。これらの問題に対して、イプセンは答えることができなかった。それどころか、提起することすらできなかった。

 イプセンは社会改革というものをほとんど完全に無視している。党、これは現代の偉大な文化的力であり、それと結びついてはじめて、社会を望ましい方向に持っていくことができるのだ。だが、イプセンは政党に対して孤立した知的貴族の軽蔑的態度をとっている。「政党の綱領は――と、ストックマン博士は言う――生命力ある真理のすべてを台無しにしている」。そしてさらに激しく言う、「政党、これはまったく人々から徐々に理性と良心を吸い上げるポンプだ!」(『民衆の敵』)。イプセンは個人から出発し、個人へと帰っていく。個人的精神の限界内で、彼はあらゆる社会問題を解決し、あるいは解決しようとしている。そして、この伸縮自在の個人的精神を超人的な限界にまで広げている(『ブラン』)。その際彼は、社会の状況に肘ですら触れようとはしない。イプセンはロスメルという人物をかりて、「国のすべての人の精神を解放し、その意志を清めることによって……彼ら全員を精神的貴族にし」たがっている(これは何と明確であることか!)。しかし、この問題においてもロスメルは「人々は外部から高められることはありえない」(『ロスメル・スホルム』)と確信するに至って、自信を失うのである。

 しかし、個人生活においてイプセン自身は、この「大胆な革命家」、この「偉大なマイナス」――と国の同胞は呼んでいる――は、外部から作用している諸条件におとなしく従っている。衒学的なまでの綿密さで、彼はブルジョア世界の日常において、偽善的な礼儀に満ちたしきたりに従っている。彼は、その精神の想像物の中でのみ「気高く自由に」立っているのだ(それでもやはり、パウルソンやイプセン自身が思うほどではない!)。しかし、「ああ、…日常生活の中の俺はそうじゃない」と、彼は自分のことを棟梁ソルネスの口を通して哀しげにこぼしている。この棟梁と同じく、彼は「決断を下すこともなく、……自分が建てる建物ほど高く上ることもできない」のである。

※原注 自発的に亡命し、憤慨して祖国を去ってからも、イプセンが議会に「文学年金」を要求し、それを受け取ろうとしていたという事実は、イプセンという人間を評価するうえでそれなりに意義を有している。実際は、「内部から」の努力、すなわち「精神の変革」だけで「外部から」自らを解放することは、……たとえまさにこの「精神」にとって屈辱的な金銭的依存から解放するだけでも、困難なことなのである!

 そして、ここでの彼の欠点は彼固有の個性ではなくて、その個人主義的な説教、その非社会的道徳、あるいは強いて言えば、非社会的不道徳である。そしてもしこの説教の中にのみイプセンの意義のすべてがあるとしたら、ためらうことなくこう言うことができるだろう。すなわち、彼には何の意義もない、と。

 イプセンは新しい言葉と大胆な思想の偉大な創造者である、イプセンは刷新された人類の預言者である、イプセンは未来の精神的指導者である……そして、この回想録でなおあれこれと称されている人物である。このイプセンには、小市民的環境を生き生きと描きだす偉大な作家としてのイプセンの100分の1の意義も、1000分の1の意義もない。否定の芸術家、「偉大なマイナス」としてのイプセンは、預言する象徴主義者、指導者としてのイプセンよりもはるかに高いところに立っている。そして、そもそもイプセンはこの後者の役割には向いていないのである。「彼の精神生活の中で感情が特別の役割をはたしていることを物語るような熱狂的表現や情熱的な言葉を、かつてイプセンが発したことがあるかどうか、私は思い出すことができない」とパウルソンは書いている。いや、このような人物は指導者ではない。イプセンの「新しい言葉」を、霧につつまれた、かくも多くの人々の心をひきつける象徴的な外観から解き放つならば、これらの新しい言葉は大半が、その新しさも魅力も失ってしまうだろう。当然である。人類の思考がかくも巨大で無尽蔵の遺産や自力で獲得した財産を有している現在、本当に価値のある新しい言葉を言うことができるのは、偉大な先駆者の肩の上に立つ場合だけである。ところがイプセンは、パウルソンの言葉によれば「ほとんど本を読まない。最新の文学作品や哲学思想について、彼は個人的に調べるというという方法をとるよりも、友人たちの対話からより多くの知識を得ていた」。天才的な独学者だが、体系的な教育を受けておらず、一貫した世界観もないので、彼は他人の成果に対して的外れの侮蔑的態度をとっていたのである。

※原注 パウルソンは言う、「私は彼の作品をよく知っていた。それらを読み、また何度も読み直したが、いつもその秘められた深さを見抜くことができたわけではない。……意味不明の箇所に頭を悩ませながら……何と多くの日曜日を過ごしたことだろう」……芸術作品に対する関係は、判じ絵か黙示に対するように、何と不可思議なものであることか!

 イプセンに似た精神を持った独学者の棟梁、すなわちすでに引用した戯曲の主人公はヒルデに、本を読むかどうか尋ねている。ヒルデ:いいえ。全然、読まないわ……もう。だって意味がないんですもの。ソルネス:まるでそっくりだ。俺のようだよ(『棟梁ソルネス』)。書物に対するこうした侮蔑的態度、とりわけ書物に接してこなかったという事実が――繰り返すが――イプセンの創作活動に何の痕跡も残さないわけがなかった。つまり彼は、与えることができたかもしれない多くのものを与えなかったのだ。だが、彼の滞納金は免除して、彼が与えたものについて少し話すことにしよう。そして彼がいかなる資料に依っていたか考えてみよう。何しろ彼は多くのものを与え、細心の注意に値する資料に取り組んでいたのだから。

 イプセンの主人公の何の変哲もない個人的ドラマは、どのような社会環境のもとで起こっているのだろうか。

 それは、穏やかで、静止した、同一の形のまま動かない、ノルウェーの小さな田舎町の生活である。そして、そこに住むのは、すこぶる道徳的で礼儀正しく、すこぶる立派で信心深い中流の小市民である。

 おお! この穏やかな田舎町の礼儀正しさは、偉大な劇作家の心中に苦い幻滅感を残した。そして、ミュンヘンを見たパウルソンが思わずもらした「なんて巨大な都市なんだ!」という嘆声にイプセンが答える時、彼という人間がはっきりとわかるであろう。イプセンは悔しそうにこう言うのだ。「小さなところじゃ生きられないのさ!」。

 あそこには、つまりこの大きな商工業的・知的中心地には、より多くの空間と空気が存在し、しきたりがより少ない。そして、肝心なことには、こちらの小ブルジョア的な町に特有な道徳と礼儀正しさがより少ない。すなわち、粗悪なランプのすすのように息苦しく、濃い砂糖シロップのようにねばねばべとべとして、空気のようにあらゆる隙間に浸透し、すべての諸関係――家族関係、親戚関係、恋愛関係、友人関係――にしみ込んでいるような道徳と礼儀正しさが、より少ないのである…。

 事なかれ主義や幾世紀にもわたる因循に骨の髄まで侵された田舎の小市民は、新たに導入されるものすべてを恐れている。新しい鉄道は、この小市民に将来を不安の目で見ることを余儀なくさせるだろう。まったく、鉄道ができるまでは「ここは本当に静かで平穏でしたのに!」とベルニック夫人は愚痴をこぼしている(『社会の支柱』)。鉄道がこんな風なのだから、新しい思想もまったくひどいものだ、それに、それらは社会にとって何の役に立つというのか、「社会にとっては、すでにすべての人々から認められた古き良きものでまったく十分だ」(『民衆の敵』)というわけだ。

 新しいものが大嫌いなので、小市民はまた、いかなる独創性も、いかなる自主性も、単なる独自性すらも我慢できない。彼らは、これらの性質のどんなわずかな現われも容赦なく押しつぶす。「お前には――と、小市民が市長の口をかりてストックマンに説教する――常に自分で自分の道を切り開こうとする情熱がある。だがこれは、きちんと整備された社会ではほとんど許されないことだ。個々人は全体に従わなければならんのだよ」……。

 幾万の人々を抑圧している産業領主や取引所の君主と立法者たち、世界市場を「震撼」させる巨人、要するに現代の商工業世界における全能の独裁者たちは、自分の力をはっきりと自覚しているがゆえに、実生活と人々に対するその実際の関係をカムフラージュしたりしないのに対し、中ブルジョアジーは、反対に、これらの諸関係が剥出しであることに我慢ならず、自分が成し遂げたことを直視することもできない。自らが動かしているブルジョア機構のもろもろの構成部分間に生じるあつれきが、中ブルジョアジーをおびやかすからである。そして中ブルジョアジーは悪臭ふんぷんたる偽善的なセンチメンタリズムを潤滑油に使って、このあつれきを和らげようとしているのだ。不道徳的な大いなる世界の中では、「人間の生涯にどんな価値があるというのか――と中学教師ロェルルンが重々しく問う。この人物は、地方社会の良心を具現している――そこでは、人間の生涯は資本と同じように扱われている。しかし何といってもわれわれは、あえてそう考えるのだが、まったく別の道徳的観点に立っているのだ」(『社会の支柱』)。いかにも!……

 社会の上層階級と下層階級との境界線に立ちながら、中小ブルジョアジーはこれらの下層階級に喜んでもたれかかり、民衆の名において語るのだが、すべてこれは、言うまでもなく、真面目に行なわれてはいない。

 けれども、自治の方法による民衆の政治教育について、あなたは考えてみようともしなかったではないか?――と、編集者のホヴスタは印刷工場主のアスラクセンに問いつめる。

 ホヴスタさん、人が一定の物質的安定に達してしまい、それらを守らなければならない時、何も考えることができなくなるんですよ、と、「人生という学校」の経験豊かな印刷工場主は度外れた率直さで答えている(『民衆の敵』)。

 総じて、アスラクセンからは多くのことを学ぶことができる。彼のモットーは「中庸は市民の第一の美徳」である。彼の個性は完全に社会的類型の中に埋もれてしまっている。彼の力強さは「がっちりと結束した多数派」のものであり、彼はまさしく、この結束した多数派の名において、「小所有者」の名において、家屋所有者の名において、語っているのである…。

 アスラクセンを動かしている偽善的・自由主義的で穏健な原理はあらゆる小ブルジョアに浸透している。これが新しいもの、独創的なもの、「無作法なもの」に対する憎悪にもかかわらず、小ブルジョア層に、露骨な抑圧手段を極力避けさせる。とにかく、「無理強いして、自由にさせない」というムィムレツォフ的(2)原理は小ブルジョア的日常生活から取り除かれるのである。

 小ブルジョアは他に劣らず実際的なのだが、あまり直接的な行動には訴えない。異なる政治的環境の中でならば、ストックマン博士は「社会の敵」として暴力的に孤立させられたであろう。文化的な小ブルジョアは違うやり方をする。彼らは自分の敵をボイコットする。彼らは敵を勤め先から解雇する(雇用者と被雇用者は「自由」な関係である)。彼らは敵を住居から追い出し、敵の娘から教職を奪い、敵の息子たちを放校にし、その上、たまたま集会のため自分の住居をストックマンに貸した人物に仕事を与えないのである。「鞭も持たずに」小ブルジョアは確実に目的を達成する。小ブルジョアは、自分の敵をどこか「遠方の地」に追放してしまうのとほとんど同じくらい、確実に自分の敵を孤立させるのである。

 コスモポリタン的なタイプのブルジョアは神を信じない――少なくともつい最近まではそうだった――が、田舎の小ブルジョアは、宗教の側からの庇護をあてにしつつ、宗教を擁護する必要があると考えるのが常である。イプセンの数多くの戯曲のなかで牧師は重要な位置を占めている。秘密の暴露を恐れて自分を守るだけのために、沈没しかけた船に乗せて「友」を出港させるという恥ずべき行為の準備をしながら、ベルニック領事は……宗教に慰めを求めている。そして、慰めを見いだしていると言わなければならない。中学教師ロェルルンは彼にこう言っている。むろん宗教の名においてだ。「親愛なる領事殿、あなたはあまりにも良心的すぎますよ。神の御加護をあてにされたらと私は思うんですがね…」(『社会の支柱』)。

 あらゆる多種多様な、そしてしばしば互いに矛盾する小ブルジョア的諸「契機」が相対的安定を維持しているのは、人々を結束させる「イデオロギー的な」特効薬、すなわち偽善のおかげである。恋人よりも持参金を選び、おまけに、無慈悲に不幸な歌手を捨て――その後この歌手は夫から放り出され、赤貧のうちに死んだ――自分の財政状態を改善するために友に対する中傷に手を貸し、自分の安泰を動かぬものにするためにこの友を海に沈める用意のあるような人物、すなわち一言で言えば、「社会の支柱」としてすでにわれわれにおなじみのベルニック領事が何と言っているのか聞いてみよう。彼は言う。「おお、何といっても家庭こそ社会の基盤ですからな。居心地のよい家庭、立派で誠実な友人たち、こじんまりとした会員制のクラブ、そういうところへは妨害分子が入りこむ余地がありませんからな」…。肝心なことは、もちろん、「妨害分子」が存在しないようにということである。

 この神聖な小ブルジョア的「家庭」がいかなるものであるかは、よく知られている。ある作家は作品中の小ブルジョアにたくみに次のような台詞をしゃべらせている。「私の家は私の要塞だ。そして私はその要塞の司令官なのだ!」。パウルソンによれば、イプセン自身が非常にしばしば「夫は長であり主人であり妻はその最も柔順なしもべでなければならないというパウロの厳格な言葉に、著書のなかでも説教のなかでもかかわりをもつことになった」。小ブルジョア的な多数派の卑俗な言動とたたかう孤独な闘士であるストックマン博士のような例外的な人物でさえ、自分の妻にたいして次のようにいかにも小ブルジョアらしい卑俗な言動をはくのである。「何て馬鹿な、カトリーネ! さっさと帰って、家のことをやれ。社会のことについての心配は私にまかせておくんだ」。

 もちろん、家庭にたいする敬虔な崇拝が、まるでこれを補完するかのような徹底した放蕩――もちろん、よそでだ――と平和的に共存するのは言うまでもないことである。画家オスヴァルが牧師にいう。「あなたは、いつどこで私が芸術家仲間の不道徳なふるまいを見たかを知っているんですか。それは、模範的な父であり夫であるわが同胞のある人物が新しい社会秩序を見るために、そこ(パリ)へ到着したときに起こったのです……。この紳士諸兄はわれわれ(画家たち)に、われわれが夢想だにしなかったような場所や事情について語ったんですよ」(『幽霊』)。

 パウルソンが伝える興味深い逸話を引用して、ノルウェーの田舎の大雑把な特徴づけをしめくくることにしよう。

 あるノルウェーの小都市の劇場に無名の女性歌手が出演していた。気取った小ブルジョアの観客は、感動したくせに、彼女に拍手する決心がつかなかった。誰もが自分の個人的な印象が大方の印象と一致しないことを恐れていたのだ。そして、この道の権威として定評のある詩人のウェルハーヴェンの動きを、みな目を皿のようにして見守っていた。ところが、彼は観客をからかってまったく動かずに座っていた。しかし、ウェルハーヴェンが拍手しようとして少し手をあげると、ホール全体に拍手が鳴り響いた。「観客は自分の印象を信用して感動を外に出してもよいという合図を出されたのだ!」。

 以上のような重苦しく息のつまる社会的雰囲気は、健康な人間の肺臓には耐えがたいものである。

 こうした環境の中で強烈な独創性や広い関心を授かって生まれた人は大変である。このような人は完全な孤独のうちに滅ぶ運命にある。ギュイ・ド・モーパッサン(3)は次のように言っている。「われわれの大いなる苦悩は、われわれがいつも孤独であり、われわれの全努力と全活動がこの孤独から逃れるためのものにすぎないところにある」(『孤独』)。気難しいノルウェー人[イプセン]はこれに反対して次のように述べた。「一番強い人間とは実生活の舞台の上にたった一人で立っている人間なのだ」(イプセン『民衆の敵』)。

 この対立は、小ブルジョア性に対する憎しみが出発点になっている点でよく似たこの2人の作家の創造活動全体を貫いている。

 フランスの腐敗した小ブルジョア社会を描く病的な詩人であるモーパッサンの悲しげなうめき声の基調が孤独感であるのに対し、イプセンの戯曲の大部分は、反対に、「社会的舞台の上に一人で立っている人間」の名誉をたたえる厳粛で熱狂的な賛歌になっている。

 小ブルジョア的没個性と偽善的臆病に満ちた社会の中で、イプセンは「一番やりたいことを敢行するような健全な良心に輝く」(『棟梁ソルネス』)個人的エネルギーに対する崇拝を作り出そうとしている。

 孤立した誇り高い人々に対するイプセンの崇拝は、時には、まったく不快な形をとる。世間知らずな学者であるストックマンと金融的冒険家ボルクマンを、彼は平気で同列におく。著者はけっして皮肉をこめてボルクマンに次のような台詞をしゃべらせているのではない。「これこそがわれわれ選ばれた特別の人間の上にのしかかっている災いだ。群衆、大衆……この凡人たちはみんなわれわれを理解しないのだ」(『ヨーン・ガブリエル・ボルクマン』)。

 他のすべての力と同様に道徳的力が大きさによってだけではなく、その活用や方向の点によっても規定されるということは、イプセンにはどうでもよいのである。だが、思想の分野の働き手であるイプセンの特徴は、自分の特別の共感はやはり知的な人々に向けられているということである。真実と自由の最も危険な敵は誰か。彼は、ストックマン博士の名において、こうたずねる。「それは結束した多数派、いまわしい自由主義的多数派だ」。最も破滅的な偽りとはいかなるものか。それは「不完全で教養のない群衆が、少数の真の精神的貴族と同じように判断し、管理し、支配する権利をもつという教義だ」(『民衆の敵』)。

 ストックマン博士の「偉大な発見」の結論はこのようなものである。

 この結論に何の社会的価値もないことを証明する必要があるだろうか。少数の「真の精神的貴族が判断し、管理し、支配する」社会機構とはいかなるものか。そして、いかなる権威が「真の貴族」を「にせの貴族」から区別するのだろうか。

 もし、何らかの科学的理論や哲学体系の正しさという問題の解決のために「群衆」が召集されるのであれば、「結束した多数派」の判断能力に侮辱的な評価を下したストックマン=イプセンの意見はまったく正しいであろう。生物学上の問題に関するダーウィンの意見は10万人集まった大衆集会の集団的意見より10万倍も重要である。

 しかし、深刻な敵対関係にある利害が錯綜している社会的実践の分野では、問題はまったく違ってくる。そこで問題になっているのは科学的真理あるいは哲学的真理の確立ではなく、様々な方向に分岐している社会的諸勢力間の不断の妥協なのである。この分野では多数派による少数派の抑圧は、もしそれが社会的諸勢力の実際の力関係に合致するものであり、人為的手段によって一時的に引き起こされるものでないならば、暗がりにまぎれて頻繁に行われている少数派による多数派の抑圧よりもはるかに優れている。

 もちろん、社会問題をこうした算術的で数量的なやり方によって解決することは、社会的連帯の理想ではない。しかし、社会は敵対しあう諸集団に分割されている間は、少数派に対する多数派の優位は深い生きた意味を少しも失っていない。そして、結束した多数派の「平民精神」を不服として、少数の選ばれた者たちの「精神的貴族主義」へ上告したとしても、実生活という最高裁判所からは「得るところなく」放置されるであろう。

引用された戯曲(『民衆の敵』)には、イプセンの作品の二つの主要な特徴が非常によくあらわれている。すなわち、現実の天才的な具象的表現と積極的な理想のための方策の完全な欠如とである。

 戯曲の全編をとおして、読者は、きわめて生き生きとした関心をもって、都市の排水設備という外見上は純粋に技術的な問題が、どのように市の住民たちの財産上の関係に絡んで、党派のグループ分けを生み出し、ストックマン博士を水質の化学的調査から社会環境の分析へ進ませるのかを見守る。読者は息をひそめて、誠実な学者の胸のうちに野党的な気分が高まるのを見る。そして結局、読者は「精神的な貴族主義」とかいうなかみの貧弱な説教の前で立ち止まり、いまいましく幻滅し、腹立たしく当惑するのである。

 ああ! われわれはこれまでこの種の高尚な説教を何とさまざまな方面から、詩人からばかりでなく経済学者や社会学者からも聞かされてきたし、今も聞かされていることか…。

グスタフ・シュモラー

 たとえば、シュモラー教授(4) [右の写真]は、周知のように、社会改革を擁護する。すなわち、彼は労働者の諸要求を満たすことを希望している。しかし、すべての要求をだろうか。いや、ちがう! よろしいかな、「正当な」要求と「不当な」要求とがあるのですぞ。エゴイスティックな階級的要求は教授らしい公正さからはまったくかけ離れている。公正な利益とは階級的利益ではなく階級にかかわりのない、階級を越えた、超階級的な利益である。階級的利益の基礎には粗野な経済がある。つまり、階級をこえた公正な利益は「配分的正義」(verteilende Gerechtigkeit)という倫理的・法的原則の上にそびえ立っているのである。階級的要求には近づきがたいこの原理は次のようなものである。すなわち、物質的な富と名誉の分配は人々の精神的特性に合致しなければならない。したがって、収入は徳に応じて分配されなくてはならない(シュモラー氏よ、これは危険だ!)か、あるいは高収入を得ている人々の徳が財産に応じた比率で高められなくてはならない(シュモラー氏よ、これは実現不可能というものだ!)というわけである。

 したがって、もし、シュモラー教授が自由業や官吏の代表者(もちろん、大学の講壇の貴族もこれに含まれる)を「教養と精神の貴族」というこの原理の担い手にしなかったならば、「配分的正義」という原理、この俗物的深謀遠慮の立派な果実には、相当に危険な面があることがわかったであろう。しかし、そうしてしまったからには、万事うまくいっているのだ。物質的生産の過程に参加しており、その結果、エゴイステイックな階級的利益の担い手となっている諸階級は、最終的に、普遍的原理から排除されるのである。この公正さの生来の担い手[貴族]が物質的生産よりも高等なのと同じだけ、物質的生産にたずさわる諸階級は、「配分的正義」よりも下等なのである。

 もし、大学教育と教授的・官僚的精神の「貴族たち」が同業組合的な利害をもっていないならば、シュモラー教授の貴族主義的精神の果実は、社会的肉体を本当にもたない超階級的理論となるであろう…。しかし…。

 しかし、「配分的正義」は「教養と精神の貴族」に安定した食いぶちを提供するものであるから、この貴族は、物質的生産から最終的に引き離され、まさにそのことによって、物質的労働の階級[労働者階級]に安定した食いぶちを保障するために行動するのである。すなわち、「配分的正義」の原理は、教授的・官僚的な同業組合的欲望のむき出しの恥部を稚拙に隠すいちじくの葉になっているのである。

ルドルフ・シュタムラー

 もう一人の「教養と精神の貴族」であるシュタムラー教授(5) [左の写真]もまた自分の仲間と張り合いながら、「諸般の事情によって生み出されたにすぎない純粋に主観的な衝動によって引き起こされた社会的欲求」をこえて、「客観的に根拠づけられ、客観的観点から是認された社会的欲求の高みにまで」のぼろうとしている。この御立派な目的のために、貴族シュタムラーは、あらゆる社会的判断のうちで最高の見地であり、「経験的な社会状態や期待される社会状態が客観的に是認されるかどうか」をそれにもとづいて解決しうる形式的理念である「〔欲望から〕自由な意志をもつ人々の社会」という理想で武装している。

 この瞬間からシュタムラー教授はすでに階級を超越している。すなわち、歴史は、客観性を専売特許とする普遍的理想を武器として、「諸般の事情によって生みだされ社会的欲求」に対して厳しい判決を下し情け容赦ない制裁を加えるために、シュタムラーを日常生活の闘いの気苦労から解放し、彼を「自由な意志をもつ人間」として裁判官席にすわらせるというわけである。

 シュタムラー教授は、物質的生産という粗野な過程に参加するために自分の教授の講壇から立ち上がる必要はない。講壇こそ裁判官席なのである。それゆえに、もし(おお、何と素敵な空想だろう!)シュタムラー教授がシュモラー教授といっしょに、知識人によって物質的分配の過程を管理する使命を与えられるならば、次のように受け合うことができる。「自由な意志をもつ人間」であるシュタムラー教授と「教養と精神の貴族」であるシュモラー教授は連帯責任で厳しく行動し、その結果、「諸般の事情によって生みだされた社会的欲求」の担い手や「倫理的・法的原理」という堅固な地盤を欠いたエゴイスティックな階級的利益の代弁者は、シュタムラー的客観主義とシュモラー的徳が欠けているという理由で、しかるべき罰を受けることになるだろう。

 いや、「判断し、管理し、支配する」ことをまかされる精神的貴族の同業組合などから救助を待つ必要はないのである。

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 さて、われわれはイプセンの戯曲に登場する女性たちに言及する必要がある。というのは、多くの人々が、イプセンに「女性をたたえる詩人」という社会的称号をよろこんで捧げてさえいるからである。そして実際に、イプセンは彼の戯曲のなかでバラエティに富んだ女性の登場人物を描写することに多くの注意を払っている。

 エリーダ(『海の夫人』)のうちに、部分的にはマルタ(『社会の支柱』)のうちに、行き詰まった生活からの想像上の断絶――そこでは「空はもっと広く……雲はもっと高く流れ……空気はもっと自由だ……」――が具象的に表現されており、この断絶は、その最高段階では「あらゆる礼儀作法の横っ面をひっぱたく」という願望へと移行し、祖国との断絶に直面してさえ止まらず(『社会の支柱』におけるローナとディーナ)、あるいは夫や子供との別離に直面してさえ止まらないのである(ノラ)。イプセンの戯曲の自己犠牲的な女性が次々とわれわれの眼前に浮かぶ。彼女たちはいつも誰かのために生きており、けっして自分のために生きてはいない(『ヘッダ・ガブレル』)における叔母ユリアーネ、『人形の家』のリンデ夫人)。彼女たちは妻や母親の義務の惨めな奴隷(『幽霊』におけるヘレーネ・アルヴィング)であり、カーヤ・フォスリ(『棟梁ソルネス』)あるいはエルヴステード夫人(『ヘッダ・ガブレル』)のような柔和で、病的に繊細な、優しく意志の弱い女性であり、さらには、精神がゆがみ、神経のたかぶったデカダン女のヘッダ・ガブレルのような世紀末(fin de siecle)風の女性である。

 心理状態の全ての色合い、精神的気分の全音階!……。しかし、それでもやはり、われわれはA・ヴェセロフスキー氏といっしょになって、まるで「そのなかに生活のすべてのニュアンスや、同時代の女性たちのすべての欲求や希望やすべての弱点がある」かのように言うことはできない。いや、イプセンにはこの分野にこそ大きな空白がある。

 最近数十年間の現実は、個人の尊厳の意識に目覚めたために夫と離婚したノラだけではなく、自分の力を女性解放の熱烈な闘いに捧げたその後のノラよりも格段に進んだ新しい女性を押し出した。

 この新しい女性は、特権階級の女性の地位に関する問題以上に、社会問題を、すなわち女性の男性への隷属だけでなく一般に人間の人間に対する隷属が起こりえないような社会形態を実現する問題を重視している。夫と手をたずさえて新しい女性は、夫や兄弟や息子の激励者という古い役割においてではなく、彼らと対等な、闘争の同志として、現代の最良の理想の実現のために闘っているのである。このような女性をイプセンは知らなかった。

※  ※  ※

 イプセンの象徴的意義に対する神秘的信仰の時代も、マックス・ノルダウ(6)※が得意としたような、この偉大なノルウェー人[イプセン]に対する恥知らずな「批判的」「生理学的」悪罵やその他の悪罵の時代も今ではすでに過ぎ去った。

※原注 さまざまな病気の経過についてイプセンが誤った描写をしたことに関する医師ノルダウの指摘は、もちろん、有効性を失っていない。餅屋が本当に餅屋だったならばだが。

 きちんと髪をとかしつけて自己満足しきった小ブルジョアのきれいに洗いあげられた面に、イプセンが誠に痛快な平手打ちを加えたことを、ヨーロッパの社会的意識の歴史はけっして忘れないだろう。たとえイプセンが未来への理想を説かなかったとしても、たとえ彼の現在に対する批評が必ずしも適切な観点に基づいていたわけではなかったとしても、彼はそれでもやはり天才的な腕前でわれわれの前に小ブルジョアの精神を暴露し、小ブルジョア的礼儀正しさと折り目正しさの基礎にどれほど多くの内面的な下劣さがあるかを、示した。彼の創造活動の最良の時期に作り出された小ブルジョアの比類ない形象に見入るとき、思わず、次のような考えが頭に浮かぶのである。すなわち、いくつかの箇所でほんの少しばかり筆を力強くはこび、2、3のあまりめだたない特徴を付け加えるべきであった。そうすれば、最高のリアリズムの社会的典型は深い社会的風刺となったであろう。

『東方評論』121、122、126号

1901年6月3、4、9日

『トロツキー研究』第9、10号より

  訳注

(1)ブランデス、ゲオルグ(1842-1927)……デンマークの文芸評論家。最初キルケーゴールの影響を受けたが、J・S・ミルやH・スペンサーなどと交わって、戦闘的無神論の立場に。当時隆盛だったロマン主義を批判して、自然主義リアリズムを提唱。『キルケゴール』『シェークスピア』『ゲーテ』など多くの伝記を書いた。

(2)ムィムィレツォフ……グレープ・ウスペンスキーの小説『見張り小屋』の登場人物。

(3)モーパッサン、アンリ・ルネ・アルベール・ギュイ・ド(1850-1893)……フランスの小説家。自然主義文学の代表者。『女の一生』『ピエールとジャン』など。

(4)シュモラー、グスタフ(1838-1917)……ドイツの新歴史学派の経済学者。古典学派の自由主義を批判し、経済学の中に倫理的価値判断を入れるよう主張。階級的矛盾の緩和のために社会経済改革を要求。社会政策学会の創立に参加。『法および国民経済の根本問題』など。

(5)シュタムラー、ルドルフ(1856-1938)……ドイツの法哲学者。「純粋法学」と称し、カントの規範哲学にもとづいて、法理論を構築。『法と経済』『法哲学講義』など。

(6)ノルダウ、マックス(1849-1923)……ハンガリー生まれのドイツの作家で、シオニズム運動の指導者。

 

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