民族闘争とプロレタリアートの統一
トロツキー/訳 西島栄
【解説】この論文は、トロツキーが編集発行していた労働者大衆新聞ウィーン『プラウダ』に掲載された論文で、民族問題に対する革命党の原則的な立場についてわかりやすく説明している。ウィーン『プラウダ』は労働者向けの政治的大衆新聞だったので、そこに掲載されているトロツキーの論文も、労働者にもわかるようわかりやすい表現で書かれており、今日においても政治的学習教材として有用である。
この論文の中でトロツキーは、支配的な民族ブルジョアジーが民族自決はおろか、一国内での民族的同権すら認めていないし、それを実現することもできないことを明らかにしており、民族的同権や民族自決というブルジョア民主主義的課題さえ、プロレタリアートの両肩にかかっていることを明らかにしている。また、もう一つ重要なのは、ユダヤ人ブントをめぐる問題についてのトロツキーの見解である。1903年のロシア社会民主労働党の第2回大会において、党の組織形態をめぐって、ユダヤ人ブントと『イスクラ』派が分裂した。このときトロツキーは、党内での自決権を求めるユダヤ人ブントの要求を厳しく拒否する側の先頭に立った。トロツキーは自らユダヤ人であったがゆえに、よけいに、ユダヤ人ブントの要求を厳しく拒否したのである。しかし、この論文では、組織形態をめぐる対立よりもプロレタリアートの統一の方が重要であるという立場を表明している。
Л.Троцкий,Национальная борьба и единство пролетариата, Правда, No.8, 1909.2.8.
第3国会は、その活動の中で一連の大問題にぶつかった今になってようやく、その見るも無残な無力ぶりを全面的に露わにした。
農民の土地開発――だが、貴族の土地所有者万歳!
平等な裁判――だが、地主の治安判事万歳!
人格の不可侵――だが、憲兵隊が拡張される場合のみ。そしてさらに、「人格」のパスポートの中にヨーロッパ起源の記載事項がないならば。民族問題において、国会は、他のどの場合にもまして、崩壊期における専制の後継者としてふるまっている。
奸計と抑圧によって統一を維持しているこの巨大な国において、発展途上にある資本主義の渦中に巻き込まれつつある100以上の民族が隣り合って暮らしているこの国において、ツァーリ権力は、その自己保存のための闘争において自分にできることは何でも実行し、民族的迫害に対する大衆の民主主義的・革命的・階級的闘争を混乱させ紛糾させ分裂させ弱体化させようとしてきた。カフカースでは、政府は、無知で狂信的なタタール人を革命的プロレタリアートと反対派のアルメニア人小ブルジョアジーにけしかけてきた。バルト沿岸地方では、長期にわたって、ラトビア人の農民を、政府には無力に思えた地主、すなわちドイツ人の男爵に対して反逆するよう仕向けてきた。西方の諸県では、白ロシア人とウクライナ人の農民をポーランド人地主に反抗させた。フィンランドでは、たった今、フィンランド人労働者を自由主義的スウェーデン人ブルジョアジーへの反抗に目覚めさせたところである。いたる所で、政府は、人民大衆をユダヤ人に対してけしかけてきた。その目的は、ポーランド人が反乱を起こした時に、蜂起したポーランド人貴族と闘争するためユダヤ人に愛想をふりまいて彼らの助けを得ようとした時とまったく同じである。こうして政府は、汚らしい社会的デマゴギーを、忌まわしい民族的迫害に結びつけたのである。
しかし、大衆を立ち上がらせることは常に支配者にとっては危険なことである。労働者のズバトフ主義は強力なストライキ運動の中に溶解してしまった。農民闘争は土地蜂起に発展し、中でもラトビア人の農民は最も戦闘的な部隊の一つであった。フィンランドの労働者は完全に社会民主党の隊列に入った。その代わり他方では、専制政府の昨日の敵が専制政府の今日の友になった。古くからの貴族が反革命組織に団結する一方で、バルト海沿岸のドイツ人男爵は派遣軍と一緒になってラトビア人農民を銃殺・絞首刑にし、ポーランド民族主義者は革命家と労働者を殺害している。民族派や「独立ポーランド」党は、第3国会の時点ですでに「大ロシア」のスローガンを支持した。カフカースの無知なペルシャ人・タタール人大衆や以前のアルメニア人ポグロム集団が意識的な生活に目覚めつつある一方で、アルメニア人ブルジョアジーはすべてのインテリゲンツィヤとともに秩序の陣営に移りつつある。ユダヤ人ブルジョアジーの代表者たちがグロドノ
[ベロルシア共和国の北西部の河港都市]で開催した11月の大会において、日常的な「実務」のために広範な政治的「理想」を放棄する必要性を宣言した。最後に、フィンランド・ブルジョアジーは、フィンランドの運命を決するこの現時点において、フィンランド・プロレタリアートに対する確かな防御力としてのツァーリズムにあらゆる譲歩を行なう用意があると表明している。[1905年]革命が成し遂げた巨大な仕事――それは、政治的無知から数百万の労働者大衆が陥っていた精神的奴隷状態を掘りくずし、地方的・労働組合的・民族的な視野と偏見を乗り越えさせ、彼らの中に潜んでいる革命的力を自覚させ発揮させた――は、まさに、ブルジョアジーと地主のさまざまな民族グループ、ほんの昨日まで反対派的、自由主義的、急進的、分離主義的、革命的だったこれらのグループを、中央集権化された強力な国家権力という一つの熱望へと近づけたのである。
しかし、ロシアのあらゆる民族のブルジョアジーが、民族自治ないし民族独立という広範な要求をごみ箱に投げ捨て、どんなに高くついてもツァーリズムの保護を求めることに同意した時に、ツァーリズムは再びブルジョアジーの中に民族的分裂を持ち込んだ。徹底した改革によってブルジョア的発展の要求を満たすことはツァーリズムには不可能であるし、ブルジョアジー自身もそれを何よりも恐れている。ツアーリズムに残されているのは、ブルジョアジーを分裂させて、そのうちの特権的部分を選び出し、残りの部分を犠牲にして特権的部分を保護し、それに依拠することだけである。ロシア人のためのロシア! これこそ、反革命の国内政治におけるスローガンである。「民族的」大ロシア資本のために貧困な国内市場をできるだけ保護すること、ユダヤ人ブルジョアジーをありとあらゆる規制の束縛のもとに置いておくこと、ポーランド資本を国家注文の分配から除外すること、官僚・裁判官・将校のポストをもっぱらロシア人貴族および大ロシア人ブルジョアジーの子弟にのみ開くこと――これは、ロシア人貴族と大ロシア人ブルジョアジーをストルイピン的国家秩序にますます堅く結びつけることを意味する。ロシア人のためのロシア! しかしながら、この理念は今や、オクチャブリストにとっても、最近結成された民族諸政党にとっても、極右のポグロム的・坊主的・警察的同盟にとっても、生きる糧となっている。それゆえ、カデットのロジチェフの演説が国会であれほど惨めかつ無力に響いたのである。彼は、万人の同等性の名においてユダヤ人の同権を要求し、区警察署長の再教育を訴えた。こうした訴えは、カデット党自身が、万人の同等性を表明してユダヤ人ブルジョアジーの票をかき集める一方で、スラブ主義の民族主義的説教を行ない、ストルーヴェとその相棒を代表者とするカデット党右派が公然と反ユダヤ主義に転落しただけに、なおさら無力である。
民族主義と排外主義――対外政策においても国内政策においても! これが今やロシアのすべての支配勢力と有産者――陛下の「責任ある野党」から陛下の無責任なポグロム集団に至るまで――にとって生きる糧であり生きる源なのである。
ここからどのような結論が導きだされるだろうか?
支配民族のブルジョアジーは民族的同権など望んではいないということ、被抑圧民族のブルジョアジーは同権のための闘争を遂行することができないということ、ロシアに住むすべての民族のために生存と発展の自由な諸条件を創出するべきものとしての民族問題は、そのすべての重みがプロレタリアートの肩にかかっているということである。諸君に、ロシアの労働者の肩に!
このモンスターのような国家を建設したのはプロレタリアートではない。彼らはこの国家に対していかなる責任も負っていない。彼らは、自由主義と違って、「大ロシア」に対するいかなる義務も負っていない。ロシア帝国は、労働者にとって、歴史が彼らに課した外的な枷であり、それと同時に彼らの階級闘争の舞台である。われわれはここに、この、犯罪で満ち満ちた土壌の上に立っているが、われわれがそれをつくったわけでも、選んだわけでもない。それは峻厳な事実としてわれわれに与えられたものである。われわれはそこから血と汚物とを取りのぞき、それを諸民族の平和的共生に適した土壌にしたいと思っている。
これは巨大な課題であるが、プロレタリアートはその巨大さにひるみはしない。なぜなら民族問題はプロレタリアートにとって、その一般的な歴史的課題の一部にすぎないからである。民族的抑圧は労働者にとって、いつでもどこでも階級的抑圧と化し、諸民族に対するあらゆる暴力は、最初の最も苛酷な傷を労働者に与えるからである。このことを感じ理解し、そして日々改めてこのことを確信しているのは、ユダヤ人、ポーランド人、ラトビア人、ウクライナ人、グルジア人の労働者だけではない。ロシア人の労働者もまたそうである。なぜなら、「異民族」としてのユダヤ人やポーランド人を抑圧し苦しめているのと同じ政府と手段とが、労働者としての諸君を苦しめ抑圧しているからである。
革命はブルジョアジーに民族的憎悪と民族的嫉妬の呪いを遺したが、われわれには、プロレタリア的な闘争課題と闘争方法の統一を遺してくれた。革命の火の中で、ロシア社会民主労働党はその枠の中にポーランド・ラトビア社会民主党、ウクライナ同盟(「スピルカ」)、全ユダヤ人労働者同盟(「ブント」)を包含した。われわれの隊列の中では、民族諸組織の統一に最も適した形態は何であるかをめぐる論争が少なからず闘わされたし(こうした論争は、おそらく、これからも一度ならず起こるだろう)、1903年には、ブントがこの問題における意見の相違から党を飛び出したこともあった。しかし、革命の時期には、両側から、すなわち党とブントの側からお互いにこう語ったのである。何らかの組織形態がよりよく、別の形態はより悪いこともあろう。だが、どんな組織形態の問題よりも重要なのは、階級的諸組織を統一する必要性である。われわれは、この、人種、民族、宗教、言語の違いを越えたプロレタリアートの統一を、反動政党の民族主義的迫害とポグロムの唱導とに対置する。この統一にこそ、われわれの勝利の保障があるのだ。
ウィーン『プラウダ』第8号
1909年12月8日
『トロツキー研究』第30号より
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