総括と展望

パルヴス/訳 西島栄

【解説】本稿は、1905年の「血の日曜日事件」の直後にメンシェヴィキの機関紙『イスクラ』に寄稿されたパルヴスの論文であり、この事件後の革命の展望を明らかにしている。パルヴスはこの論文の中で、この事件をきっかけに自由主義の時代が終わりプロレタリアートを中心とする革命闘争の時代が始まったと述べ、革命派の課題として「革命を組織せよ」というスローガンを打ち出し、人民の武装蜂起に向けた準備をするよう訴えた。

 「革命が部分的とはいえすでに勝利していて政府に譲歩を余儀なくさせているのか、はたまた革命は再び開始され勝利を収めるのか、いずれにせよ、決定的な勝利を獲得するためには、革命は組織されなければならない

 必要なのは、反乱が全国に波及し、ある共通の瞬間に全国で最高度の緊張に達することである。ペテルブルグからどんなに急速に伝わろうとも、それでも地方は今回立ち遅れた。百万人以上の大衆が全国で蜂起の準備を整えたとしても、――そしてこのことは、今なおわれわれの前で展開しているこの大衆的運動の状況が示していることなのだが――いっせいに立ち上がるためには組織が必要なのである。

 現在の政治的条件下においては、この何十万もの人々を組織することは不可能である。しかし、今後全体を結びつける酵素となり、そして革命の瞬間には自己の周囲にこの数十万の人々を結集させるであろう組織をつくることはできる。

 われわれのなすべきことは革命を組織することである。

 われわれはこれまで、労働者をその階級闘争のために組織してきた。今やわが国には特殊な課題がある。それはもちろんのこと、最初からあったものではなく、これまでの活動から生まれてきたものである。それはすなわち、労働者の革命的カードルを組織することである。当面する明確な課題をもった、組織された労働者集団が必要である。その課題とは、大衆に蜂起の準備をさせ、蜂起時に自己の周囲に彼らを結集し、特定のスローガンのもとに蜂起に立ち上がることである。」

 同じ事件についてメンシェヴィキの指導者マルトフは、『イスクラ』の同じ号に「1月9日」という論文の中で、課題は「革命を解き放つ」ことであると主張していたので、この論文にはわざわざ編集部による注がつけられ、「『イスクラ』編集部によって共有されているわけではない」と記されることになった。レーニンは逆にこの論文を高く評価し、「革命を組織せよ」というスローガンをボリシェヴィキ的なものとして歓迎した。

 パルヴスはこの論文を執筆した後にトロツキーの『1月9日以前』に序文を書き、この革命の過程で社会民主党が権力を取るというより大胆な展望を示し、周知のように、ここから「革命の展望」をめぐってロシア社会民主党内部で激しい論争が数ヶ月にわたって繰り広げられることになる。この論争の中で、トロツキーの永続革命論、レーニンの労農民主独裁論、パルヴスの労働者民主主義政府論などが提出されることになる。

 この論文の表題「総括と展望」は後、にトロツキーが自己の永続革命論的展望を当時において最も系統的に示した論文「総括と展望」に受け継がれることになる。

Парвус, Итоги и перспективы, Искра, No.85, 27 Января 1905.


 ※『イスクラ』編集部による原注
  「1月9日」という論文を見ればわかるように、同志パルヴスの考えのすべてが『イスクラ』編集部によって共有されているわけではない。

 

 革命は鎮圧されたが、まだ敗北してはいない。革命は敗北していないどころか、その衰退そのもののうちにその勝利の保証がある。それは革命が可能性であることを示した。そして、革命が可能であるならば、革命は再開され勝利するだろう。

 革命は全国に波及した。それは工場を閉鎖に追い込み、商業取引を停止させ、銀行を閉鎖に追い込み、取引所を解散させ、都市における交通の流れを止め、新聞雑誌の刊行をストップさせ、学生と教官を大学から飛び出させ、裁判所と役所の扉を閉めさせ、国の経済生活を停止させ、警察機能を除く国家の機能を中断させ、何十万もの大衆を政府に対立させた。小銃の発砲によってもそれを食い止めることはできなかった。革命は死をものともせず、数千の命を失いつつも前進した。しかし、それでも革命は近衛連隊にあたって砕けた。組織されず、武装闘争に対する準備もなく、武装闘争をあてにすることも予期することもなかった人民大衆の波は、ゆっくりと、歯ぎしりしながら、何とか怒りの感情を抑え、恐れからではなく、決定的闘争に対する準備がまだできていないことを自覚して、退いた。

 これまでの事態を総括しよう。

 ストライキは、労働者の純粋に経済的な要求を掲げて始まった。しかし、だいぶ以前から、ロシアの政治的条件のもとでは、どんな大ストライキも政治的性格を帯びるのは不可避であった。このことは、屈辱的な戦争がひどく民心を揺り動かした後の今日では、とりわけよくあてはまる。イニシャチヴをとったのはわが社会民主主義組織である。社会民主主義組織は政治的要求を提出し、その周囲に大量のストライキ参加者を結集させることに成功した。この時、政治的アジテーターとして登場したのがガポン神父である。彼は、事態の発展を促進し、そこに彼独特の性格を付与した。この個性はまだ完全に明らかになっていないが、彼が最近の事件で果たした役割は完全に明らかである。ゲオルギー・ガポンが、意識的に無学な大衆の考えや気分に自らの見解を一致させたのか、それとも実際には、彼は自分で言っている以上ではなかったのか、いずれしても、彼は疑いもなくわれわれよりもこれらの大衆に近かった。しかし、この大いなる近さは、政治的目的や政治的闘争手段の明確さを犠牲にして達成されたものである。それゆえ、大衆を結集するわれわれの組織が点としてしか存在していなかった時に、ガポン神父はこれらの大衆を直接導くことができたのである。しかし同時に、まさにそれゆえ、この運動の内部には始めから内的矛盾が孕まれていた。彼は大衆をツァーリのもとに連れて行ったが、ツァーリに敵対させてしまった。彼は大衆を平和的デモに連れ出したが、革命に連れ出してしまった。彼が従えていた組織には数千の労働者が参加していた。この組織は、革命の中心として、数十万の大衆を自己の周りに結集することができた。しかし、この組織自身は己れの革命的性格を自覚しておらず、その革命的意味は隠されていた――まさにそれゆえ、数千の労働者を抱えたこの組織がガポン神父とともに労働者大衆の中に入ってくるや否や、群衆という環で組織という鎖をつくり出す代わりに、未組織の群衆の中に溶解してしまったのである。ガポンと群衆――これこそ、1月9日の定式である。

 ゲオルギー・ガポンは労働者大衆を自らに従わせたが、彼らを統一しなかった。彼は、社会革命的諸組織と縁を切らないどころか、反対にそれらの諸組織と同盟を結ぶだけの十分な政治的洞察力を有していた。彼はどうやら、社会の自由主義分子と急進主義分子の両方の支援を取りつけようとしたようである。

 この時までにすでにロシアの自由主義的反対派――有産階級、反対派のゼムストヴォ議員、各種の大会の都市代表者、総じて「地位のある」人々の団体から成る反対派――は姿を現わしていたが、それは政治情勢が急変する境界線上でのことである。その時まで彼らは革命的ではなかった。彼らは、政府に対する世論の圧力を通じて、政治的改良を達成することを期待した。しかし、彼らの期待は砕け散った。自由主義ぶっていたスビャトポルク・ミルスキー[当時の内相、血の日曜日の事件後に失脚]の時代は明らかに終わりつつあった。政府は急激に後戻りした。反動の新しい時代が始まりつつあることに疑いの余地はなかった。何をなすべきか? 政治的力を政府に対置する必要があったが、自由主義者たちの手中にあったのは、不平不満だけであった。自由主義者たちはジレンマに陥った。降伏するか、それとも革命的方法をとるか。そこへストライキがやってきた。大衆の先頭に立っていたのはガポン神父であった。まさにこの運動の無党派的・非組織的性格は自由主義派の利害に最もよく合致していた。彼らの階級的本能はこうささやいた。この数十万もの労働者人民の群衆は巨大な政治的力を発展させ、偉大な政治的勝利を勝ちとることができるだろうが、組織されないならば、政治的情勢――それを支配する人々、すなわち自由主義者が「社会」なのだが――を保つことができないだろう、と。自由主義者は直接革命に期待をかけていたのだろうか? おそらくそうではあるまい。だが彼らはもちろん、革命を考慮しないわけにはいかなかった。彼らの主要な関心事は政府をおどすことであった。政府の反動的エネルギーをくじき、自由主義の時代を再建強化し、改良された政府と一緒になって大衆の革命運動を阻止すること――これこそ自由主義社会の政治的課題であった。

 このように、自然発生的な力に押されてわき起こった革命軍の内部には、曖昧で矛盾に満ちたさまざまな傾向が存在していた。革命の政治的綱領をもって意識的に行進していたのは社会主義者だけであった。彼らは比較的少数であったが、それでも労働者のかなり重要な一部を構成していた(彼らは自己の周りに労働者を組織していた)。大衆は、革命的気分に影響されて、英雄的人物に魅力されて、それと同時に、ツァーリと会うという考えに鼓舞されて、行進した。彼らは闘争に向かったのではなく、死に向かって行進したのである。自由主義者は、政府が手を差しのべてくれればすぐに革命を裏切ろうという心構えで行進した。ゲオルギー・ガポンは、せいぜいのところ、事態の進展によって大衆の革命的エネルギーに方向性が与えられ、革命闘争の試練の中で反動的観念の燃かすが払拭されることを期待していたにすぎなかった。英雄はいたが、政治的指導者はいなかったし、行動綱領はなく、組織もなかった。

 ツァーリは労働者大衆の前に姿を現わすことはできなかった。もしツァーリが彼らの前に姿を現わしたなら、これは君主制理念の偉大な勝利の瞬間になっただろう。しかし、一瞬だけである。大衆はこれを自分たちの力が認められた証しとみなすだろう。ツァーリが彼らの要求を手厳しく拒絶するなら、たちまち反乱が起こるだろう。また、どんな曖昧な回答も公約とみなされるだろう。大衆は解散するだろうが、自分たちの力に対する確信をいっそう深めるだろう。そして、遠からず、彼らは、より大きな力とより確固たる信念をもって戻ってくるだろう。

 しかし、ツァーリは人民の前に姿を現わすことを欲してもいなかった。ツァーリ政府は反乱を予期し、それに対処する準備をしていた。社会主義者と政府は、明確な政治的目的をもって闘争している唯一の政治勢力である。社会主義者は、平和的デモに革命的性格を与えるために行進した。政府は、革命が組織され政治的にはっきりした形をとるまで待つよりも、まだ革命の側の準備が整っていないうちに革命を血の海に沈めるほうがより有利であることを、しっかり自覚していた。政府はそれに加えて、己れの政治的権威を高めて取引所における自己の財政的立場を強めるために、ヨーロッパに対して、ロシア政府がしっかりと権力を手中にしていることを示す必要があった。

 政府は戦闘の準備をし、ロシア政府が行なう虐殺の証人となるよう文明世界の代表者たちをロシアに招待した。数日のうちに、新聞だけでなく公式機関の外電さえもが、ペテルブスクで準備されていた事件の正確な詳細を伝えた。ガポン神父の声明、労働者集会の決議、作家や政治家のインタビューなどが、外電を通じてたちまち世界のすみずみに伝えられた。われわれは、かつてベルギーで起きた大衆ストライキの時とほとんど同じように、ペテルブルグで展開されている運動を追うことができた。これが政府にとって望ましいことでなかったなら、こんなことは不可能だったろう。民衆が冬宮広場に集まった時、用意周到な政府は準備万端であった。軍隊も衛生部隊も、監獄のスペースも、そして、外電の報道によってショーの舞台と結ばれた国際的聴衆も、である。血ぬられたドラマは、政府によってあらかじめ予定されていたプログラムにそって演じられた。しかしながら、事件のその後の展開を政府は予見してはいなかった。

 ツァーリ政府は、小銃の一斉射撃によって民衆がパニック的恐怖に襲われ、四散して家に逃げ帰り、地下室や屋根裏に隠れてしまうだろうと考えていた。だが、実際に生じたのはそれと正反対のことだった。小銃による一斉射撃は人民を鎮めるどころか、目覚めさせた。数千の死傷者が戦場から運び出されたが、この数十万の平和的デモそのものが革命軍と化した。政府による軍事的制圧は革命的反乱をつくり出した。この時から、公式の外電は非常に不活発となり、政府はむしろペテルブルグ発の情報をすべてストップさせるようになった。

 ゲオルギー・ガポンの計画においては、いっさいが一つのことをあてにして立てられていた。すなわち、兵士は非武装の群衆に発砲しないだろう、と。もし兵士が人民を前にして後退するならば、政府は譲歩せざるをえなくなるだろう。もし兵士が人民に合流するなら、革命の勝利は保障されるだろう。しかしながら、兵士の連隊は動揺しながらも発砲した。ガポンの計画は瓦解した。しかし、労働者大衆の革命的エネルギーは瓦解しなかった。そして、この時、組織がないことの悲劇的結果が現われた。大衆は、犠牲者の数を数えることなく、四方に散った。彼らはあらゆることを覚悟していたが、何をなすべきか理解していなかった。ある者は武器を求め、ある者はツァールスコエ・セローに集まり、またある者はバリケードを建設し、またある者はネフスキー通りにあふれた。大衆はばらばらになり、誰もが無秩序に行動した。全体を統一する中央機関もなく、指導的な行動綱領もなく、地方とのつながりも、モスクワや最も近い近郊の工場とのつながりさえなかった。このような運動は個々の部分に分散し、しだいに小さくなって静まってしまう。これが全体を統一し指導する組織をもたないことの結果である。

 ペテルブルグの事件は、軍事力によって労働者大衆の革命的エネルギーを打ち砕くことが困難であることを示した。ペテルブルグ労働者の多数は今のところまだ降伏していない。彼らは血の日曜日事件以降まるまる1週間も持ちこたえている。明らかに、軍隊が人民に合流しないかぎり、革命の勝利は不可能である。しかしながら、すでに現在、プレオブラジェンスキー連隊、この特別に育成され訓練されたツァーリの親衛隊でさえ、部分的に動揺した。すなわち、ある者は目標を定めず発砲し、別のある者は空中に向けて発砲し、時には、発砲を拒否する場合さえあった。もし労働者大衆が組織を有していたなら、この革命的事件において揺るぎないエネルギーを発展させ、それはついには兵士の規律の道徳的抵抗を打ち砕いたであろう。

 ペテルブルグ労働者の革命的安定性と並んで、この事件で見られたもう一つの重要な特徴は、運動が全国的な広がりを見せたことである。これは、経済的ストライキが政治的ストライキに転じたことと同じく法則的であった。ゲオルギー・ガポンの登場とともに、すべての注意がこの人物に集中したために、すべての事態を、出発点たるこの半予言者・半政治家である人物の企図に帰するという偽りの政治的見方が生じている。だが、ペテルブルグのストライキは発展するにつれ政治的性格を帯びたし、それに応じて全国に反響を及ぼさないわけにはいかなかった。南ロシアの事件がはるかに広い基礎にもとづいて繰り返されるなら、それはロシアのすべての工業中心地帯を包含し、そしてその政治的綱領ははるかに鋭く表現されたものとなるであろう。ゲオルギー・ガポンは、この点でも、運動に、より自然発生的で火山の噴火のような性格を与えることによって、運動を促進し拡大したにすぎない。

 地方の運動はますます発展しつつある。この運動も結局は鎮圧されることになるであろうが、それでもそれは専制の国家機構を根本的に揺るがすであろう。

 ツァーリ政府は改めて権力を確保することに成功したが、立ち上がった人民の手はツアーリの玉座そのものにまで伸ばされた。では、今後どうなるであろうか? 

 この最近の事件が示しているのは、歴史上見られた専制の崩壊が再現されつつあるということである。

 自由主義の時代が終わることによって、革命闘争の時代が始まりつつある。

 革命闘争はこれまで社会主義組織によってのみ遂行されてきた。今やそれはすべての人民によって行なわれることになろう。

 社会主義組織を除けば、これまで遂行されてきた闘争は官僚主義に反対するものであって、ツァーリは手つかずであった。こうした闘争は立憲的な性格のもので、革命的なものではない。だが、官僚制は今や政治的戦場からはずれている。状況は明白になり、勢力配置も明白になった。一方には、すでに軍隊にすら依拠できず近衛連隊にのみ依拠しているロマノフ家、ツァーリに大公たち、他方には、すべてのロシア人民、である。

 この事件がなければ今後も長期にわたって政府の道徳的資本として役立ったであろう政治的観念は、数日のうちに消えてなくなった。たとえば、ツァーリは不偏不党な存在であるといった観念がそれである。今や数十万のペテルブルグ労働者はツァーリを憎悪しており、労働者階級の全体が、すべての都市住民が、そしてひいては全ロシア人民が、ペテルブルグ労働者に続くだろう。これは、君主制に対する野党にとって尽きることのない源泉である。自由化されたロシアの新聞雑誌の第一声は1月9日(新暦では22日)の事件を解明するのに使われるだろう。解放されたロシア人民の第1日目は血の日曜日事件で殺された人々に捧げられるだろう。それ以降、ロシアのすべての政治的反対派は反君主制的性格を帯び、将来のプロレタリア・ロシアにおいて君主制の側につくすべての政党は、人民と手を切ることだろう。

 革命闘争への移行は、労働者をロシアの政治的表舞台に踊り出させた。

 それまでは、独自の抗議と晩餐会と決議を伴った自由主義者だけが全体の注意を引いていた。労働者の姿は見えなかった。友人は遺憾の念をもって、敵はあざけりながら、こう尋ねた。いったい労働者はどこにいるのか、と。有産階級の代表者たる自由主義者は、自信満々に国民の政治的指導を引き受けた。彼らは、労働者はしょせん自由主義者の騒々しい雄弁の共鳴盤になるか、いっしょに大衆的歓声を上げることができるだけだという考えを容易に受け入れた。しかし、労働者が決起するやいなや、政治的運動の性格が一変し、革命闘争が大きな中心を占めるようになっている。それに対して自由主義者は取るに足りない付録にすぎないことが明らかとなった。

 これは自然発生的な運動であったが、それでもそれは明白にプロレタリア的性格を帯びていた。

 労働者は自由主義の政治的要求を提出しただけではなく、独自の政治的論理を展開した。彼らの図式は単純であった。労働者は資本家階級の経済的抑圧と闘っている。しかし、労働者は無権利状態にあり、ロシアにおいては政治的奴隷である。彼らはそれゆえ、自らの経済的解放のために闘えるよう政治的権利を要求しているのである。しかし、労働者は、自らの政治的権利のために闘うことによって、政治的自由一般のために闘っているのであり、この闘争において全ロシア人民の代表者となっているのである。

 ペテルブルグ労働者によって出された綱領は、そのあらゆる折衷主義にもかかわらず、はなはだ特徴的なものであった。それはけっしてブルジョア自由主義の綱領ではなかった。それは労働者民主主義の綱領であった。労働者は自らの私的財産のためではなく、階級闘争の自由のために闘っており、そして、個人の自由に対する保証を要求しつつ、それに加えて、資本主義的搾取の自由を制限する法律を要求しているのである。

 こうして、ロシア・プロレタリアートはすぐさま、専制と自由主義の両方に対する態度を明確にした。事態の今後の進展の中で、プロレタリアートは独自の政策をますます発展させていくだけであろう。

 もしツァーリが己れの全権的支配に固執し続けるならば、革命は絶対主義とともにロシア君主制をも吹き飛ばすであろう。この革命において、闘争力となり、自己の周りにロシア人民を結集する指導的中心となるのは、ロシア・プロレタリアートである。

 もし政府が譲歩するならば、これを達成したのは労働者大衆であり、われわれは、兵士の小銃の物理的優位性にもかかわらず、反動の一時的な勝利にもかかわらず、ロシア革命の政治的勝利を確保したことになる。ひとたび広範な政治的組織をつくることが可能になれば、自らの階級闘争の利益のために政治的自由をめざして死の行進を行なった数十万の労働者は、ロシア社会民主主義の出来合いのカードルを構成することになるだろう。

 革命が部分的とはいえすでに勝利していて政府に譲歩を余儀なくさせているのか、はたまた革命は再び開始され勝利を収めるのか、いずれにせよ、決定的な勝利を獲得するためには、革命は組織されなければならない

 必要なのは、反乱が全国に波及し、ある共通の瞬間に全国で最高度の緊張に達することである。ペテルブルグからどんなに急速に伝わろうとも、それでも地方は今回立ち遅れた。百万人以上の大衆が全国で蜂起の準備を整えたとしても、――そしてこのことは、今なおわれわれの前で展開しているこの大衆的運動の状況が示していることなのだが――いっせいに立ち上がるためには組織が必要なのである。

 現在の政治的条件下においては、この何十万もの人々を組織することは不可能である。しかし、今後全体を結びつける酵素となり、そして革命の瞬間には自己の周囲にこの数十万の人々を結集させるであろう組織をつくることはできる。

 われわれのなすべきことは革命を組織することである。

 われわれはこれまで、労働者をその階級闘争のために組織してきた。今やわが国には特殊な課題がある。それはもちろんのこと、最初からあったものではなく、これまでの活動から生まれてきたものである。それはすなわち、労働者の革命的カードルを組織することである。当面する明確な課題をもった、組織された労働者集団が必要である。その課題とは、大衆に蜂起の準備をさせ、蜂起時に自己の周囲に彼らを結集し、特定のスローガンのもとに蜂起に立ち上がることである。

 しかし、組織化というこの仕事をやり遂げるためには、ロシア社会民主主義は何よりも自分自身を組織しなければならず、したがってまた、内部の抗争を終わらせなければならない。

 最良の組織形態がどのようなものであるかを問うことは可能であるし、有益なことでさえあるだろう。しかし、だからといって、党を解体するわけにはいかない。現在ロシアが入りつつある革命的時期には、こうした問いはお払い箱にしなければならないし、このような問いを発する人間が党の規律に従わないならば、かかる人々をもお払い箱にしなければならない。

 ロシアにおけるプロレタリアートの政治的役割は明確となった。現存するロシア社会民主党がその歴史的闘争においてプロレタリアートを指導することができるのか、それとも、自らのイニシャチヴで党を再建せざるをえないことになるのかは、遺憾ながら、若干名のインテリゲンチャの政治的指揮棒にかかっているのである。

『イスクラ』第85号

1905年1月27日

『トロツキー研究』第13号より

 

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