ロシア革命
(ソフィア演説)トロツキー/訳 西島栄
【解説】本稿は、反動期にあたる1910年にブルガリアの首都ソフィアで行なった演説であり、この短い演説の中でトロツキーは、1905年革命の原因と展望について簡潔に明らかにしているだけでなく、当時の模様を実に生き生きと描き出している。この演説は、1905年革命について知ろうとするすべての人々にとっての格好の入門文献となるだろう。
なお、小見出しはすべて、読者の便宜を考えて訳者が適当につけたものである。
Л.Троцкий,Русская революция, Сочинения. Том 2, Наша первая революция, часть 2. Москва-Ленинград, 1927.
ロシア革命の影響とその意義
同志諸君、昔から労働者人民は2重のくびきのもとで生活している。物質的なくびきと精神的なくびきである。後者は前者なしにはありえないし、またその反対に、もし人民の意識の中に奴隷の偏見が存在しなければ、教会の教えや宗教的偏見が人民の意識を毒していなければ、物質的くびきを粉砕することはずっと容易なものになっただろう。しかし、人民の発展史においては、全人民がブルジョアジーのくびきに対して獅子のごとく立ち向かい、決起して、奴隷の偏見から解放され、奴隷制の催眠作用を根絶する瞬間というものが存在する。人民は獅子のような存在、英雄的人民となる。このような時期は、いわば人民の洗礼期である。それは忘れがたいものとして残り、人民の中にぬぐいがたい特徴を形成する。
このような時期をロシア人民は1905年に経験した。同志諸君、この4〜5年間における国際政治のあらゆる現象・出来事に目を向けるならば、こう言わなければならないだろう。世界の舞台において、ロシア革命の刻印の捺されていないような事件や事象、文化的その他の事象はただの一つも存在しないと。
無限の大アジア大陸に目を向けてみよう。対日戦争におけるロシアの敗北とロシア革命はこの大陸全体を活気づけなかっただろうか? われわれは中国、インド、ペルシャの目覚めを目にしているし、トルコでの革命運動を目にしている。ツァーリズムの軍事的敗北は、すべてのアジア人民の自己意識を高めた。この事件の影響は諸君のところまで押し寄せている――青年トルコ革命という形態でだ。この革命はロシア革命の反響であり、アジアの目覚めを意味している。次に西方に視線を移してみよう。強大な資本主義国家たるドイツで、最も強力な社会民主党――すべての社会主義政党の母――の生地で何が起こっているか見てみよう。ドイツ社会民主党は、この40年間、一歩一歩その道を着実に歩み、強力な組織を建設し力を蓄えてきたが、合法性の枠を出ることはなかった。ロシア革命の衝撃があって初めて、ドイツ・プロレタリアートがプロイセンでの普通選挙権の導入をめざす巨大なデモンストレーションでもって街頭に出るような気運がつくり出されたのである。
同志諸君、次に諸君の視線をより近い国に、すなわちオーストリア=ハンガリーに向けてみよう。諸君も知っての通り、この数年間、かの地では、すべての民族のプロレタリアートによって、普通選挙権のための闘争が行なわれている。しかし、偉大な10月ストライキの後になってはじめて、オーストリア=ハンガリーのプロレタリアートは自らの要求を壮大なデモンストレーションの形で突きつけ、オーストリアの君主制と資本主義から普通選挙権を奪い取ることができたのである。ちょうど歴史家が中世史から近代史を区別して、アメリカの発見やインド航路の発見等々をその始源とみなしたのと似て、未来の歴史家は日露戦争とロシア革命を近代史と現代史とを分かつ境界とみなすだろう。
ロシア革命と自由主義
同志諸君、ロシア革命は全世界的反動の主要な基軸たるツァーリズムの打倒を目的としていた。ツァーリズムがその周囲に結集していたのは、いっさいの野蛮なもの、いっさいの野獣的なもの、いっさいの中世的なものであり、さらにヨーロッパ取引所の周囲を回っているいっさいのものであった。ツァーリズムのうちに自己の表現、自己の支柱や支えを見出さないような反動勢力は一つとして存在しなかった。したがってこう言うことができるだろう。ロシア革命は18世紀にフランス大革命によって実現されたのと同じような目的を自己の前に立てていたのだと。われわれはフランス革命をブルジョア革命と呼ぶのをつねとしている。それにもかかわらず、この2つの革命にどれほど大きな違いがあることか! フランスでは、絶対主義に対して、封建制に対して、教権主義に対して、いわゆる人民ないし「第3階級」が決起した。すなわち、職人の小ブルジョア大衆とプロレタリアートに依拠したブルジョア民主主義派、インテリゲンツィアがそれである。この革命的インテリゲンツィア――ジャコバン派――は、自己の周囲にすべての進歩的分子を結集し団結させ、彼らを単一の目的で打ち固めることができた。
このような光景はロシアでは見られなかった。ロシアには、他の諸国の歴史では見られたような革命闘争を遂行しうるブルジョア民主主義派はいなかった。ロシア・ブルジョアジーは、バルカン諸国のブルジョアジーと同様、すでに母親の胎内で額に呪いの言葉を刻んでいた。彼らは裏切りを運命づけられているし、裏切りの洗礼を受け、裏切りのせいで死んだも同前である。ロシア人民の前に立ちはだかりその解決を強力に必要としている巨大な課題は、全面的にロシア・プロレタリアートの双肩にかかっている。
われわれはロシア革命の基本的な諸契機を理解している。日露戦争は人民大衆に甚大な影響を与えた。それは「巨大な無敵の力」としてのツァーリズムの魅力を打ちこわした。ヨーロッパの取引所全体に依拠しながら、全世界のあらゆる進歩的なものを窒息させていたこの巨人が、実は泥の足で立っていることがわかった。ロシアは、ちっぽけな小国である日本によって重大な打撃をこうむった。ロシアの人民は理解した、この巨人が実は弱いこと、外部からの一撃で倒れうること――あやうくそうなりかけたのだ!――を。この戦争は人民大衆を立ちあがらせただけでなく、ロシア自由主義派をも立ちあがらせた。
1904年のあいだ、無数のパーティー――医者、建築家、ジャーナリスト、教授たちによる――が開催されて、そこでツァーリズムを糾弾し憲法を求める決議が挙げられた。しかし、これは単なる言葉にすぎなかった。一部の善良な人々は、エリホン市の城壁もユダヤ軍のラッパの音で崩れたのだから、難攻不落に見えるロシアの専制も倒れることを自由主義者は期待することができるはずだと語った。しかし、自由主義者たちは誤っていた。ツァーリズムがぐらついたのは、別に彼らのおかげではなかった。自由主義者たちはまもなく袋小路にはまり込み、ブルジョア階級の本質と不可分の反動性を暴露した。彼らは自らの行動によって君主制を打ち倒すことができなかったので、自分たちに代わってこのことを成し遂げてくれるような天上の勢力を待ち望む以外のことは何も残されていなかった。こうして、自由主義者たちが自己の無力さを認識したとき、ロシア史の舞台に登場したのがプロレタリアートであった。
ロシア革命とプロレタリアート
1905年1月9日は偉大な歴史的暦である。同志諸君、諸君は、その日に、ペテルブルクのプロレタリアートが偉大な行為を行なったことを、たとえ幼稚な形態であったとしても、本質的に革命的な行為を行なったことを理解しているだろう。彼らは、これまではあらゆる幸福の授け手であるとみなしていたツァーリに対して自分たちの要求を突きつけたのだ。諸君は知っている、この要求に対してツァーリが銃の一斉射撃とナガイカ
〔懲罰用の革鞭〕のうなりによって答えたことを。これはまさに、ツァーリと人民とのあいだのこれまでの関係を清算するものであり、人民の中にあったツァーリの道徳的権威のいっさいに終止符を打つものであった。かつて罪人の体に恥辱の印として灼熱の鉄で焼印を入れたように、今ではロシアの人民は1月9日という炎の文字をツァーリズムの額に焼きつけたのである。1月9日以後、自由主義派は最も惨めな状況に置かれ、自分自身の取るに足りなさに呆然としていたのに対し、ロシアの現実の前面に飛び出したのは労働者大衆であった。1月9日はストライキの波を引き起こし、次から次へと新しい労働者層を立ち上がらせ、ツァーリズムとの正面衝突へと導いた。この点に革命の本質がある。日常生活の中では労働者は自分自身を金属工、仕立て工、靴工などとして意識しているし、ペテルブルクの仕立て工、モスクワないしペテルブルクの金属工などと意識している。新しい革命期は、個々の労働者からその民族的・地方的・グループ的外皮を取り払う。労働者は自分自身を〔労働者階級という〕単一の身体の生きた一部だと感じ、労働者全体にとって大切で義務的なものが自分にとっても大切で義務的なものであると感じるようになる。1月9日によって引き起こされた運動に対する回答が、ツァーリの2月18日の勅令(1)だった。同志諸君、ロシアのツァーリは当時、かつてなかったほど残忍で容赦のない冷酷さを発揮していた。ツァーリは朝に宣言を出し、その中で、ロシアのあらゆる暗黒勢力に対して、決起した革命に対抗して王権を中心に固く団結するよう呼びかけていたのだ。ところがその同じ日の夜には、人民代表制の原則を広く宣布する勅令を出している。つまりツァーリ政府は、朝にはポグロムの宣言を出しておきながら同じ日の夜にはその宣言を撤回して別の半立憲的な宣言を出すほどに、驚愕して肝を冷やしたわけである。この後者の宣言は、人民大衆の運動に対するツァーリ政府の恐怖を反映していた。そして言うまでもなく、この2つのツァーリの宣言はどちらも次の言葉で始まっている――「人民の幸福を配慮して……」。
しかし、人民は当時、「立憲的」宣言を書いたときのツァーリの思惑がどこにあるかをはっきりと理解していた。ロシア・プロレタリアートは、たとえまだ若く政治的に未熟であったとしても、ツァーリの言葉と口約束を信じることを拒否した(この点でロシア・プロレタリアートは、ツァーリの口約束を信じて袋小路にはまり込んだバルカン諸国のブルジョア政治家よりも優れていた)。2月18日の勅令以降、ロシア・プロレタリアートはその隊列を強化し、ご存知のように、全ロシア人民は革命的高揚を維持し、すべての階層が次々と立ちあがり、専制との闘争に参加していった。統計が示すように、1905年の1年だけで、ロシアにおけるスト参加者の数は、西欧および他の先進諸国におけるスト参加者の数の5倍にのぼった。10月にゼネストを呼びかけることができるためには、どれほどの巨大な力の緊張が必要とされたか想像してほしい。2月の運動と10月の大ストライキとのあいだには、赤旗を掲げた黒海艦隊の蜂起があった。その結果が、「国家ドゥーマ
〔国会〕」の召集を宣した8月6日の新たな勅令だった。当時、自由主義者は次のようにわれわれに語りかけてきた――「紳士諸君、1905年8月6日の新しい勅令は、立憲体制を宣言した。これで諸君も合法性の基盤(法)に立脚することができる。諸君の革命的な手段と方法を放棄して、法の基盤に立とう」。このような言葉を自由主義者はプロレタリアートの党に投げかけた。しかし後者はいつものように軽蔑でもって答えた。その後、運動は、10月ストライキとして頂点にまで上りつめ、そのストライキには100万人以上の労働者が参加し、全国家機構を麻痺させた。同志諸君、この国家は、工場の機械と同じく、労働者階級の背中にのしかかって維持されている機構であり、人民がそれを支えることを拒否するならば、それはばらばらに崩壊し、その中央集権的力は塵あくたのごとく消散してしまう(拍手、「そうだ、そうだ」の声)。そしてロシア専制主義のこうした歴史的基盤の動揺にもとづいて、10月ストライキに対する回答として、より拡大した選挙権、集会の自由、団結権、出版の自由などを約束した10月17日の勅令が出されたのである。専制政治とロシア正教に立脚したツァーリ、この「白帝」
〔異民族がロシアの皇帝につけた尊称〕は、たちまちのうちに、憲法の革皮紙に自らの署名を記した。これはまさにプロレタリアートの偉大な革命的勝利だった! だが、その数日後にはプロレタリアートは血の海に沈められた。しかし、われわれはこの勝利をけっして忘れないだろう。それをしっかりと書き留め、こう言うだろう――ツァーリは革命を前にして敬礼の姿勢をとったのだと(拍手喝采)。
労働者代表ソヴィエト
同志諸君、10月17日の勅令は出されたが、すべてのロシア官僚とその自然的ないし人為的な同類のならず者たちは無傷で従来の位置にとどまっていた。ツァーリの勅令の数日前の10月12日に自分自身の勅令「実弾を惜しむな」を出したトレポフ(2)は、10月17日の後もペテルブルクの総督
〔知事〕でありつづけた。ペテルブルク・プロレタリアートは、前方に何が待ち構えているかを知っていた。なぜなら、立憲原理の実現がまさにこの人物〔トレポフ〕に委ねられていたからである。勅令の発布がなされる前の、ストライキ闘争がたけなわの頃、ペテルブルク・プロレタリアートは自己の隊列を打ち固め、自分自身の強固な組織を創設することに全力を傾けていた。こうして真に歴史的な奇跡、労働者階級の無尽蔵の力を物語るこの巨大な奇跡が起こった。ペテルブルクにおいてわずか4〜5日間のうちに、まるで地から湧いてきたかのように、20万人ものペテルブルク労働者を包含した生き生きとして柔軟で権威のある組織が生まれ、その名をロシア革命の歴史に刻み込んだのだ。私はペテルブルクの「労働者代表ソヴィエト」のことを言っている。各工場ないし地域の500人の労働者につき1人の代表が選ばれた。この選挙された代表者はソヴィエトを形成し、この組織がペテルブルクの主人となった。トレポフは狼狽し、ヴィッテは人民の前に姿を現わすことができなくなった。国家機構はボイコットを宣言された。ソヴィエトは事実上その手中に国家権力を収めた。だが、同志諸君、おそらく諸君はみな知っているとは思うが、ツァーリは、10月17日の勅令に自己の血塗られた手形を非常にくっきりと捺している。10月19〜20日頃に南部ロシアの全体と中央ロシアのかなりの部分が、恐るべきポグロムの舞台となった。それを組織したのは黒百人組の「真正ロシア人同盟」であり、その庇護者はツァーリ自身であった。知ってのとおり、この時に秘密のスローガンが彼らに与えられていた――革命にはポグロムで答えよ、と。プロレタリアートが自己の背後に裏切りを予想せずしかるべき反撃の準備をしていなかったあらゆる地域で、このポグロムが実行され、何千人もの犠牲者を出した。数百名の殺された子供や老人、自分の子供の遺体の前で殺された母親の絶望的な慟哭――これが勅令の結果である。ペテルブルクやモスクワやその他の中心都市においてだけ、すなわち、プロレタリアートが自分自身の組織を創設し、あらゆる官僚を追い出して、都市の運命と機能を自己の手中に収めていた都市においてだけ、ポグロムはその片鱗さえも見られなかった。このことは、ポグロムを実行したのが、人民や労働者大衆がその強力な腕によってまだ追い払うことのできなかった地域にいたごろつきと悪党の惨めな集団であったということを示している。全ロシアは、プロレタリアートこそが、破壊とポグロムの恥辱からペテルブルクを救ったことを認めた。労働者代表ソヴィエトは、10月17日以降もストライキを中止しなかった。ソヴィエトはこう言った――「勅令は出されたが、われわれはそれに対する不信を示し、10月21日の12時までストライキを継続する」。ロシアの労働者階級はまだ50歳になっていなかった――いやまだ40歳足らずであった。彼らは若かった。まったく若い階級であった。それにもかかわらず彼らはすでに、数百万のストライキ参加者を指導したのだ! 何という統一、何と素晴らしい連帯だろうか! そして実際、10月21日の12時まで、一つの車輪も動かなかったし、一つの煙突も煙を出さなかった。すべての生産がストップした。10月17〜18日、ブルジョア出版社とジャーナリストがわれわれの所に代表者を派遣してきて、植字工にツァーリの勅令を組版するのを許可するよう頼んできた。しかしわれわれは、この許可を与えなかった。2つの新聞が出されただけだった。一つはわずか2頁建ての『政府報知』で、秘密印刷所で非合法に発行されていた。もう一つの新聞は公然と発行され巨大な部数が流通していた。それこそが『ペテルブルク労働者代表ソヴィエト・イズベスチヤ』である(嵐のような拍手)。
労働者代表ソヴィエトは、ツァーリの勅令に対してどのように答え、何と言ったか? ソヴィエトはこう言った、しかり憲法は与えられた、しかしツァーリズムは存続している、出版の自由は与えられた、だが検閲はそのままだ、集会の自由も与えられた、だがコサック兵が集会を監視している。与えられたのは憲法ではなく、革製の鞭だ! 以上が『イズベスチヤ』の与えた回答であり、ペテルブルク・プロレタリアートは、革命的美辞麗句に満足する傾向をいささかも見せることなく、ただちに革命的行動に立ち上がった。彼らはこう宣言した、10月21日の12時から全印刷所は仕事を再開するが、1冊の本も1枚の紙も検閲させない、この条件を満たした場合のみロシアでの印刷が許可されるだろう、と。次のような驚くべき光景を思い浮かべたまえ、ロシアの社会活動家や編集者たちがヴィッテの所に集まって検閲体制を緩めてくれるよう懇願していると、そこにソヴィエトの代表者が現われて、「諸君らには一枚の紙といえども検閲することを認めない。今日から出版の自由が存在する」と宣言したのだ。そして実際に、ペテルブルクが労働者代表ソヴィエトの手中にあった2ヵ月間は、ロシアの地にアメリカ並みの出版の自由が支配していたのである。検閲官の手もとには1つの新聞も送られず、21万2000部も発行されていたわれわれの社会主義新聞の中で、われわれは国内ではじめてツァーリを、それにふさわしい名前で呼んだ――「ツァーリは殺人者である。ツァーリはロシアにおけるすべての災厄の最も責任ある組織者である!」(嵐のような拍手)。
同志諸君、政府はソヴィエトが『イズベスチヤ』を発行するのを妨害しようとした。すべての新聞雑誌が沈黙したストライキの最中、プロレタリアートの新聞が圧倒的な部数で発行されていた一方で政府の新聞が先に述べたような惨めな状況に置かれたことで、政府は赤恥をかかされた。政府は軍隊で『イズベスチヤ』の印刷所を包囲した。だがプロレタリアートの力と魅力はあまりに大きかったので、彼らは自分たちの『イズベスチヤ』をどの印刷所でも印刷することができた。『ノーヴォエ・ブレミャー』のような反動的・ポグロム的・汎スラブ主義的新聞の印刷所ですら可能であった。われわれは同印刷所で、『ノーヴォエ・ブレミャー』と同じ活字、同じ大きさで第7号を発行したものだ。ソヴィエトの代表が印刷所に姿を現わし、「24時間だけこの印刷所は人民の所有物となり、『イズベスチヤ』の発行に供される」と宣言すると、次のような答えが返ってきた。印刷所を渡すわけにはいかない、なぜなら機械を駄目にされるかもしれないからだ、と。
われわれの代表は、「ソヴィエトは最良の労働者を派遣するだろう」と答えた。すると、「今はストライキ中なので電気がこない」と言ってきた。
――電気が通るよう手配する。
――しかし、われわれの施設は将校によって管理されており、彼には水兵がついて働いている。
――われわれの命令には将校も水兵も逆らえない。
これがわれわれの答えだった。半時間もすると建物に電気が通り、印刷工は機械を駄目にすることなく、われわれの新聞を発行した(嵐のような拍手)。
同志諸君、10月ストライキ直後、ツァーリ反動は牙を剥きはじめ、その矛先は真っ先にクロンシュタットに向けられた。クロンシュタットでは反乱した水兵たちが血の海に沈められ、その後、ポーランドの上には戒厳状態の剣が釣り下げられた。そしてペテルブルク・プロレタリアートは、10月ストライキ後もまだ自分の額から汗を拭い取るいとまもなく次のように宣言した。野戦軍事裁判の絞首台が水兵の首を脅かしているかぎり、そしてポーランドで戒厳状態が猛威を振るっているかぎり、ペテルブルク労働者は運動を中止しないし、その強力な抗議
〔ストライキのこと〕を宣言することをやめないだろうと(拍手)。11月1日、ペテルブルクで、血ぬられた反動の強襲に対する抗議を旗印として新しいゼネストが宣せられた。当時ヴィッテは、ペテルブルク・プロレタリアートに対し戒めの手紙を送ってきた。それは次のような言葉で始まっていた――「兄弟たる労働者諸君」…。このように、ロシア労働者が長靴で大臣の喉元を踏みつけるやいなや、大臣は労働者にへつらいはじめたのである。「兄弟たる労働者諸君、陛下が諸君の幸福を願っておられることを忘れてはならない。有害な煽動者の声に耳を傾けてはならない。自分のいるべき場所に戻りなさい。私は諸君の友人であり、諸君の幸福を願っている」(会場内爆笑)。この手紙に対して労働者代表ソヴィエトは、11月2日付の手紙で答えた。それを諸君にほぼ文字通りお伝えすることができる。まず最初にソヴィエトは、われわれ労働者はヴィッテ伯といかなる血縁関係にもないと断言した。ヴィッテ伯はツァーリがわれわれの幸福を願っていると言うが、ペテルブルク・プロレタリアートはたった2つの言葉でそれに答えよう――「1月9日」と。ヴィッテ伯もわれわれの幸福を願っていると言うが、ペテルブルク・プロレタリアートはツァーリの寵臣の好意など必要としていない。
ヴィッテ伯がこの回答を読んだとき、彼から聞こえてきたのは喘息の発作のような悲鳴だった。ヴィッテはただちに、水兵を軍事裁判にかけないこと、ポーランドの戒厳状態は解除されることを伝える政府からの通知を出した。ペテルブルク・プロレタリアートはそれに答えて、11月7日の12時でもってストライキを中止し、そこに入っていったときと同じ秩序だった形でストライキ闘争の戦場から退却すると宣言した(拍手)。
同志諸君、このストライキの日々、ペテルブルクでは忘れられない光景が見られた。この都市には200万の住民、巨大な工場群があり、そこでは数十万人の労働者が働いていた。しかし、この時期、工場は完全に静かになり、歯車一つ動かず、すべての生活がストップし、劇場はわれわれの要求に基づいて第一幕の途中で公演を中止し、街頭は暗闇の中に沈み、電気は通らず、ツァーリの高級官僚たちの居住地でも暗闇が支配した。この日々に、われわれはみな、プロレタリアートがどれほどのものか、彼らの力がどれほどのものかを目にし、感じ取ったのである。同志諸君、われわれは理解した。全社会生活がもっぱら彼らにかかっていることを。彼らのおかげで権力者たちは、その権力を享受できるのである。彼らのおかげで富裕者は豊かになれ、学者は科学を研究することができ、所有者はこうこうと明かりのついた邸宅を享受できるのである。これらすべては労働者階級のおかげであり、全世界は彼らの手中にあるのだ(拍手)。私は思うのだが、当時、もしわれわれ社会主義者が視力を失い、耳を蝋で塞がれていたとしても、その手でもってペテルブルクの街頭で社会主義を感じ取ることができただろう。
農民と軍隊
プロレタリアートのうねりは、後進的で打ちひしがれ暗黒と無知の中で生きていた農村にも反響を見出した。諸君も知っての通り、ロシア革命の原因の一つはロシア農民の奴隷状態と極貧であった。ご存知のように、国際市場においてロシア農民の極貧と困窮ぶりは、イギリス領のインド人とさえ競争しうるほどであった。一つのことだけを指摘すれば十分だろう。それは一見したところ喜劇的だが実際には深く悲劇的な事実であり、医師のシンガリョーフによって確認されたものである。諸君もご存知のように、ロシアのムジークの住居はけっして清潔なものではない。それにもかかわらず、南京虫とゴキブリでさえこの小屋を避けようとする、なぜならそこはあまりにも寒く、あまりにも食べ物がないからである。寒さと飢えは南京虫とゴキブリさえも家から追い払うのである。ロシアの何百万もの人民はこのような恐るべき生活の中に閉じ込められているのだ。
ツァーリズムの巨大な予算――それは25億ルーブルにも達する――は完全にロシアの農民と労働者の背中で支えられている。こう言えば十分だろう。ロシアの軍国主義は毎年6億5000万ルーブルを食いつくし、それと並んで毎年4億700万ルーブルが、90億ルーブルものロシアの負債の返済としてヨーロッパの取引所に支払われている。これもまた軍国主義とツァーリズムによってなされた浪費に対する支払いなのである。このようにわれわれは10億以上を、ロシア人民を窒息させている吸血鬼どもに支払っている。まさにそれゆえ、革命の主要な課題は、ツァーリ政府のこの途方もない軍事的・官僚的機構を一掃することであり、ツァーリズムに代えて自由な共和体制を据えることであった。
もう一つの重要なスローガンは、「地主の収奪、貴族の廃止、ロシア農民への土地の分配」であった。これがわれわれの革命の農業スローガンであった。1月9日事件に対する回答が、黒海艦隊の蜂起であり、10月と11月のストライキであった。これらの行動は広範な農民大衆にも反響を見出した。1905年10月に焼き打ちにあった地主の知行地は1つや2つではなかった。ロシア革命の赤い雄鳥
〔大火〕は広大なロシアの大地を赤々と照らした。地主たちは都市や国外に避難したり、ブルジョアジーに助けを求めたりした。1905年まではロシアの地主は自由主義者で、憲法を要求し、自らをもう1人のロシア人民と呼び、ブルジョアジーとツァーリズムに対する不満を表明していた。しかし、1905年になり、労働者と農民が自由主義的ナンセンスを自分たちの頭の中から永遠に追い出してしまうと、地主たちは最も苛烈な反動の脊柱となった。ロシア・ツァーリズムが革命と対決する勇気を見出すことができたのは、それが地主貴族に依拠することができたからである。この時期、新しい聖なる三位一体が形成された。官僚、地主、ツァーリズムがそれである。彼らは革命に対する血の十字軍を宣言した。ヨーロッパの自由主義者たちは、おそらくこの国の自由主義者もそうだと思うが、ロシアの社会主義者をこう言って非難したものだ。君たちはあまりにも激しく容赦のない闘争を繰り広げた、もう少し君たちの要求を切り縮め、もう少し平和愛好者になり、オオカミの足元にひれ伏していたならば、状況はもっと違ったものになったろう、と。いったい自由主義者とは何か。それは、11月終わりにセヴァストーポリで赤い中尉シュミット(彼はその後銃殺された)の指導下で黒海艦隊の第2の反乱が起こったときに、彼ら自身によってはっきりと示された。ペテルブルク・プロレタリアートは黒海艦隊の水兵たちに革命的挨拶を送った。このとき、ミリュコーフ(「打倒!」の声)を議長とする自由主義者の大会が開かれていた。大会は全員一致で自分たち自身の諸要求をすべて放棄して、今はわれわれ(自由主義者)は政府とヴィッテ伯を支持しなければならないと宣言したのだ。ミリュコーフは、蜂起はすでに鎮圧されたと言って大会参加者を安心させようとした。これが、同志諸君、ロシア史の最も危機的な瞬間におけるロシア革命に対するロシア自由主義者の態度だったのである。ロシア人民の運命が決せられようとしているときに、ロシア自由主義者は、裏切り者、変節漢、夜盗として立ち現われたのである。この偉大な歴史的日々に、プロレタリアートが艦隊の蜂起に革命的挨拶を送っていたときに、自由主義者はこの蜂起の鎮圧に拍手を送っていたのである。彼らと社会主義者とのあいだに何か共通点があるだろうか? いや、同志諸君、両者のあいだには、自由主義派の裏切りによって穿たれた深淵が横たわってる。
同志諸君、当時の状況はきわめて複雑で悲劇的なものだった。社会が活性化し、政治の舞台に次々と新しい社会的諸階層が現われた。プロレタリアートは優位な状況を維持していたが、彼らは非武装だった。政府はいわば非合法的で、地下的存在になり、ツァールスコエ・セロー(3)やペテルブルク、ペテルゴーフの地下道に避難していた。しかし彼らには、信頼のおける近衛連隊が残されていた。
当時、ペテルブルクには2つの権力が存在していた。1つはプロレタリアートの権力で非武装だった。もう1つは政府の権力で、こちらは武装していた。しかしツァーリズムにとって、すべての部隊が信頼のおけるものであるわけではなかった。私はすでに黒海艦隊の反乱について紹介しておいた。〔日露戦争後に〕極東から兵士が帰還するのに用いられたシベリア鉄道の全線にそって、革命的兵士の権力が確立された。これらの兵士たちは、自らの兵士代表ソヴィエトを選出し、赤旗を掲げた。われわれのペテルブルクには、公然と兵士の代表を送ってきていた多くの連隊と艦隊乗務員がいた。これは11月ストライキの時期のことで、ペテルブルク労働者が、クロンシュタット水兵の頭上に首吊り縄がぶら下げられているかぎり、安んじたままでいることはできないと宣言した後のことであった。
多くの連隊が革命の側に移行した。しかしこれらは、主にプロレタリアートによって構成されていた連隊であった。ツァーリの権力は、その大臣連中を、彼らの能力や機知をあてにしていたのではなく、軍隊の物質的力をあてにしていた。しかし、軍隊そのものは機械でもなければ、死んだ道具でもない。それは、思考し感じる生きた人間たちによって構成されている。軍隊がそのライフル銃や大砲をどちらの側に向けるかは、軍隊の構成にかかっている。このことを忘れてはいけない。ツァーリズムがわれわれに勝利したのは、もっぱら軍隊の中に多くの遅れた農民と意識の低い労働者がいたからである(拍手。「そうだ、そうだ!」の声)。もちろん、諸君もおわかりのように、ツァーリズム自ら、労働者の口に栓をすることはできない。その武器は農民兵士である。しかし、機械生産がしだいに農民を労働者に変えていき、労働者は軍隊に入って、軍隊を革命化する。地球が自転して、昼が夜に、夜が昼になるのと同じ鉄の必然性をもって、ツァーリの軍隊の中の農民はプロレタリアートに取って代わられる、すなわち革命の友に取って代わられるのである(拍手)。
同志諸君、時間がもうわずかしか残されていない。そこで私は演説の締めくくりの部分を短めにお話しせざるをえない。
すでに述べたように当時、2つの権力があった。非武装の革命権力と武装した旧権力である。われわれ社会民主主義者は、言うまでもなく、ツァーリズムが闘争なしに譲歩するだろうとか、軍隊を動かさないだろうとか期待するほど無邪気ではなかった。プロレタリアートが退却するやいなや、血に飢えた怪物どもが穴から這い出てきて、その爪をプロレタリアートの体に突き立てるだろうことをわれわれは知っていた。まさにそれゆえ、われわれはあらかじめ、軍隊と農民に向けて革命的宣言を出しておいたのである。そして言っておかなければならないが、プロレタリアートの声は巨大な反響を見出した――だが巨大ではあったが不十分だった。
ロシア農民は、地主が自分たちの敵であることをはっきりと理解している。しかし、彼らが兵営に入って兵士になると、暗闇の中にいるように、どこに友人がいてどこに敵がいるのかわからなくなって動揺しはじめる。まさにそれゆえ、彼らはその武器を革命に向けるのである。ロシア革命の悲劇は、ツアーリズムが農民を囲い込むことに成功しただけでなく、彼らの意識を毒することに成功した点にある。兵士としての農民はライフル銃を労働者に向けた。これが12月の敗北の原因となったのである。
ストルイピン反動と自由主義の裏切り
社会民主党は、プロレタリアートをモスクワのバリケードに連れ出したことでプロレタリアートの信頼を失ったと言う者がいるとすれば、この行動を誇りに思っているわれわれは、このような非難にはいかなる根拠もないと答えよう。ロシア・プロレタリアートに会いに行って、12月の敗北後にわれわれへの信頼を失ったかどうか訊いてみたまえ。第1国会、第2国会、第3国会の選挙人名簿に目を向けるならば、あの恐るべき流血の後にもロシア・プロレタリアートがたった一つの党に、すなわちロシア社会民主党にのみ自らの声を託していることがわかるだろう。たしかに、同志諸君、第1国会の選挙が行なわれた時、労働者は自分の体から血を洗い落とすことさえまだできておらず、その傷はまだ癒えておらず、彼らの多くは選挙を拒否した。多くの工場で労働者は、選挙に対する嘲笑の気持ちを込めて、工場の犬や工場の煙突、工場の扉を選挙人に選出したものだ。つまり一言でいえば、労働者は第1国会をボイコットしたのである。しかし第2国会には、選挙法がより過酷なものになったにもかかわらず――ロシアでは普通選挙権などとうてい問題になりえない。わが国の選挙法はプロイセンの選挙法よりもましではない――、ロシア・プロレタリアートは、68人もの社会民主党議員を送り込んだ。ヴィッテ伯によってでっち上げられたわが国の選挙法のもとでは、国民の多数派の獲得など考えることなどできないのは、まったく当然である。国会を支配したのはミリュコーフを指導者とするカデット党の自由主義者であった。すでに先週の日曜日の演説※で指摘したように、この時期、自由主義者たちは自分たちが勝利者であり状況の支配者であると感じていた。革命的人民が敗北した場合は常に、状況の支配者となるのは勝利に酔いしれる自由主義派である。彼らはこう宣言する――今後は革命党は消えてなくならなければならない、今からはわれわれが法を定める、と。自由主義派は、一方の腕を人民の側に伸ばし、もう一方の腕を君主制に伸ばす。
※編集者原注 このときの同志トロツキーの演説は、ちょうどミリュコーフやグチコフやクラマルシなどの悪名高い汎スラブ主義者の指導下で当時ソフィアで開催されていた汎スラブ大会に対抗してブルガリア社会民主党によって組織された集会でなされた。
第2国会でマクラコフ(4)とストルイピンとのあいだで交わされた興味深い討論を思い出す。これは、国会で自由主義者が法律を練っていた時のことである。もっともこの法律はけっして火の目を見ることはなかったが。
国会の外でストルイピンがせっせと野戦軍事裁判の絞首台を建設していたのと同じ時期、マクラコフはその見事な演説の中で、ストルイピンの野戦軍事裁判が違法で不当であることをストルイピンに対して証明しようとした。実際に「違法で不当な」絞首台を用いて支配をしている人物に対してこの演説がどのような恐ろしい印象を与えたか想像してみてほしい。ストルイピンは演壇に上がって、こう表明した――「マクラコフ氏は実に素晴らしい雄弁な演説家だ。彼は、最も反駁の余地のない形で野戦軍事裁判の違法性を証明した。しかし、マクラコフ氏よ、野戦軍事裁判は目的にかなっているのだ。私の課題は法律を解釈することではなく、革命を絞め殺すことである。これに対して君の自由主義は何と答えることができるのか? 君は私に何を与えることができるのか? 革命的労働者と農民は私の前に社会的諸要求をもって登場し、地主から土地を奪い取っている。私は彼らに対して手にナイフを持って戦う。私に必要なものとして君はその雄弁によって何を与えてくれるのか? 君は彼らに対抗するすべとして私に何を与えることができるのか?」。そしてストルイピンはマクラコフを嘲笑って追い払った。ここで諸君に、われわれの師ラサールが反動家を弁護して言ったことを紹介しておこう。彼らはおしゃべり屋ではなく、自分の君主に仕える冷静で利口な下僕である、と。
第1国会と第2国会とを解散させたストルイピンは、自分の姿に似せて第3国会をつくった。すなわち、軍国主義を伴う官僚、地主、略奪的資本主義の三者同盟がそれである。組織された反革命は第3国会のうちにその完全なる表現を見出した。この国会を代表する者こそアレクサンドル・イワノヴィチ・グチコフであり、その事実上の支配者はピョートル・アルカディエヴィチ・ストルイピンである。ストルイピンはその命のあるかぎり革命と闘い、また最初の2つの国会の中で自由主義と闘い、そして最後に、ストルイピンの語るすべての言葉に「イエス」と答え人民のすべての要求に「ノー」と答える忠実な人々の集合体である第3国会をつくった。しかし、思うに、ストルイピンはこの国会の中で自らの力と弱さの両方を見ざるをえなかった。たしかに、ロシア革命は一時的に圧殺され、個々の活動家のアジテーションしか残っていない。しかし、このアジテーションは、人民大衆の必要と苦境、社会発展の要求、未解決の農業問題、ロシアのムジークのいまだ変わらぬ耐えがたい状況などにあいかわらず噛み合っている。第3国会においてストルイピンは壊れた桶の前に立っている。巨大な債務、農民の窮乏、ヨーロッパ取引所の不信――このすべてがそのままであるし、それはロシア自由主義が再び頭をもたげるのを助けており、ミリュコーフ教授を筆頭として新スラブ主義の台頭を助けている。ミリュコーフは次のように断言している。カデットには必要な改革を遂行する用意があるが、革命はその仕事を妨げるだけだ。ロシアには大きな国内市場は存在しないし存在しえないので、専制政府は十分な税金を確保することができない。それゆえわれわれは――とミリュコーフは言う――、資本主義的帝国主義を通じ武力を用いて対外市場を獲得しなければならない、と。
ストルイピン帝国主義とわれわれの課題
ストルイピンとツァーリが帝国主義を展開するのに好都合な雰囲気をつくり出し、対外市場の獲得可能性を確保するために、ロシア自由主義は新スラブ主義的なアジテーションを展開し、「専制、真正スラブ、民族」という言葉が描かれた古いツァーリの旗を発展させて、そこに次の言葉を書き加えた――「自由、平等、友愛」。これらすべてが、白帝の偉大な歴史的ナガイカ(革鞭)による保護統治に奉仕することになっているのである。同志諸君、私の言葉をよく覚えておいてほしい。黒百人組でもなければオクチャブリストでもなく、カデットが、自由主義者が、ミリュコーフやマクラコフやロジチェフ(5)等々が新スラブ主義の主唱者となっているのである。ミリュコーフはわれわれがスラブ主義を裏切ったといって非難した。というのも、われわれの議員であるポクロフスキー(6)が、彼らの新スラブ主義とは強請である(拍手、「そうだ」の大声)と公然かつ大胆に断言したからである。ポクロフスキーはさらにこう述べた、彼らがこのような大騒ぎをしているのは、ただ、ツァーリズムが濁った水から金儲けの金の魚を強奪することができるようにするためでしかない、と。すると、自由主義派のすべての新聞はその毒々しい痰を社会主義に向けて吐きつけ、彼らに対抗して新スラブ主義のすべての支持者にすがりついた。しかし、私がここで諸君から話を聞いた今では、ロシア・プロレタリアートにこう宣言することができるだろう。次のように言う連中、すなわちバルカンの人民、バルカンの労働者はロシア・プロレタリアートやロシア革命など信じておらず、ロシア自由主義と新スラブ主義を信じているなどと言う連中は、嘘をついているのだ、と(嵐のような拍手、「そうだ!」の叫び声)。
同志諸君、ツァーリズムは今も強力であり、その手中には今も強力な軍隊があり、それゆえカデット的帝国主義の企図はもっぱら反動を利することにしかならないだろう。もしツァーリズムが対外市場を征服することに成功し、それによって中産階級および上層階級を富ませることができたならば、自らの予算を拡充し、自らの立場を強めることだろう。しかし問題は、同志諸君、その唯一の手柄が自国の人民を粉砕したことであるツァーリ軍がその将校も含めて、他国との戦争における軍事力としてはおよそ役立たないという点にある。なぜなら、ツァーリの軍隊は直接的に矛盾する2つの部分によって構成されているからである。一方では、ツァーリ軍の兵士大衆には、その胸から「革命」と「ツァーリズムに対する永遠の敵意」という2つのスローガンを根絶することのできぬ多くの兵士たちがおり、他方では、反動的説教とツァーリのウォッカで堕落させられ毒され、革命時にはツァーリズムにとって最も頼りになる守り手である後進的部分とが存在する。軍の指揮官層は、戦場で勲功を上げた人々から選抜されているのではなく、プロレタリアートを残酷に弾圧し、ペテルブルクやモスクワやリガで、そしてシベリア鉄道沿いおよびロシア全土で蜂起を鎮圧したことで出世を果たしたような血に飢えたろくでなしから選抜されている。ツァーリの軍隊は何という連中の手中にあることか! 最近、ツァーリの軍経理部の恐るべきスキャンダルが暴露された。この公金横領者の徒党は、4隻の汽船の購入費用として予定されていた数百万ルーブルを着服した。この現象をよく考察するならば、そして、ツァーリの軍隊が自国の人民に対する闘争によってその教育を受けたという事実をよく考えるならば、このような軍隊が対外征服にはとうてい役立たないことが理解できるだろう。それにできるのは、一時的に革命を圧殺することだけであって、熟しきった国民的問題を解決することではない。いっさいは以前のままである。
それゆえ、対外征服への志向もまた結果なしに終わることも驚くべきことではない。イズボリスキー(7)がヨーロッパを外遊し、セルビアにロシア軍の援助を約束したとき、このことから何が生じただろうか? ベルリンからペテルブルクに宛てて、ロマノフ氏とストルイピン氏は本当に対外征服をめざしているのか否かという質問が来た。するとペテルブルクは、自分たちに内的無力さの呪いがかかっていることを認めざるをえなかった。これこそ因果応報というものだ! 自国の人民を虐殺した政府は強力な対外政策を遂行することができないのである。しかし、そうだとしても、同志諸君、このことは、ロシア政府に下劣な行為をする能力がないということを意味するものではない。その弱さと無力さにもかかわらず、われわれや諸君の生活を破壊することはまだ彼らにも可能なのである。ロシア政府が日本と協定を結んだとき、もちろんのことそれは、その強盗の手をここバルカンでの略奪のために自由にする必要があったからに他ならない。それゆえ、諸君が、ブルガリア・プロレタリアートと一般にブルガリアの人民大衆に対して、ロシア政府とロシア・ブルジョアジーの「トロイの木馬」的贈り物を警戒するよう警告したのは、まったく正しかったわけである。
同志諸君、われわれと諸君の課題は、ロシア帝国主義のあらゆる努力を無に帰させることであり、これはわれわれの共通の課題である。なぜなら、ロシア革命の敗北はそれと同時の諸君の自由の敗北でもあるからだ。諸君もよくご存知のように、国際主義とは抽象的な定式でも空虚なスローガンでもなく、われわれの血の中の血、肉の中の肉なのだ(拍手、「そうだ」「そうだ」の叫び)。
同志諸君、諸君も知っての通り、歴史とは政党や個々人のグループによって創造されるものではない。明日かあさってにはペテルブルクでの事件が繰り返されるだろうなどと、私は自分の名においても、また自分の党の名においても語ることはできない。しかしあえて一つのことだけは断言できる。歴史の過程はわれわれに有利なように働いており、その羽ばたきの一つ一つがわれわれの利益になっている。ロシア社会の歴史的発展過程が停止することなどありうるだろうか? 歴史的な規模では死や敗北は起こりえない。これまで何度トルコの死や中国の死について語られたことか。しかし、われわれの目の前で奇跡が起きている。トルコも中国も甦ったのだ。ロシアの人民が生気のない袋小路にいつまでもとどまっているなどということがありうるだろうか? いや、内的活動の分子的過程の結果として、ロシア人民の生産力は発展し、その生活は変革され、ロシアのプロレタリアートも変革されるだろう。そしてプロレタリアートはいつのまにか軍隊の中に浸透していって、ついには、再び革命闘争が燃え上がる日がやってくるだろう。そしてロシア人民は再び次のように叫ぶだろう。「生か死か、勝利かそれとも死か!」と(拍手)。
そのような日が始まる時期をあらかじめ諸君に予言することはできない。しかし、黙示録的な言い方をすれば、それは遅かれ早かれやってくるだろう。そしてわれわれはみな、この偉大な日を準備万端迎えることができるようにしなければならない。
私が諸君の中に見出した、ロシア・プロレタリアートの大義に対する共感は、ロシア社会民主党のエネルギーを高め、そして、ロシア全土に再び労働者インターナショナルの偉大な赤旗が翻る日を近づけてくれることだろう!(長く続く嵐のような拍手と喝采)
1910年7月12日、労働会館にて
ロシア語版『トロツキー著作集』第2巻『わが第一革命』第2分冊所収
『トロツキー研究』第47号より
訳注
(1)ツァーリの2月18日の勅令……民衆運動の高揚に直面したツァーリがその懐柔を狙って、諮問代議機関の開設方針を明らかにした文書。これに基づいて内相ブルイギンのもとで立案準備され、8月6日に設立されたのがブルイギン国会。
(2)トレポフ、ドミートリー(1855-1906)……帝政ロシアの政治家、警察官僚、将軍。1896年以後、モスクワ市警本部長。「血の日曜日」事件以後ペテルブルク総督に就任し、1905年の4月以降、内務次官を兼任し、首都の革命運動弾圧にあたり、ポグロムを煽動。
(3)ツァールスコエ・セロー……首都から約20キロ南にある離宮の町。
(4)マクラコフ、ヴァシーリー(1869-1957)……ロシアのブルジョア政治家、弁護士、カデット幹部。カデットの中央委員、第2国会〜第4国会の議員。1917年、パリの駐在大使。
(5)ロジチェフ、フョードル(1853-1932)……ロシアの自由主義政治家、地主、法律家。カデット党の創始者の1人。第1国会から第4国会まで議員。2月革命後の最初の臨時政府でフィンランド問題担当大臣。10月革命後に亡命。パリで回顧録を出版。
(6)ポクロフスキー、ミハイル(1868-1932)……ロシアの革命家、歴史家、古参ボリシェヴィキ。1918年、教育人民委員。1922年、中央アルヒーフを設立し、資料の収集と整理に寄与。多くのすぐれたロシア史、革命史を執筆。晩年はスターリニストによって迫害される。
(7)イズヴォリスキー、アレクサンドル(1856-1919)……ロシアの政治家、外交官。1906〜10年外相。1910〜17年、駐仏大使。10月革命後は亡命者としてフランスにとどまる。
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