テロとその党の破産
(アゼーフ事件によせて)
トロツキー/訳 西島栄
【解説】これは、1909年に起きたアゼーフ事件(社会革命党のテロ組織である戦闘団の最高指導者であるエヴノ・アゼーフが秘密警察のスパイであったことが暴露された事件)に関連してトロツキーがこの時期に書いた一連の論文の一つである。
トロツキーは、アゼーフ事件が偶然に起きたものではなく、民衆の背後で民衆を代行しようとする秘密結社的テロ組織の性格から必然的に起こったものだとみなした。また、トロツキーはこの論文の中で、ロシアにおいてどうして有力なテロ組織が存在し、それが命脈を保っているのかを、ロシアの特殊な政治的・経済的状況から説明しようとしている。トロツキーは、アゼーフ事件の批判を通して、闘争手段としてのテロリズムを根本的に否定するだけでなく、代行主義の論理そのものを否定している。さらにまた、この代行主義批判を通じて、テロリズムの論理が、その急進的外見とは反対に、日和見主義と深い結びつきを持っていることを説得的に明らかにしている。
なお、この論文は、部分的な変更や削除や追加を伴って、『ノイエ・ツァイト』とウィーン『プラウダ』にも掲載されている。『ノイエ・ツァイト』の場合は、「アゼーフ事件の顛末」の後半部分に、この論文の一部が使われている。『ノイエ・ツァイト』との異同は、『トロツキー研究』第17号を参照にしてほしい。
Л.Троцкий,Крах террора и его партии, Сочинения, Том.4−Политическая хроника, Мос-Лен., 1926.
まるまる1ヵ月間、ロシアと全世界の読んだり考えたりすることのできるすべての人々はアゼーフ(1)のことで頭がいっぱいであった。彼の「事件」のことは、合法的新聞から、またアゼーフについての質問に関する国会審議報告から、すべての人の知るところとなった。だが今ではアゼーフは過去のものとなることができ、新聞でも彼の名前に触れられるのはますます稀になりつつある。しかしながら、アゼーフが完全に歴史のごみ箱に投げ込まれる前に、われわれは原理的な政治的総括をしておかなければならない――アゼーフ主義そのものではなく、それと結びついている、わが国の主要な諸政党のテロリズム全体に関する総括である。
1
政治革命の方法としての個人的テロは、わがロシアの「民族的」財産である。もちろん、「暴君」の暗殺は、「暴君」の制度そのものと同じく古くからあるし、昔から詩人たちは、剣による解放者に敬意を表して少なからぬ讃歌をつくってきた。しかし、次から次へと暴吏や大臣や君主を暗殺することを自己の課題とするような計画的なテロ、すなわち、1880年代の「人民の意志」派が露骨にテロの綱領として定式化したような、こうしたテロは、ロシア・インテリゲンツィア独特の創造的産物であり、それは、絶対主義の官僚主義的ヒエラルキーに適応して、自分自身の革命的官僚制をつくりだす。もちろん、そこには深い原因がなければならないし、それは、第1にロシアの専制の本質のうちに、第2にロシア・インテリゲンツィアの本質のうちに、探さなければならない。
絶対主義の機械的破壊という考えそのものが人気を得ることができるためには、この国家機構が、社会組織にいかなる根も持たない純粋に外的な強制組織であるように見えなければならない。しかし、まさにこのようなものとして革命的インテリゲンツィアはロシア専制をみなしたのである。この幻想には、それ自身の歴史的根拠があった。ツァーリズムは、西欧のより文化的な諸国家の圧力のもとに形成された。競争に勝ち抜くためには、容赦なく人民大衆を搾り取らざるをえず、こうして、特権的階層においてさえ、自らの足元の経済的基盤を掘りくずしたのである。また、それは西欧におけるような政治的高みにまで昇ることもできなかった。そして19世紀においては、これに加えて、ヨーロッパの取引所の強力な圧力があった。それがツァーリズムに借款を多く与えれば与えるほど、ツァーリズムはますます自国の経済的諸関係に対する直接的依存を少なくしていった。ツァーリズムは、ヨーロッパの資金にもとづいてヨーロッパの軍事的技術で武装し、こうして、社会のすべての諸階級の上にそびえたつ「自足的」(もちろん相対的な)組織となったのである。ここから必然的に、次のような考えが生まれた。ダイナマイトによって、この異質な上部構造をふっ飛ばすことができる、と。
この仕事を遂行することが自分の使命であるとみなしたのが、インテリゲンツィアであった。国家と同じく、インテリゲンツィアは、西欧の直接的な圧力のもとに成長してきた。自らの敵たる国家と同じく、インテリゲンツィアは、国の経済的発展を追い越した。国家は技術的に、インテリゲンツィアは思想的に。ヨーロッパのより古いブルジョア社会においては革命思想が多かれ少なかれ広範な革命的勢力の発展と平行して発展してきたのに対し、ロシアにおいては、インテリゲンツィアは、西欧の出来合いの文化と政治思想に接していたので、自分たちが依拠しうる本格的な革命的階級が国の経済的発展によって生み出される前に、精神的に革命化したのである。こうした条件のもとで、彼らには、自己の革命的熱情にニトログリセリンの爆発力を掛けるしかなかった。こうして、元祖たる「人民の意志」派のテロリズムが生じたのである。それは2〜3年のうちに頂点に達し、その後、急速に無に帰し、数的に脆弱なインテリゲンツィアが動員しうる戦闘力のストックを自らの炎の中で焼き尽くしてしまった。
社会革命党のテロも全体として、同じ歴史的原因によって引き起こされたものである。すなわち、一方における、ロシアの国家体制の「自足的」専制主義、他方における、ロシア・インテリゲンツィアの「自足的」革命性。しかし、20年という年月は無駄に過ぎたわけではなかった。この第2次テロリストたちはすでに、歴史的な時代遅れぶりを自己のうちに刻印したエピゴーネン(亜流)として登場したのである。1880〜90年代における資本主義の「シュトルム・ウント・ドランク(疾風怒涛)」時代は、大量の工業プロレタリアートを創出し団結させた。そして、農村の経済的閉鎖性に激しい裂目をもたらし、農村をいっそう密接に工場と都市に結びつけた。「人民の意志」派の背後には実際に革命的階級は存在していなかった。だが、社会革命党の場合は、革命的プロレタリアートを見ようとしなかったにすぎない。少なくとも、プロレタリアートの歴史的意義の全体を評価することができなかった。
もちろん、社会革命党の文献から、テロを大衆の闘争の代わりに持ち出すのではなく、大衆の闘争といっしょに持ち出している引用文を1ダース以上抜き出すことは難なくできるだろう。だが、この引用は、テロのイデオローグたちが、大衆闘争の理論家たるマルクス主義者とともに闘争を行なわざるをえなかったことを物語るにすぎない。しかしながら、このことは事態を変えるものではない。その本質そのものからして、テロリストの活動は、大衆の間での煽動的・組織的活動を――論理的にではないにせよ心理的に――完全に排除するような、「偉大な瞬間」に対するエネルギーの集中と、さらには、「秘密の」陰謀を要求するのである。テロリストにとって、政治の場に存在するのは、たった二つの発光点だけである。すなわち、政府と戦闘団である。
「政府は、一時的にわれわれ以外のすべての潮流の存在を認めてでも――と、ゲルシュニ(2)は、死刑を予定されている同志たちに書いている――、そのすべての打撃を、社会革命党を粉砕することに向ける用意がある」。
「私は――と同じ時にカリャーエフ(3)は書いている――われわれの世代が、戦闘団を先頭にして専制を終わらせるものと固く期待している」。
テロ以外のいっさいは、闘争のための舞台装置にすぎず、せいぜいのところ補助的手段なのである。だが、爆発した爆弾の燃えさかる炎の中で、政党の輪郭と階級闘争の境界は跡形もなく消え失せてしまう。そして、われわれは、最も大物のロマン主義者にして新しいテロリズムの最良の実践者たるゲルシュニ
[左の写真]が、同志たちに「革命的隊列だけでなく、野党の隊列をも分裂させない」よう要求しているのを、耳にしている。「大衆に代わってではなく、大衆とともに」。しかしながら、テロリズムは、党内で相対的で従属的な役割に甘んじるには、あまりにも闘争の「絶対的な」形態でありすぎる。革命的階級の不在ゆえに生まれ、後に、革命的大衆に対する不信ゆえに復活したテロリズムは、大衆の弱さと非組織性を利用することによってのみ、大衆の獲得物の過小評価と大衆の敗北の過大評価によってのみ、その存在を維持できる。
「彼らは――とカリャーエフの裁判において弁護士のジダーノフはテロリストについて言う――、現代的な武器があるもとでは、熊手や棍棒という土着の武器をもった人民大衆には、現代のバスチーユを破壊することはできないと見ている。[1905年]1月9日以後、彼らは、このことが何を意味するかをすでに知っている。すなわち、彼らは機関銃や速射銃に、拳銃と爆弾という20世紀のバリケードを対置したのである」。
人民の棍棒や熊手の代わりに一個人の拳銃、バリケードの代わりに爆弾――これがテロの実際の定式である。党の「総合的」理論家がいかにテロに従属的地位を割り当てようとも、テロは常に上座を占めるのであり、戦闘団は、公式の党ヒエラルキーにおいては中央委員会の下に置かれているにもかかわらず、必然的に中央委員会の上に、党とそのすべての仕事の上に位置することになるのであり、ついには、苛酷な運命はそれを警察局の下に置くのである。そしてまさにそれゆえ、警察の陰謀による戦闘団の破産は、必然的に党の政治的破産をも意味するのである。
2
エピゴーネンたちは、元祖に対するあらゆる敬虔さにもかかわらず、けっして元祖の繰り返しではなかった。なぜなら、彼らは違う時代に生きているからであり、この時代に適応せざるをえないからである。折衷主義がエピゴーネンの精神であり、その形式は諸説の寄せ集めである。
社会革命党は、「人民の意志」というロマン主義的名前を――よりヨーロッパ的なものにするために――拒否することを余儀なくされただけでなく、戦闘団という神聖な名称を中央委員会の政治的統制のもとに置くことを余儀なくされた。エスエル党の5〜6年の歴史の全体は、柔軟になった革命的インテリゲンツィアがまずもってプロレタリアートの階級闘争に、その後は、農民の自然発生的運動に適応していく過程である。インテリゲンツィアは、テロを、独自の方法として、政治的自己保存の保証として、自分の背後に維持していた。そして、実践的にはテロリスト組織の力に依拠し、観念的には主観的方法に、すなわち個人的イニシアチブの哲学に依拠しながら、自らをプロレタリアートと農民の運動に養子縁組させ従属させようとした。「インテリゲンツィア」+「テロ」、「プロレタリアート」+「『主観的に』より洗練された階級闘争」、「農民」+「土地の社会化」――このように、社会革命党の折衷主義的寄せ集めは、彼らには最高の政治的総合であると思われたトリアーデに帰着した。しかしながら、この寄せ集めの下には――絶対主義の「超階級的」本質というエスエルの見方の場合と同じく――それ自身の歴史的基盤がある。実際にエスエルが欲していたのは、革命的インテリゲンツィアの「主観的」ジャーゴンで言い表わすことで自己の独立性を擁護しようとしつつも、プロレタリアートと農民の革命的協力という歴史的に条件づけられた要求を定式することだったのである。
プロレタリアートと農民に対するインテリゲンツィアの独裁が破産したのは、もちろんのこと、アゼーフのせいではない。革命と反革命の諸事件は、多くの代数的定式を生きた政治的内容で満たし、エスエルの総合的寄せ集めのあらゆる継ぎ目を引き裂いた。議会主義の可能性が最初に垣間見えたとき、テロリストの実験室よりも、弁護士の演壇や大学教授の講壇や編集部の席の方がはるかに居心地がいいと感じた広範なインテリゲンツィア集団(いわゆる人民社会主義者)が、エスエルの寄せ集めを拒否した。他方の翼からは、ツァーリズムの政治的抵抗のみならず反革命の経済的抵抗をもダイナマイトの分量を増やすことで克服しようと考えた最大限主義者のグループも、エスエルの寄せ集めを拒否した。農民の代表者、すなわち最初の2回の国会におけるトルドヴィキは、自己のうちに議会主義的な社会革命党員をほとんど跡形もなく溶解させたが、それにもかかわらず政治的無定形さから解放されはしなかった。このために、彼らは、あらゆる問題においてカデットと社会民主党の間を動揺した。プロレタリアートの圧倒的多数は、革命の全期間、社会民主党にしたがった。それゆえ、エスエル党の社会的基盤は、試練の瞬間、はなはだ不安定であることがわかり、内的な中心的力は党をばらばらに破壊した。そして、この、分解と優柔不断の土壌の上に、アゼーフの暴露という、そのあらゆる法則性の点で驚くべき予想外の事件が降りかかったとき、エスエルの陣営にパニックが支配し、より率直な者は次のように公言せざるをえないとみなしたのである。「社会革命党は、組織としては存在していない」(『革命思想』第4号)。
ロシアのテロリズムは死んだ。そして、バカーイ(4)、この革命的・オフラーナ的・テロリスト的再洗礼派――ワルシャワでテロリストを死体に変える手伝いをしていたが、今では自分の教父であるブルツェフ(5)
[右の写真]とともにテロリズムの死体に生気を吹き込もうとしている――が、第2のアゼーフ体制のための条件を作り出すことができたとしても、せいぜいのところ、第1のものの10分の1程度であろう。革命的テロははるか東方へと移った――パンジャブやベンガルの地に。そこでは、3億の人民がゆっくりと政治的に覚醒しつつあり、テロのための好都合な雰囲気をつくりだしている。その地の国家体制は、超社会的な専制主義という点でずっと絶対的なものに見え、ずっと「偶然的」で異質なものに見える。なぜなら、東インドにおける軍事的・警察的機構は、イギリスから更紗や帳簿とともに持ち込まれたものだからである。そして、学生時代からロック(6)やベンサム(7)やミル(8)の思想に接し、その思想的進化の点で国の政治的発展を追い越しているインドのインテリゲンツィアは、必然的に、自分たちに欠けている力を、錬金術的レトルトの底に見いだそうとする。おそらく、東方の別の国でも、テロリズムが繁栄の時代をこれから迎えようとしていることだろう。しかし、ロシアにおいては、それはすでに歴史の遺産の中に入っているのである。わが党は常にエスエルに対して極度に非和解的な態度をとってきた。この非和解性は、社会民主党自身が当初その指導的上層において同じ革命的インテリゲンツィア――ただしマルクス主義的世界観をもったそれ――によって構成されていただけになおさら、避けられないものであり、なおさら鋭いものであった。テロリズムと闘争することで、マルクス主義的インテリゲンツィアは、労働者街から去って大公やツァーリの宮殿の下に地下道を掘るようなことはしないという自己の権利ないし義務を擁護した。総花的な綱領的・組織的「総合(ジンテーゼ)」と闘争することで、マルクス主義的インテリゲンツィアは、一般民主主義的カオスに溶解してしまう危険性と手を切ったのである。その後の事態の進展は彼らの正しさを証明した。そして、インテリゲンツィアが、自分たちのつくった党から集団脱走する以前に、彼らは社会主義的労働者のうちに自己の代理人を見いだした…。しかしながら、現在、われわれにとっての問題はすでに社会革命党との「線引き」にあるのではなく、この党のプロレタリア分子を政治的に吸収することにある。前者の目標には主として理論的な論争が役立ったが、後者の目標には主として巧みな組織政策が役立つにちがいない。
党の本質は綱領それ自体によっては決定されないが、党の理論家や評論家の著述によってはなおさら決定されない。党の社会的構成――これこそが党の比重を決定し、その政治的軌道をあらかじめ規定する。もしエスエルが、その構成からして、もっぱら、ないし、主としてプロレタリア政党だとしたら、その場合には、われわれの任務は最初から、われわれと彼らとの間の理論的相違の楔をできるだけ深く打ち込むことではなく、反対に、政治的実践において接近の道を探し求めることであったろう。その道は、エスエルの労働者が、その党の理論的偏見を最も支障なく取りのぞくのを助けただろう。しかし、問題は、この党の階級的輪郭が常に混沌としていたこと、そして、統一すべきは労働者なのか、「勤労」農民所有者なのか、自治会医や地方の文筆家なのか、について一度も確信をもって言うことができなかったことにある。
同一の綱領でも、それが党のさまざまな階級グループに対してもつ意味はまったくさまざまである。インテリゲンツィアのゼムストヴォ代表者と生粋のエスエルが、階級的に不明瞭な社会主義という定式のうちに、自己の曖昧で矛盾した小ブルジョア的利害を表現しているのに対し、工場労働者出身のエスエルは、反対に、その明確なプロレタリア的利害を小ブルジョア的なユートピア主義の定式にはめこんでいる。ゼネストにおいて、代表ソヴィエトにおいて、労働組合において、エスエル労働者は、社会民主党労働者と手に手をとって協力した。エスエルのインテリゲンツィアが完全な虚脱状態に落ち込んでいる現在、エスエル労働者は、すでに述べたように、労働者に特徴的な高潔な組織的粘り強さをもって不屈さを保ち続けている…。このようなプロレタリア集団に対し、非和解的な闘争という旧来の方法を適用するならば、それはとんでもないアナクロニズムに陥ることを意味するだろう。このような教条主義は彼らをアナーキズムの道に押しやるだけである。しかし、巧みな組織政策を用いるなら、彼らができるだけ早くわが党に合流するのを保証することができるだろう。
3
革命期におけるブルジョア「国民」の深刻な分裂は――国際労働運動の強力な発展の雰囲気の中で――ロシアのブルジョア・インテリゲンツィアの左翼を社会主義の陣営に投げ込んだ。しかし、このインテリゲンツィアのテロリスト・グループが自らの思想的独立性を階級的プロレタリア社会主義から擁護すればするほど、ますます彼らは自己の政治的独立性をブルジョア自由主義から擁護することができなくなった。党の発生時からして、エスエルは自然と合法的野党に付属した戦闘部隊に変じる傾向にあった――客観的にも主観的にも(先に引用したゲルシュニの手紙を参照)。自由主義者たちはこのことをよく理解していた。彼らはテロに対する共感をけっして隠さなかったし、そのことを、彼らにとって最も自然な形で表明した。すなわち戦闘団に資金援助したのである。
「シピャーギン(9)の暗殺は――と自由主義派のペテルブルク通信の一つである『オスヴォボジュデーニエ(解放)』は書いている――驚くほど一致した喜びでもって迎えられた」…。
そして、シュトゥットガルトの機関誌の編集長たるストルーヴェ(10)氏自身が、躊躇なく、「ロシアにおける政治的暗殺の人気ぶり」を認めた(第2号、1902年7月2日)。「政治的、心理的に、この暗殺は必然的であった」と、彼はプレーヴェ暗殺の2年余り後に書いている。そして、さらに断固とした調子で「ロシア社会の中から次々と復讐者を生み出していく憤激と怒りの社会的雰囲気」に訴えている(第52号、1904年7月19日)。
「率直に言うならば、同志諸君――と同じ号で協力者の1人が書いている――その手で全能の大臣の犯罪的生涯に終止符を打った自然人と、数百万とはいかなくても、少なくとも数十万のその同胞たちとの間にある精神的連帯は、完全で疑うべくもない」。
自由主義者たちは、テロが政府の隊列に混乱と士気阻喪とをもたらす(注意せよ。これは革命家の隊列における混乱と士気阻喪とを代償にしている)かぎり、他でもなく自分たちの利益になることを理解していた。テロは、大衆運動と違って、自動車のように操縦することのできる革命闘争の形態である。テロリストが脅し、自由主義者は――テロの中止を請け合いつつ――合意に達することをもくろむ。エスエルが大臣を暗殺する一方で、ツァーリの家族に「今のところは」処刑の時期ではないと宣言して、ツァーリに熟考の時間を与えた時に、ストルーヴェは、テロの成功にもその一時的「自制」にも依拠して、上に向かってこう訴えた。
「目をさませ、紳士諸君! 諸君は、主権とその担い手とを犠牲にして非常に危険な役割を遂行しつつある」(『オスヴォボジュデーニエ』第2号)。
スヴャトポルク=ミルスキーの「春」(11)の最初の頃、自由主義者たちは1904年秋のパリ会議において、社会民主主義組織以外のすべての革命組織を、「最小限」綱領、すなわち自分自身の綱領の周りに結集し、ゼムストヴォ大会と自由主義新聞がスヴャトポルク公に自らの条件を課したが、その時、自由主義者の背後にいたのは、交渉の結末を期待して待っていたテロリストであった。その後、第1国会が開催され、カデットが「執行権力が立法権力に従属する」ことを要求した時、社会革命党は再び一時的にテロを中断した…。自由主義に奉仕する手段としてのテロの役割は、もし、この2方向の交渉――すなわち、ミリュコーフ(12)とチェルノフ(13)、アゼーフとの交渉(参照、ストルイピン(15)の国会演説)、同じミリュコーフとトレポフ(14)、ストルイピンとの交渉(参照『レーチ』第46号)――に革命的大衆が押し入って当初の予定を損なわなかったとしたら、もっと明白なものになっていただろう。
大10月ストライキに至るまでの、革命の最初の時期、自由主義者たちは大衆運動に対して同情的な態度をとっていた。だが、この同情は、その中の最も保守的な人々、ないし、その反対に最も洞察力のある人々においてのみ、不安な予感のために曇らされていた。労働者階級の登場が半自然発生的性格を有し、政治的・組織的に無定形であった間は、それは、テロと同じく――ただしはるかに大きな程度でだが――絶対主義を揺るがすことで、まさに自由主義者を権力の当然の要求者として押し出した。しかし、すでに10月ストライキの最中に、革命が内的に急速に組織化されていくと(代表ソヴィエト、農民同盟、鉄道組合、等)、自由主義は自らが脇に退けられたと感じ、革命のこれ以上の発展がツァーリズムの犠牲によってだけでなく、自分自身の犠牲によって実現されるであろうことを明確に理解した。1905年の間、とくに1月9日以後、自由主義は革命と自分たちとの結びつき(もっとも、それははなはだ幻想的なものだったが)を利用していたし、すでに1904年の末にこの結びつきをパリにおいて文書に記していたが、1905年の終わり頃からは、ますます厳しく革命から一線を画そうとし、それ以降、君主主義と「秩序」愛を利用するようになった。彼らは次のように考えた。かつての非合法的な結びつきは重荷となり評判を落としつつある。わが左側の友人はわが左側の敵となり、赤旗は「赤い包丁」であることがわかった、と。自由主義は、ミリュコーフの口を通じて、「自分の背にロバを乗せて運ぶ」のを厳かに拒否した。革命に対する自由主義のこの増大しつつある敵意の中に、テロに対する彼らの最近の同情も埋没してしまっている。テロは、それが約束したものを与えなかった。なぜなら、それは大衆運動に取って代らなかったどころか、その中に溶解してしまったからである。カデットは「左翼の暴力」を非難するどんなわずかな口実も見逃さない。アゼーフ事件に関する国会質問は、彼らに、二つの戦線――すなわち、ツァーリズムに対する慇懃で下僕的な「反対」と革命に対する悪意に満ちた中傷的攻撃――における闘争を総括する絶好の機会を与えた。ミリュコーフは、この総括を、彼にふさわしい醜悪さでもって行なった。彼の演説は実に破滅的な形式で表現されているので、その主要な命題をここに引用しておくべきであろう。
「われわれは、革命に近く革命に対して友好的であるという嫌疑をかけられているが――とカデット党の指導者は言う――、革命家の中の最も賢明な人々は、われわれのことを常に最悪の敵であると呼び、そうみなしてきた」。
「政府の措置は革命を停止させなかったどころか、反対に、革命に勝利することができないという考えにもとづいていた。…だがわれわれカデットは、かかる希望を有していた」。
「われわれは革命の近くに何を探しに行ったのか?…われわれは、ロシア社会と政府の間に存在する深い溝を埋めたいと思っていたのだ」…。
「われわれは合法闘争にのみ近い将来の唯一の救いがあると期待した。この、いまだ不明確な可能性のために、われわれは、紳士諸君、人望を危険にさらしたのである。われわれははなはだ急速にそれを台無しにした」…。
「私はなぜわれわれが弱かったのかを諸君に述べた…。それは、諸君(右派)がわれわれに反対したからではなかった。諸君は遅れてやってきた。当時諸君は家で座っていた…。われわれが一人とり残されたのは、最左翼――諸君はその指導部がわれわれであると非難したのだが――がわれわれから去っていったからである」…。
「赤い力に依拠しているとみなされていた当時、われわれは内閣に呼ばれた…。革命家であると思われていた間、われわれは尊重された。だが、厳格な(!)立憲政党であることがわかった時、われわれは必要であるとはみなされなくなった」。
このようにミリュコーフは、2月13日の国会審議で述べた。彼は、革命家が政府の譲歩の誠実さを信じず、唯一の救いが合法闘争にあることを信じようとしないと言って革命家を非難した。そして彼は、政府の譲歩が誠実なものではなく、合法闘争の可能性を奪ったと言って政府を非難した。つまり、ツァーリズムは、革命に対する勝利を保障するカデットの方法を採用しなかった点で罪があった。革命は、ツァーリズムと闘争するカデットの方法を採用しなかった点で罪があった。そして、帝政政府と革命政党の共同の「罪」の結果として、無力になり、取るに足りない存在になり、両方から軽蔑されるようになったのが…、他ならぬカデットであった。
カデットの指導者によるこの釈明演説は、ロシア自由主義に対する、本質的に正しい――だが、あまりにも辛辣な形式の――風刺となっている。
4
アゼーフについての国会質問はわが党の議員団のイニシアチブで行なわれた。それと並んで、カデットは独自の質問を行なった。彼らは、その質問が原則的なものでなくなればなくなるほど、それによって直接的な奇跡的結果がもたらされるのではないかという期待を大きくした。だが、それは誤りであった。彼らの質問は、われわれと同様、首相
[ストルイピン]の「輝かしい」演説の後、国会の多数派によって一致して退けられた。そして、この行を書いている現在、自由主義派のメディアは、かつてあれほどの期待をかけていた、アゼーフ事件に関する質問の「失敗」について哀れっぽく叫んでいる。しかし、この公的な失敗は、テロ戦術の破産とまったく同じく、社会民主党に何の打撃にもならなかった。ツァーリズムのテロリスト的官僚制との闘争手段としての官僚主義的な革命的テロに対して、ロシア社会民主党はこれまで非和解的な態度をとってきたが、それは、ロシアの自由主義者の間だけでなく、ヨーロッパの社会主義者の間でも、当惑と非難に出くわした。何度もエスエルは、われわれに反対して、『フォアヴェルツ』や『ユマニテ』やウィーンの『アルバイター・ツァイトゥング』を引用したものだ。今ではおそらく、われわれの政治的正しさ、実生活と現実に合致した正しさを証明する必要はないだろう。政治的発展は、その復讐の苛酷さをあまりにも説得的に示した。
しかし、今とくに記しておきたいと思うのは別のことである。西欧の同志たちのうち、わが国において大臣や君主をもさぼり食う血に飢えた連中と最も似ていない人々がまさに、それでもやはりロシアにおいてはダイナマイトの詰まったブリキ缶が最良の政治的主張なのだとみなしている事実である。これはほとんど感動的ですらあるように見える。この事実を説明するのに、ゲーテの描く小市民の心理を持ち出すだけでは不十分だろう。彼らは、日曜・祝日ごとに、トルコのどこかでの戦争や戦場での騒動の話に喜んで耳を傾け、こうして、日常の中で平和的にまどろんでいる自己のロマン主義にはけ口を与えるのだ。
Dann Kehrt man abends froh nach Haus',
Und segnet Fried' und Friedenszeit.
(それから、あたり一面静かな家に帰り
平和と平和の時代に感謝するのである)
実際には、社会主義的日和見主義とテロの革命的冒険主義との結びつきには、はるかに深い根がある。前者も後者も、支払い期日の前に決算するよう歴史に訴えているのである。両者とも人為的に出産を早めようとして、結局、流産という結果をもたらす。それがミルラン主義(16)であり…アゼーフ主義である。テロリズム戦術も議会主義的日和見主義も、重心を大衆から代行者集団に移し、その抜け目なさやヒロイズム、エネルギー、如才のなさにすべての成否をかけてしまう。前者も後者も、指導者を大衆から隔てる大きな舞台裏を必要とする。一方の極においては、神秘主義に包まれた「戦闘団」、他方の極においては、無知な党員大衆に――彼らの意志に反して――恩恵をもたらすための国会議員の秘密の陰謀。
日和見主義とテロリズムの政治的・心理的類似性は、しかしながら、これにとどまらない。大臣職を(最良の善意をもって)狙う人々、ないしは、より小さな規模で言うと、「進歩的」大臣の好意や同情を狙う人々は、時限爆弾を外套の下に隠しもって大臣そのものを狙う人々と同様、大臣というものを、その人格やポストを過大評価しているのである。彼らにとってシステムは、見えないか、どうでもいいものである。ただ権力を握っている人物しか目に入らない。一方は大臣を自分の側に引き寄せるために、警察予算に賛成投票する。他方は、警察から隠れ、大臣のこめかみにブローニング銃をつきつける。技術は異なるが、両者とも同一の目標を立てている。すなわち、大衆を無視して大臣に直接はたらきかけているのである。
それだけではない。社会主義者の議員が、宮廷に出向いて王のお言葉を拝聴するようになってしまえば――もちろん、これによって彼らがより賢くなるわけではない――、彼ら議員がこれによってわれわれの民主主義的エチケットを犯しているのだと言ってみても、それは、あまりにも安っぽい批判であろう。ここで問題になっているのは、象徴ではなく、症候なのである。だがいったい何が、革命家のエチケットよりも君主制のエチケットの方を好むよう彼らに促しているのだろうか? それは明白である。彼らは自らの登場によって、好意的だが臆病な君主を「はげます」ことを欲している、ないしは、反対に、その後継者に、もし前任者にならって行動しなければ、5年に1度、国会内で生きた社会主義者を見るという野心に満ちた希望を永遠に放棄せざるをえなくなるぞと警告したがっているのである。ロシアの社会主義者には、このような「道徳的」はたらきかけの微妙な手段を有していないため、残された自由になる手段は物理的に脅すことだけだという結論を引き出さざるをえない。しかし、どちらの場合も問題になっているのは、君主を「認識」することであって、プロレタリアートを認識することではない。
穏やかな政治的気候にある諸国では、社会主義者は、死んだ君主の棺の後に並ぶようにするだけで、その君主の後継者のハートを――自分が死んだときにも、棺の後に社会主義者が並ぶかもしれないという魅力的な展望でもって――つかむのに十分なのである。しかし、君主の自然な交替が十分適切な形で定着していない厳しい気候の国においては、遺伝と退化という盲目的法則しか作用しない領域にダイナマイトの意識的な統制を持ち込むことで運命を変えよう(corriger la fortune)という願望が現われないわけがあろうか。教育学は、褒美というアメとともに、処罰というムチを知っている。そして、社会主義的政治が君主の教育技術の水準にまで高まるならば、宮廷風のお辞儀と爆弾の投擲のようなさまざまな行動は同じシステムの構成部分となるだろう。言うまでもなく、教育学のテロリスト的形態は、それに対するいかなる同情があろうとも、国境の向こう側からよく観察するべきだろう。
わが党の犯す誤りがいかなるものであろうとも、それは常に――わが党の名誉のために言っておくが――ユートピア主義の二つの形態、すなわちその日和見主義的形態と冒険主義的形態のどちらからも等しく遠いものだった。わが党は、地下活動において、エスエルとともにテロリスト・アゼーフに期待をかけることがなかったのと同様、国会において、カデットとともに挑発者アゼーフに期待をかけることもなかった。わが党は、かつて一度たりとも、アゼーフのダイナマイトでもって大臣を亡きものにしようとしたり、脅そうとしたりしたことはないし、アゼーフに関する質問によってストルイピンを追い落とそうとしたり、再教育しようとしたこともない。まさにそれゆえ、この両方の失敗による2日酔いに関わらずにすんだのである。地下活動においても国会においても、ロシア社会民主党は同一の仕事を遂行している。すなわち、労働者を啓発し団結させるという仕事を。この仕事はよりうまくも、より下手くそにもできる。だが一つのことだけは確かである。この途上においては、誤りはありえても、破産の可能性はないということである。
1909年3月27日
『社会民主主義評論』1909年5月号
ロシア語版『トロツキー著作集』第4巻『政治的年代録』所収
『トロツキー研究』第17号より
(1)ゲルシュニ、グリゴリー(1870〜1908)……ロシアの革命家、社会革命党の「戦闘団」の創設者の一人。1902年、彼の指導のもと、内務大臣シピャーギンの暗殺が実行された。1903年5月にキエフで逮捕され、無期懲役を言い渡される。1906年にシベリアから国外に脱走。
(2)カリャーエフ、イワン(1877〜1905)……テロリストの革命家。1899年に社会民主党に入党し、1902年に国外に亡命し、そこでツァーリ政府に引き渡され、ワルシャワの監獄に入れられる。出獄後、エスエルに鞍替えし、戦闘団の活動的メンバーに。1905年2月17日、エスエル戦闘団の任務として、セルゲイ・アレクサンドルヴィチ大公を暗殺。1905年5月22日に処刑。
(3)バカーイ、ミハイル(生没年不明)……著名なスパイ挑発分子で、スバトフ主義の時代からすでに秘密警察のスパイだった。オフラーナの命を受けて、エスエルの地下活動家に。1907年に逮捕されるも、国外に脱出。国外で、ブルツェフとともに、自らがスパイ挑発者であった経験を生かして、アゼーフなどの挑発者を暴露することに尽力した。
(4)ブルツェフ、ウラジーミル(1862-1942)……ロシアの古参ナロードニキ、「人民の意志」派。第1次世界大戦まで、挑発分子を暴露する専門家として活躍。1908年に最大のスパイ挑発者アゼーフを暴露。10月革命を受け入れず、亡命。1923年にパリで回想録を執筆。
(5)スヴャトポルク=ミルスキーの「春」……革命家に対する断固たる弾圧を主張していた内務大臣プレーヴェがエスエル戦闘団のサゾーノフによって暗殺されたのち、1904年7月にスヴャトポルク=ミルスキー(1857-1914)が後任になった。ミルスキーはプレーヴェと同じ憲兵だったが、少し「自由主義的」であった。スヴャトポルク=ミルスキーは1905年1月の「血の日曜日」事件で失脚するが、それまでの比較的自由主義的な時期をスヴャトポルク=ミルスキーの「春」と言う。
(6)チェルノフ、ヴィクトル(1873-1952)……エスエルの指導者。第1次大戦中は 左翼中間主義的立場。1917年2月革命後、第1次臨時政府の農相。右翼エスエルの指導者。憲法制定議会の議長。ソヴィエト政権と闘争。チェコ軍団の反乱を煽動。1921年に亡命。
(7)トレポフ、ドミートリー(1855-1906)……帝政ロシアの政治家、警察官僚。1896年以後、モスクワ市警本部長。「血の日曜日」事件以後ペテルブルク総督に就任し、4月以降、内務次官を兼任し、首都の革命運動弾圧にあたり、ポグロムを煽動。
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