平和綱領

(オリジナル完全版)

トロツキー/訳 西島栄

191

【解説】この論文は、第1次世界大戦中、トロツキー派の国際主義日刊紙『ナーシェ・スローヴォ』に長期連載された綱領的論文である。この論文の中で、トロツキーは、革命的国際主義者が、現今の帝国主義戦争下において採用すべき戦略とスローガンをきわめて具体的な形で提起している。(左の写真は1915年のトロツキー)

 平和の問題を重視するトロツキーの立場は、帝国主義戦争勃発直後に書かれた著作『戦争とインターナショナル』以来一貫したものだが、この立場を、その後の一連の論文の中でしだいに肉づけし、またさまざまな論戦、とりわけメンシェヴィキ派やボリシェヴィキ派との論戦を通じて、イデオロギー的に鍛えていった。この論文はそうした一連の取り組みの結節点をなすものであり、左右の日和見主義を批判しつつ、プロレタリア的平和綱領の具体像を彫塑している。

 この論文は、1917年の2月革命後に、当時の臨時政府に対する闘争課題にあわせて大幅に修正され、パンフレットとして出版された。当時トロツキーはすでにボリシェヴィキと完全な共同歩調をとっていたために、当初、この論文に含まれていたレーニンに対する批判は大幅に削除されることになった(修正版「平和綱領」は『トロツキー研究』第14号に全訳)。後に、「平和綱領」は、1922年に『戦争と革命』というトロツキーの大戦中の論文を集大成した2巻本の論文集に収録されたり、英語をはじめ各国語に翻訳されて世界中に流布したが、それはすべて修正版にもとづくものであった。『ナーシェ・スローヴォ』に連載されたままのオリジナル版は、ロシア語として一度も再版されず、またどの言語にも訳されていなかった。

 今回、より詳しい訳注をつけるとともに、訳文を一部修正しておいた。

Л.Троцкий, Программа мира, Наше Слово, No.411, 412, 415, 416, 473, 474, 475, 1916.1〜4.


  1、平和綱領は必要か

  2、「無併合の講和」と戦前の原状

  3、民族自決権

  4、ヨーロッパ合衆国

  5−1、『ソツィアール・デモクラート』の立場

  5−2、『ソツィアール・デモクラート』の立場(完)

  6、平和綱領に対する受動的態度と革命的態度

  訳注


 

1、平和綱領は必要か

 プロレタリアートが闘いとらなければならない「講和条件」の問題は、ツィンメルワルトでは原理レベルでの論争をほとんど引き起こさなかった。この条件はフランスとドイツの代表団の共同声明のなかに最初に定式化されて、次にツィンメルワルト宣言でほとんど逐語的に繰り返された。論争はまったくなかった。それと同時に、明らかに、この問題でツィンメルワルト会議の参加者のあいだに完全な統一もなかったし、かといって参加者を分裂させるような意見の相違も明確に意識されなかった。平和のための闘争というスローガンそのものに反対している人々(レーニン派)は、会議ではほとんど闘うことなく譲歩した。彼らも理解しないわけにいかなかったのだ、運動がいたる所でまさに平和のスローガンのもとで発展しつつあることを。このような状況のもとでの革命家の課題は、このスローガンを「坊主的」だと言ってと中傷することにあるのではなく、このスローガンを革命的内容で満たすことにある。

 停戦という抽象的スローガンを支持する人々(こうした傾向の論文はたとえば『ベルナー・タークヴァッハト(ベルンの哨兵)』(1)に見られる)もまた、会議において自分の見地を擁護しはしなかった。最後に、「無併合」というスローガンの限界を越えて平和綱領を拡大することに反対している人々も自分の立場を擁護しなかった。だが他方では、反戦闘争のスローガンをより広範囲で明確なものにする立場にたつ人も前面に出なかったために、この綱領的レベルではまったく闘争が行なわれなかったのである。

 ツィンメルワルト宣言は、「無併合」という消極的スローガンと並んで、民族自決権の承認――併合問題よりも重要ではるかに一般的な原理――という積極的な要求をも含んでいる。フランスとドイツの代表団は、平和が「共同作業のための(諸民族の)統一の可能性」をつくりだすにちがいないと述べた。ここでは、孤立した民族国家を一掃する必要性が、最も一般的な形で認められている。わが編集部が1915年1月のコペンハーゲン会議(2)に寄せて作成した声明に関して言うなら、その声明において、もちろん併合の拒否や民族自決の承認と並んで、「ヨーロッパの政治的統一」というスローガンが提出されている。このあまり正確でない定式は誤解を生み出しかねないものだが、フランスとドイツの代表団の声明に見られるあいまいな定式よりもはるかにましである。この両方の場合において問題になっているのは、先進諸国の国家的・経済的分離を一掃することである。

 平和のための闘争における同じ基本原則は、戦争の開始直後の1914年9月に、ドイツ、イギリス、ロシア、イタリアの労働者を含むチューリッヒの労働組合「アイントラハト(統一)」によって、はるかに正確に、そしてアジテーション的な意味でも有効な形で、言いあらわされている。すなわち、無併合! 無賠償! 民族自決権! 君主制なき、常備軍なき、秘密外交なきヨーロッパ合衆国!

 しかしながら、ツィンメルワルトにおいて支配的だった傾向にとって、二つの事情が重要な意味をもった。すなわち、プロレタリア平和綱領を提出することに反対する立場をとる人々が抵抗なしに平和綱領を受け入れたことと、この綱領が非常に一般的な表現で定式化されたことである。

 戦争としての戦争、すなわち「蛮行」や「文化に対する災厄」等々としての戦争に反対する闘争(たとえそれが革命的なものであったとしても)を呼びかけることに限定することは、政治的、歴史的にではなく、抽象的平和主義の立場から問題を立てることを意味する。また戦争に社会革命(ないし、その特殊用語たる内乱)を対置することは、またしても革命政治の立場からではなく、抽象的極端主義の立場から問題を立てることを意味する。戦争の帝国主義的な、したがってまた資本主義的な土台は、国家的、政治的、法的、民族的「上部構造」を通して現象する。そうした現象は大衆の意識においても、事件の客観的歩みにおいても、巨大な場所を占めている。帝国主義戦争とその社会的土台に対する闘争の革命的綱領は、戦争によって最高度の緊張に達した政治的、国際的、国家的、民族的諸問題を無視することはできない。これらの諸問題は、もちろんのこと、社会革命によってしか解決されないだろう。しかし、その解決のためには、社会革命の党は自己の明確な綱領を有していなければならないのである。

※  ※  ※

 われわれの反戦闘争を何らかの「講和条件」によって「複雑にする」ことに対する最初の、そして最も初歩的な反対論は、これらの条件は、それが軍事的に保証されるまで講和[平和]に達することはできないという意味に理解されかねない、というものである。

 講和の諸条項が戦争兵器によってもたらされた諸結果を総括するものであることは疑いない。この意味で、平和[講和]綱領は、国際条約のなかに書き込まれるときがくる以前に、軍事行動によって物質的に準備されなければならない。だが、そうであるのは、第3の勢力が介入するまでのことである。まさにそれゆえ、先の論拠が説得的なのは、戦争の最初の時期だけである。革命的プロレタリアートにとって平和綱領は、各国の軍国主義によって実現される諸要求ではなく、国際プロレタリアートが軍国主義に対する自らの革命的闘争によって押しつけんとする諸要求なのである。明らかに、階級的革命運動が成長すればするほど、講和条件が戦争の政治的目的として大衆に理解される危険性はますます幻想的なものになっていくだろう。それどころか、かつて戦争のために戦争を引き起こした有産階級などいないとすれば、そして、戦争とは――クラウゼヴィッツ(3)の卓越した定義によれば――別の(より断固とした)手段による(有産階級の)政治の継続であるとすれば、プロレタリアートも、抽象的・人道的平和主義の見地から平和としての平和のためにたたかうのではなく、反戦闘争を、別の(より断固とした)手段による自らの階級政治の継続として遂行しなければならない。

 反戦運動の次の段階において、平和綱領(ないし拡張された平和綱領)に反対する別の論拠が、政治的「現実主義」にもとづいて提出された。

マルトゥイノフ

 民族自決権やヨーロッパ合衆国といった内容をもつ平和綱領を実現するには――と反対論者は言う――プロレタリアートはいまだ力不足である。現在の戦争の結果としてプロレタリアートがこの種の平和綱領を実現すると期待するのはユートピア的である。だが、停戦それ自体と無併合の講和のための闘争は、別問題だ。これはより現実性のある綱領である。このようなものが、たとえば、ちょうどツィンメルワルト会議の最中にわれわれの新聞に掲載されたマルトゥイノフ(4)[右の写真]論文の主張である。

 しかしながら、ここで言われている、停戦と無併合の講和のためにたたかうことの「現実性」とは、いかなる意味か? 戦争が遅かれ早かれ停止するということ、このことは疑いない。この待機主義的意味で理解された停戦のスローガンは、議論の余地なく「現実的」である。なぜなら、それは確実だからだ。だが、革命的な意味においてはどうか? 次のように反論することも、しようと思えば可能である。現在の力量からすれば、革命的プロレタリアートが支配階級の意思に反して戦争を停止させることができると期待するのはユートピア的ではないのか? そして、それゆえ停戦のスローガンは拒否されるべきではないのか? さらに、である。いったいどのような条件下において、この停戦が生じるのか? ここでは、理論的に考えて、三つの典型的な場合がありうるだろう。(1)どちらか一方の側の決定的な勝利、(2)いずれの側も決定的な優位性をもっていないことからくる交戦諸国の全般的消耗、(3)戦争の成り行きの「自然な」発展を阻止する革命的プロレタリアートの介入。

 戦争が一方の側の決定的な勝利で終わる第1の場合、完全にはっきりしているのは、無併合の講和が無邪気な空想にすぎないということである。あらゆる手段でもって自国の軍国主義の仕事を手助けしているシャイデマン(5)とランズベルク(6)が、議会で「無併合の講和のため」に演説しているのは、まさに、この種の抗議がいかなる「有益な」併合も妨げはしないという確固たる計算にもとづいてのことである。足の先から頭のてっぺんまで武装した勝利国に併合を断念させるためには、当然ながら、プロレタリアートには、良き意思の他に、革命的力とそれを公然と用いる直接的準備とが必要であろう。いずれにしても、達成された勝利の実現を勝利国側に放棄させるいかなる「ほどよい」手段も、プロレタリアートは持ち合わせていないのである。したがって、「現実主義」というならば、併合に反対する闘争は拒否されるべきではないのか? 

 戦争の第2の結末――「無併合の講和」という制限された綱領を支持する人々が主としてあてにしているのはこれである――は、戦争が、第3の勢力による革命的介入によって遮られることなく、交戦国のすべての資源を使い果し、――勝者も敗者もなく――餓えと疲弊によって終結するまで継続するということを前提としている。戦争がいつまでも続く長期戦的性格を有しているという前提にのっとったこの結末は、人民大衆の物質的・精神的力が、したがってまたプロレタリアートの革命的エネルギーが一時的に消耗する可能性をも含んでいる。軍国主義に征服するほどの力がなく、プロレタリアートにも革命するほどの力がないというまさにこうした場合に合わせて、受動的な国際主義者たちは、戦前の原状(status quo ante bellum)への復帰としてしばしば定式化されてきた「無併合の講和」という自己の制限された綱領をつくりあげたのである。

 しかしながら、まさにここでエセ現実主義はそのアキレス腱をあらわにする。実際、「引き分け」という戦争の結末はけっして併合を不可能にするものではない。反対である。それは、まさに併合を前提にしている。二つの列強グループのうちのどちらも勝利しなかったとしても、これは、セルビア、ギリシャ、ベルギー、ポーランド、ペルシャ、シリア、アルメニアなどの国が無傷のままであるということをけっして意味するものではない。反対である。この場合、まさしく第三者の、最も弱小の国を犠牲にして、併合が行なわれるであろう。こうした相互「補償」を妨げるためには、国際プロレタリアートは、支配者に対する直接的な革命的反乱を起こす必要があろう。新聞の論説も大会の決議も、議会での抗議も、街頭のデモ行進ですら、支配者が――勝利ないしは協定によって――領土の掠奪を実行したり弱小民族を蹂躙したりすることをいささかも妨げなかったし、妨げないだろう。

 第3の結末に関して言えば、それは最も明快である。それは、国際プロレタリアートが下から戦争を麻痺させストップさせる力をもってこの戦争の真っただ中に登場するということを前提としている。この最も好都合な場合、完全に明らかなのは、戦争をストップさせる力を十分に有しているプロレタリアートが、併合の否定に帰着する純粋に消極的な綱領に自己限定することはけっしてありえないし、そう望みもしないということである。

 したがって、われわれの「平和綱領」を「無併合」というたった一つのスローガンに限定するというエセ現実主義的議論は、はなはだ皮相なものとして拒否されるべきである。このような立場は、戦争のさまざまな可能性の一つ――引き分け――を待機主義的に願望するものであり、しかも、たしかに最も可能性のあるこの唯一の場合でさえ、引き分けという結末が併合を防ぐ保証であるかのようなまったくまちがった観念にもとづいているのである。

 無併合の講和を実際に実現するためには、すでに見たように、いずれにせよプロレタリアートによる強力な革命運動を前提とする。しかしながら、このような運動を前提とする前述の綱領は、それに対して、まったくもって惨めである。それは、他ならぬ戦争を生み出した戦前の原状へ復帰するという要求に要約される。戦争、横領、抑圧、王朝正統主義、外交上の愚鈍、人民の無力を生み出した戦前のヨーロッパへの現状復帰が、「無併合の講和」というエセ現実主義的スローガンの唯一「積極的な」内容なのだ。すでにこのことだけでも、ツィンメルワルト会議がこのような綱領の立場に立たなかった理由が十分理解できるだろう。

『ナーシェ・スローヴォ』第24号(通刊411号)

1916年1月29日

 

2、「無併合の講和」と戦前の原状

 すでに述べたように、「無併合の講和」というスローガンは、プロレタリア平和綱領をそれに限定しようとするかぎり、保守的・防衛的性格を有している。それは、今大戦におけるプロレタリアートの課題を、戦争の勃発以前に存在していたヨーロッパ地図――あらゆる点で経済的、政治的、民族的に破産状況にあったそれを再建することに還元してしまう。オーストリアの国際主義者の宣言が数週間前の『ナーシェ・スローヴォ』に掲載されたが(読者諸君は、この興味深く内容豊かな文書を覚えているだろう)、これは戦前の原状(status quo ante )の再建を直接に要求していた。われわれの見るところ、革命政党にとって、このような綱領はまったくもって不適切である! 

 これに答えて、その宣言は、戦前の政治地図を再建することは旧秩序に戻ることと同じことではけっしてないと反論している。それどころか、それは実際には、プロレタリアートの闘争にとってより好都合な新しい状況をつくり出すことを前提としている。不毛な戦争の後に古い国境を再建することは、支配階級とその政治的道具たる軍国主義との名誉を失墜させることであり、それゆえ、力関係はプロレタリアートに有利なように変るだろう、というわけだ。

 『ナーシェ・スローヴォ』紙上でこのような見地を擁護した同志マルトゥイノフは、ヘラクレイトス(7)にちなんだ古典的実例でもって自分の考えを説明している。すなわち、川から出てきた人は、水に入ったときとは違っているだろう、と。まったくその通りだ。しかし、次のこともまた真実である。すなわち、正常な人がふつう川に入るのは、体を洗うためか、もしくは泳いだり、向こう岸に渡るためであって、わざわざヘラクレイトス的な自然の弁証法を身をもって示すためではない、ということである。このことがはるかによくあてはまるのは、歴史的過程という川につかっている党や階級である。彼らが歴史の川につかっているのは、つねに経済的ないし政治的な、公然ないし隠然たる目的のためであって、歴史的過程の弁証法を発現させるためではない。大衆が併合に反対しているのは――そして、大衆の強力な運動なしには、戦前の原状に戻ることすらできないのだが――明らかに、併合を自分たちにとって主要な危険性であるとみなしているからであって、戦前の原状への復帰によって支配階級の「名誉が失墜する」――誰の目から見て? 他ならぬ大衆自身の目から見てだ――からではけっしてない。ここでは革命政治は、悪しき教育学とも、高みから行なう歴史的過程に対する監督ともつかないものによって取って代られている。このおごった態度は、つねにメンシェヴィズムの最大の弱点をなしている。

 老ヘラクレイトスは、軍事的大変動の後に再建される戦前の原状(status quo ante )が実際には以前の状況と同じではないこと、しかも、プロレタリアートが介入するかどうか、またどのようなスローガンのもとで介入するか、といったことと関わりなくそうだ、という点で正しい。他方では、帝国主義的要求に対するプロレタリアートの断固たる闘争は、それがいかなるスローガンのもとで遂行されようとも、支配階級を弱めプロレタリアートを強くする。しかし、だからといって、プロレタリアートがヨーロッパの古い地図へ復帰することを自己の政治的目標にするべきだとか、経済発展の基本的傾向やこの時代の革命的性格やプロレタリアートの社会主義的利益に合致した、国家的・民族的諸問題に対する自分自身の綱領を提起する必要はないということにはけっしてならないのである。

  孤立的に出される「無併合」のスローガンは、戦争の成り行きによって生じてくる個々の問題において政治的に方向決定するためのいかなる基準も与えない。もしフランスが将来アルザス=ロレーヌを占領すれば、ドイツ社会民主党はシャイデマンの後に続いて、このドイツ領の返還を要求するべきであろうか? われわれはポーランド王国のロシアへの復帰を要求するべきだろうか? われわれは、日本が膠州湾をドイツに返還するのを支持するだろうか? イタリアが占領したトレンティーノの一部をしかるべきところに返還することについてはどうか? これらは無意味なことだ! そんなことをすればわれわれは、狂信的な王朝正統主義者に、すなわち最も反動的な外交の流儀にのっとった王朝的・「歴史的」権利の擁護者になってしまうだろう。しかも、困ったことに、この「綱領」を実現するためには革命が必要なのだ。

 もし以上のような場合やそれと類似の場合において具体的な行動に直面するとしたら、われわれは明らかに一つの原則だけを提起することができる。すなわち、当事者住民の意思を調査することがそれである。もちろん、この基準はけっして絶対的なものではない。たとえば、フランスの「社会主義者」たちは、クリスマス大会での宣言の中で、(アルザス=ロレーヌの)住民の意思調査を恥ずべき喜劇に転化してしまった。まず最初に占領し、その後に、併合されることへの同意を求めたのである。まったく明白なことであるが、真の意思調査は、住民がリボルバーの銃口の下で回答しなくてもよいという革命的条件を前提としているのである。

 一方では、けちな要求しかしない連中と、他方では、極端主義者とが、まさにそれゆえ、原則そのものを「非現実主義的」ないし「幻想をふりまくもの」と非難する傾向にある。それに対してわれわれは、そもそもプロレタリア平和綱領が現実的なものとなるのはただ大衆の革命的行動が存在する場合だけであると結論づける。しかし、他方では、帝国主義戦争期におけるプロレタリア革命は、一国的な革命ではなく、国際的な――具体的にはヨーロッパ規模の――革命であり、それは、プロレタリア平和綱領なしには、諸国人民の国家的・民族的共生と協同の綱領なしには、考えられないのである。

 このような実際の内容は、最後まで考え抜くならば、この問題における意見の相違を引き起こす。

 まず社会愛国主義者。自らの政治的幻想――政治的意思については言うまでもなく――をかきたて、自国の軍国主義と結びつき、軍国主義の力を、半分真剣に半分欺瞞的に、自分自身の力であると考えている彼らは、きわめてスケールの大きい平和綱領を提起している。すなわち、被抑圧民族の解放、民族自決権、軍国主義の粉砕、軍縮、国際仲裁裁判所、ヨーロッパ合衆国、その他多数である。以上の「綱領」は、強盗のナイフの切っ先でつきつけられた福音書とほぼ同じ意義を有している。

 極端主義者。彼らは、オランダのトリビューネ派※(8)のように、首尾一貫性を貫く勇気を持ち合わせている場合には、あらゆる平和綱領を、部分的にも全体としても拒否し、戦争や帝国主義、資本主義に対して社会革命の形式的理念を対置する。この立場は、純粋のプロパガンダ主義、啓蒙主義的セクト主義であり、中立国オランダの停滞した社会的条件における未熟なグループの政治的役割を反映している。ご存じのように、この派はすでにレーニン派の手に負えなくなっている。

※原注 彼らが発行している機関誌『トリビューネ』にちなんでつけられた名称。

 受動的国際主義者。彼らは政治的に、待機主義的・防衛的立場をとっている。彼らの多くは真面目に国際主義と階級闘争の原則を擁護しようとしている。だが、戦争と、それによってもたらされたインターナショナルの危機は、彼らにとって、つかのまの不幸事であり、一時的な病理にすぎず、それが過ぎ去った後には、すべてがもとの鞘に戻ることになっている。彼らは、来たる時代の革命的性格を真に理解せず、大衆の革命的行動能力を信じず、最小限主義的なスローガンを提起する。ところが、その実現のためには革命が必要なのだ。彼らの「現実主義」は全体として旧時代の遺物である。まさにそれゆえ、彼らの「現実主義」は、けちくさい幻想であり、あらゆるものの中で最も惨めなものであることがわかるのである。

 気分のうえで彼らに近いのが社会平和主義者である。しかし、彼らはマルクス主義派を包含していない。彼らは、自らの平和綱領を民主主義的原理によって無批判的に拡充しているが、それを実現する道筋についてはあまりよく考えていない。とはいえ、一般労働者にとって平和主義はしばしば、戦争によって引き起こされる諸問題の革命的設定に至る過渡的な段階である。

 必要なのは革命的な問題設定であり、そしてこの点にこそプロレタリア平和綱領の意義がある。この綱領は、革命の時代を考慮したものであるだけでなく、すでに見たように、それ自体が本質的に社会革命の政治綱領なのである。

 どのようなテンポで労働者大衆の中に革命的エネルギーが目覚め増大するのかについては、もちろん確信をもって言うことはできない。しかし、平和綱領、すなわち大衆が帝国主義に対して立ち上がるための政治綱領は、明らかに、革命時代のテンポとは独立に、はっきりと定式化されなければならない。運動の発展が遅延する場合には、平和綱領は当面の間、主としてプロパンガンダ的性格を帯びるだろう。しかしながら、「無併合の講和」と戦前の原状維持という切り縮められた綱領もまた、このような状況のもとでは同じくらい実現にほど遠いであろうし、そして何らかの原則的・教育的意義をまったく持ちえないであろう。

『ナーシェ・スローヴォ』第25号(通刊412号)

1916年1月30日

 

3、民族自決権

 われわれが先に見てきたように、社会民主主義は、民族国家の再編成と新形成の分野における具体的な問題を解決する際に、民族自決の原理なしでは一歩も足を踏みだすことができない。そして、この原理は詰まるところ、それぞれの民族集団が自らの国家的運命を決定する権利、したがって当該の多民族国家(たとえば、ロシアやオーストリア)から分離する権利を意味する。民族の「意思」を知る唯一民主主義的な方法は人民投票を通じてそれを調査することである。だが、この民主主義的に見て当然の回答は、それだけでは純粋に形式的なままである。それは、民族自決の現実的な可能性や方法、手段について何もわれわれに語らない。それはちょうど、サン=ジュスト(9)の憲法が幸福の権利を定めながら、それをいかにして実現するかを示さなかったのと同じである。ところが、このことのうちに、まさに問題の核心があるのである。

 大多数の場合にではないにせよ、多くの場合に、被抑圧諸民族・民族集団の自決は、現存する国境を廃棄し、現在の国家を分割することを意味する。とりわけ、この民主主義的原理は植民地の解放を導く――もちろん論理的にそうなるにすぎないが。ところが、帝国主義のすべての政策は国境の拡大に向けられており、民族原理とは無関係に、関税区域の中への弱小民族の強制的編入や新しい植民地の獲得に向けられている。帝国主義は本質的に攻撃的である。そして、帝国主義は、まさにこの性質によって特徴づけられるのであって、臨機応変の外交的駆け引きによって特徴づけられるのではない。

 したがって、多くの場合国家と経済の分権化に帰着する民族自決の「原理」は、その手中に国家組織と軍事力とを有している帝国主義の強力な中央集権的志向と敵対的に衝突する。たしかに、民族分離主義的運動はしばしば隣国の帝国主義的陰謀によって支持されている。しかし、この支持が決定的なものとなりうるのは、軍事力を用いる場合のみである。そして、事態が二つの帝国主義組織の軍事的衝突にまでいたるや否や、新しい国境は、民族原理にもとづいてではなく、軍事的力関係にもとづいて決定されるのである。新しく獲得した土地の併合を勝利した国家に断念させることは、以前強奪した地域に自決の自由を与えることをその国家に強制するのと同じぐらい困難なことである。

 最後に、たとえ奇跡が起こって、ヨーロッパが武力によって完全な民族国家と民族小国家に分割されたとしても――こうした奇跡について、ギュスタフ・エルベ(10)のような半空想家半ペテン師は駄弁を弄しているのだが――、これによって少しも民族問題は解決されないであろう。「公平な」民族的再分割が行なわれたその翌日に、資本主義的拡張が再開され、衝突、戦争、新しい併合が始まるだろう。そしてそれとともに、民族原理を防衛するための十分な量の兵力があるのでないかぎり、民族原理は完全に蹂躙されるだろう。以上の事態は、まるで、ギャンブラーが、後で倍する狂暴さをもって同じ賭事を再開するために、賭けの最中に自分たちの間で金貨を「公平」に再分配しているような印象を引き起こす。

 しかしながら、強力な帝国主義的傾向が存在しているからといって、われわれがそれに黙って拝跪しなければならないということにはけっしてならない。民族共同体は、文化――たとえばその生きた器官たる民族言語――の生命ある源泉であり、その意義は、不確定の長い歴史時代を通じて保持されるだろう。社会民主主義は、物質的・精神的文化のために、民族共同体が発展(ないし溶解)する自由を保障したいと思っているし、保障しなければならない。まさにこの意味で、社会民主主義は革命的ブルジョアジーから政治的責務として民族自決という民主主義的原理を受け継いだのである。

 民族自決権をプロレタリア平和綱領から除くことはできない。しかし、この民族自決権は自己の絶対的な意義を主張することもできない。反対である。われわれにとってそれは、歴史発展におけるすぐれて進歩的な対抗傾向によって制限されている。後進的な弱小民族を奴隷化し、民族文化の源泉を蹂躙している帝国主義的な中央集権化に対して、この「権利」が――革命的力を通じて――対置されなければならないとはいえ、他方では、われわれの大陸全体に、さらには地球全体に計画的に経済を組織しようとする現代経済のすぐれて進歩的な押さえがたい傾向の行く手を「民族原理」が妨害することも、プロレタリアートは容認することができない。帝国主義は、経済のこうした傾向が資本主義的略奪の形態をとったものである――それは、かつて農村的・地方的偏狭の愚劣さから抜け出したように、民族的偏狭の愚劣さから完全に抜け出そうとする傾向である。社会主義は、経済的中央集権化の帝国主義的形態と闘争するが、その傾向そのものに反対しないだけでなく、反対に、それを自己自身の指導原理とするのである。

 歴史発展の見地から見ても、社会民主主義の課題から見ても、現代経済の中央集権的傾向は基本的なものであり、そのためには、その真に解放的な歴史的使命を実現する完全な可能性が保障されなければならない。すなわち、民族的枠組みや国家の関税障壁から独立し、ただ土地・風土・気候の特性や分業の要求にのみしたがう、統一した世界経済の建設がそれである。ポーランド人、アルザス人、ダルマチア人、ベルギー人、セルビア人や、今だ占領されていないヨーロッパの弱小民族は、次の場合にのみ、すなわち、民族的分化が経済的分化であることをやめ、国境に結びつけられなくなり、お互いが経済的に分離されることもなければ、お互いに対立し合うこともない場合にのみ、彼らが求めてやまない民族的輪郭を取り戻すことが――もしくは初めて確立することが――できるのである。そして、重要なことには、それに応じてのみ、その輪郭を維持することができ、自由に自らの文化的生活を送ることができるのである。言いかえれば、ポーランド人、セルビア人、ルーマニア人等々が文化的自治を有した狭苦しくない共同体をつくり出すためには、彼らを現在ばらばらに分裂させている国境を廃棄することが必要なのであり、国家の枠組みが、民族組織としてではなく経済組織として広げられ、全資本主義ヨーロッパを、すなわち現在、関税と国境によって切り刻まれ、現在の戦争によって分裂させられているヨーロッパ全体を包含することが必要なのだ。ヨーロッパそのものの国家的統一が、ヨーロッパにおける大小民族の自決にとっての国家的前提条件である。国境と関税障壁から解放され、民主主義的に統一されたヨーロッパの屋根の下でのみ、一国経済の矛盾から解放され、真の自決にもとづいた、民族文化の存立と発展とが可能になるのである。

※  ※  ※

 このように、小国の民族自決がヨーロッパ全体の体制いかんに直接かかっているという事実は、プロレタリアートが、ヨーロッパ革命を考慮に入れずに、ポーランドの独立や全セルビア民族の統一といった問題を立てることを不可能にしている。しかし、これは、プロレタリア平和綱領の構成部分としての自決権が「ユートピア的」だということではなく、革命的性格を有しているということを意味している。こうした考えは二つの陣営に対して向けられている。まずそれは、ダーフィット(11)やランズベルクのようなドイツ人に対立している。彼らは、自らの帝国主義的「現実主義」の高みに立って、民族独立の原理を反動的ロマン主義として軽蔑している。次にそれは、極端主義者に対立している。彼らは、この原理はただ社会主義になってからしか実現されないのだから、戦争によって正面から提起された民族問題に対して原則的な回答を行なわなくてもよい、と説明している。

 社会主義が、そしてそれだけが現在の民族問題を解決するということ、このことにまったく議論の余地はない。しかし、だからといって、社会主義が、われわれの政策において、すべての社会問題を解決するために自動的に引き合いに出されるべきだということにはならない。

 現在の社会状況と社会主義との間には、まだ社会革命の長期にわたる時代がひかえている。すなわち、国家権力のためのプロレタリアートの公然たる闘争の時代、権力を獲得し、それを社会関係の完全な民主化と資本主義社会の社会主義社会への構造的変革という目的に利用する時代がひかえているのである。この時代は和解と平穏の時代ではなく、反対に、社会的闘争が最高度に緊迫する時代、人民蜂起、戦争、プロレタリア体制の大規模な実験、そして社会主義的改革の時代である。われわれを社会主義に導くであろうこの時代は、プロレタリアートに対し、諸民族の今後の存立条件、および経済や国家と諸民族との相互関係といった問題に対する実践的な、すなわち直接有効な回答を要求しているのである。

 繰り返すなら、プロレタリアートは、自らの政治的綱領をもってこの社会革命の時代に入らなければならない。その中で茫然自失状態に陥りたくなければ。

『ナーシェ・スローヴォ』第28号(通刊415号)

1916年2月3日

 

4、ヨーロッパ合衆国

 われわれは昨日の論文において、ヨーロッパの経済的・政治的統一が民族自決の可能性そのものの不可欠の前提条件であるということを示した。セルビア人、ブルガリア人、ギリシャ人等々の民族独立のスローガンが、バルカン共和国連邦のスローガン――これはバルカンの社会民主党の全政策の中で実に巨大な役割を果たしている――によって補完されないかぎり空虚な抽象のままであるように、全ヨーロッパ的規模での自決「権」の原理はヨーロッパ共和国連邦の体制下でのみ血肉化することができるのである。

 しかし、バルカン半島において民主主義連邦のスローガンが純粋にプロレタリア的なものになったとすれば、このことは、比べものにならないほど深刻な資本主義的対立を抱えたヨーロッパにおいては、なおさらよくあてはまるだろう。

 ブルジョア政治にとっての克服しがたい困難は、ヨーロッパ「内部」の税関を一掃することである。そして、これなしには、国際仲裁裁判所や国際法は、たとえばベルギーの中立ほどの堅固さも持たないであろう。ヨーロッパ市場を統一しようとする志向は――後進的な非ヨーロッパ諸国を強奪しようとする志向と同じく――資本主義の発展によって生じるのだが、このような志向はまさに当の地主階級と資本家階級の強力な抵抗に出くわす。そして、これらの階級の手中にある関税機構は軍国主義の機構と結合しており(この機構なしには関税機構は無である)、搾取と富裕化のためのかけがえのない武器なのである。

 ハンガリーの金融ブルジョアジーと産業ブルジョアジーは、資本主義的により発達したオーストリアとの経済的統一に抵抗している。オーストリア=ハンガリーのブルジョアジーは、より強力なドイツとの関税連合という思想に非和解的な態度をとっている。他方では、ドイツの地主は穀物関税の廃止をけっして自発的に受け入れようとしない。中欧の諸帝国の有産階級の経済的利益がイギリス、フランス、ロシアの資本家や地主の利益とそれほど簡単には調和しないということについては、現在の戦争が十分雄弁に物語っている。最後に、協商国そのものの内部での資本主義的利益の不調和と不一致とは、中欧の諸帝国内でのそれよりもずっと明瞭なものである。こうした状況の中で、ヨーロッパのいくらかでも完全な経済的統一を資本主義政府間の協定を通じて上から実現するという考えは、最も純然たるユートピアである。その場合には部分的な妥協や中途半端な措置にとどまらざるをえないだろう。生産者と消費者に対し、また一般にすべての文化的発展に対し巨大な利益を約束しているヨーロッパの経済的統一は、まさにそれゆえ、帝国主義的保護貿易主義とその武器たる軍国主義に対する闘争におけるヨーロッパ・プロレタリアートの革命的課題となっているのである。

※原注 この点に関しては、「彼らの展望」、『ナーシェ・スローヴォ』第20号を参照せよ。

 君主制なき、常備軍なき、秘密外交なき――ヨーロッパ合衆国は、したがって、プロレタリアート平和綱領の最も重要な構成部分なのだ。

※  ※  ※

 ドイツ帝国主義のイデオロギーと政策は、一度ならず、とりわけ戦争の最初の頃に、ヨーロッパの、ないしは少なくとも中央ヨーロッパ(一方ではフランスとイギリスを除き、他方ではロシアを除く)の「合衆国」という綱領を持ち出した。ヨーロッパの暴力的統一という綱領は、ドイツの暴力的分割という綱領がフランスの志向の特徴をなしているように、ドイツ帝国主義の志向を特徴づけているのである。

 もしドイツ軍が、この戦争の勃発当初ドイツで予想されていたとおり決定的な勝利を勝ちとっていたとしたら、ドイツ帝国主義は、疑いもなく、いっさいが排除と妥協の上に組み立てられる、ヨーロッパ諸国の強制的な軍事てき関税同盟を実現する大がかりな試みを行なったであろう。それは、ヨーロッパ市場の統一によって得られる進歩的意義を最小限に引き下げるだろう。そして言うまでもなく、この場合、諸民族は、ドイツ軍国主義の火と鉄によってヨーロッパ合衆国のカリカチュアに強制的に結びつけられ、民族の自治など問題になりえないだろう。ヨーロッパ合衆国の綱領に対する別の反対者が、一定の条件下においてヨーロッパ合衆国という観念が「反動的な」君主制的・帝国主義的な形で実現されかねない証拠として持ち出してきたのが、まさにこのような展望なのである。

 しかしながら、まさしくこのような展望こそが、ヨーロッパ合衆国のスローガンの革命的生命力を示す最も明白な証拠なのである。もし実際に、ドイツ軍国主義が――かつてプロシア軍国主義がドイツの半統一を実現したように――ヨーロッパの強制的半統一を実現したとしたら、ヨーロッパ・プロレタリアートの中心的スローガンはいったいどのようなものになるだろうか? 強制された統一ヨーロッパを解体し、すべての諸民族を孤立した民族国家の屋根の下に復帰させることか? 関税「自主権」や「民族」貨幣や「民族的」社会立法の復活、等々か? もちろん否である。ヨーロッパ革命運動の綱領は、実現された統一の強制的・反民主主義的形態を破壊しつつ、関税障壁の破壊や、立法とりわけ労働立法の統一といった形で存在しているその基礎を温存し、いっそう発展させることになるであろう。言いかえれば、君主制なき常備軍なきヨーロッパ合衆国は、以上のような状況のもとでは、ヨーロッパ革命の統一的で指導的なスローガンとなるであろう。

 第2の場合、すなわち「引き分け」という戦争の結末を取り上げてみよう。戦争の当初、「統一ヨーロッパ」の主唱者たる著名なリスト教授はすでに、ドイツが敵国に勝利できなかった場合でも、ヨーロッパの統一はいずれにせよ実現するであろう――リストの意見では、ドイツの勝利の場合よりもずっと完全に――ということを示していた。領土拡張要求の増大にもかかわらず、お互いに敵対し合いながら、お互いに相手を打ち負かすことのできないヨーロッパ諸国家は、近東やアフリカやアジアにおける自己の「使命」を実現することをお互いに妨げ合い続けており、いたるところで、アメリカ合衆国よって押しのけられつつある。まさしく、「引き分け」という戦争の結末の場合には、リストの考えによれば、ヨーロッパ列強の経済的・軍事的協定の必要性が前景に押し出されてくるだろう。それは、弱小の後進諸民族に敵対するものであり、もちろん、とりわけ自国の労働者大衆そのものに敵対するものである。この計画の途上に横たわる障害がいかに巨大なものである化については、われわれはすでに指摘しておいた。この障害の克服は、その半分だけであっても、ヨーロッパ諸国の帝国主義的トラスト、掠奪的株式会社の設立を意味するだろう。そして、こうした展望は、ヨーロッパ合衆国というスローガンの「危険性」を示す証拠として、根拠もなく、時おり持ち出されてくるものであるが、実際にはその現実的・革命的意義を示す最も明白な証拠なのである。もし、ヨーロッパの資本主義諸国が合流して帝国主義トラストになることに成功したとすれば、これはもちろんのこと、現在の状況に比べれば巨大な一歩前進を意味するだろう。なぜならば、まず何よりもそれは労働運動にとっての全ヨーロッパ的な統一した物質的土台をつくり出すからである。この場合においても、プロレタリアートは、民族国家の「自律」へ復帰するためにたたかうのではなく、帝国主義的国家トラストをヨーロッパ共和国連邦に転化するためにたたかうのでなければならない

※原注 ジノヴィエフとレーニンの小冊子『社会主義と戦争』(ジュネーヴ、1915年)――それは、世界観の問題やその他もろもろの問題に対する回答が通信文的な文体で与えられている――を見ると、ヨーロッパ合衆国に関する次のような行政報告的文章に出くわす。「これは、資本主義のもとでは実現不可能であるか、あるいは、反動的なスローガンである。……なぜなら、それは、植民地をいっそううまく抑圧するための、そして、より急速に発展しつつある日本とアメリカを掠奪するための、ヨーロッパ列強の一時的同盟を意味するからである」(40頁、強調は引用者)(12)。このような判断を、同じく「よりうまく抑圧し掠奪する」ために形成されている産業トラストにあてはめてみたらどうだろうか? だが、トラストのうちに反動的な側面のみを見ることができるのは、チェリャビンスクのナロードニキだけである。われわれマルクス主義者に関していえば、資本家が階級闘争に対抗するためにトラストのうちに団結している事態を看取するだけでなく、同時に、トラストを生産の社会化のための強力な武器であるとみなしてもいる。われわれとしては、前述の小冊子の筆者たち自身が、このようなアナロジーから必要な結論を引き出して、それをヨーロッパ合衆国の問題にあてはめるよう、望みたい。

 しかしながら、上からのヨーロッパ統一というこの広大な計画については、戦争が進行すればするほど、ますます語られることが少なくなるであろう。なぜなら、戦争は、それを引き起こした諸問題を克服する上での軍国主義の完全な無力ぶりをあらわにしているからである。帝国主義的「ヨーロッパ合衆国」に代わって、一方ではオーストリアとドイツの経済的統一という計画が登場し、他方では4ヵ国協商が登場した。それらはいずれも、軍事関税とそれを補完する軍国主義をともない、相互に対立しあっている。こうした計画が実現された場合、この両国家「トラスト」のプロレタリアートの政策において、両者によって導入された関税と軍事的・外交的壁に抗して、ヨーロッパの経済的・政治的統一のために闘争することがいかに巨大な意義を有しているかについては、すでに述べたことからしてもはや説明する必要はなかろう。

 最後に、この戦争中にすでに大衆的革命運動が始まりつつあるということを言っておきたい。それは明らかに、ただ全ヨーロッパ的な運動としてのみ発展することができるし、勝利に達することができる。もしそれが一国的枠の中で孤立するならば、その滅亡は運命づけられている。もし革命運動がドイツで発展するとすれば、ドイツ・プロレタリアートは革命的反響を「敵」国のうちに求めるだろうし――そして見いだすだろう。もしヨーロッパ諸国のうちの一国でプロレタリアートがブルジョアジーの手から権力を奪ったとしたら、その権力を自身の手中に確保するためだけであっても、速やかにその権力を使ってドイツの革命運動を支援することを余儀なくされるだろう。言いかえれば、プロレタリア独裁の揺るぎない体制を確立することは、ヨーロッパ全体にわたってのみ、つまりヨーロッパ共和国連邦という形態でのみ考えられるのである。武力によって、または産業的・外交的協定によって達成されるのではないヨーロッパの国家的統一は、勝利した革命的プロレタリアートの緊急の課題であり、そしてその場合のみ成立するだろう

※原注 ついでながら、「全世界ではなく、どうしてヨーロッパの統一なのか」というドグマ的な質問をする人々に答えておこう。ヨーロッパは単に地理学上の用語であるだけでなく、ある程度、経済的・分化してき共通性をも有した言葉である。ヨーロッパ革命はアジアやアフリカにおける革命を待つ必要はなく、オーストラリアやアメリカの革命を待つ必要すらない。しかしながら、ロシアやイギリスで勝利した革命はドイツにおける革命なしには考えることはできない――その逆もまたそうである。現在の戦争は世界大戦と呼ばれているが、しかし戦っているのはやはりヨーロッパである。そして革命の問題は何よりもヨーロッパ・プロレタリアートの前に立てられているのである。ツィンメルワルトにおいて、ヨーロッパの社会主義者が集まり宣言を発したが、それは「ヨーロッパのプロレタリアートに」あてたものだった。
 もちろん、ヨーロッパ合衆国は経済の世界的組織化にとって、二つの中軸のうちの一つにすぎない。もう一つの中軸はアメリカ合衆国である。

 ヨーロッパ合衆国は、われわれが入り込んだ革命時代のスローガンである。今後の戦況がいかなる経過をたどろうとも、外交が現在の戦争をどのように総括しようとも、当面の時期における革命運動がどのようなテンポで進もうとも、ヨーロッパ合衆国のスローガンはいずれにせよ、権力をめざすヨーロッパ・プロレタリアートの闘争の政治的綱領として巨大な意義を有している。この綱領のうちに表現されているのは、民族国家が生産力発展の枠組みとして、また階級闘争の土台として時代遅れになってしまい、したがってまたプロレタリアートの独裁の国家形態としても時代遅れになってしまったという事実である。「祖国防衛」をプロレタリアートの時代遅れとなった政治綱領としてわれわれが拒否することは、われわれが老朽化した民族的祖国の保守的防衛に対し、新しくより高度な「革命の祖国」、すなわち共和制ヨーロッパの創出という進歩的課題を対置する場合のみ、政治的理念の自衛といった純粋に消極的な行為であることをやめるだろう。そして、プロレタリアートは、この共和制ヨーロッパに依拠してのみ全世界を変革し組織することができるのである。

『ナーシェ・スローヴォ』第29号(通刊416号)

1916年2月4日

 

5−1、『ソツィアール・デモクラート』の立場

 平和綱領の問題は、第2回ツィンメルワルト会議[キンタール会議]の議題に入れられた。これは歓迎すべきことである。運動の発展にいたるまでの純防衛的な準備段階においては、やはり「無併合」の講和というスローガンでたいてい間に合うかのように見える。だがこのスローガンは、ことの本質上、戦争によって生じ明るみに出されたすべての問題のどれ一つに対しても回答を与えることなく先送りにする。他のスローガンから、すなわち全体としてのプロレタリア平和綱領――すでにこれまでの諸論文で示したように、これは事実上、革命の政治的綱領に他ならないのだが――から引き離された「無併合の講和」という抽象的スローガンは、まず第1にユートピア的であり、第2に政治的に無内容であり(ポーランドはどうするのか? アルザス=ロレーヌは?)、第3に、王朝正統主義的で反動的である(戦前の原状維持!)。

 したがって、「無併合」のスローガンにおいて唯一容認できる内容は、新たな強制的領土掠奪に対する抗議に、つまり民族自決権の消極的表現に帰着する。しかしながら、われわれが目にしているように、理論的に議論の余地ないこの「権利」は不可避的に、強大な民族にとっては領土掠奪と蹂躙の権利に、弱小民族にとっては無力な観念論的抽象物ないしは「一片の紙切れ」に転化しつつあり、転化するであろう。やがて、ヨーロッパの政治地図は諸民族および諸民族グループを諸国家の枠内に、すなわち関税によってお互いにばらばらにされ、帝国主義同士の闘争の中で絶え間なく衝突し合う諸国家の枠内に閉じ込めるだろう。こうした体制の克服は、ただプロレタリア革命を通じてしか考えられない。したがって、プロレタリア平和綱領と社会革命の綱領とを結びつけることにこそ、問題の核心があるのだ。

 社会愛国主義は、原理的に――実際には常にそうであるわけではないにせよ――社会改良主義を最後の結論にまでもっていったものであり、それを帝国主義の時代に適用したものであるが、彼らは、現在の世界的破局の中で、「より小さな悪」という方針に沿ってプロレタリアートの政策を方向づけるよう提案している。すなわち、あいたたかう二つのグループのどちらかに味方するよう提案している。われわれはこのような方法をきっぱり拒否する。われわれはこう言う。これまでの発展過程の全体によって準備されたヨーロッパ戦争は、現代の資本主義的発展の根本問題の全体を真正面から提起しており、国際プロレタリアートとその各国部隊の行動方針は、2次的な政治的・民族的考慮によってではなく、どちらかの陣営が軍事的に優位にたつことで得られる疑わしい利益によってでもなく――しかも、この不確かな利益はプロレタリアートの独立した政策の完全な放棄という前金を支払わなければならない――、国際プロレタリアートと資本主義体制全体との間にある根本矛盾によって決定されなければならない。

 この唯一原則的な問題設定は、本質的に社会革命的な性格を有している。そしてそれのみが、革命的国際主義の戦術に理論的・歴史的正当性を与えるのである。

 最も重大な破局の際に、国家に対する支持を――煽動サークルの名においてではなく、最も重要な階級の名において――拒否することによって、国際主義は単に消極的に「罪」を逃れているのではなく、次のことを語っているのである。世界的発展の運命はわれわれにとって、もはや民族国家の運命に結びつけられてはいないということ、それだけでなく、民族国家は発展を締めつける万力となってしまい、克服されなければならないということ、すなわち、より広大な基盤に立脚したより高度な経済的・文化的組織に取って代られなければならないということ、これである。もし社会主義の問題が民族国家の枠組みと両立しえるものであるとしたら、まさに社会主義は民族防衛と両立することになるであろう。しかし、われわれの目の前にある社会主義の問題は帝国主義の基礎上で生じている。すなわち、資本主義によって確立された民族国家の枠組みを資本主義自身が否応なく打破するように強制されている中で生じているのである。

 ヨーロッパの帝国主義的半統一が達成されうるとしたら、それは、われわれが示そうとしたように、列強グループの一つによるもう一方のグループに対する決定的な勝利の結果としてか、戦争の中途半端な終結の結果としてである。そして、いずれの場合においても、ヨーロッパの統一は、すべての弱小民族にとっての民族自決の原理の完全な蹂躙と、ヨーロッパ反動のすべての力と手段――君主制、常備軍、秘密外交――が維持され集中されることを意味するであろう。

 真に民族発展の自由を保証することのできる、ヨーロッパの民主主義的・共和制的統一はただ、軍国主義的・帝国主義的・王朝的中央集権主義に対する革命的闘争を通じてのみ、個々の国における反乱を通じてのみ、そしてこれらの反乱を全ヨーロッパ的革命へと合流することを通じてのみ可能である。しかし、勝利したヨーロッパ革命は――個々の国にいてそれがどのような変転をたどろうと――、他にどんな革命的階級も存在しないがゆえに、権力をプロレタリアートに引き渡すしかない。したがって、ヨーロッパ合衆国は何よりも、ヨーロッパにおけるプロレタリアート独裁の唯一考えうる形態なのである。

※  ※  ※

 プロレタリア「平和綱領」に民族自決とヨーロッパ合衆国のスローガンを入れることに対する反対論は、二つの側からきている。受動的ポシビリストと極端主義者である。

 たとえば、同志マルトゥイノフは、「抽象論」――すなわち社会革命的な問題設定――を捨てて無併合の講和の旗のもと「具体的」で「実現可能な」課題を追求するようわれわれにすすめている。だがすでに見たように、無併合の講和を実際に実現するためには、プロレタリアートの側が、戦前の原状維持(status quo ante )という保守的・消極的綱領にはとうてい自己限定しえないほど革命的に強力になっている必要がある。

 他方では、オランダの極端主義者――同志ローランド=ホルスト(13)は彼らにまったく根拠のない譲歩をしている――は、民族自決は「資本主義のもとでは」実現不可能であり、そのようなスローガンは現在、諸民族の自由な発展が階級社会の土台と両立可能であるかのような幻想を生じさせかねない、と懸念している。帝国主義国家に対し議会活動を通じてはたらきかければ民族問題を「解決」することができると約束することに始まって、軍国主義と併合の前にひざまずくことで終わる一国改良主義者に反対するさいには、こうした一般的な考慮はその有効性を完全に保持している。だが、革命的社会主義者は、民族問題は社会主義でしか解決できないという形式的な言明で満足することはけっしてできない。どのような解決か? どのような方法で解決するのか? 民族問題は、その歴史的な具体性をもって立てなければならない。すなわち、革命的プロレタリア体制の問題の一つとして立てなければならない。

 この問題において、『ソツィアール・デモクラート』派の立場は最も矛盾したものとなっている。大戦前夜、レーニンは、「民族自決権」を擁護して、ローザ・ルクセンブルクに反対するキャンペーンを――あらゆる均衡や展望を欠いた彼独特のスタイルで――おこなった。戦争の当初、彼は「ヨーロッパ合衆国」のスローガンを認めていたが、その後、このスローガンは「政治的には」容認しうるが、「経済的には」討論を要すると言うようになり、最後にレーニンは、秘密の「経済的」討論ののち、「ヨーロッパ合衆国」のスローガンは実質的に「社会主義と一体」のものであり、したがって、独立のスローガンとしては「幻想」を生み出すものであると発表した。トリビューネ派の立場とどっこいどっこいの論理性だ! すでに社会主義体制に属するからという理由で「ヨーロッパ合衆国」のスローガンを拒否しながら、同時に、民族自決権のスローガンを今の時代のスローガンとして擁護することによって、レーニンの立場は、帝国主義が諸国家の民主主義的統一(=合衆国)と両立しないにもかかわらず、諸民族の民主主義的分離とは完全に両立するかのような観念を生み出さざるをえない。このような観念は――政治的に取り上げようが、経済的に取り上げようが、総合的に取り上げようが――まったくばかげている。(次号完結)

『ナーシェ・スローヴォ』第86号(通刊473号)

1916年4月11日

 

5−2、『ソツィアール・デモクラート』の立場(完)

 ヨーロッパ合衆国のスローガンが政治的には容認しうるが経済的にはユートピア的であるという『ソツィアール・デモクラート』派の主張は、本当のところどういう意味なのであろうか? 現在の戦争が本質的に現代国家の狭隘な枠組みに対する生産力の反逆であるというのが正しいとすれば、人為的な関税障壁を一掃し生産力発展の舞台を拡大することこそが、まさに経済的要求として提起されている。しかし、レーニンは、ヨーロッパ合衆国のスローガンを、まず最初にその共和制的形態ゆえに(政治的!)、すなわち革命的民主主義者として受け入れながら、後に階級的諸関係の観点から(経済的!)、すなわち社会主義者として問題にアプローチしようとした。そして、ヨーロッパ合衆国の実現は――ちょうど、そう…たとえばロシアの憲法制定議会のように――国家形態の問題ではなく、革命的プロレタリアートにしか解決しえない権力の問題であると確信したレーニンは、ヨーロッパ合衆国を社会主義と同一視し、われわれが入り込んだ時代のスローガンとしては拒否したのである。この論理構造の中には、ちょっとしたことが欠落している。社会革命が。ヨーロッパ共和制連邦は社会革命の国家的手段であり、それなしには、民主主義的抽象物と化してしまうものなのである。

 レーニンにとりわけ特徴的なことは――彼にあっては、革命的民主主義と社会主義的教条主義とが、けっして生きたマルクス主義的全体へと合流することがなく併存している――、ヨーロッパ合衆国を政治的次元で認め経済的次元では拒否する一方で、民族自決の原理をあらゆる次元に通用するものとしていることである。つまり、この場合、革命的民主主義としてのレーニンの方が勝っている。社会主義的教条主義者としてのレーニンは、資本主義の基礎上で民族自決が実現可能だということに疑問を抱いているにもかかわらず、民族自決権を否定しはしない。

 『ソツィアール・デモクラート』派は、自らの立場がまったく矛盾していることを感じないわけにはいかない。しかし、より首尾一貫した極端主義者によって手足を縛られているため、議論の余地ある問題を慎重に避けるしかない。だが、この問題こそ、明日には巨大な意義を持つことになるのである。

※  ※  ※

 だが本当に、ヨーロッパ諸国の共和制的統一と民族自決は資本主義のもとで可能だろうか? この問いに対しては次のような問題を問うことで答えなければならない。すなわち、社会革命は「資本主義のもとで」可能だろうか、と。可能であるように見える。というのは、社会主義のもとでは社会革命はもはや生じないだろうからだ。社会革命は、プロレタリアートが権力につくような状況に資本主義社会が陥っていることを前提としている。つまり、まだ私的所有や競争や階級闘争が存在する――すなわち資本主義が存在するが、資本主義にもとづいて繰り広げられる階級闘争の中で、国家権力が被支配階級の道具となる、という状況である。この点にこそ、社会革命の、革命としての矛盾、すなわち、その本質からして不安定な状態における矛盾が存在する。この不安定な状態は、生産手段の私的所有を廃止することによってか(勝利)、ブルジョアジーが権力を取り戻すことによって(敗北)、解決される。もちろん、社会革命の時代が何十年たっても始まらないとしたら、ヨーロッパ合衆国のスローガンは独自のスローガンとしての意義を完全に失ない、消えてなくなるだろう。だが、その時には、多くのものが消えてなくなるだろう。何よりもヨーロッパ社会主義の指導的役割が。われわれは平和綱領を、われわれの時代のものとして、この戦争から必然的に生まれてこざるをえない革命運動のためのものとして、書いている。そして、ヨーロッパの民主主義的連邦のスローガンに反対するのに持ち出しうるあらゆる原則論は、少なくとも、同じ程度に民族自決「権」に反対するために持ち出すことができるのである。

※  ※  ※

 『ソツィアール・デモクラート』紙の中に見られる、ヨーロッパ合衆国のスローガンに反対するいくらかなりとも具体的で歴史的な唯一の意見は、次のフレーズに表現されている。

「経済的・政治的発展の不均等性は資本主義の無条件的法則である」(14)

 このことから『ソツィアール・デモクラート』紙は次のような結論を引き出す。すなわち、社会主義は一国で勝利することができる、したがって、それぞれの国におけるプロレタリアートの独裁はヨーロッパ合衆国をつくりだす必要はない、と。

 異なった国における資本主義的発展が不均等であること――これは完全に議論の余地のない意見である。しかしながら、この不均等性そのものが、はなはだ不均等なのだ。イギリスないしオーストリア、ドイツ、フランスにおける資本主義の水準は同一ではない。しかし、アフリカやアジアと比べれば、それらすべての国は、社会革命にとって成熟した資本主義「ヨーロッパ」なのである。どの一国も、闘争において他の諸国を「待つ」必要はいささかもないということ、これは、繰り返す価値があり、そうする必要性もある初歩的な思想であり、平行して国際的行動を進めていくという理念が、待機的な国際的無為という理念によってすり替えられないためのものである。他国を待つことなしに、われわれは、自らのイニシアチブが他国における闘争に刺激を与えるであろうという完全な確信をもって、一国的基礎の上で闘争を始める。しかし、もし他国における闘争が起こらないとしたら、例えば社会主義ドイツがブルジョア・ロシアとブルジョア・フランスの間で持ちこたえることができるという考えは――歴史の経験や理論的考察が証明しているように――絶望的である。一国的枠のうちに社会革命の展望を見ることは、社会愛国主義の本質を成しているまさにあの民族的偏狭の犠牲になること意味する。

 ヴァイヤン(15)は死ぬまでフランスを社会革命の約束の地とみなし、まさにそういうものとして最後までフランスの防衛を支持した。レンシュ(16)やその他の連中は――ある者は偽善的に、またある者は心から――ドイツの敗北は何よりも社会革命にとっての土台の破壊を意味すると考えている。そもそも忘れてならないのは、社会愛国主義においては、最も俗悪な改良主義と並んで、一国革命的メシアニズムが見られることである。すなわち、自らの民族国家を――その工業水準を理由にしてか、もしくはその民主主義的形態と革命的伝統を理由にして――、人類を社会主義に導く使命をもったものとみなしているのである。一つのより準備の整った国の国境内で、本当に社会革命の勝利が考えうるとすれば、民族防衛のイデオロギーと結びついたこのメシアニズムは自らの相対的な歴史的正当性を有することになるであろう。

 しかしながら、実際には、それはかかる正当性を有してはいない。プロレタリアートの国際的な絆を掘りくずすこのような方法でもって社会革命の一国的基礎を防衛するために闘うことは、事実上、革命の土台を掘りくずすことを意味する。なぜなら、革命は一国的基礎の上で始まらないわけにはいかないが、ヨーロッパ諸国の現在の経済的ないし軍事的・政治的な相互依存性――それは、まさに現在の戦争においてほど力強く明らかにされたことは今までなかった――ゆえに、その基礎の上では完結することはできないからである。革命において直接にヨーロッパ・プロレタリアートの共同行動をもたらすであろうこの相互依存性は、まさにヨーロッパ合衆国のスローガンのうちに表現されているのである。

『ナーシェ・スローヴォ』第87号(通刊474号)

1916年4月12日

 

6、平和綱領に対する受動的態度と革命的態度

 ツィンメルワルト会議における三つのグループ――受動派、革命派、極端派――の間の意見の相違は疑いもなく平和綱領に直接関係したものだった。しかし、この第1回会議において起こった闘争はもっぱら戦術問題をめぐるものであった。ツィンメルワルト会議の第1の派(ブルドロン(17)、ドイツ人の一部)は、近い将来に大衆的な革命運動が起こる可能性に対しまったく懐疑的な姿勢をとりつつも、同時に平和綱領に決定的な意義を認めていた。党評議会においてブルドロンの非常に哀れむべき経験が改めて示したように、受動的・平和主義的国際主義というものの極端な政治的不安定さを理解したいと思う読者には、二つの文書――ドイツ・フランス代表団の声明とツィンメルワルト宣言――をいま改めて読み比べてみることをおすすめする。「声明」が中心問題にしたのは、ベルギー問題であり、占領、併合、強制的な経済統合の問題、民族自決権の問題であった。……………(検閲で削除)……………。声明は自己の平和綱領と革命戦術とをまったく結びつけていない。政権についている社会主義政党の政策についても、ただの一言も特徴づけていない。さらに、労働者大衆に対し社会愛国主義を暴露しておらず、闘争も呼びかけていない。この声明はそもそも、その思考方法からして、またそこに充満している精神からして、大衆向けのアピールではなく、党および労働組合組織における「内部」宣伝用の綱領である。こうした観点からするなら、革命的戦術や運動の政治的展望といった問題が完全に後景に退いてしまうのも、まったくもって当然であろう。彼らは、自国および同盟国の祖国の運命に国際主義者が無関心であるという、社会愛国主義者たちによる組織内非難から自分を守るための道具として、限定的に定式化された平和の問題に決定的な意義を認めているにすぎないのである。

 ツィンメルワルト会議におけるグループ編成に関する同志マルトフの論争的論文の中で(この論文に対して、たとえ部分的であれ致命的な反駁となっているのは、ブルドロンらの平和主義派がユイスマンス(18)、ロンゲ(19)、プレスマーヌ(20)らの度しがたい愛国主義派に屈伏した事実である!)、レーデブール(21)を穏健な国際主義の唯一の貯蔵庫として押し出そうとする試みがなされている。

 しかし、重要なのは、「声明」のテキストがレーデブールによってではなく、フランス代表団によって書かれたという事実である。同志マルトフは、フランス代表団がレーデブールの草案のはなはだしい「生気のなさ」について自分に不満をこぼしていたという情報を伝えている。何とも不可解なのは、フランス代表団の不満がもっぱら、ベルギーの運命や占領や併合といった問題に対するドイツ人による最初の定式化に対して向けられていて、われわれにとって決定的であったし今なおそうである問題、すなわち…………(検閲で削除)…………といった問題にはまったく向けられていなかったことである。反対に、この分野においてフランス代表団、とりわけブルドロンは、「声明」の立場に完全に同調し、ツィンメルワルト宣言のテキストに社会愛国主義に関するしかるべき性格規定を入れることに反対し、レーデブールといっしょになって、宣言の中の闘争を呼びかけた結びの部分を全体としていちじるしく穏健化したのである。

 ブルドロンの最も近しい同意見者の間では、運動に対する要求と需要はますます後景に退き、今では、ツィンメルワルト宣言の「生気のなさ」あるいは「不明瞭さ」を云々する声が大きくなっている。しかし、それは、宣言が闘争の必要性をきっぱり具体的に語るうえで不十分だからではなく――それどころか、宣言は、この問題について、彼らにとってはあまりにも多くのことを語っている――、将来の講和[平和]条件についてあまり具体的に定式化していないからであり、とりわけアルザス=ロレーヌの運命について何も語っていないからである。

 こうした、具体的な平和綱領に対する熱心な関心と、革命戦術の問題に対するほとんど完全な無関心との間には、はっきりとした矛盾を確認することができる。なぜなら明らかに、大衆的な革命戦術だけが、講和[平和]条件に対して何らかの影響力を及ぼすことをわれわれに保障することができるからである。しかし、活動が組織内宣伝という狭い枠に押しこめられ、不確定の遠い将来において党全体の路線を少しづつ「まっすぐにする」ことを展望して、現時点においては大衆の中で社会愛国主義者と直接闘争することから逃れようとするならば、こうした矛盾はその政治的先鋭さを失うだろう。

 革命的国際主義者と受動的・平和主義的国際主義者との戦術的・組織的意見の相違は、われわれが入り込んだ時代の全体および今後の発展の展望に関する評価の違い、したがってまた社会愛国主義との闘争の歴史的意義に関する評価の違いと密接に結びついている。意見の相違が共同行動の中で克服され、共同の組織の中で雲散霧消していき、統一のための闘争が同時に運動の思想的浄化のための闘争でもある時代もあれば、意見の相違が昨日まで思想を同じくしていた人々を別々の陣営に引き裂く時代もある。われわれと社会愛国主義者との意見の相違は疑いもなく前者よりも後者に近い相違である。このことを受動的国際主義者は理解していない。彼らにとって、戦争は二つの歴史時代に分かつものではなく、単に悲劇的なエピソードにすぎず、戦争が終わればいっさいが多かれ少なかれ再び元の鞘に戻ると考えているのである。

 社会主義的大衆が、その完全な精神的・政治的崩壊の危険性に脅かされて、権力のための闘争を遂行せざるをえないような革命的危機の時代においてのみ、社会愛国主義者に対する非和解的な態度と彼らとの生死をかけた闘争がその全面的な意義を発揮する。この闘争におけるわれわれの目的は、階級国家に対する公式政党の屈伏の「責任を引き受ける」ことにあるのではなく、…………(検閲で削除)…………ということにある。われわれを平和主義者や受動的国際主義者から分け隔てているこの根本問題に関しては、われわれと極端主義者との間に意見の相違はない。同志マルトフは、「戦争を社会革命に、あるいは平和のための闘争を権力のための直接的闘争に転化する(?)」という考えを私の「独特の思想」と呼び(『ナーシェ・スローヴォ』第4号)、完全な満足をもって私に、ツィンメルワルト宣言で表現されているという観点――それによれば、「平和のための闘争は中断されていた階級闘争を再開する出発点として、そしてそれだけのものとして考えられている」(強調引用者)のだそうだ――を対置しているが、私としては肩をすくめるしかない。現在の時期における革命的テンポの評価に関しては『ナーシェ・スローヴォ』の編集部および協力者の間でさまざまなニュアンスの相違があったし、現在でもあるが、彼らのうち誰も、問題となっているのが――歴史的かつ戦術的に――「中断されていた階級闘争を再開すること、そしてそれだけ」などと考えている者はいなかったし、現在でもいない。ここで私は、約半年前に同志マルトフの積極的な参加のもとに定式化された、われわれの新聞の公式見解について引用することができる。それは、コペンハーゲン会議に関するわれわれの報告であり、その中から、この件にかかわる次の一節を引用しておこう。

「現在ヨーロッパで猛威をふるっている戦争は、プロレタリアートの過去と未来の間に先鋭な境界をつくりだしている。戦争は、資本主義的生産様式の基礎のうちに横たわっている非和解的な矛盾の産物であり、ブルジョア諸国家が比較的平穏のうちに併存する時代を終わらせ、壮大な世界的激変の時代を開いた。それは、世界支配をめざす資本主義的巨人たちの生死をかけた仮借ない闘争の時代である。ブルジョア社会の発展におけるこの新しい時代は、すべての文明化された人類の前に一つのジレンマをつきつけた。すなわち、繰り返される戦争と軍拡によるたえまないアナーキー、ますます苛酷になるブルジョア的・軍事的寡頭政治の階級独裁、民主主義的自由の圧殺、大衆のさらなる貧困化、より弱い諸民族の民族独立の破壊か、さもなくば、社会経済の土台そのものの変革、資本主義の克服、ヨーロッパの政治的統一か。そして、後者は、この課題を実現する能力のある唯一の階級であるプロレタリアートに国家権力を引き渡すことを前提にしている」。

 さらに。

「1907年のシュトゥットガルト決議は、あらゆる対外戦争をプロレタリアートの解放のための戦争に転化させることをわれわれに義務づけている。停戦のためのプロレタリアートの闘争――それは、戦争が長期戦的性格のものであることがはっきりするにつれて、欠落し餓え打ちのめされた労働者大衆を必ずや団結させるだろう――は、国民間の戦争を階級間の戦争に転化させる出発点である」。

 これこそ、同志マルトフが「トロツキー独特の思想」であると現在説明している立場にほかならない。いや、これは私の独特の思想ではない。これはすべての革命的マルクス主義者の立場である。そしてわれわれは、「中断されていた階級闘争を再開すること、そしてそれだけ」といった平和主義的観点からではなく、まさにこのような社会革命的観点から、プロレタリア平和綱領の問題に対してきたのであり、現在も対しているのである。

『ナーシェ・スローヴォ』第88号(通刊475号)

1916年4月13日

『トロツキー資料集』Vol.1より

 

  訳注

(1)『ベルナー・タークヴァッハト』……ベルンで発行されていたスイス社会民主党の日刊紙で、1893年に創刊。第1次大戦初期には国際主義の立場に立ち、メーリングやカール・リープクネヒトの論説などを載せていた。その後、しだいに排外主義的立場をとるようになる。

(2)コペンハーゲン会議……1915年1月17〜18日に、スウェーデン、ノルウエー、デンマーク、オランダの中立諸国の社会主義者によって、第2インターナショナルを復活させるために開催された国際会議。

(3)クラウゼヴィッツ、カール・フォン(1780-1831)……プロイセンの軍人で、軍事理論家。軍事理論の古典的名著である『戦争論』(1833)の著者。その中で、「戦争は、別の手段をもってする政治の延長である」という有名な命題を唱えている。

(4)マルトゥイノフ、アレクサンドル(1865-1935)……ロシアのメンシェヴィキの右派指導者。1884年に「人民の意思」派に参加。1886年に、シベリアに流刑。1890年代に社会民主主義運動に参加。1903年の党分裂で、メンシェヴィキに。1905年革命においては『ナチャーロ』に参加。反動期は解党派。第1次大戦中はマルトフのメンシェヴィキ国際主義派に属す。10月革命に敵対。1922年にメンシェヴィキから離脱。1923年にボリシェヴィキに加わり、スターリニストとなる。

(5)シャイデマン、フィリップ(1865-1939)……ドイツ社会民主党右派。1903年から国会議員。第1次世界大戦においては党内排外主義派の指導者。1919年に首相。ドイツ労働者の蜂起を鎮圧し、ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトの暗殺に関与。

(6)ランズベルク、オットー(1869-1957)……ドイツ社会民主党の右派。第1次大戦中は排外主義者。

(7)ヘラクレイトス(前500頃)……ギリシャの哲学者。世界の根源を、永遠に変化する「火」に求め、それが自ら土に変化して世界を形作ると考えた。世界はこのような永遠の変化の過程の中にあるとみなし、「万物は流転する」という言葉を残す。弁証法の創始者の一人。

(8)トリビューネ派……1907年に創刊された雑誌『トリビューネ』にちなんでつけられたオランダの極左グループで、指導者はヘルマン・ホルテル、ローランド=ホルストなど。第1次大戦中は国際主義の立場。この時期、レーニン派と非常に緊密であった。このグループは戦後、オランダ共産党の母体となる。

(9)サン=ジュスト、ルイ(1767-1794)……フランス革命の指導者、ジャコバン派。法律を修めた後、1789年のフランス革命の勃発とともにそれに参加。1792年、国民公会議員。国王の処刑を主張し、ジャコバン派の幹部になる。1793年、最年少で公安委員。1794年、国民公会議長。ロベスピエールの片腕としてジロンド派、ダントン葉の弾圧に辣腕をふるう。1794年のテルミドール反動により処刑。

(10)エルヴェ、ギュスタフ(1871-1944)……フランス社会党員で、アナルコ・サンディカリスト。第1次大戦前はフランス社会党の最左派で、『社会戦争』紙を発行。第1次大戦勃発後、排外主義に転じた。

(11)ダーフィット、エドワルト(1863-1930)……ドイツ社会民主党の経済学者。農業理論に関してマルクスを批判。第1次大戦中は排外主義者。

(12)レーニン「ヨーロッパ合衆国のスローガンについて――ロシア社会民主労働党中央委員会の戦争に関する宣言への『ソツィアル・デモクラート』紙編集局の注」、邦訳『レーニン全集』第21巻、354頁。

(13)ローランド=ホルスト、ヘンリエッタ(1869-1952)……オランダの女性革命家。1896年、オランダ社会民主労働党に入党し、左派に属す。1907年にホルテルとともに『トリビューネ』を創刊し、1909年、左派のオランダ社会民主党の結成に参加。第1次大戦中は国際主義派。ツィンメルワルト会議に参加し、ツィンメルワルト左派に属す。1915年にトロツキーの『戦争とインターナショナル』をオランダ語に翻訳。1918年にオランダ共産党創設に参加。

(14)レーニン「ヨーロッパ合衆国のスローガンについて」、邦訳『レーニン全集』第21巻、352頁。

(15)ヴァイヤン、エドゥアール(1840-1915)……フランスの社会主義者。第2インターナショナルの左派の指導者の一人。パリ・コミューンにも参加したことがあり、フランス社会党の創始者の一人。第1次世界大戦直前には「戦争よりも蜂起を」というスローガンを提起していたが、いざ戦争が始まると、祖国防衛派になった。

(16)レンシュ、パウル(1873-1926)……第1次大戦前はドイツ社会民主党の左派に属し、『ライプチヒ人民新聞』を編集。第1次大戦勃発とともに排外主義派に。戦後はさらに右翼化して、大工業家であり右派の急先鋒であったシュティネスの機関紙『ドイッチュ・アルゲマイネ・ツァイトゥング』の編集者となり、ドイツ社会民主党を除名。

(17)ブルドロン、アルベール(1858-1930)……フランス労働運動の活動家。第1次大戦中は受動的国際主義者で、1915年のツィンメルワルト会議にも参加。そこでは中央派的立場をとる。1920年代は労働総同盟の執行委員。

(18)ユイスマンス、カミーユ(1871-1968)……ベルギー社会党の指導者。1905〜22年、第2インターナショナル国際社会主義ビューローの書記。1910年から国会議員。ブリュッセル大学哲学教授。第1次大戦中は愛国主義派。ツィンメルワルト会議に反対し、この会議を「ロシアの陰謀」と非難。戦後はじめての第2インターナショナル会議の発起人。1925〜27年、文相。1936〜39年、下院議長。第2次大戦後、1946〜47年、首相、1947〜49年、文相。

(19)ロンゲ、ジャン(1876-1938)……フランスの革命家、シャルル・ロンゲの息子で、マルクスの孫。フランス社会党の中央派の指導者。第1次大戦中は愛国主義派。ソ連への軍事干渉には反対した。

(20)プレスマーヌ、アドリアン(1879-?)……フランスの社会主義者。第1次世界大戦においては半防衛主義的、半平和主義的立場をとる。

(21)レーデブール、ゲオルグ(1850-1947)……ドイツの古参の社会民主党員、中央派。1917年に独立社会民主党の創設者の一人。独立社会民主党の第3インターナショナルへの加盟に反対。1922年に社会民主党に復帰。1931年に社会主義労働者党に参加。1933年にスイスに亡命。

 

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1910年代中期