第2回全露ソヴィエト大会での演説
トロツキー/訳 中島章利
【解説】これは、ボリシェヴィキによる権力掌握が起こっている最中に開かれた全ロシア・ソヴィエト大会で行なわれた演説である。トロツキーはこの中で、「人民大衆の蜂起は弁明を必要としない。生起したことは陰謀ではなく、蜂起である」と述べている。革命から数十年後に、この時の蜂起を単なるクーデターとして否定しようとする広範な動きが生じているが、それは哀れむべき歴史偽造に他ならない。兵士を含むペトログラードの労働者人民の圧倒的多数がボリシェヴィキを支持していたために、比較的少数の実行部隊だけで蜂起が成功したにすぎない。実行部隊の数の少なさは、この蜂起の試みがボリシェヴィキによる悪辣な陰謀であることを示しているのではなく、反対に、歴史上かつてないほど強力で広範な下からの支持に支えられたものであったことを示しているのである。
また、この演説の中でトロツキーは、「ソヴィエト大会を通して全権力をソヴィエトへ」というスローガンを掲げて蜂起を行なったと述べている。周知のように、蜂起の日程をめぐっては、レーニンとその他の党指導者との間で意見の相違があった。レーニンは、ソヴィエト大会を待つことは自殺行為であると考えて、大会の前にボリシェヴィキだけで蜂起を行なうことを要求した。ペトログラード・ソヴィエトの議長であり、軍事革命委員会の議長でもあったトロツキーは、このような戦術が不要な流血の惨事をもたらすと考え、ソヴィエト大会と連動させて蜂起を行なうべきであると考えた。圧倒的多数のプロレタリアートが「すべての権力をソヴィエトへ」のスローガンを強く支持していたことを考えれば、トロツキーの戦術の方が正しかった。ただし、この立場は、ソヴィエト大会を受動的に待つという戦術ではない。そうではなく、ソヴィエト大会を準備し、それを組織する中で、蜂起を堂々と準備するということである。これは、この準備に対して政権側が機先を制しようとすることを十分予想した上での戦術であった。実際、大会前日に、ケレンスキー政府は弾圧を開始した。それを合図に、トロツキーは、「ソヴィエト大会の防衛」という形式を取りながら蜂起を指導することができた。
歴史は、トロツキーの戦術の正しさを100%証明した。レーニンは、隠れ家から出てきて、蜂起の最中にスモーリヌィでトロツキーと会い、「正しかったのは君たちだった」と述べ、自らの誤りを率直に認めた。蜂起をめぐるトロツキーの見事な戦術にすっかり感心したレーニンは、それ以降、トロツキーに全幅の信頼を寄せるようになる。実際、蜂起直後のボリシェヴィキ・ペトログラード委員会の会議において、レーニンは「トロツキーよりもすぐれたボリシェヴィキはいない」と断言している。
Л.Троцкий,Речь на 2 Всероссийсском Съезде Советов, Сочинения, Том.3, 1917, Час.1, Мос-Лен., 1924.
1、メンシェヴィキとエスエルの退去について
(10月25日)
同志トロツキーは次のように述べた。人民大衆の蜂起は弁明を必要としない。生起したことは陰謀ではなく、蜂起である。われわれはペトログラードの労働者と兵士たちの革命的エネルギーを鍛錬してきた。われわれは大衆の意志を陰謀へではなく、蜂起へと、公然と鍛え上げてきたのだ、と。
演説の結びに、同志トロツキーはボリシェヴィキ会派の名において、次のような決議を提案した。
第2回全ロシア・ソヴィエト大会は次のように確認する。
メンシェヴィキおよびエスエル代議員の大会からの退去は、武器を手にした労働者、兵士大衆の前衛が反革命の攻撃から大会と革命とを防衛しているこの瞬間において、労働者、兵士大衆が全ロシアの全権を代表するのを阻もうという、無力で犯罪的な試みである。
協調主義者諸党は、その旧来の政策によって革命の事業に甚大な損害を与え、労働者、農民、兵士たちの間で完全に面目を失墜した。
協調主義者たちは、軍隊とわが国とを滅亡の淵へと追いやった6月18日の破滅的な攻撃(1)を準備し、それに賛成した。
協調主義者たちは、死刑を復活させた政府(2)、人民を裏切る政府を支持してきた。協調主義者は7ヵ月間というもの、土地問題で農民を絶えず欺く政策を支持してきた。
協調主義者たちは革命的諸組織の破壊、労働者たちの武装解除、軍隊へのコルニーロフ(3)的規律の導入、血まみれの戦争の無意味な引き延ばしを支持してきた。
協調主義者たちは、幾百万の勤労大衆を飢餓に追いやりつつあるわが国の経済的崩壊を、彼らの同盟者であるブルジョアジーがいっそう深刻にするのを実際には手助けしてきた。この政策の結果、大衆の信用を失ってしまったにもかかわらず、協調主義者たちは、ソヴィエトおよび軍事組織の長期にわたって改選されていない上層部における自分たちの地位に、作為的にかつ不誠実にもしがみついてきた。以上の事情のゆえに、全ロシア中央執行委員会(ツィック)は協調主義的な軍委員会と政府当局による直接の支持を拠り所としつつ、あらゆる手段をもってソヴィエト大会を妨害しようとしてきた。
大会開催を妨害し革命的階級の世論を偽造しようとするこの政策が惨めな失敗をこうむったとき、協調主義者たちによって創られた臨時政府が、ペトログラードの労働者と兵士たちの圧力の下に崩壊したとき、全ロシア・ソヴィエト大会が革命的社会主義の党(ボリシェヴィキ)の明白な優勢を示し、ブルジョアジーとその下僕によって裏切られ苦しめられてきた革命的大衆にとって、蜂起が唯一の出口であることが明らかになったとき、協調主義者たちは、ソヴィエトの力を掘りくずそうと無駄な努力をしたあげく、それと絶縁したことによって、自らの最後の結論を引き出したのである。
協調主義者たちの退去は、ソヴィエトを弱めるどころか、それを強化するものである。なぜならば、労働者と農民の革命の中から反革命的混ぜ物を一掃するからだ。
エスエルとメンシェヴィキの声明を聞いたのち、第2回全ロシア大会は自らの事業を続行する。そして、その任務は勤労人民の意志と10月24日、25日の彼らの蜂起とによって定められている。
去れ協調主義者どもよ! 去れブルジョアジーの下僕どもよ!
兵士、労働者、農民による蜂起の勝利万歳!
2、社会主義大臣たちの逮捕について
(10月26日)
同志諸君、ここで二つの問題が混同されている。その一つは実務上のもので、われわれによって昨日解決された。社会主義大臣たちは、つまりメンシェヴィキとエスエルであるが、[ペトロパヴロスカヤ要塞の監獄から釈放され]軍事革命委員会によって一時的に軟禁されることが決定された。われわれはプロコポーヴィチ(4)を軟禁した。われわれはマスロウ(5)とサラースキン(6)もそうするはずである。軍事革命委員会は諸君らの決定を最短期間に実行に移すためにあらゆる措置を講ずるだろう。
そして、軍事革命委員会が今まで決議を実行しなかったのは、同志諸君、それは、ただ、これら諸党の一つに属するもう一人の代表、おなじみのケレンスキーがわれわれに対して投入すべく反革命勢力を組織しているときに、われわれが武装蜂起の渦中にあるからにすぎないのである。今のところ勝利している労働者・農民の革命の救出に多忙な軍事革命委員会がこの2人の社会主義大臣のことを忘れてしまったのは、労働者・農民の革命が損害を被ることがないようにするためであった(拍手)。
第2の問題、これは、これらの逮捕から住民が受ける印象についての問題である。同志諸君、われわれは普通の観念が拒否されねばならぬ新しい時代に入っている。わが革命は権力に到達した新しい諸階級の勝利である。そして彼らは、社会主義大臣たちが関与している反革命の組織化から自らを防衛しなければならない。社会主義大臣たちが反革命陰謀の組織化に関与しているかどうかが解明されるまで、彼らは軟禁されるだけのことである。この2人の大臣自身はわれわれにとって何ら恐るべきものではなく、道徳的にも政治的にもまったく重要性を持っていない。
どんな革命においてもけっしてこのようなことは起こらなかったのだそうだ。そう言っている人々は健忘症だ。なぜなら、これは、数ヶ月前に実際にあったことだからである。このとき、労働者・兵士代表ソヴィエト執行委員会メンバーの逮捕は、[いま逮捕されているのと]同じ社会主義大臣たちの完全な黙認と同意のもとで行なわれたのである。またこのとき、いかなる抗議もなく、彼らの釈放を求める何の要求もなかった。そればかりではない。司法機関代表によって釈放されたアレクサンドラ・ミハイロヴナ・コロンタイ(7)の部屋の入口に2人の秘密警察(オフラーナ)要員を立たせたのは、他ならぬ農民代表執行委員会議長アフクセンチェフ(8)である。ところが現在では、これらの代議員たちはわれわれの実務的な仕事の邪魔をしにやって来て、彼ら自身がそこで何もなすことができなかった大切な事業をわれわれが行なうのを妨害しようとしている。しかし、結局、彼らにできるのは、自分たちの意味のない脅かしをわれわれに大声で叫び、哀れっぽい憤慨をわれわれの前にさらけ出すことぐらいなのだ(大きな拍手)。
3、権力の組織化について
(10月26日)
同志カレーリン(9)および同志アヴィーロフ(10)に異議を唱えて同志トロツキーが次のように発言した。
われわれがここで聞いた見解は、一再ならずわれわれに反対するために持ち出されてきたものである。左翼が孤立する可能性があるとわれわれは再三にわたって脅かされてきた。数日前、蜂起の問題が公然と提起されたとき、われわれは孤立している、破滅に向かって進んでいる、と言われていた。事実また、もし政治刊行物にもとづいて階級的配置がどうなっているかを判断するならば、蜂起によってわれわれは不可避的に破滅することになっただろう。反革命的徒党とありとあらゆる種類の祖国防衛主義者たちがわれわれに敵対していた。左翼エスエルの一翼が、軍事革命委員会において勇敢にもわれわれとともに活動していた。彼らの残りの部分は静観中立の立場を取っていた。
にもかかわらず、われわれがすべての人々から見放されたように見えたこれらの不利な状況下でさえ、蜂起はほとんど血を流すことなしに勝利した。もしわれわれが実際に孤立していたならば、もし現実の勢力のすべてが実際にわれわれに反対していたとしたならば、ほとんど流血の惨事なしにわれわれが勝利するなどということがいかにして起こりえたのであろうか? 否、孤立していたのはわれわれでなく、政府であり民主主義者たち、すなわちエセ民主主義者たちであった。大衆から孤立していたのは彼らの方であった。自らの動揺と協調主義とによって、彼らは真の民主主義の隊列から消え去ったのである。党としてのわれわれの非常に大きな優越性は、われわれが大衆的諸勢力と連合を結んでいることに、労働者、兵士、貧農たちの連合を創り出したことにあるのだ。
政治的諸グループは消えても、諸階級の基本的諸利害は残る。諸階級のこうした基本的諸要求を探り出し、満たすことのできる党と勢力が勝利する。もし連合が必要であるとすれば、それは、主として農民出身者からなるわが守備隊と労働者階級との連合である。われわれはこのような連合を誇りにすることができる。この連合は戦いの炎の中で試され済みである。ペトログラード守備隊とプロレタリアートは革命の部隊の一つとして、すべての国の人民の革命史における古典的規範になるであろう偉大な闘争に突入したのである。
ここで、予備議会(11)の中に形成されていた左翼ブロックについて、われわれに語るものがいた。しかし、このブロックはたった1日しか存続しなかった。おそらく、ブロックが結ばれた場所がそれにふさわしくなかったのだろう。もしかすると、ブロックは立派なもので、綱領も立派なものであったかもしれない。しかし、それでもやはり、ブロックが崩壊するのには、1回の衝突で十分であった。
同志アヴィーロフはわれわれの前に立ちはだかるきわめて巨大な困難について語った。これらの困難のすべてを取り除くために、彼は連合を結ぶことを提案している。しかし、その際、彼はこの定式を解明するいかなる試みも行なわないし、彼の念頭にある連合がいかなるものであるのか、すなわち、諸グループの連合なのか、諸階級の連合なのか、それともただ単に諸新聞の連合なのかを、より正確に定義しようともしない。旧全ロシア中央執行委員会(ツィック)との連合を口にするよりも前に、例えば、ダン(12)やリーベル(13)との連合が革命を強化するものではなく、その破滅の原因となることを理解すべきではないか。戦闘が最も緊迫した瞬間に、ツィックの委員たちの承認のもとにわれわれは電話回線を切断されたではないか。
民主主義の陣営の中での分裂は誤解なのだそうだ。ケレンスキーがわれわれに対して突撃隊を派遣しつつあるとき、ツィックの承認のもとにわれわれが電話回線を奪われているとき、われわれが攻撃に次ぐ攻撃にさらされているときに、はたして誤解などということについて語ることが可能であろうか? もしこれが誤解であるなら、わが反対者、すなわち同志アヴィーロフと同志カレーリンのすべての見解もまた政治的誤解ではないかと、私は危惧するものである。
同志アヴィーロフはわれわれに次のように語った。パンがわずかしかない。祖国防衛主義者たちと連合する必要がある、と。しかし、はたしてこの連合はパンの量を増やすであろうか? というのは、パンに関する問題、これは行動綱領の問題だからである。経済の崩壊との闘いは一定の行動の体制を必要とするのであって、政治グループの結成のみを必要とするわけではないのだ。
同志アヴィーロフは農民層について語った。だが、またしても、どんな農民層のことを問題にしているのか? さまざまな農民分子の間で選択を行なう必要があるのだ。今日、この席でトヴェーリ県の農民代表がアフクセンチェフの逮捕を要求した。アフクセンチェフの逮捕を要求しているこのトヴェーリの農民と、農民委員会のメンバーたちで監獄をいっぱいにしたアフクセンチェフとのいずれかを選ばなければならないのだ。われわれは、トヴェーリの農民たちと協力し、アフクセンチェフに反対する。われわれは最後までかつ完全に彼らとともにある。農民層の中の富農(クラーク)分子との連合をわれわれは拒否する。労働者階級と貧農階級の連合のために、われわれは断固としてそれを拒否する。もし革命が何事かを教えたとすれば、それはまさしく、これら労働者、貧農分子たちの合意の道によってのみ、彼らの真の連合という道によってのみ勝利を得ることができるということである。連合の幻影を追い求める者は、自らを実生活から完全に切り離すものだ。左翼エスエルは、彼らがわが党に対抗しようと考えるかぎり、大衆の中での支持を失うであろう。すなわち、貧農階級と連帯しているプロレタリアートの党に対抗している政党は、自らを革命から孤立させているのである。
われわれは公然と全人民の面前で蜂起の旗を掲げた。この蜂起の政治的定式は、ソヴィエト大会を通して全権力をソヴィエトへ、である。われわれに対しての次のように言う者がいる。諸君は大会を待たなかった、と。否、われわれは大会を待つつもりであった。しかしケレンスキーは待とうとはしなかった。すなわち、反革命家どもは居眠りしてはいなかったのである。われわれは党として、ソヴィエト大会が自らの手に権力を掌握するために、現実の可能性を創り出すことを自分の任務であると考えていた。もし大会が士官学校生たちに包囲されていたとしたら、どうして大会が自らの手に権力を掌握することができたのであろうか? この任務を達成するためにこそ、反革命家どもの手から権力をもぎ取り、諸君に向かって次のように言う党が必要だったのである。「さあ、権力だ。諸君はこれを掌握する義務がある」(嵐のような鳴りやまぬ拍手)。
ありとあらゆる色合いの祖国防衛主義者たちは、われわれに対する闘争においていかなることをも躊躇しなかったが、それにもかかわらず、われわれは彼らを放り出しはしなかった。われわれは大会全体に対して、自らの手に権力を掌握することを提案したのである。党が硝煙のたちこめるなか彼らのところへやってきて、「ともに権力を掌握しよう」と言うとき、彼らは市会へと逃走し、そこで公然たる反革命家どもと連合する。彼らは革命の裏切り者だ。われわれは彼らとはけっして連合しない。
同志アヴィーロフは次のように言った。平和のための闘争を首尾よく進めるためには協調主義者たちとの連合が必要である、と。それと同時に、彼は次のようにも言った。同盟諸国は講和条約の締結を望んでいない。それなのに、われわれを裏切る連中と連合すれば、それで万事うまく行くだろう、というわけだ。同志アヴィーロフが教えてくれたところによると、エセ民主主義者スコベレフ(14)は同盟諸国の帝国主義者たちによって嘲笑されたそうである。それでも、もし、われわれがエセ民主主義者たちとブロックを結べば平和の事業は保障されるだろう、と彼らはわれわれに助言するのだ。
平和のための闘争には二つの道がある。第1の道は、同盟諸国の政府と敵国の諸政府に対して、革命の道徳的および物質的力を対置することである。第2の道、これはスコベレフとのブロックであり、そのことはテレシチェンコ(15)とのブロックを意味している。すなわち、帝国主義への完全な屈服を意味している。「平和に関する布告」の中でわれわれが各国の政府と人民とに同時に呼びかけていると指摘する者がいる。しかし、これは形式的なものにすぎない。われわれは当然のことながら、自分たちのアピールで帝国主義政府に影響を与えようなどとは思っていない。しかし、これらの政府が存在する間は、われわれはそれを無視するわけにはいかないのだ。われわれはすべての希望を、われわれの革命がヨーロッパ革命に道を開くということに賭けている。もし、蜂起したヨーロッパ人民が帝国主義を押しつぶさないならば、われわれが押しつぶされるだろう。このことは疑いない。ロシア革命が西欧における闘争の旋風を引き起こすか、あるいはすべての国々の資本家どもがわが革命を締め殺すかのどちらかだ(「第3の道があるぞ」、ある者が自分の席から叫ぶ)。
第3の道、それはツィックの道である。彼らは西ヨーロッパの労働者たちに代表団を送る一方で、キシキン(16)[カデット、臨時政府の最後の閣僚の一人]、コノヴァーロフ(17)[大資本家、第2次臨時政府の商工大臣]と同盟を結ぶ。これは虚偽と偽善の道であり、われわれは断じてそのような道はとらない。
当然のことながら、われわれはヨーロッパの労働者たちの蜂起の第1日目が必ず講和条約調印の第1日目になるだろうなどとは言わない。それでなくても、すべての被抑圧者の迫りくる蜂起に脅えて、ブルジョアジーが講和の締結を急ぐということもありうる。期日はこの場合定められてはいない。具体的形態を予見することは不可能である。重要かつ必要なことは、闘争方法を確定しておくことである。それは対外政策においても国内政策においても、原則的に同一である。いたるところで被抑圧大衆との同盟――これがわれわれの道だ。
第2回ソヴィエト大会は施策計画の全体を作成した。この計画を実際に実現させることを望むすべてのグループ、この緊迫した瞬間にバリケードのこちら側にあるすべてのグループは、次のような、われわれからのただ一つの呼びかけに出会うだろう。ようこそ、親愛なる同志諸君。われわれ兄弟は武器をとり、ともに最後まで進んでいこう!(嵐のような鳴りやまぬ拍手)
1917年10月25〜26日
ロシア語版『トロツキー著作集』第3巻『1917年』第2部所収
『トロツキー研究』第5号より
訳注
(1)6月18日の破滅的な攻撃……ケレンスキー政権が政治生命をかけて遂行した「夏季攻勢」のこと。この「夏季攻勢」は、トロツキーらが警告した通り失敗に終わり、ロシア軍の解体をいっそう深刻にした。
(2)死刑を復活させた政府……前線での死刑は、2月革命後の臨時政府の布告で廃止されていたが、ケレンスキー政権は前線での死刑を復活させた。
(3)コルニーロフ、ラブル(1870-1918)……帝政ロシアの軍人、陸軍大将。1917年の2月革命後、ペトログラードの軍管区司令官、ついでロシア軍最高司令官。8月に臨時政府に対する軍事クーデターを企てるが、ボリシェヴィキの前に瓦解。この反乱は「コルニーロフの反乱」あるいは「コルニーロフの軍事クーデター」として有名で、7月事件後に弾圧され押さえ込まれていたボリシェヴィキの勢いを再び強め、10月革命への序曲となった。10月革命後、白軍を組織し抵抗するが、敗北し、戦死。
(4)プロコポーヴィチ、セルゲイ(1871-1955)……帝政ロシアのブルジョア政治家、カデット。2月革命後、臨時政府の商工業大臣。最後の臨時政府の食糧大臣。10月革命後、地下臨時政府に参画。1918年春、「ロシア再生同盟」に加わる。1922年に国外追放。
(5)マースロフ、セミョーン(1873/74-1938)……右翼エスエル、経済学者。2月革命後、全ロシア農民代表ソヴィエト執行委員。1917年10月、チェルノフに代わって臨時政府の農務大臣に。10月革命後は政治から離れる。1926年、モスクワ国民経済学教授。粛清期に逮捕・銃殺。
(6)サラースキン、セルゲイ(1862-1932)……ロシアのブルジョア政治家、カデット。最後の臨時政府で教育大臣。10月革命後は政治から離れて、教育・研究分野で活動。
(7)コロンタイ、アレクサンドラ(1872-1952)……ロシアの革命家、1906年からメンシェヴィキ。1915年にボリシェヴィキに転身。第1次大戦中はトロツキーの『ナーシェ・スローヴォ』にも寄稿。10月革命後は初の女性人民委員。女性解放運動の指導者。1920〜21年の労働組合論争でシリャプニコフとともに労働者反対派を指導。1923年以降、各国の大使に。
(8)アフクセンチェフ、ニコライ(1878-1943)……ロシアの革命家、エスエルの右派指導者。1907年から1917年まで亡命。第1次大戦中は排外主義者。2月革命後、ペトログラード・ソヴィエト執行委員会のメンバー、全ロシア農民代表ソヴィエト執行委員会議長。第2次臨時政府の内相に。9月、予備議会の議長。10月革命後、反革命活動に従事し、ウーファおよびオムスクで反ボリシェヴィキ政府の代表。1918年末にパリに亡命。後にアメリカへ移住。死ぬまでソヴィエト政府に敵対し、ニューヨークで死去。
(9)カレーリン、ウラジミール(1891-1938)……ロシアの革命家、左翼エスエルの指導者。2月革命後、第2回ソヴィエト大会で中央執行委員に。ボリシェヴィキとの連立政府に財務人民委員として入閣。1918年7月、左翼エスエルの反乱を組織。粛清期に逮捕・銃殺。
(10)アヴィーロフ、ベ・ヴェ(1874-1938)……ロシアの無党派の社会民主主義者。法律学者、統計学者。2月革命直後にボリシェヴィキに入党したが、4月にはボリシェヴィキから離れてゴーリキの『ノーヴァヤ・ジーズニ』派に所属。1918年以降、政治から離れ、ソヴィエト機関で活動。粛清期に、逮捕・銃殺。
(11)予備議会……1917年10月、ペトログラードで開かれた民主主義会議で、臨時政府の諮問機関として連立各派から形成された常設機関のこと。別称「全ロシア民主主義評議会」。
(12)ダン、フョードル(1871-1947)……ロシアの革命家、メンシェヴィキの指導者。1894年からロシア社会民主主義運動に参加。1903年の分裂後はメンシェヴィキ。第1次世界大戦中は社会愛国主義者。1917年の2月革命後、ペトログラード・ソヴィエト執行委員。6月、全ロシア・ソヴィエト中央執行委員会幹部会のメンバー。10月革命後、ボリシェヴィキ政府と敵対するも、武力闘争は行なわず、マルトフとともにソヴィエトでメンシェヴィキを代表。1922年にレーニンの命令でソ連から追放。
(13)リーベル、ミハイル(1880-1937)……ロシアの革命家、ブントの創設者にして指導者、メンシェヴィキ。2月革命後、ペトログラード・ソヴィエト執行委員会のメンバー。
(14)スコベレフ、マトヴェイ(1885-1938/39)……1903年からメンシェヴィキ。1906年に亡命。1908〜12年にウィーン『プラウダ』の編集に携わる。1912年以降、第4国会の社会民主党議員団の一人。第1次大戦中は社会排外主義者。2月革命後、ペトログラード・ソヴィエトの議長代理。5月、第1次連立政府の労働大臣。10月革命後、グルジアに。1920年にフランスに亡命するが、同地でソヴィエト政府と協力。1922年にボリシェヴィキに入党し、利権委員会に。1924年にロシアに帰還。1938年(資料によっては39年)に粛清。
(15)テレシチェンコ、ミハイル(1886-1956)……ロシアのキエフの大地主、大資本家、政治家。第1次大戦中、戦時工業委員会の議長代理。2月革命後、最初の臨時政府の蔵相。第1次、第2次、第3次連立政府の外相。帝国主義戦争の継続を主張。10月革命後、ボリシェヴィキ政府に敵対。1918年に亡命。イギリスに移住し、ロンドンで死去。
(16)キシキン、ニコライ(1864-1930)……ロシアのブルジョア政治家、カデット。2月革命後、臨時政府のモスクワ駐在コミサール。1917年9月以降、救貧担当大臣。10月革命後、反革命活動の罪で有罪となるが、釈放され、保険人民委員部で働く。
(17)コノヴァーロフ、アレクサンドル(1875-1948)……ロシアの大資本家、繊維王。第4国会の進歩派ブロックの一員。最初の臨時政府、第1次連立政府の商工相。第3次連立政府(第2次ケレンスキー政府)の商工相。10月革命後に逮捕され、後に亡命。
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