中央委員および中央統制委員への手紙
――第2の「書簡政綱」
トロツキー/訳 西島栄
【解説】本稿は、1923年10月19日付で中央委員会および中央統制委員会の全メンバーに宛てられた政治局多数派(トロイカ派)の回答に全面的に反論した手紙であり、第2の「書簡政綱」と呼ばれている。
この手紙の中で、トロツキーは、10月8日の手紙の中で十分論じることのできなかった多くの論点をめぐって自らの異論を述べるとともに、とりわけ、トロツキーとレーニンとを対立させようとする政治局多数派の戦術に対して厳しい批判を加えている。
なお、この手紙が書かれたのは10月23日だが、中央委員および中央統制委員に宛てられた日付が10月24日になっているので、後に「10月23日付の手紙」という表記と「10月24日付の手紙」という表記の両方が見られる。
Письмо Л.Д.Троцкого членам ЦК и ЦКК РКП(б): 23 Октября 1923 г., Известия ЦК КПСС, No.10, 1990.
中央委員へ
中央統制委員へ
総会へ
1923年10月24日
私の手紙に対する政治局員の回答は、次のような特徴を持っている。すなわち、あたかもこの回答の筆者たちが、現在追求されている党内政策および経済政策の中に、何らかの本格的な修正を導入するいかなる必要性も可能性もないとみなしており、党の指導機関における健全な集団的活動のための正常な条件をつくり出す必要があるという考えを完全に拒否しているかのように見えることである。そしてまさにこのような状況こそが最も大きな不安を掻き立てているのである。
1、党内体制
1、まず最初に言っておかなければならないのは、この文書が、党の危機という問題をまるごと、政綱、分派主義といったものの開始という形式的な非難の次元に移していることである。しかし、このような非難は第10回党大会決議のあからさまな濫用である。分派、すなわち党内同意見者たちの組織的な統一体が存在することそれ自体は、きわめて危険なことであり、そのことには議論の余地がない。しかしこのことと、一党員が、あるいは党員の一グループが、中央委員会によって追求されている政策の間違いや誤りに対して中央委員会の注意を喚起する試みをおしなべて「分派」と決めつけることとは、まったく別の話である。党内で分派組織を結成してはならないとする決議を誇張して官僚的不条理にまで持っていくことほど危険なことはない。実際には、党内で真に非分派的な体制が本当に不動のものになることができるのは、ただ党そのものが上から下まで、能動的で自主的な集合体でありつづける場合のみであり、また、党内意見の形成が不必要で人為的な障害にぶつからない場合のみであり、指導機関自身が隠された分派的な人事政策を追求しない場合のみであり、また、党内の批判の声を分派主義だと非難することで党内の独立した思考のいっさいを根絶してしまうようなことをせず、そうした批判の声に最大限の注意を払う場合のみである。
2、10月11日に開催された政治局会議において同志ジェルジンスキーは、モスクワ委員会を非難したが、それは、モスクワ組織の平メンバーが、自分たちの党組織の内部では公然と意見を表明することはできないとみなし、それを党組織の背後で表明したからである。モスクワ県委員会の書記である同志ゼレンスキー
(1)は、文字通り次のように答えた。「党細胞に生命がないとか、誰もが沈黙しているとあなたは言うが、ドイツの事件に関する党会議でも同じだったのではないか? そこでも全員が沈黙していたではないか」。同志ブハーリンは、党内でのグループ形成のあらゆる試みを通報するよう党員に義務づける新たな決議を上げるという政治局の提案に反対して、次のように述べた。「これは有害なだけだ。これは過剰な警察体制になると理解されるだろう。ただでさえそのような体制がすでにたっぷりあるというのに。われわれに必要なのは、党内民主主義の方向へと急転換することである」。同志モロトフは、自分としては異論はないと言ったので、何について異論がないのかと私が質問すると、彼は「同志ブハーリンによって定式化された初歩的な真理について、すなわち党内民主主義の方向へ急転換する必要性について」異論はないと述べた。前述した発言はすべて一語一句正確である。なぜなら、討論されている問題が最大級の重要性を持っていることを考慮して、私はその会議でなされた発言の中で最も決定的な言葉を書きとめておいたからである。今後必要なのは、脅しや弾圧や抑圧を増加させることではなく、すなわち同志ブハーリンの表現によれば警察体制を強化することではなく、党内民主主義の方向へ急転換することであるという主張に、誰も反対しなかった。
しかし、政治局員による手紙の中では、このような問題設定の片鱗さえうかがわれない。党体制は正常なものだと宣言されている。手紙は、党の学習教育活動について、新しい活動家の育成について非常に詳しく論じている。学習教育機関を含めて党の機構が著しく拡大したことは疑いないし、学習教育活動が大いに発展したことも疑いない。これは言うまでもなく大きな成果である。しかし、こうした事実でさえも、党の政治的・批判的能動性が著しく低下し、党としての党内生活が弛緩し、それと平行して党の指導機関の方針を貫徹するために純機械的な組織的措置がますますとられるようになってきているという事実をいささかも排除するものでも、否定するものでもない。
3、第12回党大会の準備の際に――十分な根拠なしに、少なくもはっきりと表明された思想的根拠もなしに――指導的同志たちのある部分を他の部分に対立させる目的で、不健全な方法が用いられたことに私の手紙は言及しているが、回答の筆者たちは、あたかも私が第12回党大会の構成の正当性に「疑義を呈している」かのような、またしてもまったく根拠のない形式的非難を投げつけている。私の手紙にはそれを匂わすような言葉は一語もない。第12回党大会の正当性や権威に関する形式的問題を提起することは、少なくとも不適当である。しかし、党が最重要の諸問題に関する自らの意見を日々定式化し、したがってまた大会を通じて党の意思を最良のやり方で決定することができるような党内体制を保障しなければならないという問題を提起することは、まったく適切であり必要である。
4、政治局員の「回答」は、私が何らかの絶対的な意味での「全面的な」民主主義を要求しているかのように述べ、「全面的な」民主主義の方法の適用を制限しているすべての党決議を破棄するよう要求しているのかと私に尋ねている。しかし、実際には、私の手紙は次のように述べている。「完全で全面的な労働者民主主義は独裁の体制と両立しない」という見地から、私には当時(すなわち第10回党大会)、労働者民主主義を擁護する多くの演説は誇張でありデマゴギー的なもののように思えた、と。したがって、この点に関する「回答」の議論はすべて完全な誤解である。それどころか私は、「労働者民主主義の方向へ急転換する」ことさえ要求しなかった。これを要求したのは、10月11日の政治局会議での同志ブハーリンであり、それは誰からも異論を受けなかった。たとえ「急」でなくとも――状況全体をよく踏まえた上で――慎重にでもいいから誠実に良心的に転換すればそれで十分である。こうした転換だけが実際に実行可能なのである。党が課した制限は、経験がその不当性を明らかにするまでは、維持されなければならない。しかし、こうした制限の範囲内でも、党は指導的・支配的組織として真に生き生きとした生活を送らなければならないし、沈黙をしていてはならない。まさに問題はここにある。
5、ミャスニコフ主義が昨日今日の現象ではないということは――「回答」が言うように――議論の余地はない。しかし、ミャスニコフ主義の成長に関して、党内における非合法の細胞の増殖に関して、ストライキへの党員の参加に関して、こうした非合法細胞に参加していない多くの党員がこうした現象に受動的態度をとっていることに関して、警鐘を鳴らしたのは政治局自身であり、それはまったく当然のことであった。同志ジェルジンスキーの委員会もまたそうした結論に達した。ここに問題の本質がある。こうした状況の危険性は誰にとっても秘密のものではない。まさにこのことにもとづいて、同志ジェルジンスキーは、モスクワ委員会があまりにも官僚的であるとして非難したのである。まさにそれゆえ、同志ブハーリンは、――彼の特徴づけによれば――党内民主主義の方向へ急転換するよう要求したのであり、同志モロトフはこれを「初歩的な真理」であると認めたのである。しかし今では、このようなことは存在しないと宣言され、すべての問題はミャスニコフを除名すること、そして……同志リャザノフをも除名することに帰着するかのように言われている。昨日の結論に対するこのような驚くべき、まったく無原則的な再評価は、それ自体、最大級の危険性であり、党内に蓄積されつつある諸矛盾をいっそう先鋭化させかねないものである。
2、同志レーニンの名前をわれわれの意見の相違に利用する試み
政治局員の手紙は現在の論争問題に同志レーニンの名前を引き込もうとしており、あたかも一方では同志レーニンの政策の継続があり、他方ではこの政策に対する闘争があるかのように事態を描き出している。意見の相違をこのように描き出すことは、もっと慎重で隠蔽された形でだが、すでに何度もなされている。第12回党大会の準備中にもなされたし、とりわけ大会後になされた。まさにこうした試みがほのめかしや当てこすりの形態をとっているので、それに答えることができない。そしてまさにこうしたほのめかしがなされているのは、彼らが私の側の沈黙をあてにしているからこそである。そして政治局員たちの今回の「回答」は、このほのめかしをより具体的に定式化しようとしており、そうすることで、今から見るように、そうした試みの完全な破産を暴露するとともに、それに明確に反駁する機会を与えてくれている。私は論争となっている諸問題を一つ一つ検討し、簡単に確かめることのできる文書資料から正確に引用したいと思う。
1、経済分野における中心的な論争問題の一つは、計画的指導の問題であったし、今もそうである。すなわち、成長する市場に適合する形で国営経済の基本的諸要素を系統的に結合させることである。私が堅持してきた観点は、上からの適切な統一した調整が存在しないことがわが国の経済危機の最も重要な原因の一つであり、その危機がとりわけ先鋭で破壊的な性格を帯びていることの原因の一つでだということある。計画的指導の組織化の問題に関して私と同志レーニンとのあいだに一定の意見の相違があったのは事実である。同志レーニンの権威は、中央委員会の他のどのメンバーにとってもそうであるように、私にとっても同じくらい大きなものである。しかし、党は、どんな場合でも自分が正しいと思われる見解を中央委員会内で堅持することのできる中央委員を選んでいるはずだと、私は思っていたし、今も思っている。同志レーニン自身はこの問題をどのように解決しただろうか? 今年の6月2日、政治局はN・クルプスカヤから「ゴスプランに立法機能を付与する問題について」というレーニンの覚書を受け取った。これは1922年12月27日に口述筆記されたものである。この文書の中で同志レーニンは、次のように書いている。
「この考えはたしかずいぶん以前に同志トロツキーによって提起されたものだと思う。そうした場合にわが国の立法機関の体系に基本的な齟齬を持ち込むことになるような気がしたので、私はそれに反対した。しかし、この問題を慎重に再検討してみると、そこには実際には健全な考えが含まれていることがわかった。すなわち、ゴスプランは、有識者、専門家、科学界および技術会の代表者の集合体として、基本的に問題を正しく判断するための資料を1番大量に持っているにもかかわらず、われわれの立法機関からいくらか疎遠な存在になってしまっているのである。……
この点に関して、私は、同志トロツキーの意見を入れてもいいし、入れるべきだと考えるが、われわれの政治的指導者の中の特別の人物を、あるいは、最高国民経済会議議長等々をゴスプランの議長に据えるという点ではそうではない」(2)。
また最後に同志レーニンは、ゴスプランの仕事を個々の委任事務に分割することに反対し、ゴスプランが「その管轄範囲に属する問題の総体を系統的に解決する」(3)ことに賛成している。見られるように、ここでは問題はまったく明白かつ申し分ない形で提起されている。
最高国民経済会議(ヴェセンハ)議長の役割とゴスプラン議長の役割とを結びつけるという問題は、従属的で技術的な問題である。現在、われわれには、労働国防会議の副議長の役割とヴェセンハ議長の役割とを結びつけるという中央委員会の決定があり、この点に関する私の提案をはるかに越えて進んでいる。私は一度ならず中央委員会の中で書いてきたし言ってきたが、この種の組み合わせは言うまでもなく条件的なものであり、そこに問題の本質があるのではない。問題の核心は、権威と法的権限を持った経済的総本部を創設し、どの経済問題もそこを素通りすることのないようにすることである。同志レーニンが経済活動を指導していた頃は、彼自身がかなりの程度、一種の総本部であったし、ゴスプランの役割に関する問題も、同志レーニンの発病以降に持ったような決定的な意義を持つこともなかった。そして、同志レーニンは、自分が活動から退いた後に形成された経済指導を評価して、私の提案の基本点は健全な考えであると明言したのである。指導的仕事からの同志レーニンの長引く離脱をある程度まで補うことができるのは、経済指導の仕事を正しく組織化することによってのみである。ところが、われわれはこの方向に向けて一歩も足を進めておらず、逆に後退しているありさまである。経済問題は今や、系統的な指導によってではなく、かつてないほど性急かつ即興的な形で解決されている。
2、第12回党大会の少し前の中央委員会総会で、同志レーニンも関与したいくつかの意見の相違をもたらした他の経済問題は、外国貿易の独占問題である。すなわち、私が第12回党大会で――誰からの異論も受けることなく――資本主義に包囲された社会主義独裁の土台の一つと呼んだ問題である。この問題に関して私の手もとには同志レーニンとのかなりの量の往復書簡がある。私はここでは1922年12月13日付の同志レーニンの手紙だけを引用しておく。これははっきりと彼の問題意識を示している。
「同志トロツキー
クレスチンスキー(4)の手紙とアヴァネーソフ(5)の計画に対するあなたの意見を受け取った。われわれのあいだには最大限の意見の一致があると私には思われるし、ゴスプラン問題に関しても、現在提起されている形でなら、ゴスプランに行政的権限を与える必要性に関して論争の起こる余地はない(あるいは脇に押しやっている)と思われる※。
いずれにせよ、外国貿易の独占の維持と強化が絶対必要だというわれわれの共通の見地を次の総会で擁護するようぜひお願いしたい。先の総会はこの点で外国貿易の独占にまったく反する決定を採択したし、またこの問題で譲歩することはできないのだから、私はフルムキン(6)とストモニャコフ(7)への手紙でも述べたように、この問題でわれわれが敗北した場合には、われわれはこの問題を党大会に持ち込まなければならない。そのためには、次のソヴィエト大会に参加する党フラクションに対して、われわれの意見の相違点を手短に述べておく必要がある。できるなら私がそれを書くが、あなたがしてくれるなら大変ありがたい。この問題での動揺は、われわれに前代未聞の害をもたらすことになるのだが、この問題に反対する論拠はなく、結局、機構が不完全であるという非難に帰着する。しかし、われわれの機構はいたるところで不完全なのだから、機構が不完全であるという理由で外国貿易の独占を否定するのは、たらいの水といっしょに赤ん坊を流してしまうのと同じである。
1922年12月13日」(8)。
※原注すでに見たように、2週間後(12月27日)、同志レーニンはゴスプランに行政的権限を与えることにも賛成した。しかも、私が提案していたよりも広い範囲で、である。
このように、われわれの経済政策の最も重要な問題の一つに関して、同志レーニンは、総会がその明らかに誤った決定を撤回しない場合には、私がソヴィエト大会の党代議員団に対して公然とわれわれの異論について話すよう求めたのである。これはまず第1に、同志レーニンが総会の誤りにどれほど大きな意義を付与していたかを示しており、第2に、形式的規律の重要性をよくわきまえていたレーニンがこの場合においては形式よりも内容のほうに重きを置いていたという事実を示している。
3、同志レーニンが討論に参加したこの1年間における最も重要な意見の相違は、民族問題に関連している。ここではまたしても、すべての事実と文書がそろっている。同志レーニンが民族問題とこの問題での誤りをどれほど重要視していたかは、彼の手紙(1922年12月30日付け)から十分に明らかである。この手紙は次の言葉で始まっている。「私は……十分精力的に、また十分強力に関与しなかった点で、ロシアの労働者に対して大きな罪を犯したように思われる」(9)。そして中央委員会総会において私が民族問題でどのような見地を擁護したかを――私の関与なしに――知った同志レーニンは、私に次のようなメモを寄こしてきた。
「極秘
親展
尊敬する同志トロツキー!
党中央委員会でグルジア問題の弁護を引き受けてくださることを、ぜひともお願いする。この問題はいまスターリンとジェルジンスキーの『追及』下にあるが、私は彼らの公平さを信用することができない。いやむしろその逆である。もしあなたがこの問題の弁護を引き受けることに同意してくれるなら、私は安心することができる。もし何らかの理由で同意できないのなら、本件の書類をすべて私に返してほしい。私はそれをあなたの不同意のしるしとみなすだろう。
最良の同志的あいさつをもって レーニン
筆記、M・V 1923年3月5日
正確な写し、M・ヴォロディチェヴァ(10)」(11)。
私が同志レーニンに対し秘書を通じて(同志レーニンは当時すでに重病で個人的な面会を禁止されていた)、民族問題に関する路線転換を最も痛みの少ない形で達成するために彼の覚書と12月30日付の論文を政治局の他のメンバーに見せてはどうかと提案したとき、同志レーニンは私がそうするのを断固止めた。その理由は、私がすでに第12回党大会の幹部会会議で引用せざるをえなかったことだが、こういうものであった。「絶対だめだ――とV・I[レーニン]は秘書を通じていった――。彼(ここでは同志カーメネフのことを言っている。彼はグルジアに向けて出発した)は一切合財をスターリンに話すだろうし、スターリンは腐った妥協を結んで、われわれを裏切るだろう」。
私はここで言っておかなければならないが、同志レーニンの手紙は、第12回党大会の長老会議の場で、それは当然公表されるべきである(ただし、そこに出席していた他の人々が提案したように、あまりに激しい個人的要素を持った部分を削除した上で)と話されたにもかかわらず、今になってもまだ公表されていない(12)。
4、第12回党大会の中心問題の一つは、同志レーニンによって提起された問題である労農監督部(ラブクリン)と中央統制委員会の改組である。驚くべきことは、この問題さえもが私と同志レーニンとの意見の相違の一例として何度も描き出されてきたことである。しかし実際にはこの問題は、民族問題と同様、政治局内のグループ配置にまったく正反対の光を投げかけるものである。私が旧ラブクリンにきわめて否定的な態度をとっていたことはまったく明らかである。ところで同志レーニンは、その論文「量は少なくとも質のよいものを」の中で、ラブクリンに対して破滅的な評価を与えており、それは、私もそこまではさすがに言ったことのないぐらいのものである。
「ラブクリンの人民委員部は今のところかけらも権威を持っていない。誰もが知っているように、わがラブクリンほど悪くつくられている機関はないし、現在の条件下では、そこから何も期待することはできない」(13)。
誰が一番長くラブクリンの長であったかを思い出すならば(14)、この特徴づけが誰に矛先を向けたものであるか理解することは、民族問題に関する論文と同様、容易である。
しかしながら、ラブクリンを改組すべきであるとする同志レーニンの提案に対して政治局はどのように反応しただろうか? 同志ブハーリンは同志レーニンの論文を新聞に発表しようとしなかった。同志レーニンはと言えば、自分の論文をただちに発表するよう主張していたのだが。N・K・クルプスカヤは、私に電話でこの論文のことを教えてくれ、それをできるだけ早急に印刷して発表できるよう事態に介入することを頼んできた。私の提案でただちに召集された政治局会議では、そこに出席した全員が――スターリン、モロトフ、クイブイシェフ、ルイコフ、カリーニン、ブハーリンの各同志――同志レーニンの計画に反対しただけでなく、論文を印刷して公表すること自体に反対した。とりわけ激しく強固に反対したのは書記局のメンバーたちである。印刷された論文を見せてほしいという同志レーニンの頑強な要求に対処するために、同志クイブイシェフ(後のラブクリン人民委員)は、この政治局会議で、同志レーニンの論文を掲載した特別の『プラウダ』の見本刷りを一部だけ印刷してはどうかと提案した。これは、レーニンを安心させつつ、党からレーニンの論文を隠すためのものであった。私は、同志レーニンによって提案された抜本的な改革はそれ自体進歩的なものである――もちろん正しく実現されるならばだが――と思うが、しかしこの提案に否定的な態度をとっている場合でさえ、同志レーニンの提案を党から隠そうとするのは滑稽で愚かしいことだと述べた。その答えとして私が耳にしたのは、またしてもまったく形式主義的な論拠であった。「われわれは中央委員会である。われわれは責任を負っている。われわれが決定する」。私を支持したのは、約一時間遅れで政治局会議にやってきた同志カーメネフだけだった。結局、大勢はレーニンの手紙を公表することに傾いたのだが、その主要な論拠は、レーニンの論文を党から隠し通すことはどのみち無理だろうというものであった。その後、この手紙は、これを印刷発表することを望まなかった人々の手中で、まるでその矛先を……私に向けるための特殊な旗に変じた。旧書記局員たる同志クイブイシェフは、中央統制委員会の議長となった。彼らは同志レーニンの計画に対する反対闘争をする代わりに、それを「無害化」する道をとった。さてこれによって、中央統制委員会は、党の行政権力のあらゆる濫用から党の規約と統一を擁護しその基盤を強化するための、独立した公正な党機関になっただろうか? この問題の議論にはここではこれ以上踏み込まないことにする。なぜなら問題はすでにして明白だと思われるからである。
5、以上が、同志レーニンの政策に対する私の「闘争」なるものに関する、最近の最も教訓的なエピソードである。政治局員の「回答」が、この1年間におけるきわめて明白で議論の余地のないこれらの事実を素通りして、私をウクライナ「全権食糧人民委員」に指名するという1921年(!)の同志レーニンの提案に言及することが必要だとみなしたのは、驚くべきことではなかろうか。しかしながら、この事実も正確に描かれておらず、意図的に歪められている。同志レーニンは1921年の秋に、ウクライナが食糧現物税の徴収事業で十分なエネルギーを発揮しないのではないかと恐れ(この時期この問題は大きな意義を有していた)、しかるべき「圧力」をかけるために私を(食糧人民委員部からではなく、中央委員会から)派遣することを提案した。私はこの3、4年間というもの一度ならずこのような遠征を行なってきた。前線ばかりではなく、ドンバス、ウラル(2回)、ペトログラードにも。これらすべての遠征は政治局内部の意見の相違といかなる関係もなく、差し迫った実務上の必要性によって提起されたものだった。私は前回のウクライナ遠征で、ウクライナの同志たちは必要なことを自分たちですることができるという印象を受けたので、今回の遠征は必要ないと考えた。意見の相違は純粋に実践的な性格を持っていた。同志レーニンの提案は可決された。そこで私は、相互関係における混乱を避けるために、ウクライナ食料人民委員への就任を一時的なものにするよう提案した(4〜6週間ほど)。これも受け入れられた(もちろん他の任務を受け持ちつつである)。しかし翌日になって、同志レーニンは、ハリコフからより安心できる情報を受け取り、軍事人民委員部の私のところを訪問し、昨日の決定を撤回したいと提案してきた。この決定は不合理なものだと思っていた私は、もちろんこの提案を歓迎した。このようにこれはまったくの取るに足りないエピソードであり、現在党を揺るがしている問題と何の関わりもない。このような小さな忘れられたエピソードを持ち出してくること自体、私の「反レーニン的」路線なるものに関する伝説を養い支持するためのより説得的でよりまともな資料や事実が存在しないことを、きわめて鮮明に示している。そんなものはないしありえない。なぜなら悪辣な伝説は、たとえ綿密にでっち上げられようとも、伝説のままであるからである。
3、農民の役割の「過小評価」
これまで一度ならず遠回しに、あるいは、私の背後で言われてきたが、今回、公然と定式化されるに至った空想的な「非難」の一つは、私がわが国の革命における農民の役割を「過小評価」したというものである。「回答」の筆者たちはこのような主張を証明する努力をまったく払っていないし、そのような証明を行なうことはそもそも不可能である。ここでたとえば、1905〜1914年の時期における革命の内的諸力の評価に関する意見の相違を検討するのはいささか場違いであろう。その時以来、われわれはみな非常に多くのことを学んだのであって、当時の意見の相違から現在の評価を純形式的に引き出すことはできない。この領域での私の最も原理的な著作物(『総括と展望』、「われわれの意見の相違」)はとっくに再刊されている。当時の私の見解にあった誤りに関しては、私はとっくに、言葉の上でも実践の上でも認め訂正している。しかし、いずれにせよ、私の古い見解は、自称「レーニン主義者」の多くが否認した同志レーニンの4月テーゼ(1917年)を私が承認するのを妨げなかっただけでなく、それに役立ちさえしたし、さらに重要なことには、私が10月前の時期、10月革命の時期に同志レーニンと肩をならべて闘うことを妨げなかった。諸勢力の分析と諸階級の評価とが最高の検証に付される時期があるとすれば、それはまさに大革命の時期である。まさにそれゆえ私は――少なくともこの手紙の枠内では――10月革命前の時期に立ち返る必要性を認めないのである。
10月革命後の時期における私の「農民の過小評価」なるものはいったいどこに表現されているのだろうか? 革命の最初の3年間、私はほとんどもっぱら、先進的労働者の助けを借りつつ農民の部隊を編成することに従事した。この事業だけで十2分に、誰であっても農民の役割とわれわれの革命における基本的な階級的相互関係を理解することができるだろう。まさに私は自分の軍事的経験を通じて、農民に関わるいっさいのものに対して常に細心の注意を払うべきことを学んだ。このことを証明するために――そもそも証明が必要とすればの話だが――、いくつかの事実を示しておきたい。これらの諸事実の持つ重要性は一様ではないが、いずれもこの問題にとって説得力ある証明となっている。
(a)ヤ・エム・スヴェルドロフの死去後、同志レーニンはソヴィエト中央執行委員会議長の後継者として同志カーメネフを考えていたが、私はこのポストには農民を魅きつけることのできる人物を就けることを主張した。同志レーニンは――彼に続いて政治局も――この計画に賛成し、私によって同志カリーニンが候補に推された。
(b)1919年3月、私は中央委員会への報告書の中で、中農の方に顔を向けた政策をもっと原則的に遂行する必要性を擁護し、この問題では党内にさえまだ見られた不注意な態度や皮相的な態度に反対した。センギリエヴォ地区の党組織内での論争
(15)に直接刺激されて、私は報告書の中で次のように書いた。「しかしながらこのような一時的な、あるいはもしかしたら長期的な政治情勢は、はるかに深刻な社会的・経済的現実をもたらす。なぜなら、たとえ西欧でプロレタリア革命が勝利したとしても、それでもわれわれは社会主義建設において、この同じ中農に相当程度依拠しなければならないし、彼らを社会主義経済に引き込まなければならないからである」。
(c)軍隊の気分に影響されて、また経済的任務を帯びて遠征した先のウラルでの経験に影響されて、私は1920年2月に中央委員会にこう書いて送った。「食糧ノルマにもとづく均等徴発や、供出の際の連帯責任制、工業生産物の平等分配といった現在の政策は、農業を衰退させ、工業プロレタリアートを分散させるものであり、国の経済生活を完全に台無しにするおそれがある」(16)。
基本的な実践的措置として私はこう提案した。「播種面積の拡大や耕作の改善がそれなりに利益をもたらすよう、余剰の没収を、一定の比率での課税に置き換えること(ある種の累進所得現物税)」(17)。
もちろん、1920年のこの提案を時機尚早であったとみなすこともできるが、いずれにせよ、農民の役割と意義に対する注意不足として解釈することはどうやっても無理だろう。
(d)[第12回]党大会前に「スムィチカ」をめぐって中央委員会内で起こった論争の本質について、私は、第11回党大会における同志レーニンの基本演説の全趣旨と完全に合致した形で次のように証明した。スムィチカはその基本において現在は価格関係(鋏状価格差)となって現われており、このスムィチカの鍵は、煽動のための定式化にあるのでもなければ、政治的陽動作戦にあるのでもなく、国営工業を正しく組織化することによって国営工業の生産物の原価を引き下げることにある、と。この思想がたとえ間違っていると仮定したとしても、そこには農民の役割に対するいかなる「過小評価」もない。しかし、この思想はきわめて正しかったことが明らかになった。われわれは現在、全面的に価格問題に左右されている。
(e)第12回党大会において、同志カーメネフは、穀物の適切な買い入れと輸出の問題を提起するイニシアチブをとったのはトロツキーであると断言した。この事実は文書で難なく証明することができる。
このように、農民問題に関する私の誤った路線なるものは、根も葉もない明らかにこじつけられた主張であり、私はそれを、党内部につくられた障壁を正当化するための人為的伝説として退ける。
4、党と国家
同じく根拠のないもう一つの捏造は、あたかも私が国家機構の党への依存を弱めようとしているかのような主張である。実際には、私のすべての努力は、あらゆる基本問題における党の現実的で実践的な真の指導を保証することに向けられてきたのであって、単にその時々において場当たり的に党が介入することに向けられていたのではない。ちゃんとした根拠を示すために、私はここで(多くのうちの一つだが)今年の3月22日に中央委員に宛てた手紙の一部を抜粋しよう。
「1、われわれの国家機構は、社会的に非同質的で、革命性の点で不安定であり、われわれに敵対的な影響を非常に受けやすいという特徴を持っている。
2、国家機構は、この5年間の過程で現在の形につくり上げられた。この5年間というもの党組織・グループ・細胞が国家の活動を直接に指導しようという努力には事欠かなかったにもかかわらずである。このことの原因は、党が国家機構に働きかける方法とやり方が主として手工業的でエピソード的であったことにある。この方面に関して抜本的な転換が必要である。この転換は中央委員会の活動と政治局の活動から始めなければならない。
3、計画の着実な実施という観点から政治局は関係官庁とその仕事に関する基本的な諸問題を計画的に討議しなければならない。すなわち、長期的な視野に立った活動計画をたて、それと結びつけて活動家の基本的な中核を確立することである。
4、政治局は定期的に関係官庁の報告を点検しなければならない。
5、政治局は、絶え間ない圧力と点検を通じて、全官庁における活動家の配置と養成の計画的方法を確立しなければならない。政治局は、官庁内および官庁間の無数の衝突や資金配分要求を処理する仕事をやめ、この仕事をソヴィエトの機関に移譲するべきである。
6、政治局と組織局は、党の指導と人的配置を書記局による引き回しに取って代えている現在の支配的なシステムを放棄しなければならない」。
この抜粋はナンセンスな伝説を十分説得的に反駁するものであり、今でもそこに原則的に付け加えるべきものは何もない。
第12回大会後、政治局は、私によって提起された道に足を踏み出すことを望んでいるかのような姿勢を見せ、政治局の計画的仕事に関する特別決議を採択した。だが、この決議はまったく実行されなかった。問題を解決する際の混乱したやり方が、以前と同様、党の独裁と同一視されている。党独裁の方法と形態に計画性と体系性を持ち込もうとする試みは、その独裁そのものの基礎を揺るがすものであると呼ばれているのである。
5、計画的指導について
同志レーニンがゴスプランに関する手稿の中で経済の計画的指導の問題をどのように提起していたかは、すでに見た。「回答」の筆者たちは、経済の分野では急速な成功は考えられない、急いではならない、いらいらしてはいけない、等々と何度も繰り返している。しかし、このような考慮は、われわれが先鋭な危機に突入したという事実を前にして完全に無内容なものとなっている。この危機の基本的な原因の一つは、私だけでなく最も責任ある経済担当者たちもそう評価しているのだが、わが国経済の基本的諸要素が、何よりも一方における財政金融と他方における商工業とが、まったく相互に調和していないことにある。経済の分野では急速な成功が不可能であるということが真実だとしても、同じぐらい真実なのは、用意周到で計画的な指導が欠けている場合には、急速な失敗、危機、停滞、部分的な破局が十分ありうるということである。私はすでに、自分の手紙の中で同志ルイコフと同志ピャタコフの最近の次のような発言を引用しておいた。
「政治局のいくつかの決定からして次のような事実に注意を喚起せざるをえない。現在の状況のもとでは、われわれが任されている国営工業の指導はきわめて困難になっていることである」(18)。
政治局員の「回答」の署名者の中に同志ルイコフの名前もあるが、このことは、右で引用した発言に彼の署名があることの意義を弱めるのではなく、反対にそれを深刻にするものである。中央委員の同志ピャタコフは、政治局の命を受けて、最初はゴスプランで、次にヴェセンハの長として働いたが、その彼は、経済の計画的指導が存在しないことがわが国の危機と挫折の最も重要な原因の一つであると指摘する覚書に署名しているのである。
最も重要な労働組合の代表者たちは10月11日付の覚書に署名したが、その主要な結論は、次のようになっている。
「多種多様な国家機関の活動を調和させなければならない。これらの国家機関は、工業活動の主要な条件を創出し、その製品の価格に巨大な、しばしば圧倒的な影響を及ぼしているにもかかわらず、国の商品・商業流通の全体を視野に収めることなく、各々の機関がその自立した政策と独自の『経済計算』を実行している」。
工業の最も責任ある指導者の1人である同志ボグダーノフは、10月14日付の覚書の中で、次のように述べている。「6月に国営銀行によって打ち出された融資削減の計画が工業にまったく知らされていないという、現在生じているような現象は、許されないし、市場の混乱と破壊をもたらすだけである」。
このようなまったく議論の余地のない証言の数はいくらでも増やすことができる。これらはすべて第12回大会後の7ヶ月間のものである。真に計画的な指導が存在しないこと、それが即興策と場当たり的な解決を必然的にもたらしていること、このことこそが主要な悪である。ところが、こうしたまったく議論の余地のない事実を前にして、政治局員の「回答」は、「計画的で機動的な調整」なるものは現実の中身を持っておらず、「空文句」(!)であり、「嘲笑」(!)の対象にしかならない、と述べているのである。
ここで確認しておかなければならないが、回答の筆者たちは、第12回党大会の決議を忘却してしまったようだ。そこでは文字通り次のように言われている。
「ネップ期の計画原理は、戦時共産主義期における計画原理と比べてその規模においては大差ない。しかし、方法の点では両者は根本的に異なる。グラフク体制的な行政管理は経済的な機動的調整に置きかえられる」(19)。
このように、計画的で機動的な調整の必要性という私の指摘は、党大会決議の文章を繰り返したものにすぎない。だが党大会決議は「嘲笑」すべきものではなく、実現するべきものである。
「必要なのは――同じ決議はさらにこう述べている――、ゴスプランによりしっかりとした地位、より確固とした組織、より明確で議論の余地のない権利を与えること、そして特別の義務を付与することである。……」(20)。
これは実施されたか? いやまったく。
さらに。
「ゴスプランを通じて――第12回大会はこう述べている――あらゆる種類の一時的で偶然的な委員会……と闘わなければならない」(21)。
第12回大会決議からのこの最後の引用は、最近の事実、とくに賃金委員会、価格委員会等々等々の特別委員会の設置という事実に照らせば、とりわけ鮮やかで説得的なものになる。「価格引き下げのための闘争はすでに始まっている」――政治局員の手紙は、あたかも問題になっているのが、何らかの孤立的に取り上げられた独立の課題であるかのように、こう語っている。価格は、わが国の経済的活動全体の産物であり、その活動の中には計画的で機動的な調整も含まれるのである。価格引き下げのための特別委員会の設置という事実そのものが、常設機関の活動が不適切であったことを意味しており、第12回大会決議の評価によれば、「わが国の国家機関の最大の悪」なのである。
ゴスプランの分野で何としてでも第12回大会決議を実行しなければならない。ゴスプランを経済の指導本部にしなければならない。すでに引用した同志レーニンの提案に沿ってゴスプランの権利を保障しなければならない。
6、対外政策の諸問題
1、「回答」の中で、カーゾンの最後通牒に関わる外交交渉の経緯について書かれているが、その記述は根本的に誤っている。この件に関して手紙の筆者たちは、明らかに記憶に頼っていて、署名者の誰も文書によって検証しなかったようだ。「回答」のいくつかの文章に集中的に現われている明らかに誤った主張を訂正しようと思えば、あまりにもこの手紙を引用や参照文献で埋めなければならなくなってしまうだろう。私は、必要とあらば、しかるべき時期、しかるべき場所で、喜んでこの検証を行なうつもりである。今は以下のことを指摘するにとどめる。最後通牒にかかわってわが国が出した4通の外交文書のうち、最初の一通はリトヴィノフ
(22)と私によって起草され、2通目は私によって、3通目はチチェーリンによって、4通目は私によって起草されたものである。2、対ポーランド政策に関しては、今やすでにいかなるコメントも必要ないだろう。私がすでに一ヶ月も前に主張していた政策転換は基本的に達成されている。ポーランドとの関係はようやく、3番目や十番目の形式的問題の地平にではなく、国境通過と軍事的不干渉に関する交渉の地平に位置づけられるようになった。これこそが、唯一正しく現実的で実務的な問題設定であり、一定の、おそらくは本質的で実践的な結果を保証しうるものであり、それと同時に、わが国の人民大衆の前で明確な立場をとることを可能にするものである。したがって、今のところ問題は片づけられている。
政治局がなぜ何のために、ことのついでに、私の「不当な」攻撃なるものから同志チチェーリンを庇護しようとしたのか、私にはまったくわからない。私は、政治局多数派の政策に対してと同様、同志チチェーリンのあれこれの提案を――それが誤っていると思われたときは――批判したことはある。しかしいかなる「不当な」攻撃もそこにはないし、これまでもなかったし、ありえない。
7、ドイツ革命について
ドイツ革命の問題をめぐる意見の相違も不正確かつ一面的に叙述されている。この意見の相違は、きわめて深刻で先鋭な闘争の後に採択された決議とその後採択された実践的諸決定によって基本的に一掃されたと私は思っている。闘争は三つの問題をめぐって繰り広げられた。(1)期日の意義とその設定、(2)代表ソヴィエトと産業評議会(工場委員会)との関係、(3)ドイツ共産党中央委員会とベルリンの反対派との関係。
われわれのあいだでの深刻な内部闘争を経て採択された決議は次のように指摘している。ドイツ革命にとっての最大の危険性は、ドイツ党の指導路線において武装蜂起に向けた断固たる姿勢が不十分なことであり、武装蜂起は計画と時期設定とを前提としている、と。この点で明確な立場を確立することの必要性を理解するには、われわれ自身の10月革命前の経験を振り返るだけで十分である。生じた意見対立は、『プラウダ』に掲載された「期日」に関する私の論文
(23)を中心としていた。この決議を実行するために、私は、「革命」(実際は権力の獲得)に期日を設定することはできない云々といった似非マルクス主義的浅知恵と最も断固として闘争した。この問題をはっきりと明確に設定しなければ、ドイツの事件がブルガリアの二の舞(24)になるという最大級の危険性に直面することになるからである。あらゆる資料、とりわけコミンテルンの全権代表であったミリューチン(25)の報告が示しているように、われわれがブルガリア革命を失ったのはまさに、時機を失せず技術としての蜂起に向きあわなかったからである。われわれは今、最大の軍事的・革命的激動の時代に入っており、蜂起の問題をあらゆる具体性をもって立てることは、共産主義政策の最も重要な問題の一つとなっている。次に第2の問題に関してだが、事実上形成されている既存の評議会と並んで、代表ソヴィエトを結成するという課題をドイツ共産党に押しつける試みがなされた。きわめて先鋭な闘争の後、ドイツ共産党にとって高くつくものになりかねないこの計画は放棄された。
私があたかもドイツ共産党中央委員会について軽蔑的に語っていたかのように言うのは、途方もなく誤った主張である。反対に、私はその全活動において――すでに1ヶ月以上も続いている――、ベルリンの左派の軽率な指導者たちに反対してドイツ共産党中央委員会を確固として支持する立場に立っていた。しかし、私はドイツの代表団に対し、蜂起に対するその待機的な態度から生じる危険性を隠しはしなかった。ここで必要なのは最も断固たる協力と働きかけであった。この分野では、どんなわずかな手抜かりもしくじりも絶対に許されなかった。先の総会以降、この方向に向けて非常に多くのことがなされた。
8、政治局員の手紙における個人攻撃の要素
「回答」には多くの個人攻撃・非難の要素が含まれており、できればこれについては検討を拒否したいという気持ちが非常に強い。しかし、これを拒否すると、原則的基盤にもとづいた集団的活動を不可能にしようとしているかのような手紙の筆者たちの行動を暗黙のうちに認めてしまうことになる。これはできないし、私の望むところでもない。それゆえ私は、手紙の筆者たちが、正しく健全な活動が不可能であることを正当化するために人格攻撃的な要素を利用することは根本的に誤っていると指摘しておかなければならない。このような健全な活動を実際に全面的に実現することができるのは、現在の党内体制および経済体制の明らかに誤った有害な側面を修正する場合のみだからである。
「回答」の当該箇所の趣旨は要するに、計画的指導の役割や官僚主義的党機構などに関する私の主張が、個人的野心の産物以外の何ものでもないということである。「われわれははっきりと述べておく。以前と同じく今日においても、政治局は、彼が革命軍事会議議長としてすでに手に入れていた権力に加えて、経済的指導の分野における独裁を求める同志トロツキーの野心を満足させる責任を引き受けることはできない、と。われわれの義務は、この分野での危険きわまりない実験の責任を引き受けることはできないと言うことである」※。
※原注なぜだかわからないが、経済的独裁に対する私の野心という問題に同志コレガーエフの名前が引き入れられている。いったいどこから、何のためにこんなことがなされたのか、さっぱりわからない。
このような記述は、これまでの事実に照らし合わせるならば、まったくありえないものであることがわかる。ここでは最も議論の余地のない明白なものだけを紹介する。
1、今年の1月6日、全中央委員に宛てた手紙の中で同志スターリンは、他の諸措置と並んで、次のような提案をしている。
「3、同志ピャタコフをヴェセンハの議長にし、同志ボグダーノフを副議長の1人にすること(暴れ馬のようなトラストを手なずけることなどボグダーノフにはできなかったし、できないということは、私には自明である)。
4、同志トロツキーを人民委員会議副議長[議長代理]に指名し(同志レーニンの提案)、ヴェセンハを彼の専門担当分野にすること。
5、この人事は『カオス』を一掃する上でわれわれの仕事を容易にすることができると思う」。
同志スターリンがこの文書提案を政治局の他のメンバーに無断でやったものでないことは、まったく明らかである。
1月17日、同志スターリンは、別の回状の中で次のように書いている。「同志トロツキーを人民委員会議の副議長およびヴェセンハ議長か、人民委員会議副議長およびゴスプラン議長に一時的に指名することに、私は反対しない」。これらの提案に私は口頭および文書で反対してきたが、それは純粋に実務的なものであり、時に組織的な、時に人事的な性格を持っていた。今さらここで繰り返す必要はないだろう。そうした文書のやり取りは完全に閲覧可能であるだけになおさらである。まさに私が主張したのは、ヴェセンハの副議長の仕事と軍事人民委員部の仕事とを同時に行なうのはあまりにも困難な課題であるということだった。同志スターリンは、可能であると主張した。いずれにせよ、すでに見たように、問題は、一方ではヴェセンハ議長やゴスプラン議長などに対する「個人的野心」などではないし、他方では「危険きわまりない実験」の責任を政治局が拒否したことにあるのでもない。実際には、同志スターリンは、疑いもなく他の政治局員と合意の上で、この「実験」を執拗に提案し、それが「カオスを一掃する」のを助けると考えていたのである。私は、他のさまざまな事情に加えて、こうした掛け持ちの否定的側面と力の分散を恐れて、追加的責任を辞退した。第12回党大会で、同志スターリンは、私がもっと広い範囲の仕事を受け持つことに乗り気でないことを公けに確認することが必要であるとさえ考えた。こうした事実と、「回答」が現在私に帰している野心なる主張、すなわち私がヴェセンハの議長になりたがっているという主張と、どのように両立するというのか? しかも、私があれこれの原則的ないし組織的な提案をしているのはもっぱらこの野心のせいなのだとまで言われている。これはまったく途方もない主張ではないだろうか!
すでに第12回大会直後(1923年4月25日)、同志ルイコフは、ヴェセンハ議長のポストを辞退して、政治局に次のように書いてきた。
「中央委員に送られた提案の一つの中で、同志スターリンは、ヴェセンハの指導者としてトロツキーを提案している。これを辞退するいかなる理由もないと思われる。なぜなら、同志トロツキーはこの数年間に何度となく工業と経済の研究に立ち返り、現在の経済的実情のみならず工業の管理機構に関しても最も主要な諸問題に十分通じているからである。
大会における同志トロツキーの報告が巨大な成功を収めたことは、党がこの指名に全面的に賛成する完全な保証を与えている。
ヴェセンハにおける同志トロツキーの仕事を、政府における彼の全般的活動と結びつけ、その際、同志スターリンが手紙の中で提起している労働国防会議の再編を利用することが必要である」。
またしても、いったいどうすれば――お尋ねするが――、こうしたこれまでの歴史を後から書き変えることができるのか? 先に引用した同志スターリンの提案と「回答」の最後に付された彼の署名とはいったいどうやって両立するのか? 先ほど紹介した同志ルイコフの発言と、ヴェセンハを乗っ取る私の野心なるものに対する彼の現在の攻撃とが、いったいどうやって結びつくのか? これらすべてはいったいどこから来ているのか? いったいそれは何のためなのか? 私にはどうしても理解できない。
さらに、数十人の非の打ち所のない古参党活動家たちが中央委員会への手紙の中で自らの見解と要求を定式化したのは、ただヴェセンハにおける私のポストを確保するためであった、と言うにいたっては、あまりにもとんでもない主張ではないか。しかもいかなる時期にか? 軍事的仕事と経済的仕事をいっしょにすることが、経済的観点からしても、軍事的観点からしても最もふさわしくない時にである。
2、私はここでさらにもう一つのエピソードについて言及しておかなければならない。これは、歴史というものがどのように作られ、どのように書かれるかをよく示している。来たる第12回党大会の議題を討議していた政治局会議において、同志スターリンは、同志カーメネフ、同志カリーニン、さらにはたぶん同志トムスキーの支持を得て(同志ジノヴィエフは欠席していた)、私が中央委員会の総括的政治報告をするよう提案した。この問題に関する討議は、政治局できわめて事務的で平穏な調子でなされた。私は次のように答えた。誰かが総括的政治報告を行なえば、ウラジーミル・イリイチの病気によってつくり出された党の意気消沈した気分をいっそう深めてしまうかもしれない。だから、同志スターリンがその組織報告の一環として政治的報告もすることに限定した方がいいのではないか。基本的な諸問題については、それぞれの議題の中で説明することができるだろう、と。それに――と私はつけ加えた――われわれのあいだには経済問題に関して本質的な意見の相違がある。同志カリーニンは、この最後の指摘に反対してこう述べた。「政治局ではあなたの提案は大部分受け入れられているではないか。政治報告を辞退するいかなる理由もない」。しかし私は自分の意見を曲げなかった。この会議では問題は解決されず、その後、問題は周知のようにまったく別の展開を見せた。私がたった今提示した事実――もちろん、その政治局会議に参加していた人々が忘れているはずはない――は、後になって政治局員の「回答」が描き出している全般的構図とあまりにも矛盾しているが、それが人為的に設けられた党内の障害を正当化するためのものであるのは、明らかではないか。
3、私が最近「軍隊に対してまったく不十分な注意しか向けていなかった」かのように言う非難は、まったく理解しがたいものである。この非難をどのように解釈すればいいのか私にはわからない。これは、私が1日にあまりにも短い時間しか働いていないということなのか、それとも自分の労働時間中に無関係な仕事ばかりしているということなのか? 中央委員会のきわめて多くの任務を果たすさいに、私は何度となくこれらの任務が軍の仕事から私を引き離すものであることを指摘せざるをえなかった。たとえば、工業報告とテーゼの準備にはおよそ2ヶ月間の張りつめた仕事を要した。コミンテルンの活動への参加も非常に多くの時間を費やさせる。政治局の委任によるのではなく私が果たした唯一の活動は、モスクワ連合会
(26)への協力である。しかしこれはせいぜい、ひと月に2、3時間程度しか取られていない。「回答」の中ではなるほど、軍に対する注意不足の原因として、「文学、芸術、日常生活等々に関する諸問題の検討」がほのめかされている。しかし、このほのめかしが遠回しのものであるのは、これらの問題に私が取り組んでいたのが夏の時期、すなわち、何らかの張りつめた知的仕事を禁じられていた時期であったことを、「回答」の筆者たちが知っているからである。私が2度の夏期休暇を、治療にだけでなく、文学と日常生活に関する著作を執筆することにも利用したことを、党の前で言い訳しなければならないとはまったく思わない。この事実から非難の論拠をつくり出そうとするのは、ただ驚くほかない※。※原注ちなみに、1年半前に私は、予定していた「プロレタリア文化」に関する論文について同志レーニンと話したが、そのとき彼は、この仕事を急いで仕上げるよう勧めた。私はこの仕事をひと夏で仕上げることができた。
しかしながら、軍の物質的状況の極度の困難さ、軍事予算のまったくの不安定さ、軍の持続的縮小と司令部の再編、きわめて頻繁に行なわれるスタッフの指名と交替――これは、軍の利益からしてまったく不合理なものであると思う――といったことのために、軍の分野で創造的な仕事がほとんどなされていないというのは、まったくその通りである。以上のことは、仕事にとってきわめて困難な状況をつくり出している。さらには、上から軍に特殊な「政策」が持ち込まれていることもそうである。この政策の諸事例は、今や党と軍の責任ある活動家のほとんどに知られている。政治局員の「回答」は、この同じ政策のさらなる発展であり、その意味するところはまったく明らかである。
9、党への不信
最も重大な非難は――それがこれほどお粗末なものでなければの話だが――、私が党に対する不信を持っており、党を理解することができないという非難である。このことの証明として、私がいつかどこかで用いた表現「県委員会オブローモフ主義」が持ち出されている。この言葉がどのような脈絡で、どのような意味で用いられたかも理解することなしに、である。さらに、私の次のような発言、すなわち、途方もなく重大な状況をかんがみて、問題の形式よりもその本質のほうを優先させ、党の最も責任ある活動家たちの注意を今起きている状況に向けることを自分の義務とみなした、という私の発言に対して、「回答」は次のように評価している。「これはわがボリシェヴィキの伝統においてまったく前代未聞の声明である」。
この部分における「回答」の趣旨と調子はあまりにも明白である。署名者の一部の者が――他の者の怒りを掻き立てながら――以前からほのめかしていたことが、ここでは十分はっきりと語られている。党に対する無理解、党の力と地方組織の力に対する信頼の欠如、さらには、「ボリシェヴィキの伝統において前代未聞の」行動と声明、である。だが、回答に署名した政治局員の中には、「ボリシェヴィキの伝統において前代未聞の」行動と声明についてもっと慎重に語るべき人々がいるのではなかろうか? 私の声明は、単に、状況全体から必然的に出てくる路線転換を促進するよう中央委員会に訴えることを課題としているにすぎない。ところがわが党の歴史には、決定的な戦闘の直前とその最中に――これは1917年10月のことである――、最も責任重大なポストを辞任し中央委員会に反対して党にアピールした――しかも非党員と敵の面前で――、というケースが複数ある(27)。党とその創造的力に対する信頼と不信は、最も偉大な試練の時期に最もはっきりと最も確かな形で示されると私は思う。そしてわれわれは全国の隅々にわたってこの試練を乗り越えた。内戦の最も困難な時期に私がともに手を携えて活動することのなかった県委員会はほとんどない。私は誤りも犯したが、その誤りの中には、党と労働者階級の創造的力に対する犯罪的不信など微塵もない。このような非難は侮辱を意図した偽りのものとして、私はきっぱり退ける。
※ ※ ※
以上、私は、政治局員の「回答」の最も重要な諸論点について説明を行なった。最も痛みの少ない最短距離の活路はただ――再び繰り返すが――、党内に確立されている人為的な障害を取り除き、党の路線の変更という差し迫った必要性により注意深い態度をとり、したがってまた党をその本来の自主性、能動性、その一致団結の側に立ち返らせること、このことを中央委員会の指導グループが真剣かつ断固として追求することにしか見出せえない。もしこの道を進むならば、中央委員会は党員の圧倒的多数の積極的支持を受けることができるだろう。そして、現在、個人的な問題として映っている、あるいはそのように描き出されている諸問題は、自ずから消えてなくなるだろう。
1923年10月23日
エリ・トロツキー
『ソ連共産党中央委員会通報』1990年、第10号
『トロツキー研究』第40号より
訳注
(1)ゼレンスキー、I・A(
1890-1938)……ロシアの革命家。1906年にロシア社会民主労働党に入党。1920〜24年、中央委員会書記、モスクワ委員会副議長。(2)邦訳『レーニン全集』第36巻、703〜704頁。ただし訳文は必ずしも既訳に一致していない。以下同じ。
(3)同前、712頁。
(4)クレスチンスキー、ニコライ(
1883-1938)……古参ボリシェヴィキ、法律家。1918〜21年、財務人民委員、党中央委員会書記。トロツキー派。当時、ドイツ駐在ロシア共和国全権代表。1927年、第15回党大会で除名。その後屈服。1938年、第3次モスクワ裁判の被告として銃殺。(5)アヴァネーソフ、ヴァルラム(
1884-1930)……1914年以降ボリシェヴィキ。2月革命後、モスクワ・ソヴィエトのボリシェヴィキ代議員。10月革命後、ペトログラード軍事革命委員、のち全ロシア・ソヴィエト中央執行委員会幹部会員。(6)フルムキン、N・I(
1878-1938)……別名ゲルマノフ。古参ボリシェヴィキ。1922年以降、財務人民委員部参与、外国貿易副人民委員、財務副人民委員などを歴任。(7)ストモニャコフ、ベ・エス(
1882-1941)……古参ボリシェヴィキ。1902年にロシア社会民主労働党に入党。1920〜25年、ベルリン駐在外国貿易人民委員部全権代表。(8)邦訳『レーニン全集』第45巻、783〜784頁。
(9)レーニン「少数民族の問題または『自治共和国化』の問題によせて」、邦訳『レーニン全集』第36巻、715頁。
(
10)ヴォロディチェヴァ、M・A(1881-1973)……1917年からボリシェヴィキ。晩年のレーニンの当直秘書。(
11)邦訳『レーニン全集』第45巻、791頁。(
12)レーニンのこの手紙がソ連国内ではじめて発表されたのは1956年。(
13)邦訳『レーニン全集』第33巻、512頁。(
14)スターリンは、国家監督部と呼ばれていた時代の1919年3月から1922年4月までラブクリンの長であった。(
15)センギリエヴォ地区党組織はシンビリスク党組織の一機関。そこでは、1919年秋にヴォルガ河流域の地域の農民の不満と動揺という問題が起きていた。(
16)トロツキー「食糧政策の根本問題」、『トロツキー研究』第3号、16頁。(
17)同前、15頁。(
18)トロツキー「10月8日付中央委員会と中央統制委員会への手紙」、本誌、219頁。(
19)トロツキー『社会主義と市場経済』、大村書店、207頁。(
20)同前、208頁。(
21)同前、209頁。(
22)リトヴィノフ、マクシム(1867-1951)……古参ボリシェヴィキ。1905年革命時は武器の密輸を担当。革命敗北後、国外から「徴発(エクス)」のための武器購入に従事。銀行強盗によって入手した銀行券をパリで交換しようとして逮捕。釈放後、イギリスに亡命。10月革命後、ソヴィエト政府の在イギリス代表に任命。1921年、外務副人民委員。1930〜39年まで外務人民委員。(
23)1923年9月23日号の『プラウダ』に掲載されたトロツキーの論文「反革命ないし革命の期日を定めることは可能か」を指している。この論文は後に、『コミンテルンの5ヵ年』に収録された。(
24)1923年9月に実行された冒険主義的な武装蜂起のこと。当時の君主制的・ファシスト的政権に対する武装蜂起がブルガリア共産党によって企てられ、いくつかの都市が占拠され、労農政権が宣言されたが、この蜂起はたちまち残酷に弾圧された。(
25)ミリューチン、ウラジーミル(1884-1937)……ロシアの経済学者、1910以来の党員。10月革命後に農業人民委員で、社会主義者の連立政府の支持者。1918〜21年、最高国民経済会議(ヴェセンハ)の副議長。1922年、コミンテルンの執行委員。1928年に中央統計局の長官。晩年はスターリンによって粛清。(
26)ネップ初期に組織され、モスクワ地域の地方企業(行政当局に従属)を結合していた企業連合体のこと。(
27)これは10月革命直前にジノヴィエフとカーメネフが蜂起反対の声明を出したことや、革命直後にメンシェヴィキやエスエルとの連立政府を主張して多くのボリシェヴィキの人民委員が辞任したことを指している。
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