1920年代中期
(1923〜26)
第11期 左翼反対派の闘争(1923〜24)
◇レーニン最後の闘争(1)――党の機構と人事
【資料】レーニン「大会への手紙」(1922年12月23〜26日)
【資料】レーニン「中央委員の増員について」(1922年12月29日)
【資料】レーニン「われわれは労農監督部をどのように改組するべきか」(1923年1月23日)
【研究】ユーリー・ブラノフ『偽造され隠蔽されたレーニンの遺書』
「中央委員会総会、政治局、組織局、書記局の機能分割に関する書記局の提案について」(1923年1月29日)
「政治局員の分業に関する同志ジノヴィエフの提案について」(1923年2月15日)
「党中央機関の再編と改善案によせて」(1923年2月22日)
【資料】レーニン「量は少なくとも質のよいものを」(1923年3月2日)
【資料】レーニン「スターリンへの手紙」(1923年3月5日)
「党に関する思想」(1923年3月13日)
◇レーニン最後の闘争(2)――外国貿易と工業問題
【資料】レーニン「外国貿易の独占問題に関するトロツキーおよびスターリンその他への手紙」(1922年12月12〜21日)
「レーニンへの手紙」(1922年12月12日)
【資料】レーニン「ゴスプランに立法機能を与えることについて」(1922年12月27〜29日)
「政治局への手紙――ゴスプランと勤労国防会議に関するスターリンの手紙について」(1923年1月15日)
「中央委員と中央委員候補へ――中央経済機関の編成について」(1923年1月20日)
「全中央委員へ――勤労国防会議の編成について」(1923年1月25日)
「固定資本への融資問題について」(1923年2月12日)
◇レーニン最後の闘争(3)――民族問題
【資料】レーニン「少数民族の問題または『自治共和国化』の問題によせて」(1922年12月30〜31日)
【資料】レーニン「トロツキーへの手紙」(1923年3月5日)
【資料】レーニン「ムデヴァニ、マハラッゼその他への手紙」(1923年3月6日)
「
民族問題と青年党員の教育」(1923年3月20日)「中央委員会書記局へ」(1923年3月28日)
「ブハーリンへの手紙」(1923年4月1日)
「全中央委員へ」(1923年4月16日)
【資料】フォティエヴァ「同志カーメネフへ」(1923年4月16日)
「4月16日の中央委員会総会における同志スターリンの発言について」(1923年4月17日)
「スターリンへの手紙」(1923年4月18日)
「青年教育と民族問題」(1923年5月1日)
◇第12回党大会と工業報告
「工業に関するテーゼ案」(1923年3月6日)
【資料】ボグダーノフ「工業テーゼへの修正案」(1923年3月13日)
『
ロシア共産党第12回大会の課題』(1923年4月5日)「工業に関する報告」(1923年4月20日)
「結語」(1923年4月20日)
「工業に関するテーゼ」
【資料】ラコフスキー、ジノヴィエフ、ブハーリン他「第12回大会における演説」
【資料】第12回党大会民族部会議事録(1923年4月25日)
◇日常生活・文化・経済
「A・L・ストロングの著書への序文」(1923年1月27日)
「日常生活における必要な潤滑油としての気配りと礼儀正しさ」(1923年4月3日)
「言葉の文化性のための闘争」(1923年5月15日)
『日常生活の諸問題』(1923年夏)
「
資本主義の発展曲線」(1923年6月21日)(Eng)「啓蒙的官僚主義反対(非啓蒙的官僚主義は言うまでもなく)」(1923年8月6日)
『文学と革命』(1923年9月)
「モスクワ婦人労働者祝賀集会への手紙」(1923年11月28日)
◇労働者通信員とソヴィエト・メディア
「
新聞とその読者」(1923年6月29日)「
いかなる観点からアプローチするべきか」(1923年8月8日)「軍事メディアの課題」(1924年5月10日)
「
労働者通信員とその文化的役割」(1924年7月23日)
◇青年と共産主義教育の課題
「何よりも共産主義教育を」(1923年2月21日)
「10月の世代――非党員代議員への回答」(1923年4月5日)
「『革命の根本問題』への序文」(1923年5月4日)
「一度に多くのことをしようとするな!」(1923年5月29日)
「青年は老人よりもうまく書かなければならない――『若き親衛隊』編集部への手紙」(1923年6月1日)
「党と後進民族の青年」(1923年6月12日)
「共産主義教育の課題――スヴェルドロフ大学創立5周年」(1923年6月18日)
「赤軍は教育の苗床である」(1923年5月26日)
◇赤軍建設の新しい課題と空軍建設
「赤軍の第2の5ヵ年を前にして」(1923年2月10日)
「軍事建設の課題について再び」(1923年2月18日)
「空軍は今日の課題」(1923年3月4日)
「『空軍同志会』の式典演説」(1923年4月26日)
「『経済生活』紙への手紙」(1923年5月2日)
「軍事建設の展望と課題」(1923年5月18日)
「未来の武器」(1923年5月30日)
◇カーゾンの最後通牒
「赤の広場におけるメーデー演説」(1923年5月1日)
「モスクワ・ソヴィエト緊急総会での演説」(1923年5月12日)
「モスクワ州金属労働者組合協議会での演説」(1923年6月5日)
「金属労働者組合全国大会への報告」(1923年6月16日)
「クラスナヤ・プレスニャ地区党・労働組合・青年同盟・その他の組織の合同会議演説」(1923年6月25日)
「
『ヨーロッパ合衆国』のスローガンを出すべき時」(1923年6月30日)
◇政治局多数派との中間的闘争――経済、赤軍、ウォッカ
「中央委員会および中央統制委員会へ――経済機構問題」(1923年6月15日)
「政治局へ――赤軍人事問題」(1923年6月16日)
「中央委員へ――ウォッカ問題」(1923年6月29日)
「ウォッカ問題に関する決議案」(1923年6月30日)
「中央委員と中央統制委員へ――ウォッカ問題」(1923年7月2日)
◇ドイツの革命的危機
「反革命ないし革命の期日を設定することはできるか」(1923年9月23日)(
English)「上院議員キングとの対話」(1923年9月30日)
「第3回金属労働者組合モスクワ県大会への報告」(1923年10月19日)
「第8回輸送労働者組合全ロシア大会への報告」(1923年10月20日)
「現在の情勢と軍事建設の課題」(1923年10月21日)
「ドイツ革命の敵と同盟者」(1923年10月23日)
「コムソモールの5年」(1923年10月29日)
「7年」(1923年11月5日、『プラウダ』1923年11月7日)
◇新路線論争の前段階――9月総会と「労働者グループ」と「労働者の真理」
【資料】ジェルジンスキー「9月総会報告」(1923年9月25日)
【資料】「中央委員会9月総会決議」(1923年9月25日)
【資料】「『労働者グループ』の声明」(1923年初め)
【資料】「『労働者グループ』の宣言」(1923年)
【資料】「『労働者グループ』の訴え」(1923年5月)
【資料】ミャスニコフ「中央委員会への声明」(1923年5月末)
【資料】「『労働者の真理』のアピール」(1923年5月)
◇新路線論争(1)――「書簡政綱」と「46人の声明」
「中央委員・中央統制委員への手紙」(1923年10月4日)
【資料】クイブイシェフ「中央委員および中央統制委員宛ての覚書」(1923年10月7日)
「
中央委員・中央統制委員への手紙――第1の『書簡政綱』」(1923年10月8日)「中央委員・中央統制委員への手紙」(1923年10月10日)
【資料】「政治局会議事録抜粋」(1923年10月11日)
【資料】プレオブラジェンスキー他「
46人の声明」(1923年10月11日)【資料】「中央統制委員会幹部会決議」(1923年10月13日)
【資料】「モスクワ委員会ビューロー会議の議事録抜粋」(1923年10月14日)
【資料】モロトフ、トムスキー「政治局員への手紙」(1923年10月15日)
【資料】ナザレチャン「モロトフ宛の覚書」(1923年10月16日)
【資料】モロトフ「政治局員および候補宛ての覚書」(1923年10月17日)
【資料】「政治局会議事録抜粋」(1923年10月18日)
「中央統制委員会幹部会および政治局への手紙」(1923年10月19日)
【資料】スターリン、ジノヴィエフ、カーメネフ他「
トロツキーの手紙(10月8日付)に対する政治局員の回答」(1923年10月19日)【資料】「ブハーリンの電話メッセージ」(1923年10月20日)
【資料】クイブイシェフ、ヤロスラフスキー「中央委員会および中央委員会への手紙」(1923年10月20日)
「
中央委員および中央統制委員への手紙――第2の『書簡政綱』」(1923年10月23日)
◇新路線論争(2)――10月総会
「中央委・中央統制委合同総会(10月総会)における結語演説(要約)」(1923年10月26日)
【資料】スターリン「中央委・中央統制委合同総会における結語演説(要約)」(1923年10月26日)
【資料】「
中央委員会・中央統制委員会合同総会(10月総会)決議――同志トロツキーの手紙に関連した党内情勢の問題について」(1923年10月27日)【資料】クルプスカヤ「
ジノヴィエフへの手紙」(1923年10月31日)【研究】ダニーロフ「われわれはトロツキーを認識しはじめている」(1990年)
◇新路線論争(3)――公然たる討論の開始
【資料】ジノヴィエフ「党の新しい課題」(『プラウダ』1923年11月7日)
【資料】プレオブラジェンスキー「わが党内の状況について」(『プラウダ』1923年11月28日)
【資料】スターリン「党の課題について――クラスナヤ・プレスニャ地区活動家合同会議における報告」(1923年12月2日、『プラウダ』1923年12月6日)
【資料】スターリン「クラスナヤ・プレスニャ地区活動家合同会議で寄せられた質問に対する回答」(1923年12月2日)
「軍隊内およびその他あらゆる所での官僚主義について」(『プラウダ』1923年12月4日)→『新路線』
「政治局への声明」(1923年12月6日)
【資料】スターリン「政治局への声明」(1923年12月8日)
「スムィチカについて」(『プラウダ』1923年12月6日)→『新路線』
◇新路線論争(4)――「党建設」決議と妥協の試み
【資料】ジノヴィエフ「わが党の現在の課題」(1923年12月1日)
「『党建設』決議作成のための3人小委員会における意見対立」(1923年12月5日)
【資料】「党建設について(政治局・中央統制委員会合同総会決議)」(1923年12月5日、『プラウダ』1923年12月7日)
「農民の『過小評価』」(『プラウダ』1923年12月6日)→『新路線』
【資料】サプローノフ「党の当面する課題は何か」(『プラウダ』1923年12月8日)
【資料】「政治局会議議事録抜粋」(1923年12月8日)
【資料】ジノヴィエフ「スターリン宛ての覚書」(1923年12月8日)
「中央委員会への手紙」(1923年12月9日)
◇新路線論争(5)――「新路線」論文と論争の激化
「
新路線(党の諸会議への手紙)」(1923年12月8日、11日、『プラウダ』12月11日)→『新路線』【資料】カーメネフ、サプローノフ、プレオブラジェンスキー、ラデック「モスクワ党組織活動家・細胞ビューロー会議における演説」(1923年12月11日)
【資料】ヤロスラフスキー「政治局員および中央統制委員・候補への手紙」(1923年12月11日)
【資料】ブハーリン「わが党と日和見主義」(『プラウダ』1923年12月13日)
「政治局および中央統制委員会幹部会への手紙」(1923年12月13日)
【資料】ブハーリン「政治局および中央統制委幹部会への声明」(1923年12月13日)
【資料】ジノヴィエフ「労働者民主主義と党機構の問題」(『プラウダ』1923年12月13日)
【資料】「8人の政治局員および候補の声明(政治局宛て)」(1923年12月14日)
【資料】ブハーリン、プレオブラジェンスキー「地区委員会書記養成学校合同討論会議における報告」(1923年12月14日)
【資料】カーメネフ「中央委員会決議を実施するために何をするべきで、何をするべきでないか」(『プラウダ』1923年12月14日)
【資料】ジノヴィエフ「党のための闘争――ペテルブルク組織諸集団ビューロー全市協議会での報告」(1923年12月15日)
【資料】スターリン「討論について、ラファイルについて、プレオブラジェンスキーとサプローノフの論文について、トロツキーの手紙について」(『プラウダ』1923年12月15日)
【資料】サプローノフ「統一と反対派について」(『プラウダ』1923年12月16日)
「『プラウダ』への手紙(および編集部後記)」(1923年12月17日、『プラウダ』12月18日)
「書記局への覚書」(1923年12月17日)
【資料】スターリン「キーロフへの手紙」(1923年12月17日)
【資料】政治局決議「党内闘争の激化に反対する」(1923年12月17日、『プラウダ』12月18日)
【資料】ブーブノフ「機構について」(『プラウダ』12月18日)
【資料】ウリヤーノヴァ、クルプスカヤ「中央委員会宛ての覚書」(1923年12月21日)
「オクチャブリ鉄道モスクワ管区車両修理工場党細胞への手紙」(1923年12月22日)
【資料】ラファイル「同志スターリンに答える」(『プラウダ』1923年12月22日)
【資料】サプローノフ「迫害に反対する」(『プラウダ』1923年12月23日)
【資料】政治局決議「経済政策の当面する課題」(1923年12月24日、『プラウダ』12月25日)
【資料】カーメネフ「経済政策の当面する課題――クラスナ・プレスニャ地区活動者会議報告」(1923年12月27日、『プラウダ』12月30日)
【資料】アントーノフ=オフセーエンコ「中央統制委幹部会・政治局への手紙」(1923年12月27日)
「新路線――グループ化と分派の形成」(1923年12月22日、『プラウダ』12月28日)→『新路線』
【資料】スターリン「必要な指摘――同志ラファイルについて」(『プラウダ』1923年12月28日)
【資料】ブハーリン「分派主義粉砕!――同志トロツキーへの編集部の回答」(『プラウダ』1923年12月28、29、30日、1924年1月1、4日)
「新路線――党内の世代の問題」(1923年12月23日、『プラウダ』12月29日)→『新路線』
「新路線――党の社会的構成」(1923年12月23日、『プラウダ』12月29日)→『新路線』
【資料】ブハーリン「編集部から」(『プラウダ』12月29日)
「政治局への声明」(&ピャタコフ、ラデック)(1923年12月29日)
【資料】決議「トロツキー=ピャタコフ=ラデックの声明に関する政治局決議」(1923年12月31日)
【資料】スターリン、ジノヴィエフ、カーメネフ他「
トロツキーの手紙(10月23日付)に対する9人の政治局員・候補の回答」(1923年12月31日)【資料】アントーノフ=オフセーエンコ「スターリンへの手紙」(1924年1月2日)
◇新路線論争(6)――『新路線』と第13回党協議会
【資料】プレオブラジェンスキー「モスクワ地方協議会での演説」(1924年1月10日)
【資料】スターリン、ラデック他「1月総会における報告」(1924年1月14〜15日)
『新路線』(1924年1月17日)
【資料】ルイコフ、スターリン「第13回党協議会の報告」(1924年1月16、17日)
【資料】ピャタコフ、プレオブラジェンスキー「第13回党協議会の演説」(1924年1月16、17日)
【資料】第13回党協議会決議「討論の総括と党内の小ブルジョア的偏向について」(1924年1月18日)
【研究】ヴァレンチナ・ヴィルコヴァ「『権力のための闘争』序文」(1996年)
◇レーニンの死
「レーニンは死んだ!」(1924年1月22日、『プラウダ』1月24日)(
English)【資料】トロツキー「
レーニンにおける民族的なもの」(1920年4月23日)→『レーニンについて』【資料】スターリン「レーニンの死」(1924年1月26日)
【資料】スターリン「レーニンについて」(1924年1月28日)
【資料】クルプスカヤ「トロツキーへの手紙」(1924年1月29日)
【資料】カウツキー「レーニン追悼」(1924年1月)
【資料】ヴィクトル・チェルノフ「レーニン」(1924年)
【資料】ブハーリン「マルクス主義者としてのレーニン」(1924年2月17日)
【資料】ヴィクトル・セルジュ「レーニン、1917年」(1924年3月−4月)
【資料】マックス・アドラー「レーニン」(1924年)
【研究】E・H・カー「レーニンの死」
◇レーニンの思い出とレーニン論
「10月革命をめぐって」(1924年4月6日、『プラウダ』4月16〜23日)→『レーニンについて』
「
レーニンの思い出から」(1924年4月23日)【資料】スターリン「レーニン主義の基礎」(1924年4〜5月)
『レーニンについて』(1924年夏)
「レーニンについての真実と嘘」(1924年9月28日)
「大きい人と小さな人」(1924年9月30日)
「行き過ぎた熱意」(1924年10月)
◇青年問題と文化教育の諸問題
「グルジア・コムソモールへの手紙」(1924年4月17日)
『
農村青年の任務と新しい日常生活』(1924年4月28日)「青年よ政治を学べ!」(1924年4月29日)
「赤軍と教育」(1924年4月30日)
「人間教育について若干」(1924年6月24日)
「レーニン主義と図書館活動」(1924年7月10日)
「レーニン主義と労働者クラブ」(1924年7月17日)
「再び労働者クラブについて」(1924年8月27日)
◇軍事理論の諸問題
「
フリードリヒ・エンゲルスの新しい著作」(1924年3月19日)「内戦の諸問題」(1924年7月29日)
◇第13回党大会
「第13回党大会における演説」(1924年5月26日)
【資料】スターリン他「第13回党大会における演説」
◇世界情勢と世界革命の展望――西方と東方
「ヨーロッパ革命への道」(1924年4月11日)→『西方と東方』所収
「第7回鉄道労働者大会における演説」(1924年4月19日)
「
東方における展望と課題」(1924年4月21日)(English)→『西方と東方』所収「
ソ連邦と日本――『大阪毎日』特派員・布施勝治氏との対話」(1924年4月24日「西方と東方におけるメーデー」(1924年4月29日)(
English)→『西方と東方』所収「新しい転換――『コミンテルンの5ヵ年』の序文」(1924年5月22日)(
English)『コミンテルンの5ヵ年』(1924年6月)
「アムステルダム・インターナショナルと戦争」(1924年6月7日)→『西方と東方』所収
「われわれと東方」(1924年6月10日)→『西方と東方』所収
「
ソヴィエと・ロシアと日本」(1924年6月18日)「われわれはいかなる段階を通過しつつあるか」(1924年6月21日)(
English)→『西方と東方』所収「コミンテルン第5回世界大会の宣言」(1924年7月5日)
『西方と東方』(1924年7月)
「世界発展の展望の問題によせて」(1924年7月28日)(
English)「ソ連は抑圧された中国の立場に立つ」(1924年8月18日)
「カバルディノ・バルカルスク自治区とその課題」(1924年9月22日)
「
世界軍国主義の成長とわれわれの軍事的課題」(1924年10月25日)「彼らは敗北する運命にある」(1924年10月29日)
「10月革命は生きている!」(1924年11月7日)
◇文献論争――『10月の教訓』
『
10月の教訓』(1924年9月16日、出版は10月25日)【資料】カーメネフ、ジノヴィエフ「中央委員会総会(10月総会)決議案」(1924年10月24日)
「中央委員会総会(10月総会)での発言(抜粋)」(1924年10月26日)
【資料】ブハーリン「10月の歴史をどのように書いてはならないか」
【資料】コムソモール中央委員会「コムソモールと10月革命――同志トロツキーの『10月の教訓』について」(『プラウダ』1924年11月12日)
【資料】マルトゥイノフ「ジノヴィエフへの手紙」(1924年11月13日)
【資料】カーメネフ「レーニン主義かトロツキズムか」(1924年11月18日、『プラウダ』11月26日)
【資料】スターリン「トロツキズムかレーニン主義か」(1924年11月19日)
【資料】ソコーリニコフ「10月革命の歴史にどのようにアプローチするべきか」(『プラウダ』1924年11月19日)
【資料】スターリン「ベルドニコフへの手紙」(1924年11月20日)
【資料】ベルドニコフ「スターリンへの手紙」(1924年11月21日)
【資料】スターリン「ウクライナ中央委員会への手紙」(1924年11月29日)
【資料】ジノヴィエフ「ボリシェヴィズムかトロツキズムか」(『プラウダ』1924年11月30日)
「
われわれの意見の相違」(1924年11月末)【資料】グラムシ「10月の歴史をどのように書いてはならないか」
【資料】モロトフ「トロツキズムの教訓について」(『プラウダ』1924年12月9日)
【資料】カーメネフ「レーニンはプロレタリアートと革命を本当はどのように指導したか」(『プラウダ』1924年12月10日)
【資料】クルプスカヤ「10月の教訓の問題によせて」(『プラウダ』1924年12月16日)
【資料】グーセフ「革命はいかに武装されたか――ロシア共産党と赤軍」(『プラウダ』1924年12月17日)
【資料】ザローモフ「旧政治囚と旧流刑囚への手紙」(1924年12月18日)
【資料】ウグラーノフ「スターリンへの手紙」(1924年12月18日)
【資料】スターリン「10月とトロツキーの永続革命論」(『プラウダ』1924年12月20日)
【資料】ルイコフ「新しい論争」(『プラウダ』1924年12月23日)
【資料】ヤロスラフスキー「スターリンへの手紙」(1924年12月27日)
【資料】ソコーリニコフ「同志トロツキーの理論とわれわれの革命の実際」(『プラウダ』1924年12月31日)
【研究】スタルツェフ「死活にかかわる論戦の第2ラウンド」(1991年)
第12期 幕間――世界市場、電化、品質、利権(1925〜26)
◇文献論争の余波――1月総会と軍事人民委員の辞職
「
中央委員会総会への手紙」(1925年1月15日)【資料】1月総会決議「トロツキーの攻勢について」(1925年1月17日)
「政治局への手紙」(1925年1月19日)
【資料】ウクライナ共産党中央委員会・中央統制委員会「ロシア共産党中央委員会への手紙」(1925年2月23日)
【資料】「中央委員会4月総会から地方党組織への秘密の手紙」(1925年4月26日)
◇イーストマン事件
【資料】マックス・イーストマン『レーニン死後』(1925年)
「『サンデー・ワーカー』編集部への回答」(1925年5月9日)
【資料】インクピン「トロツキーへの手紙」(1925年5月9日)
「スターリンへの手紙」(1925年5月19日)
「インクピンへの手紙」(1925年5月21日)
【資料】スターリン「イーストマン事件に関する回状――政治局員・中央統制委員会幹部会員へ」(1925年6月17日)
【資料】クルプスカヤ「『サンデー・ワーカー』編集部への回答」(1925年7月1日)
「イーストマンの著作『レーニン死後』について(オリジナル版の一部)」(『ユマニテ』1925年7月16日)
【資料】スターリン「モロトフへの手紙」(1925年8月1日、9日、18日)
「イーストマンの著作『レーニン死後』について(スターリンによって修正されたもの)」(『ボリシェヴィク』第16号、1925年9月1日)
【資料】マックス・イーストマン「トロツキーへの回答」(1925年10月発表)
◇利権政策、世界市場、農民
「
ソ連の利権政策について」(1925年7月29日)【資料】スターリン「モロトフへの手紙」(1925年8月1日)
「
チェンバレンとのインタビュー」(1925年7月30日)『
社会主義へか資本主義へか』(1925年9月)「われわれの新しい課題」(1925年9月1日)
「イギリスの議員代表団のモスクワ訪問」(1925年9月12日)
「世界市場に向けた方向設定」(1925年9月25日)
「来るフランスとの交渉から何を期待することができるか」(1926年1月17日)
◇電化のための闘争とドニエプロストロイ
「電気設備の諸問題」(1925年6月12日)
「送電線を守ろう!」(1925年7月16日)
「モスクワ・ソヴィエト幹部会への手紙」(1925年7月18日)
【資料】スターリン「モロトフへの手紙」(1925年7月20日)
「ドニエプル総合開発事業(ドニエプロストロイ)案の検討」(1925年7月24日)
「ドニエプロストロイ」(1925年9月3日)
「ドニエプロストロイについて」(1925年9月13日)
◇品質のための闘争(1)
「生産物の品質と社会主義経済」(1925年7月6日)
「生産における秘伝について」(1925年7月21日)
「品質のための闘争」(1925年7月25日)
「商品の品質」(1925年7月30日)
「わが国の生産する大鎌はオーストリア製の大鎌にひけをとらないか?」(1925年8月4日)
「品質のための闘争」(1925年8月17日)
「質的指標の問題」(1925年9月11日)
「農業機械と農具を注意の中心に」(1925年9月26日)
「製革工業製品の品質改善について」(1925年10月5日)
「品質のための闘争への労働組合の参加」(1925年10月5日)
「品質のため、文化のため」(1925年11月7日)
◇死者の思い出
「スヴェルドロフの思い出」(1925年3月13日)(
English)「ミャスニコフ、モギレフスキー、アタルベコフの思い出」(1925年3月23日)
「スクリャンスキーは死んだ!」(1925年8月28日)
「スクリャンスキーとフルギンの思い出」(1925年9月11日)
「フルンゼの思い出」(1925年11月2日)
「セルゲイ・エセーニンの思い出」(1926年1月19日)
◇社会主義と女性・母親
「母性の保護と文化のための闘争」(1925年12月7日)
「社会主義を建設することは女性を解放し母親を守ることである」(1925年12月)
◇社会主義と文化・技術・日常生活
「科学技術知識とマルクス主義」(1925年5月31日)
「
技術と科学の結合を!」(1925年7月18日)「
『日常生活の諸問題』日本語版の未完序文」(1925年8月13日)「D・I・メンデレーエフとマルクス主義」(1925年9月17日)
「
新しいページ――医療と文化建設活動家の課題」(1925年12月8日)「労働者通信員の当面する任務」(1926年1月13日)
「文化と社会主義」(1926年2月3日)
「ラジオ、科学、技術、社会」(1926年3月1日)
◇品質のための闘争(2)
「輸入品と加工品の品質」(1926年1月9日)
『品質のための闘争と労働者通信員』(1926年初頭)
「質的指標の確立について」(1926年2月2日)
「協同組合と品質」(1926年2月8日)
◇世界資本主義の相対的安定化と英米帝国主義
「
ヨーロッパ資本主義の安定化の問題によせて」(1925年5月25日)『イギリスはどこへ行く』(1925年半ば)(
English)「
世界経済の発展傾向の諸問題」(1926年1月18日)「
ヨーロッパとアメリカ」(1926年2月15日)(English)
◇中国問題
「モスクワ『精神』」(1925年6月6日)
「中国とヨーロッパ」(1925年6月20日)
◇ソヴィエト連邦の諸問題
「8年――総括と展望」(1925年11月8日)
「農業コミューンの諸問題」(1925年12月5日)
「1905年革命20周年」(1925年12月26日)
「ソヴィエト・グルジア5周年記念」(1926年2月25日)
◇第14回党大会
【資料】スターリン、ブハーリン、ジノヴィエフ、カーメネフ他「第14回党大会における諸演説」
「
ジノヴィエフとのブロック」(1925年12月9日)「
経済的敗北主義という非難について」(1925年12月12日)「
スローガンと意見の相違の分析」(1925年12月14日)「
青年労働者集会における演説」(1925年12月14日)「
レニングラード反対派について」(1925年12月22日)「
経済問題に関するテーゼ」(1925年12月)
トロツキー研究所 | トップページ | 更新情報 |