トロツキーの手紙(108日付)に対する

政治局員の回答

スターリン、ジノヴィエフ、カーメネフ他/訳 西島栄

【解説】本稿は、1923年10月8日付で中央委員会および中央統制委員会の全メンバーに宛てたトロツキーの手紙(第一の「書簡政綱」)に対する政治局多数派の回答である。

 トロツキーの書簡政綱に危機感を覚えた政治局多数派は、トロツキーの批判したすべての点に関して反論する必要があると感じただけでなく、トロツキーをできるだけレーニンと対立させ、あたかもトロツキーが個人的な野心からこのような行動を起こしたのだという印象を中央委員会および中央統制委員会のメンバーに与えるように腐心した。この手紙の執筆者はスターリンと見られている。

Буарин, Зиновьев, Калинин, Каменв, Молотов, Рыков, Сталин, Томский, Ответ членов Поитбюро ЦК РКП(б) на письмо Л.Д.Троцкого от 8 Октября 1923 г., Известия ЦК КПСС, No.7, 1990.


極秘

暗号文としてのみ保管

要返却

  中央委員と中央統制委員へ

 

   1、10月8日付トロツキーの手紙に対する詳細な回答はなぜ必要か?

 中央委員および中央統制委員の多くは、同志トロツキーと政治局多数派との協力がすでに何年にもわたって、主として同志トロツキーから手紙や声明が送られてくるという形で続いているという事実を認識している。そうした手紙や声明の中で同志トロツキーは常に、中央委員会のほとんどすべての活動を批判の対象にしている。総じて政治局員の多数派の多くはこうした文書に文書で返答するのを控えてきた。ごくたまに、特殊な場合にかぎって、レーニンは、トロツキーのあれこれのとくに誤った声明に文書で説明を与えた(1)。しかしながら、ロシア共産党第12回大会直前に、本文書の署名者たちは、同志トロツキーのこのようないくつかの声明に対して文書で回答せざるをえなかった。なぜなら、彼が二つの重大な政治的誤りを犯していることが明らかだったからである。(a)農民とのスムィチカ問題に関して、同志トロツキーは当時、農民の役割を過小評価する傾向を持ったきわめて誤った立場をとっていた。(b)国家・経済機関を指導する党の役割の問題に関して、同志トロツキーは当時、同志オシンスキーとよく似た立場をとっていた(2)

 それ以来、われわれは、第12回党大会以来ますます頻繁なものになっている同志トロツキーの文書での声明や発言に一度も答えたことがなかった。しかしながら、同志トロツキーの10月8日付手紙は、返答なしにすますことの絶対できない文書である。まず第1に、この手紙の中で同志トロツキーは、党中央委員会に対する攻撃を開始しており、中央委員会に対する闘争を煽る者として、中央委員会を攻撃するスローガンを提起する先導者として行動しており、しかも国際情勢が困難な時期にあるときにそうしている。政治局はこの点をかんがみて、同志トロツキーの手紙を返答なしにすますことができなかった。第2に、この手紙は、中央統制委員会幹部会とモスクワ県委員会ビューローが正しく特徴づけたように(3)「書簡政綱」であり、分派の組織化に公然と着手するものである。その手紙の中で同志トロツキーは多くの誤りを犯しており、それらは、ロシア共産党第10回党大会前に出された彼の「パンフレット政綱」()よりも党にとって危険なものになりうる。またそれらの誤りは、党内における真の危機と、党と労働者階級とのあいだの分裂を引き起こしかねないものである。もしわが党が同志トロツキーに、彼が1923年10月8日付の「書簡政綱」で犯した巨大な誤りを撤回させることに失敗するならば、ロシア共産党とソ連邦だけでなく、ドイツ革命も甚大な損害をこうむることになるだろう。

 

   2、経済問題

 言うまでもなく、われわれはソヴィエト共和国がその経済的発展途上で現在直面している巨大な困難と危険性を看過するつもりはいささかもない。しかしながら、同志トロツキーと彼の最も近しい仲間たちが、それを途方もなく誇張し、わが国の経済的破産について語るとき、われわれはそれを、同志トロツキーが1921年にわが国の数ヶ月か数週間での「破産」について予言したときのようなパニックであるか、現実に対する無知、あるいは、分派的動機にもとづく意図的な誇張であるかのいずれかであるとみなす。同志トロツキーが2、3年前から中央委員会多数派に反対して行なっていた「経済的」デモンストレーションの最初の時点からすでに、他ならぬ同志レーニンは同志トロツキーに何10回となく、経済問題においては急速な成功は不可能であり、本格的な成果を達成するためには何年にもわたる忍耐と粘り強い努力が必要であると説明してきた。同志レーニンは繰り返し、わが国の経済復興の分野においては、突進や急襲や激しい言葉によっては何も真面目なものは達成することができないし、パニック的な誇張によってはなおさら不可能であると指摘してきた。

 同志トロツキーはその手紙の中で、第12回党大会における自分の工業報告を持ち出している。この報告の中にある正しいものはすべて、中央委員会多数派の提案にもとづいて大会で採択され、今や少しずつ実施に移されている。その報告の中に見られる人為的でこじつけ的なものはすべて、まさにその大会において、「潮流」の違いにかかわりなく最も著名な経済活動家によって拒否された。ここで同志ボグダーノフ、チュバリ、スミルガその他の発言者が同志トロツキーの報告に反対する演説を行なったことを想起しておけば十分だろう(5)

 「計画的で機動的な調整」の意義に関する同志トロツキーの空文句は実際には無内容で、第10回党大会前に彼によって用いられ同志レーニンによって嘲笑された「生産的雰囲気」という空文句を強く彷彿とさせるものである。単一の中央部から国の経済生活を適切に指導することを保障し、この指導にできるだけ計画性を導入することを目的として、中央委員会は1923年夏に労働国防会議を改編し、そこに共和国の最も重要な経済活動家を大量に引き入れた。中央委員会は、同志トロツキーをも労働国防会議に引き入れた。しかしながら同志トロツキーには労働国防会議の会合に出席するつもりはなかった。それはちょうど、彼が何年も人民委員会議の会合に出席せず、同志トロツキーを人民委員会議の副議長[議長代理]の1人に指名するという同志レーニンの提案を拒否したのと同じである。同志トロツキーは、同志レーニンの覚書――それは彼ががすでに病気の時に書かれたもので、ゴスプラン(国家計画委員会)について論じている――を引用している。同志レーニンのこの手紙を読んだ者はみな、その趣旨が、ゴスプランの議長への同志トロツキーの指名という考えにレーニンが反対するものであることを知っている。レーニンは、同志クルジジャノフスキーがゴスプランの議長にとどまり、彼に副議長としてわが国の傑出した行政官の1人をつけるよう助言している。そしてまさにこの方向に沿って政治局は行動した。すなわち、政治局はこのポストに同志ピャタコフを指名し、後に同志スミルガを指名した。たしかに、ゴスプランの活動はまだ満足すべきものではないし、改善が必要である。しかし、この改善は性急さによっては達成できないし、ましてや「計画的で機動的な調整」という空文句によってはけっして達成することはできない

 中央委員会は[第12回党]大会において単一農業税という考えを採択した。この決定が正しくかつ農民の状況を改善するものであること――このことに今やいささかの疑いもない。

 ソヴィエト共和国の財政状況も疑いもなくより安定的なものになった。特別税の国税収は増大し、国の通貨状態も改善された。しかし、半年前、同志トロツキーは、わが国の通貨が失敗し賃金の現物支給への移行が不可避になるだろうと予言した。今や彼が誤っていたことは明らかである。チェルボネツ銀行券はまったく存続可能であり、誰も賃金の現物支給について口にする者はいない。

 穀物輸出の分野においても、われわれは言葉から行動へと移行した。われわれは4000万プード[一プードは約16・4キログラム]以上の穀物を輸出した。われわれは(国際情勢に妨げられないかぎり)2億プードの穀物を輸出することを予定しており、その成功はかなり確実である。われわれはまた、貿易収支を赤字から黒字に転じることができた。

 大工業はゆっくりとだが着実に復興しつつある。燃料問題(石炭、石油)は満足いく形で解決された。鉄道部門は赤字を出さない方向へと本格的な発展を遂げた。

 以上すべての結果は「危機」を物語るものではなく、改善を物語るものである。たしかに、遅々としているが、それでも改善である。

 しかしながら、チェルボネツ貨の安定性に関して、信用・予算・工業の各分野において、状況は疑いもなくきわめて困難である。深刻な不安がいわゆる「鋏状価格差」によって引き起こされている。その重要性については、第12回党大会のずっと前に同志レーニンと政治局多数派によって正しく強調され、第12回党大会でも強調された。中央委員会は、9月総会(1923年)の前に、つまり同志トロツキーの手紙よりもずっと前に、正式にこの問題に対する対策を立てることにとりかかった。その頃トロツキーは、文学、芸術、日常生活等々に関する諸問題の検討で忙しかった。党活動を自分と無関係なものものとみなす人々だけが、こうした現象を中央委員会の経済政策の破産の現われとみなすことができるのである。ネップは間違いなくこのような困難、このような「危機」を何10回とわれわれにもたらすだろう。経済発展のテンポとその性質をまったく理解していない人々だけが、この領域においては何年にもわたる努力の結果としてのみ確実で本格的な結果が達成されるのだということに目を閉じることができる。ロシア共産党第12回大会以来ずっと、同志トロツキーはこの分野においてただの一つも――われわれはこのことをきっぱりと確認しておく――実践的な提案をしていない。ネップの清算について語るのはとんでもない誇張である。中央委員会はすでに、少しずつ結果をもたらすような一連の措置を講じ、それはすでに一定の結果をもたらしている(工業生産物価格はすでに下がりはじめている)。

 工業の集中、商工業における間接費の削減――これらはみな疑いもなく必要不可欠のものである。どちらの分野においても注目すべき結果が達成された。特別の重要性を持っているのは、工業の集中である。なぜなら、間接費の削減は――それはまったく可能なものだが――工業の運命にとって決定的な重要性を持っていないからである。しかし、工業の集中過程の中で、政治的配慮を無視することができるのは(同志トロツキーは軽蔑的な引用符をつけて、この配慮を「地元優先主義的」と呼んでいる)、教条主義者だけである。工業の経済的に合理的な集中は結局は政治的にも有利なものである――これは一般的な代数的定式としては正しい。しかしながら、ここでは多くの譲歩は不可避である。同志トロツキーは、わが国の赤字工場の一つであるペトログラードのプチロフ工場を(それ以前にはブリャンスク工場やその他のいくつかの工場を)閉鎖しないという政治局の決定に――そうとは公然と言うことなく――反対している。政治局は政治的配慮にもとづいて、これらの工場を閉鎖しないことを決定し、わが国の工業政策の直接の指導者――同志ルイコフと同志ピャタコフ――も結局のこのことに同意した。この決定は完全に正しいものであったし、現在もそうである。プチロフ工場やブリャンスク工場のような工場を閉鎖することはソヴィエト共和国全体にとって政治的敗北になってしまうだろう。この問題をほんのわずかでも客観的に見る者は誰でも、このことを難なく理解するだろう。集中は必要であり、今後ともわれわれはこれを進めるだろう。しかし、もし同志トロツキーがその「書簡政綱」の最後で労働者民主主義について無意味に語っているのでないとしたら、彼が教条的やり方で要求している闇雲で「厳格な」集中が何よりも労働者民主主義と両立しないことを容易に理解できるはずである。

 同志トロツキーはある「ささやかなこと」を理解しようとしない。すなわち、われわれが労働者国家であること、このような工場を閉鎖することで労働者の中核部分と衝突することはできないということ、この点での労働者からの遊離が経済的および政治的紛糾をもたらしかねないということである。同志トロツキー流の「厳格な集中」は、間違いなくストライキをもたらし、労働者からの党の乖離をまねき、労働者とのもっと深刻な衝突をまねくだろう。われわれは、国にとって致命的なこの道に足を踏み出すつもりはない。

 政治局が経済分野での人事問題に関して同志トロツキーと意見が一致していなかったし、今もしていないことは本当である。われわれは党に率直に言わなければならないと考えている。同志トロツキーのすべての不満、いらだち、中央委員会に対するもう何年も続いている攻撃、党を揺さぶろうとする彼の決意、これらの基礎にあるのは、同志トロツキーが、中央委員会に自分と同志コレガーエフ()を経済活動の指導的地位に指名させようとしていることである。長年のあいだ同志レーニンはこのような人事に反対してきたし、われわれは同志レーニンが正しかったと思っている。現在の困難な状況のもとで同志トロツキーが共和国の経済機関を指導することができると考えるいかなる根拠もない。逆に、交通人民委員部の経験は反対のことを示している。何よりもそれは労働組合との深刻な衝突をもたらした。経済と軍隊の領域における同志トロツキーの独裁に同意することに応じなかった中央委員会は、慎重な立場を守りつつも、同志トロツキーが自分の望む目標を達成するのを助ける多くの措置をとった。同志トロツキーは人民委員会のメンバーであり、再編された労働国防会議のメンバーでもある。同志レーニンは彼に人民委員会議副議長のポストを提示した。もし彼がそうしようと思ったら、これらのポストでの仕事を通じて、工業と軍隊の領域での事実上無制限の権力(彼はそれを望んでいる)を彼にゆだねてもよいということを党の前で実際に証明することができたろう。しかしながら、同志トロツキーは、われわれの意見では党員としての義務に関するごく普通の理解とあいいれない別の行動方法を選択した。彼は人民委員会議の会合に一度も出席せず――同志レーニンが指導していたときも、病気のせいでレーニンが退いた後も――、労働国防会議の会合にも――以前のものにも再編されたものにも――出席しなかった。彼はまた、人民委員会議、労働国防会議、ゴスプランで経済、財政、予算、その他のいかなる問題も提起しなかった。彼は、同志レーニンの代理というポストをきっぱりと拒否した。どうやら彼はこのポストを自分の沽券にかかわると考えたようだ。彼は「全か無か」という定式にのっとって行動している。実際、同志トロツキーは党に対して自分を次のような立場に置いている。党が経済と軍隊の領域で彼に事実上の独裁権力を与えるか、それとも、彼が、日々の困難な仕事に従事している中央委員会を系統的に混乱させる権利のみを留保しつつ、経済の分野でいかなる仕事も拒否するか、である。われわれははっきりと述べておく。以前と同じく今日においても、政治局は、彼が革命軍事会議議長としてすでに手に入れている全権に加えて、経済的指導の分野における独裁を求める同志トロツキーの野心を満足させる責任を引き受けることはできない、と。われわれの義務は、この分野での危険きわまりない実験の責任を引き受けることはできない、とはっきり言うことである。

 

   3、わが国の全般的政治情勢

 農民のあいだで不満の一定の高まりを示す多くの徴候がある。この不満の理由はおそらく二つある。(1)単一農業税、(2)「鋏状価格差」、である。中央委員会が受け取った情報によれば、単一農業税は全体として1922年の税金よりもはるかに容易に集められている(7)。もちろん、この税金の形態は、他のあらゆる直接税と同じく、農民の中に一定の不満を引きこしているし、引き起こすだろう。今後数年間における党の課題は(戦争がなければ)、段階的に直接税を廃止していって、国家信用や協同組合等々の機構を通じて農民からしかるべき額を課すことへと移行することである。直接税を廃止することは農民の政治的気分を著しく改善するだろうが、それが可能になるのは、都市工業と農業との適切な協力関係が打ち立てられた場合のみである。

 現在における価格の不均衡(「鋏状価格差」)は、農村の中で不満をつくり出さないわけにはいかない。この不満はまた、農村と結びついた労働者層にもある程度まで影響を及ぼす。このことは中央委員会総会で指摘されたし、この点に関しても同志トロツキーは総会の立場を後追い的に繰り返しているにすぎず、何ら新しいものを含んでいない。価格の引き下げのための闘争はすでに始まっている。そして、この問題が外的な要素によって複雑にされることが少なければ少ないほど、それだけますます成功裏に進むだろう。

 賃金支払いの過去の不規則性(借り入れ、賃金の不正確な支払い、等々)は、いくつかの都市で労働者のあいだに騒擾を引き起こした。言うまでもなく、党はこうした不安な現象に最も注意深い態度をとるべきである。しかし、中央委員の中にこの分野でも教条主義的な誤りを犯した人物がいるとすれば、それは同志トロツキーである。彼はここでも、過度の圧力をかけることを主張し、この要求を抽象的な合理主義的理由(「独立採算制」)によって正当化した。われわれは何度も党中央委員会の中で、労働者が実質賃金の問題で後戻りすることを許さないだろうと強調した。同志トロツキーは、このような言明を「アジテーション主義」と呼んだ人々の1人であった。しかし、ここにはいかなるアジテーション主義もなく、事実を確認したにすぎない。同志トロツキーの手紙と彼の仲間の手紙は、もしそれらが外部に漏れれば、労働者のあいだで新しい騒擾を引き起こすだけだろう。

 しかしながら、全体として、労働者階級の気分はまったく健全であり(8)、党は賃金の問題(財務人民委員部は、すべての労働者地域において最も規則正しく賃金を支払うよう命じた中央委員会の直接的な指令を受け取るだろう)と価格の問題に十分注意深く接している。したがって、労働者階級と農民の気分がまったく満足すべきものになるだろうと期待する十分な根拠がある。

 

   4、対外政策の諸問題

 同志クイブイシェフに宛てた1923年10月10日付の手紙の中で、同志トロツキーは、対外政策に関して政治局多数派とのあいだに意見の相違があると述べている。実際、第12回党大会以来、この領域では同志トロツキーとのあいだで深刻な意見の相違が起こったことが2回あった。われわれはここでこの点について簡単に語り、中央委員会および中央統制委員会の諸君に、この論争点においてどちらが正しかったのかについて自ら判断を下してもらいたい。

 カーゾンがかの有名な最後通牒を出した今年の春、同志トロツキーは最初、政治局の立場と異なった立場をとっていた。彼は、われわれは譲歩するべきではない、なぜなら結局のところ決裂は不可避だからだと論じた。政治局多数派は異なった政策路線をとり、それを最後まで追求した。決裂は生じなかった。事件の推移は、同志トロツキーではなくわれわれの立場が正しかったことを完全に示した。その後、同志トロツキーは自分の誤った立場に固執するのをやめた。

 第2の意見の相違は、わが国とポーランドとの関係をめぐって起こった。すでにほとんど1ヶ月にわたって、同志トロツキーは、(ドイツでの事件との関連で)ポーランド政府に対してドイツ問題への相互不干渉の協定を結ぶことを公然と示威的な形で提案するよう外務人民委員部に求めてきた。同志トロツキーは次のように言って自分の主張を正当化した。、ポーランド政府がこの提案を受け入れた場合も、あっさり拒否した場合も、われわれは間違いなく勝者となるだろう。第1の場合は、われわれにとって明らかに有利なものになるし、第2の場合はアジテーションのための絶好の材料を手に入れる。1923年9月の時点ですでに、同志トロツキーはポーランド問題に関する軍への命令案を起草していた。もしこのような命令が当時公表されていたら、それはきわめて危険なものとなり、疑いもなく情勢を悪化させていただろう。政治局多数派の決定にもとづいて、この命令の公表は差し止められた。政治局は、現時点でこのような活動方針、すなわち「アジテーション主義」的アプローチはきわめて危険なものであると考えている。われわれは現在、ポーランドとの決裂を煽りポーランドとの戦争に火をつけるような立場にわれわれを置くかもしれない提案を行なうことはできない。そのような提案は、われわれをドイツ革命が開始される以前にポーランドとの決裂ないし半決裂へと導きかねない。党が軽率にも戦争を挑発しているのではないかと疑う根拠を労働者と農民にわずかでも与えかねないこのような党政策は、破滅的なものとなるだろう。政治局多数派は、「意志の衝動」政策は対外政策の分野においては、そして現在のような恐るべき結果をはらんだ時期には、とりわけ危険なものであると考える。政治局多数派は、長年のあいだ政治局の指導のもとにわが国の対外政策を全体として正しく慎重に指導してきた同志チチェーリンに対する同志トロツキーの攻撃は不適当なものであると考えている。

 同志トロツキーによるこの二つの重大な誤りは、もし同志トロツキーのこの誤りを退けなかったならば、いかに容易に共和国が危機と災厄にさらされることになるかを示している。

 ちなみに言っておくと、ポーランド問題をめぐる政治局と同志トロツキーとの意見の相違は――政治局での多くの発言によれば――、同志トロツキーが、党には「方針」がないという理由でドイツ革命の問題をめぐって公的な発言をするのを拒否するのに十分なものだった。すべての中央委員および中央統制委員は、ドイツ革命問題における党の路線が、外務人民委員部がポーランド政府に前述したような示威的な声明を今日や明日に送るようなものではないということを容易に理解するだろう。

 

   5、ドイツ革命の諸問題

 10月10日付の同じ手紙の中で、同志トロツキーはまた、根本的な意見の相違の一つとして「ドイツ革命と関連した基本的諸問題」をも挙げている。

 この問題は今や中心的なものである。この領域で何かを言葉足らずのまま残しておくのは犯罪的である。それゆえ、われわれは同志たちに以下のことを伝えるのを義務と考える。

 8月、政治局が同志トロツキー、ジノヴィエフ、ブハーリンを休暇から呼び戻してドイツ革命と結びついた問題の最初の討論を行なったとき、同志ジノヴィエフは、この問題に関するテーゼを政治局に提案した。このテーゼは9月の中央委員会総会で満場一致で採択された決定の基礎になった。そのとき同志トロツキーは、ドイツ革命の準備と実行に関する「日程」を作成する必要性をもっぱら強く強調し、それを全問題のアルファにしてオメガであるとみなしていた。彼の主張によれば、ドイツ党の第1の課題は蜂起の政治的準備ではなく、その軍事技術的準備である。政治局多数派はこうした立場を誤りであると、いやむしろ、同志トロツキーにありがちな誇張であるとみなした。しかし、基本点に関してはいかなる意見の相違もなかった。すべての決議が政治局で全員一致で採択された。問題の実践的側面を準備するために、同志ジノヴィエフを長とする委員会が指名され、そこにはトロツキー、ラデック、スターリン(後にはブハーリンも)、チチェーリンの各同志も含まれていた。すべての決定は当時、全員一致で採択された。9月総会を目前に控えて、中央委員会は、来たる総会に向けたテーゼを作成しドイツ革命にかかわるその他の多くの実践的諸問題を討議する特別委員会を発足させた。以上に述べた諸同志たちに加えて、ピャタコフ、ソコーリニコフ、ジェルジンスキーもその委員会に派遣された。委員会は同志ジノヴィエフのテーゼを(修正のうえ)全員一致で採択した。同志トロツキーもそれに賛成投票した。ドイツ共産党との準備協議も、中央委員会9月総会後の協議も、この委員会によって行なわれた。すべての決定は(同志ルート・フィッシャー()をベルリン組織に残すことに関する問題を除いて)またしても全員一致で採択された。このテーゼそのものは、9月総会に出席した中央委員には周知のように、総会によって満場一致で承認された。総会の最後の会合のときになって、すなわちドイツ革命の諸問題がとっくにすんだ後になって、革命軍事会議の構成をめぐって例の問題が生じたとき、同志トロツキーは、中央委員会総会が開かれていたホールを去る前に、中央委員全員を心底驚かせるような演説を行なった。彼は言った、ドイツ共産党の指導部は役立たずである、その中央委員会は運命論、無頓着さ等々にむしばまれている、この点からして、ドイツ革命は敗北を運命づけられている、云々と。この演説はそこにいたすべての人を士気阻喪させる印象を与えたが、同志の大多数は、この攻撃演説がドイツ革命とは無関係なエピソードによって引き起こされたものであり、現実の客観的状況と一致していないと考えた。

 しかしながら、現在、ドイツ革命の諸問題に関してわれわれと同志トロツキーとの何らかの意見の相違を確認することができるとすれば、それはトロツキーがいまだに蜂起の準備における日程的要素を過度に誇張していることである。われわれの入手した1923年10月12日のドイツ共産党中央委員会の議事録には、次のようにある。「同志ブランドラーが、全般的情勢と反対派の問題についてモスクワでロシアの同志と協議した件について報告。そこでは、いわゆる期日の確定に関する同志レオ(トロツキー)との意見の相違を除いていかなる意見の相違も出なかった」。

 コミンテルンで日ごろ活動しているすべての政治局員と中央委員は、事態の決定的な責任を自覚しており、全準備活動が集団的かつ一致団結して進められるよう、できることは何でもした。活動のすべての段階において、同志トロツキーは最も積極的にそれに参加した。したがって、ドイツ革命に関して「根本的な意見の相違」について語ることは誇張であり、こじつけであり、少なくとも時期尚早である。同志トロツキーは、現時点でわが中央委員会および党内における意見対立が、今や世界革命の前哨基地であるドイツ共産党に対するきわめて深刻な打撃になるという事実に気づかないはずがない。

 

   6、共和国革命軍事会議

 同志トロツキーの側から特別の攻撃の対象となっているのは、共和国革命軍事会議に軍事活動家の一団の中央委員を含めることに関する中央委員会総会での全会一致の(同志ピャタコフを含む)決議である。革命軍事会議の再編強化に関する同志クイブイシェフの提案をわれわれが支持したのは、次のような配慮にもとづいてのことだった。

 同志トロツキー自身、ここ最近、軍隊に対してまったく不十分な注意しか向けていなかった。革命軍事会議の主要な仕事は、同志スクリャンスキーと非党員の専門家グループ――総司令官カーメネフ(10)、シャポシニコフ(11)、レベデフ(12)など――の手にゆだねられている。これらの人々は非常に良心的で勤勉で有能な働き手である。しかしながら、中央委員会が軍を何倍も強化しようと決意した時に、そして軍が共和国の運命を決するときが近づきつつあることがはっきりしてきた時に、われわれは当然にも、軍の運命を前述のグループに任せることはできないという結論に達したのである。軍の経済管理はまったくなっていない。軍の兵站部門はアルジャーノフ(13)によって管理されているが、われわれの軍活動家幹部はほとんど全員が彼を信頼できない人物とみなしている。アルジャーノフを司令部から移動させる必要性については党書記局によって繰り返し革命軍事会議に指摘されてきた。

 以上のことをふまえて、まだ革命軍事会議が近い将来直面することになる課題からして、われわれは同会議を強化する問題を提起する絶好の機会であるとみなした。その提案は、革命軍事会議に一般メンバーとしてモスクワ軍管区司令官の同志ムラロフと中央委員会の軍事活動家の一団(ヴォロシーロフ、ラシェヴィチ、スターリン、ピャタコフ、オルジョニキッゼ)を含めるというものであった。

 そのさい、革命軍事会議幹部会内での同志トロツキーに多数派が保証され、また中央委員と革命軍事会議との意見の相違が生じないよう特別に配慮した。このような再編強化がわれわれの任務に大いに貢献し、軍、党、および国全体の目から革命軍事会議の権威を高めるだろうという主張にあえて異論を唱える人はほとんどいないだろう。

 そして、総会によって――繰り返えすが――全員一致で採択されたこの決定を、同志トロツキーは、彼の直接的な支持者である同志ピャタコフも賛成投票したにもかかわらず、分派的動きと宣言しているのである。同志トロツキーはその演説の中で、中央委員会の軍事活動家候補を拒否し、このような革命軍事会議スタッフでは軍に責任を負うことはできないと宣言した。中央委員の同志コマロフ(14)が同志トロツキーに対して、そのような拒否は許されないし、現在のようなときに仕事を放棄するようなことは認められないと指摘したとき、同志トロツキーは、「あらかじめ用意された演説を聴く気はない」と言って、会場を後にした。同志トロツキーに送られた特別の使者を通じて総会として全員一致の要請をしたにもかかわらず、彼は総会に戻らず、結果として中央委員会をきわめて困難な状況に置いた。同志トロツキーによるこうした前代未聞の行動様式は残念ながら、秘密にしておくことができず、広く知れわたることになり(軍を含む)、さまざまなうわさや伝説を生むことになった。

 中央委員会に対して同志トロツキーが現在行なっている攻撃の直接の動機がまさに革命軍事会議の拡張にあるのであって、今年9月末の総会の場で同志トロツキーが一言も述べなかった想像上の経済的「危機」やその他の「危機」ではないとわれわれは確信している。

 

   7、ウォッカの販売問題

 同志トロツキーの「書簡政綱」の中で最もこじつけ的な項目は、ウォッカの販売問題について論じた第13項である。ここで同志トロツキーは惜しみなくレトリックの色彩を用いている。この項目の並外れた鮮やかさからして、われわれは以下に全文を引用しよう。

 「政治局がウォッカ販売にもとづいて予算を立てようとしたこと、すなわち、労働者国家の歳入を経済建設の成否から独立させようとしたこと(!)は、恐るべき徴候であった。経済活動だけでなく党そのものにも最も厳しい打撃を与えかねないこの試みは、中央委員会内外の断固たる抗議によってようやく阻まれた。しかしながら、中央委員会は今でも、将来ウォッカを合法化する考えを放棄していない。党からますます独立しつつある書記組織の自足的性格と、党による集団的な経済建設(!)の成否からできるだけ独立した予算を立てようとする傾向とのあいだに内的な関連があることはまったく疑いない」(15)

 この引用は党がそれを記憶し笑いの対象にするに値する。曰く、政治局は経済建設の成否から「独立して」労働者国家の予算を立てようとしている。「党からますます独立しつつある書記組織の自足的性格と、党による集団的な経済建設の成否からできるだけ独立した予算を立てようとする傾向とのあいだには内的な関連がある」ことを誰が疑えようか、と。同志トロツキーはこのようなナンセンスを真面目に語っているのだろうか!?

 実際はどうだったのか?

 かなり以前の話になるが、アーカート(16)の利権問題が検討されたとき、同志レーニンは何度となく次のように言っていた。われわれの前に立てられている問題はこうだ――どちらがましか、アーカート型の人物に利権を認めることか、それとも、最悪の場合でも、国の財政状況を改善するために一定の条件下でウォッカの販売を合法化することか、と。同志レーニンは躊躇なく後者はよりましであると言っている(17)。同志レーニンが病気に倒れる以前、この問題を実務的に検討し賛否両論を徹底的に比較考量する委員会を指名する問題が何度となく提起された。党中央委員会による決定に何ら目新しいものはない。きわめて厳しい財政事情にある現在、中央委員会はこの問題を検討する秘密委員会を指名したにすぎない。状況に変化があれば(戦争の可能性など)、この問題はおのずからなくなるだろう。

 いったいこのどこに、党に「ふさわしくない」ものがあるのか? ふさわしくないのはただ、この問題を誇張し続けている人々のふるまいだけである。

 

   8、党内情勢

 われわれが「急速に高まりつつある党の危機」(18)の中にいるということは、同志トロツキーにとって何か自明的なことであり、証明を要しないものとみなされている。

 このような主張は何にもとづいているのか?

 1923年10月8日付の「書簡政綱」の中で、同志トロツキーは2度にわたってロシア共産党第12回党大会を召集する「方法と手法」について言及している。つまり同志トロツキーは、ロシア共産党の最高機関である第12回党大会に対して、後になってその正当性に疑義を呈しているわけである。わが党は、「方法と手法」について語る習慣からとっくの昔に脱している――おおむねわれわれがメンシェヴィキと最終的に決裂して以来だ。

 大会前にも、大会中も、大会後も、同志トロツキーは第12回党大会の構成に疑義を呈するようなただの一つの事実も提示していない。何の権利があって彼はわが党に対するこのような非難を繰り返すのか? ソヴィエトの全機構はロシア共産党のうちに政府権力の源泉を見ているし、見なければならない。政治局員の1人が、第12回党大会の代議員選出過程が明らかにごまかされているなどと宣言するとき、それはいったいソヴィエトの機構にどのような影響を及ぼすだろうか? それは明白である。それは、ソヴィエトの機構を党から切り離す土台を準備するものでしかありえない。同志トロツキーは、いかにも深刻そうな調子で、「書記官僚主義が党のあらゆる生活を圧殺してしまった」とか、「県委員会書記、さらには上から下へとくだって末端の細胞の書記にいたるまで、中央委員会書記長によって指名されている」とか、「戦時共産主義の最も厳しい時期でさえ、党内の指名制は現在の10分の1も広まっていなかった」とか、「党全体(!)が今や不公正な指名について語っている」などと語っている(19)。つまりは、党は魂のない機械になってしまったというわけだ。

 同志トロツキーによるこのような主張が、わが党の地方組織の実情に対する彼の完全な無知によるものなのか、それとも党中央委員会に対する彼の特殊な態度によるものなのか、われわれは知らない。すでに第12回党大会前に、同志トロツキーは「県委員会オブローモフ主義[事なかれ主義の意]」なる警句を投げつけたが、今では彼は、党内状況について、メンシェヴィキやミャスニコフ(20)のグループが用いているのと同じ表現で事態を描き出している。

 もちろんわれわれは、この領域でも真実を粉飾したり、万事が完全にうまく行っているなどと主張するつもりはいささかもない。しかしながら、わが党の内部生活についてまったく通じていない人々だけが、新しい積極的要素が党内に現われはじめていることを見逃すことができる。1年以上にわたってすでに、2万5000人を下らない最良の青年党員が共産主義大学とソヴィエト党学校で勤勉に勉強している。コムソモールによって遂行されている多大な努力は近い将来すばらしい結果をもたらすだろう。党からそれが与えうるあらゆるものを摂取している能動的活動家の新しい世代が形成されつつある。両首都の工場における党細胞は、この半年間、少なくともそのメンバーを2倍化している。しかも現場労働者からの流入によってである。党に加わろうとする労働者の熱意は非常に大きい。党員の全般的な文化的水準は着実に上がっている。党の出版物の質は確実に改善された。書記と広い意味でのオルガナイザーは、かなりの程度、新しく入ってきた青年労働者によって担われている。かつてはしばしばまったく不健全で不愉快な性格を帯びていた「上部と下部」という言い方もほとんど聞かれなくなった。社会革命党とメンシェヴィキ党の消滅も進行中である。生きた党活動から切り離されている者だけがこうした事実をすべて無視することができるのである。

 党内討論の不在? 嘘っぱちだ! 火急の重要問題――民族問題――が持ち上がったとき、中央委員会はこの問題をめぐって有名な全ロシア協議会を召集し(21)、この会議ではきわめて活発なやり取りがなされた。たしかに、この半年というもの、とりわけ夏の数ヶ月間、党は一種の無風期を過ごした。重要で急を要する問題が一時的に日程からはずれたようであった。そしてわれわれは積極的な建設活動にいそしんだ。各人はそれぞれ自分の持ち場で、状況に応じたあらゆる種類の「小さな」課題に取り組んだ。しかし、ドイツ革命と結びついて偉大な政治的展望が党の前に開かれている今日、われわれの組織の政治生活は確実に活気を帯びるようになるだろう。評判倒れの特別の「政綱にもとづく討論」はもはやなされない。それは本当である。しかし、われわれの意見によれば、党はもはやそういうものなしにやっていける。それをでっち上げるのは有害でしかないだろう。

 「全面的な民主主義」の諸原則がわが党内では不十分かつ不完全であることは事実である。しかし、同志トロツキーは、第一1回党大会と第12回党大会のいくつかの決定が「全面的な民主主義」を意識的に制限したということを忘れてしまったのだろうか。たとえば、第一1回党大会が決定し、第12回党大会が確認したのは、県委員会の書記が10月革命前からの党歴を持っている必要があること、郡委員会書記が3年以上の党歴を持っている必要があること、そしてどちらの場合も党の上級機関の承認を必要とするということであった。これは、当然ながら、「全面的な民主主義」をかなり制限するものであるが、党を新経済政策の影響から守るために絶対必要な規定である。同じことは党の粛清、入党の制限規定、等々にも言える。同志トロツキーはこうしたことをみな撤廃せよとでも言うのだろうか?

 同志トロツキーは「全面的な民主主義」という思想をもてあそぼうとしているが、それが全党の笑いで迎えられることになるのはほとんど疑いない。

 「県委員会書記の指名」に関していうと、同志トロツキーは他の多くの者と同じく重大な誤解をしている。ごくまれな例外を除けば、現在の「県委員会」書記は地方組織の全面的な支持を得ている。言葉の悪い意味での「被指名者」は誰1人として、どの県においても数ヶ月ともたないだろう。同志トロツキーが組織の多数派の完全な信頼を享受していない県委員会書記をただの1人も見つけることはできないだろうとわれわれは確信している。中央委員会によって推薦された県委員会書記は、多くの場合、すでに自分の県によって圧倒的多数の得票で2回も3回も再選出されており、その地方で完全に同志的な信頼と支持を得ているのである。

 プロレタリア独裁の6年目に、われわれが、反党グループの存在を知った党員はただちにそのことを中央委員会と中央統制委員会に通報しなければならないという特別決議を採択せざるをえなかったことに、同志トロツキーは驚きを表明している。むしろわれわれは同志トロツキーの無邪気さに驚かされる。ここで問題になっているのがどのような党員なのかを同志トロツキーはよく知っているはずである。たとえば、リャザーノフのように、長期にわたってわが党に対して半ば敵対的な立場を保持してきたような同志が問題にされているのだ。

 ミャスニコフのグループやその同類たちについて、同志トロツキーは、あたかもこの数日間ないし数週間に起こった出来事であるかのように、あたかもこのグループが政治局の「誤り」によって生じたものであるかのように語っている。しかしながら、全党が知っているように、ミャスニコフのグループが形成されたのは早くも1921年のことであり、ミャスニコフは同志レーニンの参加のもとに、そして同志トロツキーの側からの異論なしに、党から除名され、しかも、中央委員会はミャスニコフその他の連中を改心させるべく最善を尽くしたが、ミャスニコフ一派はとっくにわが党の公然たる不倶戴天の敵に成り果てたのである。われわれは、この悪を局所的なものにとどめて根絶するために、この種の提案を行ない、中央委員会9月総会は一連の実践的諸措置をとったのである。

 ミャスニコフのようなグループが党内に一定の困難を作り出していることは、われわれも否定しない。しかしながら、中央委員たるものが、党内で増大しつつあるこの困難を利用して、この困難をいっそう深刻化させ悪化させるとは何ごとだろうか? どう見ても同志トロツキーは中央委員会に対して次のように宣言したがっているように見える。私に譲歩せよ、さもないと彼ら(ミャスニコフ派)が党を攻撃するぞ、と。

 

   9、同志トロツキーを支持する46人の声明

 同志トロツキーは一度ならず政治局の中で、自分がこれまで中央委員会に「忠実すぎるほど忠実」であったが、今や自分の手を解き放つつもりだと述べてきた。1923年10月8日付の彼の手紙は、次のような文言で結ばれている。

 「現在の状況をかんがみて、私は、充分に鍛えられ成熟し自制心のあるすべての党員、したがって党が分派的な痙攣や動揺なしに窮地を脱するのを助けうると私がみなしているすべての党員に対して、現状をありのままに語ることは、今や自分の権利であるだけでなく、義務でもあると考える」(22)

 われわれの意見によれば、これはわがボリシェヴィキの伝統においてまったく前代未聞の声明である。中央委員、政治局員にはこのような発言をする権利はないし、そもそもできないはずである。これは度外れたものである。わが党の政治局員ともあろうものが、自分の手は解放された、十分に「鍛えられた成熟し自制的な」党員たちと話し合った上で反中央委員会のアジテーションを遂行する権利が自分にはあるなどと考えるとは。そして、これらの党員たちは党員たちで、より「鍛えられておらず、成熟しておらず、自制的でない」党員たちと話し合った上で同種のプロパガンダをする権利があることになるのではないだろうか? まともな中央委員なら誰1人として、このような状況に我慢できないだろう。

 同志トロツキーの前述の「書簡政綱」(10月8日付)は、10月9日にわが党の中央委員会に渡された。そして10月15日には同志トロツキーの手紙の焼き直しのような「請願」が届いた。そこには、さまざまな保留をした上での署名も含めて約50名の署名があった。明らかにこの二つの文書には密接な結びつきがある。疑いもなくこれは、「計画的」で「機動的」な「調整された」行動の実例である。この両文書の文体さえも(「書記ヒエラルキー」等々)同じ起源のものであることを示唆している。46人の同志たちによって署名されたこの文書はいくつかのパラグラフの中で、同志トロツキーが言いはばかったことをはっきりと言葉にしている。経済的・財政的危機は明らかに「党の不十分な指導を無慈悲に暴露した」と。だが、この46人の声明が無慈悲に暴露したのは、その首謀者たちの党からの遊離とその政治的無原則さである。この声明の筆者たちは、「党内に打ち立てられた体制は、党を特別に選ばれた官僚機構に置きかえることによって、党のあらゆる自主性を殺している」(23)と書いているが、彼らは、自分たちがミャスニコフの作品から剽窃していることにどうやら気づいていないようだ。声明の筆者たちは、「現在の状況の原因は、第10回党大会以後に客観的に形成された党内の一分派独裁の体制にある」(24)と書いているが、これもトロツキーが言いはばかったことを言語化したものにすぎない。「第10回党大会以後に形成された体制」とは、周知のように、同志レーニンの直接の参加にもとづいて打ち立てられたものである。したがって、この「請願」の筆者たちは、分派独裁の体制の親玉が同志レーニンであると考えているわけである。彼らはそれゆえこう書いている。「われわれの多くはこの体制にあえて抵抗しなかった。1921年の転換とその後のレーニンの病気は、われわれの一部の意見によれば、一時的措置として党内部の独裁を必要としたからである」(25)

 わが党の多くの同志たちははたして、同志レーニンが一分派の指導者にすぎず全党の指導者ではないという主張に同意するだろうか?

 同志トロツキーの「書簡政綱」はもう少し外交的である。公然と彼が論争しているのは政治局多数派に対してのみであるが、彼の近しい支持者たちは、現在われわれに向けられているのと同じ非難が、1年前、およびそれ以前に、トロツキーによって、レーニンの指導する政治局の多数派に向けられたことをよく知っている。一度ならず、同志レーニンが活動していた時期の政治局内部でこれらの常軌を逸した諸問題が議論された。1921年末に、同志トロツキーをウクライナの食糧人民委員の全権代表に指名するという決議を政治局で通したのは、他ならぬ同志レーニンである(26)。この決定は後に正式に取り消されたが、そのような決定が必要とされたのは、当時、同志トロツキーが中央委員会多数派に反対する発言を繰り返し行なったことで耐えがたい状況がつくり出されていたからであった。

 この文書に付された署名を分析すると、以下の二つのグループが含まれていることがわかる。1、政治的破産をとげ、繰り返し全党によって断固拒否された悪名高い「民主主義的中央集権派」のグループ。46人の声明の中では、以下の人物がそれにあたる。オシンスキー、サプローノフ、マクシモフスキー、V・スミルノフ、ドロブニス、ラファイル、ボグスラフスキー、等々。2、同志トロツキーのグループ。46人の声明の中では次の同志たちがそれにあたる。プレオブラジェンスキー、セレブリャーコフ、I・N・スミルノフ、ピャタコフ、ベロボロドフ、V・カシオール、エリツィン、アリスキー、ダニシェフスキー、等々。

 この文書の本質はまさに、その政策を何度となくわが党によって非難されてきた二つの小さなグループが同盟を結んだことにある。

 これら二つのグループ――「民主主義的中央集権派」と同志トロツキーのグループ――の合意は、ロシア共産党の歴史において特別に名誉ある場所を占める運命にはおよそない一つの文書を生み出した。

 われわれは、残念ながらこう確認せざるをえない。同志トロツキーは、党の主要カードルに対立しているすべての分子が結集する中心になってしまったと。

 

   10、結論

 1923年9月末、中央委員会総会が開催され、そこに同志トロツキーも参加した。この総会の会議で討議された諸問題は以下のとおりであった。1、国際情勢、2、労働者の地位と賃金、3、党内情勢(ミャスニコフ主義)。総会の会議で、同志トロツキーは、これらすべての問題に関する中央委員会多数派の決定に明確に反対するようなことは何も言わなかった。「危機」については、それをほのめかすような発言さえなかった。

 総会は閉幕した。それから2週間も経って、同志トロツキーがこれらすべての問題に関する政綱を携えて登場したのである。これはどう理解するべきか? どうして同志トロツキーは総会で沈黙を守っていたのか?

 この2週間にいったい何が起こったのか?

 一団の中央委員によって革命軍事会議が再編強化されたことである。最も鍛えぬかれた軍事活動家による革命軍事会議の強化に反対することから議論を始めるのは、いかにも都合が悪い。他のもっと体裁のいい「政綱」を探すことが必要だった。今やそれは見つかった。こうして同時に三つの危機――経済的、一般政治的、党内的――がでっち上げられたのである。

 同志トロツキーの声明には、多くの想像上の、こじつけ的な「意見の相違」が含まれている。しかしながら、真の(最も重要な)意見の相違は以下のとおりである。

 1、経済問題の分野では、同志トロツキーは、この領域での適切な発展テンポを理解することができない。彼は、党を引き回し、トロツキー=コレガーエフの経済的独裁に体現された1本調子の「厳格な集中」を要求している。このような政策は、党を労働者階級の中核部分から分裂させることになるだろう。

 2、対外政策の分野では、同志トロツキーは「意志の衝動」政策をわれわれに押しつけている。この政策はわが国を軍事的冒険に突っ込ませかねないものであり、農民の政治的信頼を完全に失わせかねないものである。

 3、党内政治の分野では、同志トロツキーは、わが党の主要カードルと闘っているあらゆる分子の結集する中心点になっている。

 4、同志トロツキーは、党を、その内部生活を知らないし、どうやらそれを理解することもできないようだ。したがって、「県委員会オブローモフ主義」といった彼の「簡潔な」特徴づけや、地方党組織に対する彼の信頼の欠如、党と国家との関係に関する彼の危険な誤りは、完全にわが党の政敵の手中の道具となっている。

 5、農民問題に関しては、同志トロツキーは何度となく本質的な誤りを犯してきた。第10回党大会前と第12回党大会前、同志トロツキーの誤りは主として農民の役割の過小評価にあった。わが国のような国では、これは最も危険な結果をもたらしかねない。

 6、軍事活動の分野に関しては、同志トロツキーは、軍事活動家の最も有能な中央委員の一団を拒絶して、革命軍事会議を弱め、それを党から孤立させている。

 7、そして最も重要なことは、同志トロツキーが、ソヴィエト共和国と世界革命にとって最も決定的な時期に党の統一を揺るがしていることである。

 以上がわれわれの真の意見の相違である。これらはいずれも、もちろんのこと、取るに足りないものではない。しかしながら、党が十分断固たる姿勢を示すならば、それらはいささかも党の統一を揺るがすことはないだろう。

 こうした事態に真剣に心を痛めている同志たちにわれわれは言う。もっと状況が悪い時もあった。意見の相違なしに集団的活動は不可能である。だが誰も意見の相違を誇張すべきではない。党はこのエピソードをもうまく切り抜け、現在の困難を克服するだろう。過去のいかなる時よりもしっかりと団結しよう。党の側が一致団結して反撃するならば、真面目な革命家は自らの誤りを認識し、党の分裂という破滅的な道を放棄するだろう。

 政治局員および同候補

 N・ブハーリン(27)

 G・ジノヴィエフ

 M・カリーニン

 L・カーメネフ

 V・モロトフ

 A・ルイコフ

 J・スターリン

 M・トムスキー

 (欠席者:同志レーニン、同志ルズターク)

  1923年10月19日

 『ソ連共産党中央委員会通報』1990年、第7号

『トロツキー研究』第40号より

   訳注

(1)労働組合論争をめぐるレーニンの一連の文書を指している。

(2)オシンスキーは1920年に民主主義的中央集権派の指導者の1人であり、ここでは、トロツキーが、第10回党大会で禁止された「民主主義的中央集権派」と似た立場に立っていると示唆している。

(3)それぞれ、10月13日付の中央統制委員会幹部会決議と10月14日付のモスクワ県委員会ビューローの決議を指している。

(4)労働組合論争において1920年12月にトロツキーが出した『労働組合の役割と課題』を指している。

(5)これは事実に反する誇張である。3者ともトロツキーの報告の原則および趣旨に賛成し、一部の部分的問題にのみ異論を唱えた。

(6)コレガーエフ、A・L(1887-1937)……ロシアの革命家、左翼エスエル。1918年からボリシェヴィキ。1920〜21年、交通人民委員の幹部会メンバー、労働国防会議の基本輸送委員会の副代表。

(7)この主張は党指導部の持っていた情報と矛盾している。中央委員会に送られたオ・ゲ・ペ・ウの情報によれば、1923年の秋に多くの県で飢饉が生じており、それは農業税を支払った後に生じていた。

(8)この主張も当時の文書資料と矛盾している。当時のオ・ゲ・ペ・ウの報告によれば、1923年秋に労働者の状態はますます悪化し、失業は増大し、賃金支払いの遅れは頻発していた。10月には217件のストライキが起こり、16万5000人の労働者が参加した。オ・ゲ・ペ・ウの9・10月の総括報告は、労働者の政治的気分が満足できるものではないと語っている。

(9)フィッシャー、ルート(1895-1961)……ドイツの女性革命家、オーストリア共産党の創設者、ドイツ共産党の左派指導者。コミンテルン第4回大会の代議員。1924年からコミンテルン執行委員会メンバー。1927年にマスロウ、ウルバーンスとももにドイツ共産党から除名。レーニンブントを結成。後にアメリカに亡命し、ジャーナリストとして活躍。

10)カーメネフ、セルゲイ(1881-1936)……帝政ロシアの職業軍人、将軍。第1次大戦中は陸軍大佐。1918年に赤軍に参加。1919〜24年、赤軍の総司令官。粛清されることなく、1936年にモスクワで死去。

11)シャポンシニコフ、ボリス(1882-1945)……帝政ロシアの職業軍人。第1次大戦中は陸軍大佐。1918年に赤軍に参加。1928〜31年、赤軍参謀長。1932〜35年、フルンゼ陸軍大学の校長。元帝政派将軍で粛清を生き残った少数の例の1人。1939年、党中央委員候補。1940年、国防人民委員部副人民委員。

12)レベデフ、パーヴェル(1872-1933)……ロシアの職業軍人。第1次大戦中、少将。1918年に赤軍に参加。1922〜28年、赤軍の陸軍大学の校長。ハリコフで死去。

13)アルジャーノフ、M・M(1873-1941)……ロシアの行政官、軍人。非党員。1919〜22年、革命軍事会議の軍事通信中央管理局の長。1922年から赤軍兵站部の長。

14)コマロフ、ニコライ(1886-1937)……古参ボリシェヴィキ。1918〜21年、労農赤軍コミッサール、ペトログラード・チェカ議長。

15)トロツキー「10月8日付中央委員会と中央統制委員会への手紙」、本誌、46頁。

16)アーカート、レスリー(1874-1933)……イギリスの金融・産業資本家。1921〜22年にソヴィエト・ロシアとのあいだで利権契約交渉を行なう。

17)そのような事実を示す文書資料は見つかっていない。

18)前掲「10月8日付手紙」、本誌、49頁。

19)同前、本誌、43〜44頁。ただし正確な引用ではない。

20)ミャスニコフ、ガヴリール(1889-1946)……1906年以来の古参ボリシェヴィキ。1920年には労働者反対派のメンバー。1921年の第10回党大会でネップに断固反対する宣伝を行なう。党内民主主義を求める小冊子を非合法に配布したかどで1922年に除名。1923年、非合法組織の「労働者グループ」を組織。1923年夏にストライキを組織しようとして、逮捕され、バクーに流刑。後にペルシャに亡命し、パリに移住。1929年、亡命中のトロツキーに接近をはかるが、立場が違いすぎて失敗。第2次大戦後、ソ連に帰還するも、逮捕され銃殺。

21)1923年6月9〜12日にモスクワで開催された第4回全党協議会のこと。この協議会は、スターリニスト指導部が民族問題をめぐるレーニンの立場と第12回党大会の決定から後退する転換点となった。

22)前掲「10月8日付手紙」、本誌、52頁。

23)「46人の声明」、本誌、82頁。

24)同前。

25)同前。

26)食糧調達事業の遅れを懸念したレーニンは、1921年7月6日の政治局会議において、トロツキーをウクライナの食糧人民委員に指名することを提案した。この提案は可決されたが、1921年8月9日に開催された中央委員会総会はこの決定を取り消し、「国際情勢の悪化を鑑みて、同志トロツキーは軍事活動により多くの注意を払うべきである」という決議を上げた。

27)ブハーリンは、この「回答」の準備がなされていた時にはペトログラードにいた。彼は自分の意見を同地から電話メッセージで書記局に伝えた。

 

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