新路線

(党の諸会議への手紙)

 トロツキー/訳 西島栄

【解説】本稿は、1923年の新路線論争において中心的な役割を果たした論文である。

 トロツキーは1923年10月8日付けで中央委員会宛てに手紙を書き、工業化の問題、スムイチカの問題、党内民主主義の問題、赤軍の問題、アルコールの専売制の問題など、一連の重要問題について提起した。これは、「46人の声明」と並んで1923年の党内論争の開始を告げるものとなった。その後、同年11月に『プラウダ』の党生活欄で公開論争が開始され、全国から党内民主主義の欠如を指摘する声があいついだ。譲歩の必要性を感じた党指導部は、12月5日付で党内民主主義の発展をうたった党建設決議を全会一致で挙げる。

 トロツキーは、建前上の決議を上げるだけで終わらせず、その決議を解説するという体裁をとって、党内官僚主義の本質を抉り出すような手紙を党の会議に宛てて執筆した。それがこの「新路線」と題する手紙である。これは左翼反対派と党主流派(トロイカ派)との闘争の新たな激化を生み出した。党主流派は、せっかく全会一致で決議を上げたのに、この手紙はその合意と妥協を破るものだとみなした。党主流派は激しい攻撃でもって迎え、この手紙の中でトロツキーが、党と機構を対立させている、古参世代と若い世代を対立させている、古参世代が第2インターナショナルのように変質する可能性を云々している、といった一連の批判を提起した。それとともに、党主流派は、トロツキーの過去を持ち出して、トロツキーがいかにレーニンを先頭とする党主流はと対立してきたかをあげつらうようになった。過去を持ち出してトロツキーをボリシェヴィキと異質な分子とみなすというこの手法は後に1924年の文献論争で全面的に開花し、レーニン主義と一貫して対立するトロツキズムという図式をでっち上げた。

 なお、この手紙の中でトロツキーは、モスクワ党組織と青年党員について高い評価を与えているが、どちらも左翼反対派の最も強力な基盤のある分野であった。しかし、この新路線論争の中で、どちらも党主流派によって破壊され、1924年には完全に党主流派によって制圧されることになる。

Л.Троцкий, Новый курс (Письмо к партийным совещаниям), Правда, 11 Декабрь 1923.


 親愛なる同志諸君!

 私は、近日中に党内状況と新しい課題に関する討論(1)に参加できるだろうと確信していた。しかし今回、実にタイミングの悪いときにかかった病気は、医師たちが当初予想していたよりも長引くことがわかった。そこで、やむなくこの手紙で自分の考えを話すことにしたしだいである。

 党建設の問題に関する政治局の決議(2)はきわめて大きな意義を有している。それは、党がその歴史的道程において重大な転換点にさしかかったことを示している。多くの党会議で正しく指摘されたように、転換にあたっては慎重さが必要である。しかし、慎重さと並んで必要なのは確固たる姿勢と決断力である。転換点における待機主義や曖昧な態度は最悪の種類の軽率さでもあるのだ。

 機構の役割を過大評価し党の自主性を過小評価する傾向のある保守的気分をもった一部の同志たちは、不信の念をもって政治局決議に対している。彼らは言う。中央委員会は実行不可能な義務を引き受けた、決議は偽りの幻想を振りまくだけで、否定的な結果をもたらすことにしかならないだろう、と。明らかに、問題に対するこうした態度には党に対する官僚主義的な不信がしみ込んでいる。中央委員会の決議で宣言された新路線の核心は次の点にある。すなわち、旧路線のもとで不当にも機構の側にずらされていた重心が、今や新路線のもとでプロレタリアートの組織された前衛としての党の、能動性、批判的自主性、自主管理の方へと移動させられなければならないということである。新路線が意味するのは、党機構に、一定の期日までに民主主義の体制を布告したり創設したり確立したりする課題を負わせることではまったくない。いや、そうした体制を実現することができるのは党自身である。課題は次のように簡潔に定式化できる。一瞬たりとも中央集権的な組織であることをやめることなしに、党は自らの機構を自分に従わせなければならないということである。

 最近の討論や論文の中で、「純粋」で「全面的」で「理想的」な民主主義は実現不可能であり、民主主義はわれわれにとってそもそも自己目的ではない、ということがきわめて頻繁に指摘されている。そのことはまったく疑いがない。しかしまったく同じだけの権利と根拠にもとづいてこう言うこともできる。純粋ないし絶対的な中央集権制も実現不可能であり、大衆政党の本質と両立せず、中央集権制も党機構もけっして自己目的ではない、と。民主主義と中央集権制は党建設の両面である。なすべき課題は、この両面を最も正しい形で、すなわち状況に最も適合する形で均衡させることにある。最近はこの均衡が存在しなかった。重心は不当にも機構の側にずらされていた。党の自主性は最小限に切り縮められていた。このことから、革命的プロレタリア政党の精神と根本的に矛盾するような党運営の慣行や方式が生じたのである。党の自主牲を犠牲にして機構の官僚的中央集権主義が度外れて強化され、そのせいで党内に病いの徴候がそこかしこで感じられるようになった。その徴候は、極端な場合には、明らかに共産主義に敵対的な分子によって指導された非合法グループが党内に発生するという極度に病的な表現をとるにまで至った。それと同時に、問題を解決するさいの機構的方法に対する不信の念が全党で強まった。党の官僚主義が党を袋小路に追いやりかねないという理解、少なくともそうした感覚がほとんど全党に広がった。警告の声が上げられた。党内で転換が必要になり、その最初の公的な、そして最も重要な表現こそが、新路線に関する今回の決議である。この決議が実際に現実のものとなるのは、党、すなわち40万の党員がそうすることを望み、かつそれを実行しうるかぎりのことである。

 この間出された一連の論文には次のような考えが今なお根強く見られる。すなわち、党を活性化する基本的な手段は一般党員の文化水準を高めることであり、そうすれば、残るすべては、すなわち労働者民主主義もおのずから付いてくるだろうという考えである。わが党の思想的・文化的水準を高める必要があることは、党が直面している巨大な課題からして、まったく議論の余地はない。しかしまさにそれゆえ、このような純粋に教育的で教師的な問題設定はまったく不十分であり、したがって正しくないのである。それに固執するなら、危機を先鋭化させるだけだろう。党が党としての自らの水準を引き上げることができるのは、労働者階級とその国家に対する集団的で自主的な指導によって自らの基本課題を全面的に遂行する場合のみである。必要なのは教育的アプローチではなくて、政治的アプローチである。あたかも党内民主主義が、それに対する党員の「準備」の程度いかんに応じて導入される(誰によって?)べきであるかのように問題を立ててはならない。党は党である。わが党に入ることを望み、そこにとどまることを望む者なら誰に対しても厳しい要求をつきつけてもかまわない。しかし入党している者はすでにそのことで党の全活動への能動的な参加者なのである。

 官僚主義は自主性を殺し、そのことによって党の全般的水準の向上を妨げる。そこに官僚主義の主たる罪がある。党機構に引き入れられるのは不可避的に、より経験を積んだ功績のある同志たちであるだけに、機構的官僚主義は党の若い世代の思想的・政治的成長に最も過酷な影響を与える。まさにそれゆえ、党の最も確かなバロメーターである青年は、党の官僚主義に最も鋭く反応するのである。

 しかし、党の諸問題を解決するさいの機構的方法のはなはだしさが、党の政治的経験とその革命的伝統を体現している古参世代に何の影響も及ぼさないと考えるのは、誤りであろう。いや、危険性はこちらの極でも非常に大きい。わが党の古参世代の巨大な――ロシア的な規模においてだけでなく、国際的な規模においても――意義についてはあえて語るまでもない。それは周知のことであり、一般に認められている。しかしその意義を自足的な事実として評価するとしたら、それは深刻な誤りである。党内民主主義の枠内で古参世代と若手世代とが不断に相互作用することだけが、古参部隊を革命的要因として保ちうるのである。さもなくば、古参活動家は硬化し、自分でも気づかないうちに機構的官僚主義の最も完璧な体現者になりかねない。

 「古参部隊」の変質は歴史上一度ならず見られた。歴史上いちばん最近の顕著な事例である第2インターナショナルの指導者と諸政党を取り上げよう。周知のように、ヴィルヘルム・リープクネヒト、ベーベル、ジンガー、ヴィクトル・アドラー、カウツキー、ベルンシュタイン、ラファルグ、ゲードなど、その他多くの者はマルクスとエンゲルスの直弟子であった。しかし、これらの指導者たちはみな、議会を通じた改良と党機構および労働組合機構の自足的な成長という状況の中で――ある者は部分的に、他の者は完全に――日和見主義の側へと変質していった。われわれは、古参世代の権威でおおわれた社会民主党の強大な機構が革命の発展にとって最大のブレーキとなったのを目にした。それは、帝国主義戦争の前夜にとりわけはっきりとしたものになった。そしてわれわれが――まさにわれわれ「古参」が――言わなければならないのは、われわれの世代は、当然ながら党内で指導的役割を果たしているとはいえ、しかしだからといって、自分自身のうちに、プロレタリア的・革命的精神が気づかぬうちにしだいに弱体化するのを防ぐいかなる自足的な保障も備えていないということである。そして、若い世代を教育用の受動的材料と化し、機構と大衆、古参と青年とのあいだに不可避的に疎遠な関係を植えつけるような機構的・官僚主義的政治方法がこれ以上成長し強化されるならば、それは実際に防ぎえないであろう。この明々白々な危険に対処するためには、路線を党内民主主義の方向へ真剣かつ抜本的に転換し、労働現場にいるプロレタリアをますます多く党に迎える以外に手はない。

 私はここで党内民主主義に関するあれこれの規約上の規定や規約上の制限について縷々論じるつもりはない。それらの問題がいかに重要であろうと、それはやはり2義的な問題である。われわれは自分たちの経験にもとづいてそれを検討し、必要とあらば変えるだろう。しかし、いま何よりも必要なことは、組織の中を支配している精神を変えることである。必要なことは、党がそのすべての細胞と連合を筆頭に、集団としてのイニシアチブ、自由な同志的批判――懸念やためらいのない批判――の権利、組織的自主管理の権利を取り戻すことである。党機構に新風を吹き込み、それを刷新して、党機構に、自分が偉大な集合体の執行装置であることを感じさせなければならない。

 最近、党の機関紙には、党の風潮や諸関係の官僚主義的堕落が著しく進んだことを示す多くの実例が紹介されている。批判の声に対して、「党員証を見せてくれたまえ!」と答えるなどである。新路線に関する中央委員会決議が発表される前、機構の官僚化した代表者たちは、党内政治の変更の必要性を指摘する発言それ自体を異端、分派主義、規律を揺るがすものとみなしていた。現在、彼らもまた形式的には新路線を「参考」にするつもりである。つまりは、新路線を官僚主義的に無に帰せしめるつもりである。党機構の刷新――もちろん規約の明確な枠内でのそれ――は、役人化し官僚化した分子を、党員集団の生活と密接に結びついている、もしくはそうした結びつきを保障することのできる新鮮な分子と交替させることを目標に実行されなければならない。そして何よりも、批判、異論、抗議の声を耳にするやいなや、弾圧目的で党員証を要求するような傾向のある分子を党のポストから除かなければならない。新路線は、何ぴとたりとも党をテロで脅すことができないということを、機構内で下から上まですべての者が感じ取れるようになることから始めなければならない。

 青年がわれわれの定式を繰り返すだけではまったく不十分である。必要なのは、青年が革命的定式を努力して獲得し、それを自分の血肉と化し、自分で自らの意見、自らの個性をつくり上げることであり、場合によっては、心からの確信と独立独歩の精神から生じる勇気をもって自分の意見のために闘うことができなければならない。受動的な服従、上司への機械的な同調、個性のなさ、こびへつらい、出世主義を党からたたき出せ! ボリシェヴィキは単なる規律の人ではない。いや、それは、いつの場合でも、深く穴をうがちながら確固たる意見を自らつくり上げ、敵との闘争においてのみならず、自らの組織の内部でも、それを勇敢かつ自立的に擁護する人間である。彼は今は組織の中では少数派である。彼は決定に従う。なぜならそれは彼の党であるから。しかしこのことはもちろん、彼が正しくないということを必ずしも意味するものではない。彼はおそらく、他の者よりも早く新しい課題ないし転換の必要性を察知するか理解したにすぎない。彼は2回も、3回も、10回も粘り強く問題を提起する。そのことで彼は党に奉仕しているのである。なぜなら、党が準備をしっかり整えて新しい課題に取り組むのを助けているからであり、あるいは、組織的な動揺や分派的な痙攣なしに必要な転換を遂行するのを助けているからである。

 たしかに、もし党が分派的な諸グループに分裂していたならば、わが党はその歴史的使命を果たすことはできないであろう。それはあってならないし、ないであろう。自主的な集合体である全体としての党がそうなるのを防ぐだろう。しかし、党が分派主義の危険性を成功裏に克服することができるのは、労働者民主主義をめざす路線を発展させ確固たるものにする場合のみである。まさに機構的官僚主義こそ分派主義の最も重大な源泉の一つなのである。それは批判を押さえつけ、不満を内攻させる。それはあらゆる個人的ないし集団的な批判や警告の声に分派のレッテルを貼りつけようとする。機械的な中央集権主義は不可避的に、党内民主主義の悪しき戯画であると同時に恐るべき政治的危険性でもある分派主義によって捕完される。

 状況の全体を明確に理解することによって党は、われわれの面前にある深刻な課題が求める確固たる姿勢と決断力をもって必要な転換をなしとげるであろう。それによって党は、その革命的統一をより高い段階へと引き上げるだろう。このような統一こそが、途方もなく大きな意義を持った経済的・国際的諸課題に対処することを保障しうるのである。

 以上の考察は、いかなる意味でも問題を論じつくしたものではない。私は、諸君からあまりに多くの時間を奪うことになるのを懸念して、多くの本質的な諸側面を検討するのをあえて見送った。しかし、私はまもなくマラリヤ――この病気は私の見るところ党の新路線に明白に反するものだ――を克服できるものと期待している。そのときには、この手紙で言いつくせなかったことを、より自由な口頭の演説で補足し、より正確なものにするつもりである。

 同志的あいさつをもって。

 エリ・トロツキー

 1923年12月8日

 追伸。この手紙が『プラウダ』に掲載されるのが2日遅れることになったのを利用して、いくつか補足的な注釈を加えておきたい。

 聞いたところでは、地区会議で私の手紙が読みあげられたとき、「古参部隊」と若手世代との相互関係に関する私の考えが青年と古参とを対立させる(!)のに利用されるのではないかという懸念が一部の同志から出されたそうである。十分請けあってもいいが、そのような考えが頭に浮かぶのは、つい2、3ヵ月前まで路線転換の必要があるという問題提起そのものから恐怖にかられて逃げだそうとしていた同志たちである。いずれにせよ、現在の情勢現在の時点でその種の懸念を前面に押し出すことができるのは、現実の危険性とその優先順位について誤った評価を下しているからにすぎない。青年の現在の気分は、思慮ある党員なら誰にとっても明らかなように、きわめて重大な徴候的性格を持っているが、それは、全員一致で採択された政治局決議が非難しているまさにあの「無風期」(3)の方法によって生み出されたものである。言いかえれば、まさに「無風期」が、党の指導層と党のより若いメンバー、すなわち党の圧例的多数とのあいだの乖離を増大させる危険性を内包していたのである。

 党に代わって考え決定しようとする党機構の傾向がいっそう発展していけば、指導層の権威をもっぱら伝統にもとづいて強化しようとする志向に行き着くだろう。党の伝統を尊重することは、言うまでもなく、党の教育と党の団結の不可欠な構成要素である。しかしこの要素が生命力ある確固たるものになることができるのは、党の伝統が今日の党の政策の集団的形成を通じて自立的かつ能動的に点検され、その中で党の伝統が不断に培われ強化される場合のみである。この能動性と自立性がなければ、伝統の尊重は官僚的ロマン主義に、あるいはそのまま剥き出しの官僚主義に、すなわち中身のない形式に堕してしまいかねない。言うまでもないことだが、世代間のこの種の結びつきだけではまったく不十分かつ不安定である。外見上それは、恐るべき亀裂が表面化する5分前までは堅固なものに見えるかもしれない。党内の「無風期」に依拠する機構的路線の危険性はまさにここに存する。官僚化せずに革命的精神を保ちつづけている古参世代の代表者たち、すなわち――われわれはそう固く確信しているのだが――この世代の圧倒的多数が、前述した危険な展望をはっきりと理解し、中央委員会の政治局決議の立場に立って、党がこの決議を実現するのを全力を尽くして助けるならば、党内の世代間対立を生み出す可能性をもった主たる源泉が消えていくであろう。そのときには、この分野での青年のあれこれの「行きすぎ」や熱中は比較的容易に克服できるだろう。

 しかし、そのためには何よりもまず、党の伝統が機構に集中するのではなく、党の生きた経験の中で息づき更新されていくことを可能にする前提条件がつくり出されなければならない。そうすることによって、もう一つの危険性も回避することができるだろう。すなわち、古参世代そのものが「機構的」分子――「無風期」の維持に好都合な分子――と非機構的分子に分裂する危険性である。言うまでもなく、党の機構、すなわち党の組織上の骨格は、自足的な閉鎖性を脱することによって、弱体化するのではなくて、かえって強化される。強力な中央集権的な機構がわれわれに必要であるという点に関しては、わが党に二つの意見はありえない。

 もしかしたら、さらに次のような反論が出されるかもしれない。手紙の中で社会民主党の機構的堕落を引きあいに出しているのは、両時代の深刻な相違、すなわち、当時の停滞した改良主義の時代と今日の革命的時代との相違からして正しくないという反論である。もちろん、例はあくまで例であって、同一視ではない。しかし、両時代をこのように表面的に対置することそれ自体は、まだ何も解決するものではない。われわれが国際革命の遅延と密接に結びついたネップのもろもろの危険性を指摘しているのは、わけあってのことである。われわれの日常の実務的な国家活動はますます細分化され専門化されており、それは、中央委員会決議で指摘されているように、視野の狭まり、すなわち日和見主義的変質の危険性をはらんでいる。党の指導が閉鎖的な「書記的」指令システムに取って代わられようになればなるほど、そうした危険性がますます深刻なものになっていくのは、火を見るより明らかである。あらゆる困難、とりわけ内部的な諸困難を克服するうえで「時代の革命的性格」が助けてくれることに期待をかけるとしたら、われわれは革命家として失格であろう。むしろ、中央委員会政治局によって全員一致で提唱された党の新路線を正しく実現することによって、われわれの方が「時代」を助けなければならない。

 最後にもう一言。2、3ヵ月前、現在の討論で論じられている諸問題がいわば党の日程にのぼったばかりのころ、一部の地方幹部の同志たちには、これはすべてモスクワの作り話で、地方では万事うまくいっているのだと言って尊大に肩をすくめる傾向があった。今でも地方からの一部の通信には同じ調子が聞こえる。汚染され混乱したモスクワに冷静で理知的な地方を対置することは、同じ官僚主義の明白な現われ以外の何ものでもないし、ただその地方版であるにすぎない。実際にはわが党のモスクワ組織は最も大きく、最も力量があり、最も生命力の強い組織である。いわゆる「無風期」(きわめて表現力に富んだ言葉だ、必らずやわが党の歴史に入るだろう!)の最も停滞した時期でさえ、モスクワ組織の独立した生活と能動性はやはり他のどこよりも高かった。現在モスクワと他の地域とのあいだに何か違いがあるとすれば、それはモスクワが党路線の再検討のイニシアチブを引き受けたということだけである。それはモスクワのマイナスではなく、功績である。モスクワに続いて全党が、過ぎ去った時期のあれこれの価値の再評価という必然的な段階を経ることになるだろう。地方の党機構による抵抗が小さければ小さいほど、地方組織はますます順調に批判と自己批判という不可避的で進歩的な段階を通過することができるであろう。党は、結束力の増大と党の文化水準の向上という成果を手に入れることだろう。

エリ・トロツキー

1923年12月11日

1923年12月11日付『プラウダ』

『トロツキー研究』第40号より

  訳注

(1)「新しい課題に関する討論」……ジノヴィエフは1923年11月7日付『プラウダ』で「党の新しい課題」と題する論文を発表し、それを契機にして『プラウダ』の党生活欄で党内民主主義をめぐる大規模な討論が起こった。

(2)1923年12月5日に政治局と中央統制委員会幹部会の合同会議で可決された決議「党建設について」を指す。

(3)「無風期」……10月19日付の政治局員の手紙ですでにこの言葉が用いられており、1923年11月7日付『プラウダ』のジノヴィエフの論文「党の新しい課題」でも使用されている。

  

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