ジノヴィエフとのブロック
トロツキー/訳 西島栄
【解題】ジノヴィエフ、カーメネフ、スターリンの3人組(トロイカ)は、1923〜24年の党内闘争を通じてトロツキー派を完全に敗北させ、もはやトロツキーは権力闘争のライバルではなくなった。しかし、多数派は勝利するや否や、相互に対立しはじめ、1925年半ばにはスターリン=ブハーリン派とジノヴィエフ=カーメネフ派に分裂した。この両派の対立は結局、スターリン=ブハーリン派の優勢で進み、1925年末の第14回党大会ではジノヴィエフ=カーメネフ派の完全な敗北が明らかとなった。敗北を喫したジノヴィエフ=カーメネフ派はトロツキー派に目を向け始めるが、トロツキー派の側は、1923〜24年の左翼反対派狩りを主導したジノヴィエフ=カーメネフ派に根深い不信の念を持っていた。本稿は、こうした状況のもとで、ジノヴィエフ派とのブロックの可能性を考察した覚書である。(右の写真はジノヴィエフ)
Л.Троцкий, БЛОК С ЗИНОВЬЕВЫМ (к дневнику),Архив Троцкого: Коммунистическая оппозиция в СССР: 1923-1927, Том.1, 《Терра-Терра》, 1990.
1、現在の論争の原因とその方法
1、現在、レニングラード組織と中央委員会とのあいだで先鋭さを帯びている党内論争の社会的基礎は、資本主義に包囲されているもとでのプロレタリアートと農民との相互関係である。プロレタリアートと農民の経済的・政治的相互関係にあれこれの変化をもたらすような何らかの明確な実践的提案は、今までのところ、どちらの側からも出されていない。労働力の賃貸や雇用を合法化する法令が、党が判断できるかぎりでは、いかなる内部闘争もなしに通った。農業税の引き下げも同じであった。穀物調達カンパニアの措置を検討するさい、中央委員会において高価格を支持する者と低価格を支持する者とへの分化は見られなかった。賃金の引き上げ幅を決定するさいも同じであった。党が判断しうるかぎりでは、1925〜26年の国家予算を決定するさいにも意見の相違は見られなかった。言いかえれば、工業とその個々の分野の発展テンポと発展規模や農民経済の個々の階層に働きかける程度を直接間接に決定するすべての諸問題において、あるいは、国民経済の生産物における労働者の取り分(賃金など)を決定するすべての諸問題において、中央委員会の多数派と少数派(レニングラード組織に依拠している)とのあいだで、意見の相違は見られなかった。最後に、前述した諸活動を総括した10月総会の諸決議――これらは、中央委員会が第14回大会に提案する諸決議の基礎になっている――は全会一致で採択された。
2、しかしそれにもかかわらず、全会一致で採択された諸決議をめぐる闘争はますます先鋭で主として組織的な性格をとるようになり、それはただ部分的かつかなり無定形な形で党と論争に反映している。党は、あるいはより正確に言えばその上層、より献身的な党員は、プロレタリアートと農民との相互関係をめぐる最も激烈な機構内闘争の目撃者にして半ば受動的な参加者となっているが、相互に対立しあうような何らかの明確な法制的提案や原則的政綱もなしにそうなっている。
3、意見の相違の本質に関していえば、それは疑いもなく、すでに述べたように、基本的諸階級の方向設定から、発展の新段階におけるその相互関係を確定ないし明確化しようとする志向から、将来に対する懸念から生じている。その形態と方法に関して言えば、それは、過去2〜3年間のうちに形成された党体制の諸条件から全面的に生じている。
4、意見の相違の真の階級的本質を確定するうえでの――少なくとも現段階での――途方もない困難は、党機構の果たしているまったく未曾有の役割から生じている。この点に関しては過去の時期さえをもはるかに凌駕している。レニングラード組織が全会一致で、あるいはほとんど全会一致で中央委員会に反対する決議を採択している一方で、モスクワ組織がこれまた全会一致で、ただの1人の反対もなしにレニングラード組織に反対する決議を採択したという事実の持つ意味を検討すれば十分だろう。まったく明らかなことは、この驚くべき事実において決定的な役割を果たしたのが、大衆自身の生活にではなく党=書記機構の構成と活動に根ざしている地方的状況であることである。大衆組織や労働組合や党を通じて大衆の気分をそれなりに正確に屈折反映する可能性がないために、大衆のその時々の気分は、不明瞭なわき道を通じて、あるいは、騒乱の道を通じて(ストライキ)、党の上層に伝わり、その思考にあれこれの刺激を与え、その後、支配層の意志に沿って機構の一定の領域に定着するのである。
2、意見の相違の本質
5、それにもかかわらず、中央委員会に対する機構内反対派の発生した場所がペトログラードであったのは偶然ではない。農村の分野で党によって複雑で長期にわたるマヌーバーが遂行されていること、国の全般的な生活において農村の経済的・政治的比重が増大していること、農村内部で階層分化が進行していること、支払い能力ある市場の要求から工業が立ち遅れていること、経済においてあれこれの齟齬が現われていること、賃金が相対的に緩慢にしか増大していないこと、農村から失業者の圧力が増していること、これらはすべて合わさって、まさにプロレタリアートの最も思慮深い分子に、将来に対する不安を掻き立てないわけにはいかない。あれこれの齟齬が事前の予測や指導の誤りから生じているのか、それとも客観的原因から生じているのか(実際にはもちろんどちらも存在するのだが)、と。しかし事実は事実である。作り出されているのは、系統的に考え抜かれた世論ではなく、その時々における不安の気分である。そしてそれはそれで、機構内部にパニックの発作を引き起こしている。そしてこれこそ、レニングラードで生じていることなのである。
6、レニングラード組織に見られるデマゴギーや大衆受けするスローガンの追求や機構の自己保存のための手法を考察対象から除くならば、次のように言わなければならない。レニングラード組織の上層が占めている立場は、プロレタリアートの最も先進的な部分がわが国の経済発展の運命やプロレタリアートの独裁に対して抱いている政治的不安を官僚的に歪められた形で表現している、と。
※原注 誤って理解された農村と私的経済部門の利益を工業の死活にかかわる利益にいつでも対置している同志ソコーリニコフ[右の写真](1)がレニングラード組織の指導者とブロックを結んでいるという事実を持ち出したとしても、それは、先に挙げたレニングラード反対派の特徴づけに対する反論にはけっしてならない。不明瞭な機構内闘争は不可避的に矛盾する諸傾向の交錯と絡み合いをつくり出すだろうし、それは明らかに闘争の今後の発展の中にその本来の場所を見出すだろう。しかし、まったく明らかなことだが、商品流通全般の活性化の名のもとに工業の利益と外国貿易の独占を犠牲にする用意がある同志ソコーリニコフの立場は、レニングラード反対派――わが国の発展の全般的歩みに対する労働者階級の先進部分の不安に機構の上層が官僚的・デマゴギー的な形で適応したもの――の意義を変えるものではない。
もちろんのこと、以上述べたことは、わが国の他の部分の労働者にこのような不安がないということを意味するものではないし、あるいは、レニングラードではこの不安が労働者全体を捉えているという意味でもない。この気分がどこでどのように現われているのかという問題が、きわめて大きな程度で党=書記機構に依存しているということである。
7、今のところ不明瞭で上層官僚的な性格を有しているこの闘争は、その思想的表現物にきわめて図式的で教条的でスコラ的な性格を与えている。機構的全会一致によって圧迫されている党の思考は、新しい問題ないし危険性に直面して、わき道を通じて自らの道を切り開き、抽象概念や回想録や無意味な引用の中で混乱させられている。現在、党の注意は、わが国の体制全体の理論的定義に関する印刷物に集中されているかのようである。
3、国家資本主義と社会主義
8、1921年、ネップへの移行に際して、レーニンはとりわけ、わが国で形成されつつあった経済体制全体を国家資本主義として定義することにこだわった。当時、工業は完全な経済的停滞のもとにあったとき、その発展が、主として、合弁企業を通じて、外国資本や利権や賃貸等々の導入を通じて、すなわちプロレタリア国家によって統制され方向づけされた資本主義的・半資本主義的形態を通じて進むと考える多くの論拠があった。このような条件においては、協同組合は、国家資本主義的起源をもった商品の先導者とならざるをえなかったし、したがってまた工業と農民とを結びつける国家資本主義的経済機構の構成部分とならざるをえなかった。
しかしながら、実際の発展はより有利な道を通じて進んだ。決定的な場所を占めたのは国営経済であった。それに比べれば、合弁企業や利権や賃貸企業だけでなく、手工業も市場の取るに足りない部分にしか参加しなかった。協同組合は、主として国家トラスト、すなわち建設されつつある社会主義経済の基本的梃子によって供給された商品を下に流した。それによって、協同組合そのものも――その末端においては分散的な私的商品的農民経済に依拠しているとはいえ――別の性格を帯びるようになった。協同組合は、国家資本主義機構ではなく形成されつつある社会主義経済機構の構成部分に、そして資本主義的傾向との闘争舞台になりつつある。
まったく明らかなのは、わが国の経済体制全体を「国家資本主義」と定義することがこの場合は意味を失っていることである。この定義においては、国営工業も農民経済も位置づけられていない。この制度全体を、その中で最も小さな意義しか果たしていない構成部分(合弁企業、利権、賃貸企業等々)によって名づけることは、全体の釣りあいを著しく破壊することを意味するだろう。
1923年の論争のときに「国家資本主義」という用語が、十分な根拠もなく国家トラストをも含むわが国のシステム全体にあてはめられたことを指摘することは難しくない。それは、ネップ1年目において純国営工業の役割がまだ弱く、私的資本、とりわけ外国資本の役割が大きいというより不利な展望を描いていたときのレーニンがこの概念に込めた意味さえも明らかに蹂躙していた。
9、しかしながら、レーニンの生きた分析が引用の無批判的な選択にすりかえられたことから生じたこの問題をめぐる混乱を脇におくなら、疑いもなく次のように言うことができるだろう。「国家資本主義」の用語をめぐる形式上理論的な闘争は、工業と農業との相互関係の問題を再検討し、この数年間におけるその不十分さを明らかにしようとする党内世論を反映している、と。
10、1923年秋、党の公式の見解は、市場の限界を超えて工業があまりに急速に発展することに主要な危険性があると見ていた。工業分野における主たるスローガンは「先走るな」であった。工業と農業との均衡は、動的にではなく静的に理解され解釈された。つまり、工業こそが経済発展の推進力であり、まさにそれゆえ工業は農業の「先を越し」て農業を前進させなければならないこと、そして正しい指導があれば、この種の相互関係は経済発展の全般的テンポを著しく促進することができるという観点をまったく欠いていたのである。経済政策の全体は最小限主義的性格をとっていた。5ヵ年計画やその他の計画は、こうした政策のせいで滑稽なほど低く見積もられていたことがわかった。ネップ後の経済的・政治的発展の全期間は、農業市場の現状に対する受動的拝跪によって彩られ、どの時期においても、工業のもつ経済的役割、すなわち受動的に市場の現状に適応するのではなく、形成途上にあり拡大しつつある市場に動的に適応するという役割の過小評価ないし無理解にもとづいていた。
いま振り返ってみて、農業と工業における1923年の警告と教訓が正しかったことは、この2年半において事前の予測と実際の歩みとの矛盾が増大したことで明らかである。臆病さと瑣末主義に彩られた新聞雑誌に掲載されたさまざまな予測や諸計画は、経済的諸要求の圧力に直接押されて、4半期ごとに、場合によっては月ごとに修正せざるをえなかった。それによって不可避的に事前の予測が破壊されただけでなく、直接的な指導も台無しにされた。
※原注 さまざまな生産計画がどのように再考されていったかを時系列的に正確に示すこと。とりわけ、外国からの機関車の注文の問題がどのように立てられたかを示すこと。
11、現在、われわれは行列の時期にいる。工業製品の不足が輸出事業においてきわめて深刻な困難をつくり出し、それはそれで工業に打撃を与えている。言うまでもなく、現在の行列は、ソヴィエト権力の最初の数年間における行列と根本的に異なる。当時の行列は、ますます進行する経済的崩壊の産物であったのに対し、現在の行列は経済成長から生じている。しかし、それは同時に、経済発展の展望の評価において指導的思想が不決断と最小限主義に蝕まれていたこと、現実の可能性の過小評価に犯されてきたことの、最も明白は現われでもある。
12、労働者階級の最も思慮深い層は、予見と現実とのこのますます増大する不一致によって不安と疑問を掻き立てられないわけにはいかなかった。事前の予見は次のように言っていた。度を越すな、急ぐな、農村から遊離するな、と。だが、現実は一歩ごとに、工業の恐るべき立ち遅れを暴露し、工業計画の分野であわてて即興策をとる必要性に迫られた。その結果が行列であった。
13、いわゆる商品干渉に関しても同じ構図があてはまる。商品干渉のスローガン、すなわち国際分業と世界市場を忘れるな、世界市場の資源を国内市場の調整と自国の経済発展の促進のために利用する必要性を看過するなという提案は、クラークへの譲歩だと宣言された。このような立場は、外国市場への受動的な恐怖によって培われたものであり、結果として、閉鎖的な国民経済の理論へと歪められていった。現実はこのような問題設定を完全に退けた。商品干渉がわが国自身の経済発展によって生み出されたものであることがわかった。それは、国営工業の発展を促進するための強力な道具になりうることを示した。それが否定的な結果をもたらしたのは、それが事前の予測と計画に反して生じ、あわてて計画に修正を施さざるをえなかったかぎりでのことである。
14、ますますはっきりと明らかになってきたのは、真の計画作成というものは、財務人民委員部によって制約された各省庁の計画と、統計から予測ないし確定された私的経済過程とを受動的に一致させることではないということである。国家による計画作成とは、工業・輸送・商業・信用の強力な複合体に依拠しつつ、大規模な経済的課題を自覚的に設定し、それを実現するのに必要な諸条件を打ち立てることにある。最小限主義ないし、課題と可能性に対する接近方法としてのメンシェヴィズムは、政治だけでなく経済にも存在する。現在の政策が10分の9まで経済的課題の解決にあるだけになおさらである。生産上の最小限主義は、一方では、国営工業の推進的役割に対する過小評価の産物であり、他方では、労働者国家が用いることのできる資源と方法に対する過小評価の産物である。
党はこの基本的問題に関して新しい路線を必要としている。国営工業は、経済の国営および公営部門の各構成部分を――それらの内的な相互関係においてだけでなく、私的経済との相互関係においても――正確かつ現実に従属させることにもとづいた経済計画を作成するさいの基軸とならなければならない。
エリ・トロツキー
1925年12月9日
『トロツキー・アルヒーフ』第1巻所収
『トロツキー研究』第42/43合併号より
訳注
(1)ソコーリニコフ、グリゴリー(1888-1939)
……ロシアの革命家、古参ボリシェヴィキ、経済理論家。1905年にボリシェヴィキ入党。1905〜17年、亡命。10月革命後、財務人民委員。一時期、ジノヴィエフ派として、合同反対派に合流。1929〜32年、ロンドン駐在大使。1937年の第2次モスクワ裁判の被告となり、10年の禁固刑。
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