10月16日の声明

トロツキー、ジノヴィエフ他/訳 湯川順夫・西島栄

【解題】これは、合同反対派として分派闘争の停止を声明し、党の規約の範囲内での自分たちの見解の宣伝に活動を制限することを約束した、「休戦声明」と一般に呼ばれている反対派声明である。この声明は、ただちに反対派メンバー全員が除名される危険性を回避しつつ、党内的手段で反対派の見解を広げることを目的としたものであったが、より急進的な左派グループからは妥協と屈服の産物とみなされた。とりわけ、ドイツの極左派はこの声明に落胆し、両者の疎隔をもたらすことになった(右は10月17日付『プラウダ』に掲載された声明)。

 さらに、この声明は、クルプスカヤの発言やかつての労働者反対派をも否認することを余儀なくされた。このことは、その後のクルプスカヤの合同反対派からの離脱、労働者反対派の旧指導者(シリャプニコフ、メドヴェージェフ)の敵対をも生み出すことになった。労働者反対派の旧指導者たちは早々にスターリニスト分派に屈服し、反対派活動を放棄してしまう。

 だが最大の打撃となったのは、1923年の左翼反対派のときから反対派の最も確固たる中核部分を形成していた民主主義的中央集権派(V・スミルノフ、サプローノフなど)がこの声明を許しがたい屈服とみなして、合同反対派から離脱したことである。彼らは別途、「15人グループ」を形成し、合同反対派よりも左の立場からスターリニストと闘争することになった。

 この声明ほど、合同反対派の威信を傷つけ政治的にマイナスに作用したものはなかった。トロツキーはおそらく激しい苦渋の思いでこの「毒杯」を飲み干した。だが、末端の反対派活動家の目には、これは壮大な政治的自殺のように見えた。これほどの犠牲を払って合同反対派は一時的な政治的「息つぎ」を得たが、それはまったく不安定なものでしかなく、主流派は、後退する合同反対派に対して激しい追い討ちをかけ、合同反対派の影響力を著しく殺ぐことに成功した。

 この声明は声明提出の翌日の10月17日付『プラウダ』に掲載された。本翻訳はこの『プラウダ』のテキストから訳出している。

 Г. Зиновьев,Л.Троцкий, Л.Каменев, Г.Пятаков, Г.Сокольников, Г.Евдокимов,ЗАЯВЛЕНИЕ,Правда, 17 Октябрь 1926.


 第14回党大会とその後において、われわれは一連の原則的諸問題に関して大会多数派および中央委員会多数派と意見を異にした。われわれの見解は、公式の諸文書ならびに大会・中央委員会総会・政治局におけるわれわれの演説の中に示されている。今日においてもわれわれはこれらの見解の立場に立っている。われわれは「分派とグループ結成の自由」の理論と実践をきっぱりと退けるとともに、このような理論と実践がレーニン主義の土台と党の決定に反していることを認める。われわれは、分派活動は許されないという党の決定を実行することが自らの任務であるとみなす。

 それと同時に、われわれとその支持者が自己の見解のための闘争の中で、第14回党大会以後、多くの機会に党の規律に違反する行為を犯したこと、そして党が定めた党内思想闘争の枠を超えて分派主義の道に入り込んでしまったことを、党の前に公然と認めることを自らの義務とみなす。われわれは、こうした行為が無条件に誤りであることを認めるとともに、われわれの見解を擁護する際の分派的方法が党の統一を脅かすことをかんがみて、この方法を断固として拒否し、われわれと見解を同じくするすべての同志たちに同じように行動するよう訴える。われわれは、「反対派」の見解を中心に形成されたすべての分派的グループを即時解散するよう呼びかける。

 同時に、われわれは、モスクワとレニングラードにおける10月の行動によって、全国的討論を禁止した中央委員会決定に反して討論を開始したという点でこの決定に違反したことを認める。

 第14回党大会においてストックホルム大会(1)のことに言及したのは誤りであった。なぜなら、この発言は――同志N・K・クルプスカヤはけっしてそのようなつもりで言ったわけではなかったが――分裂を展望したもの、ないし分裂の脅しと理解されかねないものであったからである。われわれは一致してそのような展望を退ける。そのような展望は破滅的であり、われわれの観点と共通するところはまったくない。

 われわれは、コミンテルンやわが党の政策に対する中傷の類に堕している批判を断固として糾弾する。それは、世界プロレタリアートの戦闘組織としてのコミンテルンの立場を、コミンテルンの先進部隊としてのソ連共産党の立場を、最初のプロレタリア独裁国家としてのソ連の立場を弱体化させる。共産主義と決別したコルシュやその同類たちの煽動だけでなく、これらの境界を越える者は誰であろうと、常にわれわれの断固たる反撃に会うだろう。われわれは、いかなるものであれコミンテルンや共産党やソ連そのものに反対する煽動を行なっている者が、われわれとの何らかの連帯を標榜する権利を断固として拒絶する。

 われわれは、コミンテルンのどのメンバーも、規約およびコミンテルン大会と国際執行委員会の決定の範囲内で自らの見解を擁護する権利があることを認めるが、フランスのスヴァーリン・グループであろうと、ドイツのマスロウ(2)=フィッシャー(3)=ウルバーンス(4)=ウェーバー(5)のグループであろうと、イタリアのボルディガ・グループであろうと、それ以外のグループであろうと、われわれの見解に対する態度がどうであれ、コミンテルンの支部内でコミンテルンの路線に反対しているグループの分派活動を直接・間接に支持することは絶対に許されないとみなす。とりわけ、党とコミンテルンからすでに追放されているルート・フィッシャーやマスロウのような人々の活動をどんな形であれ支持することは許されないと考えている。

 オソフスキーが自らの論文の中で示している見解や、『プラウダ』で分析されたメドヴェージェフの見解――「別党」論、コミンテルンとプロフィンテルンの清算の主張、社会民主党との統一の試み、レーニンの定めた限度を越えた利権政策の拡大、等々――を、われわれはひどく誤った反レーニン主義的なものであって、われわれの見解に根本的に反するものであるとみなしたし、今もそうみなしている。同志シリャープニコフと同志メドヴェージェフが擁護した「労働者反対派」の政綱に対してレーニンが与えた評価をわれわれは完全に共有していたし、今もしている。

 われわれは第14回党大会、党中央委員会、中央統制委員会の決定を無条件的に義務的なものであるとみなし、留保なしにそれらの決定に従い、実際に実行する。そして、われわれと見解を同じくするすべての同志たちに同じことをするよう呼びかける。

 われわれの見解の中の正しい点は今後の活動の中で党によって採用されるものと確信して、われわれはみな規約ならびに大会と中央委員会の決定が定める形態でのみ自らの見解を擁護することを誓う。

※  ※  ※

 この数ヵ月間に、多くの同志たちが、あれこれの規律違反を理由に、また反対派の見解のための闘争において分派的方法を用いたという理由で、党から除名された。上で述べたことからして、これらの活動の政治的責任が以下に署名する者たちにあることは明白である。反対派の側から分派闘争を実際に停止することが、除名された同志たち、すなわち、党規律に違反し党統一の利益を侵害したことを自らの誤りとして認めている同志たちが党の隊列に復帰する可能性を切り開くことになるだろうという強い期待を表明するものである。その際、われわれは分派闘争の一掃と新たな規律違反に対する闘争において、党にあらゆる協力を惜しまないことを誓う。

G・ジノヴィエフ

L・カーメネフ

Yu・ピャタコフ

G・ソコーリニコフ

L・トロツキー

G・エフドキーモフ

1926年10月16日

1926年10月17日付『プラウダ』

『トロツキー研究』第42・43合併号より

  訳注

(1)ストックホルム大会……1906年にストックホルムで開催されたボリシェヴィキとメンシェヴィキの合同大会。

(2)マスロウ、アルカディ(1886-1944)……ドイツの革命家。1924年以降、ブランドラー派に代わってドイツ共産党を指導したグループ(マスロウ、フィッシャー、ウルバーンス)の1人。当初、ジノヴィエフに追随してトロツキーに反対したが、1926年に合同反対派を支持して除名。フィッシャーやウルバーンスとともにレーニンブントを結成。1930年代初めにトロツキーに近づき、第4インターナショナルの建設に参加するも、しばらく後に離脱した。

(3)フィッシャー、ルート(1895-1961)……ドイツの女性革命家、オーストリア共産党の創設者、ドイツ共産党の左派指導者。コミンテルン第4回大会の代議員。1924年からコミンテルン執行委員会メンバー。1924年から1928年までドイツの国会議員。1926年に合同反対派を支持してマスロウ、ウルバーンスとともにドイツ共産党から除名。レーニンブントを結成。後にアメリカに亡命し、ジャーナリストとして活躍。

(4)ウルバーンス、フーゴ(1892-1947)……ドイツの革命家。1924年以降、ドイツ共産党の指導者。1926年にマスロウ、フィッシャーらとともに除名され、レーニンブントを結成。後にこの組織は左翼反対派と合同。1933年、スウェーデンに亡命し、同地で死去。

(5)ウェーバー、ハンス(1895-1986)……別名ヨハン。1913年、ドイツ社会民主党に。1917年、独立社会民主党に。1920年、共産党に。1923年、プファルツ地方のリーダーで「左派」。「ウェディンク地区」の反対派の指導者で、合同反対派に接近。

 

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