1920年代後期
(1926〜29)
第13期 合同反対派の闘争(1926〜27)
(#は『左翼反対派の挑戦』に英訳のあるもの)
◇過渡期
「
ブハーリンへの3通の手紙」(1926年1月9日、3月4日、9日)#→『革命家群像』「
経済問題に関する覚書」(1926年1月15日)「第6回繊維労働組合モスクワ県大会での報告」(1926年1月29日)
「安定化とスローガンに関するテーゼ」(1926年2月13日)
「ボルディガへの手紙」(1926年3月2日、4日)
「
レーニン(略伝)」(1926年3月19日)→『革命家群像』「第14回党大会中央委員会報告に関する反対派決議」(1926年3月27日)
「セレブリャコフへの手紙」(1926年4月2日)
【資料】ヴェ・エム・スミルノフ「わが国の経済的困難の問題について」(1926年4月2日)
◇イギリス問題
「イギリスはどこへ行く――テンポと期間について」(1926年2月11日)→『イギリスはどこへ行く』第2巻
「イギリスはどこへ行く――ブライスフォールドとマルクス主義」(1926年3月10日)→『イギリスはどこへ行く』第2巻
◇中国問題
「孫晩仙死去1周年」(1926年3月12日)
「われわれの対中国・日本政策の諸問題」(1926年3月25日)
◇4月総会
「4月総会演説に関する覚書」(1926年4月7日)
「4月総会における演説」(1926年4月9日)
「
ソ連の経済情勢に関するルイコフ決議案に対する修正」(1926年4月12日)#「ルナチャルスキーへの手紙」(1926年4月14日)→『革命家群像』
【資料】ルナチャルスキー「トロツキーへの手紙」(1926年3月3日)→『革命家群像』
◇イギリスのゼネストと英露委員会をめぐる論争
「イギリスはどこへ行く――再び平和主義と革命について」(1926年5月3日)→『イギリスはどこへ行く』第2巻
「『イギリスはどこへ行く』ドイツ語第2版序文」(1926年5月6日)→『イギリスはどこへ行く』第2巻
「イギリス労働運動の諸問題――覚書」(1926年5月18日)
『イギリスはどこへ行く』第2巻(1926年)
【資料】ジノヴィエフ「イギリス問題に関するテーゼ案」(1926年5月)
【資料】スターリン「モロトフへの2通の手紙」(1926年6月1日)
【資料】ブハーリン「イギリス問題に関するテーゼ案」(1926年6月1日)
【資料】スターリン「モロトフへの手紙」(1926年6月2日、3日)
「イギリス共産党の将来」(1926年6月9日)
◇文化、品質、社会主義
「品質向上、官僚主義反対、社会主義をめざそう!」(1926年5月28日)
「生産物の品質に関する特別会議」(1926年8月9日)
「生産物の品質に関する特別会議」(1926年8月13日)
◇前哨戦(1)――社会主義的原蓄、党内民主主義、コミンテルン
「
社会主義的蓄積の法則、計画原理、工業化のテンポ、そして無原則」(1926年5月2日)#「
党内官僚主義と党内民主主義――政治局へ」(1926年6月6日)#「ロシア共産党代議員団におけるコミンテルンの諸問題」(1926年6月28日)#
「
平等について」(1926年7月11日)#
◇前哨戦(2)――メドヴェージェフ書簡をめぐる論争
【資料】メドヴェージェフ「バクーの同志たちへの手紙」(1924年1月)
【資料】ブハーリン「わが党における右派の危険性」(1926年7月10日付『プラウダ』)
「『プラウダ』の論説に関する声明――メドヴェージェフ事件と英露委員会」(&ジノヴィエフ)(1926年7月11日)
【資料】スターリン「メドヴェージェフ問題に関する7月総会演説」(1926年7月15日)
【資料】メドヴェージェフ「わが党における右派の危険性の問題」(1926年7月17日)
【資料】ジノヴィエフ「メドヴェージェフ問題に関する声明」(1926年7月18日)
◇決定的抗争の開始――7月総会と13人の声明
【資料】スターリン「モロトフへの手紙」(1926年6月15日、25日)
「
同志スターリンへ――全政治局員宛て」(&ジノヴィエフ、執筆はジノヴィエフ)(1926年7月13日)「
13人の声明」(&ジノヴィエフ、カーメネフ、クルプスカヤ他)(1926年7月)#「7月総会における演説」(1926年7月)
「われわれはなぜソヴィエトの再選挙問題に関する決議に反対するのか」(&ジノヴィエフ、カーメネフ他)(1926年7月)#
「賃金に関する同志シュミットの提案について」(1926年7月)
【資料】スミルガ、ラコフスキー他「ラシェヴィチ事件に関する決議案」(1926年7月)
【資料】「ラシェヴィチ等の事件ならびに党の統一についての決議――ソ連共産党中央委員会・中央統制委員会合同総会決議」(1926年7月23日)
「ジェルジンスキー追悼」(1926年7月21日)
「イギリスのゼネストに関する反対派決議――7月総会へ」(&ジノヴィエフ、カーメネフ、クルプスカヤ他)(1926年7月23日)
◇7月総会と13人の声明の余波
「
党の危機と党指導部――中央委員会への書簡」(&ジノヴィエフ)(1926年8月)「わが国家に関する私の性格規定の歪曲について――政治局員へ」(1926年8月13日)
「オソフスキーの除名に反対する声明」(1926年8月13日)
◇中国革命の諸問題――最初の考察
「ラデックへの第1の手紙」(1926年8月30日)(
English)「中国共産党と国民党」(1926年9月27日)(
English)
◇反対派の擁護
【資料】ラデック「反対派に関する一問一答」(1926年8月)
「匿名の共産党員への手紙」(1926年8月25日)
「
ベ・ニキーチンの質問に対する回答」(1926年9月5日)「
工業と国民経済全体の発展」(1926年9月7日)「
反対派に関する一問一答」(1926年9月)#「
未知の差出人への手紙」(1926年9月21日)「
反対派ブロックの擁護――反対派に関する同志たちの質問への回答」(1926年9月)#「
党の統一について」(1926年9月)#「
第15回党協議会によせて――覚書」(1926年9月)「討論は必要か?」(1926年10月)#
◇10月16日の休戦声明
「
10月16日の声明」(&ジノヴィエフ、カーメネフ他)(1926年10月16日)#【資料】ジノヴィエフ「10月16日の声明に関する反対派の声明」(1926年10月16日)
「10月16日の声明の修正に関する政治局決議に関して」(1926年10月16日)
「われわれの革命と農民問題に関する評価」(1926年10月29日)
「社会民主主義的偏向という非難に対する回答」(1926年10月29日)
【資料】プレオブラジェンスキー「農業と農民」(1926年10月)
【資料】シリャプニコフ&メドヴェージェフ「政治局と中央統制委員会幹部会への声明」(1926年10月29日)
◇第15回全党協議会
「
第15回党協議会における演説」(1926年11月1日)#【資料】ピャタコフ「経済問題決議に関する修正案――第15回党協議会によせて」
【資料】スターリン「わが党の社会民主主義的偏向について――第15回党協議会報告」(1926年11月1日)
【資料】ジノヴィエフの演説
【資料】スターリン「報告の結語」(1926年11月3日)
【資料】「ソ連共産党(ボ)内の反対派ブロックに関する第15回党協議会決議」
「
革命と反革命に関するテーゼ」(1926年11月26日)#→『日記と手紙』【資料】ケルネル「一国社会主義について」(1926年12月初め)
◇第7回コミンテルン拡大執行委員会総会
「
第7回コミンテルン拡大執行委員会総会における演説」(1926年12月9日)#「第7回コミンテルン拡大執行委員会総会における第2の演説」(1926年12月9日)
【資料】スターリン「再びわが党内の社会民主主義的偏向について」
「
一国社会主義の理論」(1926年12月12日)「反対派の声明案」(1926年12月13日)
【資料】ジノヴィエフ「反対派の声明案」(1926年12月13日)
「
反対派はなぜスターリンの決議に反対投票するか」(&ジノヴィエフ、カーメネフ)(1926年12月14日)#【資料】「ロシア問題に関する第7回コミンテルン拡大執行委員会総会決議」
◇対外政策への批判
【資料】ジノヴィエフ「ソ連の国際状況の悪化を前にしたわが国の対外政策の課題に関するスケッチ」(1927年1月)
「論文への論評」(1927年1月14日)
「対外政策に関するテーゼ」(1927年1月15日)
「中央統制委員会書記局へ」(1927年1月26日)
【資料】ソルンツェフ「現代資本主義の矛盾の基礎はどこにあるか」(1927年1月)
「同志ソルンツェフへの手紙」(1927年1月28日)
◇ソヴィエトの国内状況と価格問題
「工業品価格の引き下げ問題について――政治局と中央統制委員会幹部会へ」(1927年2月16日)
「
現今の状況」(1927年2月19日)→『日記と手紙』「
プロレタリアートの政治的状況の評価――中央委員へ」(1927年2月21日)#【資料】ヤロスラフスキー「トロツキーへの手紙」
「ヤロスラフスキーへの手紙」(1927年2月22日)
「モスクワ組織の決議について――覚書」(1927年2月26日)
「サプローノフへの手紙」(1927年3月2日)
「オルジョニキッゼへの手紙」(1927年3月18日)
【資料】ヴェ・エム・スミルノフ「2月総会の総括――価格政策の問題」(1927年3月終わり)
【資料】ヴェ・エム・スミルノフ「『熱病』に苦しんでいるのは誰か」(1927年4月)
◇世界経済とソヴィエト経済
「
シベリアについて」(1927年2月28日)「
われわれは経済的独立を達成することができるか」(1927年3月19〜27日)「世界市場に対するわが国の依存」(1927年4月15日)
◇ドイツ共産党左翼反対派の問題
「政治局へ――シュワルツに関する『プラウダ』の社説について」(1927年1月6日)
【資料】ジノヴィエフ「中央委員会政治局へ」(1927年1月)
「ドイツ共産党の左翼反対派について」(1927年4月2日)#
◇民族問題と農業問題に関する覚書
「
カザフスタンにおける政策の民族的要素」(1927年3月11日)#「民族問題についての覚書」(1927年3月)
「農業の課題に関するテーゼ」(1927年4月11日)
「
スターリン、農民、蓄音機」(1927年4月14日)##
◇第1次中国革命をめぐる最初の論戦
【資料】ラデック「中国問題に関するテーゼ」(1927年3月3日)
「ラデックへの手紙」(1927年3月4日)(
English)「中国革命について」(1927年3月22日)(
English)「アリスキーへの手紙」(1927年3月29日)(
English)「政治局へ」(1927年3月31日)(
English)【資料】ジノヴィエフ「政治局へ、中央統制委員会幹部会へ」(1927年4月)
「中国革命における階級関係」(1927年4月3日)→『続編アルヒーフ』第1巻
「中国革命に関する論文の草稿」(1927年4月5日)→『続編アルヒーフ』第1巻
◇上海クーデターと中国革命論争の勃発
【資料】ジノヴィエフ「中国革命に関するテーゼ」(クーデターを知る以前に執筆)(1927年4月14-15日)
「中国におけるソヴィエトのスローガン」(1927年4月16日)→『続編アルヒーフ』第1巻
「スターリンと蒋介石による肖像の友好的交換――コミンテルン執行委員会東方書記局へ」(1927年4月18日)
「中国の情勢――蒋介石クーデターと今後の展望」(1927年4月19〜20日)→『続編アルヒーフ』第1巻
「ごみくずはいらない!」(1927年4月21日)
【資料】ラデック「中国革命の敗北」(1927年5月初め)→『続編アルヒーフ』第1巻
「中国革命と同志スターリンのテーゼ」(1927年5月7日)(
English)→『続編アルヒーフ』第1巻「共産党と国民党」(1927年5月10日)(
English)→『続編アルヒーフ』第1巻「確かなる道」(1927年5月11日)→『続編アルヒーフ』第1巻
「政治局へ、中央統制委員会幹部会へ」(1927年5月16日)
「中央委員会書記局への手紙」(1927年5月18日)
◇ベルリン会議と英露委員会問題
「英露委員会に関するテーゼ」(1927年4月15日)
「英露委員会に関する決議案」(1927年4月16日)
「対外政策に関するテーゼ」(1927年4月19日)
◇クルプスカヤの反対派からの離脱
【資料】ジノヴィエフ「モスクワ労働組合会議での演説」(1927年5月9日)
【資料】党中央委員会「ジノヴィエフの組織破壊的演説について」(1927年5月12日)
【資料】クルプスカヤ「
ジノヴィエフへの手紙」(1927年5月15日)【資料】ジノヴィエフ「
クルプスカヤへの手紙」(1927年5月16日)「
クルプスカヤへの手紙」(1927年5月17日)#【資料】クルプスカヤ「
トロツキーへの手紙」(1927年5月19日)【資料】クルプスカヤ「『プラウダ』編集部への手紙」(1927年5月20日付『プラウダ』)
◇英露委員会とイギリスの国交断絶
「コミンテルン執行委員会総会への声明」(1927年5月始め)(
English)「平和のための闘争と英露委員会」(1927年5月16日)(
English)【資料】「英ソ関係の断絶に関する第8回コミンテルン執行委員会総会の声明」(1927年5月末)
【資料】「イギリス情勢に関する第8回コミンテルン執行委員会総会の声明」(1927年5月末)
◇83人の声明
「
83人の声明」(&ジノヴィエフ、ラデック他)(1927年5月25日)#「
政治局へ(83人の声明に添付された書簡)」(&ジノヴィエフ、スミルガ他)(1927年5月25日)【資料】ラデック「テルミドールの危険性と反対派」(1927年6月)
【資料】ジノヴィエフ「83人の声明とわれわれの課題」(1927年6月)
◇中国革命と第8回コミンテルン執行委員会総会
「中国革命に関する第1の演説――第8回コミンテルン執行委員会総会」(1927年5月24日)(
English)→『続編アルヒーフ』第1巻「中国革命に関する第2の演説――第8回コミンテルン執行委員会総会」(1927年5月24日)(
English)→『続編アルヒーフ』第1巻【資料】ヴヨヴィチ「第8回コミンテルン執行委員会総会における演説」(1927年5月)
「理解し、再検討し、変更すべきときである」(1927年5月27日)(
English)→『続編アルヒーフ』第1巻「漢口とモスクワ」(1927年5月28日)→『続編アルヒーフ』第1巻
【資料】「コミンテルン執行委員会総会におけるトロツキーとヴヨヴィチの演説について――第8回コミンテルン執行委員会総会決議」(1927年5月30日)
【資料】「中国問題に関する第8回コミンテルン執行委員会総会の決議」(1927年5月30日)
「コミンテルン執行委員会の書記局へ」(1927年6月4日)
「コミンテルン執行委員会幹部会へ」(1927年6月9日)
◇戦争の危険性とテルミドールの危険性――中央統制委員会6月会議
「
戦争の危険性とテルミドールの危険性――中央統制委員会会議における第1の演説」(1927年6月22日)「
主要な危険性はどこにあるか――中央統制委員会会議における第2の演説」(1927年6月22日)「
民主主義的中央集権派に反対する決議」(1927年6月)【資料】サプローノフ、V・M・スミルノフ他『レーニンの旗のもとに――革命の現段階とわれわれの課題』(民主主義的中央集権派の政綱)(1927年6月27日)
「共産党員の銃殺問題に関する声明」(1927年6月)
◇中国革命の破産とその総括
「どうしてわれわれはこれまで国民党からの離脱を要求しなかったか」(1927年6月23日)
「中央委員会政治局、中央統制委員会幹部会、コミンテルン執行委員会へ」(&ジノヴィエフ、ラデック他)(1927年6月25日)
「中国革命に関する覚書」(1927年6月25日)
◇深化する党の危機
「
深化する党の危機――党中央委員会のすべてのメンバーへ」(1927年6月27日)#「トロツキーとジノヴィエフの意見交換」(1927年6月28日)
「スターリン・グループによる反対派に対する闘争の新段階」(&エフドキーモフ、未完成)(1927年6月28日)
「中央統制委員会議長オルジョニキッゼへ」(1927年6月28日)
「中央委員会書記局へ」(1927年6月29日)
「
反対派と祖国敗北主義――全ロシア金属労働組合決議について」(&ジノヴィエフ、エフドキーモフ)(1927年7月1日)#
◇中国革命の新段階
「コミンテルン執行委員会幹部会へ」(&ヴヨヴィチ、ジノヴィエフ)(1927年7月)→『続編アルヒーフ』第1巻
「中国革命の新段階――蒋介石から汪精衛へ」(執筆はジノヴィエフ。トロツキー、ジノヴィエフ、ラデック他の署名)(1927年7月2日)
【資料】ジノヴィエフ「中央委員会書記局へ」(1927年7月初め)
「中央統制委員会へ、政治局へ」(1927年7月4日)→『続編アルヒーフ』第1巻
「政治局へ、中央統制委員会幹部会へ」(1927年7月7日)→『続編アルヒーフ』第1巻
「政治局へ」(&ジノヴィエフ)(1927年7月11日)
「『プラウダ』編集部へ、政治局へ」(1927年7月11日)
【資料】「中国革命の現段階に関するコミンテルン執行委員会の決議」(1927年7月14日)
「中国問題におけるトロツキズムとメンシェヴィズム」(1927年8月)
【資料】ジノヴィエフ「国際情勢に関する決議によせて」(1927年8月)
◇クレマンソー・テーゼとテルミドールの危険性
「『祖国敗北主義』とクレマンソー」(1927年7月11日)##
「
『緩衝グループ』のメンバーへ――ゴーリマンへの手紙」(1927年7月13日)#「カネフスキーへの手紙」(1927年7月16日)
【資料】カネフスキー「トロツキーへの手紙」(1927年7月23日)
「
テルミドール」(1927年7月)#【資料】ジノヴィエフ「わが国の国際状況と戦争の危険性」(1927年7月半ば)
「マレツキーの論文について――中央統制委員会議長オルジョニキッゼへの手紙」(1927年7月25日)
「中央統制委員会書記局への手紙」(1927年7月26日)
◇8月合同総会と8月8日の声明
「オルジョニキッゼへの手紙」(1927年8月1日)
「
戦争の危険性と防衛政策――8月合同総会における第1の演説」(1927年8月1日)【資料】プートナ「トロツキーへの手紙」(1927年8月3日)
「マヌイリスキーへの手紙」(1927年8月3日)
「クロンシュタット」(1927年8月3日)
「
反対派の『蜂起主義』に関する同志モロトフの演説について」(&ジノヴィエフ、カーメネフ他)(1927年8月4日)#【資料】ジノヴィエフ「スターリンの3つの国民党――8月合同総会における演説」(1927年8月)
「
一国社会主義と党体制――8月合同総会における第2の演説」(1927年8月6日)#「
8月8日の声明」(&ジノヴィエフ、カーメネフ他)(1927年8月8日)#「
声明の分割への抗議――8月合同総会における第3の演説」(1927年8月9日)#【資料】「中央委員会・中央統制委員会合同総会決議」(1927年8月9日)
【資料】ジノヴィエフ「演説案」(1927年8月11日)
◇8月総会の総括と反対派の戦術
「
反対派の戦術に関する手紙――クレスチンスキーへの手紙」(1927年8月12日)#【資料】ラデック「
8月総会の結果」(1927年8月12日)【資料】ヨッフェ「
8月8日の声明に対する異論――トロツキーへの手紙」(1927年8月12/27日)【資料】ジノヴィエフ「
同志サファロフ追放への抗議――多数派の同志たちへの手紙」(1927年8月27日)「ウルバーンス=マスロウ派について――政治局へ」(1927年8月30日)→『続編アルヒーフ』第1巻
◇反対派の政綱
『
合同反対派の政綱――党の危機とその克服の道』(1927年8月末)#
◇第15回大会をめぐる攻防と弾圧の拡大
「ゲペウ議長メンジンスキーへの手紙」(1927年9月3日)
「レーニンとの意見の相違」(1927年夏)→『革命家群像』
「
大会準備の方法――党政治局、中央統制委員会幹部会、コミンテルン執行委員会へ」(&ジノヴィエフ、ペテルソン、ムラロフ)(1927年9月6日)「スターリンのデマゴギー――セレブリャコフへの手紙」(1927年9月12日)
「エヌキッゼは1917年にボリシェヴィキだったのか――エリツィンへの手紙」(1927年9月12日)
「9月8日の政治局・中央統制委員会幹部会合同会議におけるスターリンの報告について――政治局へ、中央統制委員会幹部会へ」(&ジノヴィエフ)(1927年9月12日)→『続編アルヒーフ』第1巻
「ジノヴィエフへの手紙」(1927年9月17日、22日)
【資料】筆者不詳「彼らはどのようにして反対派と闘っているか」(1927年9月)
「『クレマンソー・テーゼ』と党体制」(1927年9月24日)#
◇コミンテルン執行委員会からのトロツキーの除名
「われわれは何を与え、何を得たか――英露委員会問題をめぐる同志アンドレーエフの報告について」(1927年9月23日)#→『続編アルヒーフ』第1巻
「戦争、中国革命、党規律――コミンテルン執行委員会幹部会での演説」(1927年9月27日)##→『続編アルヒーフ』第1巻
【資料】「同志トロツキーと同志ヴヨヴィチのコミンテルン執行委員会からの除名に関する通知」(1927年9月27日)
「ラコフスキーへの手紙」(1927年9月30日)
◇中国革命の新しい可能性と新しい危険性
「中国革命の新しい可能性――新しい課題と新しい危険性」(1927年9月)→『続編アルヒーフ』第1巻
「新しい段階における古い誤り」(1927年9月20日)→『続編アルヒーフ』第1巻
【資料】ジノヴィエフ「中国の現情勢の問題によせて」(1927年10月9日)→『続編アルヒーフ』第1巻
◇ウランゲリ派将校問題と7時間労働制
「反対派とウランゲリ派将校――政治局と中央統制委員会幹部会へ」(&ジノヴィエフ、スミルガ他)(1927年10月1日)#
「書記局の同志ヤンソンへ」(1927年10月3日)→『続編アルヒーフ』第1巻
「党大会の召集とゲ・ペ・ウ――中央委員会、中央統制委員会、コミンテルン執行委員会、および全党員へ」(&ジノヴィエフ、スミルガ他)(1927年10月4日)
「『よい戦争より悪い平和の方がまし』」(1927年10月5日)
「『プラウダ』編集部へ」(1927年10月6日)
「中央統制委員会幹部会へ」(1927年10月6日)
「7時間労働制」(1927年10月10〜12日)#
「中央委員会書記局へ」(&ジノヴィエフ)(1927年10月12日)
「フランスとの交渉と帝政の債務の承認について」(&ジノヴィエフ、スミルガ他)(1927年10月12日)→『続編アルヒーフ』第1巻
「10月革命10周年記念宣言に関するソヴィエト中央執行委員会における演説」(1927年10月15日)
【資料】ジノヴィエフ「ソヴィエト中央執行委員会における演説」(1927年10月15日)
【資料】プレオブラジェンスキー「なぜわれわれは党から除名されたのか――党大会への手紙」(1927年10月)
◇10月合同総会――トロツキーとジノヴィエフの党中央委員会からの除名
「われわれの政綱に対する恐怖――10月合同総会における演説」(1927年10月23日)#
【資料】ブハーリンの演説、スターリンの演説
【資料】「ジノヴィエフとトロツキーの党中央委員会からの除名に関する決議」(1927年10月23日)
【資料】「声明」(筆者不詳)(1927年10月)
【資料】ラコフスキー「反対派と『第三勢力』――10月合同総会で行なわれなかった演説」(1927年10月)
【資料】カーメネフ、ラコフスキー、ムラロフ他「中央委員会・中央統制委員会合同総会への声明」→『続編アルヒーフ』第1巻
「彼らはどのようにコムソモールを腐敗させたか」(1927年10月31日)#
◇スターリンの歴史偽造
「スターリンの偽造学派――党史ビューローへの手紙」(1927年10月21日)
【資料】トロツキー「フランス語版への序文」(1929年)
【資料】トロツキー「ロシア語版への序文」(1931年9月13日)
【資料】トロツキー「アメリカ版への序文」(1937年3月3日)
◇10月革命10周年記念パレード
「『討論報』編集部へ」(1927年11月2日)
「われわれの論争の調子」(1927年11月2日)#
【資料】ジノヴィエフ「カーメネフ、トロツキー、スミルガへの手紙」(1927年11月4日)
【資料】ムラロフ、スミルガ、カーメネフ「政治局へ、中央統制委員会幹部会へ」(1927年11月7日)
「左への言葉の上でのジグザグの後の右への転換――10周年記念行事の総括」(1927年11月8日)#
「反対派を攻撃する口実探し――政治局へ、中央統制委員会幹部会へ」(1927年11月9日)#
【資料】カーメネフ「中央委員会と中央統制委員会へ」(1927年11月)
◇対抗テーゼとトロツキーの除名
「5ヵ年計画に関する反対派の対抗テーゼ」(1927年11月)#
「農業問題に関する反対派の対抗テーゼ」(1927年11月)
「テーゼ」(1927年11月13日)
「中央統制委員会書記局へ」(1927年11月15日)
◇ヨッフェの自殺
「革命家としてのヨッフェ」(1927年11月18日)→『革命家群像』
「ヨッフェ追悼の演説」(1927年11月19日)#→『革命家群像』
【資料】ヨッフェの遺書
【回想】ヨッフェの娘の回想録
◇第15回党大会と合同反対派の解体
「反対派の『声明』と党内情勢」(1927年11月17〜20日)#
「121人の声明」(&ジノヴィエフ、スミルガ他)(1927年12月3日)#
【資料】民主主義的中央集権派「第15回大会によせて」(1927年12月)
【資料】第15回党大会における反対派メンバーの演説
【資料】第15回党大会におけるスターリン、ブハーリンの報告・演説
【資料】「ジノヴィエフ派の声明とトロツキー派の声明」(1927年12月10日)#
【資料】ムラロフ「トロツキーへ」(1927年12月18日)
【資料】「反対派に関する第15回党大会決議」(1927年12月18日)
【資料】ジノヴィエフ、カーメネフ他「復党を求める声明書」(1927年12月19日)
【資料】「12月19日付の反対派の声明に関する決定」(1927年12月19日)
◇新段階
「新段階」(1927年12月末)#→『続編アルヒーフ』第1巻
第14期 流刑地における闘争(1928〜1929)
◇流刑
「流刑者の声明」(1928年1月)→『日記と手紙』
「当局への電報」(1928年1月〜3月)→『日記と手紙』
【資料】レフ・セドフ「アルマ・アタへの移動(覚書)」→『日記と手紙』
◇流刑仲間への手紙
「スミルノフへの手紙」(1928年2月初め)→『日記と手紙』
「同意見者たちへの手紙」(1928年2月)→『日記と手紙』
「同意見者たちへの手紙」(1928年2月27日)→『日記と手紙』
「『プラウダ』は警報を鳴らす――ソスノフスキーへの手紙」(1928年3月5日)→『流刑地からの手紙』
「スミルノフへの手紙」(1928年3月始め)→『流刑地からの手紙』
「ラデックへの手紙」(1928年3月15日)→『流刑地からの手紙』
「ベロボロドフへの手紙」(1928年3月17日)→『流刑地からの手紙』
「プレオブラジェンスキー、ムラロフ、ラコフスキーへの手紙」(1928年4月)
【資料】ムラロフ「トロツキーへの手紙」(1928年4月4日)→『続編アルヒーフ』第2巻
【資料】スミルガ「トロツキーへの手紙」(1928年4月4日)→『続編アルヒーフ』第2巻
【資料】ソスノフスキー「トロツキーへの手紙」(1928年4月6日)→『続編アルヒーフ』第2巻
【資料】プレオブラジェンスキー「農村における左翼路線と今後の展望」(1928年4月)→『続編アルヒーフ』第2巻
【資料】ラコフスキー「回状」(1928年4月)→『続編アルヒーフ』第2巻
「ソスノフスキーへの手紙」(1928年5月5日)
◇投降者と調停者
「ピャタコフ――政治的に終わった男」(1928年3月17日)
「投降者の肖像」(1928年5月26日)
「2人の調停者への回答」(1929年1月10日)
◇リャザーノフの依頼への返答
「リャザーノフへの手紙」(1928年5月半ば)
◇コミンテルン第6回大会をめぐって
「コミンテルン第6回大会への宣言」(1928年7月12日)
「第6回大会から何を期待することができるか」(1928年7月17日)
「ラデックのテーゼ」(1928年7月17日)
【資料】ラデック「われわれの意見の相違」(1928年7月)
【資料】スミルガ「現在の情勢によせて」(1928年7月)
「第6回大会を終わって」(1928年9月6日)
「第6回大会と反対派の任務」(1928年9月18日)
◇コミンテルンの新綱領
「現在コミンテルンを指導しているのは誰か」(1928年9月28日)
「コミンテルンのマルクス主義的綱領の集団的準備について」(1928年9月29日)→『流刑地からの手紙』
『レーニン死後の第3インターナショナル』(1928年)(
English)
◇ソ連経済の新しい転換への評価
「指導の方法」(1928年6月2日)
【資料】ブハーリンとカーメネフの会合(1928年7月11日)
【資料】7月総会の諸演説→『続編アルヒーフ』第2巻
「7月総会と右からの危険性」(1928年7月22日)
「闘争はまだこれからだ」(1928年8月30日)
「ジグザグの法則は今なお有効」(1928年8月30日)
「ある著名な党員との対話」(1928年9月12日)→『流刑地からの手紙』
「スターリンの極左的戯画」(1928年10月22日)
「右派=中間派ブロックの危機」(1928年11月)
「プロレタリア革命と農民革命との関係」(1928年12月)
「スムイチカとは何か」(1928年12月)
◇スターリン官僚制の評価
【資料】ラコフスキー「官僚の職業的危険性――党と国家機構の堕落の原因」(1928年8月6日)
「ボナパルティズムの危険性と反対派の役割」(1928年10月21日)
「
民主主義的中央集権派との意見の相違――ボロダイへの手紙」(1928年11月11日)→『流刑地からの手紙』「官僚主義の哲学的傾向」(1928年12月)
◇中国革命の新しい展望
「プレオブラジェンスキーへの3通の手紙」(1928年)(
English)「中国における民主主義的スローガン」(1928年10月)(
English)「第6回大会以後の中国問題」(1928年10月4日)(
English)「
中国と国民議会」(1928年12月)(English)
◇追放
「最後通牒への回答」(1928年12月16日)
「追放に対する抗議」(1929年2月7-8日)
第15期 プリンキポ時代(1)――最初の1年(1929)
◇追放後の最初の声明
「トロツキー追放の目的は何か」(1929年3月4日)
「ソ連邦労働者への手紙」(1929年3月29日)
「民主主義の教訓を私は受け取らなかった」(1929年4月22日)
◇ソ連はどこへ
「スターリンの勝利」(1929年2月25日)
「ソヴィエト共和国はどこへ行く」(1929年2月25日)
「ソヴィエトにおいて議会制民主主義は実現するか?」(1929年2月25日)
◇コンスタンチノープルから見た国際情勢
「
『大阪毎日』特派員の質問に対する回答」(『反対派ブレティン』第1/2号、1929年4月24日)「軍縮とヨーロッパ合衆国」(『反対派ブレティン』第6号、1929年10月4日)
◇ドイツ・ファシズムと「社会ファシズム」論――最初の評価
「『民主主義平和主義の時代』とファシズム」(『レーニン死後の第三インターナショナル』第6章より、1928年)
「オーストリアの危機と共産主義」(『反対派ブレティン』第7号、1929年11月13日)
◇投降者との闘い
「ロシアの同志たちへの手紙」(1929年5月22日)
「ラデックと反対派」(1929年5月26日)
「忍耐、忍耐、忍耐」(1929年6月14日)
「惨めな文書」(1929年7月27日)
「投降の心理について」(1929年9月)
◇中国問題と左翼反対派の課題
「
中国の政治情勢とボリシェヴィキ・レーニン主義者の課題」(『反対派ブレティン』第1/2号、1929年6月)「中国で何が起こっているか」(『反対派ブレティン』第7号、1929年11月9日)(
English)「劉仁静への2通の手紙」(1929年11月、12月1日)
「
中国反対派(『われわれの話』派)への返信」(『反対派ブレティン』第9号、1929年12月22日)
◇国際左翼反対派の組織化――最初の試み
「反対派の課題」(1929年3月)
「共産主義的反対派のグループ分け」(1929年3月31日)
「スヴァーリンへの手紙」(1929年4月25日)
「ブランドラー=タールハイマーについて再論」(1929年7月12日)
「アメリカ反対派の課題」(1929年5月)
「外交か革命的戦術か――チェコの同志への手紙」(1929年7月1日)
「『ラ・ヴェリテ』編集部への手紙」(1929年8月6日)
「『階級闘争』誌への手紙」(1929年8月11日)
「イタリアの左翼共産主義者への手紙」(1929年9月25日)
◇中ソ紛争とソ連の防衛
「中ソ紛争と反対派の課題」(1929年8月4日)(
English)「ソヴィエト共和国の防衛と反対派」(1929年9月7日)
「レーニンブントはどこへ行く」(1929年9月19日)
「中ソ紛争とベルギー反対派の立場」(『反対派ブレティン』第6号、1929年9月30日)
◇ソ連の経済政策の転換とソ連左翼反対派
「8月22日の声明にサインしたボリシェヴィキ・レーニン主義者への公開状」(1929年9月25日)
【資料】ラコフスキー他「8月22日の声明」
「次は何か?――ソ連の左翼反対派」(1929年10月)
「ソ連の友人たちへの手紙」(同)
「ロシア革命12周年」(『反対派ブレティン』第7号、1929年10月17日)
◇サンディカリズム批判、その他
「伝記作家・歴史家としてのチャーチル」(1929年3月23日)→『革命家の肖像』
「共産主義とサンディカリズム」(1929年10月14日)
「サンディカリズムの原則的誤り」(1929年10月)
◇永続革命論
『
永続革命論』(1929年末)【研究】エルネスト・マンデル「永続革命論とは何か?」(1986年)
トロツキー研究所 | トップページ | 更新情報 |