13人の声明――7月総会へ

トロツキー/訳 西島栄

【解題】本稿は、ジノヴィエフ派(レニングラード反対派)とトロツキー派(左翼反対派)との組織的統合が実現した後にはじめて合同反対派として出された体系的な政治的声明である。これは1926年の7月総会に宛てて出されており、そこに参加する指導的党員向けに、スターリン=ブハーリン派の政策、イデオロギー、党体制に対する全面的な批判を提起している。この「13人の声明」によって、スターリン=ブハーリン派と合同反対派との本格的な闘争が開始され、1927年12月の第15回党大会で反対派党員が全員除名されるまで、一定の波を描きながら続くのである。

 この声明は、党内民主主義の問題を筆頭に、労働者の生活状況と賃金問題、工業化の問題、クラーク問題、英露委員会問題をはじめとする階級協調路線への批判、一国社会主義批判など、まさに反対派の立場を全面的かつ体系的に表明したものだった。ボリシェヴィズムの党内闘争史において、ここまで体系的な反対派声明が発せられたのは、1920年末から1921年初頭にかけての労働組合論争以来であった。

 初出は『トロツキー研究』第42・43合併号だが、今回アップするにあたって、写真をいくつか付け加えた。

 М. Бакаев, Г. Лидзин, М. Лашевич, Н. Муралов, А. Петерсон, К. Соловьев, Г. Евдокимов, Г. Пятаков, И. Авдеев, Г. Зиновьев, Я. Крупская, Л. Троцкий, Л. Каменев, ИЮЛЬСКИЙ ПЛЕНУМ ЦК И ЦКК ВКП (6) Членам ЦК и ЦКК: ЗАЯВЛЕНИЕ, Архив Троцкого: Коммунистическая оппозиция в СССР: 1923-1927, Том.2, 《Терра-Терра》, 1990.


 昨今ますます党内で観察されるようになっている明らかに脅威となっている現象は、慎重で良心的な検討を必要としている。党内のある部分を労働者大衆から孤立させ純粋に党的な道から放り出そうとする試みが現在上層部で進行しているにもかかわらず、われわれは党の統一を守ることが可能であると確固として信じている。まさにそれゆえ、われわれは、党を脅かしている病的現象の基本的な原因に関するわれわれの見解を、何ものも隠すことなく、曖昧にしたりぼかしたりすることなく、きわめて率直かつ明確に、そして先鋭な形でさえ述べておきたいと思う。

 

  1、分派主義の源泉としての官僚主義

 党内の危機をますます悪化させている最も直接的な原因は官僚主義である。それはレーニン死後の時期に途方もなく成長し、今も引き続き成長し続けている。

 政権党の中央委員会は党に働きかける手段として、思想的・組織的ものだけではなく、すなわち党的なものだけでなく、国家的・経済的手段も用いることができる。レーニンは常に、行政的権力が党機構の手中に集中されていることで党に対する官僚主義的圧力が生じるという危険性を認識していた。まさにこのことから、統制委員会の創設というウラジーミル・イリイチの思想が出てきたのである。この機関は、その手中に管理運営のための権力も持たない代わりに、官僚主義と闘争するために必要なあらゆる権力を有するとともに、懲罰的結果を恐れることなく良心にしたがって自分の意見を表明する党員の権利を保護することを目的としたものである。

 1924年1月の党協議会決議は次のように述べている。現時点における統制委員会のとりわけ重要な課題は、党機構と党政策の官僚主義的歪曲との闘争であり、党組織の実践において労働者民主主義を実現することを妨げている(選挙制を規約に認められている範囲内において制約することではなく、会議において自由に表明された意見を抑圧すること、等々)党職員の責任を問うことである、と。

 しかし実際には――そしてこのことは真っ先に言っておかなければならないことだが――中央統制委員会自身が純粋に行政的な機関になってしまい、他の官僚主義機関からの圧力を助け、その機関のために活動の最も懲罰的な部分を遂行してやり、党内におけるあらゆる独立した思考やあらゆる批判の声、党の運命に対する声に出されたあらゆる不安の声、党の特定の指導者に対するあらゆる批判的コメントを迫害している。

 第10回党大会の決議はこう述べている――「党内の労働者民主主義は言うまでもなく、党の共産主義政策を実行する際に、最も遅れた党員をも含むすべての党員に、党の前に提起されるすべての諸問題の討議と党活動への能動的な参加を保障し、党建設への平等で能動的な参加を保障する組織形態である。労働者民主主義の形態は、システムとしてのあらゆる任命制を排除するものであり、上から下まであらゆる機関の広範な選挙制、報告義務制、監査制、等々のうちに表現されるものである」。

 こうした原理の浸透した党体制のみが、プロレタリア独裁の死活にかかわる利益と両立しない分派主義から党を実際に守ることができるのである。分派主義との闘争を党体制の問題から切り離すことは、問題の本質を歪曲し、官僚主義的偏向を養い、したがってまた分派主義を養うことになる。

ラシェヴィチ

 当時全会一致で採択された1923年12月5日の決議(1)は、討議の自由を抑圧し批判を押えつける官僚主義が良心的な党員を閉鎖性と分派主義の道に追いやるとはっきりと述べている。この指摘の正しさは、最近の諸事件によって、とりわけ同志ラシェヴィチ[右の写真](2)、ベレニキー(3)らの「事件」(4)によって完全に裏づけられた。この事件を個々の人物ないしグループの悪意の結果であるとみなすとすれば、それは犯罪的な愚かさであろう。実際には、われわれの前にあるのは、現在の支配的な路線のまぎれもない明白な結果であり、この路線において語るのは上層部だけで、下層部は聞くだけであり、自分だけでばらばらにひそかに考えている。

 不満や異論や疑問を持っている党員は、党会議の場で声を上げることを恐れている。党員大衆は、同じシパルガルカ[宣伝煽動用の手引書、指令書のこと]を読む党幹部の演説だけを聞かされている。彼らの相互の結びつきや指導部への信頼はますます弱まっている。会議の場をお役所的形式主義が支配し、それと結びついた無関心主義が不可避的に支配する。投票の段になると、しばしば取るに足りない少数の者しか残らない。会議の参加者は、あらかじめ準備された決定に賛成投票することを余儀なくされないようさっさと退出しようとする。すべての決議はあらゆるところで「全会一致」でしか採択されない。以上のことは党組織の内部生活に反映している。党員たちは、自分の密かな考え・希望・要求を公然と表明することを恐れている。まさにこのことのうちに同志ラシェヴィチらの「事件」の原因があるのである。

 

   2、官僚主義の成長の原因

 まったく明らかなのは、労働者階級の前衛が党の政策を自分自身の政策であると感じることが少なければ少ないほど、党内民主主義の方法によって決定を行なうことがますます困難になる。経済政策の方向性とプロレタリア前衛の感覚・思考との不一致は不可避的に圧力行使への要求を強め、すべての政策に行政的・官僚主義的性格を付与することになる。官僚主義の成長に関する他のいかなる説明も2次的なものであり、問題の本質をそらせるものである。国の経済発展全体からの工業の立ち遅れは、労働者の数の増大にもかかわらず、社会におけるプロレタリアートの比重の低下を意味している。農業に対する工業の働きかけの遅れとクラーク層の急速な成長は、農村における貧農と農業労働者の比重を引き下げ、国家と自分自身に対する彼らの信頼を弱めている。都市と農村上層における非プロレタリア分子の生活水準の向上から労働者の賃金の増大が立ち遅れていることは、支配階級としてのプロレタリアートの政治的・文化的自信が衰退していくことを意味する。このことから、とりわけソヴィエト選挙における労働者と貧農の能動性の顕徴な低下が生じており、それはわが党にとっての最も深刻な警告になっている。

 

   3、賃金の諸問題

 経済的に困難な時期にもあらゆる手段を行使して実質賃金を維持しなければならないこと、経済状況が好転すればただちに賃金のいっそうの上昇を実現しなければならないという思想は、この数ヵ月間デマゴギーとして非難されてきた。しかしながら、このような問題設定は労働者国家にとって初歩的な義務である。プロレタリア大衆の決定的な中核部分は、何が可能で何が実現できないかを理解することができるだけ十分に成熟している。しかし、彼らが毎日毎日聞かされているのは、われわれは経済的に成長している、わが国の工業は嵐のような発展をしているという話であり、社会主義の発展はあらかじめ保障されているとか、わが党の経済指導に対するあらゆる批判は悲観主義や不確信にもとづいているといった嘘であり、それでいて他方では、実質賃金を系統的に上昇させる展望を持って賃金水準を維持するという要求がデマゴギーだと主張されている。そういうとき労働者は、全般的な展望における公式の楽観主義がどのように賃金の分野における悲観主義と結びついているのか理解することができない。このような演説は大衆にとって欺瞞に聞こえるし、公式の情報源に対する大衆の信頼を掘り崩し、内に秘めた不安を助長することになる。公式の会議・報告・投票に対する不信から、完全に規律正しい党員においては――党機構を飛び越えて――労働者大衆が実際にどのように生活しているのかを知ろうとする志向が生まれる。ここに最も深刻な危険性がある。しかし、打撃を与えるべきは病気の症状に対してではなく、その根源に対してであり、とりわけ賃金問題に対する官僚主義的態度に対してである。

 4月総会において最も法則的で最も必要な提案――実質賃金の保障――を拒否したことは、賃金の実質的な引き下げをもたらすまったく明白な誤りであった。農業税によって賃金の一部に課税したことはさらなる悪化をもたらした。

 労働者の日常生活と気分にこうした事実が及ぼす影響は、「節約体制」が誤って遂行されていることでなおさら深刻なものになっている。国家の資金をより正しくより良心的により注意深く用いるための取り組みは、それ自体としてはまったく必要なものである。しかし、誤った方針のせいで、何よりもこの事業に労働者と農民の視点が欠落しているせいで、上から下への機械的な圧力へと行き着き、結局のところ、労働者に対する圧迫に、しかもより不安定で最も低賃金の労働者層・グループに対する圧迫に行き着いている。この3重の誤り――賃金、農業税、節約体制での誤り――は断固として、しかも至急に修正されなければならない。賃金を今年の秋にでも一程度引き上げるために、今からただちに準備に取りかからなければならない。まずはこの分野で最も遅れているカテゴリーの労働者の賃金から始めなければならない。これは、現在および当面するあらゆる困難にもかかわらず、わが国の経済と予算の現在の枠組みのもとでも十分可能である。さらに、まさに困難を克服するために必要なのは何よりも、国営工業の生産力の向上に対する労働者大衆の積極的な利害関心を高めることである。他のいかなる試みも、政治的のみならず経済的にもまったく近視眼的なものであろう。それゆえ、現在の7月総会が労働者の状況に関する全般的な諸問題をその決議の中で設定せず、途方もなく重要な問題――労働者の住宅建設――に関する正確な指令を与えようとしなかったことは、とてつもなく大きな誤りであるとみなさないわけにはいかないのである。

 

   4、工業化の問題

 今年、国営工業が国民経済全体の発展から立ち遅れていることが、完全に明らかとなった。われわれは再び、商品ストックなしに新たな収穫を迎える羽目になっている。ところが、社会主義への前進が保障されるのは、工業の発展テンポが経済全体の前進から立ち遅れるのでははなく、わが国を先進資本主義諸国の技術水準に系統的に近づけつつ、経済の残りの分野を引っぱっていく場合のみなのである。すべてはこの課題に従属しなければならず、それはプロレタリアートにとっても農民にとっても等しく死活にかかわる課題である。工業が十分強力に発展するという条件がある場合のみ、賃金の上昇も農村にとっての安価な商品も保証しうるのである。外国の利権に対していくらかなりとも大きな期待をかけるとしたら、それは馬鹿々々しいことであろう。わが国工業の社会主義的性格を掘りくずすのでないかぎり、われわれはわが国経済の指導的部分のみならず一般に重要な部分をも外国の利権に引き渡すことはできない。それゆえ課題は、税金や価格や貸し付け等の正しい政策を通じて、できるだけ早く工業と農業との間の不均衡を克服できるよう、都市と農村の蓄積を分配することなのである。

 農村の上層部が昨年度の穀物を今年の春まで退蔵することができたという事実、そしてそれによって穀物の輸出入を減少させ、失業者を増やし、小売り価格を引き上げたという事実は、クラークがこのような反労働者・反農民的な方針をとるのを可能にしているという点で、租税政策と経済政策が誤っていたということを意味している。このような状況のもとでは、正しい租税政策は、正しい価格政策と並んで、社会主義的経済指導の最も重要な構成部分である。現在すでに農村上層部の手中に集中している数億ルーブルの蓄積は、貧農を債務奴隷化するのに役立っている。商人やブローカーや投機分子の手中には、すでに何億ルーブルもの大金が貯えられ、だいぶ以前から10億に迫りつつある。税負担をより精力的に増大させることによって、これらの資金のかなりの部分を吸い上げ、それを工業の育成や農業信用制度の拡張に、そして農村下層部に特恵的条件で機械や農具を援助することに振り向けることが必要である。スムイチカの問題は、現在の状況においては、何よりも工業化の問題なのである。それにもかかわらず、党は、工業化についての第14回党大会決議が実際には――党内民主主義についての決議がすべて水泡に帰した例にならって――ますます後景に押しやられていく様子を不安をもって見ている。10月革命の生死がかかっているこの根本的な問題に関して、党は、事業の利害にもとづいてではなく分派闘争の利害にもとづいて書かれている紋切り調の官僚文章によって生きることはできないし、生きたいとも思わない。党は知り、考え、検討し、決定することを欲している。現在の体制は党がそうするのを妨げている。まさにこうしたことから、党内文書の密やかな流布やラシェヴィチ「事件」等の事態が生じているのである。

 

   5、農村政策

 農業政策の問題においては、農村上層部への重心の移動という危険性がますます鮮明になってきている。すでに次のように主張するきわめて強力な声が公然と上げられている。すなわち、農村における農業協同組合の実際上の指導を「強力な」中農の手に移すべきだ、クラークの貯えが完全に秘密のままでおかれるべきだ、支払い期日を守らない債務者(すなわち貧農)にはその最も必要な農具等を売らせて支払わせるべきだ、と。中農との同盟はますます、クラークの弟分たる「裕福な」中農との同盟の方針に変わりつつある。社会主義国家の最重要課題の一つは、協同組合を通じて貧農を苦境から抜け出させることである。社会主義国家自身の資金が不足しているために、すぐさま急転換を行なうことはできない。だが、このことは、事態の真相に目を閉じる権利を与えてはいないし、一方ではクラークを甘やかせつつ、居候心理についての説教によって貧農の耳を聾する権利も与えてはいない。

 わが党の中でますます頻繁に見かけられるようになってきているこのようなアプローチは、農村におけるわれわれの主要な支柱たる貧農とわれわれとのあいだに溝を掘るおそれがある。プロレタリアートと貧農との不可分の結びつきがある場合のみ、彼らと中農との正しい同盟が、すなわち、その中で指導権が労働者階級に属するような同盟が形成されうるのである。ところが、貧農の組織化に関する昨年の10月総会での決議がこれまでほとんど地方組織の活動には適用されてこなかったというのが現実であり、行政組織の上層部ですら、農業協同組合の共産党員カードルないしは貧農のカードルを「強力な」中農によって押しのけるか入れ替えようとする志向が見出されるというのが現実であり、貧農と中農の同盟という見せかけのもとに、ほとんど常に中農への貧農の従属と、中農を通じてのクラークへの従属が見出されるというのが現実なのである。

 

   6、労働者国家の官僚主義的歪曲

 わが国における国営工業労働者の数は現在、200万足らずである。輸送を加えると、300万足らずである。ソヴィエト、労働組合、協同組合、その他の機関の専従職員もけっしてそれに優るとも劣らぬ人数がいる。すでにこの対比だけでも官僚の巨大な政治的・経済的役割を物語ってあまりある。まったく明らかなのは、国家機構は、その構成と生活水準からして、巨大な程度でブルジョア的ないし小ブルジョア的であり、プロレタリアートや貧農から離れて、一方では安楽な地位にいるインテリゲンツィアに、他方では借地人、商人、クラーク、新しいブルジョアの方へと向かっている。

モロトフ

 何度となくレーニンは国家機構の官僚主義的歪曲について指摘し、労働組合が労働者をソヴィエト国家から擁護する必要性について語った。ところが、党官僚はまさにこの分野において最も危険な自己欺瞞に骨がらみになり、その自己欺瞞は、第14回モスクワ県党会議におけるモロトフ[右の写真]の演説に最もはっきりと表現されている(『プラウダ』1925年12月13日号)。彼はこう述べている――「われわれの国家は労働者国家である。……にもかかわらず、われわれに次のような定式を進呈する者がいる。それは、労働者階級をもっとわれわれの国家に接近させるべきだ、それが最も正しい定式なのだ、というものである。これはどういうことか? 労働者をわれわれの国家に接近させるという課題を自らの前に立てなければならないとされているが、しかしこの国家そのものが彼らの国家なのである。それが労働者国家でないとすれば、それは何か? それはプロレタリアートの国家ではないということか? 彼らを国家に接近させるというのはどういうことか? すなわち、権力に就き国家を管理運営している労働者階級にこの同じ労働者を近づけるというのは、いったいどういうことか?」。

 この驚くべき発言に示されているのは、国家機構を自らに本当の意味で思想的・政治的に従属させるためのプロレタリア前衛の闘争という課題そのものを拒否することである。この立場がレーニンの見地からどれほど巨大な距離があることか。レーニンはその最後の諸論文において、「われわれの国家機構は軽く上っ面が塗りかえられただけであり、その他の点では、わが旧国家機構の中で最も典型的に古い」(5)と述べていた。言うまでもなく、官僚主義に対する見せかけのものではない真の本格的な闘争は今や、邪魔者やつまらないいさかいや分派主義とはみなされてはならない。

 

   7、党機構の官僚主義的歪曲

 1920年、レーニンの指導下の党協議会は、党機関の同志たちや個々の同志たちを動員するさいには、実務的な配慮以外の何らかの配慮に導かれることは許しがたいことだと指摘するのが必要だとみなした。「あれこれの問題に関して党によって決定された立場と意見を異にするという理由でその同志たちに何らかの抑圧を加えることは許しがたい」。現在の実態はこの立場とことごとく矛盾している。真の規律はそこなわれ、機構のメンバーへの服従にすりかえられた。最も困難な時期に党を支えてきた同志たちはますます指導的機関から放逐されている。彼らは配置転換され、追放され、迫害されている。彼らに代わって登場しているのは、まったく偶然的な分子である。彼らは現実の試練によって試されていないが、その代わり物言わぬ追随者として際立っている。党体制のこの深刻な官僚主義的欠陥こそが、党が20年以上にわたって献身的で規律正しい党員として知っている同志ラシェヴィチと同志ベレニキーをあの事件の被告に変えてしまったのである。彼らに対する起訴状は党体制の官僚主義的歪曲に対する起訴状なのである。

 ボリシェヴィキ党内に固く結束した中央集権的機構が必要なことは説明を要しない。この党の骨格なしにはプロレタリア革命は不可能である。党機構の大部分は献身的で私心のない党員たちによって構成されている。彼らには、労働者階級の利益のために闘争すること以外の動機は存在しない。正しい体制があれば、そしてこれらの同じ活動家たちをしかるべく配置するならば、党内民主主義の実現を成功裏に助けることができるだろう。

 

   8、官僚主義と労働者大衆の日常生活

 官僚主義は労働者の党生活、経済生活、日常生活、文化生活に過酷な打撃を与える。党の社会的構成は疑いもなくこの数年間で改善されたが、それと同時に次のことがはっきりと明らかになってきた。すなわち、党内において労働者――それがたとえ工場現場の労働者であっても――の数が増大しても、それだけではおよそ官僚主義的歪曲やその他の危険性から党を守る保障にはならないということである。実際、党の下部党員の重みは現在の体制のもとではなはだしく低下し、ほとんどゼロにまでなっている。

 官僚主義体制は、青年労働者と農村青年の生活に何よりも深刻な影響を及ぼしている。ネップの状況下で、古い階級闘争の経験を知らない若者たちがボリシェヴィズムの域にまで成長しうるのは、思考と批判と検証の自立した活動を通じてのみである。青年の思想的成長過程に対し注意深い慎重な態度をとる必要性については、ウラジーミル・イリイチが一度ならず警告してきたことである。ところが、官僚主義は、青年の成長過程を万力で締めつけ、疑問を内面に押しやり、批判を抑圧し、そうすることで一方では不信と退廃の種を撒き、他方では出世主義を蔓延させる。コムソモールの上層部では、この数年間、出世主義が途方もなく成長し、すでに青年や少年の中からプチ官僚が少なからず輩出されている。そのため、コムソモールの基幹活動家の中で、プロレタリア階層・農業労働者階層・貧農階層の青年がますますインテリ階層と地主階層出身の青年に取って代わられていっている。後者の青年たちは、上から指導するというスタイルにより容易に適応することができるが、労働者や下層の農民大衆からますます遊離していっている。コムソモールにおいて正しいプロレタリア路線を保障するためには、党の場合に優るとも劣らず、民主化の方向へと舵を切ることが必要であり、したがって、党の慎重な指導のもとで青年たちが自主的に活動し、思考し、批判し、決定し、革命的成熟を勝ち取ることができるような状況をつくりだすことが必要である。

 官僚主義体制は、まるで赤錆のようにあらゆる工場や職場の生活に深く浸透している。党員が地区委員会や県委員会や中央委員会を批判する権利を事実上奪われるならば、工場においても、上司や経営陣を批判する可能性を奪われるだろう。党員たちはびくびくしている。「忠実な人間」として上級組織の書記の援助を受けることのできる経営担当者たちは、そのことによって下からの批判を免れているし、しばしば、経営の失敗やまったくの放縦に対する責任をも免れている。

 建設途上にある社会主義経済において、国内資源を節約して消費するのに必要な基本的条件は、大衆による、とりわけ工場労働者による用心深い統制が存在することである。彼らが党細胞や工場から放逐される危険性なしに職場の無秩序や資源の濫用に公然と反対したり、犯罪者を公然と名指しするすることができないかぎり、節約体制のための闘争は、労働生産性のための闘争と同じく、官僚主義的軌道に沿って展開されるだろうし、したがってまたほとんどの場合労働者の死活の利益に打撃を与えることになるだろう。これはまさに現在生じていることである。税率と労働ノルマを設定する際の未熟でぞんざいなやり方は労働者に過酷な打撃を与えており、その10分の9までは、労働者と生産そのものの最も基本的な利益に対する官僚の無関心さの結果なのである。さらに、賃金の不規則な支払いの原因もここに求めなければならない。本来何よりも最初に考慮されるべき事柄が後景にしりぞけられているのである。

 上層部のいわゆる権力濫用の問題は批判に対する圧迫と完全に結びついている。権力濫用に反対して多くの回状が書かれた。中央統制委員会で取り上げられたのはわずかな「事例」だけだが、権力濫用に対するこの種の官僚的闘争に対して大衆は不信の念をもっている。ここでの本格的な活路は一つだけである。それは、大衆が自分の考えていることを恐れることなく発言することができなければならない。これまで述べた喫緊の諸問題はいったいどこで議論されているのか? 公式の会議の場ではなく、部屋の片隅や裏通りなどで、しかも常に恐る恐るである。こうした耐えがたい状況の中から同志ラシェヴィチらの事件が生じたのである。この「事件」からの基本的な脱出口は、こうした状況そのものを変えることである。

 

   9、平和のための闘争

 勤労者の兄弟的な連帯にもとづいた世界的な革命運動の発展は、ソヴィエト連邦の不可侵性とわが国にとっての平和的な社会主義建設の可能性を保障する基本的な条件である。しかしながら、あたかも社会民主主義者やアムステルダム派が、とりわけトーマス(6)やパーセル(7)を指導者とするイギリス総評議会が、帝国主義や軍事介入等々に対する闘争をする用意があるとか、そうすることができるかのような希望を、直接ないし間接に労働者階級のなかに吹き込んだり、そのような希望を支持したりすることは、破滅的な誤りである。

 ゼネストのときにあまりにも卑劣に自国の労働者を裏切り、今や炭坑労働者のストライキを裏切ることでその裏切り行為を完成させているイギリスの協調主義的指導者は、戦争の危険性が差し迫ったときには、いっそう恥知らずな形でイギリスのプロレタリアートを裏切るだろうし、それとともにソヴィエト連邦と平和の事業をも裏切るだろう。レーニンは、ハーグ会議(8)へのソヴィエト代表団に宛てた注目すべき指令の中で次のように説明している。大衆の面前で日和見主義者を容赦なく暴露することだけが、ブルジョアジーが再び戦争を引き起こそうとしたときに労働者が不意を打たれるのを防ぐことができる、と。

 レーニンはハーグのアムステルダム派「平和主義者」に関してこう書いている――「最も重要なことは、あたかも会議の出席者たちが戦争の反対者であるとか、戦争が最も思いがけない瞬間に勃発するであろうことを彼らが理解しているとか、あたかも彼らが戦争と闘争する方法を何か知っているとか、あたかも彼らが反戦闘争のための賢明で有効な方法を適用することができるといった意見を論破することであろう」(9)

 レーニンは各国の共産党議員の演説にさえ、「反戦闘争に関する途方もなく誤った途方もなく軽率な意見」(10)が含まれていることに党の特別の注意を向けた。「このような声明は――それらが戦後になされているのだからなおさら――断固として容赦なくその演説者の個々の名前を挙げて批判するべきである。こうした演説者に関する批判は場合によって温和にすることもできるだろうし、とりわけそうすることが必要ならそうすべきだろう。しかし、このような演説がなされた場合にはけっして沈黙したままにしてはならない。なぜなら、この問題に対する軽率な態度は、他のあらゆることに優る害悪であって、それを大目に見ることは絶対にできないからである」(11)

 このレーニンの言葉はわが党と全世界のプロレタリアートの意識に改めて刻み込まなければならない。声を大にして言わなければならないが、ツェレテリやダンやケレンスキーといった連中が帝国主義戦争を防ぐことができなかったのと同じく、トーマスやマクドナルドやパーセルといった連中は帝国主義的攻撃を妨げることはできないだろう。ソヴィエト連邦防衛の強力な条件は、したがってまた平和を維持する条件は、成長し強化しつつある赤軍とわが国および全世界の勤労大衆とのあいだに不可分の結びつきを確立することである。国家内での労働者階級の役割を引き上げるあらゆる経済的・政治的・文化的措置は、労働者と農業労働者および貧農との結びつきを強化し、後者と中農との結びつきを強化するだろう、そしてそのことによって赤軍を強化し、ソヴィエト国家の不可侵性を保障し、平和の事業を強めるだろう。

 

   10、コミンテルン

 党の階級路線を正すことはその国際路線を正すことを意味する。あたかもわが国の社会主義建設の勝利がヨーロッパおよび世界のプロレタリアートの権力闘争の歩みと結果に不可分に結びついていないかのように事態を描き出すあらゆる疑わしい理論的新機軸を放逐しなければならない。植民地人民は独立のための闘争している。これは共同の戦線である。各戦線の各部隊は、他者のイニシアチブを待つことなく、獲得可能な最大限のものを獲得しなければならない。わが国の社会主義は、ヨーロッパおよび世界のプロレタリアートの諸革命と、そして帝国主義的くびきに対する東方の闘争と不可分に結びついて初めて勝利することができる。コミンテルンの問題、その政策的方向性の問題、その内的体制の問題は、それはそれで、コミンテルンの指導党であったし今もそうであるわが党の体制と不可分に結びついている。わが党におけるあらゆる転換は不可避的にインターナショナルの各党に持ち込まれる。それだけにますます、わが党の路線を国際的な見地から真にボリシェヴィキ的な検証に付すことは義務的なものとなる。

 第14回党大会は外国の諸党がコミンテルンの指導活動により独立的に参加することの必要性を承認した。しかしながら、この決議もまた他の諸決議と同様、紙の上の言葉にとどまっている。そしてそれは偶然ではない。コミンテルンの先鋭な諸問題を正常な政治的・組織的手段で解決することができるのは、ただわれわれ自身の党に正常な体制が存在する場合のみである。種々の係争問題を機械的なやり方で解決することは、ますます各国共産党の内的な結束を弱め、相互間の密接な結びつきをも弱めるだろう。コミンテルンの分野においてわれわれに必要なのは、レーニンによって敷かれ彼の指導のもとでその正しさが証明されている路線へときっぱりと転換することである。

 

   11、分派主義について

ヤロスラフスキー

 第14回党大会までの2年間、分派的な「7人組」が存在した。そこには、政治局の6人のメンバーと中央統制委員会の議長である同志クイブイシェフ(12)が参加していた。この分派的上層部は、政治局と中央委員会の議事日程に入るすべての問題を党に隠れて秘密裏にあらかじめ決定し、さらに政治局の討議にまったくかけられない一連の諸問題を独自に決定していた。7人組は分派的なやり方で人員を配置し、自己のメンバーに分派内規律を課していた。この7人組の活動にクイヴイシェフと並んで参加していたのは、「分派」と「グループ」に対する仮借のない闘争を遂行しているヤロスラフスキー[右の写真](13)やヤンソン(14)その他の中央統制委員会の指導者たち自身なのである。このような分派的上層部は疑いもなく第14回大会以後も存在している。モスクワ、レニングラード、ハリコフその他の大都市では、すべての公式の機構が彼らの手中にあるにもかかわらず、党機構の上層部の一部によって組織された秘密会議が開催されている。これらの秘密会議はその特殊な参加リストからして純粋に分派的な会議である。そこでは秘密文書が読まれているが、この分派に属していない者は誰であれこのような文書を単に他人に手渡しただけで党から除名されているのである。「多数派」は分派ではありえないなどという主張は明らかにナンセンスである。大会決議を解釈して適用することは正常な党機関の枠内でなされなければならないのであって、正常な諸機関の舞台裏で支配分派があらゆる問題を事前に決定するという方法によってなされてはならない。支配分派の中には、党の規律の上に分派の規律を置く少数派がいる。

 以上のような分派的メカニズムの課題は、党機構の構成や政策を党が正常な規約的手段によって変更することを不可能にすることである。日々この分派組織はますます党の統一を脅かしている。

 レーニン死後に確立された党体制に対する深刻な不満と、政策の転換に対するなおいっそう大きな不満は、不可避的に反対派の発生と先鋭な論争をもたらす。ところが、指導的グループは、日々ますます明白となる新たな事実から学んで正しい路線に切り替える代わりに、官僚主義の誤りを系統的に深化させている。今やすでにいかなる疑問の余地もなく明らかなのは、現在の指導分派の進化がはっきりと示したように、1923年の反対派の基本的中核がプロレタリア的路線からの離反の危険性について、そしてますます脅威的なものとなりつつある機構的体制の成長について正しく警告していたことである。ところが、1923年の反対派に属していた何十何百もの同志たち――その中には、長期にわたる闘争の中で鍛えられ、出世主義や阿諛追従とは無縁な古参の労働者ボリシェヴィキも多数含まれている――は、彼らが自制と規律の精神を発揮したにもかかわらず、今日に至るまで党活動から切り離されたままに置かれている。

 第14回党大会以後におけるレニングラード反対派の基本的カードルに対する弾圧は、わが党にいる労働者の最良部分に最大級の不安を掻き立てないわけにはいかなかった。なぜなら彼らはいつも、レニングラードの労働者党員を最も鍛え抜かれたプロレタリア前衛と見てきたからである。台頭してきたクラークに対し反撃を加える必要性が十分に成熟したまさにそのときに、指導的グループは、クラークの危険性に警告を発したというただそれだけの理由でレニングラード労働者の前衛に攻撃の矛先を向けたのである。レニングラードから何百という最良の労働者が放逐された。レニングラード組織の最良の活動家層を構成していた何千もの労働者党員がさまざまな形で党活動から切り離された。これらのレニングラード労働者の政治的正しさは、基本的に今やすでにすべての良心的な党員にとって明白なものになっている。レニングラード組織がこうむった傷が回復しうるのはただ、党内体制が根本的に変更される場合のみである。事態が現在進んでいる道に沿ってさらに進むならば、疑いもなく、モスクワやレニングラードだけでなく、ドンバスやバクーやウラルといった他の政治的中心地や地域においても、次々と新たな圧迫、粛清、追放の波が起きるだろう。そして、弾圧の水準は何十倍もひどくなることだろう。

 現在の党路線の危険性をボリシェヴィキ的に評価することを、「メンシェヴィズム」という紋切り言葉を用いて逃れようとする志向ほど、レーニンからの逸脱をはっきりと示すものはない。まさにこのようなアプローチによって、「指導者たち」の最も思想的に硬直した連中は思わず自らの正体をさらけ出しているのである。ソヴィエト連邦の資本主義的変質の必然性を確信しているメンシェヴィズムは、そのいっさいの思惑を、労働者階級とソヴィエト国家との断絶の上に立てている。それはちょうど、エスエルがソヴィエト国家と「強力な」農民との断絶をあてにしているのと似ている。実際、ブルジョアジーの代理人たるメンシェヴィズムが取るに足りない勢力から脱出するときが本当に来ることを期待することができるのは、労働者階級とソヴィエト国家との裂け目がますます広がっていくという条件がある場合のみである。

 こうした事態を許さないためには、何よりもこの裂け目が生じるやいなや、はっきりと直視しなければならない。官僚が今やっているように、労働者階級と農村下層にソヴィエト国家が接近する課題に取り組むことを拒否することによって、そうした裂け目に目を閉じてはならない。現実を粉飾し、経済問題に関する官僚的楽観主義と賃金問題に関する悲観主義を振りまき、クラークを見ようとせず、したがってクラークに甘い態度をとり、貧農に不注意な態度をとり、とりわけ労働者の中心地において野蛮な弾圧を行ない、最近のソヴィエト改選の教訓を理解しようとしないこと――以上のことこそ、メンシェヴィキ的・エスエル的影響力にとっての基盤を、言葉の上ではなく実際に現実に準備するものである

 いわゆる反対派を機械的に片づけたあとに党内民主主義の枠組みを拡大することができるかのように考えるのは、お粗末な自己欺瞞である。これまでのすべての経験からして、党はもはや、意識を眠り込ませるこのような伝説を信じることはできない。機械的制裁という方法は新しい断絶と裂け目を準備し、新しい罷免と除名、党全体に対する新しい抑圧を準備している。このようなシステムは不可避的に、指導的上層部を縮小し、指導部の権威を引き下げ、その結果、思想的権威に代えて2倍3倍に抑圧を強化することを余儀なくするだろう。党は何としてでもこのような破滅的な過程を阻止しなければならない。レーニンが述べたように、党を確固として指導するとはその喉を締め上げることではないのである。

 

   12、統一のために

 いかなる疑いもありえないのは、党にはどんな困難にも対処する能力が備わっているということである。党にとって統一に向けた活路が存在しないかのように考えるのはまったくもってナンセンスである。活路はあるし、しかも、統一に向けた活路しか存在しない。そのために必要なのは、ここに提起した諸問題に対して注意深くかつ誠実にボリシェヴィキ的な態度でのぞむことである。われわれは「年がら年中の」討論に反対であるし、討論病にも反対である。このような上から押しつけられた討論は党にとってあまりにも高くつく。そのような討論はたいていの場合、党の耳を聾し、ごくわずかしか党を思想的に深め豊かにしないだろう。

 われわれは中央委員会総会に対し次のような提案を行なう――すべての係争問題を党のこれまでの全伝統と完全に合致する形で、そしてプロレタリア前衛の感覚と思想に完全に合致する形で解決することができるような体制を、ともに力を合わせて党内に打ち立てることである。

 このような基礎にもとづいてはじめて、党内民主主義は可能になるのである。

 党内民主主義の基礎にもとづいてはじめて、健全な集団的指導が可能になるのである。他に道はない。この統一した正しい道に沿った闘争と活動において、われわれは中央委員会を全面的かつ無条件に支援するだろう。

 

   補足的声明

 いわゆるラシェヴィチ「事件」の問題は、6月24日の政治局決議にもとづいて、今回の総会の議事日程に入れられているが、この事件はまったく思いがけないことに、ごく最近、7月20日付の中央統制委員会幹部会の決議によって同志ジノヴィエフの「事件」に変えられている。われわれは何よりも次のことを確認しておく必要があると考える。中央統制委員会幹部会の決議案には、同幹部会がラシェヴィチらの「事件」に関する決議を採択した6週間前には知られていなかったただの一つの事実も、一つの情報も、一つの嫌疑も存在しないことである。この決議にはジノヴィエフの名前さえ挙げられていない。ところが、最新の決議案では、すべての「糸」はコミンテルン議長たる同志ジノヴィエフに結びついていると断固とした調子で語られている。この問題は、誰にとってもまったく明らかなことだが、中央統制委員会幹部会で決定されたものではなく、同志スターリンを頭目とする分派グループの中で決定されたものである。

 われわれが前にしているのは、以前から構想され系統的に遂行されてきた計画を実現する新しい一段階である。すでに第14回大会直後に、党の広範で比較的中心的な活動家層内で、中央委員会書記局が発祥元である次のような噂が盛んになされていた。すなわち、レーニン存命中に指導的活動に参加していた一連の政治局メンバーを罷免して、同志スターリンの指導的役割にとってしかるべき支柱となりうるような新しい分子によって置きかえるという噂である。このような計画は、同志スターリンを最も強く支持してきた固く結束したグループの側からの支持を受けたが、何らかの「反対派」に属したことが一度もない他の諸分子からの抵抗に出くわした。まさにそれゆえ、明らかに指導的グループは計画を少しずつ実行し、そのためにしかるべき諸段階を踏まえることにしたのである。同志カーメネフを政治局の正メンバーから候補に下げると同時に政治局を拡大したことは、あらかじめ予定されていた党指導部の抜本的再編の最初の一歩であった。拡大された政治局に同志ジノヴィエフと同志トロツキーが残され、候補としては同志カーメネフが残されたが、それは旧来からの基本的中核を維持しているような外観を党に与え、中央指導部の継続性と権威に関する不安をなだめるものであった。

 すでに大会後の1ヵ月半から2ヵ月後に、「新反対派」に対する闘争が引き続き行なわれつつも、多くの地域でいっせいに、とりわけモスクワとハリコフで――まるで何かの合図にもとづいているかのように――同志トロツキーに対する闘争の新たな章が開かれた。この時期、モスクワ組織の指導者たちは、一連の幹部活動家たちに、次なる打撃は同志トロツキーに向けられなければならないと公然と語った。けっして「反対派」に属したことがない政治局と中央委員会の一部のメンバーは、モスクワ組織の言動への不同意を表明したが、その際、モスクワ組織の背後にいるのが中央委員会書記局であることは誰にとっても秘密ではなかった。この時期、同志トロツキーを近い将来に政治局から罷免するという問題は、モスクワのみならず他の一連の地域でも、党内の十分広範な層の中で議論されていた。

 ラシェヴィチ事件は党指導部を再編する基本計画に本質的に何ら新しい要素を導入するものではなかったが、計画を実行する際のやり方に多少の変更をもたらすようスターリン・グループを促した。ごく最近まで、この計画はまず最初に同志トロツキーに打撃を向け、同志ジノヴィエフの問題は次の段階まで先送りすることになっていた。それは、部分的変化の新しい段階ごとに党を既成事実の前に置くことによって、少しずつ党を新しい指導部の支配下に置くためであった。しかし、ラシェヴィチとベレニキーらの「事件」は、彼らが同志ジノヴィエフと密接に結びついていたがゆえに、指導グループが順番を変えて次なる打撃を同志ジノヴィエフに向けるきっかけとなった。彼らがこの計画の変更にいたるさいに動揺も抵抗もなかったわけではないことは、すでに述べたように、ラシェヴィチ「事件」に関する中央統制委員会の最初の決議が同志ジノヴィエフの問題をまったく取り上げていなかった事実から明らかである。中央統制委員会の新決議案に記載された「事件」のすべての諸要素は、同志ラシェヴィチに対する最初の審判が下されたときと変わっていない。最後の段になって提出された提案――同志ジノヴィエフを政治局から罷免すること――は、古参のレーニン主義的指導部を新しいスターリン主義的指導部によって置きかえるという路線に沿って中央のスターリン・グループによって命じられたものである。

 以前と同様、この計画は少しずつ実行されている。同志トロツキーはしばらくの間はまだ政治局に残されているが、それはまず第1に、同志ジノヴィエフが本当にラシェヴィチ事件に関与していたから罷免されたのだという印象を党に与えるためであり、第2にあまりに急激な措置を取ることで党内に過剰な警戒感を引き起こすのを避けるためである。しかしながら、同志トロツキーの問題も、同志カーメネフの問題も、スターリン中枢部の頭の中ではあらかじめ決定されているのである。すなわち、両名ともいずれは党指導部から取り除かれるのであって、計画のこの部分の実施は、ただ組織技術と適当な口実――真実ないし虚偽の――の問題にすぎない。重要なのは党指導部を抜本的に変更することなのである。この変更の政治的意味は、同志ラシェヴィチの「事件」が同志ジノヴィエフの「事件」にすりかえられる以前に書かれたわれわれの基本声明の中で十分に解明されている。

 最後に、つけ加えるべきはただ次の点だけである。レーニン主義的路線からのまったく明白な転換は、スターリン・グループが計画している指導部の再編が実際に実行に移されるならば、比較にならないほど強力な日和見主義的発展を遂げることになるだろう。レーニンは、遺書として知られている文書の中で自分の考えをはっきりと正確に定式化しているが、われわれはそのレーニンとともに、過去数年間の経験にもとづいて深く次のことを確信するものである。スターリンとのそのグループによる組織政策は、党の基本カードルをいっそう解体し、いっそう階級路線からの逸脱をひどくする危険性に党をさらしている。賭けられているのは党の指導部であり、党の運命である。以上に述べたことをふまえて、われわれは、中央統制委員会幹部会の分派的できわめて有害な提案を断固として拒否する。

M・バカーエフ(15)

G・リズディン(16)

M・ラシェヴィチ

N・ムラロフ(17)

A・ペテルソン

K・ソロヴィヨフ(18)

G・エフドキーモフ(19)

G・ピャタコフ(20)

I・アヴデーエフ(21)

G・ジノヴィエフ

N・クルプスカヤ

L・トロツキー

L・カーメネフ

1926年7月

『トロツキー・アルヒーフ』第2巻

  訳注

(1)1923年12月5日の決議……『トロツキー研究』第40号に訳出した「党建設決議」のこと。

(2)ラシェヴィチ、ミハイル(1884-1928)……ロシアの革命家、軍事指導者、ジノヴィエフ派。1901年にロシア社会民主労働党に入党。1917年には革命軍事委員会のメンバーとして、ボリシェヴィキ革命に積極的に参加。内戦中は軍指導者として活躍。1918〜19年、1923〜24年、中央委員。1925年、軍事人民委員部の副人民委員、中央委員候補。1926〜27の党内闘争においては、ジノヴィエフ派として合同反対派に参加。その後屈服。1928年にハリコフで死去。

(3)ベレニキー、ゲ・ヤ(1885-1948)……「イスクラ派」で、1903年からの古参ボリシェヴィキ。地下活動に従事し、幾度も投獄。1927年、合同反対派とともに除名。その後屈服。

(4)ラシェヴィチとベレニキーの事件……1926年6月にラシェヴィチとベレニキーがモスクワ郊外の森の中で反対派の集会を組織し、その中で副軍事人民委員で中央委員候補のラシェビチは演説を行なった。この事件は党指導部の知るところとなり、6月20日に中央統制委員会幹部会は両名を激しく糾弾するとともに、ラシェヴィチを軍事人民委員部のポストと中央委員会からの更迭を求めた。7月総会において、この事件にコミンテルン議長のジノヴィエフも連座させられ(ベレニキーがコミンテルン執行委員会で活動していたため)、ジノヴィエフは政治局から放逐され、ラシェヴィチは副軍事人民委員のポストから更迭された。

(5)レーニン「われわれは労農監督部をどう改組するべきか」、邦訳『レーニン全集』第33巻、502頁。

(6)トーマス、ジェームズ(1874-1949)……イギリスの労働組合運動家、労働党政治家。鉄道労働組合出身で、1911年に全国鉄道ストライキを指導。1918〜31年、全国鉄道産業従業員組合書記長。1920年、労働連合会議議長。1910〜36年、労働党の下院議員。1924年、第1次労働党内閣で植民地相。1931年、マクドナルドともに自由・保守両党との挙国一致内閣に入閣し、労働党を除名。1930〜35年、自治領相。

(7)パーセル、アルバート(1872-1935)……イギリスの労働組合活動家で、イギリス総評議会の指導者。英露委員会の中心的人物。1926年に起こったゼネストを裏切る。

(8)ハーグ会議……アムステルダム・インターナショナルによって1922年12月10〜15日に開催された国際平和会議のこと。招請を受けてソヴィエトの代表団もこの会議に参加し、戦争に対するプロレタリアートの任務に関する行動綱領を提起したが、否決された。

(9)レーニン「わがハーグ代表団の任務の問題についての覚書」、邦訳『レーニン全集』第33巻、468頁。

(10)同前、469頁。

(11)同前、470頁。

(12)クイブイシェフ、ヴァレリアン(1888-1935)……ロシアの革命家、1904年以来のボリシェヴィキ。軍医学校の元学生。10月革命後に積極的に参加。1918年、左翼共産主義派。内戦期は赤軍政治委員。1922年以降、中央委員、中央統制委員幹部会書記。1923年、中央統制委員会議長、人民委員会議副議長。1926年に最高国民経済会議の議長。このポストに就いてから、スターリニストの経済政策の主要な代弁者としての役割を果たす。1930年、ゴスプラン議長。献身的なスターリニストだったが、1935年に、トロツキズムの非難を浴び、謎の死を遂げる。死後にこの非難は取り消され、多くの都市が彼の名前にちなんで名称を変更した。

(13)ヤロスラフスキー、エメリヤン(1878-1943)……札付きのスターリニスト。1898年からロシア社会民主労働党の党員。古参ボリシェヴィキ。1921年に党の書記局メンバーに。1923年から中央統制委員会幹部会委員。スターリンの棍棒として活躍し、反対派を攻撃する多くの論文や著作を書く。

(14)ヤンソン、ニコライ・ミハイロヴィチ(1882-1938)……古参ボリシェヴィキ、スターリニスト。労働者出身。1905年にロシア社会民主労働党に入党し、ボリシェヴィキに。1905年革命の際、レベリ・ソヴィエトの代議員。1907年にアメリカに亡命。1917年に帰国。1923〜34年、中央統制委員会の幹部会メンバーとして、反対派粛清に中心的役割を果たす。1928〜1930年、司法人民委員。1937年に逮捕され、1938年に銃殺。1955年に名誉回復。

(15)バカーエフ、I・P(1887-1936)……農民出身の古参ボリシェヴィキ。ジノヴィエフの側近の1人。コミッサールから、内戦中はチェカ。1926年7月の「13人の声明」に参加。1927年2月に反対派から離脱。1935年1月ジノヴィエフとともに死刑の宣告を受け、翌36年8月処刑。

(16)リズディン、G・A……古参ボリシェヴィキ。1892年から社会民主主義者。1903年からボリシェヴィキ。左翼反対派のメンバー。1927年、除名され流刑。

(17)ムラロフ、ニコライ(1877-1937)……ロシアの革命家、1903年以来の古参ボリシェヴィキ。10月革命後、モスクワ軍管区司令官。内戦中は、各戦線の軍事革命会議で活躍。左翼反対派の指導者の1人として1928年に逮捕・流刑。1937年に第2次モスクワ裁判の被告の1人として銃殺。

(18)ソロヴィヨフ、K・S……1915年、ボリシェヴィキに。合同反対派のメンバー。1927年、除名。1928年、ジノヴィエフやカーメネフとともに復党。

(19)エフドキーモフ、グレゴリー・エレメーエヴィチ(1884-1936)……1903年以来の古参ボリシェヴィキ。水兵。4度亡命。赤軍内のコミッサール。ペトログラード・ソヴィエト副議長。1923年、ロシア共産党中央委員、労働組合ペトログラード評議会議長。ジノヴィエフ派で、1925年の新反対派の指導者の1人。1926年7月の「13人の声明」に参加。1927年、中央委員会から追放。1927年の第15回大会で除名され、1928年にスターリンに屈服して復党。1934年に逮捕。1936年、ジノヴィエフとともに処刑。

(20)ピャタコフ、グリゴリー・レオニドヴィチ(1890-1937)……元アナーキスト、古参ボリシェヴィキ、経済学者。1910年以来の党員。1914年に亡命。民族問題などでブハーリンを支持して、レーニンと対立。1917年、キエフ・ソヴィエト議長。1918年、左翼共産主義者。1924年以降、左翼反対派の中心的指導者の1人。1927年、第15回党大会で除名され、1928年に屈服。1930年、重工業人民委員代理。1937年、第2次モスクワ裁判の被告として銃殺。

(21)アヴデーエフ、A・D(1873-1932)……本名ディヴィルコフスキー。1903年ボリシェヴィキに。1906〜1917年スイスに亡命。党の統制委員で左翼反対派。

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1920年代後期