民主主義的中央集権派との意見の相違
ボロダイへの手紙
トロツキー/訳 西島栄
【解題】本稿は、トロツキーがアルマ・アタに流刑中の1928年11月に、民主主義的中央集権派の流刑囚であるボロダイに宛てた手紙の全文である。ボロダイという人物のプロフィールは明らかではない。この手紙の中でトロツキーは、スターリン支配下のソヴィエト国家がなお労働者国家であるかどうかをめぐってボロダイと論争をしている。この手紙の中では、生産手段が国家所有かどうかを労働者国家かどうかの判断基準としていない。のちにアメリカのトロツキスト、マックス・シャハトマンによって、この手紙はトロツキーの考えが必ずしも首尾一貫していないことの証拠として示されている。
底本は、1995年にモスクワで出版された『レフ・トロツキー――流刑地からの手紙、1928年』である。
Л.Троцкий, В чем разногласия с ДЦ (группа 15-ти). 11 ноября, Письма из ссылки, 1995.
親愛なる同志ボロダイ。10月12日にチュメニから送られたあなたの手紙は、ほとんど1ヵ月も経ってから受け取りました。あなたが提起した問題の重要性をかんがみて、ただちに返事を書いています。
あなたは、自分の属している民主主義的中央集権派の観点にもとづいて、七つの質問を提起し、「明快で具体的な」「曖昧さのない」回答を求めています。まったく正当な望みです。ただ、われわれにとって具体的とは弁証法的であるということです。つまり、発展の生きたダイナミズムを包括するということであり、出来合いのレッテルで代替することではありません。このレッテルは一見したところ非常に「明快」に見えますが、実際には誤っており、内容を欠いているのです。あなたの問題提起の仕方は、純粋に形式的です。しかり、しかり、否、否。あなたの質問に正しく答えるためにはまず、それらをマルクス主義的な土台の上に置きなおす必要があります。
1、党とその機構の社会的構成の性格について論じた後で、あなたはこう尋ねています――「党は堕落してしまったのか? これが第1の質問です」。
あなたは「明快」で「具体的な」回答を求めています――しかり、それは堕落してしまいました、というような。しかしながら、私はそのように答えることはできません。なぜなら現在、われわれの党は社会的にもイデオロギーにもはなはだしく非同質的だからです。それは、完全に堕落しきった中核部分を含んでいます。他の一部はいまだ健全だが無定形。また他の一部は、堕落の影響をまだほとんど受けていない、等々。機構的抑圧の体制は、プロレタリアートに対する他階級の圧力を反映しており、プロレタリアート自身の能動性を衰退させ、党とその機構のさまざまな階層および中核部分の堕落の程度を日々検証するのをはなはだしく困難にしています。しかし、この検証を行なうことができるのは、行動によって、党の内部生活に対するわれわれの能動的な介入によってであり、党の生きた生命力ある分子を絶え間なく動員することによってです。もちろん、このような介入は、党が全体としてすでに堕落してしまっている、党は死体であるという前提に立つならば、まったく問題になりえないでしょう。このような党評価をしている場合には、党に注意を向けるのは愚かしいし、ましてや、あなたの言うことに耳を傾けたり理解したりすることを、党に、あるいはそのあれこれの部分、とりわけそのプロレタリア的中核に期待するのはなおさら愚かしいことになるでしょう。
しかし党のプロレタリア的中核を獲得することは党を獲得することなのです。この中核は自らを死んでいるとか堕落しきっているなどとはみなしていませんし、それはまったく正しいのです。われわれの政策は、この中核に、その明日に照準を当てています。われわれの課題は、経験と事実にもとづいて彼らに粘り強く説明することです。あたかもわれわれが陰謀をはたらき別党を建設しようとしているかのように言う機構の中傷に対して、われわれは、すべての細胞ですべての労働者集会で、それは嘘であると言うでしょう。別党は、中央集権主義を隠れ蓑にして機構内のウストリャーロフ主義者によってつくられつつあるのだ、とわれわれは言うでしょう。
われわれに関して言えば、われわれは、プロレタリア的中核と手に手をとって、レーニンの党からウストリャーロフ主義者や半ウストリャーロフ主義者を一掃することを望んでいます。このプロレタリア的中核は、プロレタリアート全体の能動分子によって支援されながら、党を獲得し、革命を滅亡から救い出すことができるでしょう――全分野にわたる深いプロレタリア的改良を通じて、です。
2、「ソヴィエト機構とソヴィエト権力の堕落は事実となっているのか、これが第2の質問です」とあなたは書いています。
先に述べたいっさいのことはこの質問にもあてはまります。疑いもなく、ソヴィエト機構の堕落は、党機構の同じ過程をかなり凌駕しています。それにもかかわらず、ここでも事を決するのは党なのです。現在、これは党機構が決するということを意味します。こうして問題は同じことに行きつきます。すなわち、党のプロレタリア的中核が、労働者階級に助けられて、国家機構と融合している党機構の専制に打ち勝つことができるのか、です。いったい誰が、それが不可能であると前もって答えることが、したがって、新しい基盤にもとづいた新しい党の必然性のみならず、第2の新しいプロレタリア革命の必然性について語ることができるでしょうか? もちろん、このような展望がいかなる状況下でもありえないなどと主張することはけっしてできません。しかし、問題になっているのは歴史的予想ではなく、いま現在与えられた状況のもとで、敵に屈服することなく、逆に10月革命とプロレタリア独裁を再生し強化することなのです。この道は最後まで追求されたでしょうか? いやけっして。党のプロレタリア的中核を新しい歴史的段階へと動員するボリシェヴィキ・レーニン主義者の地道な活動は、基本的にまだ始まったばかりなのです。
ソヴィエト権力に関する質問に対してあなたが望んでいる抽象的な回答、「そうだ、堕落しきっている」というのは、実はいかなる明確さも備えておらず、いかなる展望も開かないものです。何といっても問題になっているのは、矛盾の中で発展しつつある過程であり、それは生きた諸勢力同士の闘争を通じて、いずれか一方の側の勝利でもって解決するにちがいない、そういう過程だからであり、しかもこの闘争へのわれわれの参加は、その帰結にとってけっしてどうでもいい意義しか持っていないものではないからです。
3、「国内と党内における現在の状況を全体として取り上げるならば、わが国に労働者階級の独裁は存在するのか、党内と国内でヘゲモニーを握っているのは誰なのか、これが第3の質問です」とあなたは書いています。
これまでの2つの回答から明らかなのは、この問題に関してもあなたは誤った問題の立て方をしているということです。つまり、弁証法的にではなくスコラ的に問題を立てています。まさにブハーリンは、スコラ的な二者択一の形で何十回となくわれわれにこのような問題を突きつけました。すなわち、わが国にはテルミドールがすでに存在するのか、その場合には君たち反対派は祖国防衛主義者ではなく、祖国敗北主義者である。それとも君たちは実際上の祖国防衛主義者なのか、その場合にはテルミドールについて語るのは単なる無駄口たたきである、と。
同志、あなたは今、遅ればせながらブハーリン的スコラ主義に陥っています。彼とともにあなたは、「明快な」、すなわちすでに出来上がった社会的事実を求めています。矛盾に満ちた発展過程はあなたには「曖昧」に見えるようです。現実にはわれわれの前にあるのはいったい何でしょうか? 国内では二重権力の過程が深く進行しています。権力はブルジョアジーの手中に移ったでしょうか? もちろん、ノーです。権力はプロレタリアートの手中から離れ去ったでしょうか? 一定度は、非常にわずかな程度ではそうですが、決定的な段階まではまだほど遠いものです。まさにこのことから、諸階級のあいだを巧みに泳ぐ官僚機構の途方もない優位性が生じているのです。しかし、国家機構は党機構を通じて党に依存しており、したがってそのプロレタリア的中核に依存しています――ただし、このプロレタリア的中核の能動性が存在し、彼らが正しく方向づけられ、正しい指導部を持っている必要があります。まさにここにわれわれの課題があるのです。
現在発展しつつある二重権力の状況は、その本質からして不安定なものです。遅かれ早かれ、それはどちらか一方の側に解消されるでしょう。しかし現在の状況においては、ブルジョアジーは反革命的動乱を通じてのみ権力をとることができます。しかし、プロレタリアートは、党とソヴィエトの改良の道を通じて、全権力を取り戻し、官僚を刷新してそれを自己の統制下に置くことができます。ここに情勢の基本的特徴があるのです。
ハリコフのあなたの同意見者たちは、私が得た情報によれば、10月革命とプロレタリアート独裁はすでに清算されたという誤った思想にもとづいた訴えを、労働者に発しました。このような宣言は根本的に誤っており、反対派に対して最大級の害を与えました。このような声明は断固として容赦なく糾弾されなければなりません。これは冒険主義的ブハーリン主義の立場であって、マルクス主義的な革命的立場ではありません。
4、今年7月における中間派に対する右派の勝利について論じた私の「後書き」(1)を引用して、あなたはこう尋ねています――「これによってあなたは、かつてすべての力と手段でもって支持するよう提案していた『左翼路線』と『転換』に対して全面的に括弧をつけるのか、これが第4の質問です」。
ここではあなたは完全に間違っています。私は左翼路線について一度もどこでも語ったことはありません。私が語ったのは「転換」と「左へのジグザグ」であり、それを左翼路線の概念に対置しました。中間主義者の似非左翼路線に対して、私は支持するよう提案したり約束したりしたことは一度もどこでもありません。私があらゆる手段を尽くして支持するよう提案し約束したのは、中間主義の真実の――たとえ中途半端なものであっても――左への一歩であり、そのさい一瞬たりとも、党のプロレタリア的中核の能動性を目覚めさせる上で根本的な障害物となっている中間主義に対する批判や暴露をやめることはありません。私の「後書き」こそまさに、7月総会において中間派が右派に政治的に屈服したことを暴露するものでした。しかし私は、7月総会が党の発展史を、とりわけ中間派と右派との闘争史を終わらせるなどと考えたことはないし、考えてはいません。現在われわれは、右派に反対する中間派の新たなカンパニアを目撃しています。われわれはこのカンパニアの独立した参加者とならなければなりません。もちろんわれわれは、右派に対するスターリニストの闘争のあらゆる欺瞞、曖昧さ、背信的な機構的中途半端さを見抜いています。しかし、その闘争の背後には深い階級的力が働いており、それは党を通じて、いや党機構を通じてさえ、自らの道を切り開こうとしています。右派の推進勢力は、しだいに頭をもたげ世界資本とのスムイチカを深めている新しい所有者です。わが国の右派は、まだ公然とこの馬に乗り換える決断がついていないために、ためらいがちで、おじけづいています。中間主義者の支柱は、党や労働組合などのアパラーチキであり、彼らはある程度労働者大衆に依拠しており、どうやら最近はますます彼らを考慮に入れざるをえなくなっているようです。このことから「自己批判」や「反右派闘争」などが生じているのです。したがって、右派に対する中間派の闘争には、階級闘争が屈折し歪んだ形ではですがそれでも反映しており、その圧力を通じて、中間派と右派との機構的対決を、党と労働者階級の覚醒と活性化というきわめて重要な局面に転化させることが可能なのです。
現在の公式の反右派カンパニアを額面どおり受け取るとすれば、それは愚かなことでしょう。しかし、何十万という労働者党員がこのカンパニアを、100%ではないにせよ50%か25%信じている事実をあえて理解しようとしないとすれば、われわれは惨めなスコラ主義的・セクト主義的「利口ぶり屋」だということになるでしょう。彼らはたしかにまだわれわれを支持しているわけではありません。このことを忘れてはいけませんし、セクト的ガラクタに誘惑されてはいけません。中間主義が持ちこたえているのは、機構の抑圧のおかげだけでなく、労働者党員の信頼ないし半信頼のおかげでもあるのです。中間主義を支持しているこれらの労働者は、反対派に対する無理強いされた闘争のときよりもはるかに熱心に反右派闘争に参加しています。真剣で賢明な反対派メンバーは、どの労働者細胞においても、どの労働者集会においても、次のように語ります。
「われわれは右派と闘うよう諸君に訴える。これはすばらしい事業である。われわれは以前からそうするよう訴えてきた。そして諸君が真剣に右派と闘争することを望むならば、完全にわれわれをあてにすることができる。われわれはストライキ破りではない。反対に、闘争の最前線に立つだろう。しかし、闘うのなら、本気で闘おうではないか。仮面を剥がそう。右派の指導者の名前を公然と呼び、彼らの右派的行為を列挙しなければならない、云々」。
要するに、反対派メンバーは党のプロレタリア的中核をボリシェヴィキ式に前方へ駆りたてるのであって、党は堕落しきったという口実のもとに彼らに背を向けるのではありません。
5、「スターリニストがまだ革命の利益と労働者階級の利益を擁護することができるという幻想をはぐくむことができるのか、これが第5の質問です」。
この第5の質問も、これまでの4つの質問と同じく誤った立てられ方をしています。中間主義者に関する幻想をはぐくむことは、自ら中間主義に沈み込むことを意味します。しかし、中間主義者を左に駆りたてた大衆的過程に目を閉じることは、セクト主義的殻に閉じこもることを意味します。問題は、スターリンがモロトフとともにプロレタリア政治の道に戻ることができるのかという点にあるのでしょうか? 彼らだけで独立に、ということであれば、それはいかなる場合も不可能なことです。このことは完全に証明されています。しかし、問題は、スターリニスト参謀本部の個々のメンバーの将来の運命を占うことではありません。この点では、あらゆる「思いがけないこと」が起こりうるでしょう。したがって、たとえば、民主主義的中央集権派の旧指導者であったオシンスキー(2)が極端な右派になったりするのです。正しい問題はこうです。現在、積極的ないし半ば積極的ないし消極的にスターリニストを支持している数万・数十万の労働者党員とコムソモール員が自らの隊列を整え、立ちあがり、結束して、「革命の利益と労働者階級の利益を擁護すること」ができるのかどうか、です。この問いに対して私はこう答えます。しかり、できると。もしわれわれが正しく彼らに接近するならば、われわれが彼らを死体とみなしたり対立したりしているのではないことを示すならば、そして、われわれの方向に向けたその一歩一歩を、あるいは半歩であってもそれらをボリシェヴィキ的に支持するならば、そして、そのさい、中間主義指導部に対する何らかの「幻想」をはぐくんだりするのではなく、日々の闘争経験にもとづいてこの幻想を容赦なく暴露するならば、明日かあさってには可能になるでしょう。現在は、右派との闘争経験にもとづいてこの課題を遂行しなければならないのです。
6、あなたは、コミンテルン第6回大会について特徴づけ、党内における若干の現象を指摘したうえで次のように書いています――「これらすべては、乾いたギロチンを伴ったテルミドールではないのか、これが6番目の質問です」。
この問題については、右ですでに十分具体的に答えていると思います。もう一度言いますが、ブハーリン的スコラ主義をひっくり返してもマルクス主義にはならないのです。
7、あなたは私にこう尋ねています――「あなたは個人的に、15人グループに属している同志たちを、今後とも、誠実な革命家という立派な形容詞を献上しながら、それと同時に彼らから一線を画しつづけるつもりでしょうか? このような馬鹿々々しいことは止めるときではないでしょうか? ボリシェヴィキ的精鋭の勢力を団結させるべきときではないでしょうか? これが最後の第7の質問です」。
残念ながら、この問題もあまり正しく立てられていません。私が民主主義的中央集権派から一線を画したのではなく、合同反対派に入っていた民主主義的中央集権派のグループがそこから一線を画したのです。このことから、その後、グループそのものにおける分裂が生じたのです。以上が実際に起こったことです。いちばん最近の段階を取り上げるなら、すなわち、流刑中の反対派のあいだできわめて真剣な意見の交換がなされ、その結果、反対派の99%の支持を集めた一連の重要文書を作成するにいたった時期を取り上げるなら、このときに至っても、民主主義的中央集権派の代表者たちは、この作業にいささかの貢献もせず、またしても本質的にわれわれから一線を画し、サファロフ(3)自身よりもサファロフ的であることを示してきました。
これらいっさいにもかかわらず、あなたは、私が今後も民主主義的中央集権派と「一線を画する」つもりなのかと尋ねるわけです! いえ、あなたはこの問題にまったく間違った方向からアプローチしています。あなたは、過去にジノヴィエフやカーメネフやピャタコフのような人々が統一を妨げたかのように事態を描き出しています。あなたはここでも間違っています。あなたの主張から次のような結論が出てきます。あたかも、われわれ1923年の反対派がジノヴィエフ派との統一に賛成し、民主主義的中央集権派のグループが反対した、と。逆です。われわれははるかにこの問題に関しては慎重であったし、われわれは保証を求める点ではるかに執拗でした。統一のイニシアチブをとったのは、民主主義的中央集権派でした。ジノヴィエフ派との最初の会議の議長をつとめたのは、同志サプローノフです。これはけっして非難のつもりで持ちだしているのではありません。なぜなら、このブロックは必要で進歩的なことだったからです。しかし、過去を歪めてはいけません。民主主義的中央集権派のグループが合同反対派と一線を画した後、ジノヴィエフは常に民主主義的中央集権派との再統一に賛成の立場であり、何度も何度もこの問題を提起しました。私は再統一に反対しました。その際の私の判断はいかなるものだったのか? 統一は必要であるが――と私は語りました――その統一は強固で本格的なものでなければならない。最初の試練で民主主義的中央集権派のグループがわれわれから分裂したとすれば、急いで新しいサークル的統一に突き進もうとするのではなく、経験にもとづいて政策を検証し、意見の対立が深刻化するのかそれとも真の本格的で長期間続く統一のための条件が整うのかを見きわめなければならない、と。1927〜1928年の経験は、1923年の反対派に対する民主主義的中央集権派の疑いと中傷が馬鹿げたものであったことを示したものと私は思います。とりわけ、コミンテルン第6回大会に宛てたわれわれの原則的な文書(4)は、反対派の隊列の統一を促進させるものであったと思います。こうした動きは民主主義的中央集権派の同志たちのあいだでも起こりました。しかしながら、民主主義的中央集権派の有力な指導者たちは、その持てる力を動員して、意見の相違を深刻化させ先鋭化させただけでなく、われわれの関係を完全に毒するために、あらゆることを行ないました。私はといえば、V・スミルノフの一連の回状に対してかなり冷静に接しました。しかし、最近、私は、これらの回状の性格に対する怒りをぶちまけた手紙を何十と同志たちから受け取っています。それらはまるで、接近の過程を妨害し、何としてでも独自の教会と独自の牧師を維持しようとすることを特別に意図したものであるかのようだ、というのです。
しかし、こうした過去のいきさつをすべて別にしても――誰が誰から一線を画したのか、誰が誠実に統一を望んでいるのか、誰が自らの教区を守ろうとしているのか――、統一の思想的基盤の問題が完全に残ります。
このテーマに関して同志ラファイル(5)は、9月28日に次のようなことを私に書いて来ました。
「『15人グループ』のわれわれの友人たちは、とりわけあなたに反対する激しいカンパニアを開始しました。この問題に関しては、『ボリシェヴィーク』第16号の編集部論文とウラジーミル・ミハイロヴィチ・スミルノフ(および15人グループの他の同志たち)とのあいだには、感銘深い調和が見られます。これらの同志たちの根本的な誤りは、公式の決議や上層部における陰謀を過大評価していることです。とりわけ7月総会の決議を過大評価しています。彼らは木を見て森を見ていません。もちろん、これらの決議は、ある一定の段階における力関係を反映していますが、けっして、それが闘争の帰結を決定するものであると考えてはなりません。この闘争はまだ続いており、今後とも継続されるでしょう。危機をもたらした問題のどれ一つとして解決されておらず、むしろ諸矛盾は先鋭化しつつあります。このことは、『プラウダ』(9月18日付)の公式の社説でも認めざるをえません。
反対派は、『鉄槌』が日々『棒杭』を打ちすえている(すでに何度目かだ)にもかかわらず、生きているし、生き抜くことでしょう。そして、その闘争の中でカードルが鍛えられていくのです――まったく何というカードルでしょうか! このような時期に、『15人グループ』のような結論を引き出すことは、本質的に誤っており、途方もなく有害なのです。このような結論は、労働者階級と党のプロレタリア的中核を組織するどころか、士気阻喪を生み出してしまうでしょう。
15人グループの立場は受動的なものにならざるをえません。なぜなら、もし労働者階級とその前衛が戦闘なしにすでにその陣地と獲得物を放棄したとすれば、『15人グループ』はいったい何を、誰をあてにするのか、ということになるからです。『死体』を甦らせるために大衆を組織することはできないし、かといって新しい闘争のためには、もし労働者階級の状態が、彼らの想像している通りのものだとすれば、あまりにも長い時間がかかるものとなるでしょうし、それは不可避的にシリャプニコフの立場[屈服]に行きつくでしょう」。
私は、同志ラファイルは完全に正しく事態を特徴づけていると思います。
労働者階級は曖昧で中途半端な立場や外交的言い逃れを好まないとあなたは書いています。その通りです。そうであるのなら、あなたは最後まで首尾一貫させるべきです。もし党が死体ならば、新しい基盤にもとづいて新しい党を建設しなければならないし、そのことを公然と労働者階級に語らなければなりません。もしテルミドールがすでに既成事実なら、そしてプロレタリアート独裁がすでに解消されているのならば、そのときには第2のプロレタリア革命の旗を公然と提出しなければなりません。もしわれわれが現在支持している改良の道が破綻したならば、われわれはこのように行動するでしょう。残念ながら、民主主義的中央集権派の指導者たちは、曖昧で中途半端な立場と外交的な言い逃れの中にどっぷり漬かっています。彼らは、恐ろしく「左から」われわれの改良の道――これは、われわれがすでに示したように(と思いますが)、スターリン的合法性の道を意味するものではまったくありません――を批判していますが、彼らは労働者大衆の前に別の道を提起していません。彼らは、われわれに対してぶつぶつセクト主義的な不平を言うにとどまり、自然発生的な運動が起こることを待機主義的にあてにしています。この路線が確固たる勝利を収めるならば、それは、あなたのグループ――そこにはすぐれた献身的な革命家が少なからずいます――の崩壊をもたらすだけでなく、そのあらゆるセクト主義とあらゆる冒険主義ゆえに、右派=中間派潮流に、結局のところはブルジョア的復古に最良の奉仕をすることになるでしょう。だからこそ、われわれは、統一をする前に――私は統一に心の底から賛成ですが――、明確で原則的な政治路線にもとづいて、思想的に一線が画されなければならないのです。これが古き良きボリシェヴィキ的ルールです。
共産主義的挨拶をもって
エリ・トロツキー
1928年11月11日
トロツキー『流刑地からの手紙』所収
『トロツキー研究』第44号より
訳注
(1)「後書き」……コミンテルン第6回大会に宛てた論文「次は何か」の後書きとして書かれた「7月総会と右派の危険性」(1928年7月22日付)のこと。未邦訳。
(2)オシンスキー、N(オボレンスキー、ヴァレリアン・ヴァレリアノヴィチ)、(1887-1938)……1907年以来のボリシヴィキ、経済学者。1918年に最高国民経済会議の議長。ブハーリンとともに左翼共産主義派を指導。1920年に民主主義的中央集権派の指導者。1923年の左翼反対派にも参加し、「46人の声明」に名前を連ねるが、その後、反対派と手を切り、スターリニストに。1937年に逮捕され、1938年に銃殺。1957年に名誉回復。
(3)サファロフ、ゲオルギー・イワノヴィチ(1891-1942)……本名、エゴーロフ。1908年以来のボリシェヴィキ。長年フランスに亡命し、10月革命後、コミンテルンで「東方」問題の責任者になる。1920〜21年には労働者反対派。1923年の左翼反対派の最初の闘争においては、ジノヴィエフ派の一員として『プラウダ』に反対派を誹謗する多くの論文を発表。1925年にレニングラード反対派。1926年、合同反対派に合流。1927年に除名された後、スターリンに屈服し、コミンテルンの仕事に復帰。1932年、スミルノフとともに反対派ブロックに。1934年に逮捕され、1935年に反対派から決別。1936年のモスクワ裁判ではジノヴィエフに不利な証言をする。
(4)コミンテルン第6回大会に宛てた文書……「次は何か」と題する論文で、『レーニン死後の第3インターナショナル』に所収。
(5)ラファイル、P・B(1893-?)……別名ファルブマン。古参ボリシェヴィキ、1910年以来の党員、民主主義的中央集権派。1919年、ウクライナ共産党中央委員。1920年、ウクライナ共産党中央委員会書記。後に左遷され、1922年に国民教育モスクワ部会の責任者。1923年、「46人の声明」に参加。1928年、反対派として党を除名され、流刑。亡命先で反対派に合流し、偽装転向して、ソ連国内の政治活動に復帰。1933年に除名され、1934年に逮捕。その後消息を絶つ。
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