中国の政治情勢と

ボリシェヴィキ・レーニン主義者の課題

トロツキー/訳 西島栄

【解題】これは、中国の左翼反対派のために基本的な諸問題についての原則的立場を簡潔にまとめるとともに、反動期における左翼反対派の基本的スローガンについて明らかにしている。

Л.Троцкий, Политическая обстановка в Китае и задачи большевиков−ленинцев (оппозиции), Бюллетень Оппозиции, No.1-2, 1929.


 1928年2月のコミンテルン執行委員会総会とコミンテルン第6回大会において、中国の情勢に関する根本的に誤った評価が下されている。恐るべき敗北をごまかすために、革命情勢が維持されている(「「二つの波のあいだ」)と宣言され、以前と同様、事態は武装蜂起とソヴィエトに向けて進んでいると述べられている。

 実際には、1925〜27年の第2中国革命は、その課題を完遂することなく一連の破滅的な敗北のうちに終焉した。今ではわれわれは、間革命期にいる。ブルジョア反革命が全面的に支配し、外国帝国主義の立場が強化されつつある。

 この間、革命期がどれぐらい続くかを予言することは不可能である。なぜならそれは国内外の多くの要因に依存しているからである。しかし、第3革命の台頭は不可避である。それは、全面的かつ完全に第2革命の敗北の条件のうちに含まれている。

 中国の共産主義反対派、すなわちボリシェヴィキ・レーニン主義者の課題は、敗北の原因をはっきりと理解し、現在の情勢を正しく評価し、プロレタリア前衛の最も堅固で勇敢で鍛え抜かれた分子を再組織化し、過渡的要求にもとづいて大衆への道を再び見出し、社会生活のあらゆる分野において労働者階級を第3中国革命に向けて準備することである。

 第2中国革命は、1927年の事態の三つの段階において敗北した。上海、武漢、広東である。これら三つの敗北は、共産主義インターナショナルと中国共産党中央委員会の根本的に誤った政策の直接的結果である。

 コミンテルンの完全に日和見主義的な路線は、中国革命の運命を決した次の四つの問題に表現されている。

 

 1、党の問題。中国共産党はブルジョア政党たる国民党に入党した。この党のブルジョア的性格は「労働者と農民の党」という、あるいは「四つの階級」の党というペテン的哲学で仮装されていた(スターリン=マルトゥイノフ(1))。こうしてプロレタリアートは最も危機的な時期に自分たちの党を奪われた。なお悪いことには、エセ共産党は労働者を欺くためのブルジョアジーの補完的道具に成り果てた。世界革命運動の歴史においてこれに匹敵するような犯罪は見当たらない。この責任は全面的にコミンテルン執行委員会とその指導者たるスターリンにある。

 現在でさえ、インド、朝鮮などの他の諸国でも「労働者と農民の党」、すなわち新しい国民党が設立されているため、中国共産党反対派は、第2中国革命の経験にもとづいて次のように宣言することを必要とみなす。

 いついかなる場合においても、プロレタリアートの党は他の階級の党に参加したり組織的に融合してはならない。プロレタリアートの党の絶対的独立は共産主義政策にとっての第1の決定的な条件である。

 

 2、帝国主義の問題。コミンテルンの誤った路線は、国際帝国主義のくびきがすべての「進歩的」階級を団結させているという主張にもとづいている。言いかえれば、コミンテルンのスターリニスト理論によれば、帝国主義のくびきは何ゆえか階級闘争の法則を変えるものらしい。実際には、中国の生活に帝国主義が経済的・政治的・軍事的に浸透したことは、国内の階級闘争を極度に先鋭化したのである。

 底辺では、中国経済の農業的基盤においてブルジョアジーは有機的かつ不可分な形で封建的搾取形態と結びついている。頂点では、ブルジョアジーは有機的かつ不可分な形で世界金融資本と結びついている。中国ブルジョアジーは農業封建制からも外国帝国主義からも自由であることはできない。

 中国ブルジョアジーと最も反動的な封建的軍閥との対立、および中国ブルジョアジーと国際帝国主義との衝突は、決定的な瞬間においては常に、貧しい労働者と貧農に対するブルジョアジーの非和解的な敵対を前にして後景に退く。

 中国の労働者と農民に対抗して、背後に世界帝国主義の軍事的支援を常にあてにすることができる、いわゆる民族ブルジョアジーは、世界のどのブルジョアジーよりも急速かつ無慈悲に階級闘争を内乱へと持っていき、労働者と農民を血の海に沈めた。

 コミンテルン指導部が、中国の民族ブルジョアジーを革命的ボリシェヴィキの批判と抗議から守りつつ、彼ら民族ブルジョアジーが労働者と農民の背中の上に座るのを助けたこと、これは巨大な歴史的犯罪である。あらゆる革命の歴史において、スターリニスト指導部が中国ブルジョアジーのために作ってやったような隠れ蓑と仮面をブルジョアジーが持ったことはいまだかつてなかった。

 反対派は、中国の労働者と全世界の労働者に次のことを指摘する。すなわち、蒋介石が上海クーデターを遂行するわずか数日前に、スターリンが蒋介石への信頼と支援とを呼びかけただけでなく、革命崩壊の危機を時宜を失せず警告していたボリシェヴィキ・レーニン主義者(「トロツキスト」)を残酷に弾圧していたことを。

 中国左翼反対派は、「民族」ブルジョアジーが大衆を革命闘争に導くことができるという過去の反動的伝説を支持したり広めたり擁護したりするすべての者は裏切り者であると宣言する。中国革命の諸課題を真に解決することができるのは、中国プロレタリアートが、被抑圧大衆の先頭に立って、ブルジョアジーを政治的指導部から一掃し権力を握る場合のみである。他に道はない。

 

 3、小ブルジョアジーと農民の問題。中国のみならず決定的な重要性を持っているこの問題においても、東方の他のすべての国にとっても、コミンテルンの政策はマルクス主義のメンシェヴィキ的偽造である。われわれ反対派がプロレタリアートと小ブルジョアジーとの革命的同盟の必要性について語っていたとき、念頭に置いていたのは、被抑圧大衆であり、都市と農村の数千万、数億の貧困層のことである。コミンテルン指導部は、小ブルジョアジーという名前で、圧倒的に知識人である小ブルジョアジーの上層のことを理解していたし、現在でもそうである。これらの上層は、民主主義政党・組織という形態のもとで、都市と農村の貧困層を搾取し、決定的な瞬間に彼らを大ブルジョアジーに売るのである。われわれにとって問題になっているのは、蒋介石に反対して汪精衛(2)と同盟を組むことではなく、汪精衛と蒋介石に反対し勤労大衆と同盟を結ぶことである。

 

 4、ソヴィエトの問題。ソヴィエトに関するボリシェヴィキの理論は日和見主義的偽造によって置きかえられ、後に冒険主義的実践によって補完された。

 西方諸国とまったく同じく東方諸国にとっても、ソヴィエトは広範な革命的高揚の最初の段階にすでに形成することができるし、形成されなければならない組織形態である。ソヴィエトはたいてい革命的なストライキ機関として発生し、その後、その機能を拡張し、大衆の前でその権威を高めていく。次の段階において、ソヴィエトは革命的蜂起の機関となる。最後に、蜂起の勝利の後、ソヴィエトは革命権力の機関となる。

 中国の労働者と農民によるソヴィエトの結成を妨げることによって、コミンテルンのスターリニスト指導部はブルジョアジーの前で勤労大衆を人為的に武装解除し弱体化させ、革命を破壊する可能性をブルジョアジーに準備させた。その後、1927年の12月に広東で試みられた、一昼夜でソヴィエトを樹立しようとする企ては、犯罪的な冒険以外の何ものでもなかった。そしてそれは、野放図な軍閥による広東の英雄的労働者の最終的粉砕を準備しただけであった。

 これらは中国におけるコミンテルンのスターリニスト指導部の根本的な犯罪である。全体としてそれらは、ボリシェヴィズムを完全で行き着くところまで行ったメンシェヴィズムによって置きかえたものである。第2中国革命の壊滅は、何よりもメンシェヴィズム――今回はボリシェヴィキの仮面をかぶって現われた――の戦略の敗北である。この問題で国際社会民主主義の全体がスターリン=ブハーリンと連帯したのもけっして偶然ではない。

 中国の労働者階級がかくも高い対価を支払って得たこの重大な教訓を理解することなしに、運動のいかなる前進もありえない。中国の左翼反対派は、全面的かつ完全にこの教訓に立脚する。

 中国ブルジョアジーは、人民大衆を粉砕した後、軍閥の独裁を甘受することを余儀なくされた。これは、当面する時期、国家権力の唯一可能な形態であり、それは、一方では、人民大衆に対する中国ブルジョアジーの非和解的な敵対関係から、他方では、外国帝国主義に対する中国ブルジョアジーの依存から生じている。ブルジョアジーの一部の層や地方的グループは剣の支配に満足していないが、全体としての大ブルジョアジーは剣による以外には権力を維持することができないのである。

 「民族」ブルジョアジーは革命的国民の先頭に立つことはできないために、民主主義的議会制度を受け入れることができない。「人民の保護」の一時的体制の名において、「民族」ブルジョアジーは軍閥の支配を確立しつつある。

 これらの軍閥――彼らはブルジョアジーのさまざまなグループの特殊的・地方的利害を代表している――は相互に次々と衝突しあい、あちこちで戦争を開始している。これが、革命が粉砕されたことの報酬なのである。

 今さらどの将軍が「進歩的」であるかを決定し、またしても革命闘争の運命を将軍の剣に結びつけようとするのは、憐れで軽蔑すべき試みである。

 反対派の課題は、労働者と貧民を反革命ブルジョアジーの社会機構全体に対置することである。指導者との協調や同盟といったスターリニスト的政策ではなく、ボリシェヴィズムの非和解的な階級政策こそが反対派の路線となるだろう。

 1927年の末以降、中国革命は反革命に席を譲り、反革命は今なおますます深化しつつある。この過程の最も明確な現われは、中国党の運命である。第6回大会において中国共産党のメンバーは10万の隊列を誇っていた。その時反対派は、同党は1927年後は1万人さえ維持するのは困難だろうと述べた。実際には党は今日、せいぜい3、4000人しか結集しておらず、その下落は今なお続いている。一歩ごとに現実と非和解的に衝突する誤った政治的方針は中国共産党を破壊しつつあり、それはいずれ――中国共産党反対派が党の方針全体とその体制全体を根本的に変更することに成功しないかぎり――不可避的に同党を破滅に追いやるだろう。

 コミンテルンの現指導部は、自らの誤りを覆い隠し続けることによって、中国の労働者運動に二つの敵への道を掃き清めるだろう。社会民主主義とアナーキズムである。革命運動をこれらの相互補完的な危険性から守ることができるのは中国共産党反対派だけである。反対派は、コミンテルンのスターリニスト指導部から必然的に生じてきている日和見主義と冒険主義に対して非和解的な闘争を遂行している。

 現在、中国にはいかなる大衆的革命運動も存在しない。現在しなければならないのはそれを準備することである。この準備作業は、勝利の凱歌をあげた反革命の時代にいま存在している基盤に基づいて、労働者のますます広範な層を国の政治生活に引き入れていくことでなければならない。

 ソヴィエトのスローガンは、現在のスローガンとしては冒険主義かほら話である。

 軍事独裁に対する闘争は不可避的に、過渡的な革命的・民主主義的諸要求の形態をとらなければならない。この要求は、直接・平等・秘密の普通選挙権にもとづく中国憲法制定議会に対する要求に、すなわち、この国が直面している最も重要な諸問題の解決に向けた要求に行き着くだろう。すなわち、8時間労働制の導入、地主の土地の没収、中国の民族独立の実現、である。

 過渡的な革命的・民主主義的スローガンを拒否した第6回大会は、中国共産党を何のスローガンもないままに放置し、それゆえ、反革命の状況のもとで大衆を動員するという課題に接近する可能性を閉ざしたのである。

 中国反対派はこのような政策の無力な不毛さを糾弾する。中国反対派は次のように予言する。労働者はその麻痺状態から抜け出し始めるやいなや、不可避的に民主主義的スローガンを掲げるだろうと。共産党員が傍観しているならば、政治闘争の復活は不可避的に小ブルジョア民主主義を利する結果になるだろう。さらに次のことをあらかじめ予言することも可能である。現在の中国スターリニストは彼らに追随し、民主主義的スローガンを革命的に解釈するのではなく、協調主義的に解釈するだろう、と。

 それゆえ反対派は、民族独立と人民大衆の生活水準の向上という諸問題の解決に向けた真の道が第3次中国革命による社会体制の抜本的な変革にあるということをあらかじめ明確にしておくことが必要だとみなす。

 現時点ではまだ、この国での革命的復活がいつどのような形で起こるかについて予言することは困難である。しかしながら、今すでに次のような結論を引き出すことを可能にするような徴候が存在する。すなわち、政治的復活に先んじてある種の経済的復活が生じるだろうこと、そして外国資本が多かれ少なかれその過程に参加するだろうということである。

 経済好況は――たとえ脆弱で短命なものであっても――再び労働者を工場に集め、階級的自信を高め、それゆえ労働組合組織の建設と共産党の新たな影響力伸張のための条件をつくり出すだろう。産業好況はけっして革命を一掃することはできない。反対に、結局のところそれは、すべての未解決の問題と、現在は押さえつけられているすべての階級的・準階級的対立(軍閥とブルジョアジーと「民主主義」との対立、「民族」ブルジョアジーと帝国主義との対立、そして最後にプロレタリアートと全体としてのブルジョアジーとの対立)を復活させ先鋭化させるだろう。好況は中国の人民大衆を士気阻喪と受動性から離脱させるだろう。そしてその後に不可避的に到来する新しい恐慌は、新しい革命的衝撃になるだろう。

 もちろん、国際的性格を持った諸要因はこうした過程を阻害したり、あるいは反対に促進するだろう。

 それゆえ共産主義的反対派は、いかなる出来合いの図式にも自らの手を縛られない。その義務は、中国の内部生活および世界情勢全体の現実の発展過程を追うことである。われわれの政策のあらゆる戦術的転換は新しい段階のそれぞれの実情に合致しなければならない。そして、われわれの全般的な戦略的路線は権力の獲得に向けられていなければならない。

 中国のプロレタリアート独裁は中国革命を国際社会主義革命の一環として遂行しなければならない。中国における社会主義の勝利は、ソ連の場合とまったく同じく、国際革命の勝利という条件下でのみ考えうる。中国反対派は、一国社会主義というスターリニストの反動的理論を断固拒否する。

 反対派の当面する課題は以下のとおりである。

 (a)ボリシェヴィキ=レーニン主義者(反対派)の重要文書を出版すること。

 (b)反対派の政治的・理論的週刊紙をできるだけ早急に発行しはじめること。

 (c)反革命の圧力に抗することのできる最も優れ最も信頼の置ける共産主義分子を、明確な概念に基づいて選抜し、ボリシェヴィキ=レーニン主義者(反対派)の中央集権化された分派を形成し、新しい高揚に向けて自分と他者を準備すること。

 (d)他のあらゆる国の左翼反対派と継続的で実践的な連絡を維持し、できるだけ短期間のうちに、ボリシェヴィキ=レーニン主義者(反対派)の強力でイデオロギー的に統一された国際分派を建設すること。

 共産党の内部でも外部でも自らの旗を掲げて公然と大胆に打って出るこのような分派のみが、共産主義インターナショナルを破滅と堕落から救い出し、マルクスとレーニンの道に回帰させることができるのである。

『反対派ブレティン』第1/2号

1929年6月

『ニューズ・レター』第34号より

  訳注

(1)マルトゥイノフ、アレクサンドル(1865-1935)……メンシェヴィキの右派指導者。1884年に「人民の意志」派に参加。1886年に、シベリアに流刑。1890年代に社会民主主義運動に参加。経済主義派の「ラボーチェエ・デーロ」派に属す。1903年の党分裂で、メンシェヴィキに。1905年革命においては『ナチャーロ』に参加。反動期は解党派。第1次大戦中はマルトフのメンシェヴィキ国際主義派に属す。10月革命に敵対。1922年にメンシェヴィキから離脱。1923年にボリシェヴィキに加わり、スターリニストとなる。1924年以降、『共産主義インターナショナル』の編集に従事。「4階級ブロック」理論の主唱者で、国民党は「進歩的」ブルジョアジーの政党であるということで中国共産党を国民党に加入させるスターリニストの路線を正当化。

(2)汪精衛(1884-1944)……本名は汪兆銘。中国の国民党左派指導者。武漢政府の首班。コミンテルンは、蒋介石の1927年4月のクーデター後、この武漢政府をたよりにしたが、汪精衛はこのクーデターからわずか6週間後に労働者弾圧を開始した。

 

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