深化する党の危機

――党中央委員会のすべてのメンバーへ

トロツキー/訳 湯川順夫・西島栄

【解題】本稿は、数日前に開催された中央統制委員会会議での路線を踏まえて、改めてレーニン時代におけるような民主主義的な討論と真の党の統一への道を選択するよう全中央委員に訴えた文書である。執筆はトロツキー本人だが、合同反対派として出されている。

 Л.Троцкий, Писимо в всем членам ЦК ВКП (б), Архив Троцкого: Коммунистическая оппозиция в СССР, Том.3, 《Терра−Терра》, 1990.


  親愛なる同志諸君

 すでに3年以上にわたって党は危機にある。1923年の論争において中心的な争点となった意見の相違はいささかも解消されず、反対にますます拡大深化している。1925年には、それまで政治局の中で指導的役割を果たしていたグループ自身が完全に分解した。この指導グループからレニングラード反対派が分かれ、このグループに対して元のグループに残った人々が1923年の反対派に対して行なったのとまったく同じような容赦のない闘争を展開した。1926年には、1923年の反対派と1925年の反対派が合同した。同時に、新しい指導的グループ内でも再び意見の相違が姿を現わし、新しい「分裂」が準備されている。党は深刻な危機の真っ只中にあり、その本質は、官僚がプロレタリアートの前衛に取って代わり、官僚内部では成り上がりの出世主義者が古参の革命家に取って代わっているという点にある。以上のことは、党が革命以来かつて経験したことのない最悪の危機にあることをまったく明白に示している。そして、今やかつてなくこの危機を解決しなければならなくなっているのである。

 主として中国革命に対する誤った指導によってもたらされた中国の最近の敗北と直接に結びついて、国際情勢は急激に悪化した。戦争と干渉の危険性は疑いもなく存在する。プロレタリアート独裁の国たるソ連に対する戦争は、ある一国と別の一国による通常の戦争ではありえない。それは、国際プロレタリアートに対するブルジョアジーの闘争でしかありえない。国際帝国主義との闘争は、それが軍事的形態をとるかぎりでは、国外の戦線と並んで国内の戦線を作り出すことによって、交戦諸国の後方に階級闘争のいちじるしい激化を不可避的にもたらすだろう。この衝突において決定的な役割を果たすのは、世界プロレタリアートの革命運動との結びつきである。この闘争において、内戦の英雄的戦闘の時とまったく同様に、現在反対派に属している党員たちもけっして人後に落ちない役割を果たすことは、言うまでもないことである。だが、プロレタリアートの階級闘争は、それがいかなる形態をとろうとも、労働者階級と緊密に結びついた能動的で固く団結した党が先頭に立つ場合にのみ成功しうるのである。この団結と能動性は今日存在していない。このことははっきりと言わなければならない。この団結と能動性を獲得するためにである。党の危機は今度こそ解決されなければならない。

 中央委員会は反対派を機械的に抑圧することによって危機を解決しようとしている。「反対派叩き」につぐ「反対派叩き」、「反対派の攻勢に反対する」カンパニアにつぐカンパニアが展開されている。反対派の見解を堅持している同志たちは政治局から排除され、今やそれらの同志をコミンテルン執行委員会と党中央委員会からも排除する準備が進行している。このいっさいが、正規の手続きによって新しい中央委員会が確立されることになっている党大会が召集される何ヵ月も前になされているのである。反対派と見解をともにしている下部党員に対する迫害は、それらの同志の革命的経歴や現役の労働者であるという事実に関わりなく、党からの除名を含むはるかに過酷なものになっている。迫害は、完全に合法的な党内手続きに従って中央委員会に出された83人の声明に署名した同志たちに対しても始まっている。反対派メンバーは、党の会議で中央委員会の見解と異なった見解を表明したというだけの理由で、党の裁判に引き出されている。こうして、党員は自らの最も基本的な党内権利を奪われているのである。反対派の除名を支持する党内世論が公然と準備されつつある。

 それだけではない。反対派に対する闘争の中で、中央委員会は以上の方法と並んで、「非党員に訴えた」という理由で同志ジノヴィエフの「事件」をでっち上げるといったあらゆる非党的手段を公然と行使している。「職業安定所に通うことになるぞ」――つい最近、反対派メンバーは、ハリコフの党会議の一つで、ウクライナ共産党中央委員会政治局員の同志ポストゥイシェフ(1)からこう脅された。「解雇するぞ」――これは、モスクワの反対派を恫喝しようとしたモスクワ委員会の書記、同志コトフ(2)の吐いたセリフである。中央委員会は公然と国家機構の力を借りて党員を弾圧しつつある

 目が見えないのでもないかぎり、このような方法で反対派と闘争することが党と闘争することであるのは明らかである。中央委員会は末端の党員大衆が意見の相違を理解することを許さないのだ。党は、中央委員会の支持者から歪められた形で伝えられるという形でしか反対派の見解について知らない。反対派の立場に立っている同志たちの論文や演説は発表されず、時には速記録にさえ掲載されない(中国問題に関する4月の中央委員会総会のときのように)。コミンテルン執行委員会総会の議事録さえ、これまでのいっさいの伝統に反して、党の機関紙には発表されなかった。最近党員向けにこの論争の一部が出版されたが、そこには、同志トロツキーの演説は掲載されていない――彼が速記録のテキストを校正しなかったという口実のもとにである。反対派メンバーが語ることを許されていないということは、党員大衆が、何をめぐって論争されているのかを知ることを許されていないということである。党指導部は、党員大衆に公式の報告者の言葉をそのまま信じさせたがっているのである。

 党員たちは、党会議で弾圧の脅しにさらされながら中央委員会に賛成票を投じている(投票する権利が奪われていない場合にかぎるが)。有名な「満場一致」によってつくり出されている見せかけの統一には、党の真の統一と共通するものは何もない。この見せかけの統一は党の能動性を抑圧することによって達成される。中央委員会が現在進んでいる道は、党統一の道ではなく、党破壊の道である。それはまた、党指導のレーニン的方法に対する途方もない歪曲である。

 「党が最も急速かつ最も確実に[病気からの]回復にこぎつけるためには、何をすべきであろうか? すべての党員が、まず第1に意見の相違の本質、第2に党内闘争の推移を、完全に冷静に最大限誠実に研究することに取りかかる必要がある。……この両者を研究することが必要であり、そのためには、あらゆる面からの検討を可能にする最も正確な印刷された文書が必ず必要である。言葉を鵜呑みにする者は救いがたい愚か者であろう。文書がないときには、対立する双方の、あるいはそれ以上の当事者の証人に対する審問が必要である。『根ほり葉ほりの審問』『証人立会いのもとでの審問』がぜひとも必要である」(3)

 レーニンは1921年にこのように問題を提起した。そして、今日でもこれが問題を提起しうる唯一のやり方である。党員大衆、何よりも末端の労働者党員が、問題を解決する権利を有している唯一の審判者であり、彼らだけが党の長引く危機を解決することができる。党員大衆に隠れて党の反対派部分――そこには、3つの革命の砲火をくぐり抜け、内戦の最前線で戦闘に従事し、プロレタリアートの革命闘争を指導し、最も困難な時期にプロレタリア独裁の先頭に立った数百・数千の同志たちが含まれている――を党から切り離すことは、状況からの活路ではない。レーニンの道に沿ってのみ党を真の統一に復帰させることができる。真の統一とは、何よりも全党員大衆の最大限の能動性と、プロレタリア革命と社会主義の勝利のためにあらゆる犠牲を進んで受け入れる覚悟を意味する

 党員大衆は、論争になっているすべての問題に関する正確で詳細な説明を聞く権利を持っており、それぞれの側にはそうした説明を与える義務がある。われわれも、同封の文書によってそうした義務を果たしている。そして、中央委員会は党に対する自らの義務を遂行すべきである。

 中央委員会は、党員大衆にわれわれの文書を含むすべての文書を知らせるべきである。それによって党員大衆は現在のきわめて複雑な情勢の中で自らの方向を定めることができるのである。中央委員会は、これらの文書を第15回党大会に向けた資料として印刷し、すべて党組織に送らなければならない(大会の開会まで約4ヵ月しか残っていない)。来たるべき中央委員会総会は、大会議題の討議、大会前のキャンペーン、大会に提出すべき文書に関する討論に当てられるべきである。われわれは、自分たちの見解を擁護する機会がこの総会で与えられるものと確信している。

 第15回大会は、2年の間隔をおいて、きわめて深刻な党の危機の中で召集される。それだけになおさら、同大会は、党を威嚇するあらゆる可能性、行政的圧力のあらゆる試みが排除されるという条件のもとで準備されなければならない。大会への代議員選出は、党の直面するすべての最重要問題をめぐる広範な全党討論にもとづいて、党規約とボリシェヴィキ的伝統に完全に合致して行なわれるべきである。その場合にはじめて、大会決定は正当で権威のあるものとなるだろう。

1927年6月27日

『トロツキー・アルヒーフ』第3巻所収

『トロツキー研究』第42/43合併号より

  訳注

(1)ポストゥイシェフ、パーヴェル・ペトロヴィチ(1887-1939)……古参ボリシェヴィキ、札付きのスターリニスト。1904年からボリシェヴィキ。1908年に逮捕。内戦中はシベリアや極東で赤色テロルを組織。1923年からウクライナ共産党のキエフ委員会の組織部門で働く。1924年にキエフ委員会の書記。1925年にソ連共産党中央委員候補。1927年から同中央委員。1926年、ウクライナ共産党中央委員会書記、政治局員。1930年代、ウクライナ地方で大規模な弾圧・粛清を指導。1937年にウクライナ共産党の指導的地位から解任。1938年に党を除名され、同年2月に逮捕。1939年に銃殺。1956年に名誉回復。

(2)コトフ、ワシーリー・アファナシエヴィチ(1895-1937)……ロシアの革命家、1915年からのボリシェヴィキ、スターリニスト。1925〜28年にソ連共産党モスクワ委員会の書記。1925〜33年にソ連共産党中央委員。1936年に逮捕、1937年に銃殺。1962年に名誉回復。

(3)レーニン「党の危機」、邦訳『レーニン全集』第32巻、大月書店、31〜32頁 

 

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