われわれは経済的独立を

達成することができるか?

トロツキー/訳 西島栄

【解説】これは、トロツキーが、スターリン=ブハーリン派の孤立した社会主義建設路線を体系的に批判した覚書である。トロツキーは、社会主義建設が進めば進むほど、世界市場に対するソ連経済の依存も深まるという観点から、世界市場の動向をふまえた経済戦略がとられなければならないことを主張し、自給自足的な社会主義建設を反動的ユートピアとして退けた。

 トロツキー存命中は発表されることはなく、トロツキーの個人アルヒーフに入ったまま、ハーバード大学に保管されていた。ペレストロイカ後、1923〜27年のアルヒーフが編集されて4巻本の著作として出版されたとき、この覚書も収録された。

Л.Троцкий, Можем ли мы достигнуть хозяйственной независимости?, Архив Троцкого: Коммунистическая оппозиция в СССР: 1923-1927, Том.2, 《Терра-Терра》, 1990.


 まずはじめに、独立[非依存性]という言葉をどう理解するのか、すなわち、自足して存在する閉鎖的な経済と理解するのか、それとも屈服することのない強力な経済と理解するのか、このことを確定しておく必要がある。独立ないしは自立という言葉をどう理解するのか? もちろん、独立という言葉に対するこの二つの解釈のあいだには、ある種の内的なつながりがある。すべての基幹産業部門の発展なしには、電化なしには、経済的に強力になることはできない。だが、このことは、われわれが近い将来、外国市場を必要としないほど、そしてそれによってわれわれに対する外国市場の要求がなくなるほど、十分かつ均等に経済の全分野を発展させなければならないということを意味するのではけっしてない。もしわれわれがこの道に沿って進むならば、わが国の蓄積を、あまりに多くの数の新製品、新企業、工業の新分野のあいだに分配せざるをえなくなって、実際にはわが国の発展テンポを亀の歩みにまで低める結果となるだろう。この途上には、必然的に崩壊がわれわれを待っているであろう。われわれの経済政策の主要な基準は、テンポ、すなわち蓄積のスピード、物的財貨が増大する速度、でなくてはならない。

 だが、こうした発展が、究極的には、自らの手段によってすべての必要を完全に満たすという意味での経済的独立にわれわれを導くにちがいないという結論は、まったくどこからも出てこない。このような自足的な発展はどの資本主義国も経験したことがない。それは、社会主義のもとではずっと可能性の乏しいことであろう。なぜなら、社会主義は資本主義よりもはるかに地方的でない技術の上に基礎を置くからである。帝国主義的膨張は、生産力にとって個々の国家の枠組みが狭苦しくなってしまったことを意味しているが、このことは社会主義国家に対しはるかによくあてはまる。一国社会主義の理論が反動的なのは、まさにその理論が、資本主義によって――とりわけその帝国主義段階に――達成された水準より後方へわれわれを投げ戻すからである。国際主義の基礎にあるのは空虚な原理ではなく、新しい技術が民族国家の枠組みと一致しなくなったという事実である。このことから一方では帝国主義戦争が生じ、他方ではプロレタリア国際主義が生じるのである。

 工業と農業が均衡している例として時おりアメリカ合衆国が持ち出される。しかし、第一に、社会主義の課題は都市と農村の均衡にあるのではなく、両者の対立を取り除くことである。第二に、アメリカ合衆国はけっして閉鎖経済ではなく、現在ではどんな時よりも閉鎖性は少ない。アメリカ合衆国の工業化の基礎には莫大な農業輸出があった。現在、アメリカ合衆国の金融資本と工業とは、外国市場を必要としている。全世界をあれこれの程度、自らに依存させることによって、合衆国自身が世界経済への依存関係に入り込んでしまっているのである。アメリカ合衆国でプロレタリアートが権力を獲得したとしても、けっしてこの発展過程を逆戻りさせることは、すなわち、閉鎖性の方へと逆戻りさせることはできないであろう。

 わが国と世界市場とのつながりが最大の発展を遂げるという事実が、まるで私にとって、わが国の社会主義的発展の可能性を否定する論拠であるかのように議論を組み立てようとする試みが見られるが、それは、愚かしく不誠実であるだけでなく、荒唐無稽である。この問題について私は、およそ2年前に十分にきっぱりと『プラウダ』に書いておいた。これはその後、私の小冊子『社会主義へか資本主義へか』に印刷されたものである。ここで私はかなりの量の引用をせざるをえない。それはすぐさま、われわれを問題の核心へと連れていく。

「しかし、世界市場にわれわれが『根をはる』過程のうちに、別のより先鋭な危険性は含まれていないだろうか? 戦争ないし封鎖の際に、生存のための無数の糸が物理的に切断される恐れはないだろうか? 資本主義世界は容赦なくわれわれに敵対しているのだということをけっして忘れてはならない、云々、云々。この考えは多くの者の頭にしきりに浮かんでくる。生産担当者のあいだに『閉鎖』経済の無意識的ないし半意識的な同調者を少なからず見つけ出すことができる。そこで、これについても若干のことを言っておく必要がある。もちろん、借款にも利権にも輸出入への依存が増大することにも、それなりの危険性が存在する。このことから出てくる結論は、これらの動向のどれ一つに対しても手綱を離してはならないということである。しかし、この危険性に優るとも劣らない正反対の危険性も存在する。それは、わが国の経済発展が遅れる場合に、すなわちその成長テンポが、世界のすべての可能性を積極的に利用することによって達成されるよりも緩慢な場合に生じる危険性である。そして、われわれはテンポを自由に選択できるわけではない。なぜならば、われわれは世界市場の圧力のもとで生き成長しているからである。
 わが国が世界市場に『根をはる』場合の戦争や封鎖の危険性に関する論拠はあまりにも空虚で抽象的である。あらゆる形態での国際的な交易がわが国を経済的に強化するかぎり、それは戦争や封鎖の際にあってもわが国を鍛える。われわれの敵がこれからもわが国をこうした試練にさらそうとするということ、この点に関してはいかなる疑問もありえない。しかし、まず第一に、われわれの国際的な経済的結びつきが多様であればあるほど、われわれのありうる敵もそれらを切断することがますます困難になるだろう。そして第二に、それでもやはりこうした事態が生じた場合でも、わが国は、閉鎖的な、したがって緩慢な発展をしていた場合よりも比較にならないほど強力になっているであろう」。

 さらに次のように述べている。

「世界的分業を無視することはできない。われわれはただ、世界的分業の諸条件から生じる資源を巧みに利用することによってのみ、自国の発展を最大限に促進することができるのである」

 このパラグラフは、この問題に関して最近なされたいっさいの議論、とりわけ、私がわが国の依存性が増大することだけを述べてわが国の力の成長については無視しているといったブハーリンのでっちあげに対して、まったく的確に答えるものであろう。

 ちなみに、私に反対するブハーリンのほとんどすべての論争は、これと同じやり方にもとづいている。ブハーリンは私の考えを、内的なつながりをもった全体として取り上げるのではなく、文学的掠奪としか言いようのない方法に飛びつく。すなわち、プレオブラジェンスキーの一節ないしはその断片を取り出して適当に思いついたことをそれに書き加え、ブハーリン流に脚色されたその一節を根拠に「プレオブラジェンスキーは正真正銘のトロツキズムである」と断言し、さらに私の未校正の速記録から――私の演説のまったく議論の余地のない意味を無視しつつ――若干の文言を抜き出し、そしてその後でこれらのすべてから――せいぜいのところブハーリン自身の見解を裏返しにしたものにすぎず、けっして私のものではない――図式を組み立てるのである。

 もし、世界市場との結びつきの増大やそれへの依存関係が社会主義建設の絶望を意味するとすれば、超工業化主義という非難や、わが国の工業発展にとってあまりに速すぎるテンポといった非難はいったい何を意味するのであろうか? そもそもテンポについての論争、すなわち一方での「亀の」テンポと、他方での「超工業化主義的」テンポについての論争は何を意味するのか? この論争は社会主義建設は可能か不可能かといった論争ではなく、どの道を通じて社会主義建設の成功が約束されているかをめぐる論争である。世界市場へのわが国の依存を持ち出しそれを強調することが私にとって必要なのは、まず第一に、それが現実と一致しているからであり、第二に、この現実を明確に理解してはじめてテンポの問題を理解することができるからである。

「われわれはテンポを自由に選択できるわけではない。なぜなら、われわれは世界経済の圧力のもとで生き成長しているからである」(『社会主義へか資本主義へか』第2版、63頁)。

 私はおよそ2年ほど前に『プラウダ』にこのように書いた。閉鎖経済という馬鹿げた哲学に対する闘争が何ゆえ悲観主義であるというのか? 「亀の歩み」という眠気を起こすような反動的理論に対する闘争がどうして信念の欠如であるなどと言えるのか? 世界経済の資源を巧みに利用する場合のみわれわれは自国の発展を最大限に促進することができるだろうという主張が私の主要な考えであるとしたら、いったいこの考えのどこに資本主義経済への屈服があるというのか?

 実際のところ、わが国の発展が、輸出入の必要性から解放された、経済の諸分野の全面的な国内的均衡という意味で理解された独立をもたらすなどという主張は、いったいどこから生じるのか? このようなことはどこからも生じない。それどころか、それは根本的に、世界の経済的発展の、とりわけわが国自身の経済的発展の諸傾向のすべてに矛盾している。

 われわれがこのことを理解していたのは、それほど以前のことではない。このような見地にもとづいて、われわれは先の帝国主義戦争を評価したし、次の帝国主義戦争の不可避性を予言したのである。このような見地にもとづいて、われわれは、1923年にヨーロッパ合衆国のスローガンを経済発展の論理から出てくるものとして採用したのである。ヨーロッパ合衆国とソヴィエト連邦とは一つの経済的全体に融合するであろうとわれわれは考えてきたし、今でも考えている。最後にわれわれは、ソヴィト連邦がヨーロッパ社会主義連邦とアジア連邦とを結ぶ巨大なかけ橋であると考えてきた。解放されたインドと社会主義イギリスが閉鎖的でお互いに依存しない存在になるなどとは考えなかったし、考えていない。両者のあいだでの財貨の交換は経済的進歩にとっての不可欠の条件である。交換は、イギリス・ブルジョアジーが打倒された後でも維持され、大連邦という枠組みの中で行なわれるであろう。

 いわばわが国の北方のインドたるシベリアについてもまったく同じことが言える。シベリアの天然資源を開発すること――これは巨大な国際的事業となるだろう。ここでは、ドイツやイギリスの技術も、デンマークにおける農業上の経験も適用されるであろう。だが、問題は、もちろん、シベリアのことだけではない。クルスクの磁鉄鉱層、ウラルのカリウム層、そしてわが国にあるすべての巨大な天然資源は総じて、国際的蓄積や世界の技術の適用を必要としているのである。このことは電化事業にも大いにあてはまる。

 われわれがこのことを理解していたのはそれほど以前のことではない。いわばウラジーミル・イリイチの監督のもとに書かれた電化についてのスグヴォルツォフ=ステパーノフの本の中で、一般に社会主義建設の、特殊的にはわが国の電化計画の国際的性格がこの上なく明白に述べられている。これの第6章ではこう言われている。

「わずか数年前には問題はまさにこのように考えられていた。その間に、世界の技術ないしは世界の経済のうちに、われわれの基本的見解の根本的な再検討をせまるような、いったいどんな変化が生じたというのか? すなわち、われわれが4、5年前に小ブルジョア的と呼んだまさにあの理想[一国社会主義論]を拒否することを今では小ブルジョア懐疑主義と呼ぶことを可能にするような、いったいどんな変化が生じたというのか? 
 次のように言う人がいる。“しかし、この見込みは、ヨーロッパにおける急速な社会主義的発展という希望の上に立てられていた。もちろん、社会主義ヨーロッパに対しては、いかなる『独立』もわれわれに必要ではないだろう。それに対する関係は、最も効果的な(最良の成果をもたらす)分業にもとづく兄弟的協力によって決定されるだろう。だが資本主義ヨーロッパに対しては別である。それに対してはわれわれには独立が必要である”と。このような問題の立て方は、外見上は説得的であるように見えるが、実際には誤っている。今後何年にもわたる展望は、わが国と世界経済との結びつきが絶対的にも相対的にも絶えまなく増大するということをわれわれに語っている。すなわち、あらゆる経済的取引に関して、外国との商品取引が絶えまなく拡大するということを語っている。したがって、今後の時期は、世界経済に対するわが国の依存性が増大するとともに、世界経済におけるわが国の比重が増大する時期となるであろう。
 いったいこれがいつ閉鎖性へ転換するというのか? 世界市場に『根をはり』、その後で閉鎖経済の方に転換するのに、いったいどれぐらいの時間がわれわれに必要なのであろうか? それより早くヨーロッパは社会主義革命に転換できないのだろうか? そして、われわれが経済的にきわめて後進的である時に世界経済に根をはることがわれわれにとって何ら致命的な危険性ではないにもかかわらず、5年ないしは10年後、われわれがはるかに強力になっている時に世界経済からの独立をわれわれが必要とするというのは、いったいどうしてなのか? このような主張はいったいどこから出てくるのか? 
 実際には、こうした主張とは反対に、生産力のさらなる発展は、資本主義による包囲のもとでも、国際的交換に対するわが国の利害関係を年々拡大することであろう。この交換は外国貿易の独占によって厳格に規制される。ヨーロッパ社会主義連邦のもとでは、交換は計画的性格を帯びるだろう。この[現在と未来の]二つのシステムのあいだには、その間わが国の経済が自国の諸部門の閉鎖的な均衡にもとづいて存在せざるをえなくなるようないかなるブランクも存在しないであろう。それどころか、資本主義諸国に対して正しく規制された輸出入の成長は、将来ヨーロッパ・プロレタリアートが国家と生産を奪取した時の商品・生産物交換の諸要素を準備するのである」。

 このように、スグボルツォフ=ステパーノフはレーニンの指導のもとで、一国社会主義は小ブルジョア的理想であると書いたのである。正しい。小ブルジョアジーの理想の中には、いつでも反動的傾向が存在している。生産力を一国的枠組みの中に追いやることは、根本的に反動的な傾向である。帝政ロシアにおいてすら生産力はこの枠組みを乗り越えていた。ところが、社会主義はと言えば、ただ生産力のいっそうはるかに強力な発展にのみ立脚しうるのである。

 国営工業は経済の中で指導的原理の役割を果たさなければならない。しかし、今のところ、きわめて後進的なわが国工業にとって指導的役割を果たしているのは、世界の工業である。われわれは資本主義工業と比べて、2倍半から3倍高価な製品を生産している。われわれは資本主義工業の技術を採り入れることによって、資本主義工業に見習わなければならない。そしてその技術自身が同じ水準にとどまっているものではない。ここにこそ、テンポの問題の核心があるのだ。

 戦時共産主義の時代、われわれは世界の技術を手に入れようとはしなかった。そもそもまだ生産の問題をわれわれは提起していなかったからである。問題は農村で穀物を確保することであり、すべての備蓄をことどとく利用することであり、こうして自国を防衛することであった。俗物は侮蔑的にこのことを消費共産主義と呼んだ。しかし、消費共産主義なしには生きた労働力を救うことはできなかったし、次の段階への移行も保証することはできなかった。

 復興過程の最初の時期における課題は、既存の技術をめいいっぱい利用することであり、このことは、既存の技術がどの程度物的に老朽化したものであるか、もしくは構造上、どの程度時代遅れになっているかにはかかわりなかった。始動するようになったすべての機械は前進を意味した。

 すべての、ないしはほとんどすべての機械が始動するようになった後、減価償却の問題が生じた。老朽化した機械に代えて、生産の連続性を保証するために新しい機械を購入する必要があった。それだけでなく、時代遅れになった機械に代えて、新型の機械を購入する必要もあった。世界市場は、生産全体においても、個々の生産の各分野においても、後進的なわが国経済を日々コントロールしている。どのような手段によってか? 価格運動によってである。

 同志スターリンは、世界市場がわが国の経済をコントロールしているという私の考えを解釈して、何かドーズ体制のようなものを考えているとみなし、私が念頭に置いているのは利権等々の形での外国資本に対する何らかの特別の譲歩なのかと質問した。このような問題の立て方に対しては、ただ肩をすくめるしかない。問題はドーズ体制によってではなく、マルクスの価値法則によって解決される。世界市場はわれわれを試験するだろうとレーニンは言っている。レーニンが試験について語っているのとまったく同じ意味で、私はコントロールについて語っているのである。基本的に、この試験は、絶えまなくしかも自動的に行なわれている。資本主義技術の何らかの分野で新しい大きな前進があったにもかかわらず、われわれが引き続き旧い方法にとどまるとすれば、この事態は、価格の開きが新たに拡大することのうちに表現されるだろう。つまり、わが国の比重の低下のうちに、わが国の立場の弱体化のうちに、あらゆる種類の干渉に対してわれわれが脆弱になることのうちに表現されるだろう。要するに、われわれは世界の技術を見習わざるをえないのである。

 マルクスは、機械の物的磨耗による減価償却と、その社会的磨耗による減価償却とを区別している。技術の不断の発展のせいで、機械はそれが物的に磨耗するずっと以前に戦列から離脱する。言うまでもなく、先進的な企業と並んで後進的な企業も存在している。しかし、先進的企業の資本家は自分の機械の社会的磨耗を減価償却せざるをえない。これは技術の進歩に対する支払いである。この支払いは原価の低落を通じて余分に取り返される。社会的に磨耗した設備を時機を失せず更新することのできない資本家は、第一線から退いて第二、第三の戦列に退くことになり、状況によっては完全に押しつぶされることになる。同じことは、個々の国の工業の全部門にも、その国の工業の全体にもあてはまる。世界市場へのわが国の依存性は、われわれが単にわが国の発見や発明にならわざるをえないだけでなく、わが国の設備の物的かつ社会的磨耗を時機を失せずに減価償却することによって世界の技術の進歩にもならわざるをえないという点にも現われているのである。

 もちろん、このことは、この課題を即座に――1年ないし2年ないし3年で――解決しなければならないというふうに理解する必要はない。このような考え方は子供じみている。だが、わが国の発展のテンポについては、ますます増大する割合で先進資本主義諸国の生産水準に技術的に近づいていくのでなければならない。われわれと彼らとのあいだの距離が縮まるのかそれとも広がるのか、すなわち、わが国の比重が高まるのか低まるのかが、価格の相対運動を通じて最もはっきりと目に見える形で検証される。こうして、相対的な国際的コントロールの問題は、スターリンの言うような「国際的要因が紛れ込んだもの」なのではなく、世界市場――「われわれが従属し結びつけられ逃れられない」()世界市場の構成部分としてのわれわれの地位の本質そのものから生じてくる問題なのである。

 かくして、レーニンが社会主義建設について、この建設を国際革命から区別して、またある意味では全体に対する部分として国際革命に対置して語っている場合に彼が念頭に置いているのは、ずっと控え目で狭い、だが死活にかかわる課題なのである。その課題とは、国有企業にもとづいて経済過程を再建すること、また個別的には、そしてソ連邦にとってはとりわけ、都市と農村と経済的スムィチカを保証することである。このことは以前にはスターリンも認めていた。

 まさにこれによって、一国における社会主義建設の可能性を照明するためにレーニンのこの種の引用文や証拠を引き合いに出そうとする試みの、完全な破産が示される。しかし別の種類の引用文もある。すなわち、レーニンが、社会主義社会のみならず共産主義社会の建設についてすら疑問の余地なく明白に述べている引用文である。そしてその数は少なくない。しかし、いずれの引用文も、世界革命が、わが社会主義建設のごく近い将来の段階の一つにおいて、すでにその社会主義建設と交差しているという前提条件にもとづいており、また、われわれの今後の社会主義建設の仕事が、自国で社会主義建設に取り組み始めた他のより先進的な諸国との兄弟的な協力の中で行なわれるという前提条件にもとづいているのである。いずれの場合も、レーニンは、他の諸国でのプロレタリア革命の決定的な勝利なしでこの社会主義の事業が完成されるとは考えていなかった。彼が完全で最終的な勝利について語っている時には、干渉から守られているといったことを念頭に置いているのではなく、まさに、高度な技術に立脚した社会主義社会、すなわち無階級社会の建設を念頭に置いているのである。レーニンは、マルクス主義の伝統に完全に一致して、一国における社会主義は不可能であると常に考えてきたし、経済的な後進国ではなおさら不可能であると考えてきた。彼は社会主義の完全で最終的な勝利に次のものを対置している。(1)第一段階としての権力の獲得、(2)第二段階として、国営工業を先頭にした都市と農村との経済流通の再建、である。

 最終的な、ないしは完全な勝利という言葉を、干渉から守られているという意味で理解することは、まったくでたらめもいいところである。なぜなら、干渉はまさに第一段階において脅威となるのであって、もし事態が社会主義建設の完遂にまで至ったのなら、すでにそこでは干渉の危険性は過去のものとなっているからである。

 社会主義建設に対するレーニンのまさにこうしたアプローチの例をいくらでも挙げることができる。本質的に、レーニンの演説にはどれも、われわれの党綱領やコムソモールの綱領と同じく、わが党の中ではほんの最近までまったく争う余地のなかった種類の国際主義的見地が徹頭徹尾しみわたっている。わが国の勝利が国際的に制約されているという点について、レーニンは必ずしも常に、また個々のどの場合においても、但し書きをしたわけではなかったが、それは、彼がこのことを揺るぎなく確立されたものとみなしていたからにすぎず、当然のこととみなしていたからにすぎない。

 たとえば、縫製労働者組合の第4回大会(1921年2月6日)の演説の中で、レーニンはこう言っている。

「まさにそれゆえ、地主や資本家なしに新国家を建設している労働組合は……、たとえ少数派であっても、新しい共産主義社会を建設することができるし、建設するだろう。なぜなら、われわれには、自己労働で生活している幾千万の人々すべての支援が保証されているからである」(『レーニン著作集』第20巻、補巻2、459頁)()

 したがって、この引用文によれば、わが労働組合は、幾千万の貧農と一般に農民の勤労大衆の支援が約束されているがゆえに、新しい共産主義社会を建設することができるし建設することになる。もしこの引用文を単独で取り上げるならば、それは一国における社会主義の可能性を証し立てるものとして十分に役立つことであろう。いずれにせよ、この引用文は、こうした目的のために持ってこられる他のどんな引用文にもけっしてひけをとらない。それは、共産主義社会の勝利の条件として、労働者と幾千万の勤労者との緊密な結合を挙げている。しかし、他ならぬこの同じ演説の始めの方で、われわれは次のような文言を目にするのである。

「事の本質上、けっして一国の中では資本に最終的に勝利することはできない。資本の力は国際的であり、資本に最終的に勝利するためには、同じく国際的な規模での労働者の共同行動が必要である。そして、われわれは常に、1917年のロシアのブルジョア共和政府と闘争している時から、ソヴィエト権力を実現した時から、1917年の末から、われわれは常に繰り返し労働者に、われわれの勝利のための本質的で主要な課題と基本的な条件は、少なくともいくつかの最も先進的な諸国に革命を広げることであると指摘してきた」(同前、453454頁)()

 この言葉の直後に――この言葉だけでも問題にかたをつけているのだが――レーニンはこう言っている。

「そして、この4年間にわたってわれわれが直面している最も主要な困難は、西方のヨーロッパの資本家どもが戦争を終わらせることに成功し、革命を延期させたことである」(同前、454頁)()

 演説のこれより後の部分はすべて、資本主義はそれにもかかわらず死の病をわずらっており、世界革命は十分近い将来に訪れるであろうということを証明するのに費やされている。このことからようやく、次の結論を引き出しているのである。すなわち、労働組合は、それが幾千万の勤労者を指導することができるならば、共産主義社会を建設することができるし建設するだろう、と。

 レーニンのこのような思考の歩みは常に変わらない。彼は、あれこれの場合には、縫製労働者への演説の中で「われわれの勝利のための本質的で主要な課題と基本的な条件は、少なくともいくつかの最も先進的な諸国に革命を広げることである」と述べたような但し書きをしない場合もあるだろう。だが彼は、彼が本質的で主要で基本的であるとみなしているわれわれの勝利のこうした条件をけっして忘れたことはなかったし、ましてや否定したことはないのである。こうしたことを主張するのは奇妙にさえ思えるかもしれない。レーニンが1918年の始めに息つぎと呼んだ期間は、後になって、とりわけ1923年の秋以来、すなわち、ドイツ・プロレタリアートの最も手厳しい敗北以来――時間を月で測るならば――長期にわたるものとなった。息つぎに対するレーニン自身の態度は、事件の進行とともに変化し具体的なものになった。彼は数ヵ月について語るのではなく、世界的規模での勝利の条件としてのプロレタリアートと農民の正しい関係にもとづく10年や20年について語るようになった。発展のテンポが変化したことは、巨大な重要性をはらんだ事実である。わが国のすべての困難と内部論争は基本的にこのテンポの遅れから発している。しかし、発展のどんな緩慢なテンポも、わが国の社会主義建設の運命を世界革命の一般的な進行から切り離しはしない。われわれは以前と同様、自立した鎖ではなく、――レーニンの表現にしたがって言えば――環であり続けているのである。

 10月革命の3周年記念日にレーニンはこう言っている。

「われわれは、国際的見地からものを見ることを、社会主義革命のような事業は一国で成し遂げることはできないということを、常に強調してきた」(『著作集』第20巻、補巻2、430頁)()

 しかり、われわれはこのことを常に強調してきた。われわれは違ったようには考えなかった。現在でもわれわれは違ったように問題を立てはしない。「社会主義革命のような事業は一国で成し遂げることはできない」のである。

 そして現在、ブハーリンはいまだに、世界経済へのわが国経済の依存関係を純形式的にしか承認していない。彼は、孤立した発展という、『ボリシェヴィキ』誌の中で与えた空想的な図式に固執している。われわれに課せられる発展のテンポは国際的に制約されたものであるということを彼は理解していない。軍事干渉の他に、技術的優位性にもとづく安い価格というはるかに強力な干渉も存在しているということを理解していない。ゴスプランが、「十分な」国内テンポに立脚しつつ、自足的なスムィチカにもとづいた目標数値を立てる代わりに、外国貿易の数値を全システムの目標数値に上乗せせざるをえなくなったのは何ゆえなのかを理解していない。世界経済へのわが国の依存を示すこの真の内実を、ブハーリンはわがものとしてないし、熟慮していないし、理解していない。たしかに、ブハーリンに回答を迫るならば、彼は世界経済へのわが国の依存性を「承認」し始めるだろう。しかし、彼のすべての論拠、結論、展望は、閉鎖経済という図式の上に立てられているのである。

 しかしながら、われわれが依存関係を通じて独立に進むということを私が見ていないかのように言う主張に関してはどうであろうか? こうした作り話は以前からある。ブハーリンは事態をこのように、すなわち、依存性が増大するという私の展望は、すなわち絶望であり、すなわち懐疑主義であり、すなわち不信であり、それにふさわしいその他いっさいであるかのように描き出したがっている。こうした作り話は古くからある――だが、もうそろそろ投げ捨てる時だ!

 私は『社会主義へか資本主義へか』という著作の中で、こう説明しておいた。われわれが世界市場への依存関係を回復したこと、この依存関係は増大するであろうこと、われわれの側の正しい政策があれば、この道は、わが国が発展するための、わが国の経済的比重が増大するための、したがって、ありうる軍事的干渉に対しても、恒常的に存在する安価な商品の「干渉」に対してもわが国を防御するための、唯一の道であるということ、を。また私は、現在の状況の中では、国民経済の独立の問題を昔の中国がやったような方法[万里の長城を築くこと]ではけっして解決しえないといことを説明し、資本主義ドイツを例として挙げておいた。この数十年間、ドイツの経済は最も緊密にヨーロッパ経済や大洋の向こう側の国[アメリカ合衆国]の経済と結びつけられ、外国の売り手に対しても、外国の買い手に対しても、恒常的な依存状態にあった。ドイツが軍事的封鎖に見舞われた時、世界経済とのその死活にかかわるつながりのいっさいが一撃で切断された。ところがドイツはまれにみる生命力を発揮し、巨大な敵の群れに対して4年間も持ちこたえたのである。この歴史上の奇跡を何によって説明するべきであろうか? 

「ドイツは19世紀の終わりと今世紀のはじめに、強力な工業を発展させ、その工業にもとづいてドイツは、世界経済の最も能動的な勢力となった。その外国貿易の取引高と――アメリカ市場を含む――外国市場との結びつきは、短期間のうちに巨大な発展を遂げた。戦争は突如そのいっさいを断ち切った。その地理的な位置からして、ドイツは戦争の第1日目から、ほとんど完全な経済的閉鎖状態に置かれた。それにもかかわらず、全世界は、この高度に工業化された国の驚くべき生命力と持久力とを目撃したのである。市場をめぐるそれ以前の闘争の過程で、ドイツは生産機構のまれにみる柔軟性を発展させ、それをドイツは戦時中、制限された一国的基礎の上で徹底的に利用したのである」(『社会主義へか資本主義へか』6364頁)。

 われわれにとって、このことから出てくる結論は何であろうか? われわれにとって必要なのは世界経済からの「独立」ではなくて、高い労働生産性であるということ、それは急速な発展テンポのもとでのみ達成されるということ、そして、その発展テンポは、それはそれで、世界市場の資源の広範で巧みな利用を要求していること、である。言いかえれば、われわれの目標は、独立した亀の歩みではなく、実現可能な急速な発展テンポなのである。はたして、このような目標のうちに悲観主義的なものが何かあるだろうか? そして、まさにこうした見地から、私が国際的要因の捨象という徹頭徹尾反動的な思想に反対しているのだとすれば、国際的な結びつきと依存関係を通じてわが国がいっそう強力になるということを私が認めていないなどとどうして言えるのか?

 別の場所で、私は、わが国の経済生活の分野から借りてきた次の例を用いて、自分の考えを例証したことがある。わが国のおよそ1ダースのトラストは、すでに重要な外国企業と技術援助についての協定を結んでいる。この協定にもとづいて、わがトラストは、対応する外国企業の特許や設計図や指導書を受け取っている。このようにして達成される生産物の改善と廉価化の代償として、ソヴィエト企業は自己の資本主義的取引先にかなりの報酬を支払っている。しかしながら、その費用は、わが国の国営工業がそれから受けとっている利益に比べてればはるかに少ない。昨日まで機械製造トラストは独自にタービンを生産し、そのさい設計の費用としてタービンの原価に7%の額をかけていた。今日では、同じトラストは外国の設計図にもとづいてタービンを生産している。外国企業の代表者たちは、他社のモデルのタービンを製造させないために、そしてそれぞれのタービンにつき報酬を徴収するために、生産をコントロールする権利を持っている。これは、はっきりとした十分厳格な依存である。しかしその代わり、設計の費用は2.5%しかタービンに課せられていないし、そのうえ、タービンの質は改善された。粗悪で高価なタービンの独立生産と、より良質でより安価なタービンの依存生産のどちらが有利だろうか? 答えは、質問それ自体の中ですでに出ている。

 ここでトラストについて言われたことは、わが国の経済の全体についても言えるし、言わなければなければならない。わが国の労働生産性を向上させるような依存は――社会主義の原則にもとづいているかぎり――進歩的な依存である。わが国を亀の歩みに導くような独立は、しかも楽観主義を伴ったそれは、反動的な独立である。こうした独立の哲学は反動的哲学なのである。

1927年3月19日〜27日

『トロツキー・アルヒーフ』第2巻所収

『社会主義へか資本主義へか』(大村書店)付録より

 

  訳注

(1)邦訳『レーニン全集』第33巻、280頁。

(2)邦訳『レーニン全集』第32巻、120頁。

(3)同前、114頁。

(4)同前。

(5)邦訳『レーニン全集』第31巻、399頁。ただし、「社会主義革命のような事業は一国で成し遂げることはできないということを」という文言は、スターリンの指導下で編集された『レーニン全集』第4版では意図的に削除されており、したがって、それを底本にしている邦訳『レーニン全集』にも欠落している。 

 

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