クルプスカヤからトロツキーへの手紙

クルプスカヤ/訳 西島栄

【解題】この手紙は、トロツキーが5月17日にクルプスカヤに宛てた手紙に対する返答である。

 この手紙の中で、クルプスカヤは、すでに『プラウダ』編集部に宛てて反対派との決別を公表する内容の手紙を送ったことを伝えている。この手紙を読めばわかるように、クルプスカヤが反対派から離脱し、かつそのことをわざわざこの時期に公表する決意をしたのは、反対派の行動方法(分派主義)に対する異論があっただけではなく、そのスローガンや政策、理論についても異論があったからであった。とりわけ中国問題をめぐっては、反対派の立場に対してさまざま批判を加えている。

 Известия ЦК КПСС, No.2, 1989.


 親愛なレフ・ダヴィドヴィチ、あなたの手紙を受け取り、あなたのテーゼ()を読みました。昨日、ハリトノフ(2)、サファロフ(3)、グリゴリー(4)と衝突しました。今日、それでもやはり『プラウダ』に手紙を出しました。

 ご存知のように、私は去年の秋に反対派を離脱しました。私は当時このことについてグリゴリーに手紙を書き、こう言いました。このような活動方法を続けていれば別党へと直接突き進むことになるでしょうし、私はこの道はとらない、と。私は最初から分派を組織することに反対でした。

 「空騒ぎ」についてですが、私はそれがコシオール(5)の言葉であるとは知りませんでした。けれども、それをコシオールがつかったかどうかに関わりなく、その言葉を使う権利があると思います。速記録を印刷するべきか否かという問題や、魔法のごとくあっという間に価格を下げることができなかったからという理由で中央委員会を万死に値する罪で糾弾したり、失業や浮浪児などを中央委員会のせいにしたり、そうしたことについては「空騒ぎ」としか呼びようがありません。論争にはやはり良心が必要です。

 中国問題について語ることは空騒ぎだとは思ってはいません。しかし、ここでは、中央委員会に自分たちを対置するのではなく、「われわれ」と「彼ら」という言い方をするのではなく、単純に「われわれ」と語るべきなのです。なぜなら、中央委員会の決定はすでに全党員にとって義務的となっている決定だからです。現在、国内情勢も国際情勢も、行動の完全な統一を不可欠なものとしており、私たちのなかに分裂をもたらしている分派主義はこのような行動の統一を根底から掘りくずしています。これはまったく考えられないことです。党の誤りを正すために反対派によってとられている方法は間違っています。この方法は分派的なものです。私は今ではかつてなくこの方法に反対です。

 あなたはまだ、反対派が党の「左翼」だと言っています。「左翼小児病」の経験のあとで語るべきは、正しい路線についてであって、左翼主義についてではありません。

 中国に関するあなたの批判も、私の意見では度を越しています。中国の側から帝国主義に反撃を加えることは巨大な国際的意義を持っています。これは植民地のためのスローガンです。植民地の決起なしには、世界革命の勝利は不可能です。けれども、国内の階級闘争の基準が全面的に独立のための戦争にあてはまることはないでしょう。もちろん、独立のための戦争は現在、不可避的に内戦へと成長転化するでしょう。ここに独特の道があります。そして、紋切り型の図式を押しつけることは避けなければなりません。この紋切り型の図式にもとづいて事態を評価することになるからです。

 中国に関する私たちの路線は民族問題における路線と同じように決定されるべきであると私は思います。民族自決権の問題に関するレーニンの観点について、一部の同志たちは、階級的観点からの後退であるかのようにみなしています。

 私たちはしばしば、まったく別の条件下で形成された運動の形態を自分たちの革命の経験の枠組みにあてはめようとする道につい陥ってしまいます。どうして、中国の生活条件により合致した何らかの機関ではなく、ソヴィエトが組織的中心にならなければならないのでしょうか?

 同じく指導の役割を過大評価することもできません。労働者運動のある先鋭な発展段階においては、党の側からの指導の可能性はより弱くなります。はたしてわが党は1905年1月9日に労働者大衆を指導していたでしょうか。2月革命の時期にも、党の影響力は大きなものではありませんでした。問題は一つのスローガンにあるのではなく、それを実行する可能性にあります。

 現在においては、中国問題を理由にして分派的攻勢に出ることは、ソヴィエト権力とコミンテルンの権威を掘りくずすことです。そんなことをしてはなりません。

 私が自分の観点をちゃんと叙述することができたのかどうか、反対派からの離脱を語らなければならないと考えるにいたった動機を説明することができたのか、それはわかりませんが、以上が私の言いたいことです。

敬具

N・クルプスカヤ

1927年5月19日

『ソ連共産党中央委員会通報』1989年2月号

  訳注

(1)「83人の声明」あるいは「平和のための闘争と英露委員会」を指すものと思われる。

(2)ハリトノフ、M・M(1887-1948)……1905年からボリシェヴィキ。労働組合論争ではトロツキー派。1922〜1925年、ウラル・ビューロー、ペルミ県委員会、サラトフ県委員会の書記を歴任。

(3)サファロフ、G・I(1891-1942)……本名、ゲオルギー・イワノヴィチ・エゴーロフ。1908年以来のボリシェヴィキ。長年フランスに亡命し、10月革命後、コミンテルンで「東方」問題の責任者になる。1920〜21年には労働者反対派。1923年の左翼反対派の最初の闘争においては、ジノヴィエフ派の一員として『プラウダ』に反対派を誹謗する多くの論文を発表。1925年にレニングラード反対派。1926年、合同反対派に合流。1927年に除名された後、スターリンに屈服し、コミンテルンの仕事に復帰。1932年、スミルノフとともに反対派ブロックに。1934年に逮捕され、1935年に反対派か決別。1936年のモスクワ裁判ではジノヴィエフに不利な証言をする。

(4)ジノヴィエフのこと。

(5)コシオール、スタニスラフ・ヴィケンティエヴィチ(1889-1939)……古参ボリシェヴィキ、スターリニスト。1907年以来のボリシェヴィキ。内戦中はウクライナで活躍。1920年、ウクライナ共産党中央委員会書記。1924年からソ連共産党中央委員、1926年、中央委員会書記。1928年、ウクライナ共産党書記長。1930年、政治局員。1938年1月にソ連人民委員会副議長に任命されるも、同年5月に逮捕され、1939年に銃殺。1956年に名誉回復。

 

 

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