ベ・ニキーチンの質問への回答

トロツキー/訳 西島栄

【解題】本稿は、合同反対派の闘争が始まったばかりの時期に、自分自身と反対派の立場について啓蒙的に明らかにした一連の文書の一つである。エセントゥキの同志ニキーチンへの質問に答える中で、スターリニストによって流布された一連の誹謗中傷の一つ一つに回答している。本邦初訳。

 Л.Троцкий, ответы на вопросы б. Никитина, Архив Троцкого: Коммунистическая оппозиция в СССР: 1923-1927, Том.2, 《Терра-Терра》, 1990.


   同志ベ・ニキーチンへ(エセントゥキ)

   同志ブハーリンへコピー(情報提供として)

  親愛なる同志!

 あなたが出している諸問題に非常に手短に答えたいと思う。

 (1)「あなたが豊作を恐れているかのような主張がなされているが、それはどう説明されるべきなのか?」

 悪意を仮定しないとすれば、この主張は、わが国経済の二重性に対する無知、無理解によって、そして、経済問題に対する小ブルジョア的・クラーク的・非ボリシェヴィキなアプローチによって説明される。豊作は生産力を上昇させる。しかし、これだけではボリシェヴィキにとっては不十分である。ボリシェヴィキはこう問う――この豊作はいかなる社会形態で生産力を上昇させるのか、社会主義的形態でか、資本主義的形態でか、と。この二つの形態のうちどちらが優勢なのか? 工業が立ち遅れている場合には、豊作は社会主義的関係に対する資本主義的関係の優位性をもたらすだろう。このことを理解しない者はボリシェヴィズムからエスエル主義へと転げ落ちることになるだろう。

 (2)「工業の利益のために農民を搾り取ることを提案しているというのは本当なのか」

 現在の条件のもとで「搾り取る」というような途方もないまったく黒百人組的な表現がいったいどこから来たのか、私には理解できない。このような表現は、すべての国で黒百人組的連中が農民を社会主義者に、とりわけ共産主義者にけしかけるために用いているものである。「搾り取り」という言葉は、今回の場合は労働者国家が残虐に農民の階級的収奪を行なうということを意味する。このようなことがわが国で問題になりうるだろうか? 農民を搾り取っているのは商人であり、彼らは小売価格に途方もない上乗せをすることでそうやっている。それは工業の立ち遅れの結果である。農村の貧農は、部分的には中農や工業労働者も、穀物を隠匿しているクラークによって搾り取られている。クラークに対する課税は、工業のみならず農村大衆の利益にもなる。クラークに対する課税を農民の搾り取りと呼ぶ者は、農村の階層分化を犯罪的にも曖昧にし、エスエル主義に転落する者である。

 (3)「わが国が労働者国家であることを否定している、言いかえれば、わが国にプロレタリアート独裁が存在することを否定している、というのは本当なのか」

 このような主張を行なうことができるのは完全に無知な人間か、あるいは悪意ある中傷家である。わが国が労働者国家ではないとみなすことは、それをブルジョア国家とみなすことを意味する。その場合には、この国家に対する階級的反対者に移行しなければならないだろう。これはメンシェヴィズムの立場である。私の論文を一度でも読んだことがあるか、私の演説を一度でも聞いたことがある良心的な人間なら、私がわが国家のプロレタリア的性格を否定するなどとみなすことはないだろう。しかし、この国家は労働者国家一般ではなく、農民が人口の多数で、途方もなく官僚主義的に歪曲された機構をともない、世界資本主義の圧力を受けている、ある特定の労働者国家である。このことを十分説得的に指摘したのはレーニンである。わが国家の労働者的性格を否定する者はメンシェヴィズムに転落する者である。だが、労働者国家であることを認めるだけで満足している者は、国家のブルジョア的・官僚的変質に窓を全開に開け放つ者である。

 (4)「資本主義の安定化を政治においてのみ認めていて、経済において認めていないというのは本当なのか」

 いや本当ではない。これはきわめて大きなテーマである。ただ指摘しておきたいのは、コミンテルンの第3回大会で、絶え間なく続きますます強さを増していく資本主義的危機を待ち望むことはできない、一定の経済的安定化は不可避である、等々という問題を提起したのは私であったという事実である。以上のことは、私の著作『新段階』に収録されている当時私が起草したテーゼに読むことができる。同志ブハーリンは当時、この観点に反対して激しく闘った。今頃になって、現在の状況が1919年の状況と異なることを証明しようというのは、開いたドアを蹴破ろうとするようなものである。現在必要なのは、非常に狭いことがわかったこの安定化の具体的な限界を見定めることである。ヨーロッパで資本主義体制が維持されている主要な原因は、革命的な客観的情勢と共産党の力不足とのギャップにある。このことは以下の諸事件が物語っている。1918〜1919年におけるドイツ革命の過程、1920年におけるイタリアの9月事件、1923年におけるドイツ事件の歩み、今年の鉱山労働者ゼネストから始まったイギリスの事件の過程。このことを理解しない者は、プロレタリア革命の根本問題を理解しない者である。

 (5)「イギリス共産党が革命運動のブレーキになっているとみなしているというのは本当なのか」

 このような愚劣な主張に反駁する価値があるだろうか? これが恣意的に引用されたフレーズを明々白々に誤って解釈したものであることを私がわざわざ説明しなくても、ゼネスト当時、良心的な読者にとっては次のことは明白であったはずである。私がブレーキとして言っているのが、あらゆる色合いの労働組合と労働党の古い公式機構のことであり、トーマスとマクドナルドから始まってパーセルとクックにいたる連中のことである、と。今のところ共産党はまだ、この強力な保守的機構に対するあまりにも不十分な対抗勢力でしかない。それに加えて、共産党自身、ブレーキとなっている諸機関に対する批判がきっぱりとしていない。以上が私の言いたかったことである。

 (6)「イギリスの労働組合を新しい組織形態で置きかえることを望んでいるというのは本当なのか」

 このような非難を口からのでまかせというのである。この問題に関してレーニンが書いたり言ったりしてきたことに完全に一致して、私は次のようにみなしている。イギリスにおける革命運動の発展は――労働組合にもとづいて、それと密接に結びついて、しかしその保守的上層と対立する中で――不可避的に、何らかの工場自治組織(工場委員会)や行動委員会などのような新しい組織を形成することになるだろう。大衆のますます増大する革命的圧力が組合規約の狭い枠組みの中で組合指導部を変更するだろうと考えるのは、労働組合クレティン病に陥ることを意味する。これは、大衆的労働組合組織の巨大な役割に関するマルクス主義的理解と何の共通性もない。しかし、このテーマはあまりにも広大なものなので、ここで詳しく述べることはできない。

 他のより小さな諸問題については答えないでおこう。なぜなら、卸売りの中傷に反駁したのだから、小売りの中傷に反駁する必要はないからである!

   共産主義的挨拶をもって

エリ・トロツキー

キスロボスク、1926年9月5日

『トロツキー・アルヒーフ』第2巻所収

新規、本邦初訳 

 

トロツキー研究所

トップページ

1920年代後期