党の統一について

トロツキー/訳 湯川順夫・西島栄

【解題】本稿は、「党の統一」という美名のもとにまともな討論が禁止され、上からの統制が強められ、分派的官僚体制がいっそう強化されている実態を暴露したものである。トロツキーは言う――「党統一のスローガンはますます、支配分派の手中で、党の圧倒的多数に対する思想的テロ(威嚇や脅迫)の道具になりつつある」。

 しかし、同時にトロツキーはこの論考の中で、「正常な党体制」のもとでは「すでになされた決定に対する批判は犯罪的である」という命題も「正しいかもしれない」と示唆している。だが、「正常な党体制」が「不正常」になっても党内民主主義が守られるような体制を「正常な」時から確立していないかぎり、結局、党内民主主義は守られないのである。「民主主義」とは本来、統治権力(政府)が暴走する可能性を常に考慮においた上で、既存の「正常な」体制に構造的に組み込まれている、かかる暴走に対する制約・チェック・防止のための装置である。スターリニスト体制は、いわゆる「正常な党体制」のときから存在した、そうした「制約・チェック・防止」の装置の圧倒的な不十分さ、あるいは欠如を最大限利用して成立したのである。このことの洞察が明らかに不十分である。この時点でのトロツキーの党内民主主義論は、統治権力を持つ集団のいわば「革命的善意」に依拠したものであったと言っても過言ではない。だがこれは、一人トロツキーの個人的欠陥ではなく、レーニン主義的党組織論の構造的欠陥と言ってもよいだろう。

 今回アップするにあたって、訳文を一部修正するとともに、訳注を少し増やした。

 Л.Троцкий, ОБ ЕДИНСТВЕ ПАРТИИ, Архив Троцкого: Коммунистическая оппозиция в СССР: 1923-1927, Том.2, 《Терра-Терра》, 1990.


 「党の統一」、これが論争の主題である。それが支配分派の主要な、そして基本的には唯一のスローガンである。反対派は、党の統一を破壊している、あるいは破壊する恐れがあるとして非難されている。これが反対派に対する主要な告発である。革命的独裁の条件のもとでの党の統一の重要性は、どの党員にも、そして多少なりとも先進的な非党員労働者にも理解されている。ここから党の統一問題の巨大な意義が生じており、したがって、この問題に誤ったアプローチをした場合に同じぐらい巨大な危険性もまた生じるのである。

 声に出してはっきりと言わなければならない。党統一のスローガンはますます、支配分派の手中で、党の圧倒的多数に対する思想的テロ(威嚇や脅迫)の道具になりつつある、と。

 党は何よりも行動の組織である。党員の全部隊はいつでも中央委員会の指導下で闘争に動員されうるものでなければならない。そのような党の戦闘能力は党内の思想的統一なしには考えられない。だが、そのような統一が、上から降りてくるシパルガルカ〔公式の方針解説書や指令書のこと〕だけでつくり出されると考えるのは、最も愚劣な誤りである。思想的統一は、集団的経験の不断の更新と蓄積を通じて、党の綱領、規約、伝統、過去の経験にもとづく集団的な思考活動を通じて、全体としての党によって形成されるのである。この過程は、意見の相違や批判やさまざまな意見衝突なしには考えられない。党の革命的な戦闘能力が強力な中央集権制を必要とするように、100万近い党員を擁する党内で思想的統一を維持し、発展させ、強化するには同じく強力な党内民主主義を必要とする。中央集権制がなければ、党内民主主義はメンシェヴィズムへの組織的道である。だが民主主義がなければ、中央集権制は党の官僚的堕落への機構的道である。

 支配分派の組織政策には、他のすべての政策分野で見られるのと同種の「鋏状格差」が存在する。言葉では党内民主主義が承認されているが、行動では、上層の閉鎖的な支配分派の限界を越えるあらゆる思考や批判の現われに対する抑圧がたえず強化されていっている。ここにこそ党の統一を脅かす主要な危険性が存在する。

 指導分派の上層は、党と国家の全機構をフルに使って、自分たちの分派的立場とその分派的誤りを防衛している。すべての権力を中央委員会に集中することは絶対に必要であるが、秘密の閉鎖的な分派にすべての権力を集中することは、途方もなく危険である。中央委員会も、たとえそれが最良の中央委員会であっても、間違いを犯すことがある。だが、党は集団的な存在として活動しており、自らの経験にもとづいて中央委員会を正すことができる。だが、党と国家のすべての資源が、党の規律に優先する内的な分派的規律によって結びついた閉鎖的な分派とその上層部(「7人組」や「9人組」なるもの)の手に集中されるとき、事態は根本的に変わる。党の公式機関や協議会やさらには大会でさえ、すでに下された決定や既成事実に事後的に同意を与える以外に選択の余地のない状況に置かれている。第14回党大会の期間中、党の指導機関の構成とその政策方向を急転換する例外的重要性をもった諸決定が、青天の霹靂のように党の頭上に降ってきた。今年7月の中央委員会総会は、最後の最後になって、党の背後でなされた党指導部の新たな根本的変更に直面させられた(同志ジノヴィエフに代わって同志ルズターク()が政治局員になり、同志カーメネフが8番目の政治局員候補へと格下げされ、実際には支配分派の中心メンバーである新しい政治局員候補が加えられた)。大会代議員や平の中央委員や中央統制委員でさえ、上層支配分派のこうした行動のたびごとに不意を打たれ、すでになされた決定に沈黙のまま同意するか、「反対派」に移るしかない立場に立たされる。しかし、いかなる反対派も、あるいは単なる批判でさえも党の統一にとって脅威であると宣言され、最も苛烈な機構的方法によって処罰されるので、大会代議員や中央委員や中央統制委員の大多数には、上層支配分派による措置に沈黙のまま同意する以外の選択肢が残されていない。

 すでになされた決定に対する批判は犯罪的であると説明されている。正常な党体制のもとでは、そのような見方も正しいかもしれない。決定の準備とそれに関する討論の時期に批判する方がはるかに適当であろう。しかし、現在の体制の核心は、あらかじめ準備されている決定を党の頭上に落とすことにある。この決定は、党から秘密にされた支配分派の会合で事前に討論され採択されており、あらかじめ勢力配分が計算されており、形式的な多数派は前もって確保されている。こうして、決定が下される以前には、党は、その決定がいかに重要であろうとも、それについて何も知らないのである。そして、決定が党の頭上にまったく不意に降ってきた後には、もはやそれについて討論することは禁じられており、それに反すると規律違反で告発される。根本的に有害で徹頭徹尾反党的なこのような方法を通じてのみ、一つの分派集団による全面的な支配体制が維持されているのである。ただちに「反対派」であるとは宣言されなかったような批判の例が党内で一つでもあれば、それを指摘してみたまえ。ただちに「分派」だと上から宣言されないような反対派の例が一つでもあれば、それを指摘してみたまえ。誰もそのような例を指摘できないだろう。このことだけでも現在の党体制を十分に特徴づけている。

 階級的路線からの政治的退化は不可避的に、党に対する官僚的・機構的圧力の道へと駆り立てている。このような路線は不可避的に上部において閉鎖的な分派集団の形成をもたらし、彼らが全機構の人選を厳格に分派的利益に沿って行なうという事態をもたらしている。党から秘密にされている一分派への権力の集中はまた、不可避的に一個人の支配へと向かう傾向を発展させる。集団的指導は党内民主主義の体制と不可分に結びついている。党に自らの意志を押しつけている官僚化された機構は、不可避的に上部での単一の意志を求める。こうした条件のもとでは、党の思考のいかなる自立的な現われも、不可避的に先鋭な反対派的性格を帯びる。支配分派は、党の統一のスローガンを悪用して、いかなる批判をも、いかなる反対派をも抑圧する。事態の本質は、分派的上層部が党の統一という外観のもと、分派的手段によって党に対する指導の独占権を防衛している点にあるのである。

 しかし、すべての問題は、支配分派が「党の統一」を頑強に擁護すればするほど、ますますこの統一を脅かしていることである。論争は歪曲され一面的なものにされたうえで、ますます頻繁に、ますます先鋭なものになり、その組織的措置はますます過酷で病的なものなっている。党指導部における個人支配に向かう傾向はますます露骨であからさまものになっている。以上の結果として、党は現在、かなり鮮明に区分される次の3つの部分に人為的に引き裂かれている。(1)支配分派。これは上から選抜された機構の背骨をなしている。(2)反対派分子。これは党路線の矯正と党体制の健全化のために闘っている。(3)広範な中間的党員大衆。彼らは細分化され、混乱させられ、それゆえ党の運命に能動的に影響力を行使する可能性を奪われている。党のこの根本的に不健全な状況が、あらゆる種類の危機の、とりわけ、分裂の危機の明白かつ真の源泉なのである。

 いかなる体制であろうと、それが本来の目的を達成するかぎりでは、甘んじて受け入れることができるかもしれない。だが、現在の体制は、党を統一へと近づけるどころか、いっそう遠ざけつつある。レーニンが活動から退いて以来、1923年の論争、1924年の論争、1925年の(レニングラード反対派との)論争、(1926年春の)「トロツキズム」に反対する新しい機構的論争、ラシェヴィチ「事件」(1926年6月〜7月)と形式的に結びつけてのレニングラード反対派に対する新たな先鋭な論争、そして現在展開されている「トロツキズム」全般に対する論争、特殊には「トロツキズム」と非難されているレニングラード反対派に対する論争、が存在した。現在の論争の性格と方法は万人の知るところであり、説明を要しない。つい最近まで事情に通じていた人々のあいだでだけ知られていたことが、全党にとってますます明白なものになりつつある。すなわち、これらすべての論争と組織的措置の目的が、最近まで古参レーニン親衛隊と呼ばれていた中核部分を完全に粉砕し、それを、スターリンに常に同意する同志集団に依拠したスターリンの個人指導に置きかえることだ、ということである。

 スターリン式の「党統一」のための闘争が、旧指導集団と今日の全反対派を粉砕してでも本当に統一を達成することができると真面目に考えることができるのは、愚か者か救いがたい官僚だけである。以上述べたことからまったく明らかなのは、スターリンが目的に近づいているように見えれば見えるほど、実際にはますますそれから遠ざかっていることである。党運営における個人支配をスターリンとその側近グループは「党の統一」と呼んでいるが、それは現在の合同反対派の粉砕と更迭と追放を必要とするばかりでなく、現在の支配分派内におけるより権威と影響力のある人々を徐々に指導部から更迭していくことをも必要とする。トムスキーもルイコフもブハーリンも――その過去や権威のゆえに――、スターリンのもとでウグラーノフ(2)やカガノヴィチ(3)やペトロフスキー(4)などが果たしている役割を果たすことができないのはまったく明白である。現在の反対派が追放された後には、中央委員会内の古参集団の残党が不可避的に反対派に転じるだろう。新しい論争が日程にのぼるだろう。この論争では、カガノヴィチがルイコフを、ウグラーノフがトムスキーを暴露し、スレプコフ(5)やステン(6)やその同類たちがブハーリンを暴露するだろう。救いがたい愚か者だけがこうした展望の不可避性を見ることができない。だが、それまでに、党内のよりあからさまな日和見主義分子が、スターリンを、「左派的」偏見にあまりにも感染しすぎ、より急速であからさまな堕落を妨げる者だとして非難し、彼に対する闘争を開始するかもしれない。

※   ※   ※

 レーニンは、プロレタリアートと農民との階級間の分裂が不可避であることが明らかになったときにはじめて、党の分裂が不可避的なものとなるだろうと書いた。その時が来たと言えるだろうか? けっしてそんなことはない。経済政策やソヴィエト政策などでの誤った路線にもかかわらず、党は、これらの誤りを修正し、経済路線を正し、そうすることでより高度な経済的・政治的基盤の上に「スムイチカ」を新たに強化する完全な能力をいぜんとして保持している。

 党体制と党指導の問題は、はるかに先鋭なものになっている。党は革命の基本的道具である。この道具が鈍磨すれば、それは革命のいっさいの任務とその全運命に致命的な影響を及ぼすだろう。経済的誤謬の修正と党路線の矯正を実現するためには、党はこのことを望むだけでなく、その意志を実行に移すことができなければならない。まさにそれゆえ、党体制の変更が問題の核心なのである。

 だが、党体制を変更するための闘争そのものに、分裂をもたらす危険性はないのだろうか? この危険性を否定するのは偽善的であろう。しかしながら、この危険の源泉は、病気を治すための取り組みにではなく、病気そのものに、すなわち何よりもスターリン・グループの政策にこそある。手遅れにならないうちにこの病気を治療するのを拒否することは、この病気がいっそう深く、妨げられることなく進行することを意味するだけであり、やがては手遅れの状態に党を追いやるだろう。

 もっと簡単に言うと、激動なしに、ましてや破局なしに、党体制の変更を達成することができるのか、ということである。われわれはそれが可能であることを疑っていない。いずれにせよ、われわれは全面的にその方向に向けて努力している。党の官僚化は相当深く進行しているが、けっして党の意志を、とりわけプロレタリア前衛の意志を麻痺させるほどには進行していない。実践的課題は、党員が――党の規約の枠内で、党統一の精神にのっとって――自らの権利を行使して自分の意志を表明することができるようにすることである。だが、このことは次に、支配分派内の分派であるスターリン分派が、これ以上一方的な論争によって党を掻き回したり、組織的措置によって党を解体したり、党内における破滅的な個人支配体制への道を掃き清めたりするのを、何としてでも阻止しなければならないということを意味する。

 もし中央委員会と中央統制委員会がこの破壊活動に終止符を打ち、秘密分派による党運営を清算し、集団的指導を復活させることができるならば、反対派はこのイニシアチブを全面的に支持するだろうし、全党はそうした勇気ある措置を熱狂的に歓迎するだろう。しかしながら、4月総会ととりわけ7月総会の経験の後では、中央委員会ないし中央統制委員会による統一のイニシアチブの望みはほとんど残されていない。4月の時も7月の時も、反対派は誠実に党の最高機関に自らの提案を提出した。これらの提案の最も重要な部分は検討されることなく退けられ、議事録から削除されさえした。反対派は沈黙することを余儀なくされたが、多数派の代議員たちは、反対派の沈黙にもかかわらず、反対派に対する悪意に満ちた中傷を行ない、反対派の見解と提案を途方もなく歪曲して党に提示した。このますます一方的になりつつある論争は、さらにずっと病的な組織的措置を党に納得させるためにだけなされてきたし、今もなされているのである。威嚇、脅迫、中傷、除名という方法が現在ほど全面的に用いられたことはなかった。最高国民経済会議(ヴェセンハ)、貿易人民委員部、外交官といった最重要責任者の任免は、経済と政治における最も死活に関わる利益を犠牲にして、もっぱら分派的な人選の観点からなされている。スターリン・グループは、できるだけ短期間で組織的な決着をつけたいと思っている。彼らは、来たる10月総会と第15回党協議会をこの課題に従属させようとしている。そして、またしても党を修正不可能な既成事実の前に立たせることによって、第15回党大会がスターリン・グループによってなされた分裂行為を追認する以外に選択の余地がない状態に持っていこうとしている。

 党は、以上の計画の実現をはばむ完全な可能性を有している。そのために必要なのは、すべての党員が党員としての権利を行使することだけである。必要なのは、上から行使される途方もない圧力に抗して、すべての党細胞で、何人かの党員が、あるいはたった1人の党員でさえ、決定的瞬間にこう言うことである――「中央委員会と中央統制委員会が新たな試練から党を守ることができないのであれば、せめて党が完全な情報を受け取るのを妨げてはならないし、これまで党の支配的機関の枠内に閉じ込められてきた意見の相違について党が自由に議論することを妨げてはならない。党の路線と指導の基本的諸問題を党の背後で決定して来るべき第15回党大会に既成事実を突きつけようとするいかなる試みも、われわれは反党的で犯罪的な行為であると前もって宣言する!」。

 これが、党統一のための闘争の真の道である。

エリ・トロツキー

1926年9月

『トロツキー・アルヒーフ』第2巻所収

『トロツキー研究』第42・43合併号より

 訳注

(1)ルズターク、ヤン・エルネストヴィチ(1887-1938)……ラトヴィア出身の古参ボリシェヴィキでスターリニスト。1906年にボリシェヴィキに。1909年に逮捕され15年の懲役刑を宣告される。2月革命後に釈放され、10月革命に参加。1920年から中央委員、1923年から書記局員。労働組合運動および各種の経済機関で活動。1924〜30年、運輸人民委員。1926年7月にジノヴィエフに代わって政治局員に。1937年にトハチェフスキー事件に連座して逮捕、1938年に銃殺。

(2)ウグラーノフ、ニコライ・アレクサンドロヴィチ(1886-1937)……古参ボリシェヴィキ。1905年革命に参加し、1907年にロシア社会民主労働党に入党、ボリシェヴィキ。1921年にペテルブルク県委員会書記。すぐにジノヴィエフと衝突し、ウグラーノフは1922年にニジニノヴィゴロト県委員会書記に配転。1921〜22年、党中央委員候補。1923〜30年、党中央委員。1924年にモスクワ県委員会書記に着任して、反対派狩りに辣腕を振るう。その後も反トロツキスト運動の先頭に立ち、出世。1924年8月に中央委員会組織局員および書記局員に。1926年に政治局員候補。1928年にブハーリンの右翼反対派を支持。1930年に、右翼反対派として、中央委員会から追放され降伏。1932年にリューチン事件に連座させられ、逮捕、除名され、もう一度降伏。1936年に再び逮捕され、1937年に銃殺。1989年に名誉回復。

(3)カガノヴィチ、ラザーリ(1893-1991)……古参ボリシェヴィキ、スターリニスト。1911年にボリシェヴィキに入党。1924年、中央委員。1930〜52年、政治局員。スターリンの旧友で、政府と党のなかのさまざまなポストを歴任し、粛清の立役者の一人。1950年代にフルシチョフがソ連邦の指導権を握ったときに「反党」分子として、1956年にいっさいの役職から解任された。

(4)ペトロフスキー、グリゴリー・イワノヴィチ(1878-1958)……古参ボリシェヴィキ。1897年から「労働者階級解放同盟」に参加。1912年に第4国会議員に選出され、ボリシェヴィキ議員団の一員。同年、中央委員会に補充。1918年、ソヴィエト側の講和代表団の1人。1919〜1938年、全ウクライナ中央執行委員会議長。1921年から党中央委員、1922年から、中央統制委員。1926年に政治局員候補。

(5)スレプコフ、アレクサンドル・ニコラエヴィチ(1891-1937)……ブハーリニストの代表的な若手理論家。1917年にコムソモールの指導者。ラトビアで地下活動をしていて逮捕され、1918年に釈放。ブハーリンに取り立てられ、『コムソモールスカヤ・プラウダ』の初代編集長。1925年、ブハーリンの下で『プラウダ』の編集に従事。1920年代半ばには反トロツキズム運動に従事。1920年代終わり、ブハーリニストとして弾圧され、1930年に除名。1933年にリューチン事件に連座して逮捕。1937年に銃殺。1959年に名誉回復。

(6)ステン、ヤン・エルネストヴィチ(1899-1937)……哲学者、マルクス主義理論家。1917年にボリシェヴィキ入党。1921年に赤色教授学院を卒業。マルクス・エンゲルス研究所の副代表。1932年に除名。1935年に逮捕され、1937年に獄中で処刑。 

 

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