党の危機と党指導部
――中央委員会への書簡
トロツキー、ジノヴィエフ/訳 西島栄
【解題】この手紙は、7月総会の結果を受けて、中央委員会に宛ててスターリン分派の組織計画の本質を明らかにするためにトロツキーとジノヴィエフの連名で出されたものである。この書簡は基本的に、13人の声明を補う性格を持っている。本邦初訳。
Л.Троцкий, Г. Зиновьев, ОБРАЩЕНИЕ В ЦК, Архив Троцкого: Коммунистическая оппозиция в СССР: 1923-1927, Том.2, 《Терра-Терра》, 1990.
親愛なる同志諸君!
党の現在の指導体制によって引き起こされた党の危機は明らかに膿んできており、何らかの方向で解決されなければならない。このことはすべての者に感じられている。問題はただ、危機を解決するためにはどのような道を選択するべきかにある。近い将来に採択されるに違いない決定を前にして、われわれはこの書簡においてできるだけ明快な形で問題を立てたいと思う。
危機の本質はどこにあるか?
一連の文書の中で、そして何よりも[13人の]声明の中で、われわれは、中央委員会の指導的多数派の政策からわれわれを引き離している深刻な原理的意見の相違について列挙した。これらの意見の相違がいかに深刻なものであろうと、それ自体は、党が現在おちいっている例外的に先鋭な危機の直接的な原因ではない。われわれが階級的路線からの退行とみなしている傾向は、激動を引き起こしたり党の統一を危険にさらすことなく修正し取り除くことができる。そのために必要な条件は一つだけである――正常な党体制が存在すること、これである。しかし、主要な危険はまさに、現在の党体制のせいで、わが党内で党員が本音を語ったり、自分の意見を表明したり、党路線を正したり、党指導部の構成を変えたりする可能性が完全に排除されていることである。
レーニンは、党にあてた遺書の中で――残念ながらしかるべき注意がまったく向けられていないが――、党を脅かしている危険性(近い将来のものも遠い将来のものも)をきわめて鮮やかに描き出している。プロレタリアートと農民との分裂は不可避的に党の分裂をもたらすだろう。しかし、こうした展望は非常に遠く可能性の薄いものである。はるかに先鋭な分裂の危険性は、レーニンの意見によれば、機構の権力が[特定の個人に]途方もなく集中しそれが濫用されることから生じる。まさにこの第2の危険性がきわめて先鋭な形で党に押し寄せている。階級間の相互関係の問題をめぐる意見の相違は非常に深刻である。しかし、このことから党の統一が破壊されるような事態が生じるのは、プロレタリアートが社会主義建設の事業において農民を指導する可能性が失われる場合のみであろう。この危険性は非現実的である。いずれにせよ、それは党を直接脅かしてはいない。しかし党体制に関しては事情はまったく別である。それは、党が自分自身の指導部に必要な働きかけをする可能性を完全に閉ざしている。党は、自己の機構に対して、どんな影響力を及ぼす可能性も奪われている。党機構を通じてしだいに書記長の周囲に寄り集まってできた分派は、その手中にすべての権力を集中した。無数の説明キャンペーンがなされているが、それが意味しているのは、機構が党の背後で、党の同意なしに党の知らぬまに決定したことを党に説明することだけなのである。
第14回党大会において、きわめて重要な諸問題に関する決定がなされ、党指導部の構成に重大な変更がなされた。ところが、第14回党大会まで、レニングラードを除いて、党はこれらの諸問題に関する討議をしておらず、大会のときに始めて知ったのである。この大会の場では、党指導部によって提案された諸議案がそのまま決定として採択された。7月になると、党指導部のさらなる変更がなされた(ジノヴィエフが政治局から更迭されて、スターリン分派の中央を構成する一連の同志たちが候補に昇格した)。党は7月総会の当日までこのことについてまったく知らなかった。この提案そのものが、中央統制委員会幹部会の名前で最後の瞬間になってから出されたものである。しかも幹部会が総会の数日前に採択した決定では、政治局の構成については一言も触れられていなかったのである。党は、7月総会の決定の説明という形でのみこの新しい指導部を受け入れるしかなかった。
4月総会以前にすでに知られていたように、スターリン分派の上層は、政治局からジノヴィエフ、カーメネフ、トロツキーを取り除き、トムスキー、ルイコフ、ブハーリンに対するスターリンの絶対的優位性を確保することを決定していた。多数派に属する一部の政治局員が、この計画について憤慨気味に語ったぐらいである。いわゆるラシェヴィチ「事件」(1)は当時はまだ問題になっていなかった。この計画は、スターリン・グループの組織政策から生じている。ラシェヴィチ「事件」は、計画の段階的実現に向けた口実にすぎなかった。われわれは声明の中で当時すでに、あれこれの口実のもとに党指導部のさらなる改編が近いうちに起こるだろうと指摘した。同志ジノヴィエフを政治局から排除しつつ同志トロツキーを政治局に残し、同志カーメネフを8人の政治局員候補に格下げしたことは、独自の目的を持っていた。すなわち、党をあまり警戒させることなく、いくつかの手段を通して、二つの大会のあいだにしだいに党指導部を全面改編し、その後、第15回大会を既成事実の前に立たせて、党の合意なしに、それどころか党の知らぬ間になされたことを単なる「説明として」受け入れざるをえなくさせることである。党指導部を変更するために持ち出されるあれこれの口実は、事の本質上、2次的な意義しか持っていない。計画そのものが考え出されたら、今度はあれこれの口実が見つかってから実行に移されるのである。まさにこの計画についてレーニンは、スターリンの側からの権力の濫用の危険性について遺書の中で語ることによって党に警告を発していたのである。
4月総会以前にすでに、われわれは党指導部に関するスターリン・グループの組織計画について警告を発していたが、今日再び、われわれは次のことを言っておかなければならないと考えるものである。すなわち、現在問題になっているのは、単に特定の反対派を粉砕することでも、党の指導機関から取り除くことでもなく、スターリンに対するどんな反対も不可能にするような指導部をつくることなのである、と。しかし、まさにこのことから、党指導部をさらにいっそう破壊する不可避性が出てくる。現在もくろまれている組織的再編計画が意味しているのは、過去に党指導部を関係を持っておらず、レーニン時代にそれがどのように構成されていたかを知らないような党員、そして主としてスターリン分派の上層で教育を受けて、同分派によって指導的ポストに取り立てられた党員、そういった党員だけで中央委員会を構成することにあるのである。
L・トロツキー、G・ジノヴィエフ
1926年8月
『トロツキー・アルヒーフ』第2巻所収
新規、本邦初訳
訳注
(1)ラシェヴィチの「事件」……1926年6月にラシェヴィチとベレニキーがモスクワ郊外の森の中で反対派の集会を組織し、その中で副軍事人民委員で中央委員候補のラシェビチは演説を行なった。この事件は党指導部の知るところとなり、6月20日に中央統制委員会幹部会は両名を激しく糾弾するとともに、ラシェヴィチを軍事人民委員部のポストと中央委員会からの更迭を求めた。7月総会において、この事件にコミンテルン議長のジノヴィエフも連座させられ(ベレニキーがコミンテルン執行委員会で活動していたため)、ジノヴィエフは政治局から放逐され、ラシェヴィチは副軍事人民委員のポストから更迭された。
トロツキー研究所 | トップページ | 1920年代後期 |