党内官僚主義と党内民主主義
――政治局へ
トロツキー/訳 西島栄
【解題】本稿は、モスクワ党組織の書記ウグラーノフ(右の写真)の党内民主主義に関する発言を取り上げ、そこに党主流派の機構的発想が典型的に示されていることを明らかにした、政治局宛ての内部文書である。
ウグラーノフは、1930年代には反スターリン闘争を展開するようになるが、この時点では、モスクワ党の最高責任者として、当時のスターリン=ブハーリン派の中で最も熱心に反対派狩りを指導し、実行していた。ウグラーノフは、党内民主主義の核心を党機構の側が問題を提起し、「党の広範な大衆をこれらの問題の討論と決定に引き込」み、大衆に説明し、個々の経験に照らして党の決定の正しさを検証すること、としている。このように、もっぱら上部の機関から下部を動員することのうちに「民主主義」を見出す発想は、スターリニズムに普遍的に見られるものであり、今日でもそれは変わらない。あくまでも主体は党機構であり、党員大衆は動員される「客体」でしかない。トロツキーはこのような「党内民主主義」論は実際には、「システムとしての党内官僚主義の理論的定式化」であると看破している。本邦初訳。
なお、この1920年代半ばに反対派狩りに最も熱心に奮闘した中堅幹部であるウグラーノフは、合同反対派を追放したわずか1年後の1928年には右翼反対派の一員として弾圧され、その後1932年のリューチン事件にも関与して逮捕・除名され、何度も屈服と懺悔を重ねたあげく、1937年には銃殺されるのである。
Л.Троцкий, В ПОЛИТБЮРО, Архив Троцкого: Коммунистическая оппозиция в СССР: 1923-1927, Том.1, 《Терра-Терра》, 1990.
政治局へ
私は次の事情に諸君の注意を向けたい。
6月2日、同志ウグラーノフ(1)は、ザモスクヴォレチエ地区
[モスクワの一地区]の党委員会拡大総会において報告を行なった。同報告の他の諸側面には立ち入ることなく、また『プラウダ』での要約記事にもとづいていることをことわったうえで、私は、モスクワ組織の長である同志ウグラーノフの想定し定義している党内民主主義について多少詳しく論じる必要があると考えるものである。
「党内民主主義」とは何か?
該当する箇所を逐語的に引用させていただく(1926年6月4日付『プラウダ』より)。
「党内民主主義の本質とは何か? 同志ウグラーノフは明快で正確な回答を与える。それは、党と国家が直面する基本的諸課題を、正確かつ時宜を失せず党組織に提起し、それらの問題の解決を図ることができるようにすることである。党の広範な大衆をこれらの問題の討論と決定に引き込むこと、社会主義建設の根本問題を正確かつ時宜を失せずプロレタリアートに説明すること、労働者階級およびその個々の階層の気分に照らしてわれわれの政策の正しさを検証すること、そしてそのような検証にもとづいてわれわれの路線を修正することである」。
まったく明らかなように、『プラウダ』が「明快で正確」という言葉で全面的に正当化しているこの定義は、『プラウダ』にとって完成された綱領的な質をもっている。しかし実際には、この定義に見られるのは、システムとしての党内官僚主義の理論的定式化なのである。そこにおいては、党そのものは、機構の手中の原料としてのみ機能する。実際、同志ウグラーノフが党内民主主義と呼んでいるその諸活動と諸関係の全体においては、行動の開始者としての役割はもっぱら党機構に帰せられている。この党機構が、あらゆる時点において、どのような形態で、どのような限界内で、全体としての党の大衆に「影響力を行使する」べきかを決定するのである。
この定義をセンテンスごとに分析してみよう。
(a)民主主義とは、「……諸課題を、正確かつ時宜を失しない形で党……に提起する」ことである。聴衆にとって完全に自明で既定の結論であるのは、党にこの課題を提起するのが党機構、もっぱら党機構だということである。そして、機構によって「正確かつ時宜を失せず」提起されるならば――何が正確で何が時宜に合っているのかは機構そのものが決定するのだが――、それがすなわち党内民主主義だというのである。
(b)さらに民主主義とは、「党の広範な大衆をこれらの問題の討論と決定に引き込むこと」である。「引き込む」という言葉そのものが、ここでの思考方法をはっきりと特徴づけるものである。党は、抵抗しがちな不活発な大衆として描かれており、例によって同じ党機構によって提起された諸課題の討論に「引き込まれ」なければならない存在として描かれている。そしてまたしても、機構が正確かつ時宜を失せず提起し、正確かつ時宜を失せず引き込むならば、それがすなわち「党内民主主義」だというのである。
(c)さらにわれわれが知るのは、民主主義とは、「社会主義建設の根本問題を正確かつ時宜を失せずプロレタリアートに説明すること」である。すなわち、機構が党に提起したのと同じ問題、機構が党を討論に引き込んだのと同じ問題を今度はプロレタリアートに説明するわけである。ここでは、機構と党との一方的で官僚主義的な関係が階級にまで広げられている。
(d)民主主義とは、「労働者階級およびその個々の階層の気分に照らしてわれわれの政策の正しさを検証すること」である。例の機構、すなわち、諸課題を提起し、党をそれについての討論に引き込み、これらの課題についてプロレタリアートに説明するあの同じ機構が、労働者階級の「気分」に照らしてその政策を検証し、「そしてそのような検証にもとづいてわれわれの路線を修正する」。したがって、路線を修正するのはやはり、その路線を開始した他ならないあの機構なのである。機構が諸課題を「正確かつ時宜を失せず」提起する、すなわち、機構が必要とみなした諸課題を、必要とみなした時に提起する。機構は、自分が必要とみなしたものを党を通じて労働者階級に説明する。機構は、労働者階級の「気分」に照らしてこの活動の結果を検証する。そして機構は、このような検証、このような気分の評価にもとづいて、自分自身の路線をまたしても「時宜を失せず」修正する。
同志ウグラーノフは党内民主主義の他のどんな特徴も提示していない。『プラウダ』の記事は、すでに見たように、彼の民主主義の定義を「明快かつ正確」なものと呼んでいる。この定義は、繰り返すが、完成された綱領的な質を有している。それは、党体制と党イデオロギーの発展過程における新しい言葉である。1926年6月2日以前、党は何度となく、党内民主主義という言葉の意味する体制がどのようなものであるかの定義を示してきた。この問題において党の思想の発展を画す最も顕著な諸段階は、第10回党大会決議(1921年)と、1923年12月5日に採択された全会一致の中央委員会決議(この決議はその後、第13回党大会で確認された)である。先の党大会、第14回党大会の決議は、「一貫した党内民主主義の道」にとどまるとしか述べていない。党内民主主義の概念について第14回大会が一言も述べていないのは、以前の各党大会で十分徹底的な形でその概念がすでに規定されていたからである。第14回大会は、党内民主主義に関して新たな綱領的定義の問題は何もないこと、課題は既存の概念を実際に実現していくことであるという前提にもとづいていた。しかし、モスクワ党組織の長である同志ウグラーノフは異なったアプローチをとった。彼は問題を提起する――「党内民主主義の本質は何か」と。このような綱領的問題を提起しておきながら、同志ウグラーノフは、過去の党大会で与えられた民主主義の定義について振り返ろうとしない。彼は自分自身の、新しい定義を与える。それがたった今われわれが検討した定義である。
民主主義の「本質」を定義しつつ同志ウグラーノフは、実際には、自分自身の綱領的定義を、これまで党が与えてきた定義、そして議論の余地のないものとみなされてきた定義に対置している。これまでの定義としてはたとえば、第10回大会決議は、労働者民主主義の基本的特徴の一つが「党の指導機関に対する党内世論の側からの不断の統制」であると宣言している。1923年12月5日の全会一致の決議は、「労働者民主主義とは、党生活の最も重要な諸問題を全党員が公然と審議する自由、それらの問題を討論する自由を意味し、また党の指導的役員および機関を下から上まで選挙で選ぶことを意味する」(2)と述べている。ここでは3つの特徴が提示されている。(a)「すべての重要問題に関するすべての党員による自由な討論、(b)党の指導機関に対する党による不断の統制、(c)下から上までの幹部と指導機関の選挙制。これらの3つの特徴はことごとく、党内民主主義の「本質」に関する同志ウグラーノフ流の定義からは完全に無視されている。ウグラーノフにとって、機構が党を検査するのであって、機構に対する党の統制については一言も語られない。彼の民主主義論においては、機構が時宜を失せず問題を提起し、機構が時宜を失せず考察したそれらの問題の討論に党を引き込む。すべての問題を党が自由に討論することについては、まったく一言も言及されない。さらに、彼の理論においては、党内の指導的個人や幹部を選挙にかけることについても、民主主義の本質から完全に除かれている。
1923年12月5日の決議はこう述べている――「党がネップの諸影響と成功裏に闘い、すべての活動領域でその闘争能力を高めるためには、労働者民主主義の諸原理を現実的かつ系統的に実行することに向け党の路線を抜本的に変更しなければならない」(3)。第13回大会はこうした問題設定を是認した。第14回大会は、1923年12月に中央委員会によって全会一致で宣言された党の新路線を実現する必要性に再び言及した。さまざまな指導的同志たちが何度となく、党内民主主義に関する諸決議と実際の現実とのあいだに食い違いがあることを認めてきた。この食い違いは、一部の者にとっては深刻な矛盾であり、別の者にとっては一時的な不均衡にすぎない。しかしながら、誰もが、実際に現実が少しずつでも、原理的に規定された党内民主主義の定義に近づけられなければならないこと、すなわち、何よりもすべての問題に関する自由な討論、党機関に対する党内世論による不断の統制、すべての幹部および指導機関に対する選挙制としてその本質が定義されている党体制に近づけられなければならないことを、議論の出発点として――少なくとも綱領上は、少なくとも言葉の上では、少なくとも形式的には――認めていた。
同志ウグラーノフははじめて、民主主義の綱領的定義と現実の体制との矛盾を、綱領を実際の水準に劇的に引き下げることで克服するという公然たる試みに出た。民主主義の本質として、彼は党機構による無制限の支配を宣言する。党機構は提起し、引き込み、検証し、修正する。1926年6月2日、党は、機構の絶対的権威にもとづいた体制の完璧な定義を与えられた。民主主義の本質を定義しようとして、同志ウグラーノフは官僚主義の本質を定義した。たしかに、同志ウグラーノフの定義においては、この官僚制は単に命じるだけでなく、大衆に問題を提起し、彼らを引き込み、路線を修正する。しかしこのことはただ、同志ウグラーノフが「開明的」官僚制の定義を与えたということを意味するにすぎない。ここには民主主義の欠片(かけら)もない。
言うまでもなく、党は何よりも行動の組織である。この体制は、党全体の時宜を失しない一致団結した行動を保障するものでなければならない。このことから、真の党内民主主義の必要性と、それを特定の時期の特定の歴史的な諸条件に応じて制限する必要性の両方が出てくる。われわれは皆このことを知っている。党を討論クラブに変えることはできない。党はこのことを第10回党大会においてもその後においても忘れたことはなかった。しかしまさに、新しいより複雑な条件のもとでプロレタリア独裁を実践する能力を党に保障するためにこそ、党は1921年以来一貫して次のような思想を提起し繰り返してきたのである。すなわち、党内においてプロレタリア分子が成長すればするほど、党全体の文化的・政治的水準が高くなればなるほど、党体制は、自由討論、集団的意思決定、機構に対する党の統制、上から下までの党機関の選挙制といった方法を通じて官僚主義と機構主義を克服する方向に向けて不断に変化していかなければならない、という思想である。
戦時共産主義からネップへの、内戦から経済的・文化的建設への移行期以来、すでに5年以上がすぎた。党内民主主義に向けた路線の宣言は、当然ながら、内戦から本格的な社会主義建設の時期に移行したという条件から生じた。1923年の末以来、「党の路線の抜本的な変更」の必要性は、2年半前に中央委員会自身によって宣言された。この5年間というもの、とりわけその後半期、われわれは戦争に従事してこなかった。わが国の経済は成長した。プロレタリアートは復活した。党はその基本的な構成においては、プロレタリア的なものとなった。党はそのレベルを向上させ、経験上も成長した。あらゆる条件は、「党の路線の抜本的な変更」の必要性は10倍も増大したように思われる。しかしながら、変更は生じなかった。反対に、今日ほど党体制が、上からの指名制や指令主義、不信や圧迫といったものに、すなわち包括的な官僚主義的原理に浸透されたことはかつてなかった。一方における党内民主主義の綱領的定義――そして何度も宣言され何度も確認された党内民主主義に向けた路線をとる必要性――と他方における実際の体制との矛盾が、しかも度外れた矛盾が存在している。この矛盾は党員の意識にとってますます先鋭で、痛ましく、耐えがたいものになっている。革命党にとって、二重性、言葉と実践との不一致ほど重くのしかかってくるものはない。一定の限界を越えれば、このような二重性は明白な欺瞞になる。しかし、同志ウグラーノフは、自分自身の権威にもとづいて、党体制の問題、総じて労働者民主主義の問題において、党の原則的方向性の修正に着手する。同志ウグラーノフはあえて民主主義の「本質」の問題を提起し、この本質を、開明的官僚が時宜を失せず正確に働きかけることであることを明らかにする。もし他のいかなる現象もないとすれば、この徴候だけで次のように言う十分な根拠になるだろう。「われわれは党の発展において岐路に立っている」と。現在の二重性をそのまま維持することはできない。各党大会の諸決定に一致して党体制に本格的な変更がなされるか、党が自らの方向性を転換するか、すなわちレーニンの立場からウグラーノフの立場へと移行するかのどちらかである。
階級間関係における官僚主義の源泉
党体制は自足的な性格を持っていない。一方ではそれはそれを取りまく諸条件の全体に依拠し、それを通じて表現される全般的な政策的方向性に依拠している。経済情勢の好転とプロレタリアートの文化水準の向上にもかかわらず、党体制はこの間、どうして官僚主義の方向に向けて絶えず変質していったのか?
この事実を、国の非文化性やわが党が政権党であるという事情だけから説明することは何ら役立たない。なぜならまず第一に、国の非文化性は減少しているのに、党内官僚主義は成長しているからであり、第2に、もし政権党としての党の役割が必然的にその増大する官僚主義を内包しているのであれば、それは党の破滅をもたらすことになるからである。しかしこのような展望はまったく問題になりえない。非文化性それ自体――非識字率の高さや、最も基礎的な必要な実務能力が欠如していることなど――は何よりも国家機構のうちに官僚主義を生み出す。しかし、党は何と言っても、勤労者(主としてプロレタリアート)の最も文化的で能動的な前衛によって構成されている。この前衛は量的にも質的にも成長している。したがって、党内体制が問題になっているかぎりにおいて、それは不断に民主化されていかなければならないはずである。だが実際にはそれはますます官僚化している。非文化性を抽象的に持ち出しても何ら説明にならないし、何よりも発展の傾向、そのダイナミズムを説明しないのは明らかである。ところが、官僚化は行き着くところまで行き、ついには理論的な完成を見るまでになった。まさにここにこそ、同志ウグラーノフの試みの原理的意味がある。
官僚化の根本的な原因は階級相互の関係のうちに探求されなければならない。農村におけるソヴィエト民主主義の一定の発展と平行して、モスクワとレニングラードに対する途方もない圧迫が生じた事実に目をつぶることはできない。民主主義は自足的な要因ではない。問題は、経済、文化等々の分野におけるプロレタリア独裁の政策がどのようになされているかである。すなわち、この政策の担い手たるプロレタリア前衛がますます大きな程度で、自由な討議や機構への統制や機構の選挙制といった手段によってその政策を実現していくことができるような形でなされているのか、ということである。まったく明らかなのは、もし工業が、すなわち社会主義独裁の土台が国民経済全体の発展から立ち遅れるならば、もし国民経済の蓄積の分配が、資本主義的傾向に対する社会主義的傾向の優位性をいっそう強化していくという原理にもとづいてなされないならば、もし以上のことから生じる困難が何よりも労働者階級に課せられるならば、そして彼らの受け取る賃金の上昇が、わが国の国民経済が全般的に発展しているのに滞るならば、ウォッカのような例外的な歳入手段の負担がますます労働者の肩にかかってくるならば――党機構はますます、この政策を党内民主主義の手段によって実施することができなくなるだろう。党の官僚化は、この場合、社会的均衡がプロレタリアートに損害を与える方向で破壊されたことの、あるいは破壊されつつあることの現われなのである。このような均衡の破壊は、党内に波及し、党内のプロレタリア前衛に打撃を与えている。このことから、プロレタリアートの最も強力な中心地域、とりわけ両首都への圧迫がますます増大しているのである。自由な討論や、課題の集団的作成、機構への統制、党機関の選挙制といった諸原則を投げ捨てることによって、同志ウグラーノフは課題を、プロレタリアートの「気分」にもとづいて政策を検証すること、すなわち、労働者階級とその前衛がどの程度まで、党指導部の経済的・社会的路線から生じる圧力に耐えることができるかを、経験的な機構的手段を通じて推しはかることに還元しているのである。まさにそれゆえ、民主主義の方法を開明的官僚の方法に置き換えるという事態が生じているのである。
党の締めつけの補完的原因としての、思想的支柱の弱体化
どんな体制も、それ自身の内的論理にもとづいて発展するが、官僚体制は他のいかなるものよりも急速に発展する。経済政策の誤りとそれを補完する党体制の誤りに対する抵抗の基盤となるのは、まったく当然のことながら、わが国の最大の工業・文化中心地である。言うまでもなく、この抵抗は党の指導的上層部の内部にも表現される。あらゆる意見の相違が閉鎖的な分派的諸グループの闘争に転化する傾向を暴露しているのは、またしても、現在の機構的体制の支配のもとではまったく合法則的である。革命的独裁の条件下においては、政権党が相戦いあう諸分派の体制と和解することができないことは、まったく議論の余地のないことである。だがつけ加えておかなければならないのは、機構的体制は絶対的必然性をもってそれ自身のうちから分派を生み出さざるをえないということである。それだけではない。指令を与えるだけで自分自身への統制を許さない閉鎖的な党機構体制のもとでは、さまざまなグループの形成は総じて機構的政策に対する修正を施す唯一の可能性なのである。
この点については、1923年12月5日の決議ではっきりと述べられている。同決議は、官僚主義体制がまさに「あらゆる批判を分派主義の現われとみなしたり」、そうすることによって「良心的で規律正しい党員を閉鎖性と分派主義の道に」追いやることから生じると指摘している。この決議が全会一致で採択されてから2年半が経ったが、その間、機構的体制は深化し先鋭化し、したがってまた、それ自身機構体制によって生み出された分派的グループ形成の傾向をもいっそう深刻なものにした。この結果は、党カードルのアトム化であり、党指導部が党の蓄積された経験のかなりの部分を占めている貴重な党分子から系統的に遊離していくことであり、指導的中核の視野が絶えず狭くなりその思想的水準が貧困化していくことである。まさにこうした過程がわれわれの現前で生じており、しかもますます急速に生じている。しかし、この過程はその破壊活動をまだおよそ最後までは進行してはおらず、この点についてはすべての真面目な共産主義者にとってまったく疑問の余地はない。全能の党機構がますます狭くなる指導的中核に集中されていっていることは、新しいますます先鋭なものとなる矛盾を生み出している。すなわち、機構の力の増大と指導的中心部の思想的弱体化との矛盾である。こうした条件のもとでは、偏向に対する恐怖は累進的に増大しないわけにはいかないし、そのことからいわゆる組織的帰結が生じ、そのことによってますます指導部に指名される人々の範囲が狭まり、彼らをますます党体制の官僚化の道へと追いやることになる。
指導的カードルのアトム化のどの段階においても、機構的指導部は幻想のとりこになっている。新しい障害物を片づけさえすれば、あとは滞りなく「問題を提起し」「大衆を引き込み」「検証し」「修正する」ことができるのだ、という幻想である。しかし実際には、党指導部が官僚的な変質をこうむっているという状況のもとでは、毎度毎度反対派を機構的手段によって押しつぶしたとしても、それは自動的に新たな亀裂と新たな危険性を生み出すだけである。レニングラード反対派でこの過程が終わるのではないことは、まったくもって明らかである。指導的中核に存在する亀裂は、機構が古い反対派(1923年)と新しい反対派(1925年)に対する闘争を継続しているかぎり、公然と展開されることはない。それほど遠い先ではないある一定の段階において、機構の新たな一部は不可避的に事態の歩みの中で反対派の陣営に投げ込まれるだろうし、そこから生じるさまざまな結果を伴うだろう。このことを見ないのは愚か者だけである。
党の独裁か階級の独裁か
最近の総会において再び――たしかに、ことのついでにだが――プロレタリアートの独裁か党の独裁かという議論が持ち上がった。この種の議論は、抽象的に設定されるならば、容易にスコラ主義的なものになってしまう。言うまでもなく、われわれの体制の土台は階級の独裁である。しかし、このことは、この階級が「即自的」なものではなく、「対自的」なものになっていること、すなわち、この階級が自らの前衛たる党を通じて自己意識に到達しているということを前提としている。それなしには独裁はありえない。党は単なる教師であり、階級が独裁を実現するのだ、という風に事態を描き出すことは、実態を単純化することを意味する。独裁は階級の最も集中された機能であり、それゆえ、独裁の基本的道具は党である。基本的に言って、階級は党を通じて独裁を実現するのである。まさにそれゆえレーニンは、階級の独裁についてだけでなく、党の独裁についても語り、ある意味で両者を同一視していたのである。
このような同一視は正しいか? これは過程そのものの現実の発展に依拠している。独裁の発展が――労働者民主主義と農民民主主義との必要な「均衡」を維持しながら――党内および一般に労働者組織の中での民主主義的方法の発展を可能にし推進するならば、階級の独裁と党の独裁との歴史的・政治的同一視は完全に正当化される。農民内部に、そして一般に私的経済と工業とのあいだに不均衡が存在し、この不均衡が増大していき、農民内の民主主義が労働者民主主義を一定犠牲にして発展するという形でこの不均衡が政治的に表現されるならば、独裁は不可避的に機構的・官僚的偏向を帯びるようになるだろう。このような状況下においては、機構は党に指令し、それを通じて階級に指令しようとしている。先に紹介した同志ウグラーノフの定式は、このような体制に完全な表現を与えている。党の独裁は、労働者民主主義の体制がますます発展しているかぎりにおいて、単に理論的にだけでなく実践的にも階級の独裁と矛盾するものではなく、むしろそれを表現するものになるのである。ところが現在においてはそれとは反対に、ますます増大する機構の専横――それ自体、敵対的な階級的傾向の圧力の結果なのだが――は不可避的に、階級路線からの逸脱の危険性のよりいっそうの昂進という事態に党を直面させている。機構体制は、自らを階級の独裁と同一視することによって、この危険性を隠蔽している。党は、労働者階級の「気分」をはかるために、そして「この検証にもとづいて」「路線を修正する」ためだけに党機構に奉仕している。ウグラーノフ流の党内民主主義の本質定義と、党独裁の否定とのあいだには、したがって、深い内的なつながりがある。官僚主義体制は理論的な自己確立をめざしている。官僚主義の理論は常にその貧困さを特徴としている。官僚主義は常に次のような定式に惹かれる――「朕は国家なり」「朕は党なり」。ウグラーノフ流の問題設定は本質的に党を清算し、それを労働者階級の「気分」の中に解消し、それを中央集権化された自足的な党機構によって置きかえる。党の独裁に対置された階級の独裁に関するスターリンの問題設定は、不可避的に機構の独裁へと行きつく。なぜなら、前衛が解体された階級(自由な討論、機構への統制、選挙制などが存在しない場合、前衛は解体される)は、中央集権化された機構の指導対象となるしかないのであり、この機構は機構で、党から切り離されてますます敵対する階級勢力の圧力に屈していくしかないのである。
結論
以上の傾向を素描するにあたってわれわれは、言うまでもなく、一瞬たりともそれが現実になるとは思っていない。労働者階級においても、党においても、党機構自身においても、官僚主義から必然的に生じてくるこうした歴史的傾向に抵抗する強力な力が存在している。党ができるだけ早く完全にこの恐るべき傾向を自覚すればするほど、党機構の最良の分子ができるだけ大胆かつ公然と、党がこの危険性を理解し舵を切るのを助ければ助けるほど、それだけますます激動は小さくてすむだろうし、党体制の変更はそれだけスムーズかつ痛みのない形で実現するだろう。以上に述べたすべてのことから明らかなのは、労働者民主主義の方向に向けた体制の変更は、真の工業化に向けた経済路線の転換および真の国際主義に向けた党の指導路線の変更と不可分だということである。
官僚主義体制がさらにいっそう発展すると破滅的な形で個人独裁に行きつくだろうし、同じぐらい思想的指導の破滅的な衰退をもたらすだろう。党体制の民主化は、より高度な文化的・政治的水準にたった集団的指導の復活を可能とするだけでなく、それを必要とする。工業化に向けた路線、国の経済的・文化的生活の中にプロレタリアートがしかるべき場所を占めるよう保障することに向けた路線、労働者民主主義に、何よりも党内民主主義に向けた路線、そして最後に、党の集団的指導に向けた路線は、したがって、一つの課題に合流するのである。
エリ・トロツキー
1926年6月6日
『トロツキー・アルヒーフ』第1巻所収
新規、本邦初訳
訳注
(1)ウグラーノフ、ニコライ・アレクサンドロヴィチ(
1886-1937)……古参ボリシェヴィキ。1905年革命に参加し、1907年にロシア社会民主労働党に入党、ボリシェヴィキ。1921年にペテルブルク県委員会書記。すぐにジノヴィエフと衝突し、ウグラーノフは1922年にニジニノヴィゴロト県委員会書記に配転。1921〜22年、党中央委員候補。1923〜30年、党中央委員。1924年にモスクワ県委員会書記に着任して、反対派狩りに辣腕を振るう。その後も反トロツキスト運動の先頭に立ち、出世。1924年8月に中央委員会組織局員および書記局員に。1926年に政治局員候補。1928年にブハーリンの右翼反対派を支持。1930年に、右翼反対派として、中央委員会から追放され降伏。1932年にリューチン事件に連座させられ、逮捕、除名され、もう一度降伏。1936年に再び逮捕され、1937年に銃殺。1989年に名誉回復。(2)「党建設決議」、『トロツキー研究』第40号、142頁。
(3)同前。
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