8月総会の結果

カール・ラデック/訳 西島栄

カール・ラデック

【解題】本稿は、反対派の理論的指導者の一人であったカール・ラデックが1927年8月の中央委員会・中央統制委員会合同総会について総括した文書である。この文書から、この論文の書かれた8月12日の時点で、反対派の政綱の大部分がすでに執筆されていたことがわかる。8月総会での展開を踏まえて、書き直す必要が示唆されている。反対派の政綱が完成するのは8月の末あたりであると考えられる。(左の写真はラデック)

 本稿の中でカール・ラデックは、中国革命や戦争の危険性やテルミドールなどの一連の重要問題とともに、当面する団体協約カンパニアを宣伝の焦点に据えるべきであることを主張している。労働者の利益を擁護するという視点を強く打ち出していた合同反対派は、この団体協約問題についても積極的に発言し、反対派の政綱にもこの問題に一定の頁が割かれている。

 なお、この論文では、つい最近まで反対派の指導的メンバーであったソコーリニコフに対する強い批判が展開されている。ソコーリニコフの脱落は、1926年末におけるクルプスカヤの脱落につぐ重大な打撃であった。

 К. Радек, Итоги августовского пленума, 12 августа 1927, Архив Троцкого: Коммунистическая оппозиция в СССР: 1923-1927, Том.4, 《Терра−Терра》, 1990.


T

 8月総会は、国際政治の分野において中央委員会の多数派が深刻な敗北を喫した状況下で開催された(中国革命の敗北――それはかなりの程度コミンテルンの半メンシェヴィキ的な政策によって引き起こされた。英露委員会の崩壊――同委員会の一部は帝国主義の直接的な同伴者によって構成されている。イギリスはロシアと国交断絶することはできないだろうというスターリンの予言の破産)。この状況は反対派の強化をも伴った(反対派ブロックが一個の全体へと融合したこと、全国的に大規模な形で反対派が進出したこと、2500人の反対派メンバーの声明)。しかしスターリンはこの総会で次のような目標を立てていた。自分たちによってなされた誤りを一つたりとも認めないこと、反対派に対する無慈悲な攻撃に移ること、そうすることで反対派の分裂、その思想的後退をもたらし、こうして反対派の隊列に士気阻喪を持ち込み、同志トロツキーと同志ジノヴィエフを中央委員会から除名することである。もしこれに成功したならば、スターリンは党内における、したがってまた国内における力関係のさらなる本格的な変革への道を掃き清めるだろう。反対派の公認の指導者を中央委員会から排除することは、反対派に対する弾圧を容易にし、そのメンバーを党の隊列から放逐し、彼らに対して国家機構の力を発動することを容易にするだろう。

 しかし、スターリンは2つの要素を考慮していなかった。まず第1に、彼の政策の敗北は、党の活動家および党官僚の広範な層の中でかなりの程度スターリンの権威を掘りくずした。第2に、実践においてレーニンの路線から退行しつつある党上層部は、この「ブレーキをかけながらの下降」を象徴する除名劇――それは党の路線がどこに向かうのかという問題を提起することになる――に容易に進むことができなかった。彼はまた、反対派の統一力とその抵抗力をも考慮していなかった。この二つの計算間違いの結果、スターリンは戦術的後退を余儀なくされた。反対派を誹謗中傷しつつも、その指導者を除名することを断念した。この後退は戦術的なものにすぎない。なぜなら、スターリンとそのグループは反対派を党から排除するというその基本的目的を断念していないからである。彼が後退したのは後になっていっそう協力に攻撃を加えるためである。スターリンは、次の数ヵ月のあいだに反対派の反動的活動の証拠なるものを蓄積することができると期待しており、これらの資料を手にもって攻勢を再開するだろう。その方向性は総会の決議の中にすでに準備されている。この攻勢は次の諸問題に沿って行なわれるだろう。(a)党のテルミドール的変質の問題、(b)戦争に対する反対派の態度の問題、(c)分裂の危険性の問題、あるいは別党の問題。

 

U

 総会後の最初の数日ですでに、スターリン・グループの戦術的計画が完全に暴露され、同志トロツキーと同志ジノヴィエフを「赦免」する決議の意味が解読された。モスクワとレニングラードの党活動家の会議において、次のようなスローガンが提起された。中央委員会は反対派に対して最後の妥協的姿勢を見せたのであり、反対派が分派活動をやめるかどうかを慎重に監視し、もしほんのわずかでも分派活動の継続の徴候が見られたならば無慈悲に攻撃しなければならない、と。新聞雑誌の中では今後さらなる反対派狩りがなされるだろう。その最も徴候的な現われは、反対派メンバーが現場で発言をしようとすると、少数の組織的グループによって妨害されることである。ウグラーノフ一派が偽善的に反対派の発言を認めようとしたとき、少数の結束した組織的グループが野次や口笛によって、党活動家に説明する試みを挫折させた。このことは、スターリン分派が、たとえ<大会までの>数週間であっても、いかなるまともな討論も成立させないであろうことの徴候である。今後何ヵ月間にもわたって反対派を迫害することによって、スターリン分派は、せいぜいのところ、後で「党は両方の側の意見を聞く機会を与えた」と言い訳できるよう、2〜3週間ばかりのあいだに反対派の論文を数本印刷するのが関の山だろう。それに対して、フーリガンのグループは、党は十分に「事情に通じ成長を遂げた」のだから、今さら反対派党員の主張を聞く必要はないし、そもそも聞きたがらない、ということを躍起になって「証明」しようとするだろう。

 次のような問題を立ててみよう。これらの党員大衆にどのような態度をとるべきなのか、どうして反対派はこのような侮辱に耐えなければならないのか? モスクワの活動分子――およそ3000人にのぼる――の中には、何百人もの誠実な党員がいるし、彼らは心の底から問題を解明したいと思っている。さらに機構の下級官僚の中にさえ、たとえ好奇心からであっても、反対派の話を興味を持って聞くであろう何百人もの人々がいる。このことは廊下での会話で明らかである。しかし彼らは、妨害屋たちに反対して発言する勇気がないし、あるいはそうしたがらない。どうしてか? 彼らはそれほど十分には状況を憂慮しておらず、それゆえ、野次り屋たちに抵抗するリスクを犯したがらない。そんなことをすれば党機構によってどんな目に会うか知っているからである。

 このことから次のような戦術的結論を引き出さざるをえない。党の中間分子に対して「平和主義的方法」でもって接近する道を探るべきという助言は、われわれが、行動の仕方を個人的にも公式の場でもあえて先鋭化させることなく、自分たちの観点を落ち着いて粘り強く説明しなければならないという意味で正しい、ということである。だが、問題の中心がわれわれの態度表明の仕方にあるとか、党の中間分子に対する接近の問題がこの形態いかんにかかっていると考えるとすれば、それは深刻な誤解であろう。党の中間分子は話を聞きたがっているが、そうさせまいとしている連中にとっては、問題は形態にはない。彼らはそもそも、党の中間分子が話を聞くことを望んでいない。それだけでなく、党の中間分子は党内の中心的勢力でもない。党内には、巨大な比重をもった2つの勢力が存在する。党機構と下部党員である。党機構は凪の時期には決定的な意義を持っている。下部党員は、客観的状況の影響のもとで水が動いているときに決定的な意義を持っている。中間分子は、平穏な時期には機構を恐れており、危機の瞬間には、下部党員の、何よりも労働者党員の気分に感染するだろう。このことからすでに、われわれにとって基本的な働きかけの対象は下部党員でなければならないという結論が出てくる。われわれは粘り強いプロパガンダ活動を通じて党官僚およびいわゆる中間分子の中からも信奉者を組織することができるし、そうしなければならないが、アルキメデスの支点となるべきは党の労働者大衆の問題関心なのである。党の中間分子にとって、今後数ヵ月間における注意の中心は党大会であろう。下部党員の労働者にとっては、今後数ヵ月における中心的問題は団体協約をめぐるカンパニアであろう。われわれはどちらに対しても同じぐらいのエネルギーをもって準備を整えなければならない。

 党大会をめぐるカンパニアに関して言えば、その主要な武器はわれわれの政綱である。この政綱は、スターリン・グループが総会の場でわれわれに対して開始した攻撃をふまえて見直さなければならない。戦争やテルミドールや分裂の問題に関して自己弁護的立場をとること以上に有害なことは考えられない。これらすべての問題に関して、政綱の中ではいっさいのマルクス主義的・レーニン主義的真理が述べられなければならない。いかなるどっちつかずの立場も2つの理由で危険である。まず第1に、それはわれわれの動揺や不確信の印象を引き起こし、敵の側からの圧力を強めることになる。第2に、スターリンはジグザグや後退をしつつも、一貫して党の分裂に向けて進んでおり、分裂の後には反対派指導者の逮捕が始まるだろう(これに向けた途上では「貴族の流刑」〔一定の自由をもったまま僻地の町や村に追放すること〕というパターンもありうる)。指導者が党を除名された場合には、いっさいは、国家と党の発展傾向を見据え何をなすべきかという問題を徹底して考え抜く第2、第3、第4の交代要員が存在するかどうかにかかっている。

 来たる数ヵ月間においてイデオロギー闘争の対象となるであろう3つの問題は、次のようにきっぱりとした形で立てられなければならない。

 (A)テルミドールの問題は中心的問題である。党とその指導的機関のテルミドール的変質に向けた傾向は次の諸要素の中に表現されている。(a)反対派に体現されているプロレタリアートの一部は農民を収奪することを望んでいるという叫び(これはわが国の軍隊の農民部分をわが党の一部にけしかけることを準備するものであり、総じてプロレタリアートの要求の「過剰さ」を抑えるためにプロレタリアートに圧力をかけるものである)。(b)生産力の発展が社会主義的方向をとっているのか資本主義的方向をとっているのかに頓着することなしに一般に生産力を増大させようとする路線。(c)プロレタリアートの状況の改善や、工業の指導へのプロレタリアートの真の参加といった点を持続的に配慮することなく工業を発展させようとする路線、(d)党の下部組織に対抗する形で党機構の比重を高めようとする路線。これは、総会におけるスターリンの発言――現在の幹部は内戦によってしか取り除くことができない――のうちに古典的定式を見出した。この発言はまた、党とプロレタリアートからの権力の簒奪を示す古典的定式であり、ボナパルティズム的変質の古典的定式である。(e)ソコーリニコフ(1)によって立案された対外政策に関しては、この潮流のことを公然とテルミドール的潮流と呼ばなければならない。そして、それが党内に及ぼしている影響の範囲(「環」)を指摘し、それが中央委員会の中ではその右派(ルイコフ(2)、カリーニン(3)、ヴォロシーロフ、ソコーリニコフ)のうちに、部分的には中間派(スターリン)のうちに完全な表現を見出していると公然と述べなければならない。テルミドール的潮流は成長しつつあり、たとえよく練られた全般的な定式にまだ達していないとしても自己意識を持つようになっている。彼らの正体を暴露することは反対派の直接的な義務である。なぜなら、クラークの最初の強力な運動が発生するか戦争が起こった場合には、彼らはたちまちのうちに結晶化し、われわれの国家の社会的性格の変質をもたらすような社会的・政治的転換の問題を直截に提起するだろうからである。

 (B)戦争の問題に関しては、われわれのさまざまな演説の中で言われたことを政綱の中でも繰り返し、それを総括し、わが国の国家は――たとえその国家の性格を変質させようとする強力な傾向が存在するにしても――労働者国家であると言わなければならない。この国家を防衛することはプロレタリア独裁を防衛することである。それは3つの線に沿って進むだろう。世界資本の攻撃からの防衛、かつてロシアを支配していた諸階級の残存物(白衛派がその代表格)の攻撃からの防衛、最後に、成長しつつあるテルミドール的潮流からの防衛である。われわれは堂々と、手に武器をもって、また反対派を取り巻く状況がどのようなものであろうとそれにかかわりなく、プロレタリア独裁を世界資本から防衛するだろうが、まさにこの防衛のためにこそ、世界資本がわが国の中で依拠しているすべての分子に対して、あるいはまた、意識的であれ無意識的であれその政策によって勝利の条件を悪化させているすべての分子に対して、最も精力的な闘争が必要なのである。世界資本は、ロシアの貴族地主や旧ロシア・ブルジョアジーといった階級解体分子の助けをあてにしているだけでなく、クラーク、ネップマン、スペッツの助けをもあてにしている。クラークは農村のかなりの部分で台頭し、われわれに敵対するようになるだろう。スペッツとネップマンは、わが国の国家機構に浸透しつつあり、わが国の戦闘能力を解体させるにちがいない。こうした危険性との闘争は、単に拒否したりチェカを用いたりするだけでは不可能なのであって、何よりも、農村の貧農や下層中農に経済的・政治的支えを求めなければならない。それゆえ、わが党指導部の一部に見られるクラーク政策への退行に対する闘争は、国家防衛に直接的な関係を持っている。この闘争が、そしてこの闘争だけが後方を強化し、軍隊の革命的活気を高揚させる保証となりうるのである。クレマンソーに関する同志トロツキーの考えを歪曲してスターリン・グループが提起した問題に関しては、それを払いのけるのではなく、次のようにはっきりと答えなければならない。われわれは、現在の多数派の誤った指導のもとでさえプロレタリアート独裁を防衛するだろう。しかし、勝利の保証となるのは、この指導部の誤りを正すことであり、党がわれわれの政綱を受け入れることである、と。

 (C)別党問題においては、防衛から攻勢に移らなければならない。労働者運動の革命的翼が労働者運動の分裂の思想を推進したことは一度もなかった。なぜなら、革命的マルクス主義の原則とレーニン主義の原則は、プロレタリアートが自己の歴史的使命の実現のために団結しうる唯一の基盤であり、そしてそのプロレタリアートの周囲に国民の平民的部分が団結しうる唯一の基盤だからである。メンシェヴィキと分裂することによって、レーニンは、10月革命で実現を見たようなプロレタリアートと貧農の団結を準備した。歴史的な意味で労働者階級を分裂させる者とは、最後まで革命的である唯一の階級たるプロレタリアートの利益を擁護する政策の代わりに、労働者階級の下層や農村の下層を裏切って労働者階級の上層と大小ブルジョアジーとの取引政策を実行する者である。わが国の具体的な状況のもとで反対派が発生したのは、プロレタリアートの階級政策からの転換がなされたからである。革命の10年がプロレタリアートの中に残した巨大な革命的活力の貯えに確信をもっている反対派は、党の路線が正されるだろうとの希望を抱いている。反対派は分裂の問題など提起しはしない。このような問題を提起しているのは、党内体制の圧力によって、分裂の政策によって、党路線の矯正、党内改良の道をふさごうとする者である。党内改良は党内民主主義の中でこそ可能であり、これは、党内におけるプロレタリアートの比重を増大させるとともに、労働者階級や貧農と無縁な分子、政権党としてのわが党に惹かれてやってきた分子を一掃することに寄与するだろう。われわれは、あらゆる手段を通じて、レーニン的政策の基盤の上にソ連共産党の統一をつくり出すために闘争するだろう。われわれが求めているのは分派の自由ではなく、党規約および第10回党大会決定および第13回党協議会決定によって想定された方法によって党が自己の政策を決定する自由である。こうした方法からのあらゆる逸脱は、党を動員すうるうえで何かしらの策略的方法に訴える必要性を生じせしめるだろう。プロレタリアート独裁を維持するためには、プロレタリアート独裁の指導者としての単一のプロレタリア党が存在していなければならない。小ブルジョア政党も独裁の党になりうるかもしれないが、プロレタリア独裁にはなりえない。小ブルジョア独裁は自己の周囲にプロレタリアートを結集しえないし、反対に、必然的に、プロレタリア独裁の復活のための闘争をもたらすだろうし、したがってその最も重要な武器たるプロレタリア的共産主義政党を強化するための闘争をもたらすだろう。

 以上の思想を政綱の中に書き込むとともに、それをわれわれの宣伝扇動活動の中心にしなければならない。これこそが第15回大会の唯一本格的な準備である。この思想から逸脱したり、戦術的配慮を理由にして沈黙したりすることは、ただわれわれの立場を弱めるだけであろう。わが党が現在経験している危機は、長期にわたる革命の深刻な危機を意味している。このような危機にあって唯一現実的な支柱となるのは、問題を徹底的に考え抜き、そのためにはあらゆる打撃を受け入れる用意のある同意見者たちであり、彼らにこそ照準を当てなければならない。「もみがら」に働きかけることができるのは、自分が何を望んでいるのかを知り自己の目的のために献身的に闘う「核」を結晶化することによってのみである。駆け引きは必要だが、それは、弾力性をもって柔軟に駆け引きしうる主体が存在することが前提である。

 

V

 団体協約カンパニアへのわれわれの介入の問題は、われわれの労働組合活動家や経済学者ができるだけ短い期間で政策を練り上げることを求めている。われわれの要求の大枠は政綱によって与えられている。必要なのは各分野・領域に応じたその専門化である。われわれの労働組合活動家がこの問題をできるだけ短期間に準備して、われわれの演説の重点ポイントを作成すると同時に、われわれはこのカンパニアの戦術問題について考えなければならない。この問題は、無党派労働者に対するわれわれの態度の問題――すでに現場労働者によって再三再四提起されている問題――をずばり提起している。われわれの立場は基本的に次のようなものでなければならない。いかなるデマゴギーにも走ることなく、またわれわれに実行できないようなことを約束することなく、党細胞でもその外部でも、われわれが労働者階級とソ連邦の立場から必要だとみなした諸要求を擁護することである。もし反対派メンバー――現場労働者――がこの要求を粘り強く断固として擁護し、党細胞の中でもそうすることができるのであれば、それは不可避的に無党派労働者の中にも浸透していくだろう。党員ではないが階級的自覚を持った労働者のあいだでは、党の総路線ととりわけその労働政策を変更するために党に入党しようというアジテーションを遂行するべきだろう。われわれの工場カードルはまだ脆弱とはいえ、この工場カードルこそがこの課題に着手しなければならない。彼らは、われわれがこの課題を遂行するのに応じて成長していくだろう。

1927年8月12日

『トロツキー・アルヒーフ』第4巻

新規、本邦初訳

  訳注

(1)ソコーリニコフ、グリゴリー(1888-1939)……ロシアの革命家、古参ボリシェヴィキ、経済理論家。1905年にボリシェヴィキ入党。1905〜17年、亡命。10月革命後、財務人民委員をはじめ経済関係のポストを歴任。1917〜18年、ブレスト講和団の一員で、講和問題ではレーニンを支持。1925年、ジノヴィエフ、カーメネフらとともに新反対派に。1926年、ジノヴィエフ派とともに合同反対派に合流。しかし、1927年の8月合同総会までに合同反対派から離脱。1928年に右翼反対派に。1929〜32年、ロンドン駐在大使。1937年の第2次モスクワ裁判の被告となり、10年の禁固刑。1939年、獄中で謎の死を遂げる。1988年に名誉回復。

(2)ルイコフ、アレクセイ・イワノヴィチ(1881-1938)……古参ボリシェヴィキ、ブハーリン派指導者、経済学者。1899年以来の社会民主労働党員、1903年の分裂時にボリシェヴィキに。1905年革命後に亡命。ロシアに帰還した際に逮捕されシベリアに流刑。2月革命で釈放。1917年10月に内務人民委員。1917年から中央委員。1918年から最高国民経済会議の議長。1923年から政治局員。1924年から人民委員会議議長。1920年代にはスターリン派とともに反トロツキズム闘争に従事。1920年代末にスターリン派と対立し、右翼反対派として迫害される。1937年2月に逮捕。1938年の第3次モスクワ裁判で、でっち上げの罪で銃殺。1988年に名誉回復。

(3)カリーニン、ミハイル(1875-1946)……ロシアの革命家、労働者出身の古参ボリシェヴィキ。1896年にロシア社会民主労働党に入党。数回の逮捕・投獄を経験。1919年に死亡したスヴェルドロフに代わってソヴィエト中央執行委員会議長に選ばれ、死ぬまでソ連の形式上の元首の地位にとどまる。 

 

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