クルプスカヤへの手紙

トロツキー/訳 西島栄

【解題】これは、クルプスカヤが5月15日にジノヴィエフに宛てた手紙をめぐってトロツキーがクルプスカヤに宛てた手紙である。

 クルプスカヤが反対派からの離脱を公表することを決意したことめぐって、ジノヴィエフとトロツキーはそれぞれクルプスカヤに手紙を送ってその翻意を促したが、その努力むなしく、クルプスカヤは5月19日に合同反対派との決別を表明する内容の手紙を『プラウダ』編集部に送り、『プラウダ』は翌日にそれを紙面に掲載した。

 Л.Троцкий, Письмо Н.К.Крупской к вопрсу "самокритике", Архив Троцкого: Коммунистическая оппозиция в СССР: 1923-1927, Том.3, 《Терра−Терра》, 1990.


  親愛なるN・K

 私は、自分の手書きであなたを悩ませないようタイプライターで手紙を書いています。私の手書きは年を経てもうまくなりません。

 あなたの手紙(1)を読みました。それはG・E〔ジノヴィエフ〕個人に宛てたものでしたが、その内容はけっして個人的なものではないので、私がそれについて述べても差し支えないでしょう。

コシオール

 何よりも私が驚いたのは「空騒ぎ」という言葉です。この言葉は、中国労働者の壊滅とイギリス・メンシェヴィズムへの屈服をめぐるわれわれの演説に対してコシオール(2) [左の写真]が中央委員会総会で使った言葉を繰り返すものです。これらの問題に関して正しいのは誰だったのでしょうか? われわれでしょうか、それともスターリンでしょうか? あるいは第3の立場があるのでしょうか? いったい、この根本問題にレーニン的に答えることなく、「空騒ぎ」について語ることができるでしょうか? 「空騒ぎ」――この言葉は、取るに足りない事柄、ないしまったく意味のない事柄をめぐる口論を意味しています。しかしいったい、われわれの「同盟者」蒋介石による中国労働者の壊滅は、そのようなものでしょうか? わが党はあろうことか、その蒋介石に食糧、衣服、靴、賞賛を送り、彼に従うよう中国共産党員に指示していたのです。これは、われわれが見逃すことのできるような細かいこと、ささいなことでしょうか? あるいは、イギリス労働者や中国やわれわれに対するイギリス・メンシェヴィキの卑劣な活動が最高潮に達しているときに、全世界の前でこの骨の髄まで腐り果てた裏切り者たちとの連帯を宣言したことはどうでしょうか? これはいったい何でしょうか? 細かいこと、ささいなことでしょうか? そしてわれわれの批判は「空騒ぎ」でしょうか?

 おそらく、選挙規則の緩和や「豊かになれ」という指示のような諸事実がどの程度まで徴候的で危険なものであるかについては、まだ疑問を呈することも可能でしょう。けれども、最近の諸事件に照らして、スターリンとブハーリンがまさにその核心においてボリシェヴィズム――プロレタリアートの革命的国際主義――を裏切っていることにいささかの疑いもありえません。何といっても、中国の「民族」ブルジョアジーに対する関係の問題において、この問題が初めて本格的に提起された1904年以来のボリシェヴィズムの全歴史が完全に否定されてしまったのですから。

 N・K、あなたは、中国革命の全過程とコミンテルンの路線全体がかかっているこの問題に関して正しかったのはスターリンの立場なのか、それともわれわれの立場なのかについて、一言も語ろうとしません。あなたはコシオールが言い放った「空騒ぎ」という言葉を繰り返すのみです。

 あなたは、自己批判と他者からの批判とは別ものであると言っています。けれども、あなたは中央統制委員会のメンバーであり、どうして党員に対し自己批判の機会を保障しないのでしょうか? われわれは、政治局と中央統制委員会幹部会に、情勢の核心を討論するために、速記録を取らない中央委員会総会の非公開会議を召集するよう要求しなかったでしょうか? もちろん、われわれはそこにおいて、世界革命の基本的諸問題をめぐるボリシェヴィズムの基本原則のために、あらゆる可能性を行使して闘争するつもりでした。けれども、彼らはわれわれのこの要請を拒否しました。どうして「自己批判」がなされないのでしょうか? 自己批判がなされないのは、わが党の体制が不健全で粗野で不誠実なものだからだと、われわれがあなたとともに宣言したのは、それほど以前のことではありません(3)。党体制がこの半年間に改善されたとでも言うのでしょうか? あるいは、今日自己批判を必要としている諸問題があまりにも小さくて取るに足りないもの、「空騒ぎ」にすぎないものだということでしょうか?

 われわれ、党の革命的翼は敗北を喫しました。それは疑う余地はありません。けれども、われわれがこうむった敗北は、1907〜1912年にボリシェヴィズムがこうむったのと同じ種類の敗北です。1923年のドイツ革命の敗北、ブルガリアとエストニアの敗北、イギリスのゼネストの敗北、4月の中国革命の敗北――これらは、国際共産主義をひどく弱体化させました。この過程は2重の表現をとっています。一方で、ここ数年、共産党員の数と共産党の得票数がひどく減少し、他方で、共産党内部で日和見主義的翼が著しく強化されました。この世界的過程からわれわれは除外されているでしょうか? 世界革命の重大な敗北とわが国の成長の緩慢さは、言うまでもなく、わが国のプロレタリアートに悪影響を及ぼしています。官僚の愚か者たちはこのことを理解しません。彼らは、プロレタリアートの気分を決定するのは、世界的な社会的・政治的過程ではなく、宣伝煽動局の紋切り調のビラだと考えているのです。わが国プロレタリアートの国際主義的・革命的気分の退潮は一個の事実であり、これは党体制と誤った教育活動(「一国社会主義論」など)によって強められています。こうした条件のもとで、党の左翼的・革命的なレーニン主義的翼が流れに抗して泳がなければならないのは、何か不思議なことでしょうか?

 われわれの予測が事実によって立証されればされるほど、彼らはますます猛烈にわれわれを攻撃するでしょう。これは、革命の曲線における一時的とはいえ深刻な下降期においては真のマルクス主義的翼にとってまったく法則的で不可避なものです。けれども、われわれが、そしてわれわれだけが、革命的ボリシェヴィズムの思想的継承性を保持しており、生起したことを分析しこれから起こることを予測するレーニン主義的方法の適用を――レーニン不在のもとで――学び教えているのです。われわれは、わが国によって武装された蒋介石が非武装のプロレタリアートを不可避的に打ち負かすだろうと党に警告しなかったでしょうか? われわれはほぼ1年前に、ウラジーミル・イリイチがほとんどその全生涯を賭けて反対した原理へのベルリンでの恥ずべき屈服を予測しなかったでしょうか? そして、われわれが、国内政策における誤った路線が戦争の場合にはわが国を脅かす危機的なものになりうると指摘したのは間違っていたのでしょうか? そして、まだ手遅れではない現在、この点について百倍もの力を込めて叫ばざるをえなくなっているのではないでしょうか? これは「空騒ぎ」なのでしょうか? そもそもこの問題で「空騒ぎ」などありうるのでしょうか?

 スターリンは今や、この半年間に展開されてきた反対派に対する「消耗戦」を「絶滅戦」に変えることを決意しました。なぜでしょうか? スターリンが弱体化しているからです。中国および英露委員会における彼の破産は明白です。この破産の結果がわが国の国際状況に及ぼした悪影響もまたそうです。成長しつつある右翼がスターリンに圧力をかけています――何でまたイギリスのゼネストや中国に首を突っ込んだのか、なぜチェンバレンを刺激して干渉の危険を呼び起こしたりしたのか、一国で社会主義を建設すればいいじゃないか、と。これが、われわれを現在「打ち負かしつつある」現時点の基本的、根本的、本質的な傾向です。まさにスターリンは、右からの公然とは口に出されない批判と左からの半ば窒息させられているわれわれの批判との打撃を受けて途方もなく弱体化しているので、消耗戦から絶滅戦へと自分の戦争を変えなければならなかったのです。問題になっているのは、ささいなことでも、ちょっとした軌道修正でもなく、根本問題に関するボリシェヴィズムの基本路線なのです。「空騒ぎ」を云々する者は、流れがボリシェヴィズムと逆向きに流れている状況のもとで流れに沿って泳ぐようわれわれに提案しているのです。

 いや、N・K、われわれはそのようには泳がないでしょう。たとえあなたがコシオールにならって「空騒ぎ」という言葉をそのまま繰り返しても、われわれは流れに抗して泳ぐでしょう。そして、われわれは、この困難な時期である現在ほど、ボリシェヴィズムの全伝統との結びつきを深くはっきりと感じたことはありません。現在、われわれが、そしてわれわれだけが党とコミンテルンの未来を準備しているのです。

 心からあなたの健康を願っています。

エリ・トロツキー

1927年5月17日

『トロツキー・アルヒーフ』第3巻所収

『トロツキー研究』第42/43合併号より

  訳注

(1)クルプスカヤの手紙……1927年5月15日にジノヴィエフに宛てた手紙のこと。トロツキーのこの手紙に対して、クルプスカヤは5月19日付で返事をトロツキーに書いている。

(2)コシオール、スタニスラフ・ヴィケンティエヴィチ(1889-1939)……古参ボリシェヴィキ、スターリニスト。1907年以来のボリシェヴィキ。内戦中はウクライナで活躍。1920年、ウクライナ共産党中央委員会書記。1924年からソ連共産党中央委員、1926年、中央委員会書記。1928年、ウクライナ共産党書記長。1930年、政治局員。1938年1月にソ連人民委員会副議長に任命されるも、同年5月に逮捕され、1939年に銃殺。1956年に名誉回復。

(3)1926年7月の「13人の声明」のことを指している。

 

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