ピウスツキ体制とファシズムと現代の性格

トロツキー/訳 湯川順夫・西島栄

【解説】このテキストは、1926年に行なわれたポーランド問題特別委員会でのトロツキーの演説と、それを1932年にトロツキー自身が解説した前書きとからなっている。

 1926年におけるピウスツキ(右の写真)によるクーデター後の体制をどのように見るべきかについて、1926年のトロツキーは、それを基本的に、イタリアのムッソリーニ体制と類似のファシスト体制であると規定している。そのような判断の指標となったものは、旧体制の深刻な危機、革命の盛り上がりとその破綻、きわめて反議会的で反プロレタリア的な反革命、小ブルジョアジーの動員、エセ左翼主義的デマゴギーの利用といった要素である。ただし、トロツキーは、ムッソリーニの体制が本格的な革命的高揚の後に生じたのに対し、ピウスツキの体制が、そのような盛り上がりの前にその機先を制するクーデターの結果として起こったことに着目して、「予防的ファシズム」という規定を与えている。

 しかしながら、その後のトロツキーのファシズム論と比較するなら、いくつかの決定的な規定が欠落している。すなわち、ファシズムとは単なる反革命的独裁ではなく、下からの有機的な大衆運動に依拠していること、ブルジョア社会における労働者民主主義の要素を根絶し、労働者全体を強制的な細分状態に押しとどめ、社会全体をファシズムの側から有機的に組織化すること、などである。このような欠落は、当時のムッソリーニ政権が、本来のファシズムの特徴をまだ十分に発揮していなかったことから説明できるだろう。

 本稿はすでに、『トロツキー著作集 1932』(上)に掲載されているが、今回アップするにあたって、『反対派ブレティン』掲載のロシア語原文にもとづいて訳文の詳細な修正が行なわれている。

Л.Троцкий, Пилсудчина, фашизм и характер нащей эпохи, Бюллетень Оппозиции, No.29/30, Сентябрь 1932.


 1926年5月、ピウスツキ(1)はポーランドにおいてクーデターを敢行した。共産党指導部にとってはこの非常行動の性格がまったく不可解に見えたので、ヴァルスキ(2)をはじめとするポーランド共産党指導部はこの元帥の蜂起を支持するために街頭に出るようプロレタリアートに呼びかけた。今日ではこのような事実はまったく信じがたいことのように思える。しかし、これは、当時のコミンテルンの政策全体に深く根ざしたものだった。農民のための闘争はエピゴーネンたちによってプロレタリアートを小ブルジョアジーの中に溶解させる政策へとすり変えられてしまった。中国では、共産党は国民党に入党して従順にその規律に従った。東方のすべての諸国に対して、スターリンは「労働者農民党」のスローガンを掲げた。ソヴィエト連邦では、「超工業化論者」(左翼反対派)に対する闘争がクラークとの良好な関係を維持するという名目のもとに展開された。ロシア党の指導部層のあいだでは、プロレタリア独裁から「プロレタリアートと農民の民主主義独裁」という1905年当時の定式に回帰するべき時なのではないかという論点をめぐって、かなり公然たる論争が繰り広げられた。この定式は、事態の発展全体によって破産が宣告され、1917年にレーニンによってきっぱりと放棄されたものだが、エピゴーネンたちはこれを最高の基準に変えてしまった。「民主主義独裁」の観点から、コストシェヴァ(3)はローザ・ルクセンブルクの遺産を再評価した。ヴァルスキは、一時期、動揺していたが、それを克服した後はなおさら熱心に、マヌイリスキー(4)の号令の調子に歩みを合わせはじめた。ピウスツキのクーデターが勃発したのはこうした状況のもとであった。ポーランド共産党の中央委員会は、「農民の過小評価」を露呈することを死ぬほど恐れていた。とんでもない、何といっても彼らは「トロツキズム」に対する闘争の教訓をしっかり学んでいたのだから! そして、中央委員会のマルクス主義者たちは、反動的なごりごりの軍人の、ほぼ「民主主義な独裁」を支持するように労働者に呼びかけたのである。

 ピウスツキはたちまちエピゴーネンどもの理論に、実践による検証をもたらした。7月初めには早くも、コミンテルンは、モスクワでポーランド共産党の「誤り」の問題を検討することに着手しなければならなくなった。特別委員会における報告者であったヴァルスキは、情報を明らかにするとともに「自己批判」を行なった。彼には、事態の全責任を進んで引き受けることによってモスクワの指導者たちを守るという条件と引き換えに、あらかじめ完全な免罪が約束されていた! ヴァルスキはできるだけのことをやった。しかし、彼は自分の「誤り」を認めてそれを正すことを約束したものの、自分を襲った災厄の原則的基盤を明らかにする上で完全に無力であることがわかった。討論は全体として、はなはだしく混沌とし、錯綜した、しかもきわめて不誠実なものとなった。何といっても、その全目的は、布地を濡らさずにコートを洗うことにあったからである。

 私は許された10分間の発言時間内で、ファシズムの歴史的機能と結びつけてピウスツキのクーデターを評価し、そのことによってまたポーランド共産党指導部の「誤り」の根源を明らかにしようとした。委員会の議事録は公表されなかった。もちろん、このことは、私の未発表の演説に対する論争があらゆる国の言語で展開される妨げにはならなかった。この論争の反響は今日なお鳴り止んでいない。最近、保管文書に自分の演説の速記録を発見した私は、それを発表することは――とりわけドイツでの現在の事態に照らしてみるならば――今日でも一定の政治的関心を引くかもしれないとの結論に達した。政治的潮流は、歴史の発展のさまざまな段階で検証されなければならない。そうすることによってはじめて、その本当の内容とその首尾一貫性の内的力を正しく評価することができるのである。

 言うまでもなく、10分間の制限時間内で特別委員会で語られた6年前の演説であるから、それが与ええた以上のものを要求することはできない。もしこの文章がポーランドの同志たちに届くならば――この発表の真の目的はそこにあるのだが――、これらの同志たちは、最も事情に通じた読者としての資格で、私の発言に不十分なところがあればそれを補い、もし不正確なところがあればそれを訂正してくれるだろう。

 ピウスツキのクーデターは私の演説のなかでは「予防的」(機先を制した)クーデターであると評価されている。この性格規定はある意味で今日でも支持できるかもしれない。ポーランドの革命情勢は、1920年のイタリアや、その後の1923年のドイツ、1931〜32年のドイツほどの成熟に達しなかった。まさにそれゆえ、ポーランドのファシスト反動はこれら諸国のような激しさと深さにまで至らなかった。ピウスツキが6年かけてもいまだその仕事を完了していないのはこのためである。

 演説は、クーデターの「予防的」性格との関連で、ピウスツキの統治がムッソリーニの統治ほど長つづきしないだろうとの見通しを表明していた。残念ながら、どちらの体制も1926年のわれわれの見通し以上に生き延びた。この原因は客観的情勢だけにあるのではなく、コミンテルンの政策にもある。この政策の基本的欠陥は、見られるように、この演説の中で指摘されている。たしかにそれは非常に慎重な表現ではあったが、私がロシア共産党中央委員会の一員として、その規律に縛られて発言しなければならなかったという点を忘れないでいただきたい。

 ピウスツキ体制に対するポーランド社会党(5)の当初の立場が、「社会ファシズム」論にとってかなり効果的な支えになったという事実は否定できない。しかし、この点に関しても、その後の数年間で必要な修正がなされ、ブルジョアジーの民主主義的手先とファシスト的手先とのあいだの矛盾という考え方が打ち出されるようになった。この矛盾を絶対的なものとみなすものは誰であろうと、不可避的に日和見主義の道に転落するだろう。この矛盾を無視するものは誰であろうと極左的気まぐれと革命的無能力を運命づけられるだろう。まだその証拠が必要だというなら、ドイツに目を向けてみるがよい。

プリンキポ、1932年8月4日

 

コミンテルンのポーランド委員会における

トロツキーの演説

(1926年7月2日)

 

 私は、昨日と今日の会議の討論のなかで繰り返し提起された全般的重要性をもつ二つの問題だけを取り上げたい。

 第1の問題は、ピウスツキ体制とは何か、それはファシズムとどのような関係を持っているか、ある。

 第2の問題はポーランド共産党中央員会の誤りの根源はどこにあるか、である。私が念頭に置いているのは、個人的なないしグループ的な「根源」ではなく、時代状況に根ざす客観的なものであるが、だからといって個人の責任を過小評価するつもりはいささかもない。

 まず第1の問題は、ピウスツキ体制とファシズムである。

 この二つの潮流は疑いもなく共通する特徴を備えている。その突撃隊は何よりも小ブルジョアジーの中から徴集される。ピウスツキもムッソリーニも、議会外のむき出しの暴力的手段によって、内戦の方法によって活動している。両者とも、ブルジョア社会の打倒をめざしたのではなく、反対に、ブルジョア社会を救済しようとした。両者はともに、小ブルジョア大衆を立ち上がらせ、権力に就いた後に大ブルジョアジーと公然と衝突した。この点では、歴史的アナロジーがおのずと浮かんでくる。すなわち、ジャコバン主義を封建的階級敵を片づけるための平民的手段であるとみなしたマルクスの定義を想起せざるをえない。それはブルジョアジーの勃興期のことである。ここで言っておかなければならないのは、現在のブルジョア社会の衰退期において、ブルジョアジーは再び自らの課題を解決するさいの「平民的」手段を必要としているが、それはもはや進歩的なものではなくなり、徹頭徹尾反動的なものだということである。そしてこの意味で、ファシズムはジャコバン主義の反動的戯画なのである。

 その勃興期においてブルジョアジーは、古い封建的・官僚的国家の枠内ではその発展と支配の土台を確立することができなかった。新しい社会、すなわちブルジョア社会の開花を確保するためには、旧社会に対してジャコバン的方法を行使することが必要であった。他方、衰退期のブルジョアジーは、自らが確立した議会制国家の方法と手段によってはもはや、自らの権力を維持することができない。それは、少なくとも最も危機的局面において、自衛の武器としてのファシズムを必要とする。ブルジョアジーは、自らの課題の「平民的」解決を好まない。それは、ブルジョア社会発展のための流血の道を切り開いたジャコバン主義にきわめて敵対的な態度をとった。ファシストと衰退期のブルジョアジーとの関係は、ジャコバン派と勃興期のブルジョアジーとの関係とは比べものにならないほど緊密である。しかし、確固たる地位を確立したブルジョアジーも、自らの課題のファシスト的解決方法を好まない。なぜなら、それに伴う激動は、たとえそれがブルジョア社会のためであったとしても、ブルジョアジーにとっても危険だからである。ここから、ファシズムと伝統的ブルジョア政党との対立が生じているのである。

 ピウスツキ体制がその根源と源泉とスローガンにおいて、小ブルジョアジーの運動であることは、まったく議論の余地がない。ピウスツキ自身が自分の道をあらかじめ知っていたというのは、おそらく疑わしい。彼が特別に頭がよいとは思われない。その行動には凡人の烙印が押されている(ヴァレツキ(6)「君は間違っている!」)。しかし、私の目的はピウスツキの個人的特性を明らかにすることではない。ことによると彼は他の人よりもいくぶんかは先を見通していたのかもしれない。いずれにせよ、たとえ彼が自分のしたいことを知らなかったとしても、明らかに、避けたいものは非常によく知っていた。避けたかったもの、それは何よりも労働者大衆の革命運動である。彼が何も理解していなかったとしても、他の連中、ことによると英国大使でさえ、彼の代わりに考え抜いてくれたのである。いずれにせよ、ピウスツキによって引き起こされた運動が、その根源と源泉とスローガンの点で、解体と衰退の過程にある資本主義社会の切迫した課題を解決するための小ブルジョア的・「平民的」手段であるという事実にもかかわらず、ピウスツキは大資本とのあいだの協力関係をたちまち見出した。この点にすでに、イタリア・ファシズムとの直接的な類似性が見られる。

 ここでは、議会制民主主義こそ小ブルジョアジーが華々しく活躍できる場であるということが(ヴァルスキによって)言われた。しかしながら、つねにどんな条件のもとでもそうであるわけではない。議会制民主主義は、華々しく輝いていたが、やがて色あせ、しぼんでしまい、ますますその無力さを露呈するようになっている。それに、大ブルジョアジー自身が行き詰まっているので、議会という場は情勢の行き詰まりや全体としてのブルジョア社会の衰退を反映する鏡になっている。議会制度にあれほど大きな場所を割り当てていた小ブルジョアジー自身、議会制度を重荷に感じはじめ、課題の解決を議会外に求めている。ピウスツキ体制は、その源泉からすれば、小ブルジョアジーによって課題の議会外的解決をめざす試みなのである。しかし、まさにこのことのうちに、大ブルジョアジーへの屈服の不可避性がひそんでいる。というのも、議会において小ブルジョアジーが地主、資本家、銀行家に対するその無力さを、分割で、小売り規模で、個々の場面ごとに露呈するとすれば、課題の議会外的解決にさいしては、すなわち権力を奪取する瞬間においては、その社会的無力さは、小売り規模ではなく、卸売り規模で露呈されるからである。当初は、手に剣を携えた小ブルジョアジーがブルジョア体制に歯向かっているように見えるが、その反乱は結局、小ブルジョアジーが流血の道によって獲得した権力を、自分たちの指導者を通じて大ブルジョアジーに譲り渡すことでもって終わる。これこそまさにポーランドで起こったことである。そして、これこそがポーランド共産党中央委員会の理解しなかったことである。

 虫歯を持っている人間が歯を抜かれるのを嫌がるのと同じく、大ブルジョアジーはこの方法を嫌がっている。ブルジョア社会の上品ぶった連中は歯科医ピウスツキの仕事を嫌悪をもって眺めた。しかし、この層は、結局はこの避けがたい事態に屈服した。もっとも、抵抗する素振りを見せて相手を脅し、取引をし、代償を値切ろうとしたが。こうして、昨日まで小ブルジョアジーの崇拝の的であったものは、資本に仕える憲兵に変貌してしまった! 事態の発展は映画並みの驚くべき急テンポをとり、「革命的」――外見上は――スローガンと方式から、労働者と農民の攻勢に対して有産者を防衛する反革命的政策への移行が、あっという間に生じたのである。しかし、ピウスツキ体制の進化は全体としては法則にかなっている。テンポに関して言えば、それは内戦の結果であり、そのせいで諸段階が飛び越えられ、時間が短縮されたのである。

 ピウスツキ体制は「左翼」ファシズムなのか、それとも「非左翼」ファシズムなのか? 私はこのような区別が何かの役に立つとは思わない。ファシズムにおける「左翼主義」は、憤激する小ブルジョアジーの幻想を掻き立て膨れあがらせる必要性から出てきたものである。さまざまな国々のさまざまな条件のもとで、これは、さまざまな分量の「左翼主義」を利用しつつ、さまざまな形で実現された。しかし、本質的にピウスツキ体制は、ファシズム一般と同様に、反革命的役割を果たしている。これは反議会主義的で、何よりも反プロレタリア的な反革命であり、その助けを借りて、衰退するブルジョアジーはその根本的立場を擁護し、保持しようと試みている。これは少なくとも一時期の間にかぎれば、成功しないこともない。

 私はファシズムをジャコバン主義の戯画と呼んだ。シャコバン主義に対するファシズムの関係は、あらゆる領域で人類の力を高めていた青年期の資本主義に対する、生産力を破壊し社会の文化水準を引き下げている現代の資本主義の関係と同じである。もちろん、ファシズムとジャコバン主義との比較が正当なものとなりうるのは、他のすべての本質的に大規模な歴史的比較と同様、一定の限界内において一定の観点から行なう場合のみである。この比較を正当な限度を越えて広げようとすれば、誤った結論を導き出す危険があるだろう。しかし、その限界の枠内であれば、比較は一定の根拠ある説明となりうる。ブルジョア社会の最上層部は社会から封建制を一掃することができなかった。このためには小ブルジョアジーの利害と熱情と幻想を動員する必要があった。小ブルジョアジーは、結局のところ、他ならぬブルジョア社会の最上層部に奉仕することになったものの、ブルジョア社会の最上層部に反対する闘争のなかでこの任務を遂行したのである。ファシストもまた、支配層および公式国家機構との闘争ないし部分的闘争において、小ブルジョア世論および自らの武装部隊を動員した。直接的な革命の危険性がブルジョア社会を脅やかせば脅やかすほど、あるいは一時的には革命をも望むまでになった小ブルジョアジーの幻滅が先鋭になればなるほど、ファシズムはますます容易にこの動員をやり遂げる。

 ポーランドでは、この動員のための諸条件は非常に独特で複雑な性格を帯びており、これらの諸条件は、経済的・政治的行き詰まり、革命の曖昧な展望、それと結びついた「モスクワ」の脅威によってつくりだされた。ここに出席しているポーランドの同志の一人は――レンスキ(7)だったと思うが――、真のファシストはピウスツキの陣営にではなく、一度ならずもポグロム(大量虐殺)を行なってきた排外主義的徒党を操る大資本家の党、人民民主党の陣営に潜んでいるという趣旨の発言をした。これは事実だろうか? 人民民主党の予備的徒党は、いわば日常的事態に対しては十分間に合うだろう。しかし、この国の巨大な人民大衆を立ち上がらせて、議会制度や民主主義に対して、何よりもプロレタリアートに対して打撃を加えること、そして国家権力を軍事的鉄拳でもって完全に掌握すること、こうしたことのためには、このような資本家と地主の党だけでは不十分である。都市と農村の小ブルジョアジーおよび労働者の中の遅れた部分を動員するためには、小ブルジョア社会主義や革命的民族解放闘争の伝統のような政治的財産を利用する必要がある。人民民主党にはそのようなものはかけらもない。まさにそれゆえ、ポーランド小ブルジョアジーの動員は、一時期ポーランド社会党(PPS)を従えたピウスツキ元帥によって、人民民主党に対抗して達成されたのである。しかし、ひとたび権力を握ってしまうと、小ブルジョアジーはその権力を独自に行使することができない。彼らはプロレタリアートの圧力のもとでそれを手放すか、あるいはプロレタリアートが権力を奪取する力量を持っていなければ、その権力を大ブルジョアジーに譲り渡さざるをえない。後者の場合には、権力は、もはや以前のような分散した形態ではなく、新たなより集中した形態をとることになる。

 ポーランドにおける小ブルジョア社会主義と愛国主義の幻想が深ければ深いほど、そして経済と議会制度が行き詰まっているもとで小ブルジョアジーの動員が激しく行なわれれば行なわれるほど、勝利したこの運動の指導者は、自分に「王冠をかぶせて」ほしいと要請しつつ大ブルジョアジーの前にますますはっきりと、ますます臆面もなく、ますます「唐突な形で」ひざまずくのである。これが映画のようなテンポで進行するポーランドの事態の核心である。

 ムッソリーニが長期にわたる大きな成功を収めることができたのは、ブルジョア社会のすべての支柱とかすがいを揺さぶった1920年9月の革命が最後まで遂行されなかったからにすぎない。革命の潮が引き、小ブルジョアジーが幻滅し、労働者が疲弊した事態を踏まえて、ムッソリーニは自分の計画を立て、実行に移したのである。

 ポーランドでは、事態はそこまでいかなかった。体制の行き詰まりはすでに訪れていたが、大衆が戦闘に入る決意を固めているという意味での直接的な革命情勢はまだ存在していなかった。事態はまだ革命情勢に向かう途上にあった。ピウスツキのクーデターは、彼の「ファシズム」のあらゆる特徴と同様に、いわば、予防的クーデター、すなわち革命の機先を制するものである。まさにそれゆえ、ピウスツキ体制がイタリア・ファシズムのように長期間生存し続けるチャンスは、より少ないように思われる。ムッソリーニは、革命がすでに内部から破綻し、その後にプロレタリアートの能動性が不可避的に衰退してしまうという事態を利用した。他方、ピウスツキは迫り来る革命を押さえ込み、新しい酵母である程度まで自らを膨れあがらせ、自分につき従う大衆を臆面もなく欺いた。これは、ピウスツキが、革命の衰退ではなく高揚の波によってエピソード的な存在となるという予測の根拠をなすものである。

 私が取り上げたい2番目の問題は、ポーランド共産党の指導者が犯した誤りの客観的根源についてである。期待と幻想を抱いた小ブルジョアジーの圧力は、5月のクーデター時点で非常に強力だったことは疑いない。これは、どうしてこの段階で党が大衆を獲得して、運動の全体を真の革命的道へと導くことができなかったのを説明している。しかし、このことは党の指導部を免罪することにはけっしてならない。指導部は、小ブルジョア的自然発生性に無抵抗に屈服し、舵も帆もなしにその上を漂った…。

 誤りの基本的原因について言うと、それは現代という時代の性格に根ざしている。われわれはこの時代を革命の時代と呼んでいるが、激しいカーブと転換に満ちたその道を知り尽くすにはほど遠い状況にある。だが、これを知ることなしには、その時々における個々の具体的情勢を把握することはできない。危機と爆発のあいつぐ現代という時代は、相対的に順調に発展していた有機的時代であった戦前とは異なる。戦前期においては、ヨーロッパでは生産力の増大、階級分化の深化、一方における帝国主義の成長と他方における社会民主義主義の成長が見られた。プロレタリアートによる権力の獲得は、不可避であるが、この過程のはるか先にあるクライマックスにやって来るものとして描かれていた。より正確に言えば、社会民主主義の日和見主義者や中間主義者にとっては、社会革命とは無内容な空文句であった。ヨーロッパ社会民主主義の左翼にとってさえ、それは、段階的かつ系統的に準備をする必要のある遠い目標であった。戦争は突如としてこの時代に終止符を打ち、全面的にその矛盾を露呈させ、新しい時代を開始した。もはや生産力の着実な成長や工業プロレタリアートの数の系統的な増大、等々について語ることができなくなっている。経済の分野で存在するのは停滞か衰退である。失業は慢性的なものになった。もしヨーロッパ諸国の景気循環の変動か政治情勢の変遷を取り上げ、それを紙の上に曲線で表現するならば、周期的変動をともなった規則的な上昇曲線ではなく、激しく上下にジグザグする熱病的な曲線が得られるだろう。経済上の景気循環は、本質的に同一の固定資本の枠内で鋭く変動している。政治上の景気循環は、経済的行き詰まりの袋小路の中で急激に変動している。小ブルジョア大衆は、広範な労働者層をも巻き込みつつ右往左往している。

 もはや、生産的階級としてのプロレタリアートが不断に強化され、そしてその結果として革命党が不断に強化されるような有機的発展過程について語ることはできない。党と階級との相互関係は、現在の諸条件のもとでは、以前よりもはるかに先鋭に変動する。党の戦術は、その原則的基準を保持しつつも、いかなる旧習墨守なやり方とも無縁な、はるかに機動的で創造的な性格を持つ。いや持たなければならない! こうした戦術においては、何よりも革命的上げ潮の時期に突入しているのか、それとも逆に急激な引き潮の時期に入りつつあるのかに応じて、急激で大胆な転換は不可避である。現代という時代全体は、上昇線と下降線が先鋭なジグザグを描く曲線からなっている。こうした急激でしばしば突発的な変動を時機を失せず把握しなければならない。戦前における社会民主党中央委員会の役割と現在における共産党中央委員会の役割との相違は、ある程度まで、部隊を編成し訓練する参謀本部と、この部隊を戦闘的状況で――戦闘と戦闘のあいだに長い中断があったとしても――指揮する野戦司令部とのあいだの相違に似ている。

 大衆を獲得するための闘争は、もちろんのこと、いぜんとして基本的任務であり続けるが、今ではこの闘争の条件は異なっている。その時々における国内外情勢のいかなる転換も、次の段階で、大衆を獲得するための闘争を権力のための直接的闘争に転化させるかもしれない。今日では戦略を数十年の単位で測ることはできない。1年か2年か3年もすれば、ある国の情勢全体が根本的に変わる。この例をドイツの場合にとりわけはっきりと見ることができる。必要な前提条件なしに革命を起こそうとする試み(1921年3月)がなされた後、ドイツの党内に右への急激な偏向が現われた(ブランドラー主義)。そしてその後、この偏向は情勢全体の急激な左転換に直面して打ち砕かれた(1923年)。日和見主義的偏向に代わって極左的偏向が現れたが、それが優位を占めた時期は革命の退潮期にあたっていた。情勢と政策とのあいだのこうした矛盾から、革命運動をよりいっそう弱めるような誤りが生じてきている。その結果、右派と極左派とのあいだにある種の分業のようなものが生まれており、政治曲線が上下へ急激に転換するたびに、一方の派が破産をこうむり、対抗する派がそれにとって代わる。それと同時に、現在実践されているこのようなやり方――すなわち、情勢が転換するたびに指導部を交替させるというやり方――は、上昇と下降、引き潮と上げ潮をともに含んだより広範な経験を身につける機会を指導的カードルから奪っている。そして、急激な変化と突然の転換という現代の性格を総合的かつ系統的に理解することなしには、真のボリシェヴィキ指導部を教育することはできない。まさにそれゆえ、時代のすぐれて革命的な性格にもかかわらず、党とその指導部は、情勢によって提起されている要求の高みにまで上昇することができないでいるのである。

 ポーランドのピウスツキ体制は、安定化をめざすファシスト的闘争の体制となるだろうし、このことは階級闘争が極度に先鋭化することを意味する。安定化は、外部から社会に与えられるものではなく、ブルジョア政治にとって獲得すべき課題である。この課題は、部分的に解決されても、再び表面に現われてくる。安定化をめざすファシストの闘争は、プロレタリアートの抵抗を引き起こすだろう。ピウスツキのクーデターに対する大衆の幻滅の結果として、わが党にとって有利な情勢が生まれるだろう。もちろん、その指導部が政治情勢の曲線の一時的な上昇や下降に自らを一面的に順応させるのではなく、事態の発展全体の基本線を把握するならば、だが。安定化をめざすファシストの闘争に対しては、何よりも共産党の内部の安定化を対置しなければならない。そうすれば、勝利は保証されるだろう!

『反対派ブレティン』第29/30号

『トロツキー著作集 1932』上(柘植書房新社)より

 

  訳注

(1)ピウスツキ、ヨゼフ(1867-1935)……ポーランドの国家主義政治家、独裁者。1918〜21年大統領、在任中の1920年、ソヴィエト・ロシアに対する干渉戦争を遂行。リガ条約でソヴィエト・ロシアの一部を割譲。1921年、憲法に反対して下野するも、1926年にクーデターを起こして首相に。その後、独裁政治を死ぬまで継続。。

(2)ヴァルスキ、アドルフ(1868-1937)……ポーランドの革命家、ローザ・ルクセンブルクの親しい友人で長年来の同志。1888年、ポーランド・リトアニア社会民主党の創設に参加。1905年に指導的活動家に。1906年にロシア社会民主労働党と合同した際、同党の中央委員に。第1次大戦中は国際主義派。ツィンメルワルト会議とキンタール会議に参加。1918年にポーランド共産党の創立に参加。中央委員、政治局メンバー。1922年のコミンテルン第4回大会で議長団の一員。1924年、コミンテルン執行委員会の一員になるも、同年遅くに、解任。1926年に共産党の国会議員。1929年にロシアに亡命。マルクス=エンゲルス研究所で活動。1937年にモスクワで逮捕・銃殺。

(3)コストシェヴァ、ヴェーラ(1879-1939)……ポーランドの女性革命家。1906年以来のポーランド左派社会党(左派PPS)の創立メンバー。同中央委員。同党が1918年にポーランド・リトアニア社会民主党と合同してポーランド共産党を結成したとき、その中央委員。ヴァルスキ、ヴァレツキとともに同党の最高指導者に。1924年、コストシェヴァとヴァルスキとヴァレツキの党指導部は、左翼反対派に対し明確な反対の立場をとらず、スターリンによって攻撃され、指導部から排除。その後ブハーリニストになり、1927年に中央委員に再選。1929年にブハーリニストとして指導部より排除。1930年にソ連に住み、大粛清期に逮捕され、1939年に獄死。

(4)マヌイリスキー、ドミートリー(1883-1959)……ウクライナ出身の革命家、古参ボリシェヴィキ、スターリニスト。1903年以来のボリシェヴィキ。1905年革命に積極的に参加。逮捕され、流刑されるも、途中で脱走。1907-12年、フランスに亡命。1912-13年、非合法活動のためロシアに戻る。その後再びフランスに亡命。第1次大戦中は『ナーシェ・スローヴォ』の編集者の一人。1917年にロシアに帰還し、メジライオンツィ7に。その後、ボリシェヴィキに。1918年、ウクライナ・ソヴィエトの農業人民委員。1922年からコミンテルンの仕事に従事。1928年から43年までコミンテルンの書記。1931年から39年まではコミンテルンの唯一の書記。「第三期」政策を積極的に推進。スターリンの死後に失脚。キエフで死去。。

(5)ポーランド社会党(PPS)……1892年にピウスツキやダシンスキらによって創設された民族主義的改良主義政党。その中の左派は1906年に分裂して左派社会党を結成し、この左派社会党は、1918年にポーランド・リトアニア社会民主党と合同してポーランド共産党を結成した。ポーランド社会党のほうは、その後も右傾化を続け、第1次大戦中は社会排外主義の立場にたち、ロシア革命後は反ソ・反ボリシェヴィキの立場をとった。ピウスツキのクーデターに対しては形式的には反対の立場をとったが、積極的には闘わなかった。

(6)ヴァレツキ、マクシミリアン(1877-1938)……ポーランドの革命家、別名マックス・ホルヴィッツ。1895年にポーランド社会党に入党し、分裂後、左派社会党の指導者。第1次大戦中はツィンメルワルト派。1918年に新しいポーランド共産党の指導的メンバーとなり、綱領の作成者、コミンテルンへの代表者に。1920年代半ばに除名。大粛清期に粛清。

(7)レンスキ、ユリアン(1890-1939)……ポーランドの革命家。最初はポーランド・リトアニア社会民主党の指導者で、ボリシェヴィキに近い立場。1914年に逮捕され、1916年に釈放。1917年4月、ボリシェヴィキ第7回全国協議会に参加。10月革命後、民族問題人民委員会のポーランド問題担当委員に。ポーランド共産党創立後、ポーランド共産党の中心メンバーに。1925年、ポーランド共産党中央委員および政治局員。1929年にポーランド党書記長およびコミンテルン執行委員会常任幹部会員になり、「第三期」および人民戦線の初期にはコミンテルンの主要な代弁者となる。1937年にモスクワに呼び戻され、他のポーランド党指導者とともに逮捕。1938年、ポーランド党の解散がコミンテルンによって一方的に決定される。1939年に粛清。

 

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