1930年代前期
(1930〜1933)
第16期 プリンキポ時代(2)――コミンテルンの極左転換と冒険主義的経済路線 (1930〜1933)
◇コミンテルンの「第三期」論
「
コミンテルンの誤謬の『第三期』」(『反対派ブレティン』第8号、1930年1月8日)「
コミンテルン執行委員会9月総会」(『反対派ブレティン』第32号、1932年10月13日)
◇ソ連の経済的冒険主義に対する闘争
「
ソ連経済の新路線――経済的冒険主義とその危険性」(『反対派ブレティン』第9号、1930年2月13日)「5ヵ年計画と世界の失業」(『反対派ブレティン』第
10号、1930年3月14日)「ソ連からの質問への回答」(
1930年3月)「党の状況と反対派の課題――ソ連共産党員への公開状」(『反対派ブレティン』第
10号、1930年3月23日)「機構のきしみ」(『反対派ブレティン』第
11号、1930年4月13日)「資本主義へか社会主義へか」(『反対派ブレティン』第
11号、1930年4月25日)「世界の失業と5ヵ年計画――チェコスロヴァキアの共産党員労働者への手紙」(『反対派ブレティン』第
15/16号、1930年8月21日)(English)「理論家としてのスターリン」(『反対派ブレティン』第
14号、1930年7月15日)
◇ソ連共産党第16回大会をめぐって
「ソ連共産党第16回大会に向けて」(
1930年5月31日)「ソ連共産党第16回大会に関する予備的コメント」(
1930年7月25日)「勝つのはどちらか?」(『反対派ブレティン』第
14号、1930年8月)「ラコフスキーその他の同志たちの声明について」(『反対派ブレティン』第
17/18号、1930年10月22日)【資料】ラコフスキー、ムラロフ、その他「ソ連共産党中央委員会、中央統制委員会および全党員への訴え――討論に先立って」(『反対派ブレティン』第
17/18号)「ソ連における課題」(
1930年10月31日)
◇ソ連経済の深まる危機
「次は何か――右派に対する反対キャンペーンによせて」(『反対派ブレティン』第
17/18号、1930年11月)「妨害者裁判は何を教えるか?」(『反対派ブレティン』第
17/18号、1930年11月)「左派と右派のブロック」(『反対派ブレティン』第
17/18号、1930年11月21日)「
社会主義の成功と冒険主義の危険性」(『反対派ブレティン』第17/18号、1930年12月)「5ヵ年計画と世界――『マンチェスター・ガーディアン』のインタビュー」(
1931年2月)「
5ヵ年計画を4年で?」(『反対派ブレティン』第19号、1931年3月)「政治的チェス盤における人物の真の傾向――メンシェヴィキ裁判によせて」(『反対派ブレティン』第
21/22号、1931年3月11日)「
ソ連邦の発展の諸問題」(『反対派ブレティン』第20号、1931年4月4日)「新しいジグザグと新しい危険性」(『反対派ブレティン』第
23号、1931年7月15日)【資料】ラコフスキー「5ヵ年計画の危機」(『反対派ブレティン』第
25号、1930年7〜8月)「非常に重大な事実」(『反対派ブレティン』第
24号、1931年9月)
◇スターリンによる新たな犠牲者
「ブリュムキン、スターリニストによって銃殺される」(
1930年1月4日)「イエスかノーか――ブリュムキンの処刑に関する最初の回答」(
1930年3月1日)「反対派の銃殺――ラコフスキーは危機にある!、国外の友人たちへ」(『反対派ブレティン』第
10号、1930年4月)「スターリンの新たな犠牲者――同志コート・ツィンツァーゼの死によせて」(『反対派ブレティン』第
17/18号、1930年12月)「ある友の思い出――コート・ツィンツァーゼの新しい墓の前で」(『反対派ブレティン』第
19号、1931年1月7日)「N.V.ヴォロフスカヤ」(『反対派ブレティン』第
19号、1931年3月)「リャザーノフ事件」(『反対派ブレティン』第
21/22号、1931年3月8日)「リャザーノフへの新たな中傷」(『反対派ブレティン』第
21/22号、1931年5月1日)
◇第2次5ヵ年計画とソ連経済の新しい段階
「
15年!」(『反対派ブレティン』第31号、1932年10月13日)「
危機に立つソヴィエト経済(第2次5ヵ年計画を前にして)」(『反対派ブレティン』第31号、1932年10月22日)『危機に立つソヴィエト経済』外国語版序文(『反対派ブレティン』第32号、1932年10月22日)
「テルミドールの危険」(
1933年1月11日)「
危険信号」(『反対派ブレティン』第33号、1933年3月3日)「ソ連の計画経済――成功か失敗か」(
1933年9月7日)
◇スターリンによるテロと犯罪の拡大
「同志トロツキーに対する白衛派によるテロ行為に関するボリシェヴィキ
=レーニン主義者(国際左翼反対派)の声明」(『反対派ブレティン』第27号、1931年12月)「ソヴィエト中央執行委員会幹部会への公開状――トロツキーとその家族の市民権剥奪について」 (『反対派ブレティン』第
27号、1932年3月1日)「
スターリニストは策を講じる――ジノヴィエフとカーメネフ等の除名によせて」(『反対派ブレティン』第31号、1932年10月19日)【資料】「リューチン派の政綱」
「Z・L・ヴォルコヴァの死について」(
1933年1月11日)「ただちに援助が必要だ――10月革命のすべての友人たちへ」(
1933年3月6日)「ジノヴィエフとカーメネフの2度目の降伏」(
1933年5月23日)「スクルイプニクの自殺」(
1933年7月15日)
◇スターリニストによる歴史偽造
「『プラウダ』編集部へ」(『反対派ブレティン』第
23号、1931年7月15日)『スターリンの偽造学派』(
1932年)「1927年11月7日の『反乱』」(
1932年1月2日)「ローザ・ルクセンブルクへの中傷をやめよ!」(
1932年6月28日)「
コミンテルン第3回大会の教訓――レーニンの隠された演説」(『反対派ブレティン』第32号、1932年秋)「
スターリンがまたしても自分に不利な証言」(『反対派ブレティン』第32号、1932年秋)「レーニンの遺書について」(
1932年12月31日)(English)「スターリニストの最新の偽造」(
1933年6月)
◇テルミドールとボナパルティズム
「テルミドールとボナパルティズムの問題について」(
1930年11月)「テルミドールとボナパルティズム」(『反対派ブレティン』第
17/18号、1930年11月26日)(English)「大きな問題と大きな展望について――ボナパルティズムその他について」(『反対派ブレティン』第
17/18号、1930年11月)「アメリカ共同通信の代表者の質問に対する回答」(『反対派ブレティン』第
23号、1931年7月14日)「友人たちへの説明――ソ連における二重権力の諸要素の問題によせて」(『反対派ブレティン』第
25/26号、1931年9月2日)【資料】X、Y、Z「革命の危機――闘争の展望と反対派の課題」(『反対派ブレティン』第
25/26号、1930年夏)
◇ソヴィエト体制の諸問題
「弱体化しつつあるのはスターリンなのかソ連なのか」(
1932年1月23日)「『ニューヨーク・タイムズ』の質問に対する回答」(
1932年2月15日)「窮地に立つスターリン官僚制」(
1932年6月16日)「『スターリン打倒』はわれわれのスローガンではない」(
1932年8月)「レーニン主義とスターリニズム――ルイス・フィッシャーの見解への回答」(
1932年10月)「両手をさしのべて――スターリン官僚制とアメリカ合衆国」(
1932年12月)「スターリンの否認」(
1933年1月14日)「『新路線』ギリシャ語版序文」(
1933年1月28日)「誠実な内部協定が必要だ」(
1933年3月30日)「ソヴィエト体制の諸問題――堕落の理論と理論の堕落」(
1933年4月29日)
◇ジャーナリストの覚書
「ジャーナリストの覚書」(『反対派ブレティン』第
15/16号、1930年9月)「ジャーナリストの覚書」(『反対派ブレティン』第
17/18号、1930年12月)「ジャーナリストの覚書」(『反対派ブレティン』第
19号、1931年3月)「ジャーナリストの覚書」(『反対派ブレティン』第
21/22号、1931年6月)
◇永続革命論の諸問題
「二つの概念――『永続革命論』ドイツ語版・英語版序文」(『反対派ブレティン』第
10号、1930年3月29日)「ブハーリンの永続革命論」(『反対派ブレティン』第
23号、1931年7月)「レーニン時代の永続革命論」(『反対派ブレティン』第
23号、1931年7月)
◇『ロシア革命史』
「『ロシア革命史』第1巻序文」(
1930年11月14日)「『ロシア革命史』ロシア語版序文」(
1931年2月25日)『ロシア革命史』第1巻(
1931年)(Russian)「『ロシア革命史』第2巻序文」(
1932年5月13日)『ロシア革命史』第2巻(
1933年)(Russian)(Russian)「
歴史の客観性とは何か」(『反対派ブレティン』第35号、1933年4月1日)
◇マルクス主義、文化、哲学
「マヤコフスキーの自殺」(『反対派ブレティン』第
11号、1930年5月)「モロトフの科学の繁栄」(『反対派ブレティン』第
15/16号、1930年9月)「雑録」(『反対派ブレティン』第
19号、1931年3月)「プロレタリア文学に関するレオン・トロツキーの意見」(
1932年4月)「デミヤン・ベードヌイについて」(
1932年7月)「ソヴィエトの生活と道徳に関する14の質問」(
1932年9月17日)「M・イーストマンとマルクス主義」(
1933年1月4日)「芸術と哲学の分野における党の政策」(
1933年6月16日)「フォンタマーラ」(『反対派ブレティン』第
36/37号、1933年7月19日)
第
17期 プリンキポ時代(3)――各国の革命的展望と左翼反対派(1930〜1933)
◇コミンテルンと国際左翼反対派
「コミンテルンの三つの分派」(
1930年)「大きな一歩前進――左翼反対派の統一」(
1930年4月)「クレスティンテルンと反帝国主義同盟」(『反対派ブレティン』第
15/16号、1930年9月)「反戦闘争は幻想を許さない」(『反対派ブレティン』第
17/18号、1930年11月)
◇国際左翼反対派の課題
「国際書記局と国際ビューロー」(
1931年3月7日)「各国協議会を最初にやるべき」(
1931年4月2日)「左翼反対派の直面する原則的・実践的諸問題」(
1931年6月5日)「時代に関する若干の省察と左翼反対派の課題」(
1931年7月28日)「友人の読者へ、同情的な読者へ、動揺している読者へ、思考する読者へ、敵対する読者へ」(『反対派ブレティン』第
24号、1931年9月)「各国支部への手紙」(
1931年12月22日)
◇中国左翼反対派の統一のために
「
中国における国民議会のスローガン」(『反対派ブレティン』第11号、1930年4月2日)「劉仁静への手紙」(
1930年8月22日)「『われわれの話』派への手紙」(
1930年8月22日)【資料】陳独秀「全党同志に告げる書」(
1929年)「十月社への手紙」(
1930年9月1日)「マックス・シャハトマンへの手紙」(
1930年12月10日)「
中国左翼反対派への手紙」(『反対派ブレティン』第19号、1931年1月8日)「陳独秀への手紙」(
1931年4月7日)
◇中国革命の課題と展望
「スターリンと中国革命」(『反対派ブレティン』第
15/16号、1930年8月26日)(English)(Russian)「
中国革命の課題と展望――中国と全世界の共産主義者へ」(『反対派ブレティン』第15/16号、1930年9月)(English)「算を乱しての退却――マヌイリスキーの『民主主義独裁』論」(『反対派ブレティン』第
17/18号、1930年11月)(English)「第2中国革命史を書くことが必要だ」(『反対派ブレティン』第
15/16号、1930年10月)「絞殺された革命――フランス小説家の中国革命論」(『反対派ブレティン』第
21/22号、1931年2月9日)(English)「中国共産党で何が起こっているか」(『反対派ブレティン』第
19号、1931年3月)(English)「絞殺された革命とその絞殺者」(『反対派ブレティン』第
23号、1931年6月13日)(English)
◇日本の満州侵略と中国革命の新しい展開
「
日本の満州侵略と日ソ戦争の可能性」(1931年11月30日)「
日本、中国、ソ連――アメリカのUP通信とのインタビュー」(『反対派ブレティン』第28号、1932年2月29日)「
中国における農民戦争とプロレタリアート」(『反対派ブレティン』第32号、1932年9月22日)(English)「中国の同志への手紙」(
1931年9月27日)「
思弁ではなく行動のための戦略を」(『反対派ブレティン』第32号、1932年10月3日)「
破局に向かう日本」(『反対派ブレティン』第38/39号、1933年7月12日)
◇アジアとアフリカ
「
インド革命――その課題と危険性」(『反対派ブレティン』第12/13号、1930年5月30日)「
インドシナ反対派の宣言について」(1930年9月18日)「
『有色』人種プロレタリアにもっと接近せよ!」(『反対派ブレティン』第28号、1932年6月23日)
◇スペイン革命――最初の段階
「
スペイン共産主義者の課題――『流れに抗して』編集部への手紙」(『反対派ブレティン』第12/13号、1930年5月25日)「
スペイン革命」(『反対派ブレティン』第19号、1931年1月24日)「アンドレウ・ニンとヴィクトル・セルジュ」(
1931年3月)「
ありのままを語ること――『コムニスモ』編集部への手紙」(1931年4月12日)「
スペイン共産主義者の十戒」(『反対派ブレティン』第21/22号、1931年4月15日)「
共産主義者の隊列の統一を――ソ連共産党政治局(ボ)への手紙」(『反対派ブレティン』第21/22号、1931年4月24日)「スペインからの最初の教訓」(
1931年5月1日)「
スペイン革命の諸問題――日々刻々(1)」(『反対派ブレティン』第21/22号、1930年5月25日〜1931年5月20日)「シャハトマンへの手紙」(
1931年5月23日)「
スペイン革命とそれをおびやかす危険」(『反対派ブレティン』第21/22号、1931年5月28日)「
イタリアの反対派とスペイン革命」(1931年6月9日)「
カタロニアの『労農ブロック』の政綱について」(『反対派ブレティン』第23号、1931年6月12日「
スペイン革命の戦略と戦術」(1931年6月18日)「種々雑多な情報」(
1931年7月1日)「
スペイン革命の諸問題――日々刻々(2)」(『反対派ブレティン』第23号、1930年5月31日〜1931年7月8日)「再びスペイン革命の当面する諸問題について」(『反対派ブレティン』第
23号、1931年7月13日)「スペイン革命に関する二つの手紙」(『反対派ブレティン』第
24号、1931年7月30日、8月2日)「再びソヴィエトと『バルカン化』論について」(
1931年9月1日)
◇イタリア革命と左翼反対派の諸問題
「プロメテオ・グループへの公開状」(
1930年4月22日)「
イタリア革命の諸問題――イタリア新反対派への手紙」(『反対派ブレティン』第15/16号、1930年5月14日)【資料】イタリア新反対派の公開状(『反対派ブレティン』第
15/16号、1929年9月)【資料】レオネッティ「トロツキーとイタリア労働者」(『反対派ブレティン』第
17/18号、)「『プロメテオ』編集部への手紙」(『反対派ブレティン』第
15/16号、1930年6月19日)「
民主主義をめぐるプロメテオ決議に関する批判的論評」(1931年1月15日)「プロメテオ・グループへの二つの手紙」(
1931年4月14日、5月28日)「ボルディガ主義の路線」(
1931年6月10日)
◇フランス左翼反対派の党内抗争
「新しい一歩前進」(
1930年1月21日)「左翼反対派の統一」(
1930年2月8日)「『ヴェリテ』へのあいさつ」(『反対派ブレティン』第
15/16号、1930年8月25日)【資料】ベルナール「フランス共産党員への公開状」(『反対派ブレティン』第
15/16号)「フランス支部の闘争における個人的要素」(
1930年11月25日)「すべてのグループは明確な立場をとるべきである」(
1930年12月19日)「国内協議会と国際主義」(
1930年12月22日)
◇フランス支部と労働組合論争
「モナットはルビコン河を渡る」(
1930年12月15日)「労働組合問題におけるフランス共産主義者同盟右派分子の誤り」(『反対派ブレティン』第
19号、1931年1月4日)「モナット――社会愛国主義の弁護者」(『反対派ブレティン』第
19号、1931年1月26日)「労働組合の統一をめぐる論争によせて」(『反対派ブレティン』第
21/22号、1931年3月25日)
◇深まるフランス支部の危機
「フランス支部についてのアルフォンソ・レオネッティの見解」(
1931年2月5日)「新しい指導部を援助すべきである」(
1931年2月11日)「われわれの政策を堕落から守るために」(
1931年3月13日)「統制委員会は何をなすべきか」(
1931年5月1日)「ドイツの分裂の責任の一端」(
1931年5月23日)「同志トランの声明について」(
1931年5月23日)「フランスと革命」(
1931年6月9日)「フランスの指導部の問題」(
1931年6月28日)「無責任なタイプの人間」(
1931年8月2日)「フランスの討論」(
1931年8月20日)「ロスメルの政治」(
1931年9月1日)「アルベール・トランへの手紙」(
1931年9月13日)「アルベール・トランへの第2の手紙」(
1931年9月22日)「フランス共産主義者同盟の内的諸困難」(
1931年9月25日)「フランス共産主義者同盟の協議会への手紙」(
1931年9月25日)「フランス問題の総括」(
1931年10月9日)「個人的同情と政治的責任」(
1931年12月25日)「どうしてミルを解任しなければならないか」(
1931年12月29日)「フランス共産主義者同盟内のユダヤ人グループへの回答」(
1932年1月15日)
◇アメリカの左翼反対派と労働党問題
「アルバート・グロッツァーとの討論」(
1931年10-11月)「アルバート・ワイスボードへの返事」(
1931年10月10日)「ヨーロッパにおけるアメリカ共産主義者同盟の役割」(
1931年12月25日)「『ウンゼル・カンフ』への挨拶」(
1932年5月9日)「
アメリカにおける労働党の問題」(1932年5月19日)「際限のない分派主義は必要ない」(
1932年7月4日)「アメリカ共産主義者同盟の統一への期待」(
1932年7月18日)「ハーバート・ソローとの討論」(1932年夏)
「
アメリカ・マルクス主義の展望」(『反対派ブレティン』第32号、1932年11月4日)「アメリカ同盟内の情勢」(
1933年3月7日)
◇アメリカの黒人問題と経済問題
「アメリカにおける黒人問題」(
1933年2月28日)「不均等複合発展とアメリカ帝国主義の役割」(
1933年3月4日)「アメリカの銀行恐慌」(
1933年3月17日)
◇イギリス情勢と左翼反対派の課題
「イギリスとインドにおける左翼反対派の課題」(
1931年11月7日)「イギリスには援助が必要だ」(
1931年11月9日)「イギリスの選挙と共産主義者」(
1931年11月10日)「革命情勢とは何か?」(
1931年11月17日)
◇東欧・バルカン諸国の左翼反対派
「ハンガリーの同志たちへの手紙」(『反対派ブレティン』第
15/16号、1930年8月1日)「ブルガリアの同志たちへ」(
1930年10月4日)「ギリシャのボリシェヴィキ・レーニン主義組織へ」(
1930年10月)「ブルガリア反対派の宣言についての疑問と異論」(
1930年11月29日)「ブルガリアの左翼反対派の課題」(
1931年10月17日)【資料】ブルガリア反対派グループ『解放』「思想的明確さと組織的再生のために!」(『反対派ブレティン』第
17/18号)「ギリシャについての討論」(
1932年春)「ポーランド左翼反対派へのあいさつ」(
1932年8月31日)
◇スペイン革命とスペイン左翼反対派
「狭い分派か広い分派か」(
1931年9月27日)「
『エル・ソヴィエト』紙への挨拶」(1931年9月29日)「スペイン左翼反対派協議会へのメッセージ」(
1932年3月7日)「スペイン支部の国際関係」(
1932年3月7日)「
スペインの青年へ」(1932年6月13日)「
スペインのコルニーロフ派とスペインのスターリニスト」(『反対派ブレティン』第31号、1932年9月20日)「同志ラクロワへの手紙」(
1933年3月25日)「スペイン左翼反対派の全メンバーへの手紙――反ファシスト大会について」(
1933年4月24日)
◇ベルギーとスイスの左翼反対派
「ベルギー左翼反対派の執行委員会へ」(『反対派ブレティン』第
17/18号、1930年10月
13日)「人は常に最初は弱い――スイス左翼反対派への手紙」(
1931年12月17日)「ベルギーの反対派とその新聞」(
1932年12月20日)
◇国際左翼反対派の結集と前進
「国際左翼反対派――その課題と方法」(
1932年12月)「左翼反対派の現状について」(
1932年12月16日)「大きな成功――左翼反対派の準備大会について」(
1933年3月)
第18期 プリンキポ時代(4)――ドイツ・ファシズムとの闘争(1930〜33)
◇ドイツ・ファシズムの台頭
「社会ファシズムとは何か」(『反対派ブレティン』第
15/16号、1930年9月)「
コミンテルンの転換とドイツの情勢」(『反対派ブレティン』第17/18号、1930年9月26日)(English)
◇レーニンブントとドイツ左翼反対派
「レーニンブントのすべてのメンバーへの公開状」(
1930年2月6日)【資料】ドイツ左翼反対派「ドイツ共産党の勝利のために、議会外の大衆運動のために!」(『反対派ブレティン』第
15/16号)「ドイツ左翼反対派の協議会への手紙」(『反対派ブレティン』第
17/18号、1930年9月17日)「ドイツ支部の諸問題」(
1931年1月31日)「ドイツ左翼反対派の危機」(
1931年2月17日)
◇生産の労働者統制と赤色人民投票
「
生産の労働者統制について」(『反対派ブレティン』第24号、1931年8月20日)「
民族共産主義反対!――『赤色』人民投票の教訓」(『反対派ブレティン』第24号、1931年8月25日)(English)「工場委員会と生産の労働者統制」(
1931年9月12日)「ロシアとドイツの貿易関係」(
1931年11月14日)
◇反ファシズム統一戦線のために
「
ファシズムとは何か?」(1931年11月15日)「
国際情勢の鍵はドイツにある」(『反対派ブレティン』第25/26号、1931年11月26日)「
ドイツ共産党の労働者党員への手紙」(『反対派ブレティン』第27号、1931年12月8日)「
社会主義労働者党の創設と共産主義者の任務」(1931年12月14日)
◇次は何か!――岐路に立つドイツ
「政治局への手紙」(
1932年1月4日)「左翼反対派と右翼反対派」(
1932年1月)『
次は何か――ドイツ革命とスターリン官僚制』(1932年初め)「
ドイツとの戦争の可能性」(1932年4月発表)「
『モンターク・モルゲン』誌とのインタビュー」(1932年5月12日)「チューリヒ労働者への手紙」(
1932年6月25日)
◇アムステルダム反戦大会
「反戦大会の提案について」(
1932年6月9日)「
反戦大会に関する手紙」(『反対派ブレティン』第28号、1932年6月13日)「
アムステルダム反戦大会への声明」(『反対派ブレティン』第29/30号、1932年7月15日)「
レーニン『共産主義の左翼小児病』ポーランド語版序文」(『反対派ブレティン』第32号、1932年10月6日)
◇ファシズムとボナパルティズム
「
ピウスツキ体制とファシズムと現代の性格」(『反対派ブレティン』第29/30号、1932年8月4日)「
ドイツのパズル」(1932年8月)「
攻勢を強めよう!」(『反対派ブレティン』第29/30号、1932年8月6日)「トロツキーとの会話」(
1932年8月25日)『
唯一の道』(1932年9月)(English)「
ドイツ・ボナパルティズム」(『反対派ブレティン』第32号、1932年10月30日)
◇コペンハーゲンへの小旅行
「
ロシア革命の擁護(コペンハーゲン演説)」(1932年11月27日)「
学生と知識人について」(1932年11月)「同志トロツキーの旅行に関するボリシェヴィキ・レーニン主義者の声明」(
1932年11月)「
ジャーナリストの質問に答えて」(『反対派ブレティン』第32号、1932年12月3日)「
ヴァンデルヴェルデへの公開状」(『反対派ブレティン』第32号、1932年12月5日)
◇迫りくる破局
「ドイツのボリシェヴィキ・レーニン主義者への挨拶」(
1933年2月2日)「
決断を前にして」(『反対派ブレティン』第33号、1933年2月5日/6日)「ドイツで何が起こっているか」(
1933年2月22日)「
防衛のための統一戦線――社会民主党労働者への手紙」(1933年2月23日)「ドイツの情勢――同志たちとの対話」(
1933年3月3日)
◇ファシズムの勝利
「
ヒトラーの勝利」(1933年3月10日)「
ドイツ・プロレタリアートの悲劇」(『反対派ブレティン』第34号、1933年3月14日)
◇ドイツ共産党の崩壊と新党問題
「
ドイツ共産党か新党か」(T〜V)(『反対派ブレティン』第34号、1933年3月12日、29日)「新党に反対するドイツ支部の決定」(
1933年3月19日)「われわれはドイツ問題について討論しなければならない」(
1933年4月3日)「
ドイツ共産党の崩壊と反対派の任務」(『反対派ブレティン』第34号、1933年4月9日)「
ドイツの決議案に答えて」(1933年4月21日)「ドイツの状況と反対派」(『反対派ブレティン』第
34号、1933年4月)「
ドイツの破局――指導部の責任」(『反対派ブレティン』第35号、1933年5月28日)「
『8月4日』」(『反対派ブレティン』第35号、1933年6月4日)
◇反ファシズム大会
「
反ファシズム大会に関する手紙」(1933年3月23日)「
反革命の経済的攻勢と労働組合」(『反対派ブレティン』第34号、1933年3月30日「
反ファシズム大会への声明」(『反対派ブレティン』第34号、1933年4月)「
青年運動について」(『反対派ブレティン』第34号、1933年4月10日)「パリの反ファシズム大会」(『反対派ブレティン』第
35号、1933年6月)
◇社会主義労働者党とブランドラー派
「
左翼反対派と社会主義労働者党」(1933年4月27日)「
ブランドラー派の政綱」(『反対派ブレティン』第35号、1933年5月22日)「左翼社会主義組織とわれわれの課題」(『反対派ブレティン』第
35号、1933年6月15日)
◇ヒトラー政府とソ連邦
「
ドイツとソ連邦」(1933年3月17日)「
ヒトラーと赤軍」(『反対派ブレティン』第34号、1933年3月21日)「
スターリニスト官僚の外交政策について」(『反対派ブレティン』第35号、1933年5月12日)「
ヒトラーと軍縮」(『反対派ブレティン』第35号、1933年6月2日)
◇国家社会主義とは何か
「
ジョルジュ・シムノンによるインタビュー」(1933年6月6日)「
国家社会主義とは何か」(1933年6月10日)
◇オーストリアの攻防
「オットー・バウアーは問題をどのように提起するか――あるオーストリア人への手紙」(
1933年3月19日)「
次の焦点はオーストリアだ」(『反対派ブレティン』第34号、1933年3月23日)「オーストリア社会民主党の反対派は何をすべきか」(
1933年5月3日)「
オーストリアのメーデーの後で」(『反対派ブレティン』第35号、1933年5月7日)「
外交的・議会的クレティン病」(『反対派ブレティン』第35号、1933年6月13日)「われわれの活動の困難について――オーストリアの同志への手紙」(『反対派ブレティン』第
35号、1933年6月17日)
◇ファシズム勝利後の政治的展望
「
ヒトラーはどれだけ持ちこたえることができるか」(1933年6月30日)「
ファシズムと民主主義的スローガン」(1933年7月14日)「
新たに共産党とインターナショナルを建設しなければならない」(『反対派ブレティン』第36/37号、1933年7月15日)(English)「スターリンはヒトラーをなだめる」(『反対派ブレティン』第
36/37号、1933年7月19日)
◇さらばプリンキポ
「さらばプリンキポ!」(
1933年7月15日)「トルコからの航海にあたって」(
1933年7月19日)
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